前潟都窪の日記

2005年07月21日(木) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂37

 その後、又、御小姓の望月志津馬、田中兵七も入門を仰せつけられ、皆段々に修業を積み、文之助はその後、玉堂の住居へ引き移っての、昼夜の稽古であった。彼は会津へ帰る前に再び訴えを出した。即ち、志津馬、兵七両人は御用の暇々での修業であるのでなかなか及び兼ね、その上、全体に、神楽歌、催馬楽等は、古来諸国の大社などで伝えてこられたものであるが、数百年来、都市部においても田舎においても共に断絶してしまったのでその調べは一向に耳慣れない為、昼夜を分かたず稽古してさえなかなか容易ではなく且つ、神楽歌は呂律の黄声で楽器に合わさねばならず、歌方二人、和琴一人笛一人、都合五人が、昼夜合奏して練習しなければなかなか整うものではない。所が、最早、日にちもあまり残ってはいない。その上、私共は稽古してそこそこまで出来上がったとしても、国へ帰って、見弥山の楽人へ伝えようとした所で、私自身の稽古が付け焼き刃で、未熟なものなので、気がつかないうちに音律を間違えて教えることもあろう。そうなっては神に対して恐れ多いことである。且つ、せっかくそろっている楽人達へうまく伝えられないということになっては全く無駄なことになってしまう。その上、色々と江戸では物入りであるので、いっそのこと、玉堂を会津へ呼んで頂き、楽人共も玉堂共に一緒に取り組めば、万事うまくゆき、この秋のご祭礼には必ず再興できるのではなかろうか。

 ところで玉堂は三月中旬には上洛する予定であるし、又、尾州徳川家からも招待されているように聞いている。今、稽古の半ばで離れてしまってはこれまでの折角の修業が水泡に帰してしまう。京、尾州へ上がられるのをお止めすることが、見弥山御社御神楽の再興にもつながるので、何とぞ会津へ下っていただくよう勧めなければならない。百年来、諸国で絶えていたものをこのたび再興しようという思し召しこそ、国中どこにも例がなく、これも御仁政のおかげであり、且つ土津神社の御余光であることを肝に銘じ、寝食をも忘れ、労費も厭わず、稽古にはげみたい旨を申し出た。大竹喜三郎からも玉堂は松島を一見したい希望があるようなので、そのついでに会津へ立ち寄っていただくようお勧めすれば来てもらえるだろうということなので、年が改まったら私共の処へ来ていただき、決して負担をかけないよう取り計らい滞留中に指南を受けられれば、一番よいことであり、見弥山の御神楽役人達も願っているので、五十日ばかりの滞留でもよい旨の申し出があった。   この話しは上からの申し出ではないので、ことさら引き立てて取り扱うよう申しつけたが、馬の貸主等の件については話しを通さなければならず、このような取扱については内々は上から差し下されることになっているのもよくわかっているので、とりあえず支度金として文之助へ十両くらい渡して済むのかどうか老職方との協議があった。・・・ ついては内々必要な経費を渡し、文之助が同道の上で、是非会津に立ち寄り指南して欲しい旨申し上げた処、聞き入れて頂けた。

 玉堂は長男紀一郎を江戸町家に置き、今年九才になる二男紀二郎をつれ、四月二十八日江戸を立ち、五月初め福良に到着した。藩からは賄い方の者を遣わし、一汁五菜、酒肴吸い物を出し、次の日は滝沢村の郷頭宅で丁重にもてなされ、宿でも料理がだされ、町人佐治吉左衛門の別荘に落ちついた。そして、日向衛士が麻の上下姿で出迎えて挨拶などをし、その後料理などを出し、十三日には荒井文之助が御使いとして御樽代金五百疋と鯛三枚が届けられた。(佐々木承平著 浦上玉堂、小学館刊日本の美術五十六より引用)>
 このように手厚く処遇された玉堂は昼夜を分かたず指南に精を出した。そして傍ら、神楽再興のため、高田伊佐須美神社や塔寺八幡等の調査や藩文庫の古文書の調査にも携わった。

 玉堂の誠心誠意の努力に対し、格別の取り計らいで玉堂父子を祭礼以前に藩公へお目見えさせることが計画され、八月二十二日実行された。
 八月二十五日には見弥山御社の祭礼が挙行され神楽の再興は見事に成功した。
 玉堂の労に対して藩から銀子三十枚、二十匁掛け蝋燭百挺、御肴一種が贈られ秋琴には別に両絹二疋、肴代二百疋が下賜された。宿舎には特別の料理が用意され長期間にわたった玉堂父子の労がねぎらわれたのである。

 会津藩の行き届いた扱いに感動した玉堂は秋には江戸に戻るつもりであったが、予定を変更して翌年の春までの逗留を願いでて許された。また、手厚く律儀な会津藩の家風に触れて、まだ幼い秋琴を教育するには理想的なところだと考えるにいたり、和学兼神楽師範の大竹政文、御小姓の望月志津馬の二人に秋琴を藩の卑役にでも登用して欲しいと懇願した。大竹、望月の二人は早速玉堂の願いを家老に取り次いだところ、家老のほうからは少ない扶持でも永く勤める意志があるかと望月を通じて尋ねた後、取り合えず秋琴に出入り扶持七人分が下されることになり出仕が許された。

 会津藩が秋琴を召し抱えるにあたっては備前岡山藩へは脱藩浪人の子息を召し抱えるについて不都合がありやなしやの照会をおこなう念の入れ方であった。
 やがて扶持十人分に加増された上で、御役目は「若殿様御供方の次 御厩別当の上」と決められ末座ではあるが若殿様の近習にとりたてられたのである。このことは江戸詰めであり玉堂にとってはこのうえの願いはない恩情あふれる取扱であった。
 脱藩の決意を固めて以来最も玉堂の頭を悩ませていたのは、まだ幼い秋琴の将来のことであった。それが会津藩の士分として仕官がかなって後顧の憂いなく、密かに心に描いていた隠者の生活へ踏み出して行くことができるようになった。そのお礼奉公の意味もあって、玉堂は冬から春にかけて雪深い会津の地で約半年間過ごして、引き続き楽人達へ神楽習得の指導にあたったのである。
                                         


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