2005年04月10日(日) |
秦 川 勝 連載53 |
628 年推古天皇は後継者を決めないまま75才で崩御した。36年間に及ぶ治世であった。推古天皇の遺詔をめぐって始まった皇位継承の争いは、敏達天皇崩御後の争いと同じような性格のものであるとしか秦河勝の目には映らなかった。 河勝は皇位継承をめぐる争いがおきるのは天皇が生前、勇気をもって皇太子を指名しておかないことに最大の原因があると考えていた。またしても推古天皇は皇太子を決定しないで争いの種を残したまま他界してしまわれた。
河勝は推古天皇が即位したとき聖徳太子に「美しいことは罪悪です」と言ったことを思い出しながら、このドグマは正しかったことが証明されたと思った。 皇位は聖徳太子の長子の山背大兄皇子と押坂彦人太子の子の田村皇子を支 持する二派に別れて争われることになった。山背大兄皇子は用明天皇の孫で あり、田村皇子は敏達天皇の孫で年はいずれも同年の36才なので血統の良さでも年齢の点でも甲乙つけがたかった。この頃馬子は既に世になく蝦夷 が大臣になっていた。蝦夷の叔父境部臣摩理勢が山背大兄皇子を支持して運動を始めたので、これが刺激となって蝦夷は境部臣摩理勢を強引に攻め殺して田村皇子を即位させた。舒明天皇である。 舒明天皇は13年程の治世ののち皇太子を定めないまま641 年崩御した。後継天皇の候補者には舒明天皇の皇子として古人皇子と中大兄皇子の二人がいた。そして舒明天皇と皇位を争った聖徳太子の皇子山背大兄皇子も健在で有力候補に数えられていた。三者三竦みの状態にあり、群臣会議では天皇を決めることができず、舒明天皇の皇后宝皇女が皇位を継いで641 年皇極天皇となった。推古天皇が即位したときと全く同じパターンの女帝の出現であった。 蘇我蝦夷は643 年病気と称して参内せず大臣のしるしの紫の冠を天皇の許可なく入鹿に授けて大臣の地位を与えた。入鹿の専横がはじまったのであ る。その手始めに入鹿は蘇我氏の血をひく古人大兄皇子を皇太子にするためには有力な対立候補である山背大兄皇子を倒すことが必要だと考えて、巨勢臣徳太・土師娑婆連を斑鳩に送り込んで山背大兄皇子の宮を不意打ちさせた。入鹿側の攻撃に対して奴の三成をはじめ舎人数十人が防戦した。攻撃側の土師娑婆連を討ち取り攻撃を一時中止させるまで善戦したが、城砦ではないので防ぎきれず、山背大兄皇子は隙をみて妃や側近を連れて生駒山に逃れた。 「ひとまず、深草の屯倉まで落ち延び、そこから馬を乗り継いで東国へゆき、領地の乳部を根拠地にして兵を集めて反撃すれば必ず勝つことができます」と三輪文屋君が再挙を勧めた。 「お前の言うように場所を選んで挙兵すれば、あるいは勝つこともできるだろう。深草へいけば秦河勝の一族もいるし、山背から兵を集めて助力してくれるであろうが、戦場になった場所の無辜の民に苦しみを与えることになる。それは私の信条に反することである。私は潔くこの身を逆賊共に与えることにしたい」と山背大兄皇子は言って山から下り、再び斑鳩寺へ入って子弟、妃ともども従容として自決の場へ臨んだ。
太秦にひきこもって隠遁生活を送る河勝のもとへも都の惨事は伝わった。 秦河勝は山背大兄皇子一族の自決の様子を伝え聞いて、「捨命と捨身とは皆これ死なり」という聖徳太子の思想を悟得し実践したのは山背大兄皇子であり一族が従容として死に赴いたのは菩薩行の実践であったのかと今、初めて理解し粛然とした気持ちになるのであった。 秦河勝は自らの人生を顧みて、政治の表舞台に飛び出したいとはやる心を戒めて常に裏方に徹し奢ることなく、経済力の向上に力を注いできたことが秦一族の存続繁栄にとって如何に賢明な選択であったかを思うのであった。思えば父の国勝は蘇我氏の真似をして娘を入内させて天皇の外戚として権力を握ろうと夢みていたことがあったが、自分は必ずしも気乗りがしなかった。政治に手をだしたくないという気持ちが本能的に強かった。崇竣天皇から唆されたときが一番危なかった。もしあの時、蘇我氏と対峙していたら今頃は山背大兄皇子一家のような運命になっていたであろう。以後秦河勝は努めて政治や軍事の表舞台にでることは避けて仏法の興隆にこそ精を出そうと決心したのである。
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