来週始めが引越しで、だいたいの荷造りを終え、ようやく少し落ち着いた。これから業者のトラックが来る。後は大阪の新居で搬入に立ち会うだけだ。まとまった荷物を見ると、いわゆる生活必需品は別として、驚くほどに持ち出してゆくものが少ない。CDプレイヤーと、木刀と、本が数冊。なるほど、私は趣味なるものに縁遠いようだ。荷物を整理するとともに、実家の自室をいくらか片付けたものの、なにせ持って行く物が少ないのだから、見た目ほとんど変わらない。それでも、当分帰ってこないなぁという気持ちのせいなのか、部屋にはどこか寂しそうな雰囲気が漂っている。
この六間の部屋には、治外法権が適用される。煙草についての治外法権。母と妹の意向で基本的に我が家は全面禁煙のはずだったのだが、いつのまにやら、私の部屋は、常に煙草の腐臭を漂わせる場所となっている。最初は、戸外の空き地で吸っていた。次に、窓から身を乗り出して吸うようになった。今では、机の上に蓋付きの吸殻入れが堂々と置かれている。もはやチェーン・スモーカーとなりつつある私には、いちいち外へ出て吸うということがあまりにも面倒になってしまった。
部屋のドアを開け放しにしておくと、臭いが廊下をつたって家中に漏れるので、基本的にいつも閉め切っている。そうすると部屋の中で煙草の煙が満ち満ちてしまうので、窓を開けざるを得ない。夏はまだ良いが、冬は寒くて仕方ない。それでも窓を開け、煙草を吸う。壁はところどころ煤けていて、布団には煙草の臭いが染み付いてしまっている。それでも、吸い続けている。そんな部屋に、最近、父がやって来るようになった。煙草を吸いに。
去年の終わりごろ、「俺は禁煙するぞ」と父は表明していたが、どうやら数日かそこらでダメだったらしい。夜中に私が自室で何事かしていると、玄関のドアが開く音がする。父が帰宅したようだ。暫くして階段をのぼってくる鈍い重たい音がする。いったん私の部屋の前で止まり、ドンドンとノックをして、入ってくる。「臭ぇなぁ、お前の部屋は」。たいてい最初にそう呟いて、「ちょっと、ちょっと一本な」と言って私に煙草をねだる。もちろん、彼は酔っ払っている。今年に入ってから、たいていこんな感じで、父は私の部屋に煙草を吸いに来る。
私は仕方ねぇなぁという顔をして、煙草を差し出すと、父は床にどっかと座り込んで、実にうまそうに煙を味わいだす。「禁煙してるんじゃなかったけ?」。私が問い質すと、いつも笑って流すのだが、酒のはずみとでも言うのか、この前ぽろっと口にしたのは、「まぁ、お前とこうして煙草を呑めるのも、もうないんだから」。そういうことらしい。ともかく、毎夜毎夜、父は煙草を吸いにやってきて、取り留めの無い話をして、一本か二本煙草を吸い終わると部屋を出てゆく。ただ、先日は少し違っていた。入ってくるなり、何か手に持った物を私に差し出して、さっきこれを買ったんだよ、と。
手渡されたのは、何かのCDだった。「さっきな、これを駅前で買ったんだよ」。安っぽいつくりのそれは、どうやら誰かの手による自作のCDだった。「いやさ、駅前で、なんだ、そう、ストリートミュージシャン、演奏しててさ、おっ、と思って。なんか綺麗な歌声でさ。歌詞もなかなか、素直でいいんじゃなかなぁって。最後まで聴いてたら、俺だけ残ってて、彼らの一人から、名刺渡されて、ありがとうございますってさ」。「で、おれ、カンパしようと思ったら、CD作ったんです、って。500円でさ。じゃぁ、それ買うよ、って。んで、買ってきたんだよ。これ、ちょっとさ、かけてみろ。」
私はまず、そんなものを父が買ってくることに驚いていた。言われるままにCDプレイヤーで演奏を始めると、シンプルなギターの音色をバックに、高い音色の女性ボーカルが流れ出す。付属の歌詞カードを見る。残念だが、私の好みでは無い。どこにも毒の無い、ただただ綺麗なラブソングで。歌声が綺麗なことは印象に残ったが。歌詞を眺めながら歌を聴いていると、父は構わず話し続ける。「俺はさぁ、けっこうこういう、なんだ、ストリートミュージシャン、見てきてるんだよ。週に一回くらいか。んで、いいな、と思ったらカンパするんだ。地元の駅前でやってるのは初めてでさ、聴いてると、なかなあいいなぁと思ってさ」。
ますます驚いた。週に1回、って。そんなにどこで見てるのかと尋ねると、「池袋辺りにはいっぱいさ、いるんだ」と答える。「こういうさ、若者の、夢っていうかなぁ、いいなぁ、って思うんだよなぁ。俺に何か、手伝えないかなぁ、って。音楽のこと詳しければさ、ここをこうしろとか、アドバイスできるんだけど、俺は別になぁ、才能ないからさ。いや、何か力になってやりたいって思うんだよ。ほら、あれ、モンゴルなんとか・・・」。「モンパチね」。「そう、あれもさ、ストリートミュージシャン出身って言うだろう。俺はさ、全国レベルで、コンテストできないかな、って。全国大会だよ。若い才能を、なんとかして咲かせてやりたいんだよなぁ。」
「もんだいはさ、判断基準をどこに置くかなんだよな。あいつ選んで、なんでおれが選ばれないんだ、とかさ、審査員を誰にするかとかな。だけどまぁ、やってみたいんだよなぁ」。「いや、それは、本気で考えてるの?」。「本気だとも。いつか、やってみたいんだよなあ」。ちなみに父は普通のサラリーマンである。ここまで来ると、完全に酔っ払いの話になってしまっているが、私は素直に感心していた。徐々に還暦が迫ってくる歳で、父が、こんな馬鹿馬鹿しい夢を語ることに。
「ストリートミュージシャン」という言葉さえ、考えて思い出しながらでないと口から出てこない、そういう音楽とはさして関係も無い父が、機会があれば路上ライブを聴き、良いと思えばカンパをし、そして全国大会なんていう途方も無い夢を持っている。あまりに馬鹿馬鹿しいじゃないか。そこが良い。仕事が忙しく、日々疲れは取れないだろうに、そんな夢を、漠然とではありながらも、抱いていられる、ただただ私は驚きながら話を聞いていた。
そのCDは5曲入りで、そのうちの2曲が終わった辺りで、父はいつものように、「いや、邪魔したな」と言って部屋を出て行った。別に邪魔でもなんでもない。面白かった。来月始めに私はこの家を出る。この先、この部屋で煙草を吸うことも無いだろう。部屋に染み付いた臭いも、いずれ消えるだろう。ただ、またいつか帰ってきたいなと、ふと思った。
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