荘氏は備前山手村の幸山に館を築いていたが、居館とはいえ山の上にあり、土地の者は幸山城と呼んでいた。その幸山城の近くに福山があり、海抜300mの山頂には12の坊を持つ福山寺があった。福山寺の開山は不明であるが、天平年中(729〜748)に報恩大師が建立したと伝えられている。聖武天皇の詔(741)により備中総社村に国分寺が建立され、金光明最勝王経と妙法蓮華経が安置された時期とほぼ同時代である。国分寺は鎮護国家・消災致福を祈って発願された官寺であり、律令制国家の手厚い保護を受け、近隣の村人達の崇拝を得て繁栄した。
福山寺も創建当初は、国分寺同様近隣の山手村、清音村の村人達の参詣で賑わっていたが、源平合戦の頃から次第に荒れ初め、荘一族がこの地へ移住してきた頃には、法灯も消えかねない程度の荒れようであった。 そもそも、荘氏がこの地へ源頼朝の代官として武蔵の国より移住してきたのは140年余前に遡る。荘氏の祖太郎家長が建久3年(1192年)一の谷の合戦で平重衡卿を生け捕りし、その功により恩賞として備中四庄を源頼朝より賜ったからである。
太郎家長は神仏に対する尊崇の念篤く荒れ放題になっていた福山寺を修復し、氏寺として保護を与えたので、創建当時の殷賑を取り戻した。また荘一族は備中四庄(下道庄、浅口庄、窪屋庄、都宇庄)の経営に力を注ぎ新田を開発してその領地を広げた。 当時の家督相続は、鎌倉時代に行われていた所領の分割相続から嫡子単独相続へと次第に移行していた。このため兄弟間で相続争いが頻発するようになっていた。特に腹違いの兄弟どうしの争いが多かった。
そこで虎丸の父荘左衞門次郎は嫡子と庶子の間で相続争いが生じるのを防ぐために、虎丸を七才のとき、福山寺の僧円念に預けた。当時の氏寺の大半がそうであったように、福山寺でも寺僧は氏人から選ばれることが多く、僧円念も荘一族の氏人であった。
円念の境遇は虎丸に似ていた。円念も荘一族の氏人ではあったが、庶子であり多数の嫡出の兄弟の中にあって、疎んじられながら肩身の狭い思いをして成育したのである。円念は備前岡山の真言宗福輪寺で修業を積んだ後、その侠気を荘左衞門に買われて福山寺の寺侍の元締に補されていた。福輪寺は日蓮宗の布教のため備前に入っていた大覚大僧正が備前津島で辻説法をしていたとき、当時の福輪寺の座主良遊が大覚に宗論を挑み論破され、一山ともに改宗して後、妙善寺と改名した名刹である。
虎丸を預けられた時、円念は35才であったが、境遇の似ている虎丸をこよなく可愛がった。円念は出家とはいえ、寺侍達を取り仕切っていたから、剣術の腕は相当なものであった。
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