せきねしんいちの観劇&稽古日記
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2009年02月02日(月) ご挨拶(当日パンフより)

 PCサイトの「「ジェラシー 夢の虜」「ミッシング・ハーフ」のページにはアップしたのですが、こちらにも載せておきます。どうぞご覧ください。
 
「ジェラシー 夢の虜」

 川島芳子のことを初めて知ったのは、有吉佐和子原作のテレビドラマ「開幕ベルは華やかに」だったと思う。川島芳子が主人公の舞台のバックステージで起こる殺人事件を描いたミステリー。といっても、2002年の正月特番のドラマとして放送された、浅野温子と風間杜夫が主演して、加藤治子が川島芳子を演じる大女優を演じたものではなく、1983年に原作が出版されたのとほぼ同時に放映されたドラマの方だ。主演は、中村敦夫に白川由美、川島芳子を演じる大女優は高峰三枝子だった。僕の中では「川島芳子」というとどうしても高峰三枝子が演じる姿が浮かんでしまい(!)、なかなか実際の川島芳子の顔はイメージできなかった。
 今回、ほとんど初めて様々な資料にふれ、川島芳子の写真を見た。思ったのは、一枚ごとに全然違う顔をしているということだ。ほぼイメージどおりの男装している写真、日本髪に結った着物姿、モンゴル式の花嫁衣装を身につけた姿、そして、晩年の質素な普段着、同じ人物とは思えないくらい、バラバラだ。
 1932年、「男装の麗人」という小説を書くために、村松梢風という作家が、上海の屋敷で川島芳子と一緒に2ヶ月暮らした、という事実は、ほとんどの資料に書いてある。でも、そこでの暮らしがどんなものだったか、どんなことが起こったのかは、どこにも書かれていない。
 「ジェラシー 夢の虜」は、その書いてなかったことを存分に書いてみた作品だ。史実には、ほぼ忠実に沿いながら、いくつもの大きな嘘を盛り込んだ。歴史年表からは絶対にうかがい知ることのできない、人物の息づかいや足音と一緒に。
 1932年の2ヶ月を誰もがちゃんと書いてくれなかったことに、今ではとても感謝している。おかげで、年表を追うような一生の物語では描けなかった彼女に出会うことができた。
 最近、川島芳子が生きていたというニュースが報道された。処刑されたのは身代わりで、本人はひっそり戦後を生きていたというのだ。嘘か本当か、すでに彼女がなくなってからの報道なので、真偽のほどはわからない。
 いずれにしろ、今はもうこの世にいない川島芳子が、僕にはとても身近に感じられるようになった。どれが本当かわからない彼女の顔、そのわからなさこそが、彼女なのだろう。だが、そのどの顔の裏側にも、底知れない寂しさが透けているように思えてしかたない。


「ミッシング・ハーフ」

 映画「雨に唄えば」は大好きな作品だ。映画がサイレントからトーキーに移り変わる過渡期に、声の悪い大女優の声だけを演じることになる新人女優が、最後には大スターになる。ジーン・ケリー、デビー・レイノルズ、ドナルド・オコナーの演技が楽しい。でも、いつしか、声の悪さでスターの座を奪われる女優リナ・ラモント役のジーン・ヘイゲンがとても気になるようになっていた。
 サイレントからトーキーへの移り変わりという話を最初に目にしたのは、市川崑が撮った金田一耕助シリーズ「悪魔の手毬唄」だ(主演は岸恵子!)。物語には、トーキーの登場によって職を失った活動弁士が登場する。そして、映画の中で断片が映し出されるのが、日本で公開された字幕(スーパーインポーズ)付映画第一作の「モロッコ」だった。
 日本映画の草創期、映画には女形の俳優が多数出演していた。「女優」というものが生まれたのは、1908年に川上音二郎が帝国女優養成所を作って以来。まだ100年の歴史しかないことになる。1919年9月に花柳はるみが「深山の乙女」「生の輝き」に出演したのが、「女優」というものがスクリーンに登場した最初なのだそうだ。
 それまでは当然のように女を演じていた女形たちは、女優が女を演じるのが当たり前になっていく時代の変化の中、どうしていったんだろうか?というのが、「ミッシング・ハーフ」を書き始めた最初にあった思いだ。
 女形をやめて成功した人物としては、映画監督の衣笠貞之助がいる。では、成功できなかった人はどうしたんだろう?
 サイレント第一作の「モロッコ」。モロッコという国の名前には、タレントのカルーセル麻紀さんが性転換の手術を行ったところというイメージも強くある(僕らの世代ならではか?)。
 落ちぶれたサイレント映画のスターという存在は、ビリー・ワイルダーの「サンセット大通り」でも鮮やかだ。グロリア・スワンソン演じる女優、ノーマ・デズモンドは、世界的に有名な、ゲイが大好きなキャラクターの一つになっている。
 そんなこんなの吹き寄せ、寄せ集め、不思議なつながりが、この「ミッシング・ハーフ」という作品になった。
 たしかに生きていたという証はどこにもない、でも、もしかしたらいたかもしれない、いや、きっといたにちがいないと思えてきた大勢の彼ら、彼女たちに、この作品を捧げたいと思う。

 本日はご来場ありがとうございました。最後までごゆっくりご覧下さい。

 関根信一 


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