前潟都窪の日記

2005年06月13日(月) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂1

 一.東雲篩雪

 昭和45年4月、当時私は日本の高度成長を担う勤続10年目の中堅企業戦士として兵庫県高砂市で昼夜を分かたず懸命に働いていた。本社で会議があって上京した折りに東京三越本店で浦上玉堂名作展が開催されていることを知り休日に会場へ足を運んだ。

 玉堂の代表作の一つとして古くから紹介されており、一度や二度は美術全集などでその写真判を見たことのある「東雲篩雪」の前へ立った時、暫くその場から動くことが出来なかった。

「なんと暗鬱で閉塞感の漂うやりきれない気分の絵であろうか。だが何故かとても魅きつけられる」というのがその時強烈に受けた印象であった。写真判でみたときも暗い感じのする雪景色だなと思って見てはいたが、心にしみとおるという程の感じではなかった。

ところがどうだ。今実物を見ていると小さく描かれた粗末な茅屋の中の読書する高士が「どうだい、雲も凍ったように動かなくなってきたよ。重く垂れ込めた空から粉雪が音もなく降りしきっていて、やがて木々も渓谷も埋めつくしていくだろう。そんな閉ざされた寂莫の山中で、孤り自然と同化し且つ対峙している私の心境が理解できるかい」と呼びかけているように見えたのである。

 目録の年譜を見てみると備中鴨方藩を50才の時脱藩し、春琴、秋琴という二人の息子を連れて諸国を放浪。この絵が描かれたのは60才後半頃と考えられるとあった。士農工商の身分制度が確立されてあらゆる自由が束縛されていた江戸時代の封建社会にあって士分を捨てて、敢えて琴と絵の世界へ飛び出していった心境はどんなものだったのだろうとその厳しい決断に思いを致すと、この絵に仮託されて滲みでている玉堂の、雪路を行き悩む煩悶と憂愁が理解できそうだと思ったものである。

 更にこの絵に纏わる次のようなエピーソードがあるのを知った。
 この絵はもとは近江長浜の柴田家が所蔵していたのであるが、第二次世界大戦終了後の混乱期に財産税で難儀をした同家が手放したらしい。そうとは知らない作家の川端康成はこの絵に魅せられていたので是非譲って貰おうと本能寺にある玉堂の墓へ詣でた後に柴田家を訪問した。しかし、時既に遅く柴田家では手放した後だったので手にいれることができなかった。その後、この絵は当時買い手がつかないままに、愛好家や画商の間を転々としたらしい。買い手がつかなかったのは「この絵をかけていると気が滅入る」というのがその理由のようであった。

 ところが暫くして、たまたま広島の原爆の被災地の視察に赴いた川端康成が帰りに京都に立ち寄ったところ、さる画商がこの絵を持っていることを知った。早速見せて貰ってますます気にいり値段にかまわず所望した。大金の持ち合わせがなかったので大阪へ行き、朝日新聞社に借金を申し込んだ。翌日金を届けて貰って予て念願のこの絵を自分の物にすることができたという因縁があるのである。価値観が変わってしまい執筆する意欲も失せて閉塞感に苛まれていた川端康成の当時の心境にフィットするものをこの絵は持っていたのであろうか。

 今、私は企業戦士としての戦いを終え、時間にも仕事にも拘束されない自由の身になって、旅をしたり読書したりと気儘に過ごしているのだが、ある日、図書館で美術全集を繙いていて「東雲篩雪」に再会したのである。繙いた美術全集には佐々木丞平氏の次のような解説が載っていた。

「渇筆で樹の幹の輪郭線が描かれる。幹から幾つにも分かれ出た小さな枝は縮れたように短く冬枯れの風雪の厳しさを思わせる。樹木の陰に更に一層淡く梢や枝が見え隠れする。いかにも繊細な筆の運びを見せている。このかすかな筆の運びが、雪と寒さのかもしだす透明でかつ震えるような大気の厳しさを見事に描きだしている。また、藍を含んだ墨色が山の背後の暗澹たる空間を表現し、その冷気が山膚にまでしみ通るようでもある。山の中腹では不安定に立ち上がった塔やおしひしがれそうな茅屋が見る者に一層心の緊張を強いる。またその周辺に色鮮やかな朱が散りばめられ、冷徹な大気を更にひきしめている。近景の岩間に架かる板橋上には傘をさした一人物が今まさに岩蔭に隠れようとし、岩山の後方の茅屋内では高士の読書する姿が円窓を通して見える。この冬枯れの凍てつくような自然は玉堂自身の心象風景でもあったろうし、散らつく雪の中で橋を渡り終えようとする人間、窓が開け放たれ、冷気を全身に受けて読書する人間に、自らの姿を投影させていたのかも知れない。50才にして脱藩し、放浪の中に身を置く玉堂が旅の中で得た自然に対する痛いほどの共感を表現した絵といえよう。70才に近い、最も充実した頃の制作になる玉堂画の代表作である」

 東雲篩雪の実物を見たあの日から30年弱の年月が流れ、私の人生にも喜怒哀楽の種々相があった。この間の経験の功により、玉堂の心境がもっと深く理解できるようになっているのではないかと思うようになった。またここ10年続いた平成不況は八方塞がりの重苦しく鬱陶しい気分を社会の隅々に充満させた。このような閉塞感のある環境に呻吟している今だからこそ玉堂がこの絵に託した気分を理解できるのではないかと思った。そんなわけでこれから琴弾の画仙、浦上玉堂がこの絵を書くにいたった心のうちを追ってみようと思う。


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