2005年08月12日(金) |
三村一族と備中兵乱17 |
八、猿掛け城攻め 毛利元就と誼を通じた三村家親は備中の城を殆ど制圧し、一族の豊富な人材を配置して武威を誇っていたが、荘為資の拠る猿掛け城と松山城だけが自分の意のままにならない尼子方の城であった。中国地方はいずれ、尼子と毛利の決戦で雌雄が決まると考えた家親は尼子攻略の手始めに猿掛け城を攻撃することとし、再び五郎兵衛を元就の許へ派遣し応援を頼んだ。これに先立ち荘の領地内へは中村家好を頭とする諜者団を密かに潜入させた。
この時代は謀略の時代であった。多くの紛争は合戦で決着がついたが、それは結果であって直接武力が激突する前に諜報活動が密かに繰り広げられ、諜報・謀略戦で敵方にダメージを与えておくことが、合戦の帰趨を左右した。勝つためには諜報・謀略を用いることは卑劣なことでもなく恥ずべき行為でもなく、相手の裏をかいたり奇策を用いる作戦が知謀・利巧として高く評価された。汚い手段を用いて卑怯と非難されても、恬として恥ない図太さを戦国大名達は備えていた。和睦と離反、懐柔と背信、連合と裏切りが日常茶飯事の如く、起こるこの時代においては、疑心暗鬼に陥り必要以上に用心深くなり、かえって罠にはまりやすくなることがあった。 家親が猿掛け城に放っておいた諜者団には、琵琶法師や乱舞の芸人などがいた。また、芸州仏通寺の沙門が托鉢するのに紛れて出家を数人作りたて敵国へ潜入させもした。彼らの情報を分析して、猿掛け城を攻撃する時は今だと判断し、応援依頼の使者を派遣したのである。 家親の依頼をうけた毛利は盟約に従い、元就、隆元、元春の親子三人で、天文23年(1553年) 二月初旬芸州吉田を出発した。元就隆元の二人は、備中国伊末井原に陣を張った。猛将として知られた元春は自信満々備中猿掛け近くまで打ち出した。 三村家親は先陣として千五百騎を猿掛け城下近辺の屋陰へ繰り出し、村々に放火して相手方を挑発した。
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