前潟都窪の日記

2005年07月13日(水) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂29

 十二.寛政異学の禁
                                  

 寛政二年(1790)幕府により異学が禁じられた。野望実現のため将軍家治の世子、家基を毒殺したのではないかという噂のあった老中田沼意次が家治の病気に際して、またもや将軍毒殺を企てたことが露顕し、天明六年老中職を罷免された後を受けて登場した老中松平定信が行った寛政の改革の一貫として行ったものである。世に寛政異学の禁と言われている。

 ここで江戸幕府の文教政策を振り返ってみると、幕府は開幕当初林羅山を召し抱え、林家とは特殊な関係を結び、また朱子学者を幕政に参与させることもあったが、朱子学を正学と定めたことはなかった。ただ既述のように、熊沢蕃山の影響による備前藩内における陽明学流行に難色を示したり、古学者山鹿素行が「聖教要録」で朱子学を批判し赤穂に配流されたという先駆的な事例はあった。その後林家に人材を得ず、けい園学派、折衷学派など在野の学派が清新な学風の展開を見せたため林大学頭に朱子学を正学とし、異学を禁じ正学講究を奨励する諭達を出した。同時に林家の私塾であった昌平黌を幕府の官学として直轄し、そこで朱子学による官吏採用試験を制度化した学制改革である。

 この寛政異学の禁は伊予国川之江出身の儒学者尾藤二州が朱子学擁護論を唱え、その義弟にあたる頼春水等が同調して幕府の儒官柴野林山、古賀精里等に異学の禁を建言したことがこの措置発令の端緒となった。また鴨方藩領の西山拙斉は「吾程朱の道は孔孟の道、孔孟の道は堯舜の道、堯舜の道は久しかたの道・・・・」とする建白書を柴野林山に送り異学の禁発令に与かって力があった。赤松滄州は柴野林山に対しこれは学問の封鎖であると激しく攻撃した。玉堂の交際していた友人がそれぞれ反対の立場にたったわけである。          
 この異学の禁により、玉堂も出入りしていた「経誼堂」が藩により閉鎖された。経誼堂は河本一阿の先代巣居が万巻の蔵書を保管していた書庫で、これを受け継いだ一阿が多くの陽明学者に開放し、子弟を集めて陽明学の講義を行わしめていたのである。一阿は謹慎して備中井山の宝福寺へ隠遁することになった。

 玉堂はこの異学の禁に本藩が素早く反応して経誼堂を閉鎖し幕政随順の態度を示したことに少なからぬ衝撃を受けた。弾圧を逃れるため河本一阿が謹慎の態度を表して備中総社へ隠棲したことも処世のあり方として大いに考えさせられるところがあった。また西山拙斉が異学の禁を建白したことも玉堂の驚きであったし気の滅入るできごとであった。これ以後西山拙斉とは厚誼が絶えてしまうのである。

<陽明学を信奉している限り、もうこの藩では自分の存在価値がないのではないか。現実に左遷という仕打ちを受けている、やがてこれが弾圧に変わってくる恐れは大いに予想されるところである。かといって手の掌を返すように朱子学への転向を声明して俗吏、俗官どもに媚びへつらっていくことなど性格的にもできるわけがない。この藩ではもはや行政の面で自分の理想を実現していく可能性は全くなくなってしまった。価値観が異なってしまった以上この藩には見切りをつけて去っていくしか方法は残されていないのではなかろうか。礼記の中にも、もし父が間違った行為をしたときには子たる者三度諌めて、それで聞きいれられないときには、号泣しつつそれに従うが、君に対しては三たび諌めて聞き入れられなければ、去るという風に書いてあった。何度も進言しそれでも受け入れられず左遷の憂き目にあわされているのだから、仮に去っていっても不忠にはならない筈だ。こんな道理の通らない藩主や薄汚い世界には潔く決別して、新天地を求めたほうがいいのではなかろうか。幸い自分には琴がある。絵もある。詩作もある。医学もある。琴で弟子を取っても食っていける。その時にはあの豊蘭が一番弟子になることだろう。それも悪くはないな。絵の目きき料でも食っていける。琴を作って売っても食っていける。もっと描きこんでいけばそのうち絵だって売れるようになるかもしれない。子供達にもあまり手がかからなくなってきている。煩わしい世事や拘束から解放されて好きなことを気儘にやりながら過ごすのも悪くない気がする。だが何時これを決行するかが問題だ。時期については慎重に考えなければならない。まだ暫くは今までと素振りは変えずにいよう。ただ口は災いの本というから寡黙に徹することにしよう>

 このような思いが頭の中を駆けめぐるようになった。

 異学の禁発令以来、玉堂の琴や絵のために費やす時間が目に見えて増えてきたし、文人墨客の往来も頻繁になってきた。


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