2005年06月14日(火) |
小説・弾琴の画仙浦上玉堂2 |
二.池田家との関係
「市三郎、儂はもう長くは生きられないと思うのでこれから話すことは父の遺言だと思ってよく聞くがよい」 と父の浦上兵右衛門宗純が吸呑みの薬草湯を飲んだ後、仰臥のまま窶れはてた細い両手を胸の上で組みながら言った。宗純は胃癌を患って三月ほど前から病床にあった。宝暦元年(1757)一月、後の名は浦上玉堂で幼名を市三郎といい、歳は7才、父宗純は60才で、雪の降る寒い日のことであった。
「何を仰いますか。精のつく物をたんと召し上がって養生を続けられればきっと快復なさいますよ」 と病人の枕元に正座していた市三郎は慰め言を口にしたが、心の中では父の死期が旬日に迫ったかと愕然とし、父の話を一言も聞き漏らすまいと畏まっていた。 「いやいや、儂にはお迎えが近くまで来ていることがよく判る。盛者必衰、会者定離はこの世の定めなのだ。決して悲しいとも無念だとも思っていない・・・・・・・・・・・ところでお茂」 と傍らに座っている妻お茂の方へ視線を移しながら言った。 「はい。病は気からと申します。気を強くお持ちなさいませ」 と夫の容態を気遣いながらお茂は言った。このときお茂は47才であったから市三郎は両親が年とってからの所謂恥かきっ子であった。 「市三郎は親の欲目から見ても利発な子だと思う。しかしまだ7才でなにしろ幼い。儂が死んだらお茂には苦労をかけることになるかと思うがこの子をよろしく頼む。さて、お前達に話しておきたいことが三つある。最初に藩主政言様に対する御奉公のことじゃ。次に浦上家の先祖のことじゃ。最後にこれからのお前達の行く末についてじゃ」 と言って静かに目を閉じると諭す口調で語り始めた。
「前の藩主池田政倚(まさより)様は私の甥にあたるので、とても可愛がって頂いて非常に大きな御恩を受けた。御恩返しをしなければと影日向なく忠勤に励んだつもりだが、浅学非才のため殿様の御期待に応えるだけの充分な御恩返しができないままに殿は四年前の元文三年(1747)に亡くなられた。殿は晩年に嫡子の政香様が御幼少だったので池田由道様の次男政方(まさみち)様を養子として迎えられ、政香様の後見を託された。殿御逝去と共に政方様への家督相続が幕府に認可された。そして現藩主政方様は政務の傍ら政香様の後見をしておられるが、お気の毒なことに病弱であらせられる。恐れ多いことではあるが万一のことがあれば政香様が家督を譲られることになろう。政香様はお前よりは一才年上で、英邁な方だから優れた藩主になられるであろう。ゆくゆくはお前はこのお方に忠勤を励んで藩の発展を図らねばならぬ」 「父上が前の藩主池田政倚様の叔父にあたられるとは存じませんでした」 「前の藩主池田政倚様の実母であらせられる於常の方は儂の父宗明の姉、つまり儂の伯母にあたる方なのじゃ。そなたからは大伯母にあたられる」 「そうでしたか。ちっとも知りませんでした」 「私もこのことはまだ市三郎には話しておりませぬ」 とお茂は弁解するように言った。 「さればこそ、儂の命あるうちに二人の前で言い残しておかねばならぬ」 と言いながら胃の腑が痛むのか顔を顰めた。
「儂の父浦上宗明とその姉の常女の二人の姉弟が筑前黒田藩の庇護を離れて江戸へ上がってきたとき、鴨方支藩の始祖池田政言様は池田光政様の嫡出の次男でまだ部屋住みの身であったが父君が参勤交代で上府されたときお供されて江戸屋敷で武芸に励まれていたのじゃ。世話する方があって姉の常女は江戸池田屋敷の奥女中として奉公にあがったのだが、生来賢く美貌で性格の良かった常女は政言様に見染められて側室になられたという次第じゃ」 「その縁でお祖父様の宗明様も池田家へご奉公することになったのですね」「結果としてはそうなったが、それには時間がかかった」 「何故ですか」 「藩祖の光政様が英明な藩主で勤倹奨学を旨とし新規の召し抱えは厳禁されたからじゃ。それには慶安四年(1651)の由井正雪の乱も納まって天下は安泰になり幕府の威光が全国津々浦々まで行き届くようになったということもある」 「尚武より奨学ということですね」
「その通りじゃ。兵乱に備えて浪人を召し抱えるよりは陽明学を奨励し知行合一の実を挙げていくことのほうが大切だと考えられたのじゃ。更に光政様が寛文七年(1667)に日蓮宗不受不施派を厳禁されたこともお召し抱えが遅れた理由の一つじゃ」 「それはまた何故ですか」 「浦上家では不受不施派ではないにしろ、先祖代々日蓮宗であったから、姻戚関係があるとはいえお祖父様の宗明を例外的に扱うわけにはいかなかったのじゃ」
「不受不施派とは何ですか」 「不受とは法華宗の寺や僧が他宗からの布施供養を受けないということであり、不施とは信者が他宗の寺や僧に布施供養を捧げないということなのだ。このことを絶対守らなければならない教えとしている日蓮宗の一つの宗派のことなのじゃ。この教えをつきつめていくと天下人といえども法華宗を信仰する信者の気持ちを曲げることはできないということになり、そこのところが藩政にとっては具合がわるいのじゃ」 「なるほど。そのことは判りました。では何時から浦上家は召し抱えられたのですか」 「新藩の鴨方藩が出来て寛文12年(1672)に政言様が初代藩主に分封されたときからじゃ」
「お祖父様は改宗されたのですか」 「いや、そうではない。光政様が隠居なさって家督を綱政様に譲られると同時に次男の政言様と三男の輝録様に備中墾田をそれぞれ二万五千石、一万五千石ずつを分与され鴨方支藩、生坂支藩を創設されて表向きの治世には口出しをしなくなられたからじゃ」 「つまり政言様が新藩主として新しくお祖父様の浦上宗明を召し抱えることについては、隠居だから支藩のことにまでは口出しされなかったので改宗しなくて済んだ」 「そういうことだ」
「それまでお祖父様の暮らし向きはどうだったのですか。難儀をされたことでしょう」 「浪人の生活は決して楽なものではなかったと思うよ。町人の子供達を集めて手習いを教えたり傘張りの内職をしたり道場へ通って師範代として稽古をつけたりして暮らしておられたと聞いておる。いずれにしても浦上家は池田家鴨方支藩に仕官できるようになったのだから忠勤に励んで御恩返しをしなければならない。お前は若いのだから政香様に御奉公することになると思うが、その時に備えて勉学に励みなされや」 「はい。陽明学を究めたいと考えております」 「それはちょっと差し障りがあるからよく考えたほうがよかろう」
「何故ですか」 「それは幕府が朱子学を重視し、藩もそれに倣ったからじゃ」 「されど岡山藩は光政様が熊沢蕃山先生を登用されて以来、治世に実績をあげられ陽明学の本拠地として学者の往来も多く、藩学としても大いに栄えたではありませぬか」 「確かに熊沢蕃山先生が正保二年(1645)に再来されて明暦三年(1657)に致仕されるまでに上げられた実績が大きかったのは事実だ。しかしそれも光政様の後楯があったればこそなのじゃ。ところが明暦三年以降、光政様は方針を変えられて次第に陽明学から朱子学に傾斜していかれた。市浦清七郎、三宅可三、林文内、小原善助、中村七左衛門、窪田道和先生等を次々と招かれて藩校の教授陣は全て朱子学者に入れ代わってしまった。今では藩学は完全に朱子学になってしまった。特に、朱子学者の林信篤が元禄四年(1691)に幕府の大学の頭に任ぜられて以来、陽明学は藩としも幕府に対する手前憚られるようになっている。密かに蕃山先生の徳を慕って陽明学を学んでいる者は藩内にもまだ沢山残っている。しかしここが肝要なところだ。幕府や藩の御政道に逆らうようなことをするのは謀叛と見做されお前のためにも先々良いことはない。時流を的確に読み取りそれに順応していくことは処世上最も大切なことじゃ。ここのところはよく思案するがよい」 「はい。よく判りました、よく思案してみたいと思います」 「今日は疲れたのでこれで終わりにしよう。明日は浦上家の祖先のことについて話さねばならぬ」 と言うと鼾をかいて眠りだした。
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