前潟都窪の日記

2005年06月05日(日) 水蜜桃綺談11

このような密約に助けられて大江田氏経が福山城をなんなく攻めて落としたのは延元元年4月3日(1336年)九州にいた足利尊氏が西国武将を結集し上洛を開始したときであった。
福山城に布陣した大江田氏経は山陽道のこの要衝の地を天皇方の第一線とし、荘常陸兼祐と飽浦信胤との降参兵を天皇方に加えて大江田氏経軍兵士達の士気は大いにあがった。

この時の模様は太平記に次のように述べられている。
『新田左中将の勢、すでに備中、備前、播磨、美作に充満して、国々の城を攻むる』

この当時所領は嫡子分割相続で細分化しており、所領を増やすには荒野を開拓するか戦争で勝ち敵方の闕所(没収地)を分配して貰うしか術がなかった。元来武士は武芸をもって支配階級に仕える専門職能集団であったが、支配階級が分裂すれば彼らも分裂するのは必然の成り行きであった。恩賞を貰うためには勝つ側に加勢しなければ意味がない。恩賞の貰えない戦には参加しないほうがよい。当時降参半分の法という慣習があり降参人は所領の半分ないし三分の一を没収されて許されていた。 従って、降参や寝返りが多く後年の江戸時代の武家社会の慣習とは大きく異なっていた。去就の自由があり主従関係は恩賞次第という即物的なものに左右された。荘常陸兼祐と飽浦信胤の裏切り行為と同じようなことが行われるのも珍しいことではなかった。

九州で陣容を立て直して、軍勢を海陸の二手にわけ東上を開始した足利勢は尊氏が5月に児島下津井に千余隻の水軍で到着し吹上に3日間陣を張った。

 一方山陽道を東上した弟の足利直義は福山城を延元元年(1336年)5月14日三方から取り囲んだ。足利直義の軍勢は30万にのぼった。対する大江田氏経は城内に僅か1,500の兵力であった。
早くから足利方に加勢していた荘左衞門次郎はこのときも足利直義軍の旗下に参じ裏切り者の荘常陸兼祐を打ち破ろうと先鋒隊を買って出て福山城を攻めた。

しかしながら城に籠もった大江田氏経直轄の城兵は士気が高く常に奇襲戦法で足利の大軍を悩ました。その勢いで本陣をつき足利直義に迫って、彼を討ちとらんばかりの勢いであった。しかしその後は膠着状態が続き勝敗の帰趨は予想すべくもなかった。裏切り者のこういう局面での決断には常人では考え及ばないものがある。荘常陸兼祐の判断も異常であった。戦況を観察していた荘常陸兼祐は一旦は天皇方に味方したものの勢力を盛り返した足利軍の方に勢いがあると見て再び裏切った。手兵に命じて密かに城内の数箇所に火を放ち火災を発生させたのである。この火事が引き金となって、城内は大混乱に陥り、足利方の軍勢の総攻撃にあい城兵500騎が討ち死にした。氏経は400に減ったにも関わらず、26回にも及ぶ逆襲をし、ついに三石城にいた新田義貞軍と合流した。                           


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