2005年08月13日(土) |
三村一族と備中兵乱18 |
猿掛け城の城代は荘一族の荘実近であったが急を聞いて松山城から駆けつけた荘為資は世に聞こえた猛将だったので勇みたって城兵に下知した。 「敵に城下を焼かれるのを遠くから見ようるわけにはいかんじゃろう。すぐに撃って出て家親を追い散らし、元春と直ちに勝負を決しようぞ。まず、千余騎を従え、為資が自ら三村家親の手勢を攻撃する」 ついで藤井四郎次郎に向かって 「お主は五百騎で三村の後陣をうつように見せかけて元春の本陣へかかれ」と命じた。そして 「自分は家親を追い散らしてすぐに元春の陣へ切ってかかる。前後からかかれば元春がいかに勇猛であろうと備えが乱れて戦にはならんじゃろう。しかし三村家親の兵が引かないうちに元春に襲いかかってはおえんぞ。引く敵と一つになつて追いかけ、不意に懸かって切り崩すんじゃ」 と作戦を立て合図を決めて敵の様子を窺っていた。
陽もやがて西へ沈みかけたので家親は士卒に向かって 「兵法にいう鋭く迫ってくる敵は避けて、緩んできた敵は討つべしとは、今のような状況の時のことじゃ。さあ、かかるぞ、ものども続け」 と下知して、自ら千余騎を率いて撃って出た。そして味方陣営の田治見、石賀伊達などには 「兵五六百騎を率いて右の永田山に上がって、元春の本陣へ懸かるような態勢をとるよう」 指示した。
為資は三村勢が兵を引く後をつけて、射手を先行させて追いかけたところ家親は作戦を見破って、とって返し応戦した。 「日が暮れた。夜になってはたとえ一戦に勝ったとしても、引き退くことが難しい。敵から離れて引き揚げることにしよう」 と家親が考えていると藤井四郎次郎が半月の指し物に緋縅の鎧を着て黒い馬に跨がり五百騎ばかりの集団を率いて一挙に襲いかかった。家親も対抗する術がなく、 「ひけ、ひけ」 と下知して屋陰を目指して引き揚げた。
吉田から出張ってきた志道次郎四郎、椿新五郎左衛門、臼井藤次郎、桜井某らは三村軍に加わっていたが、 「味方が敗北するのは口惜しい。おめおめ逃げては吉田勢の面目がたたぬ」ととって返し抗戦し四人は華々しく討ち死にした。
藤井四郎次郎の軍勢はいよいよ勝ちに乗じて鬨をあげ、やがて元春の旗本を目指して進んできた。元春はこれを見て二千騎を二手に分けて陰陽の備えをとり射手を左右に進めて「吉川元春これにあり、恐れて逃げるか、悔しかったら引き返してきて我と戦い討ち死にせよ」 と大音声を張り上げた。この頃中国地方では大猛将として名高い元春に目の前で名乗られると藤井軍は怖じ気ついて、突撃をやめ馬を一所において徒に鬨の声だけをあげているだけであった。そのありさまは、ちょうど獅子が一吼えすれば百獣が慌てふためくようなものであった。
このとき家親軍を援護するため河原毛の馬に打ち乗り鍬形打った甲に黒具足を着けた武者がただ一騎、道の小高い所へ馬を乗り上げ 「井上河内守はここにあり、井上の者共はここへ集まり来るべし」 と呼ばわったので源五郎、源三郎、与三右衛門、右衛門大夫、玄蕃をはじめとして五十騎ばかりが井上の周りに集まった。いずれも弓の上手であったので、鏃を揃えて散々に発射した。この井上の手ごわい反撃にたじろいで、追手の藤井四郎次郎の一団も深追いすることなく引き揚げた。緒戦はこのようにして日没引き分けとなった。
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