前潟都窪の日記

2004年07月13日(火) 【ライン川クルーズとロマンチック街道・・ドイツ】

▼ドイツの旅 リューデスハイム、ザンクトゴア、ハイデルベルグ、ローテ
ンブルグ、シュパンガウ
    2000年9月26日〜10月4日

ライン川は全長1320km、流域面積25万2000km2の国際河川である。スイス南東のアルプス山中サンゴタール峠付近に源を発し前ライン川となり後ライン川と合流してボーデン湖に流入、出口付近でライン滝を作りドイツ国内西部地域を貫流し、オランダのデルタ地帯を経て北海に注いでいる。ヨーロッパで最も重要な内陸水路であると同時に最も眺めの美しい川として知られている。特に素晴らしい眺めを誇るのはマインツ、ケルン区間の中ライン川と呼ばれる地域で風光明媚な自然や情趣溢れる古城の姿は観光客を魅了してやまない。

我々がクルージングを楽しんだのは、ワインの町として世界的に有名なリューデスハイム




からザンクト・ゴアーまでの約30kmの区間であったが、両岸は概ね山地になっておりラインシュタイン城、ライフェンシュタイン城




ゾーネック城、ラインフェルス城、猫城、ねずみ城等の古城が建っていて周囲の緑とよく調和して美しい景観を造りだしていた。山間の傾斜面には横方向斜面に直角に畝を切られた葡萄畑が広がっており、平地には教会を中心として、一様に切り妻造りの赤い屋根と白壁の民家が集落をなしていた。

 そして川にはひっきりなしに観光船や大型の貨物船が往来していて、川岸には上流起点からの距離数が一km毎に白地の標識に黒字で大きく表示されている。
 
 山の木々は紅葉の始まっているものも散見され、天候にも恵まれ空気は爽やかで汗をかくこともない。

やがて船は有名なローレライの難所にさしかかった。




 船内にはローレライのメロディーが流れだし川幅は狭まり流れも速くなる。川幅90mに狭まった所には高さ132mの何の変哲もない岩壁がそそり立っている。昔から暗礁と急流に船乗り達が難所として怖がっていた場所である。水嵩の減った時には川中から「七人の乙女」と呼ばれる危険な暗礁が姿を見せる場所だ。伝説によれば乙女達は心の冷たさのあまり岩に姿を変えられたという。

 船乗り達が金髪の美しい水の精と歌声に惑わされ暗礁に乗り上げたともいうローレライを通り過ぎた所には乙女の像が建てられていた。この乙女像のある場所の対岸の平地にはキヤンピングカーが沢山駐車していて、中には机と椅子を持ち出してワインを楽しんでいる家族連れも散見された。この場所に限らず平地の空き地にはそこここにキャンピングカーの駐車が見られ野外生活を享受するドイツ人の生活のゆとりを垣間見た気がした。そんなことに思いを馳せながらハインリッヒ・ハイネの歌詞をメロディーに合わせて口ずさんでいるうちに船はいつしか終点のザンクト・ゴアーへ到着していた。この町は570年に聖人ゴアーが作った町で葡萄の栽培地としても有名である。田舎町ではあるが活気に満ちており何よりも見事だと思ったのは地上に電線も立て看板も見当たらないことだった。

午後はハイデルベルグまで戻り、ハイデルベルグ城




アルト・ブリュッケ大学広場、騎士の館、学生牢、マルクト広場等市内観光を行った。

ハイデルベルグ市は人口13万5000人の中世の雰囲気の残る古い町である。町としての歴史は796年にベルグハイムという名の集落として登場し1196年にマルクト広場が開かれた。その後13世紀になって城の起源らしきものが出来、1356年に神聖ローマ皇帝カール4世が発布した金印勅書に基づく七選帝侯に選ばれたファルツ伯が逐次城を増強したのが始まりであると考えられている。またファルツ伯の手で1386年にはドイツ最古の大学ハイデルベルグ大学が創立されている。現在でもハイデルベルグ大学は名門大学として名実ともに健在であるが、面白いことに市内にある大学の建物は各地に散在しているから纏まった大学構内というものがない。

城は後にフリードリッヒ5世がオットー館と呼ばれるドイツルネッサンス様式の建物等を増築し整備して現在の形に近いものができあがった。赤色砂岩で出来ており、自然とよく調和した美しい姿は人々の心を引きつけ、大学の町の城としてその名を知られ、町は世界中の学生達の憧れの地であった。

町には学生牢等の史跡なども残されていて、酒を飲みすぎて暴れたり喧嘩をしたりした生きのいい学生達が収監されたもののようである。学生牢からの通学も認められておりここへ収監されることはむしろ名誉なことであると考えられる風潮があったという。因みにこの大学出身者でノーベル賞の受賞者が七人いるが、そのうち三人は学生牢経験者であった。日本の旧制高等学校生達のバンカラの気風もこんなところを倣ったのかもしれない。

アルト・ブリュッケはネッカー川にかかる古い橋で入口に建つ二つの丸い塔が美しいし橋の中央あたりから仰ぎ見るハイデルベルグ城の姿も美しい。




川面では学生が八人漕ぎのボートを楽しそうに漕いでいた。そんな光景を見ているとアルト・ハイデルベルグの歌詞が自然と頭の中に浮かび、知らず知らず独り静かに口ずさんでいた。そして、遙か彼方に消え去った、古都京都における若きよき日々のことが次々と懐かしく思い出された。銭湯へ行く時や食堂へ赴く往還に何時も歌ったものである。

「遠き国より遙々と ネッカーの流れ懐かしく 岸に来ませし我が君に
今ぞ捧げんこの春の いと美しき花飾り
いざや入りませ我が家に されど去ります日のあらば 忘れ賜うな若き日の
ハイデルベルグの学舎の いと麗しき思い出を」





翌朝ハイデルベルグのホテルを出発し、ロマンチック街道沿いの都市ローテンブルグへ到着した。現在観光コースとして脚光を浴びているこの街道は「ローマ風の」「ロマンスの」という二様の意味を持っていて、その昔ドイツからイタリアへの通商ルートであり、紀元前後のローマ時代にはクラウディア・アウグストス街道として知られていた。

 この街道は中部のビュルツブルグから南部のバイエルンを経て、アルプスの麓にあるオーストリアとの国境の町フッセンまで全長340kmに及んでいる街道に沿って、ワインで生計を立てている小さな村、小綺麗な木組の家並の町自由都市、古城や要塞、由緒ある寺院、庭園や豪商の館等が中世の面影をそのまま留めていて旅情をそそる。内陸部にありナポレオン戦争以降流通の中心から外れ、近代化の波に洗われることもなく、両世界大戦後の経済発展にも取り残されて陸の孤島と化していたこの地方も、発展の遅れたことが幸いして貴重な観光資源が良い保存状態で維持され、今ではドイツで最も人気のある観光地として蘇っているのである。

ローテンブルグ




四方にバイエルンの森と高原が広がっていて、中世の町並みがあたかも凍結されたかの如く、ほぼ完全に残されている城郭都市である。町の歴史は紀元前五百年頃ケルト人が入植した頃から始まり、1142年にドイツ皇帝の家系に連なるホーエンシュタウフェン家が居城をこの地に置いた頃から発展しだした。やがて市場が出来、城壁が築かれ十三世紀後半には市域の発展とともに城壁も第二、第三の城壁が増築された。現在も市の発展を物語る三つの城壁が龍の落とし子型に残されていて城壁の回廊を歩きながら市内を見学することも出来る。

街の中には14世紀の市庁舎、聖ヤコブ教会、マルクト広場の木組みの建物ブリュック公園等の由緒ある建物や史跡が良好な保存状態で多数残されているブリュック公園は最初に城が築かれた所であるし、市庁舎の鐘楼に登れば中世風の街中を俯瞰することができる。観光客に最も人気のあるのは、市庁舎広場の建物の壁面にある仕掛け時計である。

この日はアルプスの麓で、オーストリヤ国境に近いシュバンガウの村のホテルで宿泊した。辺境の田舎村という雰囲気が濃厚に漂っている村で、ノイシュバンシュタイン城やホーエンシュバンガウ城を訪れる観光客やスキー客、登山客が利用するらしく、民宿風のホテルが何軒も立ち並び牛小屋や蹄鉄屋も民宿と軒を接して建っている。民宿の窓という窓には美しい花が鉢うえされて吊るされておりとても美しい。ドイツ人に限らず、なべてヨーロッパの人は壁面や窓に花を飾るのが好きなようだ。道路には湯気の上がる牛の糞も落ちている。ホテル前の道路からは、小さくノイシュバンシュタイン城も望見できるロケーションである。

ノイシュバンシュタイン城を見学にいった。遠くからではその黒っぽい尖塔の屋根が山の色に溶け込んで、白壁だけが長方形に見えていた城だが近づくにつれ、次第にその全容を現しだした。沢山の尖塔を持つ城の容姿はいかにもメルヘンチックでディズニーランドにある城のように見える。しかし本当のところはこの城を模してディズニーランドの城が作られたということであるし、バイエルン国王ルードウィヒ二世がこの城の建設を決意した時の意図がロマンチックな城を建てようということであったからロマンチックでメルヘンチックなことこそがこの城の本質なのである。




この城の建設は1869年から1886年にかけて莫大な資金を投じて建設工事が行われたが遂に完成することなく、国王のルードウィッヒが狂人として王座を追われ、僅か三日後の1886年6月13日にミュンヘン郊外のシュタルンベルク湖で侍医とともに謎の死を遂げたので、工事は中断され城として実用に供されることもなかった。

作曲家リヒャルト・ワグナーのスポンサーであり、熱烈な崇拝者でもあったルードウィッヒはワグナーが作曲した「ニーベルンゲンの指輪」「トリスタンとイゾルデ」に因んだ色々な場面を絵画として描かせ室内の装飾にふんだんに用いている。

城の中の装飾も贅を尽くした豪華なものであるが、それにもまして城の建てられている地理的な位置が素晴らしい。城の背景にはアルプスの連山や湖や山の木々を巧みに配して自然とうまく調和させ、とても優雅で美しい光景を作りだしている。特に渓谷にかかるマリエン橋から眺める姿が最も良い。
折りから好天に恵まれ空気は乾燥していて爽やかであり、空は抜けるように青く素晴らしい景観であった。

悲劇的な運命を終えたルードウィッヒが残したこの文化遺産は、今では世界で最も美しい城として世界中の観光客を集めている。


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