2005年06月17日(金) |
小説・弾琴の画仙浦上玉堂5 |
年齢が一才しか違わないという親近感もあったであろうし、真面目に人生に立ち向かっていこうという意気込みがお互いの琴線を刺激しあったのか二人の間には水魚の交わりの如き関係が発生した。
「磯之進、儂は若くして藩主になった。まだまだ勉強しなければならないことが沢山あるが、堯・舜の時代のような理想的な治世をしたいという夢を持っておる。それには先ず治世の根本理念を大学に言う所の修己、治人に置かなければならないと考えている。そのためには明徳を明らかにし、民を新たにし、至善に止まるよう励まなければならないと思うのだ」 と、政香は御側詰めを仰せつかって初めて出仕した磯之進へ所信を表明した。 「はい。新しい藩主に対して領民達は仁政を期待していると思います」 「そこで、身近な手本として藩祖光政公の治世の理念と事跡を手始めに勉強してみるのがよかろうと考えている。それは光政公が僅か八才で因幡、伯耆両国の領主に封じられてから国を治める要諦は何かと苦慮された末、儒学の勉強をされて、仁政以外に術がないとの結論を得られたからじゃ。事実光政公は仁政を施され優れた実績を挙げられているからその跡を辿ってみるのは有意義なことだと思っている」 「仰る通りだと思います」
「光政公が五才のとき家康公にお目見えしたときの逸話を聞いたことがあるか」 「いいえ、不勉強でございまして未だ・・・・・」 「家康公が光政公を膝元近くへ召して引き出物に脇差しを与えられてから髪を撫でながら<三左衛門〔輝政〕の孫よはやく成長されよ>と言葉をかけられたそうじゃ。そのとき光政公は拝領した新藤五の脇差しを取り上げすらりと抜いて、じっと見つめてから<これは本物じゃ>と言われたという。このとき家康公は<あぶない、あぶない>と手ずから鞘におさめられて光政公が退出されてから<眼光のすざまじき、唯人ならず>と感嘆されたという逸話が伝わっておる」
「天性明敏な資質をお持ちだったのですね」 「更に光政公が十四才のとき儒学を始められたがそのときの逸話を聞いたことがあるか」 「いいえ、恥ずかしながら存じません」 「光政公が夜、寝所に入っても寝つかれず睡眠不足が続いているので、近侍の者が心配してその理由を聞いたが返事をなさらなかった。ところがある夜から熟睡されるようになったので再びそのわけを聞くと、次のように答えられた。< 先祖から大国の統治を任されたが自信がなくどのようにして領民を治めればいいのだろうかと考えを巡らせているとどうしても眠ることができなかった。ところが昨日板倉勝重から論語の進講を聞いているときに大国の領主としては特に寛仁の徳が必要だと諭された。自分でも心に奮い立つものを感じて〔君子の儒〕となって領民の教導・安定化を計ろうと決意した。それからは熟睡できるようになった>ということなのだ」
「基本理念を模索されたのですね。そして非常に固い決意を持たれたのですね」 「それから、また次のような話も伝わっているのじゃ。十五才のとき京都所司代の板倉勝重に治国の要道を尋ねられたことがある。そのとき勝重は四角な箱に味噌を入れて丸い杓子で取るようにすればよかろうと答えた。すると光政公は暫く考えられて箱の隅にある味噌へ杓子が届かないのをどうすればよいかと不審を抱かれた。そこで勝重は光政公のような明敏な君主はおそらく国中を隅々まで罫線をひきつめたように統治しようと思われるだろうが、大国の政治はそのような厳密なやり方だけでは収まらぬと考えて先程のように答えたが、予想通り不審を抱かれた。国事は寛容の心をもって処理せねば人心を得ることは難しいものであると諭して勝重は落涙したというのじゃ」「寛容の心の機微についても悟られるところがあり、寛仁の徳を実践しようと決意されたのですね」 「その通りだ。それからの光政公は正月の書き初めにも好んで儒道興隆、天下泰平の八文字を書かれるようになった」
「現在の藩学は表向きは朱子学になっておりますが、光政公も始めは陽明学だったと聞いておりますが」 「その通りだ。光政公は日本で最初の陽明学者中江藤樹先生に私淑され、中江先生をお迎えしようとしたが果たさなかった。しかし手紙の頻繁なやりとりで議論をされ参勤交代で上府の折り大津の旅宿へ先生をお招きして清談を交えておられるし、先生の長子中江左右衛門、次子弥三郎を初め熊沢蕃山、泉八右衛門、中川権左衛門、加茂八兵衛門が来藩して光政公の陽明学修業は奥義を究めるまで進んだのじゃ。そして池田藩の陽明学は天下にも有名になった。特に熊沢蕃山先生を重用され治世にも実績をあげられた」
「光政公は何故そのようにまで陽明学に惚れ込まれたのでしょうか」 「陽明学の説く心即理、知行合一、致良知という考え方が魅力的だったからだと思う。つまり万物存在の根本は心にありとする心即理の一元論を基本として理論を組み立て、人間の心には先天的に是非善悪を判断できる作用すなわち良知が備わっており(致良知)、まず行ってしかるのち知るべきことの必要(知行合一)を説いているから、朱子学よりも実践的だと判断されたのだろう。それに対して朱子学は性即理、先知後行、格物致知という考え方であり、今一食い足りないものを感じられたのではなかろうか。つまり天地万物は気によってなっているが、万物を正しくあらしめるものは理である。自然法則も道徳規範も同一の理であり(性即理)、この理を窮めることによって事物の本体、人間の本性が明らかになり(格物致知)、かくて精神の修養も倫理の実践もできる(先知後行)と説いているのだ」
「いずれの学派でも修養によって聖人の域に近づき仁政を行うことを目標にしていることではたいして変わりはないと思うのですが」 「どちらかといえば朱子学が合理的客観性を重視するのに対して陽明学は心の内的契機と実践性を重視しているということが言えると思うよ」
「ところで、光政公は藩学を何故陽明学から朱子学へ変更されたのでしょうか」 「光政公の熱心な陽明学修業に対して謀叛の下心ありとの風評が立ち政治問題になったことがあるのだ」 「そんな馬鹿な」 「ところが世の中には妬みや嫉みがつきもので、大老の酒井忠勝様が自分ではあまり学問が好きでなかったものだから、光政公の篤学の評判を苦々しく思い大勢の陽明学者や家臣を集めて派手に研修会を開くのは如何なものかもう少し控え目になされてはと警告してきたり、京都所司代の板倉重宗が光政公の政治的立場を心配して研修活動の自粛を忠告してくるということがあった」
「世の中はなかなか難しいものですね」 「そんなことで信念を曲げられるような光政公ではなかったが、悪いことにたまたま江戸で浪人別木庄左衛門一党の陰謀が露顕するという事件が発生した。詮議の過程で謀叛心を抱く大名として紀伊、尾張、越後、相模、筑前の諸公の名前とともに、光政公の名前も入っていた。特に光政公に対しては逮捕された一味の一人が光政公の陽明学については表向きは儒者を装っているが内々では謀叛心を抱いていると讒言したのだ」 「悪い奴がいるものですね。それで結果はどうなりました」 「光政公に代わって子息の備前藩主綱政様と弟の播磨宍粟領主恒元様が閣老の訓戒を受けただけでそれ以上の嫌疑をかけられることはなかった。しかしこの事件がきっかけとなり酒井大老や御用学者の林道春らの干渉が厳しくなってきた。そこで光政公も事態が切迫してきたので、表向きは藩学としての陽明学を禁止したが家老達の自主的な修学は例外として意地は通された」
「御自分で修学された陽明学の信念に基づき仁政を敷こうとされる強い意思をお持ちだったのですね」 「ところがこのような幕府の陽明学に対する抑圧にあって、時勢随従型で見識のない家臣達の間に陽明学を見放して朱子学に転向する者が続出してきだした。そんなとき、たまたま熊沢蕃山先生が落馬して右手を怪我して軍務に耐えられなくなって致仕し、備前を立ち去るということがあった。この間備前にいた陽明学者達が次々病没したりしたこともあって備前の陽明学の担い手がなくなってしまった」
「それで朱子学者達が来藩して朱子学に代わってしまったのですね」 「それに蕃山先生の意見が光政公と次第に合わなくなってきていたことも見逃せない。蕃山先生は致仕後も藩政に対する様々な批判や諫言を綱政様へ手紙で書いてきておられるが所論に反して言行不一致があったり、高慢になってきて光政公が不信を抱くようになってきていたことが窺えるのだ。そんなことで光政公が従来の方針を変えて朱子学を藩学として認知されたということではなかろうかと理解している」 「御賢察だと思います。陽明学によろうと朱子学によろうと領民を教化して堯・舜の理想的な仁政を行う事を両派とも最終的な目的としているのですから」 意気のあった理想に燃える若い二人の会話は時間の経つのも忘れて続く。
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