前潟都窪の日記

2005年04月05日(火) 秦   河 勝 連載48

百済と高句麓に対しては新羅遠征軍派遣に先立って、601年(推古9年)
に使者を送り任那復興に協力するように要求した。両国とも新羅が力をつけてくるのを恐れていたから推古朝の申し入れには友好的であった。602年には
百済から僧観勒が暦天文・地理の書を携えて来日した。同時に兵術・仙人の術を伝えた。高句麓からも僧の僧隆と雲聡が来日して帰化しているので両国との関係は友好的なものであった。
 僧観勒を謁見した聖徳太子は周囲に居合わせた諸太夫に言われた。
「観勒師の三論、成実の高説を教わるにつけ仏に帰依し仏法をますます広めなければならないという気持ちはいやますばかりです。私は長年慧慈師に仏法を教わりましたが、今日はまた観勒師より三論、成実の教説を教わり目から鱗が落ちた心地です。何か功徳を施さなければと考えますが、幸い私は尊い仏像を持っています。この仏像を丁重にお祀りし仏の功徳を広めたいと思う者があれば授けたいと思っています。誰か希望する者はいないでしょうか」と聖徳太子がなみいる諸太夫に聞かれた。

「私にお授け下さい。葛野の地へお寺を建ててお祀りし、このお寺を我が秦一族の氏寺にしたいと思います」と秦河勝が目を輝かせながら申し出た。
「その方ならきっと大切にお祀りして呉れるであろう。この仏像は弥勒菩薩と言って百済から将来した有り難い仏像です。ゆめゆめ粗末に扱ってはなりませぬぞ」と聖徳太子は侍従に運ばせてきた仏像を拝みながら秦河勝に向かって言った。
「有り難いことでございます。長年の願いが叶いました」と秦河勝が弥勒菩薩に対峙して手を合わせると憑依現象が起こった。秦河勝の体がぶるぶると震えだし「蘇我一族の未来に何か不吉なことがおきるぞ。因果応報は三世の摂理」と嗄れた声で喋りだした。事情のわからない諸太夫はざわめいた。
「秦造に神がとりついた」
「神でなくて、異国神がとりついたのであろう」
「物部守屋大連の顔付きによく似ているぞ」
「蘇我氏に余程恨みを抱いているのだろう」
「そうだ、守屋大連の顔と同じだ。恨めしそうな表情をしていることよ」と諸太夫は口々に騒ぎだした。
「静かに。仏法の功徳で霊にお引取頂きましょう。南無釈迦牟尼仏。南無帰依仏。南無帰依法。南無帰依僧・・・・・・・・・」と聖徳太子がお経を唱えるとたちまち秦河勝の顔は穏やかになり元の形に戻った。
この場には蘇我氏はいなかったのでことなきを得たが、蘇我氏が居合わせれ
ば秦河勝との間で一騒動おこる託宣であったといえよう。
秦河勝はこの弥勒菩薩を太秦へ持ち帰り蜂岡寺を建立し奉安した。現在の広隆寺である。


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