せきねしんいちの観劇&稽古日記
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2004年01月23日(金) |
平常「毛皮のマリー」@GALLARY LA CAMAERA |
一人芝居人形劇の「毛皮のマリー」。 ギャラリーのほんとに狭いスペースを使っての上演。最初はどうなるんだろう?と思ったモノの、思い切って、桟敷の真正面に座って、大正解。うしろにすわったマダムたちのノリのよさにも助けられて、とてもおもしろく見ることができた。 こんなにちゃんとテキストが立ち上がっている上演は初めてだと思う。かなり満足。いい気持。二場の終わりの巨大な蝶が登場する場面、僕だったらどうするだろうとずっと考えたたんだけど、今回の演出は大成功だと思う。 人形は、不思議な愛らしさでどれも素晴らしい。顔だけのマリー。胴体だけの水夫。スポンジの指人形の美女の亡霊。美少女は、片手扱いの人形。にゃんちゅう(教育テレビ)とドキンちゃん(アンパンマン)を混ぜたような、かわいらしさ。 演じる平常くんは、22歳という若さだけど、実にきちんと観客に向き合っている。客の視線に鍛えられたというかんじ。このくらい美しくないと「美少年役」はできないんだろうなと改めて思う。二の腕の筋肉の隆起もとってもきれい、二枚重ねのタイツのモアレもセクシー。 一人きりで演ずる人形劇というのは、初めて見たのだけれど、平くんは、1時間40分の長丁場を、見事に演じきったと思う。最終場は、やや情緒に走り過ぎというか、やや間延びした感があったけれども。 「毛皮のマリー」という芝居のラストについては、いつも考えることがある。長大なエピローグをくっつけて、全然違う芝居にしちゃた美輪さん版はもとより、どうやって終わるのがいいんだろうと。 今回の演出でも、マリーの笑いが泣きになっていくという運びだったんだけど、どうなんだろう? 美輪さんも泣いてたけどね。 僕は、もっと違うものがあるような気がする。「母もの」としての「泣き」にもっていくのが、芝居の終わりとしてはおさまりがいいのかもしれないんだけど。もっと非情なものがあっていいんじゃないかって。テキストを読む限りは、これっぽっちも母ものじゃないと思うんだけど、どうなんだろう? 非情なニセ母が、自分のコピーを作り上げて、婉然とほほえむというラストじゃだめなんだろうか? その方が怖いし、怪しいし、まっすぐな気がするんだけど。 僕は、「毛皮のマリー」のラストでマリーが泣いてるのを見るたびに、いつもどうしてなんだろう?と思ってしまうんだった。それは今回も。 最後にマリーの人形を「死んだように」横たえて終わるときに、それまで操っていた平くん=美少年に、何か変化があるとおもしろかったかもしれない。 ともあれ、とっても満足。終演後、監修のヘンリックさんに挨拶して帰ってくる。
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