せきねしんいちの観劇&稽古日記
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2004年08月29日(日) 台風が来た

 台風で雨降り。雨降りでとっても寒い、こんな8月ってなんだろう?

 夜中、録画しておいた、蜷川幸雄演出、野村萬斎主演「オイディプス」@ギリシャ ヘロデス・アティコス劇場)を見てしまう。
 野村萬斎は、様式的な表現が先行して、何かが足りない気がする。
 麻実れいは、見事。ラストの絶叫、あられもないかんじがものすごい。
 他の男優陣も見応えがある。
 ただ、男性コロスの叫んでばっかりなところにどうしても違和感がある。
 もともとコロスって、自分の気持ちをきっちりと伝えてればいいんじゃないのかな?
 叫びは自分の感情のたかまりなわけだけれど、主人公以上にたかまってる理由がわからない。
 このあいだ、大沢健さんと話した築地本願寺で見た蜷川さんの「オイディプス」のことも思い出す。もう二十年近く前の舞台だ。
 京の四条河原に集まる遊芸人たちという設定のコロスたちが、延々と泣き続ける演出に僕はほんとうにうんざりした。
 主人公の悲劇をともに悲しむ群衆というのはまあいい。でも、それだっても、最終的には笑うんじゃないかな? 泣いて泣いたあげくに、すっきりする、もしくは笑う、群衆っていうか大衆ってそういうものなんじゃないかと思う。
 その少し前に見た同じ蜷川さんの「にごり江」は、樋口一葉の切ない女たちの物語がつむがれた最後、舞台にいくつものテレビモニターがあらわれ、今の番組を映し出す、それと同時に響き渡る人々の哄笑の中、幕は下りる。
 これだよね……と当時の僕は思ったんだった。今もその思いは変わらない。
 だから、今回の蜷川さんの「オイディプス」はやっぱり納得がいかないものが残った。
 野外劇場ということもあり、声に比重のかかった演技だったせいもあるかもしれない。
 蜷川さんの「メディア」のコロスも、こんなに絶叫しない。
 押さえた声で情念を伝え、一番重たい感情は津軽三味線の響きが担っている。
 たしかに「オイディプス」は、「メディア」と違って、情念よりは、謎解きが優先される独自の構造をもつ悲劇だ。出生の秘密を探らずにはいられないオイディプスの情念が物語を動かしているのは間違いないが、コロスが一緒になって泣いても、妙に余計なことをしているような気がする。
 だとしたら、どんなコロスが可能なんだろう? いろんなことを考えた。
 この芝居のコロスは街の長老たち。風のように、もっとすっきりといることはできないだろうか。もっと枯れたかんじで。観客と一緒に悲劇を受け入れ、許していく、そんなコロスだったら、どうなんだろう。
 ラストにコロス達が笙を演奏しながら、粛々と去っていく姿が美しい。でも、この情景があんまり唐突な気がするのは僕だけだろうか? 気持はつながってるんだろうか? この情景をベースに全編やってほしかった気がするなあ。


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