2005年04月09日(土) |
秦 河 勝 連載52 |
日本書紀は万民の嘆き悲しむ様子を次のように記録している。(講談社学 術文庫宇治谷孟現代語訳 日本書紀下巻より抜粋) 「天下の人民は老いたものは愛児を失ったように悲しみ、塩や酢の味さえも 分からぬ程であった。若い者は慈父慈母を失ったように悲しみ、泣き叫ぶ声 は巷にあふれた。農夫は耕すことを休み、稲つく女は杵音もさせなかった。 皆が言った。(日も月も光を失い、天地も崩れたようなものだ。これから誰 を頼みにしたらよいのだろう)と」 翌年の秋7月に新羅と百済は大使とし てそれぞれ奈末智洗爾、達率奈末智を遣わし共に朝貢し、泣き弥勒の仏像一 体及び金塔と舎利を献上した。仏像は秦河勝が聖徳太子の菩提を弔うためひ たすら祈りを捧げている葛野の蜂岡寺へ安置された。また金塔と舎利は四天 王寺へ納められた。
秦河勝は蜂岡寺で聖徳太子の菩提を弔う瞑想の日々を送りながら聖徳太子 の事跡を回想する。既に60才になっており頭にはいつしか白いものをのせ ていた。 「聖徳太子の生涯は蘇我氏との戦いであったと一言で総括できるのではない か。蘇我一族の血が流れる父母を持ちながらなお天皇家の一員として、天皇 家の絶対的権威を高めるために蘇我一族の叔父、兄弟達と対峙していかなけ ればならない宿命を心の中ではどのように消化しておられたのであろうか。
蘇我馬子は老いたとはいえ、まだその勢力は衰えていない。彼の地位は冠位を超越しており、官司制の統率者として、依然として官僚達を牛耳っているし、豪族連合の上に張りめぐらせた権力基盤は聖徳太子の努力によっても殆ど微動だにしていない。しかし、この20年程の間に何かが変わってきてい る。太子は対隋外交に積極的に取り組まれた。天皇から隋国皇帝にあてた国 書は対等な立場に立った文面であり、隋国皇帝の怒りを買ったとは言うもの の、大国の隋から日本の天皇宛に使者を出させるという快挙をなし遂げられ た。官吏達は、さすが太子様だ、天皇様だとその力量を評価し有り難がるよ うになってきている。その天皇の有り難さを思い知らせるようにと天皇の歴 史や国の歴史、臣・連以下の諸氏族の歴史の編纂までおやりになった。この 歴史の編集には蘇我馬子も参加させたが歴史の古さとなると現在権勢を誇る 蘇我一族といえども天皇一家には及ばない。蘇我一族と対抗するため、自分 の先祖は昔、天皇の皇子であったとか御落胤であるといいたてるものまで現 れてきている。それだけ天皇一家の権威が高まってきた証拠ともいえるのだ ろう。そういえば、仏教興隆についても数えれば、四天王寺、斑鳩寺、中宮 寺、橘寺、池後寺など多くのお寺を建立されているので、その信心深さから いけば蘇我氏を凌駕するまでになったのではなかろうか。排仏だ崇仏だと騒 いでいた頃は蘇我氏が排仏派の妨害をうけながらも仏教をこの国に広める中 心的役割を果してきた。仏教への最初の帰依者は蘇我氏であったということ を人々は忘れて、仏教興隆と言えば聖徳太子とイメージするまでになってき ているではないか。こう考えてくると現実政治面・物質面では朝廷内におけ る蘇我氏の優位は動かし難いが少なくとも精神面での天皇の権威は蘇我氏を 上回るようになってきている。このことが、蘇我氏のあせりとなって遺児で ある山背大兄皇子一家に災いを及ぼすことにならなければいいのだが・・・
馬子は老齢だから円くなってきており、もうあくどいことはしないだろう。 蝦夷は比較的公平・慎重な性格で温厚な人柄だといわれているが、まだまだ油断はできない。その子の入鹿は若いのに傲慢・勝気で自尊心が人一倍強いようだから特に警戒が必要だ。そうだこのことも祈念しておかなければならないだろう。それにしても、推古天皇はもう70才が近い。随分年をとられ たものだ。自分が腹を痛めた竹田皇子に皇位を譲りたいばかりに、自ら天皇 になるという策謀をたてて、うまくいくようにみえたが、頼みとする竹田皇 子はあえなく病で倒れてしまった。ご自分自身こんなに長生きするとは思わ れなかったのだろうが、いままた聖徳太子にも先立たれてしまわれた。これ が人間の業というものであろうか。推古天皇が御健在のうちに早く、山背大 兄皇子を皇太子に指名して戴くよう運動しなければなるまい。これが聖徳太 子の菩提を弔う最善の方法かもしれない」
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