前潟都窪の日記

2005年06月18日(土) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂6

五.理想実現に向けて若き藩主を補佐                                                          
 宝暦11年(1761)磯之進17才のとき藩主の政香が従五位の下に叙せられ、内匠頭に任じられたのは磯之進にとっても嬉しい慶事であり、政香の仁政実現の理想にますます共鳴するのであった。

 翌12年には正月に御前で頭分を仰せつかり主君のために忠勤に励まなければと更に決意を固めたのだがこの年より、主君に倣って我流ではあったが絵を描く勉強も始めた。主君と同じ心境になって治世を補佐するためには主君のなされることはすべて経験する必要があると判断した結果である。このように全身全霊を傾けて主君に忠勤を励もうとする磯之進であった。

 明和三年(1766)十月十二日藩主政香は磯之進はじめ近習に次のように語った。
「儂は光政公を敬慕しているので、最近その考え方を勉強しているのだが光政公は治世のありようの基本を次のように考えておられるようだ。将軍は日本国中の人民を天から預かり、藩主は一国の領民を将軍から預かっている。家老と家士とはその藩主を補佐してその領民が安んじられるように計らなければならない。一国内の領民が安んじて生活できるか不安を抱いて生活するかの責任は一にかかって一国の藩主にある。たとえ一人であっても領民を困窮させるようなことがあると、結果的には将軍一人の責任となる。藩主は決してそのようなことにたちいたらせてはならない。そのようなことにでもなれば、将軍に対しては不忠となり、領民を困窮から救えなかったという点で不仁になる。このことによる藩主の罪は死をもってしても足りない位重いものである。だから学問をして自己を修め、民を安んじせしめることを実行しなければならない。もしも自分に悪いところがあれば、遠慮なく諌めて欲しい。怠慢だと見えたら激励して欲しい。皆を頼りにしていると仰ったの だ。儂はこの光政公のお考えを肝に命じて治世にあたりたいと思う」

「素晴らしいお考えだと思います。ところで光政公の治世の中で具体的な施策にはどのようなものがあったのでしょうか」
 と磯之進が聞いた。
「例えば承応三年(1654)の大洪水の時の藩を挙げての大救済事業がある。この洪水は藩始まって以来未曾有の大災害であった。災害の規模で言うと、流失、倒壊、破損した家屋は士屋敷、徒・足軽屋敷、町家、農家合わせて3739九戸、冠水により荒廃した田畑の石高一万1360石、流死者156人、流死牛馬210匹という大きなものであった。これに続いて引き起こった大飢饉で餓死した者は3684人にも達した。
 このとき光政公が処置された緊急対策は先ず第一に藩の米蔵を開放して一粒の米も残らないように放出されたことである。次に不足の分は他国米を買い入れたり大阪蔵屋敷の藩米を取り戻して一国の内一人たりとも困窮する領民がないようにと手を打たれた。更に第三の対策として藩役人の手で飢人調査を実施し、できる限りの米銀を支給された。この対策で翌年の一月から四月までの間に一人一日あたり一合の基準で支給された飢扶持の人数は20万6752人にのぼり、その扶持米は一日当たり206石に達した。
 復興対策としては、先ず普請及び救済用の経費として銀一千貫を上方町人から借用された。次に義母である天樹院の斡旋で幕府から金四万両を借用された。このとき復興のために要した夫役は約九十万人にものぼる大事業であった。更に洪水の予防対策として百間川を開窄された。この御仁政は未だに領民の間で語り継がれている」

「家臣や領民の苦しみを自分の苦しみだと受け取っておられたのですね。領民を慈しむ君主としての仁徳が偲ばれる事例ですね」
「その通りだ。更に凄いと思うのは、この時救済された農民に対して忝じけながらせることを厳禁し、藩主として当然のことをしたまでだと言われたことだ。この例を聞いただけでも儂が光政公を手本にしたいという意味が判るだろう。また寛文八年(1668)には百姓が代官に盆、暮れに付け届けをする慣行を禁止されるとともにその他一切の付け届けも禁止された。本来、贈答の品というのはお世話になった人へ感謝の気持ちを形として表すという意味から発生したもので、礼儀にかなっているものであるが、最近では本来の意味が失われて利益誘導のための手段として用いられるようになった。悪い心の者は自分の為に利益になるように年貢を少なくして貰いたいと思って代官に過大なお歳暮やお中元を贈ることになるし、貰う方でも贈り者の多い方へ有利な取扱いをするようになる。このような悪しき行為が行われないように付け届けを禁止されたのだ。人情の機微にまで立ち至って、不正、不公平の出来ない仕組みを作ろうとされたのだ」

「なるほど、人の心の奥底までも読み取られて不正や不公平の原因となりやすい贈り物という習慣を禁止されたわけですね」
「天和二年には人身売買を厳禁し年季奉公の期間を十年以内に制限して弱い立場にある領民を保護しようとされている」

「領民の内から一人でも不幸な者をださないという仁政理念の発露ですね」
「その通りだ。まだまだ沢山事例はあるが、凡人ではなかなか思いつかない例を幾つか拾いだして要点だけをあげてみることにしよう。その一つは仁政を実現するためにはどのようにすればいいかを藩士に提案するよう求め、意見を書き上げさせるというような思い切ったこともなされたことだ」

「藩士の考えを汲み上げて治世に生かしていこうというお考えですね。これは自らの考えの足りない所は藩士の助けを借りようというお考えですから、無能のくせに権威ばかりを重視するような為政者にはとても真似のできない英断ですね」
 と磯之進が相槌をうつと
「そう思うだろう。儂は自分も余程修業しなければそこまでの境地になれないのではないかと身の引き締まる思いで光政公の偉大さを感じている。また次のようなことまでなされている。藩政を任せるのに適任だと思う者を藩士に投票させてこれを選任されたりもしておられるのだ」
 と政香の説明にも次第に熱気がこもってくる。


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