前潟都窪の日記

2005年07月12日(火) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂28

 この日から二日置いて伊勢長島の藩士で画家でもあった青木南湖が主命により長崎へ来朝中の清の画家、費晴湖に絵を学びに赴く途中、正午過ぎに玉堂宅を訪れた。

 江戸出府のおり友誼を結んで以来久しぶりに再会した青木南湖はとても懐かしかった。
「いやあ、お懐かしい。江戸ではよく小料理屋で飲みましたな。お互いに若かったがあの頃が懐かしい。あの頃の若い気持ちに立ち返って今宵は岡山の町を探索したい。どこかよい所へ案内して下さらぬか。なあに銭なら路銀をこのように沢山戴いておるから御心配には及ばぬ」
 と酒好きの南湖が懐を叩きながらしきりに玉堂を誘った。

 玉堂も南湖とはよく気が合ったので心行くまで飲んでみたいと思った。船宿「堀船」のことが頭にあったので、妻女の安が用意した遅い昼食をとってしばし談笑した後、頃合いを見て駕籠を呼んで出掛けることにした。
「玉堂先生、踏みつけて壊すといけませんからそのお琴はこちらでお預かりしておきましょう」
 と豊蘭が玉堂の前へきて七弦琴を預かり床の間の前へ置いた。
「まずは何はおいても一献どうぞ。今宵もまたあの素晴らしい琴の音色が聞かせて戴けるかと思うと今から心が踊ります。これこのように」
 と豊蘭が艶っぽい笑みを浮かべながら玉堂の手をとり自分の胸にあてた後お酌した。
「ほう、これはお安くないですね。玉堂先生、ここへはよく来られるのですか」
 と目敏くこの動作を見つけた南湖がからかうように言いながら、傍らに座った芸妓の酌を受けている。
「いいえ、先日司馬江漢先生と御一緒してからこれで二度目です」
 と初な玉堂は顔を赤らめながらどこまでも正直である。
「ほう、江漢先生も長崎へ行っておられるのですか。あちらで会えるかもしれませんね」と南湖。

「江漢先生と言えば地動説という新説を聞いて、大いに目を開かれました」 と玉堂は豊蘭に手毬を持参させ、先日聞いた話の受け売りをした後、オランダ式勘定も説明してから今日の払いはオランダ式にしようと提案した。
「ははあ、なるほどそれは煩わしくなくてよいですな」
 と南湖も意外に素直に同意した。
 このやりとりを聞いていた豊蘭が感心したように言った。
「最近稀に聞く清々しいお話しですこと。御家中のお侍に聞かせてやりたいですわ」
「そなたもそう思うか。地動説というのは面白いだろう」
 と玉堂が言うと
「いいえ、そのお話しは狐につままれているようでさっぱり判りません。わたしが感心しているのはオランダ式勘定方式のことですよ。最近のお侍さんは商人にたかることばかり考えているんだから。同輩同志できても相手に払わせることばかり考えているし、武士道も地に落ちたものですよ。全く。あら御免なさい、お二人もお武家さんでしたわね」
 と豊蘭が口元を両手で慌てて抑えた。その仕種に二人は苦笑した。
 さされるままに杯を傾け、積もる話に時間が経つのも忘れて話しこむ二人であったが、豊蘭に請われて玉堂は琴を弾いた。

 南湖は筆と硯と半紙を持ってこさせ、芸妓の姿絵を軽妙な筆さばきで描いて手渡すことのできる遊び上手であった。
「ありがとうございます。絵は難しくて真似はできませんが、琴なら弾けそうです。玉堂先生。わたしもお琴を習いたいのですが弟子入りさせては戴けませんか」
 と琴の音にうっとりして聞き惚れていた豊蘭が、酔いの廻った妖艶な顔で玉堂にせがんだ。
「宮仕えの身だからそれは出来ぬ」
「ではお役目を辞められたらお弟子にとって戴けますか」
「そのときにはよかろう」
「まあ、嬉しい。一番弟子ですね。きっとお約束ですよ」
「玉堂殿、致仕するお考えがあるのですか」
 と聞き咎めた南湖が心配そうに聞いた。
「なあに、座興でござる」
「まあ、憎らしい」
 と豊蘭がわざとしなを作って玉堂を叩く真似をした。
 玉堂の心に宮仕えを辞めて弟子をとり、琴三昧の生活もいいなという考えが芽生えたのはこの時であった。

 この夜は玉堂宅へ泊めて貰った南湖は玉堂の娘之(ゆき)が奏でる箏に耳を傾けた。そして翌日には玉堂も同道して備中屋安之助宅を訪問した。備中屋の藤田家は河本家と並び立つほどの岡山の豪商で代々風雅の道を好み当代の一流人士と幅広い交際があった。南湖は安之助の依頼に応じて違い棚や襖に山水図を描いた。玉堂とは余程肝胆あい照らしたと見えて長崎からの帰途再び南湖は玉堂宅を訪れている。
 寛政元年(1789)予てより準備を進めていた「玉堂琴譜」を京都の芸香堂・玉樹堂から出版した。二月には河本立軒のために琴を作った。
             


 < 過去  INDEX  未来 >


前潟都窪 [MAIL]

My追加