前潟都窪の日記

2004年04月30日(金) 【内戦の傷跡残るカンボジア�ぁ�

 有名な観光地だけに限定して見られる現象であるが、膝から下の片足や両足を失った若い男性の乞食達が帽子を差し出してくる。彼らはついこの前までの内戦に従軍して地雷の被害を受けた戦士達であろう。なんとも痛ましい限りである。その数があまりにも多いので一人だけに施しをするわけにもいかず、また乞食全員に施すほどの小金の持ち合わせもないので相手と視線が合わないようにして通りぬけるのだが、内心忸怩たるものがあり実に嫌な気分であった。

ポルポト派が1975年に政権を握ってから1975年にベトナム軍が侵攻してくるまでの4年間に虐殺した知識階級、芸能芸術家、富裕階級、旧政府関係者の人数は二百万人から三百万人にのぼるといわれており、シェムリアップにも虐殺の行われた場所があって慰霊碑が田畑の中に建っていた。

それにしても肥沃な平野と豊穣の湖に恵まれ、大半の国民がクメール族で構成された単一民族国家と言ってもいいほどの統治しやすい国でありながら、第二次世界戦争終結後のカンボジアの歴史は混乱と動乱の連続であった。世界大戦後もフランスによる植民地支配が復活し、1953年に独立してからはアメリカ、ベトナム等の侵略が相次いだうえに国王が国外へ亡命せざるを得ない政情下でソンセン派、シアヌーク派、ポルポト派、ヘンサムリン派等が集合離散しながら抗争や内戦を続けたので社会と経済は停滞し民衆の被った被害は甚大で痛ましい。

ガイドに聞いたところによれば公務員の月収は30ドルだというから民衆の生活程度は相当ひどいものであることが予想できる。バスの車窓から田舎の農家の建物を見ると高床式になっておりニッパ椰子の葉を束ねて壁に用い、屋根も椰子の葉で葺かれている粗末なものが多い。しかも電信柱も電線も見かけなかったので田舎では未だに灯火で明かりをとる生活が営まれているのであろう。

 国民の一人当たりGNPは年間300ドルで世界最貧国のひとつに数えられる。
 しかし、その反面昔ながらの自然がそのまま残っており、道路を行き交う自動 車も数えるほどしかなく、夜空の星は大きく明るく輝いており空気は清浄で長閑な田園風景の中に時間が悠然と流れていた。

遺跡の見学が終わってからトンレサップ湖をボートでクルーズし水上生活者の生活状況を垣間見ることができた。木製船の上に粗末な住居を作り漁をしながら湖上で生活しているのである。上流の船で大小便を流したかと見れば、すぐ下流の船では住民が洗顔し歯を磨いているのを現実に目撃した。清潔好きで胃腸の弱い日本人にはなんとも不潔で我慢できない光景であるが、水上生活者達は意にも介さない強かさと頑健な胃腸を持っている。これらの水上生活者を相手にする学校や警察、寺院、ガソリンスタンド、雑貨屋、散髪屋等が船の上にあり湖上に漂っているのは珍しく今までに見たことのない風景であった。

トンレサップ湖は東南アジア最大の水産資源豊富な湖で琵琶湖の約五倍の面積を持ち、毎年六月から十月の雨期には、メコン川の氾濫水が流入するので貯水池の役割を果している。この時期には乾期の面積の三倍になるという。メコン川の氾濫は周辺の田畑に自然の肥料をもたらし米の三期作が施肥なしに可能であり、カンボジアの穀倉地帯の形成に大きな役割を果している。淡水魚が三百種もいることでは世界最大の湖といわれている。

カンボジアは肥沃な平野に恵まれている上、ほぼ単一民族の国家であるし、仏教国であるため、ヒンズー社会特有のカースト制もないのでその勤勉で礼儀正しい国民性からして指導者に人さえ得られれば立憲君主制国家として今後おおいに発展していくものと思われる。



2004年04月29日(木) 【内戦の傷跡残るカンボジア��】

 これらの遺跡の中での圧巻は都城の中心に位置するバイヨン寺院の54基の塔の四面に刻まれた巨大な観音菩薩の顔である。優しい眼差しと頬に湛えた微笑はこれを仰ぎみる人にえも言われぬ安らぎを与えてくれる。

またトムの南大門の前にかかる橋の両脇には向かって左側に神々の大きな石像が54体、右側には阿修羅像が54体並んでいる。これらの像は巨大な蛇を綱引きの綱代わりに握っていて左右両陣営で綱引きをしている。これは乳海攪拌といわれるヒンズー教の神話を表現しているのである。南大門の彫像は顔の残っているものが多く、顔の表情は全て異なっており、豊かな個性ある表情は見ていて見飽きない。

小回りコースにあるタ・プロムは仏教寺院であるが、発見当時から修復を施さず保存し自然崩落も致し方なしとする措置が取られているため、巨大なガジュマルの根が建物に覆いかぶさっているさまは異様で自然の脅威を感じさせる。

 樹木に浸食されて今にも崩落しそうな門や塔が至るところにみられるが、今後も修復の措置は取らず自然の成り行きに任せることになっているという。






観光地ではどこへ行っても、あどけない顔の子供の物売りが付きまとってくる。彼らの学校は二部制になっていて午前と午後に分かれているらしい。そのため非番の子供達が観光客に付きまとうことになるのである。年齢を聞いてみると中には五歳の子供もいるが概ね8〜12歳位までの学童である。木製の笛や絵葉書、観光案内書、Tシャツ、色とりどりの布地等を売りにくる。商品を持っていない子供はバナナの葉で作った扇を片手に観光客に風を送ったり、階段を昇降する観光客の手をとり、誘導しては小遣いをねだるのである。子供達はどことなく謙虚でまだ悪賢く擦れていないだけになんともいじらしい。豊かな国土に恵まれた国だけに内乱さえなければ、国自体もそれなりに発展して子供達が物売りをしなくても済んだであろうにと飽食の国で贅沢な生活をしながら、塾通いをしている日本人の学童達を思い出していた。同時に祖国が平和国家として発展を続け豊かな生活を営んでいる日本国民であることの幸せを噛みしめていた。



2004年04月28日(水) 【内戦の傷跡残るカンボジア�◆�

 
アンコール・ワットの北側に位置しているのがアンコール・トムである。トムとは大王都という意味であり、クメール族のアンコール朝ジャヤバルマン7世(1181〜1220)の治下、文化的にも最も爛熟していた時代に建造された。この一辺3kmの方形の広大な敷地には、バイヨン寺院をはじめとする数多くの素晴らしい建造物が遺跡として残されている。王都の城壁もまた幅百30mの方形の環濠に囲まれている。

ジャヤバルマン7世の治世は40年に及ぶが、この王はベトナム中部に住んでいたチャンバ人に30年間近くも侵され続けていた国土を奪回し、乱れた国内を統一して善行と美徳を愛した中興の英雄である。彼は仏法をもって国力を回復したいと考えた王で、アンコール朝としては最初の仏教徒の王者である。

 仏教的な色彩の強い宗教性を持つ数多くの建造物を建てると同時に、外敵から国を守る難攻不落の都城の機能も持たせようとしたのがアンコール・トムである。
 
 この都城を囲む城壁には東西南北の中央に各一門宛、さらに勝利の門と合
計五つの門を備えている。

 城壁の内部にはバイヨン寺院、ビミアナカス宮殿、男池、女池、パブーオン寺院、北クリヤン祀堂、南クリヤン祀堂、五つのプリヤピトウ聖堂群、テッププラナム聖堂、癩王のテラス、象のテラス
等の遺跡が残されている。








2004年04月27日(火) 【内戦の傷跡残るカンボジア� �

▼カンボジアの旅 シエリムアップ、アンコールワット、トンレサップ湖
              1999年12月6日〜12月10日

バンコックから遺跡探訪の拠点地シェムリアップまで約1時間の飛行であるが、眼下にはメコンデルタの肥沃で広大な田野が広がっている。洪水でも発生しているのではないかと錯覚させる湿地帯も見える。田はほぼ長方形や方形に区画されていて田一枚の面積は小さく、集約農業が営まれているのではないかと思わせる。

シェムリアップ市内のプノン・バケンという高さ60mの小高い丘に登って見下ろすと五つの塔を持ったアンコール・ワットが緑の密林の中にその秀麗な黄褐色の姿を誇るかのように聳え建っている。

 1858年にこの地を訪問したイエズス会の神父C・Eブィユヴォーによって世界に紹介されるまでは密林の中にひっそり眠っていた遺跡であったということがよく判る。

ワットとは寺院を意味し1113年に即位したスリーヤバルマン2世が約30年の歳月をかけて建造し、ヒンズー教のビシュヌ神(太陽の光を神格化した正義と慈悲の権化)に捧げた寺院である。当時王は神の化身であるという思想があり、王の偉業を示すためにその生前から予め、葬儀を行い冥福を祈るための寺院として西向きに建てられたものと考えられている。

 建物は東西1025m、南北820mの周壁に囲まれた長方形の敷地の中に約200haに拡がって建っている。そして外壁の周囲は幅約190mの堀りが取り巻いている。建物は中央の祀堂を取り囲んで四隅に塔が配されている。これらの塔や中央の祀堂は段のついたピラミッド状になっており、中央の祀堂には段違いに三重の回廊が巡らされていて中央祀堂の高さは65mに及ぶ。

 この回廊の砂岩で出来た壁面には神話「乳海攪拌」やインド古代の二大叙事詩「ラーマーヤナ」と「マハーバーラタ」物語の各場面、そして「天国と地獄」等の浮き彫りが無数に施されており保存状態も比較的よくて、その高度な芸術性には目を見張るばかりである。またアプサラと呼ばれる美女達の像も沢山彫られており流れるような曲線美と美しい肢体、あやしい手の動き、優しく微笑む口元等芸術性の高いものが多い。これらのレリーフは当時の宮廷の舞姫や女官をモデルにしており、当時の生活や風俗を知る手掛かりともなる。 



2004年04月26日(月) 【人畜共生の混沌の国インド�Α�

アグラ市の南西37kmの所にファテーブル・スイークリーがある。
 これはムガール帝国の三代目の皇帝アクバルが、聖者スリームティスティの予言によって男児を得たので、これを徳として一五七四年に首都をこの地へ移転したのである。しかし僅か14年間住んだだけでこの城を捨ててアグラへ立ち去らなければならなかった。尊敬する聖者スリームティスティが死んだことと水不足だその理由とされている。アクバルはヒンズー教とイスラム教の融和を図る目的でディーンエ・ラヒという新宗教を作ることさえした。城は赤砂岩で五階建ての宮殿が作られており保存状態も非常によく、世界遺産に指定されている。それにしても壮大なる無駄使いであったと言える。

アグラ市内のタージマハールは
  インド観光の目玉である。ミナレットを持ったそのシンメトリックなドームは総白大理石で出来ており、文句なしに美しく優雅である。この建物はムガール帝国の5代目の王シャージャハーンが熱愛した妃アルジュマンド・バースー・ベーガム(ムムターズ・マハル)の死を悲しんで建設した霊廟であり、帝国の国力を傾けて世界各地から貴石や職人が集められて、22年の歳月をかけて1653年に完成させたものである。妃は14人の子供を産み若くしてこの世を去ったのである。






  流石にインド第一の観光地とあって世界中の観光客が集まるのは勿論のことインド人の観光客も非常に多いところである。観光客としてのインド人は中流以上の人達で身なりも骨相もよく裕福そうである。入り口近くで物売りをしているインド人と見比べると雲泥の相違がある。ここでも、インド社会における貧富の格差の甚だしさを如実に見た思いがした。

ヤムナー河岸に聳え建つアグラ城はアクバル帝によって1565年に建設されたムガール帝国の権力の象徴とも言える赤砂岩でできた堂々たる城である。

ヤムナー河の遙か向こうに見えるタジーマハールの美しい遠景は朝日夕日にその色調を変えると言われている。

この城のテラスに佇んでタージ・マハールの色調の変化を飽かず眺めていると時の流れを忘れてしまいそうである。数多い子供達の相続争いに巻き込まれてついには幽閉の身となって遠くタージマハールを眺めていたという捕らわれの塔が残されていて人の身の栄枯盛衰を思わせる。





2004年04月25日(日) 【人畜共生の混沌の国インド�ァ�

ジャイプールの町はピンクシティとも言われ、旧市街を囲む城壁と建物は赤茶色の砂岩で統一されている。デリーから南西に約265kmに位置するこの町はラジャスタン州の州都であり、タール砂漠の入り口にあたる乾燥地帯にある。1728年にジャイ・スイン2世によって七階建ての宮殿シティパレスが作られた。建物の一角は博物館になっており、代々伝わる武器や衣類が展示されている。また王が英国へ旅行したときガンジス川の水を入れて持参するのに使ったといわれる大きな銀製の壺が二つ飾られていた。900lの水が入り自重345kg、高さ5.3フィートの巨大な壺である。宮殿の一角には王の子孫が現在も居住している。




風の宮殿(ハマ・マハール)はシティパレスの東側のバザールの大通りに面して建っている。彫刻を施したテラスがびっしりと並んでおり、奥行きの浅い風雅な建物である。かつて宮廷の女性達がここから町を見下ろしていたという シティパレスの隣に位置する天文台はジャンタル・マンタルと呼ばれ、1828年に作られたもので、赤い石造りの観測機が並んでいる。日時計は2秒から20秒までの誤差で時刻を測定することができる。また12の星座の観測所も併設されている。      



ジャイプールの町から北へ11kmの地点にマハディール・マンシン5代王が建立したアンペール城が山の上に聳え建っている。この城が築城された1589年頃はここが藩王国の首都であった。鏡を散りばめた幾何学的な模様が美しくイスラムの様式が入っている。城のテラスから周囲を眺めると険しい山々が三方を囲んで聳えており青い空にくっきりとその威容を誇っている大気は爽やかで実に素晴らしい眺めである。

城の中の部屋は水が部屋の壁を巡って涼しい風がでてくるようにしてある仕掛けとか暗くした暗室で蝋燭を燃やすと天井にプラネタリュウムが出現する仕掛け等物珍しいものが多く、ステンドグラスも美しい。空はどこまでも抜けるように青くこのような贅を尽くした宮殿で宴を繰り広げ続けたマハラジャ達の栄華が偲ばれる史跡である。

 同時にこの城へ来る道すがら垣間見た貧困な民衆の生活を思い出すと貧富の凄まじい格差に驚かされる。これがまさしくインドなのである。この城へは象のタクシーで登ってきたのであるが、象に乗る順番を待っている間に繰り広げられたもの売りの凄まじいばかりの売り込みには辟易したものである 例えば最初千円で7個であった象の彫物は、買い手がつかないと30個千円にまで値下がりする出鱈目もいい加減の観光客目当ての強引な商売である この城の中には1639年にカネーザ王が建てた建物もある。アンメール城は1727年に廃止されてシティパレスに移された。

アンメール城より一段高い山にも別の城が残されておりジェーガール城と呼ばれているが公開されていない。

この日はベルリンの壁崩壊十周年記念日なので、テレビではドイツ議会にその当時の東西の指導者、ブッシュ元大統領、ゴルバチョフ元大統領、コール元首相が招待されて記念講演をしている情景を実況放送していた。時の流れの速さを感じさせる。

次の日は朝からアグラへ向けて再び六時間のバスドライブである。



2004年04月24日(土) 【人畜共生の混沌の国インド�ぁ�

ニューデリーの南郊外約15kmの広々とした平原にひときわ高くクトゥプ・ミナールの塔が聳え建っている。72.5メートルで石造りの塔としてはインドで一番の高さを誇っている。この塔は奴隷王朝のスルタン、クトゥプウッディーン・アイバクがヒンドゥー教徒に対する勝利を記念して建てたもので世界遺産に指定されている。イスラム教では偶像崇拝を認めないが、この塔の側にあるモスクにはところどころにガネーシャの像が見られる。商売上手のインド人は商売の神様だけは例外扱いにしたのだろうか、興味深い史跡である。 

 クトゥプ・ミナールの観光を終えて表の通りへ出ると物売り達がわっとしつこく寄ってくる。両手のない青年が肩からぶら下げた箱に絵葉書を並べていたり、針金を加工したオートバイのミニチュアを大きく掲げて買えと迫ってくる老人。Tシャツの束を小脇に抱えている少年もいる。その売り込みの執拗さにはうんざりしてしまい、思わず大声でノー・サンキュウーと怒鳴っていた。

 幼い顔をした少女が乳飲み子を左手に抱えて物乞いをしている姿もある。本人の子なのか或いは妹なのか。本人の子とすれば驚く程に年若い母親である。年端もいかない少年が飛んだり跳ねたり地面を這いずり回ったりして演技を見せなにがしかのティップをねだっている。交通事故で失ったのであろうか片足のない少年が手を突き出して物乞いをしている。痛ましい限りの貧困の姿が様々な形で現出されている。まさに足の爪先にまでも悲惨さが伝わってくる現実である。



2004年04月23日(金) 【人畜共生の混沌の国インド��】

デリー中心部の官庁街の広場に立って大統領府を眺めると右手には沢山の柱が目立つ円形の国会議事堂があり、その左手の広大な敷地の中には大統領府を頂点にして両翼を張るような形で茶色とカーキー色を基調とする二つの大きな建物がシンメトリックに建っている。ここには大蔵省、外務省をはじめ諸官庁が入っているのだという。官庁街の佇まいとしてはこのデリーのものがアジアで一番美しいと言われている。

振り返って背後を見ればインド門

が遙か遠くに聳えているのが判る。高さ42メートルのこの門は第一次世界大戦で戦死した九万人のインド兵士の慰霊碑であるが、当時はまだイギリスの植民地であり、宗主国のために犠牲を払わされたインド兵士の怨念の籠もった塔ともいえる。


 
フマユーン廟はムガール帝国第2代皇帝フマユーンの霊廟でその王妃が1565年に建てたものである。庭園の中に廟を取り入れた傑作で典型的なムガール様式である。中央ドームの高さは42.5メートルある。世界遺産に指定されていて、後のアグラのタージマハールの建設に大きな影響を与えたこの廟の堂内で声を出すと大きく反響する。

 大きな声を出してその余韻を楽しんでいると、様子を見ていた現地人の男が親切そうに、寄ってきてこちらの窓へ来て見ろメッカの方向だという。言われた通りに窓から覗いてみたが特別に変わったものが見られるわけでもない。それでもその男にサンキューと感謝の意を捧げて行こうとすると件の男やにわに片手を差し出してサムシングと言う。チップを要求するのである。

 インドではちょっとした行為、所作がすべてチップと結びついているのである。ターバンを巻いた警備員がにこにこしながら写真を撮れというのでシャッターを切るとたちまちチップと手を出してくる。タージマハールで写真を撮っているとこの場所のアングルがいいと教えてくれる男がいるのでそこへ行ってシャッターを切るとまたチップと手を出してくる。コプラ使いがいるのでカメラを向けるとワンダラーと言う。風の宮殿ではカメラアングルの一番よい所にコプラ使いが構えていていやがおうでも、チップを払わざるを得ないように仕組まれているのである。貧困の成さしめる悪智慧というべきか庶民のしたたかさというべきか。



2004年04月22日(木) 【人畜共生の混沌の国インド�◆�




最初訪れたのはヒンズー教の寺院ラクシュミ・ナーラーヤンである。オリッサ(インド東部の州)形式の寺院を模して1938年に建立された。建物はカーキー色と茶色、白色が基調になっており鮮やかな彩りである。大財閥のひとつビルラが寄進したもので別名ビルラテンプルとも呼ばれている。折りからラウドスピーカーからヒンズーの神々を讃える音楽が流れていた。建物には卍印が刻まれている。祭られているのはナーラーヤン(別名ヴイシュヌ神・・・救済の神)とその妻ラクシュミー(繁栄または幸福の神・・日本に入って吉祥天)である。           

ここでヒンズー教について触れてみると、
 ヒンドゥーはインダス川を元来意味し、後にこの川の流域地方と住民をさす言葉となった。

 ヒンズー教はインド人の持つ教え、およびそれに関する制度・風俗・習慣の全てを意味する。バラモン教を基礎に発展した宗教で仏教衰退後のインドの宗教の主流をなした。

 教理はインドアーリャンがインド本土に移住した太古から持つ「ベーダ」
「プラーフマナ」「ウパニシャッド」に述べられている「我」と「梵(最高存在)」との一致を究極目的とし、これが仏教などの影響をうけて中世的な有神論の展開をみせた。

 ことにインド民族の二大叙事詩「マハーバーラタ」「ラーマーヤナ」、前者の付編「バガバット ギーター」「プラーナ」などが六世紀から八世紀に成立すると、古代神話は整理されて、ビシュヌ、シバ、ブラフマの三神を最高とする一体三神の教理が確立した。

 現在のヒンズー教は前二者を崇拝するビシュヌ派、シバ派と女神ドルーガ
(シバ神の妻)の性力を崇拝するシャークタ派の三派を中心に無数の分派が出来上がっているが、いずれもがアーリヤ人の優位を認め、カースト制度を維持しようとする古来の民族宗教である。

ブラフマーは世界の創造を、ビシュヌ神はその維持を、シバ神はその破壊を司るとされる。8世紀に哲学者シャンカラがでてからシバ派は独立した一派となり全インドに普及した。

 シバはヒマラヤのカイラーサ山に住んで無数の悪鬼を従え、顔は一面乃至五面、首は青く蛇が巻きつき骸骨を繋いだ首飾りをして、槍・弓等無数の武器を持ってるとされる。

 この寺院には金の神様マハカラシミ、愛の神様クリシュナ、力の神様ハルマン、商売の神様で鼻の長いガネーシア(シバ神の息子)などの像が祀られていた。
 ヒンズー教には輪廻転生の思想があり仏教に取り入れられている。

 ヒンズー教では1日2回日の出と日の入りに祈りが捧げられ、神の使いである牛を神聖視するから牛乳は飲んでも牛肉は絶対口にしない。

インドにおいてはカースト制度を抜きにしては何事も理解できない。三千年程前に北インドに進入してきたアーリヤ人は現在のヨーロッパ人とも同じルーツの白色人種系であった。彼らは先住民である肌の黒いドラビダ人を平定してその支配を固めるにつれ、ヴァルナ(肌の色)という身分制度を作りあげた。肌の色による身分の上下区分をしたのであるが、その後更にアーリヤ人の中で社会的職能による区分が設けられた。

 四姓と謂われるバラモン (僧侶)、クシャトリャ(王族と武士)、バイシャ(商工業者)、 スードラ(奴隷)という区分である。このヴァルナ(肌の色)という差別と四姓という区分はジャーティ(生まれ)に因って定められているとする閉鎖的なカースト制度になって定着したのである。

 我々日本人にとってカースト制度の分かりやすい適用は結婚の場合であるインドには恋愛結婚は殆どなく、結婚とは親が決めるものであり、異なるカースト間の結婚は絶対にあり得ない。適例期の男女の両親はお互いの親族の姓名を何代にも遡って調べ且つ比べてお互いに釣り合ったカーストであるか否かを第一の判定基準にしてその結婚の適否を決定するという。インドでは「好きだから結婚する」のではなくて、「結婚してから好きになる」ことが夫婦間の大切な徳目になっているのである。

そして、現実のヒンドゥー社会では過半の民衆がヒンズー教を信奉しておりこのカースト制度を受け入れその内部でそれぞれの分を守ることで生活を保証される面もあり、同一カースト内では互いに助け合う共同体的な機能も果している。民衆はカースト制度の不合理な差別を思い知ってはいてもその根本的な改革のために一直線に立ち向かうだけのエネルギーがまだ蓄えられていないのが現状である。

 成人識字率52%、一人あたりGNP370ドルという教育水準の低さと絶対的な貧困が、土俗宗教であるヒンズー教の普及率82.6%という数字とあいまってカースト制度を温存させている一因と言えるのではなかろうか。因みに、日本の成人識字率は99%であり、一人当たりGNPは38160ドルである。



2004年04月21日(水) 【人畜共生の混沌の国インド� �

 この日記には随筆や小説、紀行記などの創作を掲載していきたいと思っている。先ずは紀行記から

【人畜共生の混沌の国インド】

▼インドの旅 デリー、ジャイプール、アグラ、ファテーブル・スイクリー

                 1999年11月7日〜11月12日
 
インドの旅はゴールデン・トライアングルと呼ばれるデリー、ジャイプール
アグラの各都市の世界遺産を訪ねて巡る旅である。
往路機中で推理小説に読み耽っていると突然、ガンジス川の上空を通過しますという機内放送があった。前面の航路図にちらりと目をやるとバングラディッシュ上空を飛行している。慌てて窓外へ目を転じると白く光る幅の広い川が大きく蛇行して流れており、洪水でもあったのであろうか平野が水浸しになっているのを俯瞰できた。暫くして再び機内放送があって、白い雲間遙か遠くに雲の一塊と紛うほどに小さな白いエベレスト山を認めることができた。
デリー空港から夕闇迫るデリー市内をホテルへ向かう途中、頻りに爆竹の音が聞こえ夥しい群衆が町中に溢れていた。今日はヒンズー教の祭日であるという。ホテルの部屋から外を見ると花火がしきりに打ち上げられていたが日本の花火のような華やかさがなく、花火が航跡を残して上空へ到着するとパーンと音をたてるだけで終わりである。日本であれば上空に達した時点でしだれ柳や花びらが空一面を大きく覆うのだが、ここではそのようなこともなく、大きな音がするだけである。それでも十に一つくらいは花びらを咲かせるものもあるが単色で規模も小さく日本の花火に及ぶべくもない。ゆくりなくも日本の花火の素晴らしさを認識した一瞬である。


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