福山寺の生活にも慣れてきたある日、円念の剣術の稽古を傍らで見ていた虎丸は、自分にも剣術を教えてくれと頼みこんだ。 「虎丸よ。何故剣術を習いたい」 「敵をやっつけるためです」 「お前の敵とは誰のことだね」 「私に危害を加えようとする者すべてです」 「例えば誰だ」 「幸山城の太郎太」
「お前の兄ではないか」 「兄であっても私に危害を加えれば敵です」 「刀は何のためにある」 「人を切るためです」 「何故人を切らねばならない」 「切らなければ自分が切られるからです」 「それはそうじゃ。だがのう、人を切らなくてすめば、刀はいらなくなるとは思わないか」 「人の心に支配欲、征服欲のある限り刀は人を切るためにあるのではないでしょうか」 「わしは人の心から支配欲、征服欲を無くすことができると思っているのじゃが」 「それはどのようにしてですか」 「人が皆、仏のみ心にお縋りして信心し、修業を積むことじゃ」
「人が皆、信仰に生きる世が実現して、人の世に争いや戦が無くなれば刀は要らなくなるのでしょうか」 「人を切る目的の刀は無くなるであろうが、刀そのものは無くならない」
「何故ですか」 「もともと刀の前は剣(つるぎ)と呼ばれた両刃であった。剣は突くための武器であって切るための武器ではなかった。そのうち剣を片刃にして切る目的で作られたのが刀なのじゃ。刀が剣に変わって多く使われるようになると、剣は祭りごとだけに使われるようになったのじゃ。同じように争いが無くなっても、刀は祭りごとのために残るであろうし、美術品として残るだろうと思うのじゃ」 「刀が鑑賞のためだけにつかわれるような世がくるといいでしょうね」
「そのためにも仏のお慈悲を広めなければならない」
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