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■ 写真
写真というのがどーにもこーにも苦手でして。 何かを残す、というのは嫌いではないのですが(>大体、この零細日記を10年続けているのもどうかと思うが)なんかねーって感じです。 小学生の頃の写真がひょんなことから発掘され、母親から渡されたのですがいやはや”まんまる”って感じで。 あー、おぼえてるー。これは遠足のときのだ。この”まんまる”が嫌いだったなぁと。 まっ、その後はよくある成長期ってこともあり、体型は一時改善されたんですけどね。
で、学生時代になるととたんにプライベートでの写真がなくなる。 もともとが写真を残す、ということにあまり価値をおいてなかったということでもあるし、それよりも写真を撮ることで「覚えておきたいこと」をそのよすがにするのがなんか潔くないなーとも思っていた節がある。 だから、せっかく旅行に出かけてもほとんど写真を撮ってない。それが風景であっても、だ。
いわんや、自分がどこかにいる、という写真などあるわけもない。
自分が抱えることの出来るものには限りがあって、それをあふれてしまったら手放すしかないよね、と思ってた。 自分の覚えておきたいことだけを覚えておきたいから、写真なんかいらないと思ってた。
しかし、今振り返ってみるとそれが時々とても惜しいことをした気がする。 巡検の時の自分がどんな顔をしていたのだろうか。そんなことをもうボクは覚えていてない。 そう、学生のあの、「青春」を謳歌していた時代こそが写真というものが一番似合っていたのに。それはプリクラのようにそのときを凝縮したもので、そのときにしか撮れない。 プリクラなんて、結局は数を集めることで寂しさを紛らわしているだけじゃないか。と当時は思っていた。 でも、それだって今思えば、「あり」だったんだなぁと思う。
学生時代を振り返ればどうして”あの時は”と少しほろ苦さが漂う。
今を未来から振り返ればきっと同じことを思うのだろう。でも、誰かと何かを共有するということは、自分だけではどうにもできないことをshareすることでもある。 だから、誰かと何かを分かち合うには写真というよすががあったほうがいいのかもしれない。そんなことを最近思ったのだ。
学生時代の友人の写真をほとんど持っていない。 その時に仲のよかった人も、つきあっていた人も、後輩も、先輩も、先生も。全部ボクの記憶にだけにしかない。
時々、そのことが喉もとに引っかかったトゲのように。
2010年10月06日(水)
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