永久という名の瞬間
2004年03月31日(水) 出不精の理由

 HMVに行った。
 ヴィヴァルディの『調和の霊感』とコレッリの『クリスマス協奏曲』が、どうしても欲しかったから。

 横浜のHMVの前は、いろんな人がたむろっていて、私は好きじゃない。
 どう考えも怪しいおにいさんたちが、「怪しいひとじゃないから」と言って、近づいてくるのが嫌い。
 今日は行きだけで2人に声をかけられた。無視してもずっとついてくる神経はいかがなものか。うざい。

 これに遭遇すると、私は一気に人ゴミ嫌いに陥るのが毎回。
 HMVに逃げ込んでも、ポップスのあたりにはいられなくなっていた。
 クラシックの場所は、人少ななのが幸運で、私はとっとと逃げ込んだ。逃げ込んで試聴をして、嫌な思いを忘れてしまう作戦に出た。これは大抵上手くいく。今回も、ある程度成功。

 なんとか落ち着いてから、目的の品を購入してHMVを去った。
 せめて声をかけられないように、ちょっと小走りで道を横断。そこはかなりこんでいる道路なので、走るなんて大迷惑だけど、私はわが身の方が可愛いので無視。
 ラッキーな事に、話かけられずにすみました。

 こんな些細な事が、私を出不精にさせる原因だったりするのです。

2004年03月30日(火) 趣味

私の趣味は
 美術館巡り
 歴史探求
 読書@純文学思考
 クラシック音楽鑑賞
 購読雑誌は科学雑誌『NEWTON』


「ずいぶん高尚なものが好きだよね、あんたも」
 だいぶ前、誰かのツテでオーケストラのコンサートに行く事になったとき、母があきれて口にした。
 私の趣味はかなり硬派で、いかにも・・・なモノばかり。お金がかかることかかること。

 私は純粋にそれらが好きで。好きでたまらないけれど。
 私はバイオリンが弾けるわけでもないし、絵筆を握る事も無い。
 新しい歴史の解釈が出来るわけでもないし、読書もただ読むだけ。
 お金をかけた分、目だけは肥えてはいると思う。
 だけど、私は芸術と呼ばれるものに触ることはできず、外から観客として眺めるだけで。たまに酷く、虚しくなる。結局はどんなに憧れても、私が賞賛するそのものには、何ら私は関係がない。


 私はヴァーグナーが理解できない。
 彼の音楽は聴いてもイライラするだけか、つまらなくて寝てしまう。
 私はそんな自分の感性が悲しい。
 ヴァーグナーがいいと思えない事に昔は(ただ、フィーリングが合わなかっただけ)と済ませていた。だけど最近は、私の感性の貧弱さが現われているのでないかと怖くなってしまった。
 私は実は物事のいい物を、ほんの数%しか味わえていないのではないかと思うと、恐ろしい。
「私、クラシックが好きなんです」
 そういうのもおこがましいような気がするほど。


 うわべだけの綺麗さに、私は酔っているのかな。
 芸術を味わえないのなら、生きる気はしないと思った高校時代。
 というより、芸術を知ることが出来るのなら、生きてもいいやと思った。そう思ったから、私は生き延びたようなものだ。
 潤いのない人生のなかで、芸術は唯一の私のオアシス。
 だけど。私自身の受容体が乏しすぎて、芸術はあっても、受け入れる事が出来ないなら、あまりに虚しい。

2004年03月24日(水) 、「、����・磁磁

 心軽く簡単に読める本が好き。
 読めば現実から軽く飛んでいける本が好き。

 といっても、このところ歯が痛くて、頭痛まで発展した。
 本なんて読めないけど。頭痛薬を飲んだら眠気が襲ってきて、それはそれで幸せ。
私は現実から逃避できれば、幸せになれるのです。

 とはいえ、本読んだり寝たりばかりを繰り返す私の生活では、太らない方がおかしい。
 体重が、1キロ増えて。なかなか心に負担がかかりますね。

 明日から、ダイエットをしなくちゃな。
 4月までに1キロ落とさなくちゃ・・・

2004年03月23日(火) 凡人の喜び

 私は凡人で。
 それがある意味、誇りであり、安定剤でして。


 私は天才とは言われたことはないけれど、天才チックとは表現されたことが数度ある。
 『不思議少女』があだ名だし。どうもどこかが変わっているらしい。
 私としては、私はちっとも天才チックとは思わないし、不思議にも感じない。
 だから「私は凡人だよ」と主張するのだが、かえってくる答えは、
「いや、少なくとも凡人じゃあない」とのこと。


 TVにて「天才とは人よりも何かを持っているのではなく、人よりも何かが欠けている存在である」と、ビートたけしがコメントしていた。
 欠けた部分を補おうとして、別の部分が突出してしまうのだという。
 たしかに、サヴァン症候群や自閉症の方のお話を聞くと、その言葉は納得してしまう。

 皆が私のことを「何か欠けているっぽい」という意味で、天才チックと表現するのなら・・・私は天才チックなのかも知れないと思ってしまう。
 まず、自活できない人間で。一度自分の空想の世界に飛んでいってしまったら、現実に立ち戻ることがなかなかできない脳を持っていて。
 昔から、人が普通にできることができない。(といっても、気持ちの切り替えとか、同時進行で二つのことをやるとか、洋服を選べないとか、ささいなことだけれど)人の何倍もの労力を使い,平均的になろうとしているのは事実。
 日々を普通に過ごす能力を欠いているために、それを補おうと頑張っているのは事実。
 

 普通だということは、幸せだと思う。
 やはり何事も中庸がベターで。その中庸に近いのが、普通なのではないか、と思うから。
 端から端に触れる天才なんて、なりたくないし、そのような気質も持ちたくない。個性を得る代わりに、苦労を得るなんてばかげてるもの。
 私はごくごく普通だと、そう信じたいな。

2004年03月22日(月) mement mori

言わずと知れた、中世の某有名修道院のごあいさつ。
「メメント・モリ」で「死を覚えよ」の意味。
 通りすがるたび、こんなことを言い合ってた当時に天晴れ。

 我が家は日本によくいる中途半端な仏教徒ですが、幼い頃から「死の準備」をしろ、と言われて育ちました。
 まさにmement moriの精神。
 魂は中世と変わりありません。

『ねぇ、私、本当はね。死ぬことばっかり考えて、他の事頭に入らないんだ。
 明るいこととか、笑いとか、未来の話とか。平気でやってのける自身があるけど、それはやっぱり嘘で。本当は今日の夜中に死ぬことばかり思っているのです。
 それは私が一桁の年齢から思っていることで、貴方たちと一緒に過ごした時間もそうだった。
 髪を切りたいけれど。
 私はいま、口紅が欲しいけど。
 ネイルポリッシュが欲しいけど。
 勉強しようと思うけど。
 明日死ぬかもしれないと思うと、ついやる気が萎えるのです。
 この無気力、何とかしたいけど、だけど『私は明日も生きる』と思った瞬間、私は途方もなく絶望してしまう。一寸先は闇だからこそ、私は闇に期待して生きていけるのです。
 このジレンマ、どうしたらいい?』

 こんなコメントを、知り合いのBBSに書き込もうとして、あまりの馬鹿さに気づいた。
 必死に積み上げた嘘を、すべて白日の下に晒すのは、あほくさい。
 私は知り合いに、「私は嘘つきだよ」と宣言しているけど、何に対して嘘をついているのか、一切語っていない。それは私のテクニック。
 私の愛する人は、何も私のことを知らず、生きていけばいいのです。それは私の望み。

 つつかれたら噴出しそうな真実を覆って、私は密かに、着実に死の準備。
 死にたいという思いこそ、私の真実の全て。
 死は決して忘れない。

2004年03月21日(日) 都合のいい能力

 もう、昔みたいに勉強することはできないだろうなぁ。
 少なくとも、勉強することは苦痛でなかったあの頃。
 がり勉ができなくて悩んでいたけど、それでもコンスタントに机に向かって、問題をとりあえず解けてたあの頃。
 大学にはいっても、こうやって勉強するもんだと思っていたあの頃。

 あんたは数年後、ここまで落ちぶれるんだよ〜と、教えてあげたい。
 お前の努力は、すべてふいになるんだよ、と。
 それがわかっても、努力できますか〜?とたずねたい。

 未来が予測できないとは、人間にとって都合の良いことですな。

2004年03月20日(土) ねぇ。

誰か、私の人生、誉めてくれるかな?
・・・たとえ私が、自分で幕を引いたとしても?



誉められることなんて、望んじゃいないけどね。
ただ、なんとなく。
許されないことだからこそ。疑問に思うのです。

2004年03月19日(金) 愚かしい欲求

 他人の苦しみを知りたい。
 比較できれば、私はもう少し現状に我慢できるかもしれないから。
 だけどもし他人の苦しみを知ることができたとしても、その痛みを体験するのは辛いことだから、その能力は使わずに封印してしまうだろうなぁ、現実的には。
 私なんて、結局その程度の人間だ。

 くだらない愚痴を吐ける状態なら、まだ私は恵まれている。
 真の闇は、思考が停止すること。

2004年03月18日(木) 解読

 胸につかえている言葉を、早く解読しなければならない。
 この気持ちを成文化できなかったら、きっと私の命は終わり。
 どんなに身体が生き延びようと、私の命は終わり。
 そんな気がする。

2004年03月17日(水) のろいの言葉

 聖書を読む。
 私が好きなのはヨブ記とコヘレトの言葉。

 ヨブ記はとても敬虔な人間、ヨブという人の話。
 ある日神様がサタンに「ヨブほど素晴らしい人間はいまい」というと、サタンが彼の心を試してみようと言い出します。そのとき神様はサタンに「お前のいいようにしてみるがよい」と、恐ろしいことをOKしてしまうんだから大変です。サタンはこれでもかという不幸をヨブに与えるストーリー展開。

 苦しみを与えられているヨブののろいの言葉が好き。
 神をのろうことはしないけれど、自分の生まれた日をのろった言葉に私は同意する。

なぜ、労苦する者に光を賜り
悩み嘆く者を生かしておかれるのか。
彼らは死を待っているが、死は来ない。
地に埋もれた宝にもまさって 死を探し求めているのに。
墓を見いだすことさえできれば
喜び踊り、歓喜するだろうに。
行くべき道が隠されている者の前を 神はなお柵でふさがれる。
(ヨブ記3:20-23)


人は死んでしまえば もう生きなくてもよいのです。
苦役のような私の人生ですから
交替の時が来るのをわたしは待ち望んでいます。
(ヨブ記14:14)


 私の前世はヨブなんじゃないかと錯覚するほどに、私の心を簡潔に表現している。私では到底表現しえなかった表現で。
 さすが世界のベストセラー、2000年にもわたって読み継がれている作品です。


 ヨブ記とコヘレトの言葉は両方とも、「神の戒めをまもれ」で終了する。
 私はなるほどと思う。だから私は神をのろうことはしない。
 ただ、ヨブみたいに己の生をのろうことはするだろう。自然にしてしまうだろう。
 それを神への冒涜というのなら、私は神をのろうことになるけれど。でも、私の頭の中で、自分の冒涜と神への冒涜は直線上にない。

 ちなみにヨブの最後はハッピーエンドです。

2004年03月15日(月) 携帯電話

 昨日、あの子から電話がきた。・・・半年ぶり、くらいかな?
 私はケイタイを持ち歩かないから、着信があったことに気づかなくて、履歴に残っていました。

 馬鹿みたいに、今日はあの子からの電話を待っていました。
「着信入ってたけど、取れなくてごめんね、どうしたの?」的メールも送らず、ほっといたくせに。なんだか今日は一日中待っていた。

 ケイタイは私と外をつなぐ、狭い狭い窓で。
 それでも私はそれをも閉ざしたきり。
 そのくせそれがノックされる音を、耳をそばだてて待っている。たとえノックされても、窓を開ける勇気はないくせに。


 10代の後半、まだ私は若くて、ODやらかしたときも、私はケイタイを握り締めて布団の中でうめきながら寝ていた。
 それが震えて、誰かからのメールが来ることが楽しみだった。
 だれも私がODしているなんて知りやしなかったから、とてつもなく面白いチェーンメールが入ってきたりして。自分の状態と、世間のずれが激しくて、私は笑った。

 今、私のケイタイは限りなくゴミに近い。
 しばしばかばんに入れっぱなして、電池切れで転がってる。
 憐れな私の窓。

2004年03月10日(水) ゆえに我あり

 私にはなんにも無いのだろう。
 ささくれも、えくぼも。傷も栄光も。
 軽いとか重いとか、そんな話の前に、なんにも無い。

「真っ白の方が未来があっていいじゃん」とか言われたけど。
 私に未来があるとしても、それは蜃気楼。所詮、何にも無い。

 現実もきっと、どこにも無い。全てが夢で。
 だって私はこの世で生きてる気が、あんまりしない。
 私が生きるのは、私が生み出した妄想の世界。

 でも、コギト・エルゴ・スム。
 妄想を生み出した私はどこかにいるわけで。私は僅かに在ることになる。
 その僅かな存在が、私をものすごく不自由に陥らせる。

 全部なくなりたいと思うけど、無くなったとたん、私の希望すらなくなるんだから、微妙。
 お、今、希望があったぞ。面白いことだ。



 最近の私の文章、なんだか変ね。あとから読んで意味不明だもん。
 困っちゃうな。

2004年03月09日(火) 自分に拍手

 私はちっぽけな人間で、でもちっぽけなこと自体を否定する気はさらさらなくて、なにか他のところに、不満足の原因があるんじゃないかと思って、いろいろ探してみる。…いまのところ、見つからないけど。
 いったいどういうことなんだろう。

 私は別に悪いことはしていないけど、その割に生活にはイタいことが多すぎて、私は自分がなにか極悪なことでも過去にやらかしたんじゃないのか不安に思ってしまう。…心あたりも無いんだけど。
 いったいどういうことなんだろう。

 確かに私は人生の成功者ではないけれど、失敗者ではないはず。
 そんな無難な私がこんなに憂鬱なのは、ただ私の心根が悪いということなのかな?もしそうなら…それはそれで憂鬱。
 ま、そういうことか。


 本を何度も投げ捨てる。
 つまらない人間の日常を描いた、つまらない小説。名著らしいから、拾い上げてまた読むけど、それでもやっぱり面白くなくてまた投げ捨てる。
 ああ、でも、名著でもない私のつまらない人生は、一度捨てられたら、きっと誰も拾ってくれないままに闇に消えるだろうな。
 いつまでも捨てないで保ったままの自分に、拍手。

2004年03月08日(月) 人間ときどき動物

「うーん、私は大丈夫だ」
という、拠点がどこにあるのかさっぱり分からない自信をたまに抱く。
 それがプラス思考の産物なら私も嬉しいけれど、「どうやら底辺の部分でも私は生命を保てる」的な、ボトムなレベルの話なので、たいしたことのない自信だ。
 くだらない。

 きっと私のなかで、動物の部分が強いなら、どんなことがあっても生きていけて。
 人間の部分が幅をきかせているなら、サバイバル根性が薄くなってしまうのでしょう。
 ようするに私は、比較的人間ぽい部分が大部分を占められていて、たまに動物の一面が浮上する感じなのね。

…どうせならずっと動物でいたいかも。

2004年03月07日(日) 心に太陽を

 いつも心に太陽を置く。
 インドやアフリカの人を毎年何万人も殺しているくせに、「それは大気のせいですよ」とでも言わんばかりの恒星を。
 タダの巨大な火の玉なのに、神の象徴となっている謎のカタマリを。
 有害な光線を一杯出しているくせに、暖かいイメージをかぶったまま歴史を生きてきた、いいとこどりの物体を。
 それでもその爆発物は、数億年も昔に、私たちの祖先を生み出した。

 私たちを作りあげたものは、なんて単純なものだったのだろう。
 でも、世の中単純が悪いことで、複雑なのが素晴らしいわけでもない。

 ただ私は、おまえだってこの程度のものかと蔑む。
 それなら、私がこんなでもしょうがないかとわらうことができるから。
 たとえどんなに笑ったところで、イデア界にあるそのもの本来の「価値」は、代わることが無いのは救いだ。私の悪を、無にしてくれる。

2004年03月06日(土) 耐えられないって

 おそらく、この世に耐えられないことなんて無いんだろうね。
 もしそんなものがあるとしても、耐えられなかったときには、既に自分はいないんだし。そういう意味で、生きている今の自分とは、あんまり関係ないこと。
 ストア派の死の概念とおなじことだ。


 私がすればいいことは、私にできる限りをやり尽くすこと。
 ただそれだけ。
 結果がどうだろうと、関係ないね。

2004年03月01日(月) 嘘つき

 私は激しく嘘つきで。
 おそらく、他人を傷つけることのない嘘ばかりつく。
 私の脳みそには嘘ばかりが溜まって、本当のことは何処にあるのか、すっかり忘れてしまった。
 私がついた嘘で一番不自由を強いられているのは、私自身。

 私はぜんぜん嬉しくないことで喜び、笑い、楽しんで。
 その反動で、後ですべての行為の虚ろさに、うんざりする。

 それでも私が人間らしく生きるためには、嘘は必要。おそらく嘘がないと、私は死んでしまいます。

こりゃ、困ったな。
 まともな生き方ができないな。
 

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photo by 東雲