前潟都窪の日記

2005年04月07日(木) 秦   河 勝 連載50

「小野妹子が国書を失ったのは確かに罪ではあるが、隋国の使者が多数滞在している折りでもあり、軽々しく罰することはできない。使者達への聞こえがよくない」と聖徳太子は仰った。妹子達遣隋使一行の苦労を理解した上で秦河勝の意見を採り入れた処置であった。
隋の使者達は難波で一月半も待たされたのち、8月3日に大和へ入ることになり、飾り馬75頭に迎えられて大和へ入り、海石榴市に到着した。出迎え
て挨拶したのは額田部連比羅夫であった。12日隋の国使一行は阿部臣鳥と物
部依網連抱の案内役に導かれて朝廷に入った。諸皇子・諸王・群臣がそれぞれに黄金の髪飾りを頭につけて着飾っている。ある者は錦や紫地に刺繍をした手の込んだ衣服を着、あるものは五色の綾・薄絹を纏っている。盛装した貴賓列座の中を国使の一行は庭中に進み大門の前に置かれた机の前で立ち止まった。

裴世清は捧げ持った献上品を置き、やおら国書を懐から取り出して捧げ持ち、再拝を二度繰り返して使いの旨を言上した。満場寂として声なく裴世清の朗々とした中国語が響きわたった。
「隋の皇帝から倭の皇(すめらみこと)にご挨拶をおくる。使者の大礼小野妹子らが訪れてよく意を伝えてくれた。自分は天命を受けて天下に臨んでいる。徳化を広めて万物に及ぼそうと思っている。人々を恵み育もうとする気持ちには土地の遠近はかかわりない。倭の皇は海の彼方にあって国民を慈しみ、国内平和で人々も融和しているし、皇には深い至誠の心があって、遠く朝貢されることを知った。懇ろな皇の誠心を自分は喜びとする。時節は漸く暖かで私は無事である。鴻臚卿裴世清を遣わして送使の意を述べ別に贈り物を届けさせる」
と国書には書かれていた。

裴世清の国書朗読が終わると阿部臣が国書を受け取り、大伴連囓が取り次いで机の上に置き後刻天皇へ侍従が奏上することになる。この儀式には推古天皇は姿をみせていない。隋の煬帝と同格である以上、国使に天皇が親しく謁見することはできないのである。このあたりは聖徳太子が秦河勝と相談して隋使に与える印象と列席した諸皇子、諸王、群臣に天皇の権威を実感させるよう計算して作り上げた儀式の運営方法であった。馬子を始め蘇我氏一族もこの隋使送迎の儀式には姿をみせていないのであるが、これは聖徳太子が企画し実施した対隋外交の進展を蘇我氏が快く思っていなかったことの現れであった。

隋使の一行は数日間朝廷での饗宴に臨んでから難波に戻り、9月11日帰国の途についた。この時、再び小野妹子を大使として遣隋使が派遣された。このとき煬帝にあてた国書には次のように記されていた。
「東の天皇が謹んで西の皇帝に申し上げます。使者鴻臚寺の掌客裴世清らがわが国に来られて、久しく国交を求めていたわが方の思いが叶いました。この頃漸く涼しい気候となりましたが、貴国はいかがでしょうか。当方は無事です。今大礼小野妹子、大礼難波吉士雄成らを使いに遣わします。意を尽くしませんが謹んで申し上げます」
このとき隋に派遣されたのは、学生倭漢直福因、奈良訳語恵明、高向漢人玄理、新漢人大圀、学問僧新漢人日文、南淵漢人請安、志賀漢人慧隠、新漢人広済ら合わせて八人であった。
隋からの使者を送りだしてから2年ほど経った610 年に今度は百済と新羅
からの使者が筑紫にやってきた。蘇我馬子は迎えの使者を筑紫へ派遣した。10月8日新羅と百済の使者が都に到着することになったので、額田部連比羅夫を新羅の客を迎える飾り馬の長に任命した。百済の客の担当には膳臣大伴を任命し同じく飾り馬で迎えさせることとした。両国の使者は大和の阿刀の河辺の館に旅装を解いた。翌日10月9日には秦河勝と土部連莵が新羅の導者、間人連塩蓋・阿閇臣大籠が任那の導者に任命されて朝廷の庭で使者謁見の儀式が行われた。
両国の使者は導者に案内されて、南門から入って粛々と進み御所の庭に立った。頃合いを見計らって、大伴咋連、蘇我豊浦蝦夷臣、坂本糠手臣、阿倍鳥子臣らは席から立って中庭に平伏した。両国の使者は拝礼して使いの言葉を言上した。四人の太夫は前に進んで今聞いた言葉を蘇我大臣に申し上げた。大臣は起立して政庁の前へ進んで使いの言葉を聞いたのち両国の使者へ贈り物を授けた。今回の儀式には聖徳太子は姿を見せず蘇我馬子を中心に儀礼が行われた。

隋国使者裴世清を迎えたとき、聖徳太子の儀式運営が天皇の権威発揚に大いに預かって力あったことに対抗する意味もあって、今回の外国使者謁見の儀式は蘇我一族が取り仕切ったのである。聖徳太子の寵臣である秦河勝が新羅の導者に任命されたのは、隠然たる勢力を養ってきた秦一族の実力を流石の馬子も無視できなくなっていたからである。


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