2005年06月19日(日) |
小説・弾琴の画仙浦上玉堂7 |
「人事にまで下の者の意見を反映させようとなさったのですね。とても勇気のいることだと思います」 と磯之進は家臣達の性を善とみる光政公の人間観に今までにない斬新さを感じるのであった。
「孝道と義道の実践を奨励するため村々で評判の孝子や烈婦を推薦させて彼らに褒美を下されてもいる。実に光政公はきめ細かなところにまで心を配っておられるのじや」 「領民の心をせき立てて徳ある行為に赴かせようとされているのですね」 と領民の動機づけまでを考えている光政公に理想の君主のイメージを見る思いで磯之進は政香の熱弁に聞き入っていた。 またこのときの話の続きとして次のようになことも政香は言った。 「ある人が備前には光政公の教えが残っていないと言ったそうである。だが何をもってそう言うのだろうか。備前には閑谷校という藩校もある。祖先を祭る芳烈祠もある。その上閑谷校で行われている学問は正統なもので他藩の及ぶ所ではない。最終的に光政公がお考えになっていたのは家中の者が単に博識者になればよいなどということではなかった。人の踏み行うべき正しい道を知り、人の人たる道理を十分に弁えて良い藩士・領民になって欲しいと願っておられたのだ。だから藩校の教育方針も世間でとやかく言われているほど中国趣味に片寄ったものではない。聞くところによるとあの有名な足利学校でさえ、今では僧侶が全てを取り仕切っているらしい。そうであるならこれは本来の学問が歪められていると言わざるを得ない。つまり学問は何も仏教界のみのためにあるのではなく、道理を知って人の人たる道を尽くして良き士となれと願う、儒教の根本理念を実現するものとして存在べきものであろうと儂は考えている」
別の日の夜、磯之進他の側近の者に次のようにも語った。 「そもそも人間は万物の霊長であって、天と地と並んで三才と呼ばれているものであるが勝手気儘をして、人の踏み行う正しい道を知るための学問をしなければ禽獣と同じだ。我々鴨方支藩の者が不肖の身で二万五千石の領国を先祖より受け継ぎお預かりしているのは分に過ぎた事である。しかし、一旦こうして一国を預かっている限りは光政公の言われたように、領民を飢えさせてしまっては死罪になっても贖いきれないという言葉を一時も忘れてはならない。だからよく学問をし明徳の道を明らかにして光政公が手本を示された通りのことをしなければならないと考える」
このような藩祖光政の経世済民の実学を基本として善政を敷こうとした情熱は熱い血潮となって蘇り、若い藩主政香の体内を経由して磯之進へと流れ込みその心臓の鼓動を昂らせるのであった。いわば兵右衛門の宿志となって心の中に大きな位置を占めるようになっていった。
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