前潟都窪の日記

2004年07月12日(月) 【ラテン文化とゲルマン文化がせめぎ合う国・・・ベルギー】

▼ベルギーの旅 アントワープ、ブルージュ、ブラッセル
                 2001年4月11日〜4月18日

 アントワープ市内では画家としては例外的に全生涯を通じて裕福な生活を送ったと言われるルーベンスの館を見学した。




宮廷画家でもあった彼のアトリエには注文主の貴族を迎えるために、二階からアトリエを見下ろす位置に設けられた閲覧台がある。ここには当時パトロン以外には誰も立ち入ることが出来なかったといわれるが、今は観光客に開放されている。ここから制作中の大作を眺める気分は想像して余りある贅沢で満ち足りたものであったに違いない。

ノートルダム大聖堂にも中に入って見学した。ここにはルーベンスの最高傑作と言われる大作が三点掲げられている。キリストの昇天、キリストの降架、聖母昇天である。






この後この夜の宿泊地ブルージュへ向けて出発した。今日は観光は申し訳程度のもので終日移動日のようなものであった。
翌朝は、現地女性ガイドのベネディクトさんの案内で、ブルージュ市内の観光である。彼女の英語はネイティブでないだけにゆっくり発音するので、小生にもヒヤリングができ彼女の説明の過半を理解することができた。
聖母教会、聖ヨハネ病院、愛の湖公園、ベギン会修道院、グルトフーズ博物館、ビールの醸造所、グルーニング美術館等の前を通って説明を受けながら運河クルーズの乗り場まで徒歩で観光した。




ブルージュの街には縦横に運河が流れており五十以上の美しい橋がかかっている。12〜13世紀には西ヨーロッパ第一の貿易港として大いに繁栄した中世の城郭都市である。ところが15世紀になるとブルージュと北海を結ぶ水路が沈泥のために浅くなり、商船が出入り出来なくなってしまった。このため都市機能を失ってしまった街は衰退の一途をたどったのである。寂れた街で生活する人々の悲惨な生活も語り継がれている。それは惨めな物語である。









しかしそのことが今となっては幸いし、中世の市街地がそのままの姿で保存されていわば街全体に鍵がかけられた状態で今日に当時の面影を伝える重要な観光資源になっているのである。このような街はヨーロッパではそこここによく見られる。小生が過去に訪問した都市の中ではハンザ同盟の盟主であったリューベック、ロマンチック街道沿いのローテンブルグ、ネルトリンゲン、南フランスのサンポールなどであろうか。






街中に縦横に張りめぐらされている運河を大きなボートで巡る約30分のクルーズはとても魅力的なものであった。路上を歩いて観察するのとはまた異なった視点から街を観察することができた。路面からの観察が建物の表面だけを観るのに対して運河から観る建物は裏面である。それだけに現代風にアレンジされていない当時の姿をそのまま観察することができたと言えよう。物資の動き、人の動きが少なく時間がゆったりと流れていた中世の姿が偲ばれて、あたかも時間が一点で止まっているような錯覚さえ覚える楽しい一刻であった。
午後は自由時間が沢山あったので、小さな街をあてどなく歩き廻り、非日常の中世社会の面影と日常の現代社会の喧騒とのからみあう姿を十二分に堪能した。再度訪問してみたい街のひとつである。
朝、ブルージュを出発し長駆ブラッセルへ向かった。市内では凱旋門と呼ばれる50周年記念門、ブリュッセル公園、最高裁判所前等を観光して廻った。

 日本人男性ガイドの吉水さんの説明の基調はゲルマン民族とラテン民族がその民族性の相違からあいせめぎ合っているのがブラッセルの街であり、目に見えない文化の壁、言葉の壁、民俗習慣の壁が厳然として存在するという説は目からうろこが落ちるように感じた優れた文化論であると思った。ベルギーという国は遠くシーザーが遠征した頃からベルガイ族というゲルマン民族が住んでいた土地であり、次第にローマ化されていったのだが、ゲルマン民族とラテン民族の融合しえない隔壁が厳然として現在も存在する国がベルギーであるという見方は、最近世界各地で火を噴いている宗教、言語、風習、人種を巡る紛争の根にあるものと相通じるものがあると思った。長い歴史と人間の叡知が紛争の発生することを抑えこんでいて、一見平和で穏健なヨーロッパの先進国であると思えるペルギーにもこのような問題が伏在しているのである。例えば北部のフランダース地方に住むゲルマン系のべルギー人はベルギー人である前にフランダース人であり、南部のワロン地方に住むラテン系ベルギー人はベルギー人である前にワロン人であることに誇りとアイデンティティを持っているのである。 従ってベルギー人に「ベルギー人て具体的には誰のこと」という質問をすると「それは国王のことさ」という返事が返ってくるという例え話はベルギーという国の民族構成の特殊性をうまく説明していると思った。ベルギーという国の認識は民衆の意識の中ではオリンピック大会のような場でしか発現しないのである。

 現実にフランダース地方にはフランダース人を統治する行政機構が存在し、ワロン地方にはワロン人を統治する行政機構が存在して別々に機能しているという。海に囲まれた国で単一民族だけで構成され、異民族支配を経験したことのない日本人にとってはベルギーはヨーロッパ社会が凝縮されている国であると考えて間違いなかろうと思った。

グランプラスの佇まい、ゴジバの本店、小便小僧等は3回目の訪問になる小生にとっては物珍しいものではなかったが、ヨーロッパの雰囲気を楽しむという点では懐かしい風物であった。昼食に食べたムール貝のワイン蒸しは何回食べても文句なしに美味しいと思った。




















午後はブリュッセル郊外のアンヌボア城、ヴェーヴ城、モダーブ城と古城巡りをした。アンヌボワ城の水を巧みに使った庭園芸術は素晴らしかったし、








ヴェーヴ城はドイツのノイシュバンシュタイン城を思わせるメルヘンチックな姿であり、モダーヴ城は城というより貴族の館という感じのものであった。現在ではこの城はホテルに転用されているがなるほどと思わせる作りであった。





翌日の午前中ワーテルローの古戦場を見学した。広大な農地はいまも当時と殆ど変わらない状態で残っていてこの戦場の近くには高級住宅地帯が形成されていた。





ヨーロッパの現在の国境線をほぼ確定したといわれる1815年のこのワーテルローの戦いは規模こそ異なれ、歴史的な意味合いでは日本の関が原の戦いに匹敵するものだと思いながら感慨深いものを感じた。
連合軍を率いてウエリントン将軍が陣を張ったといわれる場所にはピラミット状の丘が人工的に作られていて、頂上は展望所になっている。この丘の隣にはパノラマ館が作られていてウエリントン軍とナポレオン軍が大軍で激突した模様が実戦さながらになまなましく再現されており、この戦いの規模の大きさと激しさが具体的によく理解できるように工夫されていた。
ナポレオンが作戦本部を設置した農家も残っていて博物館になっている。ナポレオンの遺物なども展示されているが、もっとも衝撃的だったのは裏庭に設けられている無縁仏の遺骨を集積した納骨堂であった。窓から覗くと沢山の白骨が積み重ねられていて異様な感じを受けた。この地方の人々は白骨を直視しても何とも感じないのであろうか。このあたりの感覚が騎馬型民族でかつキリスト教徒であるヨーロッパ人と農耕型民族で且つ仏教徒である日本人との違いではなかろうかと考えてみた。


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