| 2004年05月31日(月) |
【ボロブドール、プランバナンの遺跡巡りとバリ島・・インドネシア�◆� |
バリ島へ飛ぶため三時半に起床した。バリ島で最初に強烈な印象を受けたのは、各民家の庭に明確に区画割りして設置されている「お社」のようなものである。最初墓場かなと思ったがよく見ると母屋の北東にあたる位置にかなり広い面積を占めて灯籠型の塔が4〜5個建っているのである。中に御神体でも安置してあるのかなと覗いてみたが偶像らしきものは何も飾られておらず供物が供えられているだけであった。
ヒンズー教寺院でよくみかける動物の形をした魔除けの像はこの「お社」への入口の門柱に彫刻されていたり柱の上に飾られている。ガイドに聞いてみるとこれはヒンズー教の神々を祭るための家庭の「お社」であり、満月の日やヒンズーの祭日には黒と白の元禄模様の布や赤、黄、緑、白の布や幟りで飾られるという。そしてこの「お社」の後方に母屋とおぼしき建物が建っている。田舎へ行く程母屋より「お社」の方が大きく立派な造りであるのをしばしば目撃した。
この「お社」にも格式のようなものがあって、屋根の造りだけとりあげてみても銅板葺き、コンクリート葺き、瓦葺き草葺き、トタン葺きとさまざまであり、その大きさも千差万別である。母屋より大きなものがあるかと思えば、団地サイズのお雛様セットの如くちいさく纏まって形だけ真似をしたと思われるものや、土地の有効利用の観点から編み出されたとおぼしき屋上に設置されているものまである。どうもヒンズー教のカースト制が「お社」の祭祀形式の中にはまだ残っているようである。
ガイドに確認してみるとカースト制は冠婚葬祭には厳然として残っているが職業の選択や進学についてはカースト制の制約は無くなっているということであった。そして市内の至る所にラーマーヤナに題材をとった人物像や動物像が誇らしげに飾られている。イスラム社会であるインドネシアにおいてここバリ島だけは例外的にヒンズー教の風俗習慣が根強く息づいているのである。
夕方ケチャックダンスを観劇した。これはとても異様な踊りである。真っ暗な舞台の中央に何本か灯されている蝋燭の火を中心にして上半身裸体の男達三五人程が集まり、口々に「ケクチャク、ケクチャク」と歌いながら踊るのである。そこへラーマーヤナ物語の主人公達が逐次出没して物語が進行するのであるが、半裸身の男達は常に舞台上にあって、奇妙な歌を歌いながら群舞したりうずくまったりするのである。元来ケチャックは、恍惚状態にある娘達が踊るサンヤンという踊りに伴ったコーラスの事であった。サンヤンダンスは恍惚状態にある娘達を通じて祖先の願いを聞くことを目的としていた。現在ではこれが変容して、ラーマーヤナ物語が独特の奇声コーラスと踊りの中で展開されるようになったものが、ケチャックダンスとして演じられているのである。
翌朝九時から始まるバロンダンスをデンバサール市内の劇場で観劇した。 バリでは善魂と悪魂がいつも同時に存在すると信じられていて、バロンは善魂を表す動物でありランダは悪魂を表す動物である。バロンは寺院の守り神であり、具体的には獅子であることが多い。バロンの踊りはガメランというバリ独特の楽器の演奏に合わせて踊られる。バロンとランダが踊りの中で色々な戦いをするがいずれの勝利もないままに踊りは終わるのが特徴である
最初獅子舞が現れて獅子舞を披露し、そのうち王子や王女、王様や宰相、召使、魔女、死に神、道化の猿、僧侶などが次々に出没し物語が進行する。七段階に分けて場面が構成されているが善魂と悪魂が争っている様子が面白可笑しく演じられるので言葉は判らなくても役者の所作から物語のおおよその流れは理解できて楽しく鑑賞することができた。言葉の判らない観光客には昨夜のケチャックダンスよりは余程良いと思った。 それにしてもバリ島には日本の若者の観光客が多い。これほど多くの日本の 若者を今までの旅行で見たことがない。
| 2004年05月30日(日) |
【ボロブドール、プランバナンの遺跡巡りとバリ島・・インドネシア� � |
▼ボロブドール、ブランバナン、デンバサール(バリ島)の旅 2000年11月4日〜11月9日
ボロブドール遺跡の見学に行った。ジョクジャカルタの西北方へ約42kmの所にある、インドネシア最大の仏教遺跡である。遺跡に近づくと土産物屋が屋台を連ねているし、沢山の売り子が手ぐすね引いて待っているので到着したことが判る。バスを下りると大人や子供の売り子が絵はがき、Tシャツ木彫り等を持って口々に「五枚で千円」「三個で百円」とわめきながらどっと取り囲んでくる。
興味のある素振りを見せると何処までもうるさく付いてくるので、ここは相手を黙殺してどんどん歩くのがよい。最近の観光客は旅慣れていて、あどけない子供の売り子に対しても素知らぬ顔でやり過ごす人が多い。そのうち売り子達の値引き合戦が始まる。例えばバスを降りた時三枚千円であったTシャツが観光を終えてバスへ戻る頃には七枚千円になっている。それでも無視してバスに乗り込むと窓の外から十枚千円と指で示しながらしきりに買ってくれとアッピールしている。
Tシャツが十枚千円なら話の種に買ってみるかと千円札を手にして昇降口まで出て行くと五人ばかりの手がTシャツを束にしてわっと伸びてくる。その中の一人から品を受け取ろうと金を払うと、渡しながら素早く三枚程抜き取ってしまった。その手際は見事である。数えてみると七枚しかない。品物を受け取り数を確かめてから金を払えばよかったのだが後の祭りである。後で聞いた話だが黒壇の木彫りが三個千円にまで下がったのでこれを買った人も同じ手口で品物を受け取る時に偽物と差し替えられてしまったとぼやいていた。彼らの商魂はどこまでもしたたかである。
ボロブドール遺跡は当時ジヤワを支配していたシャイレンドラ王朝が8〜9世紀にかけて造営した仏教寺院である。丘陵を利用し安山岩を用いた方形の基壇(一辺約120m)上に九層からなる大建築物であり、全高は約35mである。六層までは方形で、その上は円形をなし頂上には卒塔婆型の大塔がある。
円形層の各所には合計72の卒塔婆型の小塔が並んでいてこの中には仏像が安置されている。この遺跡には小塔内の仏像も含めて全体で504体の仏像が安置されていて、中には座っているポーズのものや立っているポーズのものがあるが、顔を失っているものや壊れているものが多い。地震で倒壊したり、異教徒の手で壊されたり盗まれたりしたもののようである。
各階層の回廊の壁面には釈迦の伝記やサンスクリット作品から取り上げた物語の名場面が浮き彫りされていて優れた作品が残されている。そして脚部にある浮き彫りは安山岩を組み上げて隠されていたという。建物を補強するとともに異教徒から浮き彫りを守るためであったと考えられている。
この遺跡はメラピー火山の大噴火により約900年前にその火山灰で埋もれてしまって歴史から忘却されていたのであるが19世紀の初めにイギリスの将校が発見して世に知られるようになった。その後1907年から1911年にか けてオランダ人の手によって精密な調査と再建が行われたが、時が経つにつれ再び荒廃がはじまった。その後ユネスコの世界遺産に登録され各国の協力を得 て1973年から1983年にかけて大規模な修復作業が行われた。
この遺跡の周辺は広大な緑地になっており椰子の木等の南国の樹木が生い茂っていて雄大な景観である。これだけの仏教遺跡を残しながら、この国では現在仏教徒は殆ど皆無で世界最大のイスラム社会を形成しているのであるイスラム教徒の数は人口の90%以上を占め、約1億7000万人に及ぶというから仏教伝来以降のイスラム化がこの地で如何に物凄い勢いで進んだかが判るような気がする。現在世界で起こっている宗教紛争はその殆どが戦闘的なイスラムがらみであることを思えば、この遺跡を残した釈迦の慈愛を説く仏教徒達は受難と屈辱に呻きながら異教徒達に滅ぼされていったのであろうといつしか感傷的な気分に浸りながら遺跡を眺めていた。
昼食後プランバナン遺跡の見学に出掛けた。ここにはシバ寺院群、セウ寺院群、ルンブン寺院群、プラオサン寺院群等の遺跡がありヒンズー教と仏教の聖なる建物があったところである。
我々が訪れたのはこの中、8世紀から9世紀にかけてサンジャヤ王朝によって建てられたヒンズー教のシバ寺院群である。このシバ寺院群は大小237の寺院からなっているが現在修復が終わり復元された建物は16だけであり、残りの大部分の寺院は倒壊して瓦礫だけが元建っていた場所に集められて修復されるのを待っている。
この建物群の中心になっているのは修復の終わったロロジョングラン寺院で高さ47m方形の底部の幅34mであり、上部は角錐状になっている。この建物の中心部の大きな部屋には高さ3mのシバ神の石像が安置されている小部屋には別身のシバ神石像、幸福を司るガネーシャ石像、世界を支配する女神ドゥールガ石像が安置されている。この建物の回廊の壁にはラーマーヤナ伝説の物語が浮き彫りで飾られていて四一の場面で構成されている。
ラーマーヤナとは古代インドの長編叙事詩で紀元前四世紀頃纏められた。その概要は北インド、アヨージャ国の王子ラーマの冒険を描いたもので、知・情・勇を兼ね備えたラーマと美しさ・優しさ・純情さ・貞潔に類のない妃シータは理想的な夫婦としてインド諸民族の敬愛の的であり、絵画や演劇の主題として伝承されてきたものである。
ロロジョングラン寺院の北側には守りの神のヴイシヌ寺院、南側には創造神のプラーマ寺院が建っている。この三つの大きな建物の前にそれぞれナンディ寺院、ガルダ寺院、アンサ寺院が建っている。建物の飾りにはヒンズー教で尊ばれる「リンガ(男性器)とヨギ(女性器)」を象徴する塔がいくつも並んで建っていたりする。
シバ寺院の前の広場はよく整備されてプランバナン公園となっており、市民の憩いの場になっているが、実際には土産物屋の屋台が軒を接して立ち並び、大人や子供の売り子達が屯していて、観光バスが到着するたびにどっと駆け寄り売り込みを始めるのである。
七月から九月までの満月の夜にはインドネシア全域からよりすぐりの踊り子達がこの地へ集い、寺院群を背景としてラーマーヤナを上演するという。さぞかし素晴らしい光景であろうとしばらくその図を想像していた。
プランバナンの観光を終え、土産物屋に付属している影絵劇場を見学したガムラン音楽の演奏に合わせて幾つもの影絵人形を手にした人形師がこれを操って前方のスクリーンへ影絵を投影するのであるが、ストーリーはラーマーヤナ伝説が多いようである。表の観客席から影絵を見ているよりも舞台裏で楽器を打ち鳴らす楽士や激しい動きで人形を操る人形師をみているほうが言葉がわからないせいもあって余程面白かった。
| 2004年05月29日(土) |
【緑輝く、紅茶と仏教の国・・スリランカ�ぁ� |
三日目は ハバラナのホテルビレッジから約1時間のバスドライブでポロン ナルワへ到着した。ここはバラークラマ・サムドゥーラと呼ばれる巨大な人工の貯水池の側にある遺跡の街であるが貯水池は湖のように大きくとても人工のものとは思えない。山間の窪地に流水を堰止めて造ったのであろうがかなり強大な王権が存在したことを偲ばせる貯水池である。
ポロンナルワ遺跡の最大傑作といわれる三体の石像ガル・ビハーラを拝観し た。これは巨大な一枚岩に刻まれた野ざらしの仏像で涅槃像、立像、座像である。なだらかな線で刻まれ瞑想している仏像を静かに眺めているとその慈愛に誘われて極楽へ旅してみたいという気持ちにさせられる。座像の高さは4.6メートル、立像7メートル、涅槃像の長さは14メートルの大きな像である。密林の中には、キリ・ビハーラ、ランコトウ・ビハーラ等の大きな釣鐘状の塔(ダーガバ)がその威容を誇っていた。
キャンディー市内へ入ると街道筋の両側に夥しい数のありとあらゆる車種の日本の中古車が並んでいる。行けども行けども尽きることなく日本車が並んでいるという感じである。ここは、スリランカ最大の自動車市場だということであるが、かつてこれほど多くの中古車が並んでいるのを見たことがない。
キャンディーの仏歯寺
スリランカ人の日本製品に対する憧れのようなものを垣間見た気がする。 夜は燕が飛び交う、屋根はあるが窓ガラスの入っていない開放的な劇場でキャンディアンダンスショーを見学した。 仮面の踊り、コプラの踊り、孔雀の踊り(マユラの踊り)等、よく動物の習性や特徴を観察してうまく踊りの動作に取り入れているなと感心しながら見ていた。最後に火渡りの儀式で終わったが長さ5メートルもある箱の中で燃え盛る火の上を裸足で歩く荒技には思わず手に汗を握っていた。
ろうけつ染めの工場を見学後、ホテルへ昼食に立ち寄り、長駆山中の道をヌワラエリヤの街を目指した。くねくねと曲がりながらバスは次第に高度を高めていく。狭い道なので対向車と出くわせたときなどその場の状況に応じてバックしたり前進したりしながら相手をかわしていく。川にかかった狭い橋を渡るときなど脱輪するのではないかと思わず目をつぶつたりするようなスリリングなドライブが続く。運転手の技能を信頼して全てをゆだねざるを、得ず、ハンドルを何回も切り返しながらうまく橋を通りぬけたときなど期せずして一斉に車内から拍手が沸き上がった。バスが登っていくほどに窓外には茶畑が斜面に広がっているのが目に入ってくる。はるか下方には山と山の間に川が白く光っている。崖を流れ落ちる滝も何条か目に入る。
ヌワラエリヤは高地にあるので避暑地としてイギリス人の手により開発されたところでアジア最古のゴルフ場もあるリゾートである。気候は涼しく朝夕にはセーターを着用しなければ過ごせないほどであった。
象の孤児院 旅の印象を纏めればスリランカとは仏教の国、緑輝く国、紅茶の国、シンハラの国、スパイスの国、人畜共生の自然豊かな国ということであろうか。
| 2004年05月28日(金) |
【緑輝く、紅茶と仏教の国・・スリランカ��】 |
アヌラーダプラは乾燥地帯に位置するスリランカ最古の都の置かれた街であ る。紀元前500年頃シンハラ族の先祖と言われているウィジャヤ王子が統治していた。テーワーナンピヤ・ティッサ王(前260〜210年)の紀元前236年にインドのアショーカ王の息子マヒンダによって仏教がこの地に伝えられた。この頃インドのブッダガヤから菩提樹の分け枝がもたらされた。これが巨木になって今なお、崇められているのがスリーマハー菩提樹である。この菩提樹を拝観したが大木の枝を支える支柱が幾つか設けられており、若々しい葉をつけて厳かな雰囲気を醸しだしていた。裸足になり脱帽してお参りした樹下の参拝所には敬虔なスリランカの善男善女が祈りを捧げていた。
午後はタンブラの石窟仏を見学した。寺院は緑の平野にそこだけ突起したような感じの黒褐色の巨大な岩山の窟の中にある。窟は第一窟から第五窟まであり、第一窟には大きな涅槃像が安置されていた。第二窟から第五窟には金色の仏の座像が無数安置され、壁にも仏像が描かれていた。みかけは窟になっているが往時は岩の天蓋だけだったところに仏像を並べていたのを後から囲って現在の窟の状態になったのだという。薄暗く独特の宗教的な雰囲気を醸成しているが中は蒸し暑く、拭ってもすぐ汗がしたたり落ちて背中を一筋二筋流れていくのが判る。暑さに耐えかねて外へでると岩山から集まってきた猿が人を恐れもしないで岩の上に何匹も座っていた。
タンブラから3泊目のバハラナビレッジホテルへ帰る途中、裕福な農家の住まいを見学した。5人家族で部屋数も6〜7部屋あったが電気が通じておらずランプ生活である。部屋の一隅にはテレビが置いてあったが画面には布が覆われていた。余程大切な行事で人を招く時等にガソリンゼネレーターで発電して映像を誇らしげに披露するのであろうか。
庭にはコンクリート製の浴槽が井戸の側に置いてあり、湯を沸かすための鍋と竈も築かれていたが使った形跡はなく、平常は近くの川で水浴しているらしい。庭にはバナナと椰子の木が沢山植えられており食べ物は自給できるという一家の現金支出は月間250ルピアに過ぎないというから農村に生活、する農民のつつましやかな自給自足の生活振りが窺える。因みに1ルピアは2円であり物価高のコロンボ市内で生活する標準世帯のサラリーマンの生活費は家賃や水道光熱費を含めて月最低2万ルピアはかかるということであった。
| 2004年05月27日(木) |
【緑輝く、紅茶と仏教の国・・スリランカ�◆� |
シーギリヤに到着すると周辺の緑のジャングルの色とはあまりにも対照的 な茶褐色の岩山がおよそ200メートル弱の高さでそそり立っているのが目に飛び込んでくる。これが、美人のフレスコ画で有名なシギリヤロックである。岩は幅凡そ300メートル、奥行き凡そ200メートル高さ凡そ200メートルほどのこじんまりしたものである。この岩の頂上に父親のダートウセーナ王(459〜477)を殺して王位についたカーシャパが弟モッガラーナの報復を恐れて11年間も逃れ住んでいたというのである。
この岩山の中腹にある洞の壁面に鮮やかな色彩で描かれた美女達の絵がある当時は、五百人ほど描かれていたらしいが現在残されているのは18人だけである。美女達は上半身裸の者と全身着衣の者と二種類いる。この美女達はカーシャパ王が殺害してしまった父の霊を鎮めるために描かせたもので裸の 女性が天国に住む妖精アップサラ若しくは上流社会の女性であり、着衣の女性は侍女であると考えられている。
カーシャパが父ダートウセーナ王を殺害した動機が腹違いの弟に王位が譲られるのではないかと勘ぐったことからだというから、何時の世、何処の国にも遺産をめぐっての浅ましくもおぞましい人間の業欲が致す罪深さを考えさせられた。それにしても人の道を外し、報復の影に怯えながら平地へ下りることをせず、岩山の頂上で敵の来襲を見張りつつ心貧しく孤独に耐えながら11年間を過ごしたカーシャパの心はどんなものであったのだろうか。崇仏の国においてさえカーシャパのような人間が生まれたのを思うにつけ人間の持つ、おぞましい業(ごう)或いは悲しい性(さが)を感じさせられた。 次の日はバスで長時間ドライブした後、アヌラーダプラへ到着した。昨夜は熟睡できたのでガイドの下記の如き説明をメモすることができた。
スリランカの生産物は紅茶、椰子、ゴム、宝石の順番になるという。自動車は勿論、自転車も生産できないで輸入している。三輪車はインドからの輸入であるし、子供と大人を問わず欲しがるボールペンさえスリランカでは生産できない。
教育制度は6、3、2、5制であり学校は国営である。授業料は国が負担し制服は白色で白布を国から支給される。バスから眺めていると大人達は裸足の人が半分くらいは田舎で見かけるのに対し、どんな田舎へ行っても集団登校したり下校している生徒達は一様に白い制服を着衣し布靴を履いていて裸足の生徒はみかけない。国が支給しているからなのだろう。独立前は英国の統治下にあったため、英語の教育も熱心に行われたから英語を喋る国民の数も多く、外国へ出稼ぎしても英語能力を買われて良い仕事につくことができた。独立後国語はシンハリ語とパーリ語になって英語教育を学校でしなくなった。そのため英語を話せる若い人が少なくなった。農業国であるから農業に従事している限りにおいてはそれでも良かったが、国際化の波がスリランカにも押し寄せてきつつあり、英語教育に力を入れる必要性を感じだしている。
出稼ぎ先は中東のサウジアラビア、バーレン、イラン等が多いが英語能力の問題があって単純労働にしかつくことができない。彼らの稼ぎだす外貨は工業製品を輸入するための貴重な外貨になっている。自動車は90パーセントが日本製で中古車が多い。ドーラさんが初めて手にした日本製品は万年筆であったという。スリランカ人には、セーラー、パイロット、ダットサン、ナショナルラジオ、ソニー、ホンダ、スズキ、クボタという固有名詞は日本のイメージに繋がるのだそうである。そして日本製は品質がよいというイメージだという。
| 2004年05月26日(水) |
【緑輝く、紅茶と仏教の国・・スリランカ� � |
コロンボ、シーギリア、アヌラーダプラ、タンブラー、ポロンナルワ、キャンディー、ヌワラエリヤ 1999年2月6日〜2月13日 現地時間午前2時30分コロンボ空港に到着、入国手続き後ホテル行きのバスへ乗り込んだ。暗くて周囲の景色はよく見えないがインド洋に面していることだけは判る。暗がりに牛が二頭と豚一頭が道端をのんびり歩いている。 のでびっくりした。 暫しの仮眠後、最初の見学は国立コロンボ博物館である。この博物館は1877年にイギリスのセイロン総督ウイリアム・グレゴリー卿によって造られたスリランカ最初で最大の博物館で前庭には彼の銅像が傲然とした雰囲気で建っている。輝くばかりの白い建物は当時の様式をよく伝えている。 館内にはアヌラーダプラ期の大理石の仏像(300〜500AD)、ポロンナルワ期のブロンズの仏像、キャンディ王朝時代(1636〜1687)の黄金の玉座等貴重な蒐集品が展示されている。この博物館の目玉とされる展示物は仮面である。土俗の思想として病気は悪霊がとりついたものとしこれを追い払うために仮面がつかわれたらしい。スリランカ各地の民芸品店で売られている木彫りの仮面のルーツはこの展示物なのである。 ガイドのドーラさんは眼鏡をかけたシンハラ人の中年男性だが日本語は現地駐在の日本人に学んだと言い、仏教には造詣が深い才子である。言葉は五か国語を喋るというし、ジャズピアニストをやつていたこともあるらしく、とてもピアノを弾くのがうまい。この国の経済環境では、ガイドくらいしか彼の能力を発揮できる仕事がないということであろうか。これまた彼の能力開花のためには悲しいことである。彼はそんなこともあってか鬱屈した気持ちを日本礼賛でまぎらせようとしており、それは説明の言葉の端々に窺われた。 スリランカの人口は1800万人で仏教徒は70%を占めるという。 スリランカは1948年2月4日に英国領からの独立宣言をした。コロンボ市内中央部に独立記念館があり、この屋根は途中から傾斜が変わる二段式でシンハラ建築の特徴を表している。そして記念館を取り巻いて柱ごとにラ イオンの像が守護神の如く置かれているし、スリランカの国旗にはライオンが描かれている。ところがスリランカ国内には現実にライオンは棲息していないという何故か。それは建国神話が今なお素朴に民衆に信じられているからである。建国神話とは次のようなものである。 ランカー島にはもともと龍族、夜叉族の先住民が住んでいた。この両民族ともまだ人間の範疇に入らない霊的な存在であった。このランカー島へ人間が初めて到来したのは、仏陀入滅年(前483年)にインドより渡来した仏教徒のウィジャヤ王子が最初とされている。龍族はいちはやく仏陀に帰依していたが夜叉族は未だ帰依しておらずその女王クェーニーはウィジャヤ王子の軍勢を打ち破ってしまう。その後ウィジャヤ王子は苦心の末、クェーニーを懐柔して子供を生ませるのであるが、王位につくための正当性を得るために南インドから王妃を迎え、シンハラ国を建国したのである。しかし、クェーニーを裏切る結果となり、ウィジャヤ王子、王妃、クェーニーとの間の三角関係が発生することになる。王妃の系譜がシンハラ族の起源であり、ライオンを旗印とした。クェーニーとの間に生まれた子供の系譜がプリンダー族となり、ウエッダー(ジャングルに生活する非定住的狩猟採集民)の祖先になったというのである。 シンハラ族のシンはライオンからきたという意味であり、ハラは人達という意味なのだそうである。
昼食には名物料理カリーを食べた。野菜、鶏肉、豚肉、魚等がそれぞれに炊きこまれたカリーが別々の皿に入れられて次々に出されるのを、ココヤシの実や米を炊いたものと混ぜ合わせながらスプーンやフォークで食べた。味は意外とあっさりしており、多少水っぽいなという感じのものさえあった。香辛料のよく効いたものが多く暑熱の国の食べ物に相応しいし、これが食欲を昂進する香草の独特の香りのついたものは日本人の口には馴染みにくいがそれ以外は日本人の味覚にもよく合っているなと思いながら賞味した。 昼食後約一九Oキロメートルをドライブしてシーギリヤへ向かった。窓外の景色は緑に満ちていて途絶えることがない。まさに緑輝く国である。道路には至るところで、牛が何頭も我が物顔でのんびり草を食んでおり木々にはリスや猿が戯れていた。まさに人畜共生の国という思いがする。 注 カリーの写真は畠山氏のHPから借用した。
| 2004年05月25日(火) |
【宗教色が街角に横溢する国・・イラン�А� |
イスファファンはイラン中央部に位置する美しいオアシス都市である。ザクロス山脈の西の裾野にあり、中心部を流れるザーヤンデ川の豊富な水で発展してきた。標高1500mで気候は冬は暖冬、夏は穏やかな気候で過ごしやすい環境である。
古くはパルチァ朝及びササーン朝時代の900年間、首都として栄えた。ササーン朝ペルシャ期に軍の駐屯地 (セババン) が置かれこれが現在の名称の起源となっている。その後イスラム教が浸透してきてからは、イスラム文化が栄えた。モンゴルの侵略にもよく耐えアッバース1世の時代の1、598年にこの地が再び首都となり、ペルシャ文化の最盛期を迎えた。
 この街では午前中イマーム広場、イマームモスク、アリカブ宮殿、マスジェド・ロトフォラー・モスク、チェヘル・ソトゥーン宮殿等を見学した。これらの史跡は何れも広大なイマーム広場を取り囲むようにして建てられており、この地域一帯が世界の半分(イスファファン・ネスフェジャハン)として知られている。
 最後にテヘランへ戻ってホメイニ廟を見学した。回教は偶像崇拝を禁止しているというが、このモスクの規模の大きさやら街中に張られているホメイニ師とハタミ大統領の写真を彼らは何と説明するのであろうか。これこそ形を変えた偶像崇拝でははないのだろうか。ホメイニ師自体はおそらく死後このような扱いを受けるとは思っていなかったに違いない。イマーム達がホメイニ師の偶像におんぶされ、ぶら下がっているのが現在のイラン政界上層部とイラン宗教界指導層の実態ではなかろうか。
 今回の旅行では宗教色が日常生活至るところに浸透している特殊な世界の体験をしたが、感じたことを纏めてみれば以下のようなことである。
一、女性の社会的な地位が低いこと。
1)外出時には必ずチャドを頭から全身に被り、髪と襟足を他人に見せない服装を義務つけられていること。これは観光客の異教徒であっても例外ではない。 概ね黒色が多いが稀には色違いのチャドもある。黒いチャドも個別に仔細に観察すると刺繍を施していたり、宝石で飾っていたりとそれなりに女性らしいおしゃれをしている。
 2)女子割礼が行われていること。
3)刑法のうえでも女性は男性よりも不平等な扱いを受けている。殺人刑を一例として挙げてみてもガイドの説明によれば、男子を一人殺せば死刑であるが、女性は二人殺して初めて死刑になるという。このような現代の欧米型市民社会の人権感覚では信じられないような男女不平等が公然と認められていること。
二、巧みな情報統制が行われていること。
1)イラン・イラク戦争はアメリカがイラクを唆して仕掛けた戦争であると信じていること。
2)アフガニスタンのイスラム原理主義集団タリバンがバーミアン仏教遺跡を破壊したことに対しては、モスリム達も文化遺産を破壊した行為は悪いと考えているが、世界の世論は文化遺産の破壊に対しては反応するが、人間が貧困に苦しんでいる事実には関心をよせないのはおかしいのではないかという理解である。
3)モスリムの6信5行を固く守っており、聖戦であれば身を挺して参戦しようと思い込んでいる人々が多いこと。
4)街中いたるところにホメイニ師とハタミ大統領の写真が飾られて偶像崇拝を視覚面から暗黙のうちに強制していること。
5)イランの経済がよくならないのはアメリカの経済制裁措置があるからであると信じ込んでいること。
三、物的人的にも優れた可能性を秘めている民族であること。
四、水道の水が日本人にも飲め、且つ公衆便所まで清潔であり、文化が進んでいると判定する材料となること。
五、今後の指導者の動向如何によってはイスラム原理主義の思想が紛争の導火線となりうる危険性を内在していること。このことはホメイニ師の「予言者マホメットの原点にかえれば全てのモスリムは同胞として家柄、血縁、民族の絆を絶って、イスラム世界の現状を告発し、イスラム法に基づく政治の確立を目指す」思想にその危険性が内在しているからである。現実に、現在の地域紛争やテロの多くのものがイスラム原理主義を信奉するもの達によって引き起こされるケースが多いのである。その卑近な一例がニューヨークでの同時多発テロである。
| 2004年05月24日(月) |
【宗教色が街角に横溢する国・・イラン�Α� |
イラン中央部に位置するヤズド市は中央砂漠地帯に接していて、イランで最も古い典型的なオアシス都市である。標高1、215m、年間降雨量は59mmと少なく、夏は暑く冬は寒く春秋は穏やかな気候である。
イスラム時代の初期はアレキサンダー大王の監獄として知られていたが、642年頃アラビア軍に占領され、以後はシルクロードの中継基地として栄えてきた。マルコポーロが訪れた14世紀から15世紀頃がこの町の最盛期で、イスラム教の勢力が強いイランの中で、ヤズドはゾロアスター教徒にとって最後の砦となった重要な町である。現在でもゾロアスター教を信仰する多くの人々が住んでいる。
 この日最初に訪れたのは沈黙の塔である。これはヤズドの市街地の南東15kmの草木の一切生えていない丘の上に二つの建物が建っていて、ゾロアスター教の風葬が行われていた所である。滑りやすい丘の坂道を用心しながら登り、一つの塔の中まで入ってみた。石畳の天井のない室内には中央に丸い穴が穿たれていて石ころが幾つも転がっていた。ここに死体を安置して鷹や鷲などの鳥達に屍肉をついばませ風葬を行うのである。肉が完全についばまれて骨だけになると遺族達がこれを拾って持ち帰り霊を弔うのだという。 丘の麓には日干し煉瓦を積み重ねて作った丸い屋根を持つ宿泊設備が設けられていて遺族達はここに逗留して死体が骨だけになるのを待っているのである。現世で善根を積んだ遺体は早く骨になり、悪行を重ねた死体は肉がなかなか骨から離れず時間がかかると信じられていた。この日観光客は我々のグループだけであり、全然人気がないので若し、遺体が安置されて鳥達が屍肉をついばんでいたらとその光景を想像するとまさに鬼気せまるものがあり、身の毛がよだち厳粛な気持ちになった。
この風葬( 鳥葬ともいう) は50年程前から禁止され現在では行われなくなっている。
次にヤズド市内に幾つかあるゾロアスター教寺院の中でも最も有名なケルマン通りの寺院を訪れた。博物館を兼ねた部屋からガラス越しに聖火を覗いてみると暗い部屋の中で薪が積み重ねられ、紀元470年以来1、530年間燃えつづけている聖火をみることができた。一般に今まで垣間見たゾロアスター教の施設は小規模なものばかりであったが、この寺院も慎ましやかなものであった。
ヤズドの町中では「風の塔」を何箇所かで目撃した。これは屋上をわたる風をとらえて下の居住空間へと送り込む施設で日中猛暑の続く砂漠地帯で案出された天然クーラーである。またヤクチャルという風塔をもつ貯水池は天然の冷蔵庫として使用された。またカナートという地下水路もこの地方で案出された給水設備である。これは立て坑を堀り、横穴で繋いで山からの湧き水を砂漠地帯に引く設備で時には70kmにも及ぶ導水路が作られることもあり、この方法は西アジアのここで生まれ、東に伝わり中国の砂漠地帯でも行われている。
| 2004年05月23日(日) |
【宗教色が街角に横溢する国・・イラン�ァ� |
ペルセポリスはシラーズの北60kmに位置し、アケメネス王朝のダリュウス一世により建造が開始され、クセルクセス1世時代にも継続して建造された都市である。クー・イエラマット山の山腹にテラスを作り、城壁を設けて各建物の建設が行われた。この都市は行政府ではなく、古代ペルシャの元旦の大祭や秋の収穫祭のための首都である。大祭にはアケメネス帝国の20数ケ国の属州から朝貢者が集まり、各属州の特産品を帝王に献上する儀式が行われた。
大基壇は南北に500m、東西に400m、高さ10〜13mに達し、この上に大階段、クセルクセス玄関、クセルクセスの謁見の間、百柱の宮殿、ダリュウス1世の宮殿、アルタクセルクセス1世の宮殿、ハレム、宝庫等の遺跡があり、大階段や宮殿の壁には多数の浮き彫りが残されていて属州の風俗や特産品を知ることができる。このぺルセポリスはアレキサンダー大王との戦いで敗れた後破壊され炎上した。
ナグシェ・ラジャブ遺跡はペルセポリスの東北3kmにあるササン朝時代の三組の浮き彫りである。シャープール一世の騎馬叙任図などがありササン朝彫刻の華麗な様式の一端を示している。
ナグシェ・ロスタム遺跡はペルセポリスの北西5kmに位置し、山はアケメネス王朝の4人の王の墳墓である。アルデシール1世の騎馬叙任図やシャープール1世がローマ皇帝ヴァレリアヌスを捕虜にした戦勝図の浮き彫りが山肌に刻まれている。また前面の広場には四角い塔の形をしたゾロアスター教の神殿も残されている。
バサルガドはペルセポリスの北東45kmでイスファファン街道の西側に位置する場所にある。アケメネス王朝のキュロス大王がメディア王をここで破り戦勝の記念として王宮を建て首都とした所である。アケメネス王朝歴代の即位はここで行われた。七大部族でアケメネス家が属するバサルガド族の名をとってつけられた地名であるといわれている。ここには大きな石組みのキュロス大王の墓がぼつんと一つだけ広大な敷地に建っているのが人目を引く。この墓から相当離れた敷地の一角には300×250mの庭園を囲んで玄関、謁見の宮殿、二つの亭跡などの遺跡もあるが礎石と柱だけしか残されていない。
| 2004年05月22日(土) |
【宗教色が街角に横溢する国・・イラン�ぁ� |
乙女橋、乙女城を見てから暫く走行すると道路沿いに大小の岩の群れがそそり立っている場所にさしかかった。ガイドが指さす所をみると岩肌に数人の人物像を浮き彫りにした一つの岩があった。ゾロアスター教の善の神アフラマヅダからアルデシール1世が王権のシンボルであるリングを授けられる場面が彫刻されているのである。
 アルデシール1世はアルタ・クセルクセスとも言われ、パルチアを滅ぼして226年にササン朝ペルシャを創始した王である。従ってこのレリーフはイスラム教がこの地へ入ってくる前に彫られたものであろう。
やがてバスはフイールーズ・アバードの村へ到着した。昔はグール村と呼ばれた所である。広々とした荒蕪地の真ん中に崩れかかった、日干し煉瓦を積み重ねて建てられた四角錐状の塔がある。これはゾロアスター教の神殿跡と考えられている。この地帯一帯は緑豊かな平原で樹木も生い茂り、この神殿が村の中心として丸く広がる集落が繁栄していたと考えられているが、今は荒蕪地に変わり果てている。長年にわたり徐々に砂漠化していったのであろうが、環境変化の激しさに自然の神秘を見る思いであった。現在叫ばれている地球の温暖化現象はやがて我々が住む緑豊かな日本の国土をもこのような荒蕪地に変えてしまうのであろうか。
神殿を後にして広大な荒蕪地を暫く走行して今度はかなり大きな建物跡と思われる箇所に到着した。これは約1500年前に造営された宮殿のアルデシール跡である。イスラム教がまだ誕生していない頃のササン朝ペルシャ時代の宮殿の跡で、ドーム型の天井と壁跡が残っていた。また宮殿の近くには湧き水が溜まってできた池があるがこれも当時から用水として利用されていたもののようである。澄みきって清浄な水面は輝く太陽の光を受けて七色に美しく光っていた。子供達が手作りの腕輪などを売りにきていたが、他国の観光地の子供の売り子達とは違って万事控えめなのが印象に残った。まだ観光客も少なく擦れていないのであろうか。現にここには他の日本人観光客は見当たらず、我々のグループの他には4〜5人連れの白人観光客が2〜3組いただけであった。
今でこそ街中イスラム教一色に塗り潰された感じのある国であるが、イスラム教浸透以前の文化遺産が沢山残されているこの国は地下資源にも恵まれており、大きな可能性を秘めた国であるとの印象が強い。
今回の旅行のハイライトともいうべきペルセポリスの遺跡、ナグシェ・ラジャブ遺跡、ナグシェ・ロスタム遺跡、バサルガダエ遺跡の観光である。いずれもイスラム教発生以前の文化遺産である。
| 2004年05月21日(金) |
【宗教色が街角に横溢する国・・イラン��】 |
早朝まだうす暗い6時にホテルを出発してシラーズへ赴くべく空港へ向かった。
聖シャー・チェラーグ廟
サーディー、ハーフェズともにペルシャの詩人でそれぞれイスラム文化華やかなりし13世紀、14世紀に活躍した抒情詩人である。ペルシャ語を後世に残したことで国民的な偉人として尊崇されている。この両人の霊廟にはアケメネス王朝に始まりササン朝ペルシャに終わるまでの古代ペルシャが繁栄していた時代に対するイラン人の民族的な誇りとノスタルジアがあるように思われる。これらの霊廟に額ずき彼らの残した詩篇を眺めるとき,彼ら詩人が当時抱いた危機感が痛いように伝わってくるのを感じた。即ち、7世紀にアラビア半島の片隅で生まれたイスラム教が破竹の勢いで中東世界を席巻しサラセン大帝国を築くに及びコーランに用いられているアラビア語がペルシャの地にも浸透し、非アラビアの民族が育て培ってきた言語が廃れていくことに危機感をもった詩人達の詩情に思いを致すとき共感の情を禁じえなかった。
それにつけても、異民族支配を受けた経験のない能天気な日本人達の国防意識の希薄さ加減と美しい日本語を守り育てていこうという気配さえ窺えない若者達の昨今の言語感覚には嘆かわしいものがある。
ワキールモスク近くのバザールを見学した。アーチ型の天井をもつアーケードの両側に設けられた側壁の中に区割りされて、商人達がそれぞれにありとあらゆる商品を並べているこのバザールは、道幅も広くイスラム世界のカスバやメディナの中によく見られるせせこましくて喧騒に満ちた薄汚いバザールの印象とは全然異なっていて、イランで最も美しいバザールと言われる定評もうべなるかなと思った。
シラーズの南東110kmの地点にあるフィールーズ・ア・バードの遺跡を訪問する途中で乙女橋、乙女城を見学した。ペルシャ語でドクターとは乙女のことを意味し、犯されることがないという意味合いで用いられる。乙女橋は今から1500年程前に作られた石製の橋脚でモンド川に史跡として残されていた。恐らく堅牢な橋だから流されることはないという願いを込めて乙女橋と称したのではなかろうか。また乙女城はこれも1500年程前に作られた城砦であるが、これも落城することがないようにとの願いを込めて名付けられたのであろう。
ペルシャの人々には、女性は子供を産み育てる使命を担っているので貞操は大切なものとして皆で保護しなければならないものという思想があったらしく、乙女という言葉は犯されることがないという意味に転化したのであり面白い発想だと思った。男女間の規律に厳しいイスラム・シーア派の戒律もこのような歴史的な積み重ねの中で生まれてきた社会規範なのだなと一人勝手な解釈をして納得していた。
| 2004年05月20日(木) |
【宗教色が街角に横溢する国イラン・・�◆� |
朝7時半にアファーズのホテルを出発して約2時間のバスドライブでスーサ近郊のチョガサンビル遺跡へ向かった。快晴でとても暑い。
今回の訪問では日中摂氏52度を経験した。このような高温は生まれて初めての体験であった。数値だけ聞くと人間は倒れてしまい、場合によっては死んでしまうほどの環境ではないかとの印象を受けるが、湿度が低いので体感温度としては数値程のことはなかった。冷房の効いたバスから外気の中へ出ると体が俄に浮き立つような感じになり、歩くにつれて額や背中に汗が滲み出してくるが、体中汗まみれになると言う程でもなく顔と襟首をハンカチで拭えば何とか凌げる程度であった。
古代エラム王国の首都が置かれていたスーサの起源は古く彩文土器が発掘されており、メソポタミア先大洪水文化に相当するといわれている。このスーサの街の南東約40kmにチョガサンビルの遺跡は良い保存状態で存在する。
ジグラッドと呼ばれる日干し煉瓦積みの雛壇式神殿は起源前13世紀中頃にエラム王ウンシュガルが建設したもので、105m四方の大きさで西アジアでは最大のものである。このジグラッドを中心とする470m×380mの聖域には宮殿や地下墳墓があったと考えられている。神殿の前には動物の生贄を供える台の跡が残されており、定住農耕型社会が形成されていたことを窺わせる。また煉瓦を接合するために卵の白身と羊毛を使っていたりアスファルトを用いていたこと等が判っている。
この聖域は更に1250m×850mの外壁に囲まれた都市になっていた。この遺跡の前に立つと起源前7世紀にアッシリアに征服されるまで600年間の長きにわたってこの地で歴史を刻んできたエラム王国の繁栄が偲ばれ感慨一入であった。
チョガサンビルの遺跡から車で約40分ほども北へ走行するとスーサ遺跡がある。この地には紀元前4000年頃から人が住んでおり、紀元前2500年にはエラム人の街が形成された。現在は礎石等が残っているだけであるが、25ケ国で宮殿を造営したという楔形文字の刻まれた煉瓦や閃緑岩に楔形文字で刻まれたハムラビ法典碑やナラム・シン王戦勝碑などもこの地で発見されている。
| 2004年05月19日(水) |
【宗教色が街角に横溢する国・・イラン� � |
テヘラン、アファーズ、チョガサンビル、シラーズ、バルサガド、ヤズド、イスファファン 2001年5月31日〜6月11日 テヘランへは現地時間23時45分に到着した。午前一時過ぎに外へ出た途端むっとする暑い空気の洗礼を受けた。この時間なのに空港施設の出口には手に手に花を持った出迎えの老若男女が夥しい数としかいいようのない程沢山集まっており、旅行者が通り抜ける道もない程に犇いていた。女性は老いも若きも一様に黒色のチャドを頭から被り顔だけしか覗かせていない。酷暑の時期だというのに異邦人には異様な光景としかいいようがない。聖地の巡礼から帰ってきた有徳者を出迎えてその余祿に預かろうとする人々であるという説明があった。
イスラム暦で金曜日の今日は休日だから、このことも人出に拍車をかけたに違いない。イスラム国ならではの空港風景であった。  ハタミ通りのホテルに到着する途中、アザディ・タワーの前を通った。この塔はペルシャ帝国建国2500年を記念して国威発揚の目的で1971年に建てられたY字型の白い建物であり、ササン朝ペルシャの建築様式が取り入れられている。落成当時はパーラビ王朝健在の頃なので今昔の感に浸りながら眺めていた。高さ45メートルあるといい、アザディとはペルシャ語で自由という意味だそうである。
最初訪れたサーダバード宮殿はテヘラン市街の北に位置しアルプルス山脈の麓のオアシスに造営された旧パーラビ王家の夏の離宮である。別名グリーン宮殿とも呼ばれるこの宮殿は生い茂る楓の木立の中に建てられており、パーラビ朝を開いたレザー・シャーが1922年から6年間かけて贅を凝らして作り上げたものである。その内部にある天井から壁まで総ガラス張りの部屋等はキンキラキンに光っており、いかにも成り上がり者趣味の横溢する造作である。パーラビ2世が愛用した宮殿の前には巨大なパーラビ2世のブロンズ全身像が周囲を睥睨して誇らしげに傲然と建っていたらしいが、イスラム革命後破壊されて両足だけが今でも残されていた。統治者の栄枯盛衰をここにも具体的な形として見る思いであった。
 アルプルス山脈の山並みが荒涼たるはげ山であるのと対照的にその麓に広がる林の中に造営された宮殿は、清涼な空気に包まれて絶好のロケーションである。イスラム革命前はパーラビ王家以外の人々は建物を建てることができなかったが、革命後はこの周辺は高級住宅地として開放され、今では多くの高級住宅が立ち並んでいる。
| 2004年05月18日(火) |
【発展する仏教国・・・タイ】 |
ガイドは日本人でリツコさんという。なにか訳ありげな女性であるが、客あしらいには慣れていて日本語も流暢である。30年バンコック生活が続いているという。
朝7時に出発してシャングリアンホテルへ急ぐ。バンパイン宮殿見学とアユタヤの遺跡見学である。船は4時間の予定であるという。冷房が効いているというので、船底の食堂へ入ったが日差しが強くて、冷房もよくきかない。説明が英語でされるので、チャパヤ川の川辺の景色も何なのかよくわからない。前回来たことがあるので、コースは全く同じであるから予備知識があるので、暁の寺等はすぐわかった。タイ観光のモデルコースを歩いているのであろう。
バンパイン宮殿、日本人町跡、ワットチャイモンコン、ワットマハタード、ワットマハタード、ワットラハバーナ等を見学した。何れも前回訪問したところだ。
帰りはバスでバンコックまで帰り、夕食はシェラトンホテルのウオーターフロントにある「タイランド・トウナイト」でバーベキューである。海産物を焼いて食べるので美味かった。特に野菜の天麩羅と海老の丸焼きは良かった。トイレが分かりにくい場所にあり、道を迷いかけた。舞台ではタイの古式舞踊が演ぜられていた。
この夕食が終わってからホテルには帰らず、直ちにオプショナルツァーのニューハーフショウを見学に出掛けた。俗に言うおかまショーだが、実際には陰湿なものでなく仲仲美しいものであった。
船着き場から小さい船に乗って汚い川を航行した。途中、マンゴー、パパイヤ、ドリアン、ライヒを売る小舟が付きまとってくる。ライヒとマンゴスチンを買った。マンゴスチンは一つ食べただけで、他は同行の人に上げた。ドリアンも買ったが少しだけ食べてあとは人に上げた。その悪臭にはとてもついていけなかった。水上マーケットでは、家内が象牙の布袋像を欲しがったが、ワシントン条約があるから没収されるおそれもあるし、やめさせた。買いたい物があると後先のことを考えずに独断専行するきらいがある。
暁の寺、王宮、エメラルド寺院を見学して昼食は聘珍楼でヤムチャであった。これはやはり美味かった。沢山でてくるので食べきれなかった。 バンコックの観光は終わって、ショッピングに免税店へ立ち寄ったが買うものはない。夕食はインペリアルクイーンズパークホテルでタイ式のしゃぶしゃぶであった。4泊の旅行もこれで最後。バンコック空港で荷物の整理をして機上の人となる。
| 2004年05月17日(月) |
【軍政下で呻吟する仏教国の民衆・・ミャンマー��】 |
暑い。朝からミャンマー仏教の総本山シェッダゴンパゴダを見学した。流石に総本山だけあってその賑わいは大変なものである。しかし、メキシコで時計をなくした寺院での人出程の多さではない。なんとなく全てがのんびり、ゆったりしている感じなのである。
私の守り神はもぐらである。家内のはドラゴン、孫のは牙のない象である。この三つの守護神の前で水を捧げた。敬虔な土地の善男善女を沢山みかけた。
次に町の中心にあるスーレーパゴダを外から見学してから、桟橋へ立ち寄ってからボージョーアウンサンマーケットへ行った。ヤンゴン一の市場とあって、確かに品揃えも豊富で賑わっていたが、買いたいものは何もない。
桟橋では船が発着していたが喧騒のみあって、わざわざここを見学させた意味が判らない。ただ、若い男達が現金をはって博打をうっているのを目撃したのは社会の裏面を覗いたという点で面白かった。
昼食は聘珍楼でヤムチャを食べた。これは慣れているせいか口に合うしほっとした感じである。
ボウタタウンパゴダは総ガラス張りのパゴダであった。中は迷路のような佇まいであった。
夕食はトレーディングホテル内の「竪琴」という寿司屋でのり巻きセットを食べた。久し振りの日本食で米も日本人向きのものが使われていた。 このあと空港へ行き、バンコックへ向かった。
| 2004年05月16日(日) |
【軍政下で呻吟する仏教国の民衆・・ミャンマー�◆� |
最初に、チャイプーンへ立ち寄ったが、これは4つの巨大な白塗りの仏像がが高さ30mの柱の四面に背中合わせで立っている。伝説によれば、この仏像の建設に携わった4人のモン族の女性のうち、誰かが結婚したら仏像が壊れると言われていた。そして一人が結婚したら本当に4体の仏像のうち一体が崩れてしまったという。西側の仏像が壊れたというが今は修復されていて見た目にはよく判らない。
次に訪れたのはシュエターリャウン・パゴダである。これは全長55mある寝ている釈迦仏の像である。この寝釈迦仏は994年にモン族の王、ミガディガ王によって建立されたといわれるが、パゴー王朝がアラウンパヤー王朝に滅ぼされるとともに、何時しか密林の中に忘れさられていた。イギリスの植民地となって、鉄道建設のためやってきたインド人技術者によって発見され再び陽の目を見ることになった。
パゴー最後のパゴダはシェモードパゴダである。高さ114mの塔がそびえ立っていて周囲を見下ろしている。ここのパゴダの正面にはエスカレーターがついていた。沢山の塔がたっており、仏教のメッカという感じである。パゴダ巡りには裸足で歩かなければならないが、久しく裸足で地面を歩いたことがないので、砂粒が足の裏に当たるととても痛かった。
昼食はビルマ料理ということで、パゴーで一番高級だといわれるThree FiveHotelというレストランへ案内されたが、冷房設備がなく扇風機が生暖かい風をかき回している。部屋へ入ると異様な悪臭がする。吐き気を催しそうになるのを堪えて、昼飯が食べられるかなと心配になる。それでも料理が運ばれだすと今まで鼻についていた悪臭もなくなり、辛い料理に箸は動きだしたが、多くは食べられない。
入り口でお客に一人ずつ丁寧に頭を下げてお辞儀をしていた、5〜6歳と思われる女児が団扇を持って客に風を送って廻っている。切なくなってチップをやろうと思ったが、未だ買い物をしていないので、小さい銭がない。手持ちの現地通貨では二百チャットが一番の小額紙幣である。日本円で換算すると370円ほどである。少し多すぎるかと思ったが仕方がない。これをあげると顔に喜色を浮かべて頭を下げた。経営者の子供であろうが親に躾けられて小遣い稼ぎをしているのである。いやもしかすると親の生計を助けているのかもしれない。ガイドの話によれば、道路人夫が日当200チャットであるというから子供にとっては大金である。このように生活レベルは相当に低い。
ハッピーという土産物屋へ立ち寄ったが、民芸品などの他に宝石なども並べてあるが品揃えは貧しい。特に欲しい物もない。竪琴を引いている民族衣装を纏った女性はとても魅力的であった。
この後一路、ヤンゴンへ向けてバスで帰ってきたが、道中、人が鈴なりで往来するトラックバスはとても目につく異様な光景である。ここでもまた、社会主義の残した負の遺産を見る思いである。 このあたりの光景はこのHPの写真を参照
バスが止まる度にしつこくつけまとってくる物売りの子供達や大人達。乞食は非常に少なかったが、その貧困を思う時やるせなさが胸にこみ上げてくる。 ホテルには交通渋滞がなかったためかなり早く到着した。シャワーを浴びて夕食までに相当時間があった。水泳パンツを持ってきておれば、プールで水泳ができたのにと悔やまれる。
夜はロウンマレイというレストランでビルマ民族舞踊をみながら食べた。ライトアップされたシェッタゴンパゴダが素晴らしい。昨日の夜も見たパゴダだ。明日見学することになる。
| 2004年05月15日(土) |
【軍政下で呻吟する仏教国の民衆・・ミャンマー� � |
ヤンゴン、パゴー 1998年7月8日〜7月13日
出発予定時間の12時15分にはANA143便は始動して、順調に飛び立った。眼下に海上空港を見下ろしながらぐんぐん機は高度を上げていった。和歌山市の上空で、和歌山城はどのあたりで、雑賀岬はどのあたりだろうと目で追ってみる。今年の春、梅が咲いている頃、夫婦で紀伊三井寺を始めとして紀州路散策をしたことが思い出される。
関西空港には13時35分に到着し、飛行機を乗り換えてヤンゴンへ向けて再び機が離陸したのは14時43分であった。
飛行中、沖縄群島を眼下に見下ろしながら、地図と見比べ島の名前を当てはめてみる。4月に訪問しているだけにこれも懐かしい。
5時間45分の飛行の末、18時10分にはヤンゴン空港へ安着した。時差は2時間30分である。
ベトナムやタイの上空とおぼしきところを飛んでいるとき、田畑が俯瞰できたが、黄茶色一色で洪水でも起きているのではないかと思う程であった。アメリカ上空で見た田畑とは一味違っているのである。アメリカの田畑は規模が大きく、円形の田畑がところによっては多かったし、人家が殆ど見当たらないのに対し、ミャンマー上空の田畑は緑が少なくて一面泥濘が覆っているような感じなのである。しかも一区画の広さが小さく、人家が多数集まっているのが眺められる。
現地ガイドのウイン・ナインさんが迎えにきていてバスに乗り込むと、現地通貨とドルとを交換してくれるという。綺麗な札を纏めて袋にいれてある。取り敢えず、20ドルパックを二つ交換した。単位はチャットである。1ドル=260チャットであった。
ホテルへ入る前にロイヤルガーデンというホテル近くのレストランへ入った。
 海鮮料理の夕食であるが中華風にしつらえられたものである。このレストランからはライトアップされたシュエダゴンパゴダが幻想的に眺められた。民族舞踊が舞台では賑やかに繰り広げられた。ホテルはニッコーロイヤルレイクヤンゴンと謂い、未だ出来て新しい。仲々良いホテルである。
8時にホテルを出発してパゴーへ向かった。昔、王朝のあったところである。途中田畑で田植えをしている光景やら、水牛で田を耕している昔ながらの風景を日本のそれと対比させながら眺めていた。日本ではかれこれ40年程前の風景である。
また、トラックバスと称する乗合バスがあって、鈴なりに人を積んで走っていく。1トン車で荷台を含め40人を乗せるという。ここでも社会主義70年の実験の悪い結果を見た気がする。また日本の中古車が多い。新車は皆無である。トヨタ、ニッサンがもっとも多いと言う説明である。日本の看板がそのまま残っており、そのことが日本車の証明になるというのである。横浜市の市バスを見かけた。青葉区という行き先表示もそのまま付いていた。私は気がつかなかったが、中古車でも古い型が多く、バックミラーの付いている位置が車の先端なのである。中には、大戦後アメリカ軍が持ってきたGM製のバスが今でも使われていたのには驚いた。 注 トラックバスの写真は次のURLから借用しました。 ミャンマーで見た風景と風俗
| 2004年05月14日(金) |
【エベレスト山を身近に観察したネパール�ぁ� |
ポカラ市内へ到着し遅い昼食を済ませてからビンドウバシニ寺院の見学に行った。市街中心地の狭い道路を集落の中の坂道を縫いながら登っていくと小高い丘の上の杜の下に小さな複合寺院があった。ここには殺伐神ドゥルゥガ、繁栄神ヴィシュヌクリシュナ神を祭る本殿が並んでいる。ここではドゥルゥガ神が信仰の対象である。ドゥルゥガ像が安置されている祠の正面では毎朝、カルガと称する生贄として鶏や山羊の首がはねられるので、石畳には血痕がこびりついていて生々しい。市街が一望出来てその眺めもよい。
オールドバザールとT字型に交わるニューバザールも歩いてみたが、ここは人々で賑わっており活気に満ちていたが汚い町だとの印象は免れなかった。軒を接した建物群中に開けているバザールはイスラム諸国でよく見られるスークやバザールの雰囲気に似通うものがあり、人々の生活の匂いがぷんぷんと感じられた。また広い道路には背負ってきた野菜や果物等の農産物や籠に入った生きた鶏や淡水魚等を広げて商っている原始的形態の商人 もいて、買い出しにきた現地の主婦達が地べたに座りこんで値段交渉をしている微笑ましい姿や、昔懐かしい竿秤で目方を計っている風景は見ていて飽きないものがあった。
翌日早朝にホテルを出てペワ湖に向かった。ボートを浮かべて日の出とヒマラヤの山々を見るためである。湖に到着した時空は曇っており今日は駄目かなと諦めかけていた時、ゆっくりと動きだしていた雲の塊が大きく動いて、雪を被ったマチャプチュレ・右とアンナプルナサウス・左 とが突然姿を現した。あさぼらけ時には白い山の姿が赤みを帯びて輝いている。それは実に感動的な一瞬であった。
ペワ湖では一舟に5人宛が分乗して波の立たない静かな湖面に漕ぎ出した頃丁度日の出の時刻を迎えた。東の空が次第に赤味を増してきて真っ赤な太陽が弧から半円になり真円に形を変えていく刻々の変化はこれまた感動的であった遠くに姿を見せているマチャプチュレとアンナプルナサウスの白い山の姿は実に神々しく厳かであった。残念ながらエベレストは見えなかったが、これらの山々はまさに忽然として姿を現したという感じである。このような不思議とも思える現象を見て古代人は山に神を感じたとしてもその気持ちはよく判ると思った。
| 2004年05月13日(木) |
【エベレスト山を身近に観察したネパール��】 |
早朝ホテルを出発して約200キロメートルの旅程を6時間の予定でポカラへ向かった。昨夜まで元気であったY氏一家3人家族の長男が食あたりで激しく発熱したためこの一家はホテルにそのまま留まって静養し医師の往診を受けることになった。旅先では生水は飲まず、野菜サラダ等も食べないよう用心しているので小生は今まで食当たりで困った経験はないが、同行者の中にこのようなケースが発生すると人ごとながら心に痛みを覚える。 市場の写真 今日は移動に殆ど終日を費やすことになるが、車窓に移り変わってゆく風景を眺めているのもまた楽しいものである。観察した路線の風景で特色のある場面を書き抜いてみると
1.道路沿線に立ち並んでいる建物には樋がなく、屋根から長さ30cm程度のパイプが数本間隔を置いて路面方向へ突き出していること。雨のときには屋根に溜まった雨水がこのパイプから路面へ排出されるのである。
2.路線沿いに開けている集落には共同水道と流し場が一定の間隔で設置されていて貯水用の容器に水を注入している女性や盥やバケツに水を汲んで選択をしている女性達が見られること
3.道路を往来している女性は赤色系の原色の衣装 を纏っている人が多いこと
4.川があると川辺で洗濯をしている女性の姿をよく見かけるし、水浴をしている男や子供達をよくみかけること。
5.水入れ容器や農作物を入れた籠を背負って歩いている人々は紐を肩にかけるのではなく、頭の頂上へかけていること。そして歩く姿は俯いた形になっていること。また荷物を頭の上に乗せて歩いている姿もよく見かけること。
6.道路端に立ち並ぶ民家(農家と目される家が多い)には軒先に小さな陳列棚を並べて飲食物を売っているものが多く、並べられている商品はコカコーラや袋入りのスナック風のものが多いこと。陳列してあるコーラやジュース類は日焼けして変色していたりする。こんな辺鄙なところでお客があるのかなと思えるような山中でもこのような店をよく見かけること。
7.谷間ではいわゆる猫の額程の段々畑が「耕して天に至る」 感じで「千枚 田」として広がっていて、ここにアジア的集約農業の典型を見る思いのすること。
8.農家の庭には藁がこんもりと円錐状に積んであり、その下には牛等の家畜が繋がれていること。
9.新緑の季節で木々の梢からは緑が今を盛りと萌えだしていて、生命の躍動感を覚え、わくわくするような景色が続いていること。
| 2004年05月12日(水) |
【エベレスト山を身近に観察したネパール�◆� |
ダルバールとはネパール語で王宮という意味であり、この広場を取り囲むようにして宮殿や寺院が立ち並んでいて、参詣人や観光客やこれを目当てにした物売り達で賑わっている。ここにある建物はハヌマン・ドカ(王宮)、シヴァ・バールヴァティー寺院、シヴァ寺院、ナラヤン寺院、一本の大木から建てられたと言われるカスタ・マンタブ寺院、クマリの館等で、いずれも見事な彫刻と装飾が施されている。
ヒンズー教では人間の生殖器官と生殖行為を神聖視し崇める風習があり、男女交合の多様な体位を彫刻で表現しているものもあって、エロティックアートとして人気を集めている。
ここで一寸珍しいと思ったのはクマリの館である。クマリとは生き神のことで、由緒ある家柄の幼女達の中から選びだされた初潮前の利発な聖女である。クマリには大女神ドルーガやネパール王国の守護神タレジュ女神または密教女神ヴァジラ・デーヴィーが宿ると信じられている。クマリに選びだされた幼女は両親の元から離されてこのクマリの館に住み込み、僧侶や付き添いの老女達に神としての振る舞い方を教えこまれ、人々の病気平癒や願望達成の祈祷を行いかつ国の運命に関する予言を行う。
インドラ・ジャトラの大祭には町を巡り、邪気を払い人々に繁栄と成功の力を与えるのである。我々が見学している時、クマリが窓から顔を見せて人々に祝福を与える日例行事の時間帯に丁度居合わせて、ほんの30秒程顔を拝むことができたが、固く禁止されているので写真の撮影はできなかった。 宗教色がいまだ日常生活に根強く残るネパールらしいクマリの館での出来事であった。
| 2004年05月11日(火) |
【エベレスト山を身近に観察したネパール� � |
▼ネパールの旅 カトマンズ、ポカラ、ペワ湖 2001年3月9日〜3月16日 朝早くホテルを出てカトマンズ空港へ行き30人乗りのヒマラヤ遊覧小型飛行機に乗り込んだ。前の方の窓側の座席が空いているのでこれ幸いと座り込んだが、窓外を見ると丁度翼の上に当たるところで見晴らしがよくないことが判った。しまったと思ったがもう遅い。条件の良い席はその間に全部ふさがってしまっている。
 それでも視界が狭かったにせよそれなりに雪に覆われた山々を近くから眺めることができ、今回山を見ようと思って参加した目的の一つは達成することができた。運が悪く雨でも降ろうものなら遊覧飛行もできなくなる可能性があっただけに、天候に恵まれたことを感謝すべきであろう。
似たような高い山が沢山あるので、目当てのエべレストがどれかなかなか判らなかったが、教えられてエベレストをなんとか目近に観察することができ視線を凝らして眺め続けた。エベレスト以外の山はどれがどれだか判らずじまいで1時間程の遊覧飛行は終わってしまった。
 遊覧飛行を終えて一旦ホテルへ戻り、近回りを歩いてみたがカトマンズはとても薄汚い町だという印象しか残らなかった。自然発生的に時間をかけて発展してきた町だということは理解できるが、再訪したいという意欲を起こさせる町ではない。
荒れ果てたヒンズー寺院を通りがかりにみかけたので構内へ入って見学した昔は学僧達が修業のために寝泊まりしたと目される宿坊は貧民窟化しているし構内中央に建っている塔も手入れが施されずに荒れるに任せていた。住民の汚い毛布や布団が階段に日干しされていたりして、昔の栄華を思うと哀れさを感じた。
また通りを歩いていると川淵の広場に人が集まって調理をしている場面を目撃したので、近寄って行き観察した。鶏をつぶしたものを大きな釜で茹でていたり、野菜を刻んでいたりした子供が豆の皮をむくのを手伝っている。多分街中の屋台か出店で売るための下ごしらえをしているものと判断したが、不衛生極まりない調理方法であった。川原では女達が食器を洗ったり洗濯をしていた。
午後からカトマンズ市内のスワヤンブナート 、ダルバール広場の見学に出か けた。スワヤンブナートは小高い丘の上に立てられたネパール最古の仏教寺院と言われており、仏塔の側壁に仏の目が描かれていて珍しい建物である。カトマンズを訪れた観光客は必ず訪問するといわれている史跡である。敬虔な仏教徒達が線香と蝋燭を備えている姿がそちこちに見られた。ここからはカトマンズの市内が一望できるロケーションである。
| 2004年05月10日(月) |
【桃源郷フンサ目指しカラコルムハイウエイを走る・・パキスタン�А� |
フーパー氷河の観光を終え再びカリマパードへ戻ってきて、山の中腹にあるバルティット城を見学に行った。
パルティット城からフンサの町を望む
この城は760年程前に築かれたフンザ土侯の居城で1845年まではミールと称される土侯が住んでいたところである。土と石で外回りを固めた城の中の部屋はジェニパルという名の木材が用いられており、この地方の一般的な住居の造りになっている。明かりは天井の穴からとるようになっており、冬寒く夏暑い気候に対処できる工夫がなされている。
フンザはフンザ渓谷の北部一帯を領域とする地域のことで1974年まではフンザステートとして内政の一切がミールに任されていてパキスタン領内の自治国であった。従ってフンザの人々はミールに対しては今でも絶大な敬意を払っており、特別な存在と見做している。現に新しい立派な宮殿にはミールが生活していて村人の相談事にも気軽に応じているという。ミールの経営するロイヤルホテルはフンザ第一の高級ホテルである。
フンザの人々はイスラム教徒であるがイスマイリー派と呼ばれる独特の一派でモスクを持たず、言葉もブリシャンスキーという独特のものを使っており、この言葉は周囲から全く孤立している。このためフンザの人々はアレクサンダーの遠征軍の末裔であるという伝説がある。住んでいる人々もギルギット付近の人達とはどこか異なった風貌を備えているように見えるし、フンザ人はなによりも誇りが高い。
フンザ地域の属するカシミール地方はその帰属を巡ってインドとパキスタンの間で紛争の種となりやすいがそれは以下のような歴史的な事情が背景となっている。
つまりイギリスの保護領であったカシミールは、1947年にインドとパキスタンがイギリスから独立したとき、住民の大半がイスラム教徒であったのに土侯がヒンズー教徒であったが故に帰属をインドとしたことから紛争が始まりインド・パキスタン間に戦争が起こって国連の調停で休戦となったのである。暫定の国境線が決められたままの状態が現在に至っているのである
翌日は更にカラコルムハイウエイを北上し、パスー氷河 とバトゥーラ氷河を見学に行った。氷河に近づくにつれフンザ川の両岸にそそり立つ山々には大昔に氷河が崩落した跡と見られる砂地の扇状斜面があちこちに見られ、堆積したモレーン(氷河が押し出した岩石や砂が堆積してできた山)がそちこちに築かれている。そしてその扇状の斜面の下部の砂原を直角に削りとるような形でフンザ川が貫流している。やがて左側の山間に氷河が流れ止まっているのを見ることができた。パスー氷河である。この氷河もフーパー氷河程ではないがかなり薄汚れた色をしている。
さらに北上してバトゥーラ氷河を見に行った。1905年に河口が現在位置にまで動いて氷河の長さは47kmに及ぶと言われているが、氷河の河口はモレーンになっており、素人目には岩石と砂の小高い山にしか見えずこの下に氷河が潜りこんでいるとはとても思えない。ただそうかもしれないと思わせるのはモレーンの麓に小さな池が二つほどできていて透明な碧色をしていることである。これが氷河湖である。微粒子で汚れた水も溜められて時間の経過とともに微粒子が沈殿して透明な色になっているのであろうと推測される。カラコラムハイウエイは丁度バトゥーラ氷河の河口のモレーンの裾野を通るように敷設されたのであろう。実際の氷河を見るためにはこの巨大なモ レーンを乗り越えて険しい山を登っていかなければ見ることができないという。
帰りにグルミット村で一般家庭 を訪問する機会に恵まれた。石組みと粘土で作られた塀の中はさらに迷路のような道が入り組んでおり、粘土と石組みで築かれた家の中へは小さな潜り戸を通って入る。入り口を入ると天井に明かり取りのある20畳敷程の広さの部屋があり、絨毯が敷いてある。部屋の真ん中には畳二枚分程の土間があり、冬には火を焚ける設計になっている。天井の明かり取りは煙突も兼ねているようである。台所兼用の居間の壁には皿が何枚も飾られていた。このような部屋が大小取り混ぜて一つの家が構成されているのである。
たまたま家長の老人が病の身を押して出てきて伝統の楽器で一曲民族音楽を奏でて歓迎してくれた。パキスタン人は大家族主義で祖父母、親子兄弟孫までが夫婦ともども一つ屋根の下で生活しているという現代の日本人にはとても考えられない生活がパキスタンの田舎では現実に営まれているのである訪問した民家の隣の家は女系家族で妙齢の娘達が十人近くも塀の中から顔を覗かせて、我々一行を物珍しそうに眺めていた。恐らく大家族内の姉妹、伯叔母姪という関係にある女性達だろうと思われる。
フンザの旅は大自然に没入し、身も心も洗われる思いのする至福の一時であった。
| 2004年05月09日(日) |
【桃源郷フンザ目指しカラコルムハイウエイを走る・・バキスタン�Α� |
カリマバードのホテルの屋上から四囲を眺めると北側にはお結び型のフンザピーク、細く尖ったレディスフィンガー、雪を被って尾根が波うつウルタル1とウルタル2。東に目を転じれば遙か遠くに、雪を被ったなだらかな姿を見せるパタレーピーク。南にはちょっとだけ顔を出したゴールデンピークデュラーレン、ビューティースリーブ。西には右下がりの尾根の見えるラカポシと目立つものだけ拾ってもこれだけある。このほかに名もない山々が群集しているのが眺望できる。南側の山々の麓は剥き出しの岩肌を見せ、切り立った断崖の下に広がる砂原にはインダス河が激しい水勢で流れている。そしてゆるやかなスロープになった段丘にはポプラの林や杏林と麦畑が広がっている。よく見ると灌漑用水路が四通八達しているのが判る。このような山岳地帯ではたゆみなく水の管理が丹念に行われているのである。人の営為があってこそ豊かな緑が維持できていることが判る。人々は坂道をとことこ歩いていて自転車やモーターバイクに乗る人はいない。今は緑一色であるが、杏の花の咲く頃はまさに桃源郷であるに違いない。
 ホテルの洗面所で水を出してみて驚いた。灰色なのである。いくら放水してみても色はそのままである。備え付けのタオルは薄炭色に染まっている。これがフンザの普通の水である。現地の人達はこの水で顔を洗い、野菜や食器を洗い、洗濯をして生活しているのである。流石に飲み水だけはこの水を貯めて長時間かけて沈殿させ、上澄みを用いているようである。蛇口からふんだんに透明な水を何時でも利用できる日本人には想像を絶する体験であった。ここでは水とはこんなものだと思いこんでしまえば顔を洗い、洗濯するのも苦にならなくなるものである。肌はすべすべしてくるし潤いが感じられる。流石に飲料にはミネラルウオーターを使った。試しに上澄みを沸かした湯でお茶を飲んだり持参したウイスキーを割って飲んでみたが腹を下すこともなく却って体調も良くなった。フンザが世界でも有数の長寿村である秘密は案外この水にあるのかもしれない。 翌朝、外が白みかけるのを待ってカリマバードの町中を小一時間散歩した斜 面を上へ上へと上がって行くと道の両脇に商店が立ち並んでいるバザールがあるが、早朝なのでどこも店が閉じられていて人通りもなく静かである。四囲の山々は時々刻々その色合いを変化させて美しい。雪山に朝の光が部分的に当たって輝いていたり、明るい所と陰の所がくっきりと対比されたりしているが日の出と共に次々と色合いが変わっていく。 やがて道路には働きに出掛ける人々がそこここに現れ車が迎えにくるのを待 っている。 ちいさな集落なのでそれはちらほらといった感じである。多分道路工事の人夫として稼ぎに行くのであろう。幌をかけたトラックが賑やかにホーンを鳴らして近づいてくると器用に飛び乗っている。
通りがかりに顔を合わせた村人には誰彼となく「ハロー、グッドモーニン グ」と挨拶すると例外なくにこっと笑って「グッドモーニグサー、ハウアーユー」と返ってくる。年輩の人でもそうである。イギリス統治時代の影響なのであろうか。帰りに13歳の少年と道々話しながら歩く機会を得た。彼は綺麗な英語を話す。私の話すブロークンの英語をよく聞いていてV音やTH音を正してくれたりした。彼の言ったことの中で英国人は傲岸で怒りっぽいのに対して日本人は紳士的で優しいから日本人のほうが好きだといった言葉が印象に残っている。
ホテルに帰ってからジープに分乗し、フーパー氷河の観察に出掛けた。狭く急な坂道をジープが曲がりくねりながら進んでいくと高度はどんどん上がるし切り立った崖縁を通る時には冷や汗が背筋を伝う。やがてナガールの集落に到着した。ここでは杏畑と麦畑が広がっていて畑では女性達が草取りをしていたり流れで洗濯をしたりしている。鍬で田を耕している老人の姿も見受けられるここではゆったりと時間が流れている。傍らでは子供達が大勢屯して水遊びしたり走り廻っている。我々のジープが止まると子供達は物珍しそうに美しい瞳を輝かせながら集まってくる。田園風景と朴訥な人情が四囲の山々と調和して実に長閑で心安らぐものを覚える。 ここからはレディスフインガー、ウルタル、ゴールデンピーク、シャルダル ピーク等の山々がカリマバードのホテルの屋上から見たのとは違った角度と大きさで眺めることが出来、山の姿の多様な美しさに感慨一入である。ナガールで美しい山の景色をカメラに収めてから、ジープはフーパービレッジに到着した。ここにはヒルトンという休憩所が設けられていて、飲み物のサービスが受けられるようになっている。縄張りの外には現地の大人や子供の物売り達が手彫りの石の像やガーネットや水晶、青石等を手にして待ち構えている。
暫し寛いだ後、見張らし台に登ると眼下にフーパー氷河が広がっている。氷河とはいうものの色は薄黒く、丁度都会地に積雪後、雪掻きをして道路脇に積み上げた雪山が溶けかけてアスファルトの粉塵と混じり合い薄汚れているのと同じような色をしている。このカラコルム山系の地質がしからしむるところなのか、灰色の勝った氷河である。
| 2004年05月08日(土) |
【桃源郷フンザ目指しカラコルムハイウエイを走る・・パキスタン�ァ� |
緑地と荒蕪地が交互に現れる光景を見やりながらフンザ目指して高度はますます上がって行く。 そのうちインダス河にギルギット川が合流する地点に到着した。ここはカラコルム山脈の山中を源流とするギルギット川とヒマラヤ山脈の山中を源流とするガンジス河が合流してガンジス河一本に合体する地点である。北に向って右側にはヒマラヤ山脈、中央にはカラコラム山脈、左側にはヒンドゥクシー山脈が三方向から競り合っている地点でもある。天気は晴朗で空は抜けるように青く、外気温は40度近いが空気は乾燥していて汗をかかない。高度は1500m位であろうか。この地点で暫し休憩してから険しい道を走行するうちに木立が現れ、やがて小高い山に星と月とマルコポーロシープの絵模様が刻まれているのがみえるようになるとギルギットの集落である。ギルギットの町には小さな飛行場もあり山中の交通の要衝になっている。ギルギットの町中をしばし散策してから再び車中の人となりフンザへ向けて出発した途中ラカポシビューポイントで小休止した。この地点の海抜は1800mであり、高さ7788mのラカポシ登山のペースキャンプが敷設される集落内にあるビューポイントである。
 実際のベースキャンプはこの場所より更に600mほど下った海抜1200m地点に敷設されるので、登山家にとっては実登山距離が世界一高い山になるということである。天気は快晴で美しい山の姿に暫く見とれていた。氷河らしきものも山の裾に遙に見えている。
再び高度を上げながらバスはフンザへ向かって進んで行く。次第にポプラの木が多くなり杏の畑が山腹に開けた所がフンザ地方のカリマバードであった。既に高度は2500mになっている。宿泊したビューホテルはインダス河の岸に近い所であるが、屋上に上がって見渡せば四囲の山々を展望することができる絶好のロケーションである。今宵は桃源郷でどんな夢を見るであろうか。
| 2004年05月07日(金) |
【桃源郷フンザ目指しカラコルムハイウエイを走る・・パキスタン�ぁ� |
緑地と荒蕪地を交互に眺めながら高度は次第に上がって行く。 やがてパキスタンでは第二に高い山ナンガーバルパット8125mが見えてきだした。 ところで、パキスタンで一番高い山はK二の8611mであるがこの山はエベレスト8848mに次いで世界第二の高峰である。パキスタンには8000m以上の山が57山もある。6000m以上8000m未満の山が105で4000m以上6000m未満では600もありこの中には名前のついていないものがかなりあるという。まさに高山王国である。
チラスのホテルでは久しぶりに充分の睡眠を取り、朝8時半にはフンザへ向けて243kmの旅程を五時間で走破する予定で出発した。窓外に見える光景は昨日とあまり変わらない。
 時に切り立った山間の谷を流れ落ちてくる雪解け水の流れは、色も澄んでいて白い泡をたてていた。この流れがインダス河に流れこむ箇所だけは色が青くなっているが、すぐに灰色に呑み込まれてしまうのである。また荒涼とした岩肌の山の中腹に鉢巻きを巻いたように緑色の帯が横に長く延びているのが見えることがある。これはパイプラインを敷設して送水している所だという。パイプから漏水して植物が育っているのである。このような景色を見ると水が如何に植物にとって大切なものであるかが如実に理解できる。 緑地と荒蕪地が交互に現れる光景を見やりながらフンザ目指して高度はますます上がって行く。
| 2004年05月06日(木) |
【桃源郷フンザ目指しカラコルムハイウエイを走る・・パキスタン��】 |
パターンの集落を過ぎると次第に周囲の様相が厳しいものに変わってくるインダス河は断崖の遙か下を激しい勢いで流れており、周囲の切り立った山々には草木一本生えていない荒涼たる光景に変わる。
しかも水の色は丁度セメントを水に溶かしたような灰色をしており、岩石に激突して泡立つ波の色さえ灰色である。更に通っている道路は岩盤を爆破して切り開いたもので、頭上の岩盤にはひび割れが生じていて、今にも巨石が落下してくるのではないかという恐怖にかられる。その上、道幅は狭く路肩が崩れている箇所さえあるので、対向車と行き違うときには思わず手足に力が入り、冷や汗が背筋をしたたり落ちる。
インダス河とは当地で使われているウルドウ語で「危険な河」という意味の通り、河の流れはとても速い。不思議なことに河が流れているにもかかわらず河岸には緑が見当たらない。インダス河には魚さえも住んでいないというから不可解である。何故かと同行の人達と議論になったが、微粒子を含んだ水では魚も鰓に砂が溜まり呼吸ができなくなるからではないかという結論に達した。またこの河には危険で渡し舟も使えない。
このカラコルムハイウエイでは軍隊から派遣された兵隊が二人一組でブルトーザー1台を守って野営しているのを目撃した。崖崩れが生じたときには直ちに駆けつけて応急措置をとるためだという。ことほど左様に崖崩れの多い道路なのである。
 たまに道路沿いに生えている街路樹は植樹されたもので、水の少ない場所に強いディヤァールという木である。 草木の全然生えていない荒涼とした山岳と遙か断崖の下を激しく流れるインダス河を窓外にみながら進んで行くと突如として、緑の段々畑が現れ立木も何本が立っていて、石組みと土で作った民家が畑を見守るロケーションでうずくまっている場所が現れる。砂漠でいうオアシスである。
| 2004年05月05日(水) |
【桃源郷フンザ目指しカラコルムハイウエイを走る・・パキスタン�◆� |
バスはペシャーム目指して出発した。走っている道路の両脇にはユーカリの 木が植えられている。この道はマルコポーロも通った絹の道であり現在はカラコラムハイウエイと呼ばれている。この道路は北京からカラチまで7250キロメートルを結んでいて、1976年に全線開通した。開通までに10年を要し た大工事であったという。 このカラコルムハイウエイをひたすら北上し、バットグラムと呼ばれる集落あたりまでは比較的平坦な道が続き周囲に広がる田畑は緑豊かである。ハイウエイとはいうものの、舗装が施されているというだけの道でところどころ穴があき、補修も完全には行われていないがたがた道である。往復一車線宛のこの道路は専ら自動車が走行しており自転車やモーターバイクは殆ど見かけられない。たまに農業用トラクターが走行していることもあるが一番多いのは満艦飾に飾ったトラックである。たまに山羊や羊の群れが悠然と道路を歩いていることもある。行き交うスズキと呼ばれるタクシーには鈴なりのものもあれば、スカーフを被って顔を隠した若い女性が幌の陰にひっそりと相乗りしているものもある。スズキとはスズキの軽トラックのことであるがこの国では荷台に腰掛けを取り付けて幌を被せ、人員輸送のために転用されているタクシーを意味する。 2時間ほども北へ向かって走行し、バットグラムの集落を過ぎた頃から道路は次第に山道に入り、周囲は松の木がまばらに生えている山の風景に変わる。やがてインダス河と合流し、河岸を曲がりくねりながらも、どこまでも北へ遡及していくにつれ、道は険しくなっていくが、川沿いに河岸段丘が開けてきて河の両岸に丹念に手入れされた棚田が現れる。ここはパターンと称される集落である。棚田には水が張られて光っているものもあれば、麦が実って黄色く光っている畑もある。田植えが終わって青々と繁っている水田もある。何枚もの小さな区画の段々畑が山腹を扇状に広がっていく景色は美しい。しかも青田ではスカーフを頭から被った女性が草取りをしていたり片方で水牛二頭に鋤を引かせた農夫が水田 を耕していたりするかと思えば、他方では農夫が畑を鍬で耕していたりする。日本でも50年前には見られた長閑な田園風景が静かに息づいている。瀬戸内海の島々で一昔前に見られた段々畑以上にアジア的な高度集約農業の原風景が残っていた。この集落では手前の道路から河を隔てた対岸の道路までおよそ1kmほどの距離にワイヤーを張り、籠をぶら下げて人員輸送をしている。6人が定員の村営ロープウエイである。ロープウエイの下には河岸段丘の棚田が広がっている。
| 2004年05月04日(火) |
【桃源郷フンザ目指しカラコルムハイウエイを走る・・パキスタン� � |
▼パキスタンの旅 ラワルピンディー、ペシャーム、チラス、ギルギット、フンザ、グルミット 2000年5月8日〜15日 フンザへの旅は初日にラワルピンディーからペシャームまで236kmペシャームからチラスまで206km、合計442kmを実走行時間9時間で踏破しようという長丁場のバスによるドライブで始まった。 バスに乗り込もうとホテルの前へ出て最初に目に入ったのは、銃を肩にした二人の兵隊である。警察かなと思ったが、銃を携帯しているのが物々しすぎるので軍隊かと聞いてみるとそうだと言う。何故軍隊がホテルの警備をしているのかと問うと、1999年10月の政変以来、軍部が主要なホテルや企業や政府 機関に監視役として派遣されるようになったという。兵隊が目付役として駐在 しているだけで、従業員の規律がよくなり、勤務中の私用や私話がなくなった し、賄賂が減って業務効率が向上したというのである。ガイドの話では検問所も軍隊が監視のため駐在するようになって、車がスムーズに流れるようになったし、民衆も今のところ軍事政権を歓迎しているという。政変以前のシャリフ政権の金権腐敗政治がそれほどまでに末端の規律を弛緩させていたとは驚きであった。シャリフ元首相は最近終身刑が確定したが、人の上に立つ指導者が堕落すると国を滅ぼすことになるという実例を見る思いであった。と同時に軍事政権がいつまでも続くと、ミャンマーや北朝鮮のような密告という人間のおぞましい性向を助長し、やがて民衆を新たな不幸に陥れるようになるのではなかろうかという危惧の念が頭を掠めた。 次に目に入ったのは赤や青色で派手に装飾した霊柩車の往来である。霊柩車と思ったのは実はトラックであった。走っているトラックはすべて赤、青黄色緑色などさまざまな色を使い、思い思いの絵柄で華やかに飾りたてているしかもトラックは背高く荷物を積載しており、過重積載ではないかと思われるほどである。また小型トラックの荷台には人を満載し、後部バンパーを加工した踏み台にも人が立ったままでぶら下がっているだけでなく、天井にも何人かへばりついている。
| 2004年05月03日(月) |
【路面に湧き出るモーターバイクの大群・・・ベトナム��】 |
翌朝4時半にまだ暗いうちにホテルを出発し、フエへ赴くべく空港へ向かった。早い時間にもかかわらず続々と白人の団体観光客が集まってきた。飛行機はほぼ満席であった。ガイドの話ではベトナムを訪れる観光客はフランス人がもっとも多く次に日本人であるという。韓国人も増えつつあり、アメリカ人も最近多くなってきたそうだ。アメリカ人や傭兵のような立場で参戦した韓国人にとっては苦い思い出しか残らない国なのであろうが父祖が戦役で苦労した場所を次世代に見せておきたいという戦跡めぐりツアーに人気があるようである。
 フエはベトナム中央部にある古都であり、阮王朝の首都がおかれていた所である。四季のある美しい学都でもある。日本でいえばさしずめ京都といったところか。1993年には、ユネスコの世界遺産に指定された。人口は80万人で農業従事者が60%に及ぶ農村である。この町の美しい風景を題材にした音楽が沢山作られていることでも有名らしい。
先ず阮朝の王宮を訪問した。この王宮は外堀に囲まれており、ほぼ方形の敷地の広さは38haもあるが建物として残っているのは午門、大和殿、顕臨閣、フラッグタワーだけである。その他はベトナム戦争時1966年のフエ攻防戦で破壊されてしまった。 午門は第二代皇帝ミン・マン帝(1820〜1840)の時創建され第12代カイ・ディン帝(1916〜1916)の時再建された。この門には三つの入り口があり中央の入り口は皇帝しか使用できない。この門を通ると正面に赤い屋根で平屋の大和殿があり、建物内の中央には金箔の玉座が置かれている。ここでは皇帝の即位式が行われた。最後の皇帝バオ・ダイ帝(1925〜1945)もここで退位したのである。 フエのマーケット この建物は紫禁城を模して作られたといわれている。初代ザー・ロン帝(1802〜1820)が創建したものであるが、ベトナム戦争中に破壊されたものを1970年に再建した。この大和殿の屋根の上には皇帝の権威の象徴である竜の彫刻が九つ置かれて舞っている。大和殿の横には顕臨閣があり阮王朝の菩提寺である。残りの広い敷地には草が生えところどころに礎石だけが見受けられる。僅かに残っているコンクリート製の壁には銃弾の痕跡が今なお残されていて激しく戦われたフエの攻防戦を偲ばせる。またこの阮朝の王宮跡に佇んで掲額や調度品に書き込まれた漢文に接すると改めて、中国文化の影響の大きさを感じる。
 翌日の午後ホーチンミン市から70km北西に位置するクチの地下トンネルへ向かった。クチへ到る道路には依然としてモーターバイクの大群が疾駆しており、しかも排気ガスから呼吸器を守るために、布切れで覆面をしているライダーが多い。一見覆面強盗の群れが疾駆しているかと見紛うような異様な光景である。アオザイを風に靡かせながらサングラスに覆面をしてモーターバイクを走らせている若い女性の姿は見物であった。 クチ近くになると交通量も少なくなり道路の周辺には稲田や林が広がっており、樹木の下では牛がのんびりと草を食んでいる牧歌的な風景が現れる。このように静かで長閑な田舎で激しい戦闘が行われたとは俄には信じられない。
 ベトナム戦争当時、この地域には解放戦線の拠点が置かれ、鉄の三角地帯と呼ばれ難攻不落の場所であった。アメリカ軍は何度も空爆を繰り返し、大量の枯れ葉剤を投下して密林を裸にしてしまった。身を隠す樹木が無くなっても解放勢力は地下に掘ったに籠もってゲリラ戦を続けた。総距離250kmにも及ぶ手掘りのトンネルは深さ3m、6m、8mの三層構造になっておりトンネル内には会議室、参謀室、寝室、台所、病院まで備わっていた。トンネルの土は粘土質で意外に固く、入り口は直径30cm程の穴で穴の上に板を置いて落ち葉を被せれば発見することは難しい。またトンネル周辺やトンネル内の要所には落とし穴が設置されていて落とし穴にはさまざまな工夫の施された針が仕掛けられていて容易に敵が侵入できないようになっている。トンネルの一部は観光用に開放されている。 翌日、ホーチンミン市内を観光した。サイゴン大教会は19世紀末に建てられた赤煉瓦作りのカトリック教会である。サイゴン大教会のすぐ横には一見鉄道の駅舎かと思わせるような建物がある。これは中央郵便局でフランスの統治時代に建てられたものである。このあたりはいかにもフランス文化の香りが漂うような町の佇まいである。
| 2004年05月02日(日) |
【路面に湧き出るモーターバイクの大群・・・べトナム�◆� |
初日は9時にホテルを出発してホーチンミン廟を見学した。ハノイの気候は まだ肌寒いくらいでこの季節の3月、太陽が顔をみせずどんよりと空は曇っている。しかし雨が降るわけではない。特異な天候である。
ホーチンミン廟近くへ来ると長い行列ができている。これは廟内にガラスケースの中に冷凍保存されて安置されているホーチンミンの遺体に対面し、祈りを捧げるためにやってきたベトナム人や外国の観光客達である。毎日このようにひきもきらさずベトナム人達の長い行列ができるということだから、民衆に慕われ「ホー小父さん」と呼ばれた建国の父ホーチンミンの人柄と偉大さが偲ばれる。廟の裏手には1969年に亡くなるまで住んでいた高床式の住居も残されていて質素な遺品なども当時のままの姿で保存され展示されていた。
次に訪れたのは文廟 である。この廟は1070年に孔子を祀るために李朝によって建てられた廟で、1070年には境内にベトナム最初の大学が開設された。大学施設として使われていた建物の中でも19世紀の阮王朝時代にできた奎文 閣には82の石碑がそれぞれに顔の違う亀の上に乗って建っているこの石碑には15世紀以降約300年間の科挙試験合格者82名の名前が刻まれている。
石碑には本人の出所や来歴がこと細かに記載され称賛の言葉に満ちているこの文廟を見ていると碑文は全て漢文であり、建物も中国風なので、中国の勢威がこの地にまで及んでいたことを史跡として現実に認識することができた。
李朝は1010年に李公蘊が昇竜(タンロン現在のハノイ)を都として定め国号を大越と称したベトナム最初の長期王朝であった。李朝は宗代の中国の制度を多く取り入れて国家を充実させた。科挙の制度や仏教を取り入れたのもこの王朝である。仏教の導入により文学や芸術も普及した。ベトナムの歴史はその大半が異民族に支配され続けた歴史であるともいえるのだが、この李王朝はほんの一瞬だけベトナム人が輝いてみせた独立王朝であったと思うと感慨深いものがある。
この後ホアン・キエム湖の中ほどの島にある玉山寺へ行った。この寺は18世紀に建立され、文学の神スオン王や武将チャン・フン・ダオ(陳興道)等が祀られている。この武将は13世紀に3回、元の侵攻に対してこれを撃退した民族的な英雄である。1257年、1285年、1288年の3回にわたっての来襲に対して、よく戦いこれを撃退した。その戦法の一つは例えば、海岸線の浅い海底に沢山の杭を海面と垂直方向に設置しておいて干満の落差を利用して大型戦闘船で来襲した元の船隊の船底に穴をあけようというもので創意溢れるものであった。ベトコンが地下にトンネルを掘って米軍に抵抗した時、落とし穴に仕掛けた釘や針の山もこの民族の英雄チャン・フン・ダオの戦法に学んだのではないかとふと思った。
民族学博物館では54もある各種民族の衣装や生活用具、住居の模型等を見学した。ベトナムは多民族国家であり民衆は国籍とともに民族籍とでもいうようなものをもっていることがよく分かった。民族分布の地図を見るとそれはあたかもモザイク画のような細かい模様になっている。一番多いのはキン族(ベト族とも言われる)で約5600万人おり、主に平地に居住し全人口の90%を占めている。残りの10%が53民族に別れる少数民族である。
| 2004年05月01日(土) |
【路面に湧き出るモーターバイクの大群・・・ベトナム� � |
▼ベトナムの旅 ハノイ、ホーチンミン、フエ、クチ 2000年3月8日〜3月13日
ハノイ市内へ入ったとき驚いたのはその夥しいモーターバイクの大群である特に出勤時や退勤時のモーターバイクが、我が物顔に路面一杯に広がって往来する光景は、絶えず路面から沸いてきて路面を疾駆すると言ったほうがいいのかも知れない。交通信号のない所を自在に右折し且つ左折していくモーターバイク。接触事故を起こしそうでいて、不思議なことにこれが起きない。
 「注」ここではホーチンミン市で撮影した画像を載せたが雰囲気はハノイも同様である。
そこには無秩序に見える流れの中にも事故の起きないシステムが神様の手によって組み込まれ、働いているようにさえ見える。この流れの中を平然と横切って横断する歩行者もかなりの数見受けられる。歩行者は立ち止まることをしない。悠然とあたかも散歩でもしているようなリズムで歩く。歩行者の目指す方向と歩行速度が認識できるとモーターバイクの流れはこれを巧みにかわしながら流れるのである。ちなみにモーターバイクのスピードは20km/時程度である。この流れの速度とリズムの感覚を掴みきるまでは外来の異邦人には町中を散策することは困難である。
ガイドに聞いてみるとモーターバイクは一台2000$(US)〜2500$であるのに対して、平均的な庶民の収入は月当たり25$〜30$程度であるというから、余程の蓄えがあるか長期間の月賦によらなければ買えない理屈になる。そこで月賦制度について聞いてみると頭金3分の1で残金は2年間の月賦払いが通常の支払い条件であるという。そしてモーターバイクや車の中古品の売買は国産品(日本と提携した組み立て工場がある)奨励のため最近禁止されたというから走行するモーターバイクは新車が多い。
しかも往来するモーターバイクに乗っている人々の服装は小奇麗で特に若い女性の色鮮やかなアオザイは美しい。市場には豊富にありとあらゆる生活物資が並べられており、これを購う人々も品物を厳しく吟味している。このような現象を瞥見しただけでもこの国の民衆の生活水準は相当高そうである。訪問する前の予想に反して社会主義を標榜するこの国の庶民の生活は開放経済化の成果なのか活気に満ちていた。
この国では1975年にサイゴンが陥落し南北ベトナムが統一された時、金や米ドルで箪笥預金されていた民衆の蓄えが約20億$あったといわれておりまた戦乱を逃れて外国へ避難していた裕福な人々からの送金が年10億$くらいあるともいわれている。こうした蓄えがベースになって現在の活況を呈しているものと思われる。
『稼ぐ宣伝代行』
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