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■ お絵描きできない子
半日以上子供と接していたら、 その年齢くらいだった頃のことをいろいろ思い出した。
芸術関係を司る脳部分に障害があったのか 手先に障害があったのか およそ美的センスもなく、ありえないほど不器用だった私。
幼稚園でのお絵描きで「人」といったら △の体に○の頭、足は棒 という記号のようなものしか描けず、 またそれを大きな画用紙の隅っこから ちりばめるようにしてちっちゃく描くといった 端から見ると、精神異常児と思われてもおかしくない有様だった。 今でも覚えているが、 その画用紙全体を公園の敷地と見立てその中に遊んでいる人を描く為、 どんな遊具を描き、どんな構成にするのか それを考えるとワクワクした。 それが私の絵を描く時の楽しみだったのだ。 つまり、「絵」という美的・芸術的想像力の具象化でなく 遊びたい という気持ちを知的な想像力で癒しているだけに過ぎなかった。 周囲の子供たちように 画用紙いっぱいに大きな絵を模写的に描くなんて一度も無かった。 今にして思えば、哀れとさえ思える。
これは小学生になっても変わらず、 「模写なんてカメラの仕事だもん」 とブーブー言っていた。 3Dをどうやって2Dに描き表せるんだ? 無理に決まってる! 笑えるほどの芸術的センスの無さであった。 リンゴは丸くて赤。 物とは記号でしかなく、 数多の色を持つなんて想像することは難易度が高すぎた。 なぜ周囲の人が普通に持っていた絵を描くという技術を まるで持たずにいたのかはわからないが、 もともとの興味すらもなかったので、全く精進することはなかったw
書道も然りだった。 斜めっているわ、長い半紙の途中で終わっちゃってるわ 歯が痛い人が書いたかように歪んじゃったり 留め部分はみんなぶやぶやに滲んじゃったりしているわ もう最悪だった。 もともと嫌いだった自分の名前も、イライラの原因となった。 画数が多くバランスも取りにくいので、潰れてしまうのだ。 塗り潰すまで練習しよう! と先生が言っても、 一度書いてしまった上に書いても見えないじゃん と、隙間なく黒く塗り潰して遊ぶだけ遊ぶという全くの感性なし。 これだけ能力の欠如している子を面倒みることができる スキルのある先生などいやしなかったし、 当時はそういう個別教育なんて合言葉だけで、実践はなかった。
努力もしない癖にプライドは天井より高かったので、 全員の絵や書道を壁に張り出されるのはいつも苦痛だった。 悪い点を取ったテストのペーパーを貼り付けて晒しておくか? なぜ、絵や書道だけ晒しものにされなきゃならないんだ 上手い絵だけ飾っておけばいいじゃないか と、忸怩たる思いでいっぱいだった。
しかし、夏休みの絵だけは賞が貰えそうなほど上手かった。 父と長姉がプロの画家という家に育った母が、 丁寧に手解きをしてくれたからである。 「小学生の頃、模型の家作りを手伝って貰おうとしたら ハマった父が格子や雨樋なんかもある本格的な模型を作っちゃって どうみても子供どころか大人も作れなさそうなプロ仕様になって 持っていったら、先生に叱られたわ」 と笑っていたが、その歴史を繰り返しているようなものだった。 その祖父の血は、ドールハウス作りが好きという形で孫に残ったが、 惜しむべきかな、肝心の才能が何一つ遺伝されなかったようで・・・。
そうして、大人になって。 国語教免には「書道」の単位が必須というイヤな展開へ。 いつの時代なんだよ?!と腹立たしかったが仕方がない。 全員が大学展への出展を命じられ、 授業中では埒があかず、2部生に混じって練習するハメに。 挙句、先生も呆れるほど超ドヘタなものしかできないまま時間切れ。 下手糞な文字が張り出される(しかも、池袋PARCOに) という屈辱を20歳過ぎても舐めることになったのだった・・・。
って、幼稚園児時代の思い出どころか現在に至ってんじゃん?!
2007年01月09日(火)
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