2005年04月11日(月) |
秦 川 勝 連載54 |
大化の改新の始まる直前の644 年東国の富士川のほとりで虫を祭る新興宗教が流行の兆しを見せていた。教祖は大生部多といい、祭神は常世の神と称する虫であった。その虫は長さ四寸あまりで親指ぐらいの太さで緑色に黒い 斑があり蚕によく似ていた。教祖の大生部多は人の心を捉えるのがうまく、常世の神を祭れば富と長寿が得られると説いて回っていた。「常世の神に捧げるお布施の量が多ければ多い程、貧しい人は富を得、老人は若返る」という神のお告げがあったと巫女達にしゃべらせていた。この言葉に乗せられて村里の善男、善女達は、家財を投げ出し、酒や野菜や馬、牛、羊、豚、犬、鶏等の家畜を道端に並べて「新しい富が入ってきたぞ」と連呼しては歌い踊りながら屯宅の方へ誘導されていくのである。群衆は煽動されているのもわからずに、恍惚として屯宅を襲い、手当たり次第に米や布を持ち出す暴徒の集団になっていった。大生部多が巧みに民衆の心をつかみ、唆して仕組んだ朝廷に対する反逆であった。規模が次第次第に大きくなっていくが首謀者の大生部多は巧みに隠れて指令を出しているので騒動は収まらず、東国の国造の手では鎮圧することができなかった。 「利益誘導して人心を惑わせるようなものは神でも仏でもない。大生部多は世の秩序を破壊し人心を惑わす邪教の元凶であるから成敗しなければならない。それが神祇を司り、仏教を崇拝する秦一族の務めであろう。私が世の中にお返しする最後のお務めとなろう」と宣言して秦河勝は精鋭の手勢を連れて出動した。秦河勝が念力をかけて透視すると大生部多は富士山麓の溶岩の中を迷走する風穴の中に潜んでいることが分かった。大生部多は秦河勝の手の者に捕まり成敗された。 人々は「太秦は神とも神と聞こえくる常世の神を打ちき罰ますも」という歌を作って秦河勝の功績を讃えた。歌の意味は太秦の河勝は神の中の神という評判が聞こえてくるよ。常世の神といいふらした者を打ち殺したのだからということである。 このとき河勝は82才の高齢であった。精力を使い果たしたのか凱旋する と病床についた。 645 年6 月11日に秦河勝は「明日、大変なことが起きる」と言い残して病没した。奇しくも蘇我入鹿が大極殿で中大兄皇子らに暗殺される日の前日であった。
京福電鉄嵐山線帷子ノ辻駅から徒歩で十分程の所に「蛇塚古墳」と呼ばれる横穴式の前方後円墳が残されているがこれは秦河勝の墓とみられている。巨石を積み上げた幅4米、高さ5米、奥行き6米の石室が残されている。これは蘇我馬子の桃原墓に擬されている奈良の石舞台と同年代の7世紀頃に作られた古墳であり、その規模の大きさから秦氏の実力の程が窺われる。蛇塚古墳の東方にも天塚古墳が残されており、秦氏一族の古墳とみられている。 また京福電鉄嵐山線蚕の社駅から北へ徒歩5分のところに「木島坐天照御魂神社」があるが俗に「蚕の社」で通っている神社である。本殿東側にある養蚕神社は生糸を扱う人の信仰が厚く、秦氏の本拠地に鎮座していることは養蚕と機織りの技術に秀でた秦氏になんらかの形であやかろうとして建立されたものであろう。 (了)
明日からクロアチアとスロベニアへ旅行のため暫くの間、書き込みは休止します。
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