前潟都窪の日記

2005年06月15日(水) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂3

 三.家系

「儂がもの心ついた八才の時に父宗明は亡くなったのだけれど、丁度今儂がお前に話しているように病床の枕頭で儂は父から浦上家の系図を渡され、先祖のことを聞かされたのじゃ」

 翌日市三郎が母とともに宗純に呼ばれて枕頭へ正座すると一巻きの系図を手渡してから父の宗純はこう切り出した。

「遠く遡上れば浦上家の始祖は竹内宿弥(たけしうちのすくね)なのじゃ。この方は第八代天皇孝元天皇の皇子、比古布都押之信命(ひこふとおしまことのみこと)と山下影比売(やましたかげひめ)の間に生まれた御子で長寿を全うし、景行天皇から仁徳天皇まで五代の天皇に忠実に仕えられたそうじゃ。この方の末裔に紀貫之がおられる」
「あの三十六歌仙の歌人ですか」

 歌の心得のある茂が興味ぶかそうに口を出した。
「そうじゃ。土佐日記の著者としても有名な御仁じゃ」
「それでは学問がよくできるように紀貫之にあやかって、市三郎にも紀姓を名乗せてもいいのでしょうか」
「差し障りはなかろう。むしろ紀貫之も前途有為の末裔が出てきたものじゃと喜ばれることだろう」
「この紀貫之から二十二代の裔にあたる七郎兵衛行景が播州浦上庄を領した時、当時、播磨、美作、備前三国の守護であった赤松則祐に仕えたそうだ。赤松則祐は室町幕府でも侍所の所司となり四職家の一つとして重きをなした名門の武家なのじゃ」

「それでは、その頃浦上の姓がうまれたのですね」
「そのとおりじゃ。行景以降代々浦上氏を称して室町時代末の戦国時代に備前和気の天神山城に拠って備前、美作、播磨三国に武威を奮った浦上宗景という優れ者が出たのじゃ」
「その後はどうなりました」
「ところが、弱肉強食で下克上の戦国時代の中で、家臣の宇喜多直家が力をつけてきて、浦上家の家臣の中で筆頭の地位をしめるようになったのじや。そのうち、野心家の直家が権謀術策を弄して謀叛を起こし、天正五年(1577)には天神山城を攻撃してきたのじゃ。ところが、直家の調略によって宗景の重臣であった明石飛騨守景親父子、延原弾正忠景、岡本五郎左衛門龍晴らが主家を裏切り直家方についたので数日間の攻防の末あっけなく落城してしまったのじゃ。宗景様の無念が偲ばれよう」

「宗景様はその後どうされたのですか」
「一旦は播磨へ逃れ何回も再興を画策されたが成功せず、最後は頼っていた黒田官兵衛の転封に従って筑前へ下って80才の天寿を全うされたのじゃ。この宗景様のあと浦上小二郎、浦上備後守宗資と続き、浦上松右衛門宗明が黒田氏の庇護を離れて姉の常女と共に江戸へ上り昨日話した経緯を経て池田藩へ仕えることになった次第なのじゃ。名前に宗がつくのは宗景様の武勇にあやかりたいという意味があるのじゃ」

「紀之貫といい浦上宗景といい歴史に残る先祖を持っていることを誇りに思います」
「お前には於繁、於千代という二人の姉と富太郎という兄があったが、於千代と富太郎は生まれて間もなく死んでしまった。長女の於繁はお前も知っているとおり昨年、22才の若さで流行り病に罹って逝ってしまった。儂が死んだら後には母上とお前だけになってしまう。これも運命だから致し方なかろう。そこで母上の教えをよく守り、体を鍛え勉学に励み、主君に忠義を尽くさねばならぬ。そして名門の浦上家の繁栄を図って名を残して貰わねばならぬ」

「お言葉しかと肝に命じます」
「お茂も残るのは市三郎だけになるが幸いこの子は体も丈夫だし利発な子のようだから、学問に励ませ政香様のお役に立つ人物に育てて欲しい。後をよろしく頼む。儂らの若かった頃は武芸第一じゃったが、時代が変わりこれからは学問で身をたてる世になると思うからくれぐれもそのことだけは心して励んで貰いたい。儂がお前達に最後に言いたかったのはこのことじゃ」


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