前潟都窪の日記

2005年07月08日(金) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂24

 天明三年(1783)には毛利扶揺が六年後に出版される玉堂琴譜の序文を脱稿しているからこの頃、玉堂は余暇に没入する世界では琴譜出版の準備に余念がなかった。

 毛利扶揺は豊後国佐伯侯の庶子で名は聚、字は公錦、図書と称した漢学者である。水戸藩の家老山野辺義胤に養子いりしたが後に離縁され以後は江戸で文墨一筋で過ごした。

 毛利扶揺の詩の中に玉堂との親密な交遊を窺わせる次のような詩がある。

  春日含輝亭ニ遊ブ 紀君輔琴ノ賦ヲ弾テ贈ル
  一唔空亭上 相知旧侶同
  江花薫酒溘 嶽雪照緑桐
  逐臭幽闌合 移情流水通
  曲中無限意 挙目送帰鴻

   一唔す空亭の上(ほとり)、相知ること旧侶同じ。
   江花 酒溘(しゅこう)を薫じ、嶽雪 緑桐を照らす。
   臭を逐えば幽闌(ゆうらん)合し、情を移せば流水通る。
   曲中 無限の意、目を挙げて帰鴻を送る。

 誰もいない含輝亭で偶然にも玉堂に出会った。一目会っただけで長年の友人のように親しみあった。そこは川のほとりで花は咲き乱れ、酒のにおいとともに芳しい香を放ち、山野の残雪は輝いて桐葉を照らす。じっと匂えばかぐわしい蘭のようなかすかな匂いが満ち、心は何のわだかまりもなく通じ合う。彼の弾く曲には無限の味わいがあり、じっと聞きすます私の目には、ねぐらに帰る鳥が空高く見える」
     
 天明五年(1785)家庭的には慶事があり次男の紀二郎(秋琴)が生まれた。又母親茂の八十才の祝いの年にあたり鴨方藩領内の儒学者が次のような寿詞を寄せている。

  浦上氏令堂八十初度ヲ寿ギ奉ル
  退食自公爰問安 南山唱寿坐団欒
  凱風翻奏瑶琴曲 愛日新成金鼎丹
  錫類何唯東閣望 平友況奉北堂歓
  歓声自是春難老 班綵蹲前帯笑看

   退食公(たいしょくおおやけ)よりし、爰(ここ)に安(あん)を問う
   南山唱寿(なんざんしょうじゅ)し、団欒に坐す
   凱風(がいふう)翻奏(はんそう)す、瑶琴(ようきん)の曲
   愛日新成(あいじつしんせい) 金鼎丹(きんていたん)
   錫類(しゃくるい)何ぞただ東閣を望まん
   平友(へいゆう)況(いわん)や北堂を歓び
   歓声この春より老い難し
   班綵(はんさい)の蹲前(そんぜん) 笑看を帯ぶ

 公より職を退いてここに母堂の安否をお伺いします。丁度八十才の誕生日を迎えそのお祝いに人々が多く集まっている。その喜びの中、琴を奏でる。不老不死の薬もあり、身を潔める錫もありこれ以上望むものはない。
                          


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