前潟都窪の日記

2005年04月04日(月) 秦   河 勝 連載47

新羅征討は崇峻朝からの継続事業であった。馬子の采配で591 (崇峻4 年)に筑紫に派遣された二万の大軍は、現地へ滞留のまま天皇暗殺事件を経て推古朝を迎えたわけだが、渡海することなく、595 年(推古3年)には大和へ引き上げた。軍事的には成果が挙がらない作戦であったが、新羅に対する威圧効果は十分あったものと思われる。597 年(推古5年)に吉士磐金を使者として新羅に遣わすとその翌年、新羅は鵲二羽を献上し続いて孔雀を奉り恭順の意を表した。599 年(推古7年)には百済からも駱駝一頭、驢馬一頭、羊二頭、白雉一羽が献上された。九州出兵の成果といえよう。
新羅は珍しい動物や鳥を献上し、大和朝廷のご機嫌をとっていたが、貢物は朝廷を満足させるほどの量ではなかったし、併合した任那を返還しようとしなかった。
600 年(推古8年)大和朝廷は再び任那復興を目的として蘇我馬子主導のもとに大将軍に境部臣・副将軍に穂積臣を任命し兵力一万余を預けて新羅攻撃を決行した。この遠征は成功し新羅王は殆ど抵抗なしに白旗を掲げて、多多羅、素奈良、弗知鬼、委陀南加羅、阿羅の六城を日本に割譲した。しかし任那として復興したわけではなく割譲の条件は六城の地から産出する金、銀、鉄等の大和朝廷にとって貴重な金属やその製品、また錦、綾等の高級な織物を新羅が任那に代わって貢物として献上するという程度の内容のものであった。形の上では恭順の姿勢はみせていたが、新羅はこの頃百済と戦って勝っており、国力も上昇していたので、たやすく大和朝廷の言いなりにはならないぞという気概をもっていたのか、なかなか約束通り貢ぎ物を送ってこなかった。
推古朝廷ではこの年、600 年に隋に使者を送っており、隋の役人の問い対して「倭王は姓は阿毎(天)あめ」「名は多利思比孤(帯彦)たりしひこ」と答えている。これは天下を統治する天皇厩戸という意味である。この600 年の新羅遠征は隋に対して新羅を大和朝廷が実力で討伐することの承認を求めようとする意味を持つものでもあった。
602 年(推古10年)に推古朝廷はみたび、軍衆二万五千人編成で新羅攻撃
を計画したが、将軍は聖徳太子の同母弟の来目皇子で軍団編成は諸々の神部および国造、伴造等からなり、臣・連姓氏族は参加していなかった。今回の遠征は摂政として次第に実力を養ってきた聖徳太子が、朝鮮問題の主導権を蘇我氏等の有力豪族の手から天皇家のもとへ奪回しようとの意図のもとに計画されたものであった。今度の作戦では渡海準備中に総指揮官の来目皇子が陣中で病死し、後任に聖徳太子の異母弟当麻皇子が任命された。当麻皇子は難波より乗船し播磨までさしかかったが同伴した妻の舎人姫王が明石で死んでしまい皇子は大和へ引き上げた。竹田皇子は今回の作戦が計画された時病の床にあり、本来であれば来目皇子よりも前に総指揮官に任命されるところであったが、病は回復せず死んでしまった。このような事故が続いたので遠征は中止されたが皇族将軍のもとで、大軍の組織化に成功したことの意義は大きかった。


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