2005年04月08日(金) |
秦 河 勝 連載51 |
聖徳太子の生母穴穂部間人皇后が621 年の暮れに崩御された。その翌月の正月に聖徳太子は母の後を追うかのように悪性の癌にかかって床につ いた。知らせをうけた秦河勝は病床に太子を見舞った。 「太子の御容態は如何ですか。お見舞い申し上げます」と太子の枕元で看病 している妃の一人である膳大郎女に秦河勝は声をかけた。 「これは秦河勝殿。太子の容態は良く有りません。看病していても居たたま れない程のお苦しみようです」と膳大郎女は看病で窶れた顔で秦河勝に訴え た。 「それはいけませんな。私に代われるものなら替わって差し上げたいもので す」 「私もそう思っているのですが、こればかりはままなりません。太子のお苦 しみようを見るのが切なくて」と目に涙を湛えている。 「どうでしょうか。太子と等身大の釈迦像を造って差し上げて仏の功徳をお 願いしては」と秦河勝が提案した。 「そうだ、よい所に気がつかれた。早速発願し造仏にとりかかりましょう」 と見舞いのために枕辺に侍っていた膳大郎女の兄が賛意を表した。 「それがいい。もしもこの病が現世で治らないものであるならば、早く成仏 して御霊が極楽浄土に安住できますようにとの願いを込めて差し上げましょ う」と山背大兄皇子はじめ太子ゆかりの皇子、王妃達も賛同した。 しかしながらその甲斐もなく寝ずの看病をしていた膳大郎女も病に倒れ、 太子と枕を並べて病臥することになってしまった。一族、群臣の願いも虚し く膳大郎女が2月21日に崩御し、後を追うように翌日、聖徳太子も薨去 した。大和朝廷における天皇の権威を高めることに挺身し、遂に天皇になる ことができず皇太子のままで生涯を終えた49才の人生であった。
秦河勝の落胆は大きかった。信仰上の先達であり、天皇となり理想を実現 する日を夢見て後ろ楯となって支えてきた太子のいないこの世は生きていく に甲斐のない世界であった。河勝は蜂岡寺に籠もり聖徳太子から授かった弥 勒菩薩の像と対峙してひたすらに太子の御霊が西方の極楽浄土へ昇華安住さ れるようにと祈るのであった。
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