水蜜桃綺談1
正慶2年(1333年)5月21日、鎌倉幕府14代執権であった得宗の北条高時が天皇方の坂東武者新田義貞らとの鎌倉攻防戦に敗れ、東勝寺で自刃した。従う北条家恩顧の御家人数百人も得宗の後を追い鎌倉幕府は名実ともに滅亡した。
建武2年、中先代の乱(1335年、高時の遺子時行が、北条氏の再興をめざし建武新政府に背いた兵乱)の討伐に東下した足利尊氏が、新田義貞誅伐を奉上して叛乱に転じ、建武3年(1336年)正月京都に入った。
大江田氏経は19才の若武者であったが、脇屋義助(新田義貞の弟)の配下として天皇方につき、箱根をはじめ各地で謀叛した足利尊氏の軍勢と戦った。 建武3年2月10日から2月11日の二日間にわたる摂津打出・西宮浜・豊島河原の戦で天皇方の北畠顕家に敗れた足利尊氏は翌2月12日夜陰に乗じて兵庫の港から海路九州へ逃げた。大江田氏経は新田義貞軍の先鋒隊として陸路、取り残された足利尊氏軍を攻めたて、備前船坂(三石)まで追い詰め大勝した。
「長船村の垂光を呼んでくれ」兵達に食事をとらせた後、大勝に機嫌を良くした大江田氏経は言った。京都を発つとき集めた兵糧運搬の人足達のなかに備前長船村へ帰りたいという刀鍛冶がいることを思いだしたのである。
「お呼びでございますか」と鳥帽子を被り筒袖を着て括り袴に脚半を巻いた旅支度の若い男が畏まった。
「備前長船はここからいくらもないであろう。お主はこれから師匠の許へ帰るところであったな」
「はい。左様でございます。京からの道中お蔭様を持ちまして恙なくここまで帰ってくることが出来ました。これも一重に大江田様の軍勢の中に加えて頂けたお蔭でございますどうもありがとうございました」と垂光と呼ばれた若い男が言った。
「お主と知り合ったのもなにかの縁。お主の鍛えた刀が欲しい。長船へ帰ったら一振り鍛えては呉れまいか」
「有り難いことでございます。垂光帰省後の初仕事でございます。心魂込めて鍛えさせていただきます」
「我等は備中福山城を必ず攻め落とすから出来あがったら、福山城へ届けて呉れ」 「はい。福山城は私が幼い頃修業したことのあるお寺でございますのでお易い御用でございます」 「そうか。それはまた奇縁じゃのう」三石城に入って兵の疲れを癒したのち、大江田氏経は勢いに乗って更に進軍して備中の豪族荘常陸兼祐が拠る備中福山城を窺っていた。
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