2005年06月16日(木) |
小説・弾琴の画仙浦上玉堂4 |
四.藩主政香と水魚の交わり
浦上玉堂は延享二年(1747)、前述のように父浦上兵右衛門宗純が54才で母茂が40才のときの第四子として岡山市石関町天神山の鴨方藩邸で生まれた。父は鴨方藩主池田政倚に仕える家臣であり、母は三百五十石取りの岡山藩士水野七郎左衛門の娘茂であった。幼名市三郎のち磯之進を名乗った。鴨方藩は独自の支配統治機構は持たず屋敷を岡山に置いており、備前鴨方には領地だけがあった。
宝暦元年二月五日、父宗純は60才で岡山市内の鴨方藩邸宅で静かに黄泉の国へ旅立った。あとには市三郎と母親茂の二人だけが残された。市三郎は七才であった。家族としては母子二人だけの寂しい野辺の送りを済ませると市三郎は家督相続を藩に申請し三月に許可された。と同時に初代藩主池田政言の側室お常の方が市三郎の大伯母にあたるという特殊な姻戚関係が配慮されて御広間詰めを仰せつかった。
市三郎は出仕すると公務が執り行われる表御用部屋の片隅に控えて、なにかれとなく雑務を言いつけられては走り廻っていた。名前を呼ばれたときには大きな声で返事をし、目を輝かせて命令を受け復唱してから、きびきびした物腰で走り去る小さな後ろ姿には気品さえ感じられた。言いつけられたことは直ちに実行し、例え小さなことであってもその結果を必ず快活な口調で報告する態度は礼儀にかなっており、並みいる大人達をしばしば感心させていた。その立ち居振る舞いには賢い母親の躾けが偲ばれた。初学者用に編纂された小学という礼儀、修身の書を九才のときに初めて読んだと後日述べているように母の教えを自らも学問的に深めていこうという向学心が旺盛な少年であった。
先ず、学問についてみると、10才のとき藩校への入学が許され学問に励んだ。言わば働きながらの就学であったが、真面目に学業にも勤務にも励んだ優等生であったことが「備陽国学記録」の記述によっても窺い知ることができる。即ち、14才のときには平生行儀のよい学生だけが出席できる夕食会に選抜されているし、15才のときには詩を学んでいる。そして16才のときには既に大生となっている。23才では平生怠りなく授業に出て聴講し勉学に精勤した者として表彰されているのである。
次に、勤務についてみると、宝暦七年(1757)僅か13才の年少であるにもかかわらず、三番町にある吉田権太夫跡の家屋敷を拝領できるほどの働き振りを示している。 宝暦十年(1760)16才のときには、藩主政方逝去の跡を三月十日政香が襲封したのであるが、その年七月九日磯之進(この頃には市三郎から磯之進に名乗りを変えていたと思われる)は新藩主に初のお目見えをした。同年九月二日には前髪を切って元服し翌三日から御広間御番として出仕した。そして九月二十一日には御側詰めを仰せつかって藩主政香に近侍することになった。このとき磯之進16才であり、政香は17才で主従共に純情多感な青年であった。
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