せきねしんいちの観劇&稽古日記
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2004年11月25日(木) |
「喪服の似合うエレクトラ」@新国立劇場 |
富士見ヶ丘小学校の演劇授業、明日の学習発表会の本番に向けての最後の練習。 熱は全く下がらず、それでも出掛ける。 体育館で、本番と同じようにやってみる。 青井さんの質問に子供達が即興で答えていく。 マイクの使い方、ちゃんと並べるかなどなど、やらなきゃいけないこともりだくさん。 もちろん、自分の言葉でちゃんとしゃべるというのはもっともっと大変なことだ。 みんなの言葉を詞にして、小椋圭さんが作曲してくれた「思い通りにならないけれど」を初めて聞く。なんていい歌なんだろう。 終了後、校長室で明日、明後日のお題を先生方と一緒に考える。 帰り道、新国立劇場に電話して、「喪服の似合うエレクトラ」の当日Z席があるかどうかを確認。もし、まだ残ってたら、今日出掛けようと決めていた。 まだまだあるという状況だったので、出掛けることにする。熱があってもしょうがない。教師か行けそうにないので。 青井さんも新国立で「椿姫」を見られるということだったので、開演までをご一緒する。 初台の奥の方の甘い物やさんでうどんをごちそうになる。
「喪服の似合うエレクトラ」18:15開演。 ギリシア悲劇のアトレウス家の物語を、南北戦争直後のアメリカを舞台に翻案したユー人・オニールの代表作。演出は栗山民也。 以前、同じ新国立で「夜への長い旅路」を見て、大感動したぼくとしては見ないわけにいかない。 ギリシア悲劇のエレクトラにあたるラヴィニアに大竹しのぶ、クリュタイムネストラにあたるクリスティンに三田和代、オレステスにあたるオリンに堺雅人、アガメムノンにあたるエズラに津嘉山正種、アイギストスにあたるアダムに吉田剛太郎。 大竹しのぶと三田和代の二人の女の戦いが圧倒的。 演技の質が全く違う二人が火花を散らす様子はとんでもなかった。 一幕の半ば、ようやく帰還したエズラを迎える女たち。「おやすみにならなくては」と何気なく言って、ドアに手を掛けたクリスティンが何かに気がついたように振り返る。それまでに、エズラとの生活がいやでいやでたまらないと話した後だけに、この先に待っている「寝室」がどれほど彼女にとっての地獄かということがよくわかった。三田さんは、その恐怖を彼女自身の驚きとともに一瞬で見せてくれる。しかもあざやかに。これ以降の一幕は、圧倒的にクリスティンの視点で見せられてしまう。 1幕の最終場。夜中、ベッドを共にしたエズラとクリスティン。ベッドから抜け出したクリスティンにエズラが声を掛ける。ここから始まる二人のやりとりもものすごかった。 自分を愛していないのだろうと聞くエズラに、そのとおりと答えるクリスティン。 「そんな目で見ないで」「どうして? お前は目をつぶってるじゃないか」というやりとり。 目を閉じたままでいいから話そうというエズラと、それに応えて、本当のことを話していくクリスティン。アダムとの関係を。そして、エズラが心臓病の発作を起こす。 これ以降は、ものすごいものを見たという記憶しかない。心臓病の薬のかわりに睡眠薬を渡そうとするクリスティン、「違う」といって受け取らないエズラ。エズラが息絶えてしまった直後に、飛び込んでくるラヴィニア。クリスティンは睡眠薬を手に、あられもない姿で失神してしまう。すごい幕切れだった。 2幕では、アダムが帰ってきたオリンによって殺され、事実を知ったクリスティンが自殺する。クリスティンを演じる三田さんは、オリンに「ウソ」を吹き込むのだけれど、それをちっともウソではなく、彼女自身が信じていることとして語っているのがすごかった。上手にウソをつくんじゃなくて、自分でも信じてしまっているっていう彼女自身のその状態のあやうさの表現。なかなかできないことだと思う。 終幕、ラヴィニアに一瞬だけ手をさしのべて、そのまま部屋へ行ってしまうクリスティンの姿がいつまでも印象に残る。 3幕は、母親の死んだ後、南の島に行き戻ってきた兄弟のその後。ラヴィニアは、母親にそっくりになっている。その変貌にとまどうオリンは、混乱して自殺してしまう。ラヴィニアはこれからずっと一人で生きていくことを語って幕。 ぼくは間違いなく、二人の女優の対立を基本にこの芝居を見てしまっていたので、三田さんがいなくなった後の、3幕はややつらいものがあった。 オリンとクリスティンの対立がいまひとつあざやかにたちあがってこないということと、瞬時にくるくると優劣が入れ替わるとんでもなくスリリングな戯曲の構造が見えてこなくなってしまったからだ。 それでも、すごいものを見たという気持はかわらない。 もちろん、文句もいろいろある。 アダムはどうしてあんなに内向した台詞のしゃべり方をするんだろう。港のシーンでは、クリスティンとの二人芝居が、とっても成り立ってないように見えた。あんなに自己中心的な男が二人の女に愛されてる理由が全く見えない。 オリンに撃たれて死ぬところで笑いが起きたのは何でだろう? 笑う観客もどうかと思うけどね。 この家に仕えている召使い役の男性の芝居がどうにかしてほしいくらいつらかった。シェナンドー河などの歌を歌うんだけど、その歌を歌う言い声のままで、とんでもない大芝居をしてる。港町の酔っぱらいも同様。 大竹しのぶは、かたくなな娘をまっすぐに表現していたと思うけれど、受けて立つ三田さんがいなくなってから、相手を失ってしまって、よくわからなくなってしまった。 堺雅人か、西尾まりがもっと彼女に見合うだけの大きさだったら、よかったんだろうか? 上演時間4時間という心配は、思い切りの杞憂だった。 もっとも、第三幕が始まるととたんに時計はゆっくり進み始めるけれども。 「夜への長い旅路」は三田さんにとっての「オンディーヌ」かもしれないと書いたけど、今回思ったのは、三田さんがかつて演じたラシーヌの「フェードル」の延長にこのクリスティンがあるんだろうなということだった。 四季でたたきこまれた朗誦法と台詞の解釈は完璧といっていいと思う。20年前のフェードルは正直ちょっと退屈だったけれども、今回のクリスティンは、彼女自身の肉体との葛藤という大きな視点をくわえて、登場人物の中で唯一、神話的人物の大きさをそなえていると思う。 「おやすみにならなくては」と言って、驚いて振り返る。何度かマネしてみたけれど、どうやっても、説明的な芝居になってしまう。説明でなく、新鮮な驚きがまっすぐ伝わるような演技。どうするとそんなことができるんだろう。いろんな場面の台詞を思いかえしながら、芝居について演技について、考えた。
芝居について考えてばかりの帰りの電車の中で、人の話し声が耳についてどんどんいらいらしてしまう。さっきまではなんともなかったのに、また頭がぼーっとしてきた。 少し考えるのをやめて、眠ることにする。 家にたどりついて熱を計る。38度ちょうど。すぐに寝る。
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