Rollin' Age

2004年05月15日(土)
 素敵な消費者になりなさい

 父の話ですが。早くに男親を亡くし、高卒で働き始めてた。背広買う金も無くて、夏のボーナス出るまで学生服で通したという。給料の大半は家賃に取られ、まぁ節約に節約を重ねて日々を暮らしてたんだろうと推測する。ちょうど今の俺の年の頃は、休みの日とか、近くの河原の土手を歩きながら、物思いに耽ったという。読書がたいへんに好きで、だけど金が無いから、古本屋の書棚とか見てるだけで幸せな気分になった、それで我慢したのだとか。まぁ、酔っ払った時にぽろぽろと話すことを俺が勝手に想像を加えつつまとめてる部分もあるだろうので、実態とは少し違うかもしれない。

 で、俺の話ですが。父が働き始めた年の頃、大学生として何をやってたかというと、自分で稼ぐわけでもなく、ひたすら親の脛かじって遊び呆けてた。ようやく社会人になったらしいが、いまいち責任感とかやる気に欠けている気がする。今日さっきスーツをポンと買ってきた。読みたい本がありゃそれも買う。一応自立した生活を送っているが、大学の学費は全部出してもらい、引越しの準備とか、新生活の枠組みはほとんど全てを整えてもらって、今の生活がある。かなり支援してもらったから、余った金で好きなものを買える。金銭面で、緊迫感とか切実さとか、無い。

 「やっべー洗濯物溜めてたら明日着るシャツ無くなっちゃったよ」となると、コンビニで996円のシャツを買えばいい。「あー、料理するのめんどう」ならば、近くのレストランとか行けばいい。休日はどう過ごすかというと、とりあえず「より良い生活」を求めて、もっと具体的に言うと、「近くにTUTAYA見つけたー」とか、「雰囲気の良い喫茶店見つけたー」とか、「おいしいパスタ屋がこんなとこにあったー」とか。そういうのに飽きてくると、「も少し”有意義な”生活送んなきゃなー」というわけで「自転車買って周囲を散策してみようかー」とか「何か趣味の集まりとか近くでないのかなー」とか「ちょっと足を伸ばして京都を旅してこようかー」とか、さ。

 こっち来るとき、住まいには必要最低限のモノがありさえすればいいと思ってた。背広とYシャツ。寝る場所と、寒暖をしのぐ術と、慎ましい食事。それと幾つかの本。それだけで足りるだろうと思ったけれど、今、家の中を見回すと、自転車やら体重計やら本棚やら電話やらアイロンやらデジカメやら当初は無かったものが転がっている。勿論、電話やデジカメは仕事に欠かせないと分かったから買い、アイロンや本棚も暮らしてゆく上で必要になりつつあったから今あるのだけれど。よくまぁポンポンとモノが増えてゆくものだなぁと少し感心する。もちろんカネには限りがあって、今月は使いすぎてカツカツだ。

 けっきょく、カネだ。それをどう「好みに応じて」振り分けるか。どっちかというと、「必要に応じて」じゃない。街を回って、自分の気に入った店を探す。売り場回って、自分の気に入った商品を探す。それはもう、ただただカネを消費するだけの存在で、惨めに思えてならない。なんだか良く分からないモノに振り回されているような感覚。いかに素敵な生活を送れるか、いかに楽しい毎日を過ごせるか、いかに上手にカネを使えるか。そして気がつけば人生終わってました、としたら、あまりにも滑稽。


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