| 2004年06月30日(水) |
【西洋文明発祥の地ギリシャ・・�◆� |
翌日はピレウス港から観光船のエルメス号に乗ってポロス島、イドラ島、エギナ島の順番でエーゲ海の島巡りをした。
ポロス島は小さな島で時計台がある島である。島からの風景を楽しむ所謂風光明媚な場所であるに過ぎないが、富裕階級が別荘を構えているリゾート地である。ここでは朱色の屋根と白壁が特徴である。 次にイドラ島へ渡った。この間エルメス号で魚のくずし身とチキンの昼食を摂り、葡萄酒の搾りかすから醸造するウゾという酒を飲んだ。これは水を入れるとカルピスのように白濁する酒で松脂を加味してあるので独特の香りをもっている強い酒である。イドラ島も富裕階級が別荘を建てて住んでいて水と車のない島である。乗船場にはポニーが数頭用意されていて観光客を乗せて馬子が手綱をとり島内をポクポク巡回していた。島民は雨水を貯めて飲料としているし定期貨物船が積んでくる水に依存しているという。この島の中を小一時間あてもなく路地を散策した。島の教会へも入ってみたが、構内はかなり広くギリシャ正教であった。ギリシャ正教の特徴は偶像崇拝は認めないが聖人や聖母を描いたイコンという絵を飾るのが特徴である。絵は平面的であるから偶像とは言えないという解釈なのであろうか。面白いへ理屈だと一人ほくそ笑んでいた。
最後のエギナ島は半漁半農の島でピスタチオの木が沢山植えられていた。 ここではオプショナルツァーに参加してドーリヤ式アフィア神殿を見学に行った。これは紀元前6世紀末から5世紀初めに建てられた神殿でアルカイック時代の神殿の中では最も優れた建築の一つと言われている。32本あった柱の内、今は24本だけが残っておりエギナ島で産出する石灰岩で造られている。今日の日程はこれで終わり、アテネのホテルでの夕食はムサと呼ばれるギリシャ料理を堪能した。ムサは馬鈴薯と茄子と魚のすり身を重ねて蒸したもので淡白な味である。
次の日からアテネを離れて、エピダウロス、ミケーネ、デルフィー、メテオラとそれぞれの遺跡や名所を駆けめぐって三日振りにアテネへ戻り、国立考古学博物館を見学した。その日はギリシャ正教の復活祭で教会は混雑しており、その影響でここにも人々が溢れかえっていた。この博物館は百五年前に建てられたもので白い列柱を沢山持ち正面から見ると横に細長い建物である。ここには先史時代(前1万年〜前16世紀)からミケーネ時代(前166世紀〜前12世紀)を経てローマ期(前31年〜1453年)までの貴重な展示品が並べられている。駆け足で有名なものだけ拾いながら観賞したがその幾つかを記してみると、 先史時代の「竪琴を弾く人物像」「フルートを吹く人物像」、ミケーネ時代の「黄金のマスク」「黄金の杯」「印章石」、ポセイドンのブロンズ像、馬に乗る少年のブロンズ像ディアドゥメノスの像、パルテノン神殿のアテナ女神像等がある。
ギリシャ神話やギリシャの歴史を勉強して再度訪問してみたい魅力的な博物館である。
次にリカビトスの丘へケーブルカーで登った。ケーブルカーは予想に反してトンネルの中を登っていくだけなので周囲の見晴らしは全然きかなかった。しかし、ケーブルカーから降りた途端に、四囲にアテネの市街が広がっており素晴らしい展望であった。アクロポリスの丘やオリンピック競技場の全景が手にとるように見渡せた。頂上にあるセント・ジョージという名の小さな教会には今日の復活祭に祝福を受けるためお参りをする信徒が正装して詰めかけていた。教会内では敬虔な老若男女の信者達が神父から月桂樹の葉とフエニックスの葉で作られた十字架を恭しく授けられ十字を切っていた。
続いてスニオン岬までポセイドンの神殿を見学するため長駆バスで走行した。岬には所狭しと観光バスが詰めかけており、岬の突端には十五本のドーリヤ式円柱を白く輝かせて神殿が建っていた。祭神のポセイドンは海の神とされているが、ギリシャ起源の神で大地と関係が深く、元来は地震の神や川の神であったが、この神を崇拝する人々がギリシャへ侵入してからのちに、その領域が海に及び、のちには主として海の神になったものと考えられている。この地の神殿はアテネのパルテノン神殿より数年後に建てられたと言われている。夕焼けが白い大理石と映えて美しいことで有名であるが、日没が午後八時半頃なので、残念ながら時間がなくて見ることができなかった。
夕食はアテネ市内のプラカ地区のタベルナ(居酒屋)で民族舞踊を鑑賞ながらギリシャ料理とワインに舌鼓を打った。ギリシャ料理の肉はよく炊き込んで筋や軟骨まで柔らかくなっているのが特徴である。司会者の巧みな誘導に釣られて舞台に上がり年齢を忘れて踊りに興じる同行の人達もあってギリシャの夜を大いに楽しんだ。
エピダウロス、ミケーネ、デルフィー、メテオラを訪れた。バスはギリシャの工業地帯を通ってミケーネへ向かってひた走る。工業地帯を通過するときはえも言われぬ嫌な臭いが鼻をつく。周囲を見ると石油精製工場や化成品工場とおぼしき工場から煙がむくむくと立ちのぼっている。阪神工業地帯や京浜工業地帯の規模には及ぶべくもないが数個の工場群が立ち並んでいる。 やがてバスはトイレ休憩をすることになった。場所はペロポネソス半島とギリシャ本国とをあたかも瓢箪の括れの箇所で繋ぐコリントスの地である。ここにはコリントス運河が設けられており、エーゲ海とイオニア海を僅か6km 強の長さで繋いでいる。幅24m、深さ80mのこの運河はギリシャの海運と物流に計り知れない恩恵をもたらしている。たまたまこの運河をタグボートに曳航されながら渡航する貨物船を目撃するチャンスに恵まれたが、運河の幅一杯の船幅の貨物船が悠然と半島を横断する雄姿は深く切り込まれた運河の黄土色の土壁と海面の碧青色とのコンストラストとあいまって、美しく絵になる風景であった。
医神アスクレピオスの聖地エピダウロスには一万四千人を収容できる古代の石造りの円形劇場がある。起源前四世紀の建設であるが、極めて良好な保存状態で残されている。ディオニソスの祭壇跡と呼ばれている中央広場地面の中心点にあたる小円に立って発声すると、上方に広がった観客席の隅々まで肉声が届くという音響効果抜群の施設である。この広場の中央の地点から最上段までは、高さ22.5m、段数は55階段あり、扇形で上方へ末広がりに延びてゆく立体的な劇場遺跡は日本には見られない優れた文化遺産である。あの有名な声楽家マリア・カラスがここでデビューしたことでも知られている。中心点に立って拍手すると最上階の55段目に着席していてもその音が聞き取れるし、中心点で紙を破り、紙を揉む音の違いも聞き分けることができる程の素晴らしい設計である。その素晴らしさの秘密は、黄金分割率を駆使した設計にあるといわれており、ギリシャ人の優れた資質を改めて再認識させられる遺跡であった。
観光客なら誰でもこの音響効果抜群の地点に立って手を叩くなり、歌の一節なりとも歌って試してみたくなるところである。それをずうずうしくも凡そ十分間も独占してゲーテの詩をドイツ語で朗読した強者がいた。聞いてみるとドイツからの観光団の中年男性で、高校の国語の教師であった。これに続いてドイツの若い女性が衆人環視の中で歌曲を一曲披露した。さすが、ドイツ人は音楽の好きな自己顕示欲の強い民族だなと感心して聞いていると、我がグループでもH夫人が自慢の喉を披露するというハプニングがあった。万事控えめでおしとやかなH夫人であっただけに人は見かけによらぬものとの思い一入であった。
雨がそぼ降る中を暫く走行してやがてバスはミケーネの遺跡ヘ到着した。 ここは紀元前1600年〜1400年頃栄えたミケーネ文明の遺跡で山々に囲まれたアルゴリス平野の北端の小高い丘の上に城砦跡がある。この遺跡はトロイを攻撃したギリシャ軍の総指揮官ミケーネ王アガメンノンゆかりの地であると考えられており、1876年にシュリーマンによって発掘された。
この城砦はアクロポリスの原型ともいえる形態である。獅子の門には大きな三角石に二頭の獅子が浮き彫りされていて当時の権力を誇示しているかのように見える。この門をくぐり抜けるとすぐ右下に円形墓地があって、直径26.5mの穴を穿っている。この墓地からアガメムノンの黄金のマスクその他数多くの陶器や武具が発見されてアテネの考古学博物館に展示されている。生憎雨が強くなってきたので、滑りやすい頂上の城跡へ登るのは、安全上諦めて平地にある「アトレウスの宝庫」へ歩を進めた。この宝庫の内部はとても広くて、強力な王権の存在を証明するものである。入り口には三角形の石を用いており天井は石組みのドームになっている。発見された時には宝物は何一つ残されておらず盗掘のための侵入孔もなかったというからミステリーめいている。多分天井ドームの頂点に穴をあけ、縄を吊るして侵入し、宝物を盗み出したのではないかと推定されている。
ミケーネからデルフィーに至る道路の周囲にはユーカリの木、糸杉、オリーブ、オレンジの木々が立ち並び、一方で黄色いみもざの花やエニシダが咲き誇れば、他方では赤紫色のユダの花もこれに負けじとばかり妍を競っていた。ユダの花はギリシァ語ではクツピアというらしいが花蘇方によく似ていて非なるものである。山腹や田野に立ち並ぶ民家は一様に橙色の屋根に白壁であった。そのうちにバスは山中に入り、やがて峠を越えると遠く前方の山腹に折からの陽光を受けて白く光っている小さな町並みが見えてきた。これがパルナッサッソ山に抱かれたデルフィーである。遠望するとそこは山深く雲が立ち込めていそうで如何にも神域という感じのする場所である。デルフィーの町に到着して、標高650mの所にあるボウザホテルの部屋から見下ろすと山々に囲まれた平地は一面オリーブ畑で埋めつくされており、遙に望める低地のドルフィンの村落まで続いていた。
デルフィーの博物館へ入ると階段の踊り場にデルフィーの神託が行われた「大地の臍」と呼ばれている石が展示されている。その他展示場は全部で11室に別れていてアルカイック時代(前800年〜前500年)からローマ時代(前31年〜1453年)までの美術の変遷を見ることができるようになっている。
古代世界でのデルフィーはギリシャの聖域であるだけではなく、全世界の中心と考えられていた。デルフィーが世界の臍であると信じられていたのは世界中の都市国家がアポロン神への信仰を持っており、その神託で国の運命を決定するという祭政一致の世界観を持っていたからである。アポロン神はもっともギリシャ的な晴朗な神で神話ではゼウスとレトの子でアルテミスと双子の兄妹で、音楽、弓術、医術、託宣を司るものと考えられていた。ときとして太陽神ともみなされていた。デルフィーの歴史は神話と伝説の世界にその起源をもっている。ミケーネ時代(紀元前12世紀)からこの地は神を祀る場所になっていたがその全盛期は紀元前6世紀頃に迎えた。このデルフ ィーの神域はローマの皇帝テオドシウス(379〜395)によって閉鎖され衰退した。
デルフィー遺跡の入り口から曲がりくねった参道を登って行くと、険しく迫る山を背景にアポロン神殿跡がある。往時には岩間から立ちのぼる蒸気を吸って神がかりになった、巫女が神の御告げを授ける神事が行われたのである。
神殿に至る参道の両側には多くの都市国家が神託の御礼として奉納した宝庫や奉納記念碑が立ち並んでいた。しかし現在の姿は礎石や折れた石柱が並んでいるだけで説明がなければ素人目にはそれが何であったかはよく判らない。それでもアポロン神殿だけは柱が数本立ち残っており、敷地の区画を辿ってみるとその神殿の規模を想像することは可能である。アポロン神殿から更に上へ登っていくと円形劇場があり、これは保存状態がよいので即物的に素人目にも劇場であることが判る。劇場から更に上へ十五分ばかり登っていくと山の尾根に造られた楕円形の競技場がそれとわかる形で残っている所へ至る。ここまで来て俯瞰してみると、険しい山の中腹に築かれたデルフィーの遺跡群が如何に清浄で荘厳な環境の中に営まれていたかということが実感できる。
厳粛な気持ちになってデルフィーを後にして近くにあるスキーのリゾート地アルホバへ立ち寄ってから山道を下り次の目的地カランバカへ向かった。 オリーブ畑の続く田園風景を窓外に眺めながら走行するうち前方に険しい岩山が奇怪な形で立ち並ぶ所へ到着した。メテオラへ入るための宿泊地として栄えたカランバカの村である。宿泊したホテル・ディアニカランバカからはライトアップされた岩山群と赤いキューポラを持つ教会を絶妙のコントラストで間近に見ることが出来た。
メテオラに入ると先ず目に入るのが非常に奇妙な形をした岩山の上に修道院が建っている風景である。それが数多くあるところが面白い。中にはロッククライミングをしている人達が岩にへばりついて虫のように小さく見える岩山もいくつかある。
我々が訪れたのはメテオラ最大の修道院メガロ・メテオロンである。この修道院は十四世紀にメテオラ出身の修道士アサナシオスによって建てられたもので、パラティス・リトスという岩の最上部にあり、その高さは五三四mある。内部にはイコンの部屋、博物館、売店、展望台が設けられて観光客で賑わっていた。今では俗世間とケーブルや階段で繋がれており、往来や物流も容易であるがこの修道院が創設された頃は道なき岩山をロッククライミングしながら、或いはロープで吊るして建設資材や生活用品を運んだと言われており、難行苦行しながら修業するのが修道士の定めであるとはいえ、その強靱な求道の意志の強さには驚嘆の思い一入であった。最盛時には全部で二四の修道院が建てられ厳しい求道の生活が営まれていたが、現在活動している修道院はこの他にヴァルラーム修道院、ルサノス修道院、アギア・トリアダ修道院、聖ステファノス修道院(女)、聖ニコラオス修道院の五つだけになっている。
物珍しい光景をしばし堪能した後、再び長駆アテネへ向かった。メテオラを下りながら見下ろしたカランバカの町並みは朱色一色の屋根に白壁が映えとても美しかった。道路の傍らに時々見え隠れしながら咲いている赤紫色のユダの花が鮮やかに映った。やがて平地のハイウエイを一路アテネへ向けてひた走ったがハイウエイ沿いには黄色い野花が一面に咲き誇っていてギリシは今まさに春爛漫であった。
| 2004年06月29日(火) |
【西洋文明発祥の地・・ギリシャ� 曄 � |
▼ギリシャの旅 アテネ、ボロス島、イドラ島、エギナ島、エピダウロス、ミ ケーネ、デルフィー、メテオラ 20004月17日〜4月25日
未明に空港からバスでアテネ市内に入り、最初に目に入った古代遺跡は、ライトアップされたゼウスの神殿の柱群である。現在は柱が15本しか残っていないが、かつては104本のコリント式の列柱で支えられた巨大な神殿が 建てられていたところである。そして現在のアマリアス大通りに面してハドリニアヌス帝の門がかつての威容を誇るかのように佇立している。
このゼウスの神殿はアテネの僭主ペイシストラトスが紀元前515年に着工したが、彼の失脚とともに中断していた。その後紀元前175年にシリア王国のアンティオコス四世が再び着工したが彼の死とともに神殿工事もまた挫折してしまったという経緯がある。このいわくつきの神殿を132年に完成させたのがローマ五賢帝の一人に数えられるハドリニアヌス帝(117〜138)なのである。 ハドリニアヌス帝の建てたゼウスの神殿はコリント様式で、二重周柱式( 長い側に二翼二列の柱がある)になっており、前後正面には8本の柱が三列 に置かれていた。この巨大な神殿はコリント様式最大の建築物で当時の人々 から絶賛されたものであった。コリント様式は柱頭にアカンサスの葉の飾りを備えていることが特徴とされる。聖体安置室内には金と象牙で造られたゼ ウスの彫像が置かれ、また神域内にはハドリニアヌス帝の像が四体置かれていたという。
祭神のゼウスはギリシャ人にとって、神々と人類の父であり、最高の支配者であり、自然現象(雨、光、雷)を司る神でもあった。彼は人々の運命を 司り、正義を保護し、全般的に人類の存在を見守っていた。ゼウスは至高の 神性であり、完全な倫理であった。
暫しの快眠を貪った後、正午からアクロポリスの見学に出掛けた。今日はたまたまパナテナイア祭と言って四年に一度の祭日だそうで、アクロポリスは多くの観光客で賑わっていた。アクロポリスの入り口まではオリーブの樹木の生い茂る林間の勾配の小さな女道を通って行った。
ギリシャ古代遺跡のハイライトである「アクロポリス」とは「高い丘の上の都市」という意味で、古代には神殿が建てられていた聖域である。更に都市国家(ポリス)防衛の要塞として二重の役割を果していた場所でもある。 アクロポリスへの入り口は丘の西端にある。参道の階段を登っていき前門に向かって右側を見上げると美しいイオニア式の柱を東西に四本ずつ持つ小さな美しいアテナ・ニーケの神殿が建っている。紀元前424年に完成されたもので、別名「翼なき勝利の女神」の神殿と呼ばれている。戦いで常勝を願ったアテネ市民は勝利の女神がどこへもいけないように翼を切り落としてこの神殿に祀ったと伝えられている。
参道を登りきる時に通る建物がプロピュライアと呼ばれる聖域入り口の正門であるが、左に北翼、右に南翼の建物と組み合わされている。しかし、今は何れの建物も屋根が落ちて柱列と壁面だけしか残っていないが、中央の建物の柱はドーリヤ式で左右のものはイオニア式である。ドーリヤ式は柱に溝があるだけで何の飾りもなく剛健な重量感を受けるのに対してイオニア式は柱頭に渦巻きの飾りを持ち柱にも繊細な優雅さを感じさせる。
正門を通り抜けると目前にパルテノン神殿がドーリヤ式の石柱に囲まれて雄大な景観をつくり出している。アテネの守護神アテナを祀ったパルテノン神殿は大理石で出来ており横31m、縦70m、柱の高さ10mの威容は市内のいたる所から眺められる。この神殿は幾多の変遷を経て起源前438年に完成したと考えられている。現在では柱と梁だけしか残っていないが往時には建物全体が芸術性の高い数多くの彫刻や浮き彫り(レリーフ)で飾られていたのである。レリーフや破風の像の一部はアクロポリス博物館や大英帝国博物館に収蔵展示されている。またパルテノン神殿の北側にはアクロポリスの中でも最も聖なる場所で多くの神々の家であるエレクティオンが建っている。この建物も屋根が壊れて無くなっているが、目をひくのは柱代わりに使われている五人の少女の彫像でカリアティディスと呼ばれている。カリアティディスは、頭にイオニア式の伝統的なキーマの装飾で飾られた籠を載せ、その上に正面の屋根がのっている。踵まである衣服を着て土台の上にしっかりと乗っているにもかかわらず、足を僅かに曲げたその動きは、支えている屋根の重さを全く感じないかのような、優雅さと淑やかな美しさを表現している。
アクロポリスの丘から周囲を展望するとアテネ市内が一望できてアテネ市街が果てし無く広がっているように見える。北東にはリカビトスの丘が一際高く聳え立っているのも手にとるようにみえる。アテネ市街は予想していたよりは遙に大きな都市であった。手元の手帳の控えを見てみるとアテネ市の人口は303万人と記されている。アテネ市はギリシャ国の人口が1060万人であるから国民の三割が住む大都会であることに納得のいく眺望であった。ギリシャ人ガイドのカテリーナさんの説明によればアテネで生活するには最低月四万円必要であるという。ちなみにギリシャの一人当たりGNPは99年の統計で年間11640US$であり、日本のそれは97年の統計で年間38160US$である。
| 2004年06月28日(月) |
【オァーズマン憧れのヘンリー・オン・テームズでレガッタに参加・・イギリス】 |
▼イギリスの旅2 ヘンリー・オン・テームズ、ロンドン 2000年6月25日〜7月11日
ボートを漕いだ者なら、一度はボートのメッカとも言われるヘンリー・オン・テームズで漕いでみたいという夢を持っているに違いない。 筆者はこの度、大学時代の漕友達で編成した60歳代舵手付きフォアー・クルーの一員として7月8日、第7回ヘンリー・ヴェテラン・レガッタに出漕し完漕した。同時に仲間内から60歳代エイト・クルーも別に一艇出漕し漕友達がお互いにヘンリー・オン・テームズのレガッタで漕ぐという醍醐味を堪能した。
ことのいきさつは、7年程前から還暦を目前に控えた大学時代のボート部の仲間が横浜の鶴見川に月二回集まり、健康と漕ぐことを楽しむために始めた漕艇であったが、年一回開かれる母校の対東大戦の余興、OBレースに出場するだけでは飽き足らず、海外のレガッタにも出場して海外旅行も共に楽しもうということになって、手始めに2年前ロイヤル・ハワイアン・ローイング・チャレンジに出場し、次いで今回のヘンリー・ヴェテラン・レガッタ出場となったのである。
ヘンリー・オン・テームズはロンドンの西方、車で約一時間の距離にありオックスフォードからは南方38kmの地点にある美しい町である。
ここで行われるレガッタとしてはヘンリー・ロイヤル・レガッタが最も有名である。このレガッタの起源は1829年にオックスフォード大学とケンブリッジ大学の対抗レガッタが初めてこの地で開催された時まで遡る。1839年に10周年記念レガッタが当地に於いて両校の間で行われたが、他にも数多くのレースが同時に行われ、以後、毎年継続されることとなったのである。その後、1851年に英王室のアルバート王子が後援者となるにおよんで、ヘンリー・ロイヤル・レガッタと名前を変え年々盛大になり、国際参加も多く得て今日に至っているのである。ロイヤル・レガッタは毎年6月下旬から七月上旬にかけて数日間にわたって予選、決勝が行われる大規模なものであるのに対し、ヴェテラン・レガッタはその約一週間後に一日だけ行われる小規模なものである。歴史もまだ浅く、今年で第7回目である。ヴェテラン・レガッタはその名の示すように出場資格が31歳以上でローイング・クラブに所属する者となっており、ボート愛好家が年齢別のクラスに区分けされて出場できるようになっているのである。
国際参加も認められており、今回のヴェテラン・レガッタの参加国はイギリス、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、ドイツ、オランダ、ノルーウェイ、日本の十か国であった。日本からは勿論、東洋からも我々のクルーが初参加であった。
レースは午前8時から午後6時まで終日行われ、競技種目は年齢別の雑多にわたり、1,100mを競う2艘レースで4分毎の発艇である。 折りからヘンリー・オン・テームズの町ではヘンリー2000・フェスティバルが大々的に催されており、ヘンリーブリッジ下流の川畔には大きなテントで囲い込んだフェスティバル会場が設営されていた。7月5日から9日まで5日間、この会場で音楽祭と美術祭が行われるのである。
この会場へ入場するにはチケットを購入しなければならず、男は黒のスーツにネクタイの着用が求められ、女子はイブニングドレスの着用が求められる。午後六時からの開演となっているが、昼過ぎから自動車に椅子や机を積み込んできて牧草地にテントを張り、正装してワインやビールを飲みながら開演時間のくるのを待っている人々がそこここに見られるし、クルーザーでやってきて船を係留しその中でワイングラスを傾けながら談笑している人達もいる。
如何にもフェスティバルを生活の一部に取り込んで楽しんでいるといった風情である。開演時間の迫った午後5時頃になると、電車から降りた正装の紳士淑女が大勢、フェスティバル会場へいそいそと集まって行く風景が見られる。またクルーザーからも正装の紳士淑女が吐き出されて、道路は黒っぽい群衆で埋まる。何しろ緯度の高いこの国では、この時期午後九時頃まで戸外は明るく、暫しの短い夏を心ゆくまで楽しもうという風情が窺われる。日が落ちてからは花火も打ち上げられる。
現地入りした日は緑地で憩う紳士淑女を横目で眺めながらテームズ川畔を歩いて最初にローイング・ミュージアムへ行った。流石にボートの本拠地だけあって豊富な展示物であった。付属の売店にはローイング・グッズが並んでいたが本番のロイヤル・レガッタが終わっているので品数はそれほど豊富ではなかった。
翌朝早く目が覚めたので五時に起き出して散歩に出掛けた。レースの行われる川畔をスタート地点のテンプルアイランドまで歩いてみたが、早朝なの で通り抜けた町中には人影が全然見えない。昨夜のあの賑わいが嘘のようである。夜更けとともに自動車で家路を急いだ人達も多かろうが、多くの人々は係留された夥しい数のクルーザーや川畔の緑地に張られた数多くのテントの中で楽しい夢を結んでいるのであろうか。この時期ホテルはどこも超満員であるからホテルや別荘で宿泊した人も沢山あるに違いない。川畔にはフェスティバルの会場となるテント村が延々と続いているので、遮られてなかなか川畔に出ることができない。
暫くテントに沿って自動車道を歩いていくとアパー・テームズ・ローイング・クラブと標識の出ている建物の庭の門が開放されていて川畔に通じているのを発見した。ここを通り抜けて川畔へやっとの思いでたどり着くと川畔にも人影がない。朝霧のもやっている緑豊かな川畔の小道を散歩するのは実に爽やかである。緑地には白鳥の子供達五十羽ほどが群れをなして歩いていた。レースのスタート地点となるテンプルアイランドで折り返してホテルへ帰った。およそ1時間半の気持ちよい早朝散歩であった。
ローイング・ミュージアムで求めた「テームズ・・・・川と小道」という地図を広げてみると、テームズ川はテームズ・ヘッドに源を発しイングランド南部を東流して、ロンドンを経た後に北海へ注ぐ全長四百五kmの名川である。川の畔には緑色で源からロンドン市内のタワーブリッジまでの小道が克明に明記されていてハイカーやホースライダー達に便利な編集がなされている。ロンドンより上流のテディグトン堰から上流全体は1857年にテームズ自然保全区に指定され、水は清く、岸に森や牧場が多数あって秀麗な景観をつくり出している。オックスフォード、マロー、ウインザー等の一度は訪ねてみたい美しい町や村がこの流域に多数佇んでいる。
ホテルで朝食を済ませてから暫く町中を散策し、再びアパー・テームズ・ローイング・クラブの建物の近くへ集まり借用する艇の到着を待った。待つこと久しく午後3時にやっと艇が到着した。
見るとエイトの尖端部分には小さなゴルフボール大の丸い穴が開いているし、舵なしフォアの尖端は折れている。どうも運搬中にトレーラーに積み込んだ艇の後ろ端を何かにぶっけてしまったらしい。そのため艇の到着が遅れてしまったのであろう。早速艇を下ろして組み立て、損傷のなかった舵手付きフォアを浮かべて練習をした。
鶴見川ではエイトでの練習が多かったので、フォア艇での練習は必ずしも十分であったとは言えない。案の定オールが合わなくてバランスを崩し思うように艇速がでない。それでも何回か練習しているうちに呼吸も合って、バランスも取れてスピードがでるようになった。
エイトの方も穴の開いた部分にテープを張って、何とか水の入らぬように補修が終わった。エイトの方は時間がなくて浮かべることはできなかった。フォアを陸に上げてオールを張り、風で引っ繰り返らないようにしておいてから今日の練習と艇の整備を完了した。
この日はオックスフォード大学ボート部OBの人々から夕食の招待を受けているのでホテルへ帰り、スクールカラーである濃青の揃いのブレザーにネクタイをして彼らが迎えにきてくれるのを待った。やがてリンゼイ、ラザフォード、ドナルド・ショー、グリーンの四氏が揃いの濃青のブレザーを身に纏って迎えにきてくれた。オックスフォード大学のスクールカラーも濃青なのである。彼らは昭和34年にオックスフォード大学の学生エイト・クルーとして来日し、日本の幾つかの大学ボート部と艇を並べた時のメンバーである。実に41年振りの再会であった。当時のオ大クルーのメンバー表から彼らの消息を辿り、まずリンゼイを探し出して彼を窓口にして今回の訪英となったのである。
彼らの先導で由緒ある名門のクラブハウス「リアンダークラブ」へ赴き、ビールやウイスキーで交歓した後、ディナーを御馳走になった。
その後、日本から持参した41年前のレースの模様を録画したスポーツ・ニュースのテープやTシャツ、当時の写真の複製等を土産として贈呈した。東西の大学生として共に戦ったオァズ・マン達が41年振りに再会して杯を酌み交わしな がら、初老の顔貌の中にも紅顔の美少年の面影を見いだしては談笑する、とても楽しく素晴らしい感動的な一刻であった。来訪したオ大クルーの内二人は鬼籍に入っていると知り,時の流れの速さとともに人生の儚さを感じてちょっぴり感傷的になったりもした。
翌朝コース川畔へ行って艇のリギングの整備を行いエイト、フォア共にそれぞれで練習をした。練習中にアメリカのチーム、カルバー・クルーと交歓することもできた。このクルーは平均年齢75歳のアメリカからきた海軍士官学校時代に結成されたクルーであるが1943年以来57年間一緒に漕いでいるという。今回は仲間の内に物故者がでたのでボートのメッカ、ヘンリー・オン・テームズに散骨するため遺族と現存クルーの家族を引き連れて参加したのだという。我々のことを「ヘイ、ベービー」と言ってからかう、よく統制のとれた元気で陽気なオジイチャンパワーであった
その次の朝8時40分の出漕で小生の乗った舵手付きフォア艇はシェークスピアの生まれ故郷からやってきたストラトフォード・アポン・エイボン・クルーと対戦したが、基礎体力と練習量の差は如何ともなしがたく大差で敗退してしまった。スタート後の僅か十本程で相手の姿は視界から消えていた。 12時50分からの出漕でエイトはリー・クルーと対戦したがこれも大差で敗退してしまった。今回の遠征では勝負にこだわることなく、憧れのヘンリー・オン・テームズで漕いでローイング人生に思い出を残したいという素朴な動機から実現した計画であったため、全員事故もなく完漕して達成感に浸ることができたのはオァーズマンの冥利に尽きると言えるだろう。
| 2004年06月27日(日) |
【伝統と紳士の国でヘンリーレガッタを観戦・・イギリス 】 |
▼イギリスの旅1 ロンドン、エジンバラ、ロッホローモンド、ヘンリー・オ ン・テームズ 1997年6月24日〜7月4日 ロンドン大学に留学している娘夫婦の誘いに乗って、定年退職後間もない時期に一人旅をした。大学時代の漕友達と月二回はエイトを漕いで、旧交を温めている程のボート好きなので、ヘンリーレガッタの開催時期である6月下旬に焦点を合わせ、手造りの旅程を用意した。ロンドン市内とケンブリッジ、オックスフォード、ウインザー城等は過去2回の訪問で垣間見ていることだし、今回はエジンバラとトラサック地方のロッホローモンドへ足を伸ばし、スコットランドの風物に接してみようと計画した。
まだ見知らぬ国が沢山あるのに同じ国を三回も訪ねるのは、娘夫婦が滞在しているという気安さもあったが、何よりも日本と共通点が多い国だということと、何となく馴染みやすい国であるというのがその理由であった。第一に島国であること、第二に先進国の中では皇室を戴く国で且つ長い歴史と伝統を持っていること、第三に斜陽の老大国といわれながらサッチャー女史の改革で蘇った国であること、従って斜陽化しつつある日本の手本となる国であること、第四に中学以来習ってきた英語の母国であること、第五に日英同盟をいちはやく結んだ国であったこと等である。
航空機はオランダ航空なのでアムステルダムで乗り換えなければならなかったが、成田で出発が一時間半も遅れたので乗り継ぎ機の出発時間に間に合うだろうかと心配であった。どうにかぎりぎりの時間で間に合ったのはよいが延着の影響でアムステルダム空港での搭乗口が突然変更になったりして気の休まることがなかった。英語は通じないし表示もオランダ語なのでさっぱり要領を得ない。さいわい日本人らしい旅客が何人かいたので片っ端からつかまえて何回も確認した。
ヒースロー空港に到着し、荷物を受け取る場所がよくわからなくてまごついたり、出口が赤、緑、青と三箇所に別れていてどれへ出ればよいのか迷ったりした。間違いだったらやり直せばいいやと覚悟を決めて、あてずっぽに青色の出口へでたところ運よく娘の姿を認めてホットした。年とってからの一人旅は心細くて、もうこりごりだとその時は思ったものである。
黒塗りのオースティンをつかまえて乗り込むと運転手は地理をよく知っており、街の風景を楽しみながらハムステッドの娘夫婦のアパートへと急いだ。窓の外に見えるハイドパーク、グリーンパークの緑色が目に眩しい。ハムステッド近くにあるリージェントパークにも立ち寄ってみたが、その規模たるや日比谷公園の10倍の広さがあるといい、新緑の木立にはリス達が沢山戯れていた。日本ではもう暑くてたまらない季節だというのに、ここロンドンは一年中で気候の一番良い時である。通りがかりの教会では花嫁をみかけた。ジューンブライドという言葉はギリシャ神話からきた言葉だというが、この時期の浮き立つ気分にぴったりとあっている。
ハムステッドの民宿スタイルの小さなホテルで旅の疲れを癒し、翌朝は2階建てのバス(ダブルデッカー)に乗って先ずはウエストミンスターアベイへと赴いた。途中学生街やら貧民街、繁華街を通り抜けて車窓からロンドン市内の種々相を瞥見した。現地生活者が同伴なので言葉の心配もない上、物珍しい穴場の店へ飛び込むこともできるし、バスや地下鉄等いろんな乗物を試してみることもできる。旅の醍醐味といえよう。
テームズ川畔に屹立する国会議事堂やその屋上に一体化しているビッグベンはパーラメント広場の大ピット、小ピット、チャーチル等の銅像等とともにデモクラシーを実現するまでの先人達の血の滲む苦難の歴史を偲ばせて、思わず厳粛な気持ちにさせる。国会議事堂の側にあるウエストミンスターアベイは細長く美しいステンドグラスで飾られたゴチック式の荘厳な建物である。1066年にノルマン人のウイリアム征服王が戴冠式を行って以来、40人の王様がここで戴冠した歴史を誇る由緒ある寺院である。またイギリスの有名な多くの歴史上の人物や金持ちが、この建物の壁や床に所狭しと埋葬されて豪華な彫刻で飾られている寺院墓場でもあるのだ。
ここから、寺院としては世界三大ドームの一つといわれるセントポール大聖堂へ歩いて行った。セントミンスターアベイで収容できない偉人はこちらに埋葬されているという。
近くにはロンドン塔やロンドンブリッジがあるが、観光客でごたがえしている。2時間以上待たされそうだというので、前回見学していることでもあるし、割愛してUCL(ロンドン大学)の学内食堂へ昼食を食べに行った。たまたま医学部の卒業式の終了直後で角帽にガウンを着た医学生達で満員であった。父兄達も息子や娘の晴れ姿を見るために出席したらしく誇らしげに談笑しながら飲食していた。ここで流石世界に冠たるUCLだと感じたのはさまざまな人種の人々が世界中から集まってきていたことである。さながら秀才達の人種の展覧会を見ている思いであった。なおこのUCLには明治維新の頃伊藤博文、井上馨、森有礼、寺島宗則等が在籍したことでも知られている。
この大学の講堂の入口に大法学者ベンサムのミイラ像(本物は別の所へ保管されており、これは蝋人形)が着衣着帽の正装で椅子に座位の姿で安置されているのを見たときには学者のすざまじいまでの学問に対する執念を感じた。ミイラにして飾って欲しいというのはベンサムの遺言であったという。最大多数の最大幸福を説いた功利主義者のベンサムも、心のうちでは秘かに霊魂は戻ってくるという古代エジプトの思想を信奉していたのであろうか。面白い取り合わせだとひとりで感心していた。
エジンバラへ飛んだ日は夏だというのに、カーデイガンがなければ肌寒く感じる程の爽やかな天候であった。エジンバラ城、ホーリールドハウス、 カールトンヒル等を見学した。エジンバラ市街は坂道が多く、盾形の紋章(コートオブアームズ)に似た地形の気品ある美しい街である。徒歩で歩き廻るには手頃の街の規模であるといえよう。
城の入口では伝統衣装である色鮮やかなタータン(スカート様の衣類)を纏った男達が、バグパイプで哀愁に満ちたメロディーを奏でては、観光客の旅情をそそっていた。城内の一角にはスコットランドの国花のシスル(あざみ)が薄紫色の花をつけていた。このシスルはその昔、北欧の蛮人がスコットランドに夜襲をかけたときその刺に悩まされて敗退したという逸話のある救国の花だという。
ジョージア様式の美しい庭を持つロイヤルテラスホテルでスコッチを堪能した夜の翌朝は、レンタカーでロッホ・ローモンド(湖)のあるルス村へドライブした。 窓外に広がる新緑と周囲の山々が色々に姿を変えていく眺めは美しく心がうきうきしてくる。途中昼過ぎに、軽井沢に相当する避暑地のカランダーという街で小休止したが、平日のせいか街を散策している人々に若人は見られず、身なりのよい老人ばかりで大変な賑わいであった。ところが翌日帰りにも同じ場所を通ったが、日没までには随分時間のある5時頃であったにもかかわらず、人通りは少なくそのあまりにも大きい落差に驚いた。 夕刻にはそれぞれの別荘で知人を招いて、ダンスやらゲームやらの晩餐会に興じているのであろうか。避暑地に集まる老人達のゆとりある社交的な生活の匂いを感じた。
ローモンド湖のあるルス村は教会を中心にこじんまりと纏まった田舎の美しい静かな村であった。平屋建てのめいめいの家の壁や門扉を飾っている手造りの薔薇の花が今を盛りと咲き誇っており、その花の色や形にその家の個性が表れていた。
その夜泊まったローマンキャンプカントリーハウスは全館ピンク色に塗られた貴族の館であった。 貴族が昔狩猟にきて泊まった館で今は一般観光客に 開放されているのである。使われている調度品は年代物で実に素晴らしいし銀製のフォークやナイフで喫った夕食も一際美味に感じた。
館内には稀覯本を集めた図書室もあり往時の英国貴族の生活の一端を垣間見た思いがした。館の前には大樹の枝に覆われた牧草地が広がっており、羊が草を食んでいる前には幅の広い川が静かに流れていた。牧歌的な田園風景は旅情を慰めてあまりあるものがあった。
翌朝清々しい気持ちで再び車窓の緑美しい山野の風景を堪能しながらスターリング城までドライブした後、ヘンリーレガッタ観戦のため空路ロンドンへ帰ってきた。
ヘンリーの町へは電車で約1時間かかったが、車内には大男達が揃いのブレザーを着て揃いのネクタイをつけているのでレガッタ関係者だと一目でわかった。赤色あり、水色あり、緑色ありと実に華やかである。男性の方が圧倒的に多かったが、女性もちらほら混じっており彼女達は庇の長い帽子をかぶりフレアーの付いたドレスでお洒落を決め込んでいる。車内は混み合ってはおらず7〜8割り方はレガッタ見物の見物者だということがその服装から判断できる。
たまたま日本人らしい二組の初老の夫婦連れを見かけた。ブルーのブレザーに縞のネクタイを締め、グレーのずぼんに、かんかん帽を被っている。話かけてみると一橋大学OBのオアーズマンで全日本選手権にも出場経験を持つベテランである。夏休みをヘンリーレガッタに合わせてとり、見物かたがたイギリス各地を観光旅行する予定であるという。
ヘンリーの町はテームズ川畔に開けた川遊び中心の町である。 正式にはヘンリーオンテムズというが、川面にはエイト、フォア、ダブルスカル、シングルスカル等のさまざまなボートが浮かんでいる。いつもは落ちついて静かな町も6月下旬から7月上旬にかけての4日間は全国から集まるクルーや観客で大変な賑わいをみせる。列車で来る人もあれば乗用車やキャンピングカーにテントや炊事道具を積み込んで繰り込むグループもある。こうした車を収容する大きな駐車場やキャンプ場も十分用意されている。また各種のローイングクラブの大きなテントも沢山張られており、クラブゆかりの人達はこのテントへ入り、ここで買った軽食とアルコール飲料を楽しみながら出漕選手に声援を送るのである。
車で駆けつけた人々は持参のテントを張りテーブルと椅子を出して、着飾った服装で持参の料理やワインを飲みながらテント相互に交歓の社交場を至るところに形成する。実に華やかな光景でその場の雰囲気を楽しんでいるという「優雅なゆとり」のようなものが感じられる。
贔屓のクルーが出漕する時間になると川辺まで 出て声を限りに声援を送るのである。レースは5分間隔で次々にテンプルというスタート地点から出漕してヘンリー橋へ向けて2000メートル程の距離を2艇が競漕する所謂二杯レースが終日行われる。
これに対して、日本のレガッタといえば、川の堤防に現役を叱咤激励するOBグループや家族友人達、たまにボート好きの観客が集まってわいわいがやがややっているのが通常で、揃いのブレザーもなければ特別に着飾っている人もいない。端的にいえばがさつな光景である。
ヘンリーレガッタは正式にはロイヤルヘンリーレガッタと言われ、1851年以降王室後援のもとに行われる由緒のあるレガッタなのである。このレガッタの光景を見るにつけつくづくイギリスは伝統の国であり、優雅でゆとりある紳士の国だなあと思うのである。
| 2004年06月26日(土) |
【マルクスとスミスの勝負・・東欧4ケ国とミャンマー、タイ】 |
▼東欧四ケ国の旅 ドレスデン、マイセン、プラハ、ウィーン、ブタペスト 1998年6月13日〜6月20日(東欧四ケ国) ▼ミャンマー、タイの旅 ヤンゴン、ペグー、バンコック、アユタヤ 1998年7月8日〜7月13日(ミャンマー、タイ) ベルリンの壁 予てからの念願がかなって、時間や仕事に制約されない自由人として、世界各国を巡り歩く夫婦二人旅ができるようになった。 メキシコから始まり、東ドイツ、チェコ、オーストリア、ハンガリー、ミャンマー、タイと廻ったところで、管見にすぎないが、富裕と貧困、発展と停滞、自由と統制、伝統と刷新ということについて考えさせられた。 ベルリン聖堂 東ドイツのドレスデンはエルベ川の川畔に位置する美しい街である。16世紀以降ザクセン王国の首都として発達したが、アウグスト一世、通称アウグスト強王(1670〜1733) の時代に繁栄した。この王の在位中にドイツバロック建築の傑作、ツヴインガー城やビルニッツ城が建てられた。世界的にも貴重な絵画のコレクションやマイセンの陶磁器の開発と発展も同王の時代に行われた。
文化の都ドレスデンは多くの芸術家を輩出し、かつ迎え入れた。シラーは「ドン・カルロス」をこの地で書き上げたし、リヒャルトワーグナーは「さまよえるオランダ人」や「タンホイザー」をこの地のゼンパーオペラ劇場で初演した。「二人のロッテ」で有名な作家エーリッヒはドレスデンの生まれである。「エルベ川のフィレンツェ」とも謂われたこの美しいドレスデンの街は第二次世界大戦中の1945年2月の空襲で、一夜にして灰塵に帰した。戦後の復興は今なお続いているが、ツヴインガー城 始め、多くの歴史的建造物は散乱した瓦礫を集めて、あたかもジグゾーパズルのこまを嵌め込むようにして復元されたのである。
それは、それは気の遠くなるような作業であるが、輝かしい歴史と伝統ある文化遺産に誇りを持つ市当局は、根気よく元通りの姿を蘇らせている。フラウエン教会は現在、このような復元工事の最中である。
ところでドレスデンの街中には古い建物が沢山残されて実用に供されているが、中には壁が剥げ落ちたり、硝子窓が壊れたままになっていて無人であることが、一目で判る建物があちこちに散見される。美しい街並であるだけにこれは痛ましい光景である。
聞いてみると、1989年の自由化以前の時代に、自分の所有物でない建物の補修には、居住者自身が自らの手で補修する程の熱意がないし、国や市にも補修にまで予算が廻らないという財政事情があって荒廃が進んだということである。しかも、自由化の時代がきて経済の混乱のため、東側では元の国営企業が倒産したり閉鎖されたりで、職を失った市民が西側へ移住し、住民のいなくなった建物の廃墟化が進んでいるというのである。
マイセンの陶磁器工場の見学を終えて、広大で豊穣な田畑や林を窓の外に眺めながら、バスはドイツとチェコの国境近くにさしかかった。自動車道路の道端に美しく着飾り、厚化粧の若い女性がちらほらと佇んでいる。一時停車した自家用車の運転手と窓越しに話をしている者もある。ガイドの説明によれば、自由化以降に出現したチェコの売春婦であるという。言われてよく目を凝らすと、簡易宿泊所のような建物もあり、店先にはやはり着飾ったそれとおぼしき女性が椅子に腰掛けていた。
自由化の影響で、統制からの解放を謳歌するためか或いは、経済混乱のため職を失ったためなのか判然とはしないが、若い女性が春をひさぐために国境線で道端に立つようになったのである。
プラハの街も美しい街並である。 プルタワ川の両岸に広がる街は「百塔の街」とも称えられ、塔が林立しており、バロック、ゴシック、ルネッサンス、アールヌーボー等中世以来のあらゆる建築様式をみることができるのであるがここでもドレスデンで見たと同じような、無人化した廃屋が散見されて痛ましい光景を点映している。これと同じようなことはブタペストの市内においても散見された。
オーストリヤのウイーンは森が深くて、水が綺麗な音楽の都であり、ハプスブルグ王朝の文化遺産を温存している歴史の街である。政治的には中立を守り世界の趨勢に立ち遅れることなく先進国の都市として繁栄している。
ミャンマーのヤンゴンで見たシェッダゴンパゴダ は金色に輝き、天高く聳える沢山の塔を持つ、華麗で巨大な寺院であった。何度もの地震に耐えてきたこのパゴダの原型は、15世紀中期に栄えたパゴーの女王シン・ソービューによって完成されたという。
このパゴダの華麗と荘厳に比較して、街中を走行する日本製の中古車のトラックバスは常に、乗客で鈴なり状態であり、乞食や多くの幼い子供の物売りが観光客に群がる貧困さは痛ましい。一トン積みのトラックに四十人乗客を詰め込んで走るのが、通常であるという。また街中を往来する車は全て日 本製の中古車であり、日本の看板がそのまま残っている。例えば、横浜市の市バスがヤンゴン市内を走っているとの錯覚に陥るが如きである。
ミャンマーの古都ペグーのビルマ料理屋で昼食をしたときのこと。二階へ上がる階段の入り口で、民族衣装を纏った4〜5歳と見受けられる女児が、入ってくる日本人のお客にひとりひとり丁寧にお辞儀をしていた。その店には冷房設備が申し訳のようについてはいたが機能しておらず、大きな扇風機が生暖かい空気を、徒にかき混ぜていた。部屋に入った途端、異臭が鼻をついて、吐き気を催しそうになる程であった。
それでも料理が運ばれてくると、珍しさも手伝って、箸は皿から口へと自然に動いていた。そのうち涼しい風が背後からするので振り返ると、先程入り口で丁寧にお辞儀をしていた女児が額に汗しながら、団扇で一生懸命私を扇いでいるのである。親に強制されて、そうしているのか、自発的に親の家計の一助にと思ってそうしているのか、定かではないが、そのいたいけなさに、自分の孫の姿が重なって、思わずなにがしかのチップを握らせていた。これを受け取った時の彼女の嬉しそうにはじける笑顔はあどけなく、とても美しかった。
社会主義体制をとり、今なお軍事政権下にあって厳しい統制の中で貧困に呻吟するミャンマー人の苦悩を感じる。
タイのバンコックは近代化され、高層建築が立ち並び繁栄を誇っているかのように見える都市である。
タイのアユタヤで、ワットマハタード、 ワットラハバーナ等の遺跡を見学した。これらの遺跡は十四世紀にシャムに興ったアユタヤ王朝によって建立され繁栄した仏教寺院であるが、18世紀に創建されたビルマ王朝のアラウンパヤーによって攻撃され、1767年にアユタヤの王宮が陥落炎上したときに、一緒に破壊された。
現在では、陸続きで隣接している両国でありながら、ミャンマーとタイではその近代化の進み具合や経済的な繁栄度において、格段の差が生じている。タイは世界の先進国の仲間入りが出来る程に発展しているが、ミャンマーは世界の最貧国の一つに数えられ、まだまだ多くの難関を潜らなければならない後進国であるといえよう。
暁の寺
僅か七か国の表面だけから見た、旅行者としての瞥見にすぎないが、豊かな国と貧しい国の違いは何に由来するのか考え込まざるをえない。
1917年のロシア革命から1991年のソ連崩壊まで、70年余の壮大な社会主義の実験は文化遺産の破壊と精神の荒廃という負の遺産しか残さなかったような気がしてならない。
1989年に東ヨーロッパ諸国で市民と労働者の変革運動が相次いで、ソ連型社会体制を崩壊させていったが、社会現象としてはドレスデンやプラハやブタペストで私が垣間見た、建物の荒廃であり、売春婦の出現なのであろう。
豊穣の大地に恵まれ、歴史上の一時期には隣国のタイを支配下においたこともある、ミャンマーの現在の姿は貧困と停滞そのものである。私が瞥見した社会現象は乞食や子供の物売りであり、乗客で鈴なりのトラックバスの往来である。これは頑に、社会主義に拘り、軍政を敷いて民衆の苦悩を省みない、為政者の無策無能に起因するものであると言わざるを得ない。
私流にいえば、見えざる神の手にその支配を委ねた市場原理と自由を、基 本理念とするアダムスミスと、生産手段の公有化と労働者階級の独裁を、基本理念とするマルクスとでは、アダムスミスに軍配が上がったといえるのではなかろうか。
| 2004年06月25日(金) |
【水墨画の世界奇山、珍山を堪能し、桃花源に遊ぶ・・桂林�◆� |
桂林での風景を堪能して桂林空港から広州空港へ飛んだ。機中はその過半が初老以上の日本人観光客の団体であったが、中に一際目立つ異様な集団があった。西洋人の若い夫婦がいずれも乳幼児を抱いており、その数10数人に及んでいた。こんなに沢山乳幼児を連れた集団を見かけたのは初めての経験であり、最初は健康優良児を競う世界大会でも開催されてこれへ出場した人々かな等と勝手に想像していたが、若い母親の子供を抱く手つきがなんとなくぎこちないし、嬰児の顔をみると明らかに東洋人の顔つきである。そこではたと気がついた。
これは子供の生まれない若い夫婦が集団で中国を訪問し、養子縁組を無事 済ませて帰国するところなのだと。
ガイドの話の中に中国の近年の発展は目ざましいものがあるが、山村地区と沿岸地区での経済格差には甚だしいものがあり、山村の貧しくて子供を養いきれない親とか一人子政策に反して間違って多く子供を生んでしまった夫婦達が子供を捨てることが多くなったという。捨て子を集めて育てている孤児院には欧米の子供のない若夫婦が養子を貰いに訪れるというのがあった。これはまさしくその里親達の集団だったのである。
東南アジアを旅行していて、一番厭な思いをするのは乞食にまといつかれることと、しつこく押し売りをする物売りの集団である。中国でも都会地の北京や上海ではあまりみかけなくなったが、田舎の観光地にはこの乞食としつこい物売りがまだ多い。
陽朔の町では物売りが掏摸を兼ねているというから物騒である。今回の旅行ではこの物売りに悩まされた。
最近日本にも百円ショップができて意外に安い掘り出し物を見付けることもあるが、過半は中国製のものが多い。観光地の物売りは大体千円を最小単位としてこれに品数を増やして商いをしている。しつこい物売りから逃れてバスに逃げ込むと窓辺へ寄ってきてダンピングが始まる。3枚千円であった刺繍のテーブルクロスが7枚で千円に増えたりする。そこで欲の皮の張った日本の小母さん達が引っかかる。7枚買った筈のテーブルクロスが受け取ってみると5枚しかなかったり、大きさが随分ちいさな物にすり替えられたりしているが、金を渡したあとだから気がついたときは後の祭である。したたかな物売りと欲の皮の張った小母さん観光客のやりとりはちょっとした見物ではあった。
広州は広東省の省都で珠江流域に開けた城郭都市であった。近くには深川、珠江三角州という、いち早く1979年に経済開放特区に指定され躍進著しい衛星都市を従えている目下近代化へ驀進中の経済都市である。町中至るところに建設用クレーンが建ち並び今まさに街中普請中という感じのある活気溢れる都会である。人工千百万人を抱えているがそのうち四百万人は内陸部らの出稼ぎ労働者であるという。
古くは海上シルクロードの起点ともなった町なので、城郭の北端にある越秀公園の高台には鎮海楼という8 階建ての博物館が佇立している。今はサッカー場や高層建築が建ち並んでいるので市街地を見晴るかすことはできないが、字義通りここは珠江交通と海上交通の見張りの場所として設置されたものである。
今は博物館に転用されている。 この博物館のコレクションの一つである紫檀でできた飾り棚に陳列されている。 寿大石製の手の込んだ彫刻や翡翠の飾り物など明代の骨董品が7 〜8 点展されていた。飾り棚とそこに収納されている宝物一式はこの博物館を改修するための費用として売りに出しているのだという。邦貨88万円の値がつけられていた。
ガイドは戸棚から無造作に宝物を取り出して手に持って説明するし、第一博物館のコレクションを売りに出すこと自体が日本人の感覚では理解できない驚きであった。
食は広州にありとはよく言われる。食べ物にはあまり興味も関心もない。食事に頭を煩わせ時間を費やすのが厭でパック旅行によく参加するのだが、今回の旅は美味しいものを三食食べられたのでとても楽しかった。四つ足は机の足以外は何でも食べると言われる広州人の食文化は逞しくもあり素晴らしいと思う。大阪の食い倒れに匹敵する食文化がここには根付いているようだ。
広州では飲茶料理を堪能した。地元の大衆がよく集まるレストランは大変な賑わいであったが, 蒸籠に入れて供される料理は品数も多いし美味いものが多い。骨つきの鳥の脚先や鶏冠までには満腹で手が伸びなかった。
子豚の丸焼きもこの広州で堪能することができた。北京のペキンダックと広州の子豚の丸焼きはいずれも中国を代表する名采の誉れが高い料理である。料理では中国の影響を強く受けているタイのバンコックでも子豚の丸焼きは最高のもてなしだと言われている。タイでは豆電球が目の所につけられて供されるが、ここ広州では豆電球がついていなくて安堵した。だが、人間の残酷さも感じながら食した夕食であった。
桂林の街は広西省の景勝地であるが、歴史は古い街である。古くは紀元前214年に秦の始皇帝が広東・広西地方を統一し、この地方に霊渠という運河をめぐらせた時まで遡る。宋代には広西地方の政治文化の中心地として賑わいをみせていた。1921年に孫文が北伐をする際には独秀峰城内に拠点を構えその後広西省の臨時省都にもなっている。1940年の坑日戦争の時には中国各地から文化人達が集まり文化の城と呼ばれた。
この街に象鼻岩という岩に穴の穿たれた景勝の地があり、観光客や市民で賑わっている。この象鼻岩のある河畔に野外サーカスが鉄塔を建てロープを引いて綱渡りのサーカスを演じている。安全ネットも張らず、命綱もつけずに綱の上を歩いている軽業師がいるかと思えば、綱からぶら下げた車に乗っている軽業師もいた。正月興行で春節にサーカス団が市と契約して随時、観客の多寡に係わらず軽業を披露しているのだそうである。従って彼等の給料は広西省の役所から支給されることになっているのである。世外桃源の少数民族の若者達といい、観光客を集める役割を持つ人民は国の手厚い保護を受けているようだ。
| 2004年06月24日(木) |
【水墨画の世界奇山、珍山を堪能し、桃花源に遊ぶ・・桂林� 曄 � |
▼中国の旅6 広州、桂林、離江下り、陽策 2003年2月26日〜3月1日
2月26日から3月1日まで桂林へ旅行してきた。漓江流域に聳え立つ奇山、珍山が織りなす光景は3時間程の船旅を退屈させない素晴らしい川下りであった。こういう奇山、珍山カルスト地形と呼ばれるところにみられる風景だという。カルストのできかたは先ず

1) 約3億年前、赤道付近で海底火山が噴火を始めた。 2) 約2.5億年前、噴火のやんだ火山の山頂付近に珊瑚礁が発生し、厚く積み重なって石灰岩の地層を作った。 3) 約1.5億年前に珊瑚礁を載せた海底火山は移動するプレートに運ばれて海溝に沈み込み、堆積物と混合し山体が削り取られた。 4) 約二百万年前に始まった地球の造山活動で海底が隆起した。
そして石灰質で出来た地形は雨水に含まれる二酸化炭素に溶かされて削りとられこのような奇岩、珍岩が形成されたと考えられている。鋸歯状の地形(カレンフェルト)と擂鉢状の窪地(ドリーネ)とがあるがここ桂林のものは鋸歯状のものである。
日本では山口県の秋吉台、北九州の平尾台、四国カルストがあるが、ここ桂林を中心とする漓江流域の広大な地域に途切れることなく続く景観に比べればその規模において全然太刀打ちできない。今まで経験した川下りで今回ほど風景を堪能したことはなかった。
漓江下りの終着港陽朔県で一泊して翌日「世外桃源」
と称する観光地へ行った。川に囲まれた田園の中には少数民族が木造の建物に民族衣装を纏って自給自足の生活を送っている。観光客が舟で通ると川べりの舞台へ民族衣装を纏って現れ民族舞踊を踊って歓迎してくれる。
周囲には鋸の歯状の奇岩でできた山々が連なり、地味豊かな緑の田畑には折から赤色の桃の花がそちこちに咲き誇っており、木々は淡い緑色の新芽を一斉に萌え出していた。川では女性達が砧を打って洗濯をしていたり、男が投網を打って漁をしていたりする。庭先には鶏や豚が餌をついばんでいる。一見別天地の観があり、陶淵明が桃花源記に描いた理想郷さながらののどかな田園風景が展開されていた。

しかしよく考えてみれば、彼が描いた桃源郷には現在のように観光客が群れをなして訪れることもなくひっそりとしていたことであろうし、ましてや展示館に伝統の機織り機を持ち込んで若い娘が
機織りを実演してみせたりということはなかったであろう。観光事業は手っとり早い外貨獲得の手段である。開放政策実施以来俄に作られたと思われる休憩所や土産物売り場の建物は新築間もないものであり、トイレが清潔に管理されていた。そして民族衣装を纏った娘はしたたかに写真のモデルになりたがる。ここでも商業主義、拝金主義の汚染が始まっていた。

漓江下りは竹江という港から始まる。カルスト台地に形成された山並の形は鋸歯のように鋭く奇山、珍山を見学しながら川下りを楽しんだ。この打ち続く景色に一時間ばかり飽かず見惚れているとやがて、冠岩の鍾乳洞に到着した。

ここで一旦下船して鍾乳洞を見学した。とても大きな鍾乳洞で、天井から垂れ下がった鍾乳石や石筍は保存状態がよく折れたりしているものは少ない。様々な形をした自然が作り出す芸術作品を鑑賞しながら洞内を歩いていくとやがて洞内湖に到着した。そこには舟が用意されていて10人づつ乗り込んで真っ暗な中を船縁に設置された照明で四囲を照らし出しながら湖を航行するのである。

物音のしない静寂の中、細いトンネル状の穴を通り抜けたりしながら10分間ほど洞内を巡った。聞こえる物音は船頭が操る櫂の水音だけである。観光客も静まりかえっている。閉鎖された空間なのであたかも地獄へでも船出するかの如き錯覚に陥るスリリングな体験であった。元の場所へ必ず帰れるという安心感があるから平気で乗っていられるが、初めてここを航行した人は余程勇気のある人だったに違いないと変なことに感心しながら洞内巡りを終了した。
ニュージーランドでは鍾乳洞の中を舟で航行しながら土蛍を鑑賞したが、ここではそのような生物はなにもいなかった。再び漓江船上の人となり陽朔までの船旅は続いた。
| 2004年06月23日(水) |
【経済大国へ驀進中の中国・・山峡下り�◆� |
大足の宝頂山には一枚岩に刻まれた石刻が13個所あり、保存状態は極めて良好で像の顔面が破壊されたものは殆どない。

南宋の名僧趙智鳳が70年を費やして完成させたと謂われ、500 mに及ぶ岩壁には31の石窟がある。釈迦涅槃像や六道輪廻像、千手観音、華厳三聖像、孔雀明王経変等仏教説話が系統的に造像されているところに特徴がある。

文化大革命の時にも都会から離れた辺鄙な山中にあったことが幸いして文化遺産が破壊されることなく保存されたようである。
続いて北山の石刻へ到着した頃は夕闇が迫りかけていた。係員は所在なげに待機していてくれた。感謝する気持ちを込めて「謝、謝」と何回も唱えて入場した。
ここの仏像は唐代末期から250 年間彫り続けられたのであるが、宝頂山のそれとは異なり、彫刻全体を流れるテーマはなくめいめいがそれぞれの思いを込めて刻まれた仏像群である。従って同じ種類の仏像が沢山あるが、唐、五代、宋代と時代の特徴を表現していて面白い。保存状態は必ずしもよくなく、顔面が破壊された仏像も相当数あったのが痛々しい。
大足の村には水を張った水田が沢山あるので田植えがもう始まるのかなと思っていたら蓮根の特産地であるということであった。納得。
バスの不調で約3時間のロスがあったので、重慶のレストランで名物の火鍋料理を味わってから、ホテルにたどり着いたら12時近かった。火鍋料理とは中国風シャブシャブと思えばいい。
朝6時にホテルを出発して朝天門埠頭へと急いだ。重慶は嘉陵江と長江に囲まれた丘陵地帯に開けた街である。そして朝天門埠頭は嘉陵江と長江が合流する地帯に突き出た地点にある。
昨夜ホテル到着が遅かったので初めて見る重慶の市街は起伏の多い街で長江は遥か下方を流れている。大きな幅広の電車風のエスカレーターに乗って岸辺まで降りてから高速船に乗り込んだ。
埠頭には多くの人々が屯しており、担ってきた野菜や果物を並べて 商っている者もいる。我々の目を最も驚かせたのは手に手に天秤棒と縄を携えた 「棒棒群」と呼ばれる労働者の群れである。船に乗り降りする乗客の手荷物を運搬して料金を貰うのであるが,その数が非常に多いのである。我々のグループも彼等にスーツケースをバスから船まで運んで貰ったが、天秤棒の両端にスーツケースを二個宛吊るして計四個の荷物を肩に担って運搬するのである。昔日本でも大きな鉄道駅にはいた赤帽さんのようなものだと思えば判り易い。約70〜80kgの荷物を急坂を登り降りするのは大変な労作量であろうが、もっとも手っとり早い就業チャンスなのである。荷物一個につき2元から3元(日本円換算35円〜50円程度)であるという。
因みにこの地帯では新卒大学出の初任給が月額1,200元( 日本円で2万円程度)で一カ月の生活費は食費だけで、四百元( 日本円6,800円) 程度だという。
重慶の朝天門埠頭から白帝城のある奉節の町まで約8時間の船の旅である両岸に険しくそそり立つ岩山の合間を流れる長江は世界第3位の長さを誇って土色をした水を満々と湛え悠々と流れている。
白帝城までには鬼城、石宝寨、帳飛廟等の旧跡があるが船の上からでは見る術もない。航行するにつれ多少様子を変える山々の岩肌や岩壁を眺めているだけの単調な退屈する8時間である。高速船なので時速50〜60kmも出ているのであろうか、甲板にでることもできず船室に閉じ込められたまま船窓から移り行く景色を眺めているか、居眠りをしているしかない。昨日睡眠時間、が短かったので不足分を取り戻すにはおあつらえ向きのクルージングである。長い8時間が終わってやっと奉節の町へ到着した。ここでも「棒棒群」に荷物をバスまで運んで貰い、急峻な階段を登って奉節の町中を通り抜け、白帝城入り口にやっと到着した。そこにはひょうひょうとした風情の痩身の白い杜甫像が訪問客に俯瞰する眺望の素晴らしさを指し示すかのように佇立している。
眺め下ろすと両側の険しい山間を流れている
長江を遠望することができる天下の絶景である。
前方へ伸びている岩道を眺望を楽しみながら暫く歩くと吊り橋がある。この橋を渡って赤甲楼という楼へ登り景色を眺望した。この三層の楼からは前方に三峡の始まりである瞿塘峡の入り口を見下ろすことができる。瞿塘峡の両側にそそり立つ赤甲山と白塩山の競り合う間を長江が流れていく様子がよく判る。
眺めは実に素晴らしい。
瞿塘峡に続いて巫峡、西陵峡が順番にその先に控えているのである。この三つが世にいう三峡である。
この楼から一寸前方へ進んだ地点からは、昔、岩肌に穴をあけて丸太を差し込みその上に板を並べて作った古桟道の跡を望むこともできる。今は桟道は外されて穴しか残されていないが、絶壁に懸けられた桟道を往来した旅人や住民達の苦労の程が偲ばれた。
三峡ダムの建設によりこの天下の名勝も過半が水没してしまう運命にある、のだ。岩肌に143.2m、175mと白色のペンキで記されているが、これはそれぞれ2006年、2009年時点の上昇する水面が表示してあるのである。何れも海抜であるが、175mの地点は今立っている赤甲楼よりも遥か上方であるから、この望楼も水没してしまうのであろう。
来た道を暫く引き返して今度はリフト乗り場までやってきた。スキー場のリフト様のものに乗り白帝廟に到着した。
ここには劉備が祀られていて「劉備託孤」のエピソードが塑像で紹介されている。
諸葛孔明が星を占って作戦を立てたという望星亭、杜甫が住んだ西閣などもある。また杜甫の代表的な詩である「朝に白帝を辞す」の詩碑が立っていたが周恩来が筆 をとっている。詩碑に残すだけあって達筆で流麗な墨痕は見事である。

白帝城という名の謂われは前漢末期にこの地方の富裕者公孫述が独立王国を築き、井戸から白い龍が昇天するのを見て、自ら白帝と名乗ったことに因んで命名された。その後、公孫述の像は劉備の像に取って代わられたのである。
白帝城の見学を終えて近く水没する奉節の旧市街へ入り繁華街を通り抜けて師範学校の看板のでている学校へやってきた。校舎の裏に隠れるようにして永安宮という名の建物がある。ここは劉備が息を引き取った場所であり、元は学校構内の敷地一杯に王宮が営まれていたのである。ここにも劉備託孤。の像が祀られていた。病を得て最後に死後を諸葛孔明に託す場面の木彫りの群像である。
本日は奉節のホテルで宿泊である。エレベーターもない8階建ての田舎のホテルであるが詩城という名がついていた。
出発まで間があったので20分程朝の町中を歩いてみた。そこここに饅頭やお粥等を商う出店が並び道行く人々が立ち寄って朝の腹ごしらえをしている様子は活気があって面白かった。
波止場から小舟に乗って小三峡のクルーズを行った。ここは支流であるため本流とは違って水の色が紺碧に光っており、川底には砂利と岩塊が堆積していて清々しい感じである。
小三峡は川幅も本流よりは狭くて両側の岩肌や岸壁にはまた今までとは異なる趣があったが、日本でも見られる各所の渓谷とさしたる変わりはなく、期待外れであった感を免れない。
この白帝城のある奉節の町の新市街のレストランで昼食を摂った。新市街は三峡ダム建設に伴い地域住民を移住させるために頂上近くに最近作られた計画都市である。ここへくるために低地の旧市街を通り抜けた。町ごと水没する運命にありながら旧市街には活気があり、商店街は夥しい群衆で賑わっていた。既に引っ越しを済ませた部落もっあって廃墟になってしまった建物が建ち並んでいるが暗さが感じられなかったのは不思議である。
また現在、引っ越し中の部落もありそのため昼食のレストランへ向かうための迎えの車が渋滞に巻き込まれて小一時間も待たされるというハプニングもあった。交通警察官が出てきて号令をかけるまではめいめいが一車両しか通行できない細い道路に譲り合うことをせずに、双方から自己本位の割り込みを行うものだから混雑に輪をかけて渋滞はひどくなるのである。
三峡ダムを建設するために移住を余儀なくされる流域住民の数は200万人であるというからこのプロジェクトが国の威信と国力を注ぎ込んで実施される一大プロジェクトであることが判る。
昼食後再び高速船に乗り巫峡、西陵峡の絶壁を鑑賞しながら三峡クルーズ最後の町宣昌へやってきた。
かくして両岸の景色にもさしたる感動を覚える、ことなく、三峡下りのクルーズは終了したが、ここまでくると周辺の様子はがらりと変わる。今まで高い山に囲まれた山間だったのに高い山が姿を消し丘陵地帯になる。平地もかなり広く広がっている。中国の地形は西から東に行くにつれて山から丘陵に変わりやがて広大な平野に変化していく様子がよく判る。
ここでは三峡ダムの建設現場が眼下に見下ろせる三斗坪鎮の高台にあがり最初に模型室へ案内された。
ここには三峡ダムの完成予定模型が置いてあり全体像を理解するのを容易にしてくれる。模型を頭に入れておいてから実際の工事現場を見下ろすと今更のように国家的大プロジェクトであることがよく判る。
このダム建設の発想は、1911年に孫文が唱えたものであり、1992年の人民大会議で建設が決定され、1994年12月に着工したものである。
水門の高さは185mで落差は103mになる予定である。最大流量は毎秒11万m2で年間840億キロワット時の発電量であり、完成すれば、世界一の水力発電所になるという。総工費は2500億元の文字通り大プロジェクトである。
最近,日本の生産拠点が中国に移転され、日本の製造業が空洞化しつつある事実や値段の安い農産物、衣料品が製品として日本国内市場に奔流の如く流入している事実と重ね合わせた時に中国の持つ底力というものを如実に実感させられる工事現場であった。
今回の三峡下りの旅では山間僻地に至るまで、経済大国への道を驀進中の中国社会の現状を随所にに感じ取ることができた。
| 2004年06月22日(火) |
【経済大国へ驀進中の中国・・三峡下り� � |
▼中国の旅5 成都、臥龍、都江堰、大足、北山石刻、重慶、三峡下り、奉節、三峡ダム 2002年3月14日〜3月19日 朝早く成都市内のシェラトンホテルを出発して臥龍へ向かった。臥龍まで約3時間のバスドライブであったが、中国の田舎の風景を存分に観察することができた。 概ね道路の両側は山に囲まれており、山の木々は新芽を吹き始めているし桜と桃が美しく今を盛りと咲き誇っていた。山の合間に開けた平地の田畑には一面に菜の花が咲き乱れておりまさに春爛漫の風情である。
山間を流れている川の底には砂利や岩塊ばかりが転がっていた。山間の山道は舗装されておらず左右に大きく揺れるがたがた道である。そして、至るところにスローガンを書いた横断幕をみかけたが、「開発」という文字がやたらに目についた。中国の簡体文字は判読が難しく、「開」の文字が「門構えを省略した鳥居印」のようなものであり「発」の文字が「友」+「’」と簡略化したものであると解読できるまでには相当な時間が必要であった。看板の珍しい文字を眺めながら原字を推理するのは楽しい頭の運動であった。 途中小休止した場所の公衆便所は典型的な中国風のもので、建物の中の便所は申し訳程度に個室として囲ってはあるものの扉もなく垣根は低く人目を気にすると出たいものも引っ込んでしまうような造りで女性泣かせの「ニー、ハオトイレ」であった。
民家の門前では鉢にご飯とおかずを盛った遅い朝飯を立ち食いしている若い農婦を目撃した。以前聞いた話であるが「私はこのように朝ご飯を無事食べていますよ」ということを近隣に誇示する意味合いがあるという。農民が毎日の食に事欠く程に困窮していた頃出来た昔ながらの習俗が残っていたし現在の中国の都会地では見られなくなった紺色の人民服を纏った老人達や農夫達を見ることもできた。
しかしながらこのような風俗と対比するように20年前には電気が通じていなかった僻地にもパラボラアンテナがそこここに立てられていて、情報化と現代化の荒波がこの山奥にも押し寄せていることを感じさせられた。
やがて目的地臥龍に到着した。成都の北西方向にある山奥で
パンダの自然保護区があるところである。檻の中に飼っているパンダもあれば、森林に放逐されて生活している野生のものもある。野生のものは百頭前後棲息しており、国の保護施設で養育保護されているのは30数頭らしい。木の上で眠っているかと思えば、原っぱで寝ているものもいる。パンダは「ケンチク」という竹を主食にしている。一日に50kgほど食べるらしい。寝るか食べるかの生活でコアラに似た習性であるといえる。パンダの歩き方は一種独特で関節を曲げずに歩く姿に特徴がある。ここではパンダと一緒に記念撮影をした。


この臥龍から岷江沿いに上流へ遡っていくと松藩、黄龍、九寨溝等の秘境がある。何れの日か再訪してみたいところである。
昼食はこのパンダ保護所にある食堂で田舎の四川料理を食べたが小皿は無く全てご飯を持った茶碗に料理を乗せて食べるのであり、それが中国の流儀だという。
四川料理は辛さに特徴があり、唐辛子と山椒で味付けする。「脚のあるものは机以外、飛んでいるものは飛行機以外は何でも食べる」のが中国料理である。
また「麻婆豆腐」は成都に住む「あばたの陳婆さんが創案した料理」のことであるという。
臥龍の見学を終えての帰りに都江堰に立ち寄った。今では「都江堰市」になっているが、ここの歴史は2200年前に秦王朝の官吏であった李親子が岷江の治水のために堰を設けたことに始まる。流れの激しい岷江に中州を設けて水流を調節したものであるが科学的な設計に基づいて行われた大工事であった。安瀾橋(あんらん)という吊り橋、龍を封じ込めた伏龍観(観は道教の寺院の意味である)、
流れの速い宝瓶口、李氏親子の二王廟を見学した堰周辺が公園になっている。
ところで四川省の名の謂われは四つの川からきているが何れも長江の支流の四つの川のことである。1)岷江 2)大渡河江 3)嘉陵江 4)川江
ここで三国史の復習をしておくと成都(四川省)は蜀の都で劉備の本拠地洛陽(河南省)が魏の都で曹操の本拠地、武漢三鎮の一つ武昌(湖北省)を都としたのが呉の孫権である。
成都市内に戻り夕闇迫る頃、杜甫草堂を見学した。
759年から約4年間、安禄山の乱を逃れた杜甫が厳武の庇護のもとに仮小屋を造り,質素な生活を送った場所である。彼の全作品1400首のうち代表作を含む247首がここで作られた。唐末に彼を記念するため草庵が建てられたが、明代に再建され今日に至っている。草堂の敷地内には竹が沢山生い茂っており、静寂な佇まいである。
「川劇」は琴の演奏、踊り、操り人形、変面、低所潜り抜け等と幾つかの出し物があったが、圧巻は「変面」である。役者が面を付けて出演するのであるが、見せ場見せ場で顔を振り、見栄を切ると今までつけていた赤色の面が青色の面に変わったり、黄色の面が黒色に変わっているのである。まるで手品をみているようでどんな仕掛けになっているのかよく判らない。優れた演技者は一秒間に二十回も面を変えることができるというからその技術は素晴らしい。変面の芸は一子相伝の秘技で最近では後継者難になっているという。
朝、成都市内の武侯祠へ立ち寄ってから大足の宝頂山の石刻と北山の石刻を見学する予定である。その後宿泊地の重慶までバスで走行する予定になっている。
ところが運転手が重慶出身というふれこみで地理に暗いものだから目的地の武侯祠へなかなかたどりつけない。同じ所をぐるぐる廻っているようである。ここで一時間近くも時間のロスができてしまった。
武侯祠は諸葛孔明の遺徳を偲んで彼を祀るために建てられた祠であるが、君臣は合祀されるべきだとの思想のもとに劉備玄徳も祀られている。そして両翼の回廊には三国史に登場する殆ど全部の英雄達の像が同時に飾られている。また、劉備の小山のような墓も独立して構内の一角にあるがこの墓は発掘調査されたことがなく何が埋葬されているか謎になっているという。
ここには諸葛孔明が劉備玄徳の死後その後継者劉禅に奉った出師の表の前編、後編が石碑に刻まれて保存されている。このうち前出師の表は南宋の武将岳飛の筆であると伝えられている。因みに出師の表は蜀の将来や政治の根幹を説いたもので名文で知られている。
武侯祠の見学を終えて大足へ向けて出発したのだが、バスの横揺れが激しくなり、後続の車にどんどん追い越されるようになった。スピードメーターを見ると70kmを超えると横揺れが激しくなるようだ。横揺れするのは道路のせいではなくて車両の整備不良が原因だということに乗客達は漸く気がついた。運転手と現地ガイドが携帯電話でしきりに話しているが、どうやらバスの不調を会社に訴え、代車の手配をしているらしい。中国語で喋っているので何を話しているのかは判らなかったが、車の車軸でも折れてしまうのではないかとの不安が頭をよぎるようになりだした。よたよたした足どりで行けるところまで走る模様であるが、時間はどんどん過ぎていくし後続車にどんどん追い抜かれていく。予定では昼食をレストランで摂る筈であったが、時計は既に午後3時になろうとしている。
やっと昼食予定地の内江にまでたどり着き、待機していた代車に乗り換えた。
レストランでゆっくり食事をしている時間がないので予め連絡して用意して貰った弁当を受け取り車内で食べることとなった。車はそのまま走行を続け、遅れた時間を取り戻そうという苦肉の策である。 弁当たるやゆで卵が三個とハムらしき肉片が数枚と饅頭が入っていた。
今回の運転手はプロ意識が全然なく、一番大切な車の整備点検を行っていないし、地理の勉強も全然していない。最低の運転手であった。事故が起こらなかったことをラッキーとするのみである。
時間が遅れたため最後の観光地北山にはガイドが連絡をとり、閉門時間を遅らせて係員に待っていて貰うという始末であった。
| 2004年06月21日(月) |
【多彩な少数民族が生活する雲南省・・�ァ� |
翌日代表的な景勝地の李子箐石林を見学した。 このあたりはもともと海であったが、二億八千万年前に地殻変動が始まり、石灰質の岩盤が変形し始めて岩面が露出した後も、風雨による浸食や地震によって、岩山が削られ、その結果鋭い岩山が数多く出現したのである。
ここは有名な景勝地なので外国人はもとより中国人の観光客も多いところである。公園の広場には折から梅の花が咲き誇っていた。
そして目当ての石林には鋭い剣を何本も縦にに並べたような岩肌が連なっていて、石林とは言い得て妙であると思った。その石林の合間を縫うようにアップダウンしながら小道が設けられているが、なかなか前へ進まない。観光客達がこれはと思われる個所に立ち止まって記念写真を撮影するからである。
1996年の大地震で鋭い剣の刃先のような岩が折れて、崩れ落ちたが下まで落ち切れずに岩と岩の間に挟まって今にも落下しそうに見えるものが幾つかある。これには「間一髪」「間二髪」「間三髪」などと名前が付けられている実に絶妙のネーミングであると感心することしきりである。
昆明市内の自由市場を見学した。自由市場は釜山でみた市場と似通った雰囲気があるが、釜山程規模は大きくなく品揃えも劣っていると思った。食料に供される小犬や鶏、蛇などが籠に入れられて並んでいたりする。この種の市場の猥雑さと喧噪が錯綜しているところは万国共通のものがある。
何人かの男が豚の両足を押さえつけていて一人の男が喉に包丁を突き刺したところや鶏の首を締めている所等をたまたま目撃してしまった。豚や鶏の断末魔の声が耳に残ってこの夜の食事は気が重かった。
今日は雲南省の旅最後の日である。西山森林公園は昆明市の西郊外15kmのところにあり、滇池に沿って華亭山、太華山羅漢山等の山々が南北40kmに渡って連なっている。
元代に創建された三清閣は道教寺院であるが、ここから絶壁の岩肌を縫うようにして急峻で勾配のきつい石段を333段登っていくと慈雲洞、鳳凰岩達天閣を経て半月形の展望台に至る。 ここにある石窟が竜門である。展望台からは滇湖を一望することができてなかなかの絶景である。下を覗くと身震いするような断崖絶壁にある石窟である。この窟は揚親子と70余名の石工が22年の歳月をかけて完成させたといわれている。昆明を訪れる観光客は必ず立ち寄る天下の名勝である。
竜門の絶景を堪能してから帰り道にある 華亭寺を見学した。雲南省で最大規模を誇り九百年以上の歴史のある禅宗の名刹である。寺院内には二百あまりの建物があるが、大雄殿の三尊金身仏像と五百羅漢像を見学した。五百羅漢像はこれまでにも日本の各地の寺院で見学したことがあるが、概ね石像が多く地味な色合いであるが、ここの五百羅漢は塑像で派手な着色が施してあるのが珍しく如何にも中国らしいと思った。また手長の羅漢が何体かあったがその手の長さが異常に長いのも強烈な印象を与えるものであった。 境内に咲いている花弁が. 薄黄緑色をしていたのも珍しかった。 今回の中国雲南省の旅では多くの少数民族がそれぞれの文化と習俗に誇りをもって自然と調和しながら精神的にゆとりをもった生活をしており、四千年の歴史が育んだ中国は多様性を巧みに包摂しながら近代化へ向けて驀進しているという印象を強く持った。
| 2004年06月20日(日) |
【多彩な少数民族が生活する雲南省・・�ぁ� |
再び麗江市内へ戻り、 四方街を中心とする麗江古城を散策した。 1300年の歴史を誇るこの街は玉龍川に育まれてきた豊かな自然に恵まれた美しい街である。
リズミカルな曲線を描きながら四方に伸びる石畳の大通りと路地。 明、清時代の建築様式を保っている古風で典雅な民家。 大通りと横町そして民家の垣根や庭を横切って長年流れ続けるせせらぎ。
さまざまな形の石橋と川辺の枝垂れ柳。 この総ては人間の営みと自然が見事に調和した風景を織りなしている。 特に東巴文化とナシ族の伝統習俗はこの街の魅力となっている。
1996年に空前の大地震に見舞われ多くの建物が倒壊したが、莫大な資金を投下して街並は復元された。
従って多くの建物は新しく建て替えられているが忠実に復元されたので昔の面影はそのまま伝えられている。このあたりの考え方は歴史のある町並みを保存することに熱心な欧州諸国と同様であり、日本と一味違うところである。
大理では現地ガイド王さんの案内で藍染めの家内工場を見学した。 居宅の前庭には人間の背丈程もある大きな木桶が三つ置かれており、中年の男が木の棒でブルー色の水に漬かった布をしきりに掻き回していた。庭一面には染め上げたばかりの大小さまざまの布が所狭しとばかりに張り巡らされた紐に干されている。桶の傍らには植木鉢に植えられた藍の原料となる 「板蘭根」という草が三鉢程置いてあった。
納屋の傍らでは人老婆が二人小さな椅子に腰かけて巧みに糸を操りながら布に絞りを入れている。この村で一番上手なお婆さんであるという。
片や母屋の部屋の中には藍染めの商品が並べられていて、若い女性が数人民族衣装に身を固めて、巧みな日本語で愛嬌を振りまきながら観光客に商品の説明をしている。

ここで立ち働いている人々は何れも親戚関係にあり、無報酬の労働であるという。一年間の収支決算をしてから利益を分配するのであるから言ってみれば藍染作業に従事している親戚一同全員が経営者なのである。利益の配分方法については特に聞いてもみなかったので憶測になってしまうが、おそらくやる気を高揚させるような人事考課が行われて配分されるのであろう。
立ち働いている人々の立ち居振る舞いには無駄がなく真剣そのものであった。ここに、最近日本の製造業の国際競争力がなくなって新興の中国へ工場移転が相次ぎ日本国内が空洞化していく現象の原点を見た思いであった。
蝴蝶泉へ行った。大理古城から北へ24kmの雲弄山の麓にある方形泉は大理石の欄干に囲まれている。水面は鏡のように美しく滾々と湧き水が出ているこの泉を中心として小さな公園が作られている。
この泉は昔無底潭と呼ばれていた。泉の横に親子が住んでおり娘は名を雯姑と言い聡明で金花に例えられる程美しかった。雯姑は漁師の霞郎という青年と婚約していたが、領主が雯姑を連れて行ってしまった。霞郎は苦労して雯姑を救い出したが官兵が追っかけてきて、追いつめられた二人は無底潭に身を投げたのである。その時雷光が走り暴風となった。そして雨が上がると泉の中から七色に輝く一対の蝶が現れ、その後から無数の蝶が飛び出してきたのである。
この泉で王さんから悲恋の物語を聞き終えた時、泉から一段低い広場で民族衣装に身を固めた初老の男と若い娘達が数人、茶色毛の鶏を二羽抱えて、呪文のような音声を発しながら踊りをしているのに気がついた。興味にかられて眺めているとやがて鶏を水浴させ、それが終わると首を押さえて穀物をしきりに食べさせている。
それはあたかも鶏達に感謝を捧げている風情である。
先祖の供養をするための儀式ではないかという人もあり、なるほどと納得しながらなおも観察していると、儀式が終わったのか、やおら老人が鶏の両足をつかんで立ち上がり大きな包丁を取り出して首を刎ねたのである。その動作の素早いこと、あっという間の出来事であった。突然の成り行きに唖然としてその周囲を見渡せば、何と儀式の現場から少し離れたところには石ころを組んで築いた火入りの竈と鍋釜に食器が並べられて綺麗に切られた野菜や炊きあがったご飯や調味料が敷物の上に並んでいるではないか。これから>野外パーティーが始まるのである。
昔、田舎で鶏の首を刎ねる時のこれと同じ光景を見たことがあるなと幼児体験を思い出しながら、次の訪問地喜州村の厳家大院へ向かった。
厳家大院は明,清時代の建築様式を伝える白族の代表的なものである。白族の中の最有力な一家である厳家の本家の中の大きな庭である。
この庭は三方一照壁といわれる建築様式で作られた建物の中にある庭である。この様式はペー族の伝統的な建築様式であるが、白壁と青瓦でできた二階建ての母屋の両側に副屋を建て、母屋の正面に目隠し用の照壁を配する建て方である。照壁は東側に設けられ照壁の反射光で明かりを部屋の中に取り込む仕掛けになっている。
このような民家が数多くこの地には残されて美しい町並みを作り出している。
この厳家大院で白族の若い娘達の民族舞踊を見学しながら「三道茶」を御馳走になった。三道茶は白族が客をもてなす時に出されるお茶で、最初「苦い」茶が給され、次いで「甘い茶」が出される。最後に「辛い茶」で締めくくるという訳である。
恋愛中の若い女性が家族に紹介するため初めて、相手の男性を両親の許に伴ったとき、三道茶が出されれば両親の目にかなったということであり、三道茶が出されずに山海の珍味の御馳走でもてなされた時は「貴男は両親の眼鏡にかなわないから娘との交際は取り止めてくれ」という意思表示になるのだという。
次いで大理石の加工工場を見学した。大理石とはこの大理で採取されることからつけられた名前であるとはここで初めて知った。大理石と言えばすぐローマやギリシャの彫刻や建物を連想するようになってしまっているが、言葉の原義を知らずに日常使用している言葉が如何に多いかを思い知らされたことであった。
この工場は国営工場であるが、作業員は数名しかおらず、あとの過半は管理員であるから管理費倒れで採算の上がる筈がないとはガイドの王さんの見解である。ガイドの口からこのような発言が簡単に聞かれるようになったことは今の中国の政府当局の悩みとこの国の持つ民間活力の秘められたポテンシャルの大きさを窺わせるに充分であった。今後大いに発展する国であるとの感慨一入である。
大理の三塔を見学した。この塔はもともと崇聖寺という大きな仏教寺院の境内にあったが度重なる兵火や大地震ですべてなくなり、三塔だけが残っている 主塔は南詔国の時代、唐の開成元年(八三六年) の創建で両脇の小塔はそれより少し後に建てられた。主塔の高さは69.13mで16層の方形密檐式の煉瓦製仏塔である。塔基前に「永鎮山川」の文字が大書されていて各層には仏像がはめ込まれている。
主塔の南北に控える2塔の小塔は高さ42.19m、十層八角の密檐空心式の煉瓦製仏塔で大理国の時代に建立された。 三塔倒影公園内の池に写った三つの塔の影は実物と合わせて見ると六つ塔が あるような錯覚にとらわれる素敵な光景である。
三塔倒影公園内には南詔建極大鐘殿が新しく建設されておりこの鐘楼の二階に登って大理市内を眺望するとそこには白壁と青煉瓦屋根の古い町並みが開けているのを一望することができる。
この後大理(古城)市内を見学したがここは城壁に囲まれた旧い
城郭都市でペー族が昔ながらの集落の中で悠然とした時の流れにまかせて都会の中の喧噪の中にあっても自然と調和した心豊かな生活を営んでいるのを見ることができた。
| 2004年06月19日(土) |
【多彩な少数民族が生活する雲南省・・��】 |
納西族の住んでいる束河村を訪問した。 この村には古くからの農村の家並みが残されていて道路の両端には瓦葺きの古い二階建ての民家が軒を接して建ち並んでいる。壁は日干し煉瓦を積み重ねたものが多い。

門扉には「春節光臨」等と書かれた旧正月の到来を祝う張り紙がしてある。中には葬式を出したばかりとおぼしき張り紙をしてある家もある。
日干し煉瓦塀で囲われた庭には穴のあいた何本かの柱が高く建っている。これは穴に竿を通して収穫物の玉蜀黍や稲を乾燥させるための支え木である二階の軒下には玉蜀黍の実が数珠繋ぎに縛られて幾つも吊り下げられていて陽光に晒され黄金色に光っている。庭の囲いの中の家畜小屋では牛が玉蜀黍の茎や葉を食んでいたりする。

道路には農業用トラクターに鉄板で囲いをつけた車が農産物を積んで通り抜けるかと思えば、一方には背中に農産物や薪の一杯詰まった大きな籠を背負った女性が力強い足どりで歩いて行く。軒先では男達がトランプや将棋に打ち興じていたり、老人が椅子を持ち出して座り人通りを飽かず眺めていたりする。実に長閑な田園の村落の光景が展開している。ガイドの説明によればナシ族の女性は働きものであるが、男は働かないでぶらぶら遊んでいることが多いという。それが昔からの習慣であるからそのことを奇怪だと思う人も今まではいなかったという。しかし観光客が大勢訪問するようになってからこの風習も次第に見直され、男も働くようになってきているという。
たまたま広場に数多くの男達が集まって、予め組み立てられた材木を取り囲んでガヤガヤ言いながら立ち働いている現場に遭遇した。新築民家の建前である。暫く眺めていると柱と梁を組み合わせて予め組み立てられた母材に綱を掛け、掛け声に併せて一斉に男達が一方では綱を引き、他方では母材を押し上げている。見る見るうちに鳥居型の最初の骨格が立ち上がった。続いて他方にも同形のものが立ち上がり、柱を器用に男達がよじ登って両者に横木を渡して家の骨格が出来上がった。クレーンを使うわけでもなく総て人海作業である。運よく村落共同体の原始的な建前の風景を見学することができた。
この国では社会主義が行われているので土地は国家のものであり、家を建てる人は国家に土地税を収めてこれを借り受け、材料費だけを負担し、労働力は村落の人々の労力奉仕に依存して家を建てるのだという。ここには住民がお互いに協力しあって助けられ且つ助け合うという地縁社会の相互扶助の習慣が現在に息づいていた。

そして若い男が結婚するには家を持っていることが一つの条件になるという。通りを進んでいくと川があり川の向こうは緩い傾斜の山麓に広がる部落で瓦葺きの家並みが古色蒼然と建ち並び美しい景観を作り出していた。
昆明の市街地から北12kmのところにある白砂村へ赴いた。現在は鄙びた村落に過ぎないが明清時代にはここが麗江地域の政治文化の中心地であった。ここは豪族「木氏土司」の本拠地であり、数多くのきらびやかな建築物が造られ現在でもその一部が残されている。
白砂で最も有名なのは、当時この地域の支配者であった木氏土司が道教や仏教の教えを普及するためにナシ族、漢族、ペー族、チベット族の画家に描かせた壁画である。
木氏は戦争を嫌い村を囲む城壁を一切作らなかったので、諸族共存を政治信念として部族の統治にあたった一つの例証とも言える因みに「木」を囲むと「困」になるから城壁を作らなかったのだという言い伝えも残っている。
最も保存状態のよい「白砂壁画」を見学した。楠木の壁板に大乗仏教、道教の題材が金泥を用いて描かれており立体感を表現しようとしたところに特徴がある。撮影禁止でカメラに収めることはできなかった。
この村では広場で中年の女性達が6〜7人民族衣装に身を包んで、カセットテープから流れる民族音楽に合わせて踊りを踊っていたが、カメラを向けただけで撮影していなくてもしつこくチップを要求されるからとガイドから予め注意を受けていたので撮影は一切せずにやり過ごした。それでも紙箱を両手に捧げて若い女性がチップを要求してしつこくつきまとってくるのには閉口した。
面白いと思ったのは壁画のある場所の周りには土産物屋の屋台が並んでいて藍染め主体の工芸品が売られていたことである。そこには必ずと言っていいほど「苗族の藍染め」と特記してあるものが多かった。この地には苗族もナシ族と共生しているのかと現地ガイドに聞いてみると彼らは土産ものを商うためにこの地へ進出してきている出稼ぎ商人だということであった。彼らにはまた別のところに定住区があるのである。
午後玉龍雪山を東側からまじかに見るため雲杉坪(ウンサンピン)という丘へ向かうべく広いだらだら登りの高原を疾駆した。元この地域に飛行場があったが高い山が近くて飛行機の離着陸に危険であるため廃止されたというのである。説明がなければ飛行場の跡だとは誰も気がつかないであろう。
そんな変哲もない場所を暫く走行して「東巴文化走廊」という標高2900mの地点にあるレストランで昼食を摂った。このレストランの建物の中央部には部族の神様の大きな像が守護神として佇立し周囲を睥睨していた。高い場所にあるので建物の中へ入っても震えるような寒さである。暖房設備も施されておらず、ブリキ製の火鉢に炭が焚かれているだけであるから暖気は部屋の中へは行き渡らない。
やがてスキー場でよく見かける腰掛けだけのリフトに乗って雲杉坪の丘へ登った。
一気に高度が約300m程上がるので高山病にかかるおそれがあるから、煙草を吸ったり、走ったり、大声を出したりしないようにとの注意があった。体力に自信のない人は「空気枕」と称する酸素入りの枕状のビニール製容器を借りて携帯するのである。
雲杉坪に降り立つと一面に雪が積もっていて観光客に踏み固められて滑りやすくなっている。通路に沿って見晴らしのよいと言われているヴューポイントまで到達したが、生憎の雲で玉龍雪山の全貌は全然見ることができなかった。
山の裾部のあたりが見えているだけである。暫く待っていたが雲は晴れずやがて雪が降り出した。折角登ってきたのにと残念な思いであったが、再びリフトに乗って下山した。名山を見ることができるのは余程「つき」がなければ難しいと言われるように致し方のないことであったが悔しい思いが残った。
| 2004年06月18日(金) |
【多彩な少数民族が生活する雲南省・・�◆� |
今回訪問した都市では昆明、麗江が納西族(ナシ族)、大理が白族(ペー 族)、石林に彝族(イ族)の支族のサニ族が住んでいる。中でもイ族は雲南省最大の少数民族で雲南省全土に分布しており、人口およそ七百万人に及ぶ。
昆明は雲南高原の中部に位置し、三方を山に囲まれた風光明媚な雲南省の省都である。市の総面積は15,561km2あり、人口は370万人。標高は1891mであり、気候が穏やかで一年中緑が絶えないので「春城」の別名がある。
歴史も古く旧石器時代の3万年前には既に湖の「滇池」(てんち)周辺には人が住み着いていた。
紀元前3世紀に楚の将軍・荘滇が現在の晋城辺りに築城し滇国を建国した 紀元前109年に前漢の武帝は滇国王に「滇王之印」を与えて正式な国家として認めた。その後、南詔国の時代となり、拓東城が造られた。871年には鄯闡城と改名され、南詔国の東都として栄えた。
1254年にフビライが派遣したモンゴル軍に鄯闡城は占領され、1276年に雲南行省が設置されて鄯闡城は昆明県となった。この時、雲南地区の行政の中心地は大理から昆明に移り現在に至っている。
次に大観公園に行った。 公園へ入って最初に目がつくのが奇怪な形をした岩の塊である。これはこの公園に取り入れられた造園技術の一つで障景堡と呼ばれる手法である。つまり美しい景色をいきなり見せないように障壁を設けておいて、観光客が障壁を越えて進んだ時、美しい光景が突然目に飛び込んできて感激もまた一入ということを狙っているのである。
ここは湖・滇池の北岸と繋がる大観川の中に造られており、楠木で出来た三層の楼閣が最も有名である。大観楼と称するこの建物の一階には滇池の美しさを90字で詠んだ詩(長聨)と同じく90字で南詔国の歴史を叙した詩が左右の門に飾られている。この公園は清代の1696年康熙帝の時、池を作り現在の形になったものである。古来文人が遊ぶ名所であった。
朝6時15分にはホテルを出発して麗江を訪問するため昆明空港へ向かった戸外はまだ真っ暗である。ここ中国では広大な土地であるにもかかわらず総て北京時間が適用されているので、夜が明けるのは8時前である。8時にならないと夜が明けないという生活は異様である。北京とでは2時間程時差を設けてもいいのではなかろうかというのが、通りすがりの一観光客の率直な感想である
40分程のフライトで麗江の空港へ到着した。道中機内から窓の外の風景を眺めやると雲南省は山の中に開けている省だということがよく判る。何処までも続く山並みの合間にすこしだけ開けた盆地があり、小さな集落が形成されている場合が多い。雲南省の省都昆明が標高1,891m、麗江が2,400m、大 40分程のフライトで麗江の空港へ到着した。道中機内から窓の外の風景を眺めやると雲南省は山の中に開けている省だということがよく判る。何処までも続く山並みの合間にすこしだけ開けた盆地があり、小さな集落が形成されている場合が多い。雲南省の省都昆明が標高1,891m、麗江が2,400m、大理が1,976mの盆地であるから省自体が標高の高い山地に営まれていることになる。
麗江空港で朝鮮族の厳さんという若い女性のガイドに出迎えられて、最初訪問したのは玉泉公園である。 市街地の北に位置し公園内の池の水が玉のように碧いので玉泉の名がつけられ、別名「黒龍潭」公園ともいう。清の乾隆2年(1737) に「玉泉王廟」として造られたのが始まりで弓型をした約6km2の池を中心としていて、その周囲にはしだれ柳が植えられている。
大理石で造られた玉帯拱橋の向こうには雪の帽子を被った玉龍雪山が白く聳えており素晴らしい光景である。運よく雲が切れてその秀麗な姿を見飽きることなく眺めることができた。
公園内には数多くの楼閣や亭が建てられているが、明の万暦29年(1601年) 創建の福国寺五鳳楼や三層四角の得月楼が有名である。たまたま民族衣装を身にまとった若い女性4人が楼閣の前にいたので、
写真を撮ってもいいかと許可を求めると「ジュウゲン、ジュウゲン」と手の掌を突き出してチップを要求された。「OK」とチップを支払う意思のあることを表明すると4人が並んでポーズをとり、撮影に応じてくれた。場所によって異なるが観光地に民族衣装を纏って屯している若い女性は写真のモデル料を得ることを目的としているのである。
| 2004年06月17日(木) |
【多彩な少数民族が生活する雲南省・・� � |
▼中国の旅4 昆明、麗江、束河村、白砂村、雲杉坪、大理、喜州村、石林、竜門 2002年1月9日〜1月13日
最初昆明市内の「雲南民族村」を訪問した。これは見学者用に造られたテーマパークである。昆明市の南8kmに位置し80km2の広大な敷地の中に雲南省に居住する26民族の文化風俗を展示紹介している。
丁度南アフリカのヨハネスブルグで訪問した民族文化村と同工異曲の公園である。
公園の入り口には大木があり枝を張りめぐらせている。アフリカで見たバオバブの木に一見似ている。しかし近づいてよく見ると宿り木の葉の中に 混じって造花らしい葉っぱがついている。更に仔細に観察すると幹なども巧妙にコンクリートで造られた造木であった。自然が売り物の公園に人工の樹木とは如何なものかと当局の人達のセンスを疑いたくなるような代物であった。
入り口近くの人口の湖では舟を浮かべて漁師達が投網を打って魚を捕っていた。養殖の川魚だという。
広大な公園の敷地の中に各民族の民家と生活用具が収納されて展示されていたが、実際に生活している場面は少なくて、南アフリカで見たレセディ民族文化村のような迫力はなかった。ここでは拉枯族(ラフ族)、基諾族、ワー族、タイ族のエリアを見学した。

それでも印象に残っているのは泰族(人偏+泰、タイ族)の寝室である。一つの部屋に三代の家族が就寝するのだというから異様である。今まで部屋の中は他民族には公開されなかったのを観光客用に最近公開するようになったという。覗いてみると大きな部屋が柱で四角に囲って小さく幾つかに区切られている。その区画内に蚊帳様の布切れで囲われた室がありその中に布団が敷いてある。祖父母用、両親用、若夫婦用、子供用とそれぞれの室に布張りが設けられているのである。各布張りの室の間は廊下のように空間が設けられており、ゆったりとした配置である。部屋の外へ通じる出入り口は三カ所設けられていてそれぞれの世代の専用に供されている。
最初は新婚夫婦を含めた三代の夫婦の雑魚寝なのかと思い、性生活のプライパシーはどのようになっているのかと心配したが、実際の部屋の中を見て他所事ながら安堵した。それにしても新婚夫婦には残酷な寝室の環境であると思った。
ワー族(人偏+瓦)は35万人程いるらしいがこの民族は牛を民族のシンボルとしており、牛の数が地位と財産を表す尺度になっていて民家の前には角のついた牛の骸骨がいくつも誇らしげに飾られていた。

ラフ族の村では瓢箪の飾りが多用されていたが、この民族は人間は瓢箪から発生したと考えているから瓢箪を民族のシンボルとしているのである。
中国には56の少数民族があり、雲南省だけでも26の少数民族がいる。少数民族も法のもとでは総て平等であり、差別はないが中国ではむしろ種族保存の見地から特別に保護されているようであり、人数の少ない幾つかの民族には一人子政策の例外扱いがなされている。
 少数民族の人々は何れも少数民族であることに誇りを持って生活している様子が今度の訪問でよく判った。民族の独自性を最もよく表すのはその言語と風俗であり、端的に違いを際立たせるのはその服装である。実にさまざまな服装がある。各民族ともその服装を特に若い女性が晴れがましく着飾って活動しているところが印象に残った
| 2004年06月16日(水) |
【世界八番目の不思議兵馬俑坑・・北京・洛陽・西安�◆� |
西安駅から洛陽駅まで約6時間の旅は沿線の田園風景を眺めながらの快適ではあるがやや退屈な旅であった。緑なす広大な田畑にときどき出現する村落の建物はいずれも煉瓦造りの単純な構造のものばかりで、木造建築は全然見かけられない。壁面には漢字でスローガンらしきものが書きなぐられているのを散見したが、その度にここはやはり社会主義国家なのだと思いなおすのであった。
洛陽市は岡山市と姉妹都市縁組をしており人口は120万人。東西に20km南北に5kmの細長い都市である。都市の花は牡丹である。洛陽は東周、魏隋唐の時代に都になって栄えた交通の要衝の地である。
久しぶりに朝ゆっくり起きて9時に宿舎の牡丹城賓館を竜門石窟へ向けて出発した。この石窟は敦煌の莫高窟、大同の雲崗石窟と並んで中国の三大石窟といわれている。
伊河の両岸、竜門山・東山と香山・西山に大小1352の石窟がある494年、北魏の都が大同から洛陽に移された時、雲崗石窟の後を継ぎこの石窟の建設が始まった。以来唐代に至る四百年間にわたってこれらの石窟は掘られ続けた。見学したのは西山の石窟である。
 賓陽三洞は建設に80万人が携わったと伝えられ、中央の洞は北魏期のものであり、日本の飛鳥仏に似通った仏像が多い。
万仏洞には数cmの小像が15000体壁にびっしり彫られている。 奉先寺洞には唐代に作られた高さ17メートルの盧遮那仏の座像が中央に鎮座している。この仏像は則天武后に似せて作ったと言われておりなかなかいい顔の表情である。これらの仏像は文化大革命の時、全然被害を被らなかった。それは周恩来首相の機転のお蔭だという。 文化革命が怒濤の勢いで進行している頃、文化財の破壊をくい止めようと考えた周恩来首相はこの地を軍隊の駐屯地に指定し、密かに駐屯地の責任者に命じて石仏を守らせたというのである。 なお、書き漏らしたので追加しておくとガイドの話によれば西安市内の勤め人の平均月収は月12000円位であり、北京で15000円から2万円であるという。
| 2004年06月15日(火) |
【世界八番目の不思議兵馬俑坑・・北京・洛陽・西安� � |
▼中国の旅3 北京、洛陽、西安の旅 1999年5月13日〜5月18日 初めて北京を訪問したのは9年前で天安門事件発生後1年2カ月経ったときであった。当時の旅行者は必ず地区の委員会を訪問し中国共産党の地区委員と懇談することが義務づけられており、窮屈な思いをしたが今回はこのセレモニーなしで自由に行動できたので、隔世の思い一入であった。
北京は九県から成り立っており、空港は市内から30kmの郊外にある。 北京市の面積は1万6800km2あり日本の四国の面積にほぼ匹敵する。人口は1200万人である。北京空港と市内を結ぶ高速道路は1993年に完成した。 北京では定番通り万里の長城と紫禁城(故宮)を見学し た。
西安訪問のため空港へ向かう車中からは丁度出勤時間帯と重なって市民の出勤風景を観察することが出来た。相変わらず自転車が多い。リヤカーを後ろにつけて荷物を引いている自転車もかなりある。それでも過去三回の中国訪問で見たときよりは自転車の数が少なくなり、自動車の数が増えていると感じた。
現地ガイドの説明では、車が最近増えてきて17年前の三倍になっているそうだ。中国のモータリゼーションはこれから始まるという感じである。 長安街道路の両側には建設中の高層ホテルが幾つも見えた。また、オフィスビルと目される建物もかなりの数建設中であった。前回の訪問で垣間見たときは煉瓦造りの平屋の老屋をあちこちで壊している所を目撃したように思うが、今はたまにしかそういった光景は見られない。地上げは完了して建設の段階に入っているということであろうか。1949年10月1日が中華人民共和国の建国であるから、建国50周年にあたる今年は10月1日に向けて、計画中の建物の建設が急ピッチで進んでいるのである。先ず、観光客誘致のためにホテルからということであろう。四千年の歴史を持つ大国には観光資源は山ほどあるのだから。 北京空港から飛び立った飛行機は午前九時には西安空港へ着地した。生憎機外は雨であった。早速迎えのバスに乗り込んで秦の始皇帝の墳墓と兵馬俑博物館へ向かう。空港のあるところは咸陽市で、西安市の北西方向に位置している。ここ咸陽の地は秦の始皇帝が春秋戦国時代の乱世を統一して都を置いた地である。時に西暦前221年がその統一の時であった。 兵馬俑博物館へ向かうバスの窓外に見える光景は一面の小麦畑である。季節がら青々と田は繁っている。その青田の中にこんもりとなだらかに盛り上がった小山が幾つも見える。これはいずれも前漢時代の諸侯達の墓である。その数およそ六百を数えるという。この辺りは台地になっていて小麦ととうもろこしが主要穀物であり、綿や葡萄も栽培されている。葡萄はワイン用で西安のワインは赤ワインに優れ評判もいいようである。地理的には秦嶺山脈の北側で農産物の豊富なところである。 やがてバスは秦始皇帝陵の遠望できる場所に停車した。陵の位置は南に驪山があり北は謂河に臨んだ風光明媚な所である。県政府の所在地から7.5kmの地点にあたる。
石榴畑の向こう側前方に緑豊かななだらかなスロープの山が眺められる。ピラミッドのような三角形の形に見えないこともない。現在の高さは76 であるが、建設当初は115メートルほどの高さであったことが分かっている。四角に近い漏斗を逆さまに置いた形状をしており、盛り土をして地固めの方法で作られたという。南北の長さは350mで東西には345mある。
中国歴史上、殆どの帝王は人間世界の栄耀栄華をいつまでも享受するため一生に二つのことを重要事業と考えた。 一つは不老長寿の術を求め永遠の長寿を望んだこと。 二つには陵墓を築造すること。 始皇帝も当時の礼制に基づいて即位するや直ちに陵墓の築造に取組み、死後に完成している。紀元前246年に着工して前後合わせて38年間もの月日を要した。陵墓築造に携わった人夫は最も多いときで70余万人が徴発されたという。まさにアジア的専制君主が威信をかけて築造したモニュメントである。
やがて兵馬俑博物館へ到着した。この博物館は始皇帝陵墓の東側から約1.5km離れた地点にあり、史跡を保護するために発掘された俑坑の上に建てられたものである。発見の時間的な順序に従って一号、二号、三号と三箇所に別れてそれぞれ建物が建てられており建物の中では今なお慎重な発掘復元作業が行われているのである。
この俑坑遺跡は1974年初春に井戸を掘る作業をしていた三人の農民によって発見された。発見した農民の一人である楊志発さんは70才余で今なお健在である。博物館内の売店で兵馬俑の案内書にサインをする仕事に携わっている。 三つの俑坑の内最大のものは一号俑坑で東西方向に長方形をなしており、230m×62mで総面積14260m2である。坑内には陶俑、陶馬が 6000余点、木製戦車が40余台あり、戦車と歩兵が一体となって編成された長方形の戦陣である。それは前衛、主体、脇、後衛の四部分からなっている。例えば前衛だけを少し詳しく説明すれば、俑坑の最前端には鎧をつけていない軽装歩兵俑が三列あり、横一文字に並び一列は68点で合計204点になる。 これらの俑はいずれも兜をつけず髪を束ね、下肢にゲートルを巻き手に弓を引き、勇猛で戦上手のように見える。いずれも等身大の俑である。この前衛は殆ど完全に修復が出来ているが中に首のないものが散見される。これは元の資料が破損散逸していて復元できないものである。それにしても小さな破片になって埋もれていたものも相当あったと思われるが、よくもここまで復元したものだと、関係者の気の遠くなるような根気のいる作業には敬服する。兵士俑の平均身長は1.8m、馬俑の平均高さ1.7mというから秦の軍隊は大男だったのであろうか。俑はいずれも中空の焼き物で元のものは表面に赤、黄、緑の彩色がなされていたという。目の前にある俑はいずれも彩色が剥落して素焼きのように見えるが注意してみると着衣の箇所に原色が微かに残っているのを認めることができるものもある。
二号坑は一号坑の東端、北側にあり一号坑から20m離れている。坑の平面は曲尺の形をなし、東西124m、南北98mで面積約6000m2である。この坑内には車につけた陶馬が350頭、鞍をつけた騎馬用馬が116頭、各種武士俑が900余点、陶馬が1400点ほど埋もれており発掘復元されたものは6点だけで、目下発掘復元作業が続けられているところである。 三号坑は一号坑の西端の北側25mにあり、平面から見ると凹状をしており総面積500m2で三俑坑中、最小規模である。ここからは陶俑66点、車を曳く陶馬4頭、木製戦車1台が出土した。 兵士俑の顔はそれぞれに異なっており、当時の兵士の表情を活き活きと伝えている。また始皇帝陵内で発見された二組の銅車馬も博物館内に展示されているが精巧に作られたその技術水準の高さと芸術性には驚かされる。 暫し異常な興奮に身を委ねた後、華清池へ赴いた。この地は驪山から湧き出る温泉を館に引いて湯治する保養地として古来有名な所である。唐の玄宗皇帝と楊貴妃のラブロマンスの舞台はここの温泉宮である。楊貴妃が入浴したという浴槽も残っていた。華清池に着いてまず目につくのは池のほとりに立っている真っ白い裸身の大きな楊貴妃像である。薄いベールで下半身は覆われているが乳房丸出しの妖艶な姿をみせている。後世長恨歌の楊貴妃をイメージして作られたものであろうが周囲の落ちついた佇まいにはちょっと異質でチグハグな感じを与える記念像である。 華清池の後方の驪山の中腹にあずまやがあり、ここに潜伏していた蒋介石が1936年、12月に張学良によって捕まった西安事件の舞台としても有名である。 碑林寺博物館はまさに石に文字を刻んだ本が保存されている寺である。ここでは石碑のことを碑林と呼ぶがその数2300枚に及ぶ。石面に刻まれた文字数は6562万文字に及ぶという。 「平成」という元号の出典となった石碑もあった。ここには書家として有名な顔真卿、楮遂良、王羲士等の墨跡もあり、拓本をとるため表面に白紙が張りつけられている石碑が沢山みられた。 西安市南西部にある大雁塔 の七層の頂上階まで278段の階段を上り市内を展望してから再び下りてきたが、往復15分という早いペースで昇降したので地上に降り立った時は足の筋肉が吊って暫く動けなくなってしまった。元気なつもりでも若い人と競争するには体力が衰えていることを痛感させられた出来事であった。278段という数は般若心経の文字数と同じであるという。
夕食には西安名物の餃子を賞味したが供された種類は餃子だけで21皿に及んだ。
| 2004年06月14日(月) |
【大草原で遊牧民族の生活を体験・・内蒙古�◆� |
乗馬を終わりバスに乗り換えて宿泊所まで帰ってきたが、思いもよらないほどの長距離を馬で移動していることがわかりびっくりした。折から夕日が大草原に沈むところであった。子供の頃歌った「ここは御国の何百里、離れて遠き満州の赤い夕日に照らされて」という軍歌の一節を口ずさみ、歌詞の場面を脳裏に重ねて兵士達の心情を偲びながら落日を眺めていた。
夕食にはモンゴル料理を御馳走になった。牛肉と鶏と羊の肉が主となる料理で乳を加工した料理も品数豊富に沢山出てくる。小豆と米を混ぜたお粥や小麦粉で作られた饅頭もある。ご飯は短粒米で粘りがあり日本人の口にあう。野菜もあるが油で炒めてあるものが多い。しかし味付けはどの料理も思っていたほどしつこくなく、辛味が効いていて美味しいと思った。圧巻はメインディッシュの羊のローストである。首と手足と内蔵は取ってあるが子羊の胴体が皿に盛られてドーンと置かれるのである。現地の人々はこれを我先にとナイフで切り取って骨ごとかぶりつくのであるが、我々は頼んで細片に切りわけて貰った。
夜中に起き出して空を仰ぐと宿舎の照明も消えていて星が大きく輝いていた。天の半球一杯に無数の星が輝く様子は神秘の世界そのものであった。
朝再び民族衣装に身を固めた若い男女の別離の歌と杯に送られて、昨日きた道をフフホトへ向けて出発した。帰路蒙古民族の聖なる場所「オボ」を見学した。これは草原の中の小高い丘に設けられている道祖神のようなもので、石ころを半径3m高さ2m程の円柱状に積み重ねてある。屋根には細い木の枝が十数本建てられている。そしてオボの頂上の柱からは赤、 青、白、緑、黄の五色の旗が四条の紐に結ばれて風に靡いている。赤は太陽、青は空、白は雲、緑は草原、黄は大地を象徴しているのだという。いかにも蒙古の自然を端的に表現していて面白い。蒙古の人達はこのオボにお参りして「ホンマミマミホン」という呪文を唱えながら左へ三周半、右へ三周半した後、正面に向かい五体投地の拝礼をするのだという。ラマ教の影響が認められて興味深いものがある。
王昭君の墓はフフホト市内の主たる観光地の一つで、広大な公園になっている。墓は公園内の高さ33mの丘の上に小さな宝形の屋根を柱だけで支えた建物が建っていて、この中に王昭君の衣冠姿を彫刻した石碑が飾られている。この丘の上からはフフホト市内が一望できる絶好のロケーションである。またこの墓の上り口の広場には王昭君と呼韓邪単于(こかんやぜんう)の騎馬姿の石像が飾られていて多くの観光客が記念撮影をしていた。因みに王昭君は紀元前33年頃の人で南郡の良家の娘であった。前漢の元帝の後宮に入ったが匈奴の王、呼韓邪の許へ献上され妻となった。
これには以下のような故事が伝えられている。当時勢威のあった匈奴の呼韓邪単于が元帝に妻を求めてきた。元帝は三千人ともいわれる妃嬪を寝所に仕えさせるのに肖像画の中から指名していた。後宮の女達は帝の指名を受けるために画工に賄賂を送って自分を美女に描かせることに意を用いた。容貌に自信のある王昭君は賄賂を送らなかったので醜女に描かれてしまった。帝は醜女の彼女を匈奴の王に贈ることになったのである。
| 2004年06月13日(日) |
【大草原で遊牧民族の生活を体験・・内蒙古� � |
中国の旅2 内モンゴル(フフホト、シラムレン) 2000年6月8日〜6月12日
モンゴルの入り口フフホト市は予想していたよりも遙に大きな近代都市であった。人口は30万人規模である。呼和浩特と表記するが蒙古語で青い城という意味である。中国の内蒙古自治区の首都で16世紀中頃、明の万暦帝の時、蒙古人によって建設された。17世紀には漢民族に服属した。市街は旧城(帰化)と新城(綏遠)との二つの城郭都市からなっていたが当時の面影を伝える建造物は殆ど残っていない。
朝九時にフフホトを出発してバスで一路、北方のシラムレンへ向かった。 273kmほどの道程である。
内蒙古自治区は寒暖の差が激しく、年間の日照時間が3,400 時間もある雨の少ない地方である。盛夏には16度C〜27度C位の気温であるが冬は氷点下に下がり過去にマイナス53度Cを記録したこともある。盛夏でも朝夕の気温差が12度もあることが珍しくない。そして高地なので夏でも涼しく空気は乾燥していて爽やかである。フフホトの市街地は標高2,100mの高地にあり北行するにつれて次第に高度も高くなっていく。
近代的なビルディングが立ち並ぶ市街地を通り抜けると草木の生えていない砂礫だけの荒蕪地が現れる。 道路も舗装されていないがたがた道に変わる。道路の四辺を見ると水のない川の中を走っているのが判る。大洪水で土石流に削られてできた川底をならして道路にしているのである。川幅は百mもあるであろうか。大自然の脅威を実感させられる光景である。そのうち前方に陰山山脈が目近に見えるようになるが、この山も草木の生えていない禿山である。所々植林されて緑色になったゾーンも散見される。松やポプラの木の植林に成功して緑化が進んだところである。
川底のがたがた道を通り抜けて陰山山脈の山中に入ると舗装道路に変わる。ここでは魚の鱗状に山肌のあちこちにぼこぼこ小さな穴が穿たれている。植林をするために穴をあけ化学肥料を入れて3年間ほど放置しておくと太陽熱や雨雪に晒されて肥料が土中に熟成浸透し地味が肥え樹木の苗木が根付くようになるのだという。このような人間の弛まざる営為によって根気強く緑化事業が進められている。農民達には一人につき年間十本の植樹が義務付けられている。 これは完全に根付いた植木の本数で判定されることになっており、農民にとってはかなりの負担であることが窺われる。
前漢の歴史家司馬遷の書いた「史記」の「匈奴編」にはこの地方は原生林で動物達が棲息していたと記されている。そして狩猟民族である匈奴達の本拠地でもあった。何故現在のような不毛の荒蕪地になってしまったのか、その原因は謎とされている。住民が燃料にするため樹木を伐採し尽くしたため森林の自然治癒力が破壊されて荒蕪地になってしまったという説がある。そしてこの地では井戸を掘ってもなかなか良い水が出ないという。もし史記に書かれた通りこの荒蕪地がその昔原生林であったとしたら、天の恵みを破壊してしまった人間の愚かな行為が悔やまれる。
陰山山脈を越えると高地になる。そこでは現在、主としてポプラの植林が行われているが、努力が実って大きなポプラ林が形成されている地域もそこかしこに認められる。それにしても広大な大地であるから、植林に成功した林はほんの一部にしか過ぎない。この地を緑化するには気の遠くなるほど膨大な作業量の投入が必要である。そしてその作業は営々として続けられている。所々に「日中友好植樹林」という石碑が建っているのを目撃する都度、日本人として誇らしい気分になったものである。道中道路の拡幅工事が施されていたが、ところどころでは、作業員が長柄のスコップと鶴嘴を使って人海作業を展開していた。日本では見かけられなくなって久しい光景が残っていた。
このような荒蕪地に植林されて緑が次第に豊かになってきたなと思っているといつの間にか一面に短い草の生えている草原地帯に入っていた。ここでは草に混じってあやめに似た草花や白や赤色の小さな草花がちらほらと咲き誇っている。四囲は見渡す限りの大草原である。羊の群れがのんびりと草を食んでいて空は抜けるように青く、雲一つ見かけられない。そして所々に円筒に円錐を重ねたような白い布地の建物が建っている。移動式住居のパオである。モンゴル語ではゲルという。一か所に五十戸ほどもこのパオが並んで建っている場所に我々のバスは到着した。ここがシラムレンである。
この地は1986年に政府によって開発された大草原の生活を体験するための観光施設である。バスが到着すると民族衣装を纏った若い男女が10人程歓迎の歌を歌いながらパイカル(白酒)を満たした杯を勧めてくれる。お客はこの杯を乾さなければならない。酒の飲めない人は形だけでも杯に口をつけて飲んだ振りをしなければならない。それがモンゴルの作法なのである。私は口一杯に含んで飲んでみたが、喉に焼けつくように強い酒である。度数は四五度もある。今夜の宿舎はパオである。
一つのパオには6人が泊まれるようになっていて、布でできたバオの中の円錐型の天井には中央に明かり取り兼煙突用の穴が開いている。円形の床は半月形二つに区切られていて、一方の半月形は土間より30cmほどの高さに板間が設えられていて毛布が敷かれている。ここへ布団を敷いて六人が雑魚寝をするのである。他方の半月形部分には机と椅子が置かれていてお茶が飲めるようになっている。この寝所に隣接して水洗式の便器と洗面器の設置されたパオが設置されていて扉で繋がっている。ここには天井にシャワーのノズルがついていてシャワーも浴びられるようになっている。これは観光客用の特別仕様であって、一般家庭の遊牧用のパオにはシャワー設備も洗面器や便器も設備されていない。毎日入浴する習慣はないし、大草原に穴を掘って青空を見ながら大小の用を足すのである。一般民家を訪問してお茶を御馳走になった時のパオは入り口に、畳一枚分程の土間があるだけで残りの部分は床あげした板張りで一面に毛布が敷かれていた。
指定されたパオに手荷物を置いてから、草競馬と蒙古相撲を見学しに行った。内蒙古最大のお祭りであるナーダムは7月25日から5日間盛大に行われ大変な賑わいをみせるそうだが、我々が見学した相撲と競馬は観光客用に特別に催される「さわり」の部分だけであった。それにしても民族衣装を纏って、十数頭の馬に騎乗した若者達が大草原を疾風の如く、自在に馬を操って疾駆する姿は勇壮であり、ジンギスハンが世界を征服した時の雄姿を彷彿とさせるものがあった。
この後体験騎乗に参加し大草原を馬で散歩した。私の乗った馬は最初こそ、御者が轡取りをしてくれていたが暫くすると引き綱を鞍にくくりつけて単独でやってみろと手真似で合図してから離れ去ってしまった。なんとか落馬しないで2時間を消化することができたが、突然走り出したり草を食みだしたりしてなかなか乗り手の意のままに動いてくれない。走らせようとして足の踵で馬の腹を蹴るのだが素知らぬ顔で悠々と歩いている。馬の意思に任すしかないと諦めていると突然走り出したりする。走りだすと内股がこすれて痛くなる。それでも慣れてきて振動に合わせて体を揺らせているといつのまにか与えられた2時間が経っていた。
| 2004年06月12日(土) |
【赤い夕日に照らされて列車で満州平野を縦断・・旧満州�◆� |
再び瀋陽駅から大連まで午前中かけて列車で移動した。今回の列車は車両も新しく快適な旅であった。車窓から眺められる光景は山がみえず一面玉蜀黍畠である。コーリャンもある筈なのだが見当たらない。幼少の頃食料不足で朝から晩まで食べさせられたコーリャン畠が見られないのは何となく寂しい気持ちである。コーリャンよりも玉蜀黍のほうが市場価値が高いのであろうか。こんなところにも開放政策を取り入れて資本主義化した中国共産主義の変容を見た思いである。
ハルピン市内のソフィア寺院

瀋陽という地名は現在の中国語では「沈+こざと偏に日」と記し、「太陽が沈む」地という意味になるのが面白い。そして車窓越しに広野を眺めるとき「ここは御国を何百里、離れて遠き満州の赤い夕日に照らされて、友は野末の石の下・・・」という軍歌の一節を思いだしていた。更に、当時の軍部や若人達の満州平野へかけた夢と野望に思いを致すと感慨一入なるものがあった。
昼食後は自由行動となったので、中国語の話せる山越氏と一緒に繁華街へ探訪に出かけた。物資は豊富で活気があり、これが社会主義の国かと首を傾げたくなるような品揃えと賑わいであったし、日本の繁華街と見紛いそうな雰囲気であった。
家庭教師を希望する学生達が生徒を募集するために首から看板をぶら下げて繁華街に行列して多数立っている風景は珍しかった。カメラを向けると途端に看板を隠してしまいうまく収めることができなかった。しかも、その中の一人の若い女性がつかつかと歩みよってきて何か言っているがよく判らない。
「アイキャンノット スピークチャイニーズ アイキャンノット アンダスタンド ホワット ユウスピーク」と言い返すと何事もなくそのまま立ち去って行った。同行の山越氏の解説によれば、無断で写真をとったことに対して抗議をしにきたのだという。中国ではよくあることで、カメラを向ける時にはよほど注意が必要だと教えられた。一人子政策をとる中国では子供の教育費には惜しみなく金を投じる現在の中国社会の世相を窺わせる光景であった。
高台から見た市内
夕食にはテレビ塔のある高台で海鮮料理を賞味した。この高台へ来る途中で山腹に瀟洒で高級感溢れる分譲マンション群を目撃したが、ガイドの説明によれば交通手段が乗用車しかないので、全然買い手がつかず全戸空室であるという。これに反して交通便利な立地条件の場所に建設された同等クラスのマンションは売り出しの即日完売になったという。マーケットリサーチをせずにただ持ち家ブームに乗って一儲けしようと企んだ不動産屋の失敗作だと解説していた。いかにも現代の建設ブームに沸く中国によくありそうな話であった。また一等地に韓国の「現代建設」が着工したが外側だけ出来ただけで会社の経営がおかしくなり、内装は行われないで未完のままになっているという高層ビルの傲然と佇立する雄姿も哀れを催す風物であった。夜景をみてからホテルへ帰った。
| 2004年06月11日(金) |
【赤い夕日に照らされて列車で満州平野を縦断・・旧満州� � |
▼中国の旅1 大連、旅順、ハルピン、長春、瀋陽 2001年5月31日〜6月11日
大連空港への着地は18時40分(現地時間)であった。時差1時間だから実飛行時間は2時間半程である。機上から一見しても大連空港の近くには瀟洒な建物が立ち並び美しい町だとの予兆がある。街中へ入るとなるほど北方明珠ともいわれるだけあって大連は美しい都市である。坂が多いので自転車が少ない町でもある。街路樹はポプラとプラタナスが多く、マロニエの木にアカシアもある。街路灯がすずらんの花型に作られていたのも珍しかったし、建物の隈取りの真っ赤な照明が印象的であった。また信号が非常に少なく電線が空中を走っていないことも小さな驚きである。それだけでも美しい町作りが出来ている。
ホテルを出てバスで旅順に向かった。道すがら観察した大連市中は予想していた以上に大きな町であり、かつ綺麗な建物が並んでいるうえ新しくクレーンも立ち並んでいて発展している町だとの印象が強い。市内人口は890万人だといい,郊外人口が270万人だから1160万人の大都会である。
日本の統治は1905年〜1945年でその前はロシアの南下政策の影響もあってロシアの影響を強く受けている。現在の発展状況は開放政策以後のことで、ここ4〜5年の間に発展し大きくなったという。
日露戦争の激戦地東鶏冠山と203高地を見学した。 旅順要塞の攻撃では第三軍の司令官乃木希典が二人の息子を失い、多くの兵を消耗(六万人)しながら3回にわたる総攻撃でも奪取できず、司令官が児玉源太郎に替わり東京湾観音崎砲台に取り付けられていた臼砲を急遽運びこむことによって砲撃を加え、やっとの思いで奪取した203高地は当時ロシアから運んだと言われるセメントで固めた頑丈なトーチカが作られていてその残骸がまだ残っていた。日本軍が破壊して突破口を開いたとされる爆破の後も残っていて今は観光の名所になっている。爆破の時コンドラチェフというロシアの有能な司令官が爆死したと言われる場所も残っていた。周囲には樹木や草が生い茂り、静かなところでトーチカの残骸がなければなんの変哲もない場所である。
 急峻な坂を籠にゆられて行く観光客を横目で見送りながら、ようやくの思いで登りつめた地点には砲弾型の慰霊碑が建っており、遙か下方に旅順港が見下ろせる。この地へ臼砲を運び込み旅順港を砲撃したのである。旅順港は軍港なのでまだ外国人には開放されていないので山の上から遙か下方に眺めるしかない。
大連から旅順に赴く通りの海岸には昆布の養殖が行われていて取り入れの舟が沢山浮いていた。大連市の特産物であるという。
再び大連市内へ戻り、中山広場沿いに建っている旧横浜正金銀行、大和ホテル等を見学した。中山広場に集まる群衆の数の夥しさにも一驚であった。 夜は夜行寝台車でハルピンに向かった。
朝七時過ぎにハルピン駅に到着して駅近くのホテルまで朝食を摂りに赴いたが雑踏で身動きも容易に出来かねる賑わいである。大都会の駅頭ではいつも見かける光景である。山間部から出てきた人が相当いる筈である。何しろ12億9千万人の人口を抱える中国である。その一割に相当する人間が盲流と称する移動労働者である。所謂出稼ぎ労働者なのである。
ハルピンとは満州語で網を干しているところという意味なのだという。松 花江で満州族が漁をしていたのがハルピンの起源である。松花江を渡った地にある太陽島公園で新潟庭園を見た。ハルピン市と新潟市は姉妹都市なのである。
朝鮮族ガイド金竜珠さんの話によれば、青森県や新潟県から一週間の予定でやってきた花嫁募集ツァーの案内をしたこともあるという。日本の農村の後継者不足、嫁不足はそこまで深刻であるのかという驚きとともに日本海側の日本の地方都市とこのハルピン市の絆がそこまで強くなっていることも新鮮な発見であった。
次いで虎北園というシベリア虎30数頭を飼育しているサファリパークへ行った。種族保護のため国で飼育していたが餌代に困ってサファリパークにしたところ、観光客が買って与える餌だけで間に合うようになり、累積赤字が解消したというから面白い話である。
翌朝再び列車で午前中かけて長春へ出掛けた。昔新京と言われた都市で旧関東軍や満州鉄道が大陸経営の拠点とした所である。皇帝溥義が日本軍部の傀儡政権として王宮を営んだ場所でもある。中国共産党はこの政権を認めていないので王宮は偽王宮と呼ばれている。故宮などと比べると遙かに貧弱な建物で、皇帝溥義の苦悩がよく判る気持ちであった。偽満州国務院などの建物も残されていて昔、ここへ住んでいた日本人にとっては懐かしい建物であろう。昼食時に土砂降りであったが、うまい具合に雨も上がってほっとした。
再び列車で瀋陽(旧奉天)へ向かった。 この町の駅は新築されたばかりでとても立派であったし,町中が建設ラッシュであった。中国で北京、上海、天津に次いで四番目の都市だというから人口も1200万人(郊外地含む)あるという大都会である。これから発展する都市だという印象が強い。オリンピックの北京開催が決まった日でもあり、いずれ開発が目まぐるしい勢いで進むことであろう。
午後から北陵と故宮の見学をした。ここ瀋陽は清朝ゆかりの地で、開祖ヌルハチ(太祖)が遼陽からこの地へ1625年に遷都して以来、再び北京へ遷都するまで約20年間国府とした所である。もっともヌルハチは瀋陽へ。遷都した翌年没している。ヌルハチの墓地もこの瀋陽の地にあるのだが、時間の都合で見学はできなかった。北陵には二代皇帝大宗ホンタイジの妃が葬られているのである。
創始者達はいずこの国も質実剛健である。この瀋陽の故宮もその雰囲気はふんぷんと匂っており、清朝の軍事行政組織の根幹である八旗の統括者の事務所が八つ八の字型に並んでいるのが珍しい構えであるが、北京の故宮に較べれば十分の一の規模で建物も小さく、即戦体制がとれるような配置になっている。
この八旗軍団が肥大化し脆弱華美に流れ形骸化した時、清朝没落の遠因を作ることになったのである。
| 2004年06月10日(木) |
【やはりなんとなく懐かしい国・・韓国�◆� |
翌朝ソウルに向かうべく慶州駅へ向かった。急行列車セマウル号は外観が薄汚れていて清掃を殆どしていないのではないかと思われる程のひどさであったが、列車内の客室は広軌のせいかゆったりしていて清掃もきちんとなされていた。4時間半程の旅程は田園風景を眺めやったり、持ち込んだ碁盤で同行者と囲碁を打ったり、配給された弁当をたべたりして退屈することはなかった。
ソウルでは開園を待って昌徳宮の観光をした。ここには専任の日本語ガイドが配置されていて、日本人観光客を纏めて説明する都合上、入園時間が指定されているのである。開園と同時に夥しい数の日本人観光客がどっとガイド嬢を取り囲む。その数ざっと四〜五百人であろうか。ガイド嬢はハンドマイクを片手に堪能な日本語で説明してくれるが、なんとなく発音が不自然である。
昌徳宮は1405年に李朝三代王太宗のとき、正宮である景福宮の離宮とし て造営された宮殿である。1412年に正門である敦化門が建てられ、宮殿としての面目を整えてきた。1459年世祖が規模を拡大し15万坪にまでなった。1592年の豊臣秀吉の侵攻によって宮殿の大部分が消失した。その後、宜祖が再建を始め1610年光海君の時完成した。その後数回の火災があったが、1917年の火災で大造殿のほか内殿が消失したので、当時の朝鮮総督府が景福宮の交泰殿と康寧殿を解体移設して建てたのが現在の大造殿と熙政堂である。
昌徳宮は光海君以降13代にわたり約270年間政務が執られた宮殿で、正 宮の景福宮よりも長い期間、王の御座所であった。現在の面積は135、212坪、宮殿の建物が、13棟、後庭に28棟の楼閣が残っている。秘苑の名でよく知られている後苑は、自然との調和美を生かした韓国伝統の造景の特徴がよく保存されている代表的な宮殿の庭園である。この昌徳宮は1997年ユネスコの世界遺産として登録された。 構内の仁政殿は韓国の国宝に指定されており、敦化門、宣政殿、熙政堂、大造殿と何れも宝物に指定されている。なかでも、王と王妃の寝殿であり、且つ王とその家族が生活した中宮でもあった大造殿は棟瓦を置いていない建築様式が珍しい。韓国では棟瓦のことを竜棟と呼び国王は竜に喩えられたので国王の寝殿であるこの大造殿の瓦は省かれたのである。
昌徳宮の中にある楽善斉は1847年に後宮として建てられたものであるが西側から楽善斉、錫福軒、寿康斉が配置され、正面に回廊が渡され一郭をなしており、総称して楽善斉と呼ばれている。この建物は両班の建物を模して質素を旨として建てられたと言われており、廻りの景色とよく調和して素朴でこじんまりとした趣を感じさせる。なお日本皇族の梨本宮家から降嫁した李方子女史が1989年まで生活したところでもある。
秘苑は1405年昌徳宮が創建された当時造営されたところで、豊臣秀吉の侵攻の際、大半の庭亭が消失した。今残っている楼亭は仁祖以後歴代の王によって改修増築されたものである。ここは大きく分けて芙蓉池を中心とする空間と、愛蓮亭と演慶堂を中心とする空間、そして半島池と玉流川の流域からなっている。この秘苑は韓国の伝統的な造園で地形に合わせて楼閣を建てたり、花と木を植えたり、また池を掘ったりして、その美しい調和の美をかもし出している。庭木も鬱蒼として古木が多く中には樹齢六百年と言われる巨木もあった。栗鼠などの小動物も生息しており、その可愛らしい姿が観光客の感嘆の声を誘っていた。
昌徳宮を後にして国立中央博物館へ赴いた。博物館は正宮であった景福宮の構内の一郭にある。往時通りすがりにあった元の朝鮮総督府の建物は解体されて跡形もなくなっており、跡地には勤政殿を再建中の工事現場があった。殿舎は大体出来上がっており、テントの中では最後の仕上げ工事が行われているようであった。その光景を複雑な思いで眺めやった。
翻って日韓関係の不幸な歴史を顧みると日本政府は1910年に韓国を併合し、この地に朝鮮総督府の建物を建設し軍主導の植民地支配の武断政治を行ったのである。韓国の人々にしてみれば、崇敬する王宮の構内中枢位置に異民族による支配機構の建物を建てられたわけだからその屈辱感と敗北感には我々の量り知れないものがあったことであろうと粛然とした気持ちになった。
| 2004年06月09日(水) |
【やはりどことなく懐かしい国・・韓国� � |
▼韓国の旅 釜山、慶州、ソウル 2000年8月25日〜8月28日
釜山の金海空港で乗った出迎えのバスは釜山港へ向けて出発し、間もなく洛東江を渡った。この河は1950年に勃発した朝鮮戦争の時、北朝鮮軍がソウルを落とした勢いで釜山へ迫り、韓国軍最後の防衛線となったところだなと往時の悲惨な戦禍のことを想像しながら渡った。ガイドの金嬢も朝鮮戦争の被害のことを折りに触れて説明していたが、表面見る限りもう戦争の痕跡は認められないし、山手に立ち並ぶ近代的な高層住宅群を見るとこの国が発展している様子が即物的に理解できるような気がする。
釜山港へ着いてから国際市場とチャガルチ市場を見学した。人口四百万人の韓国第二の都市で且つ韓国第一の貿易港釜山の国際市場は「国際市場」という名のビルを中心に大小のビルが犇いて立ち並び、ありとあらゆる商品が取引されている巨大な市場である。戦後の闇市から発展した市場だというが、東京で言えばアメ横の雰囲気であり、表面見た目にはどこの国にも見られる雑然とした中にも熱気のある市場の風景である。チャガルチ市場は港直近の市場なので海産物や魚介類が殆どで、水槽に泳がせている魚も沢山いた。
海鮮鍋の夕食を地酒のジンロウと共にしこたま賞味した後、京釜高速道路に乗って走行すること約一時間で慶州チョースンホテルへ到着した。
慶州は紀元前57年から935年まで新羅王朝の都としておよそ一千年の間栄えてきた町である。慶尚道の人口は308万人でありその中約一割の29万人がこの穏やかな地方都市に住んでいる。黒灰色の瓦で葺かれた反りのある入母屋作りの民家は門壁に囲われて実り豊かな農村地帯の裕福な農家の雰囲気を留めているし、王侯の丸い墳墓を初めとする史跡が沢山残っている風光明媚な町である。この地を訪れる観光客は外国人、現地人共に多いが外人観光客の中では圧倒的に日本人が多くその九割に及ぶという。
四囲を見回すとなるほどそれぞれにカメラをぶら下げた老若男女の日本人観光客ばかりである。観光客誘致のための美化運動も積極的に進められているようで、自動車道路に沿って街路樹が沢山植えられており、とりわけ見渡す限りの桜並木は素晴らしい。花の咲く頃再訪してみたいという思いに駆られる。折から国花の木槿の花がそちこちに咲いていたが、これまた可憐な風情があり一際旅情をそそる。このあたりの風景には日本では既に失われてしまった農村の原風景が残っているようで懐かしい。この地域から古代日本へ渡来した帰化人の血が我々の先祖を通じて流れているからなのだろうか。やはり何処となく懐かしい国である。
翌朝、標高750mの吐含山山腹にある石窟庵へ向かった。生憎また雨が降っていた。石窟庵は751年に新羅35代の景徳王時代の宰相・金大城が両親のために創建した釈迦如来像を安置するための石窟である。安置されている釈迦如来像は花崗岩を丸彫りした高さ三.二六mの石像で、仏教美術上の最高傑作といわれている。しかも一年を通じて元旦にだけ如来像の顔に石窟内を通り抜けた太陽光があたるように設計されているうえ、仏像の設置位置は円形窟の中心点よりやや後方にずらされていて正面から対峙する参詣者に荘厳さを際立たせる工夫がなされていて、
当時の技術水準の高さが窺われる。仏像を取り囲む四方の石壁には十一面観音、金剛力士、四天王等のレリーフがあり釈迦如来の光背も遠近感を考慮して彫られている。如来像は全体が石窟で覆われていて石窟の上には土が盛られていて草むしており外見では小高い山のようになっている。また吐含山は湿気の多い岩山で地表や岩間を流れる水量が多く、流れる水に耐えて保存されてきたことでも特異な存在の石窟、石像であるという折からガラス張りの石窟の中では僧侶が読経しており、その後方左手には熱心な女性の信徒が細長い座布団を敷いて五体投地の拝礼を繰り返していた。世界遺産に登録されている。
次に仏国寺へ赴いた。仏国寺も吐含山にある寺院で、韓国屈指の名刹として 知られている。528年新羅の法興王が夫人の法流尼のために創建した。「華厳教」に説かれる仏国土をこの世で代表する寺と考えられ、真興王、景徳王の時代に堂舎が整備された。のち、1592年豊臣秀吉の朝鮮侵攻の際、兵火にあい堂塔の多くを消失したが、李王朝によって修補、再建が重ねられた。現存する石造物は756年、木造建築物は1659年に構築されたもので、伽藍は大雄殿を中心とする東区、為祝殿を中心におく西区からなり、これに配された多宝塔、釈迦塔、橋、廊や仏像等東洋美術上の逸品が多い。特に柴霞門、安養門にはそれぞれアーチ型の二つの石橋が架けられており、均整のとれた姿や石造技術の優秀さには見る者をして感嘆せしむるものがある。またそこかしこに見られる石組みにも見るべきものが多い。更に極楽殿の阿弥陀仏、毘盧殿の毘盧舍那仏の美しさには見とれて忘我の境を彷徨いそうである。
古墳公園は七基の巨大な新羅王陵を中心に23基の古墳群を整備した公園であるが、奈良の若草山に似た墳墓に生えている草はよく手入れされており幾つも並んだ古墳群の単純な形は外見上とても美しい。墳墓の内部を公開しているのは天馬塚であるが、この塚からは盗掘にあっていない12000点余の副葬品が発掘され、博物館に展示されている。
天馬塚内部には木枠で囲われた埋葬箇所が展示されているが、説明によれば入り口も出口もない閉ざされた木箱の中に王の柩と共に多数の家来が生き埋めされて殉死したという。木箱の上には石塊が積み重ねられるのだから、木箱の中に生きたまま閉じ込められ次第に空気がなくなってきて断末魔の呻きをあげながら殉死していった人々の魂がいまでも彷徨っているような気がして身の毛がよだつ思いであった。
| 2004年06月08日(火) |
【神権独裁国家の街の色は黒と白・・サウジアラビア�ァ� |
朝早く起き出してホテルを出発しメディナの空港へ赴いた。聖地に異邦人が足を踏み入れることは許されていない。メディナからジェッダへ飛んでいよいよ帰国である。
ジェッダでフライトまでの間を利用して市内観光をした。紅海の海上公園レストランで海鮮料理を食べ、魚市場、旧市街、ナシーフ家の旧邸宅を見学してから海岸通りで巨大な噴水と入り日を眺めて空港へ向かった。
今回の旅行で最も印象に残ったことは、神権独裁政治の恐ろしさである。 ところで国民生活の裕福度を推測するために資料を探してみた。
サウジアラビアとヨルダンの国民所得を中近東諸国と比較してみると次ぎのようになる。 日本 一人当たり GNP 3万8160$(1997年) サウジアラビア 一人当たり GNP 7150$(1997年) ヨルダン 一人当たり GNP 1520$(1997年) イスラエル 一人当たり GNP 1万5870$(1997年) パレスチナ 一人当たり GNP 1600$(1997年) レバノン 一人当たり GNP 2970$(1997年) シリア 一人当たり GNP 1120$(1997年)
数字で見る限りイスラム国家としては中近東ではずば抜けて裕福な国であるが、まだまだ日本とは比較にならない程の差がある。サウジアラビアと聞けば世界でも裕福な国との印象があるが意外にそうではないことを数字が物語っている。
メッカとメディナというイスラム教の聖地の管理国家として神権独裁政治形態を維持していけるのも石油資源が枯渇するまでの短い期間に過ぎないであろうという印象である。石油資源に陰りが見え始めた時が女性の人権 が解放される時であるのかもしれない。或いは情報化社会の成熟時にある日突然、女性人権確立運動が契機になって神権独裁政権が崩壊するかもしれない。その日のあることを意識して秘密警察が幅を効かせているというのが私の感想である。
メディナ上空
ジェッダでサウジアラビア航空に乗り込み、帰国の途についた。現地時間は20時30分であるが時差6時間を加算すると既に真夜中である。リャドまでの間に軽食が出された。空腹だったのでとても美味しかった。1時間程でリャドに到着し、ここで給油やら機内清掃で1時間機内待機した。再び離陸して夜食が配給されたが先に軽食を食べたのでおかずを食べる程度で殆ど残ってしまった。
隣に座った人は宇治市からきた石原さんという人で動物学が専門の京都教育大学の名誉教授であった。最後に名詞を渡されてそのことを知った。最初は中小企業の社長かなと思っていたが人は見かけによらないものである。
| 2004年06月07日(月) |
【神権独裁国家の街の色は黒と白・・サウジアラビア�ぁ� |
この夜、星を観察にでかけた人達もいたが、私は棄権して疲れを癒すことに努めた 翌日聞いてみるとこの夜は車の明かりが強くて漆黒の夜空に輝く星を観察することはできなかったということである。一見辺鄙な砂漠の中の田舎であっても本来の自然は失われつつある地球環境の実態を痛感することとなった。
ナバティア人の北の都はペトラであり、南の都はマダイン・サーレハであるといわれている。本日は今回の旅行の終局のハイライト、マダイン・サーレハの観光である 砂漠と奇岩の広がる地域を暫く走行してマダインサーレハの遺跡群地区へ到達した 遠くには駱駝伝説の残る駱駝山が遠望できて、岩肌が切り立っている様子が見える 伝説とはサーレハという予言者がこの地へ大きな駱駝を連れてきて水は駱駝に飲ませるから人間は飲んではいけないと申し渡したにもかかわらず、愚かな人間が彼のいうことをきかず水を飲み尽くしてしまったために駱駝が死んでしまったという。そこで怒った神が暴風雨を引き起し水を飲んだ人間を殺してしまった。爾来この地には悪い水しかでなくなったという話である。
ここではカサール・アル・ファリドの墓、アル・ビントの墓、44番目の墓とタイプの異なる三種類の墓を選んで、内部にまで踏み込んで重点的に見学した。いずれも完成半ばで中断した墓であるが、作成段階の相違によって墓の形が異なっているのが比較できて面白かった。
似たような墓が大小取り混ぜて無数にあったのでなにがなんだか判らなくなってしまったが、何れも岩の中に彫り込んだ窟になっており、その中には柩を収める長方形の穴が幾つも或いは縦型に或いは横型に穿たれていた。そして正面には入り口が設けられ、概ね二本の柱が刻みこまれており、屋根の上には天国へ赴くための階段が彫られていた。そして壺や夾竹桃の花模様が柱の上部に刻まれているのである。
 ペトラ遺跡にも墓は沢山あったが、ここはそれ以上に墓が多く、まさに遺跡は墓ばかり、岩のあるところ墓ありという趣であった。当時の井戸も残されていた。
 この時代の宗教はペトラ同様多神教であったと考えられている。
マダイン・サーレハの遺跡を跡にしてヒジアス鉄道の駅舎の跡や、トルコの官僚が居住していたという日干し煉瓦造りの砦、ヒジアス鉄道を走っていたというドイツ製の蒸気機関車等も見学した。これらの文化遺産はサウジアラビアの観光局が観光資源保存の重要性に漸く目覚め保存のための動きを開始したばかりという程度の保存状態であった。  昼食後暫しの休憩の後、アル・ウラーの旧市街を見学した。トルコの侵略により廃墟となった旧市街地の土造りの建物は荒れ果てて見る影もないが、建物の配置の状況から交通の要衝を占めて隊商達の往来で活気に満ちていた盛時を偲ぶことができる。 新市街に足を伸ばし暫し町中を徘徊したが、この街に留学している女子大学の学生達が買い物のために頭から黒いアバヤを纏い、顔まで黒い布で隠して歩いているのを多数目撃した。彼女達も異邦人達が群れて徘徊している様子が物珍しいようで視線を投げかけているようであったが、悲しいかな表情を読み取ることができなかった。
 衣服店を覗いてみると彩り鮮やかな洋服や下着類が品数豊富に陳列されていたが、このような衣服を彼女達は何時どこで着用するのだろうかと疑問だけが残った。家族の前だけで着るのであろうか。それとも夫の前だけで着るのであろうか。謎は深まるばかりである。
気がつくとここでもパトカーがいつのまにかバスの側に駐車していた。
この夜は入り日をエレファントロックを背景に撮影することになり、時間をみはからってバスで赴いたが、砂地の上を車で走行する危険性の見積もりをあやまり、日没時間に遅れそうになってしまった。慌てた運転手がうっかり、処女地の砂地へ乗り入れたものだから車輪が埋もれてしまい動かなくなってしまった。乗客一同車を乗り捨て砂地に足をとられながら落日を追って走り回るというハプニングがあった。待望のエレファントロックを背景に日没の景色を撮影することは時期的に無理だったようで希望を果たすことはできなかったが、なんとか奇岩を背景とした入り日の撮影をすることはできた。バスはトラックを呼んで引っ張って貰うことにした。我々は道路まで出てヒッチハイクの要領宜しく通行中の自動車にピックアップして貰ってホテルまで帰ることにした。
道路にでて手を上げると2台程車が止まり、その中の一台がピストン運転でホテルまで送ってくれるという。聞けばエジプトから出稼ぎにきているエンジニアで奥さんと一緒に外出した帰りに我々の姿を認めて一役買って出てくれたというのである。彼は困っている人がいる時には助けるのがモスリムとしては当然の行為であるとなんの気負いもてらいもなくさらりと言った。
ホテルに帰って夕食後、民族舞踊を見せるというのでテントに行くと10人程の男達が普段の白装束の衣装にスカーフを頭に被った姿で屯ししきりに楽器の音合わせをしている。
何時始まるのかと待っていると刀を振りかざした緩慢な動きの踊りらしきものが何時とはなしにだらだらと始まった。音楽は打楽器である。前口上もなければ演じている音楽や舞踊についての説明もない。メリハリがなくしまりのない 民族舞踊であったしかも、男達だけであるから演技に華がない。観光客に民族舞踊をみせるというならもっときめ細やかな心遣いとメリハリが欲しいところである。ショーとしては落第である。中座して寝ることにした。
| 2004年06月06日(日) |
【神権独裁国家の街の色は黒と白・・サウジアラビア��】 |
サウジアラビアのリヤドからヨルダンのアンマンに飛び、アンマンとペトラ遺跡を観光し本日の宿営地タブークへ向かった。アンマンとペトラ遺跡については既にヨルダン編で述べた通りである。
ペトラ遺跡の観光を終えて再びサウジアラビアへ入国すべくヨルダン領の砂漠地帯をバスは疾駆している。
この日の昼食は砂漠の中のテントの中で品数盛り沢山のベトウィン料理を堪能したが、炊き込みご飯は日本の米と同質の短粒米が使われておりほどよい味付けはとても美味しかった。今回の旅行中の食事の中では一番美味しいと思った。そしてこのような米を常時食べているのならベトウィン料理の愛好者になってもいいとさえ思った。
このベトウィンテントのある地帯には観光客が体験宿泊できるテントが幾張りも設営されていたので、この料理も観光客用に新たに開発されたメニューではないのかなとふと思ったりもした。
食後、たまたまこの地に居合わせた地元のテレビ局の撮影チームに依頼されて観光客としての取材を受けることになった。この地を観光地として紹介するための映画を制作しているところだということで、正装したアタラザワイド族の酋長(地元の有力な族長)も同行していた。
簡単な取材後、本日の宿泊地タブークへ向けて長時間のバスドライブが始まった。 国境に到着してヨルダン側の出国は短時間で終了したが、サウジアラビアの入国には長い時間がかかってしまった。1時間半位待たされたであろうか。
この間、我々を出迎えるためにリャドから飛行機で駆けつけ待機していたガイドのサレー氏ともども入出国管理事務所長の部屋へ案内され、所長同席のもとに茶菓の接待を受けた。
口上は遠国の日本から来られた皆さんに書類審査をする間くつろいで戴きたいということであったが、真相はバスの中に置いてある携行荷物の中身を検査するために我々を格好つけて所長室へ誘導し茶菓を振る舞ったということである。このことはバスに戻ってから荷物の中身が全員等しく荒らされていたことで判明した。多分、アルコール類、麻薬、裸体の女性の写真等を持ち込んでいないかどうかをチェックしたためと思われる。ことほど左様にこの国ではアルコール類、女性の裸体画の流入を恐れ、神経質なまでに警戒しているのである。
神権絶対主義政権の権力基盤維持のために張りめぐらされた秘密警察組織の恐ろしいところである。
やっと解放されて再び砂漠の中のドライブが続いたが、道中ベトウィン族の野営のテントをそちこちに見ることができたし、砂漠の緑化事業を推進している個所も数カ所目撃することができた。明らかにオアシスだと一見して判る夏目椰子の畑などもみることができた。緑化した畑で注目すべきものはその大がかりな散水設備である。パイプで作られた巨大な梯子状の散水設備が畑に置いてあり下には移動用の車輪がついているのである。
タブークの街に近づくにつれ、次第に緑が多くなり、広大な畑には小麦や野菜類が生い茂っていた。タブークは古来農業生産物が多く肥沃な土地としてまた軍事基地のある所として有名である。
サレー氏の父親の広大な農園もこの地に営まれていた。 タブーク近郊は目下建設ラッシュであった。 タブークには泊まっただけで翌日はアルウラーへ向けて長駆480kmの移動日である。
途中テーマ村でナバティア人が紀元前1世紀頃掘ったと言われる大きな井戸を見学した。巨大な井戸は現在も地域の住民の使用に耐えており、ナバティア人の土木技術の優秀性を証明する遺跡である。
ここでもいつのまにか現れた警察の車がバスの横に駐車して我々の動向を観察していた。
単調な砂漠の道路を長時間駆け抜けて居眠りから目覚めてみると、漸くアルウラーの近郊までやってきたようである。がらりと周囲の様子が変わっているのである。窓外には砂岩でできた丘や山が至る所に出没して奇怪な光景を作り出している。見ようによっては広大な岩塊砂漠の中に岩山が 散らばっているようにさえ見える。オーストラリア西海岸の景勝地ピナクルの奇岩群と似通った趣である。
そして岩塊や岩山が次第に大きくなってあたかもカルデラの中を走っているような風景が展開しはじめて、岩の形も奇岩が多くなってきたところがアルウラーである。 アルウラーのホテルで小休止の後、夏目椰子畑の横を通り抜けてアル・クレイバの遺跡、エレファント・ロックを見学した。この地方には紀元前7世紀頃から人が住み着き始めたと考えられており、古代ナバティア人の遺跡が数多く残されているのである。
アル・クレイバー遺跡には保護柵が設置されていて近くで観察できなかったが、望遠鏡で岩に彫り込まれた彫刻を眺めてみるとライオンの像が彫られているのを微かに認めることができた。
エレファントロックは永年の風雨に晒されて巨大な岩塊の一部が風化崩落して岩塊に穴があき象の鼻のように見える岩である。時期によってはこの岩の穴の部分にサンセットを眺めることもできるという。もしそれが本当であればさぞかし絶景であろうと思った。
日暮れも近いのでこの周辺で奇岩群の上に沈むサンセットを写真に収めようと相談していたら、もっとよい場所があるとのガイドの説明でアル・ハッラーの丘(燃える岩)の頂上まで日没を見に行くことになった。
石ころがごろごろしている勾配のきつい坂道を四輪駆動のトラックでヘヤーピンカーブをいくつも曲がって高度1300mの頂上へ到達した。驚いたことに頂上はフラットで広大な平地になっている。サッカー場が何十面もとれそうな広さである。下方を俯瞰するとアルウラーの旧市街 、新市街、夏目椰子畑、宿泊予定のホテルまで見えている。砂岩で出来た奇形の岩山の頂上がこのような平地であることは大きな驚きであった。
やがて日没となりこのサレー氏は他の現地人運転手達10人程のモスリムとともに日没前の礼拝を始めた。彼等の礼拝の様子をカメラに収めていると丁度日没の時間を迎えた。残念ながら広大な平地なので日没の模様は単純で写真としては面白くないものになってしまった。どこかの砂漠で写したのと変わらない画像となってしまうのである。奇岩の上に沈む太陽を撮影したいのが我々の希望であった。 ![]() 全て自慢の景勝を披露したいというガイド氏の善意と芸術的な写真を撮影したいという観光客の我が儘な気持ちがすれ違った意思疎通の齟齬であった。
| 2004年06月05日(土) |
【神権独裁国家の街の色は黒と白・・サウジアラビア�◆� |
リヤド市内に戻り7万5千人収容できるキングマハメッドスタジアムを見学した。このスタジアムはサッカー場として1988年に完成したものであるが、そのテント張りの屋根に特徴があり、珍しいデザインの競技場である。
競技場の観覧席に設置されたテレビモニターに訪れた観光客を映し出すというサービスを行っており、国を上げて観光客を誘致しようという姿勢だけは窺えた。競技場内には選手のための更衣入浴施設、医療施設や運動施設が設けられており、普段は垣間見ることのできないサッカー競技場の内幕を見学できた。
 少なくともブラジルで過去に見学したサッカー場よりは附属設備に関する限り充実しているとの印象を受けた。
駱駝市を見学した。駱駝の効用を1)砂漠の旅の荷役用 2)農耕用 3)食用 4)レース用と考えると道路網が完備し自動車や農業用機械が普及した現在では1)と2)に関しては殆どその役割を終えたと思われるのだが、それにもかかわらず駱駝市が盛況であることはちょっとした驚きであった。 食用としては肉もミルクもスーパーなどでは市販されていないということである。どうも現在では駱駝はレース用として有産階級の投機の対象物或いは富を誇示する物差しとなっているようである。そして強壮飲料としてそのミルクが有産階級に愛用されているらしい。砂漠の民でない我々には理解し難い駱駝市の盛況振りであった。
国立博物館では2.75tの隕石が印象に残っている。そして附属の土産物屋で梟の置物があったので値段札を確認しようとしたところ台座に固定されておらず梟が転がり落ちて壊れてしまった。値段を安くして貰って百ドルを弁償するはめになってしまった。保険で補填されると考えていたので、帰国してカード会社へ請求したところ、昨年8月から取り扱いが変わって、この旅行に使った公共の交通機関の料金をカードで支払っていないと適用されないと言われてしまった。取り扱いの変更は告知してあるとのことであったが、そのことを知らなかったので詐欺にでもあったような不愉快な気持ちにさせられた。大きな事故に遭遇しなかったことが不幸中の幸いというようなハプニングであった。 それにしても保険会社の自分勝手な手口には腹が立つ マスマック砦の見学を終えてスークを散策していると警察官に呼び止められて我々一行は足止めを喰ってしまった。どうやら黒い衣服を纏った異国の婦人達がカメラをかざして町中を闊歩する様子がこの警察官にはよく理解できない生まれて初めての体験だったらしい。ご注進ご注進とばかり、まずは足止めをしておいてあちこち関係機関へ照会したらしい。やがて事なきを得て解放されたが、閉ざされた国の外人観光客の扱いに不慣れな末端官公署の戸惑い振りを垣間見た思いのするハプニングであった この後都会地で各所の観光をしていると必ずと言っていいくらい何時のまにかポリスのパトカーが駆けつけてきて我々の行動を監視している局面が続出した。宗教警察というのがあり、風俗を中心に取り締まっているらしいが、見張られている方は気持ちのよいものではない。全身を顔まで黒いアバヤで覆った現地の婦人は格好のカメラの素材なのであるが、警察に摘発される虞があるのでついぞ撮影するチャンスを見付けることができなかった。
| 2004年06月04日(金) |
【神権独裁政権の街の色は黒と白・・サウジアラビア� � |
▼サウジアラビア旅 リヤド、ディライヤー、ワディラム、タブーク、アルウラー、ジェッダ 2002年4月27日〜5月3日 定刻通り始動して15時19分に離陸した飛行機は関西国際空港を飛び立った。
チャーター便なので乗客全員がサウジアラビアへ行く筈だが、同じ旅程の人は10名であることが判っているだけで顔ぶれは未だ判らない。隣の座席に座った根本さんという老人は同じCコースだということである。
洗面所へ行ってみて驚いた。祈りの間が飛行機の中に設置されているのである。前方のスクリーンには飛行機の絵が映し出され中心から矢印が西の方を向いている。どうやらメッカがどの方向にあたるのかを常時判るようにしてあるらしい。戒律の厳しいサウジアラビアの航空機ならではの設備である。
スチュワーデスは全て外人労働者である。サウジアラビアの人口2000万人の中、その25%は外人労働者であるというから、傭兵に依存した末期ローマ帝国の現代版のような感じがしないでもない。国の将来を暗示しているようだ。
時差6時間だから一日が30時間で、そのうち実飛行時間が12時間余という長いフライトは,20時45分にリャドのキング・ハーリド空港へ着陸することで終了した。観光客の扱いになれていないのか入国審査ももたもたしてなかなか進まない。
現地ガイドはサレーさんというサウジアラビア人の男性ガイドである。顔貌が相撲取りの曙に似ている人である。特に目のあたりが曙そっくりである。聞くところによれば、サレー氏の実父は農業をベースに多角的な分野で活躍する、サウジアラビアでも屈指の資産家らしい。サレー氏自身も三つも邸宅を所有しているという。アメリカへ留学したこともあるらしく英語に堪能である。航空機会社のエンジニアでもある。本来であれば、ガイドをしなくても済む境遇なのだが、本人が将来旅行関連会社を経営したいとの気持ちがあるので、政府が観光客招致に力をいれだしたのを機にガイドを買ってでたものらしい。またサウジアラビア航空でも、身元のしっかりした人を探したいということで、その条件にあったサレー氏が我々のガイドに配置されたということらしい。今回のガイドに当たっては本人はかなり自腹を切って対応したようである。
ホテルではロビーにベトウィンのテントが張られていて異国情緒を盛り上げてくれる。ここで小説家の阿刀田氏が夫人と一緒に参加されていることを知った。出版社の女性担当者が大きなカメラをぶら下げて付き添っていた。 テントの中でパキスタン人の給仕から手渡されたウエルカムドリンクが美味しかった。組成を聞いてみるとストロベリー、キウイ、ライムのカクテルであるということであった。
リアドの外国公館地区、ディライヤー、サッカースタジアム、駱駝市、国立博物館マスマック砦、スークの順番でリャド市内を見学した。
リヤドは世界の首都の中でも飛躍的に発展を遂げた都市の一つに数えられる。都市周辺にはワジと呼ばれる涸川が沢山あり、地下水資源が豊富で緑に囲まれた都市である。
急発展の状況を都市面積と人口の推移の数字で追ってみると次のようになる。 都市面積 人口 1,918年 19,000人 1,939年 8.5km2 1,950年 85.0km2 1,960年 160,000人 1,968年 110.0km2 1,977年 690,000人 1,982年 1,500,000人 1,985年 2,000,000人 1,996年 3,100,000人 2,000年 1,600.0km2 4,000,000人
市内を通り抜けながら観察していてもクレーンが林立し工事がいたるところで行われている光景がこの数字の推移を裏付けている。
道路の両サイドに建ち並ぶ高層の近代的なオフィスビルやマンション群は壁面や窓格子に施された幾何学的なアラビック模様と相まって都市の持つ機能美を一際引き立てている。
世界各国の大使館、領事館は市の中心地から8kmの高台地帯の一カ所に纏められており、世界でも類を見ない緑豊かな外国公館地区を形成している。
日本大使館を外観だけ見学した。建物の中へは入れなかったが庭内から写真を撮影することは許可された。予め撮影の許可はとってあったのだが、守衛にまで通達が流れておらず、カメラの放列を敷くと守衛が飛び出してきて制止されてしまった。暫くガイドのサレー氏と押し問答が繰り広げられたが、電話で確認がとれたらしく、撮影がやっと許されるというハプニングがあった。
ディライヤーはリヤド郊外に位置するサウド家発祥の地でサウジアラビア建国の父アブドル・アジスが1446年に都を作った場所である。18世紀後期にオスマントルコに侵略されて廃墟と化したが、当時の城壁の一部と日干し煉瓦造りの居城跡(サハド・ビン・サウド王宮)や市街地跡、井戸等が残されていた。政府観光局が観光客誘致のために建物を修復している個所があり、昔ながらの手法で日干し煉瓦を手作業で作っている現場を目撃することもできた。
建物の梁や天井にはなつめ椰子の木や葉が用いられていて、壁には風通しのための穴が幾つも開けてあるのが印象に残った。
当時のモスクは修復されて現在この地区の住民のお祈りの場として使用されているが異教徒の我々には内部の見学は許されなかった。
| 2004年06月03日(木) |
【二千年前の静寂と闇、ペトラ遺跡・・ヨルダン�◆� |
到着した日には観光案内所からシークを通ってエル・ハズネに至る通路に足元だけを照らす蝋燭の照明が設置され、古代の「闇と静寂を体験」できるイベントが催されるというので20$払って参加した。
往復一時間半程の行程であったが、岩壁に囲まれた古代の隊商道を静まりかえった暗闇の中、通路に沿って一定の間隔をとって置かれている紙袋で覆われた蝋燭の照明だけを頼りに歩いた探索は今回の旅で最も印象深い体験であった。
周囲は両側を岩壁に閉ざされており、場所によっては天井を覆うように張り出している岩壁が今にも落ちてきそうにさえ思える。台湾のタロコ渓谷も夜中に歩けばこのような雰囲気かなと過去の体験を知らず知らずのうちに思い出していた。岩の割れ目から仰ぐ空には星が大きくきらめいていて、聞こえるものは自分の足音だけである。他人の足音も最初は聞こえていたが、それぞれの歩く速度に従って距離が空き、自分の足音だけしか聞こえなくなるのである。しかも初めて通る道であり、行く手にどんなものが待ち受けているのかさえも予測がつかないから恐怖心と好奇心がないまぜになった複雑な心境である。段差のある石畳みの個所もあるので足元に気を取られて周囲を見回す余裕もない。ただひたすら照明を頼りに歩くのみである。足元を照らす照明はあたかも京都は化野の念仏寺の墓地の灯明のような趣である。
好奇心と不安な気持ちを抱きながらなおも歩を進めると岩壁と岩壁の合間にライトアップされた巨大な殿堂の一部が突然視界に飛び込んでくる。大きな一つの岩に彫り込まれた二階建てのエルハズネの遺跡である。
岩壁の合間の狭い道を通り抜けて広場にでるとエルハズネが全容を現す。赤みがかったピンク色をした殿堂は6本の柱によって支えられている。遺跡の前に開けた広場には紙袋に覆われた蝋燭の照明が幾列かに整然と並べて置かれており、いやがうえにも漆黒の空間に神秘性をかもし出している。足元に注意しながら殿堂に近づき階段を登っていくと一階には両側に小部屋のある大広間へと繋がっている入り口がある。ここに佇んで恐る恐る中を覗き込むと殿堂の奥は漆黒の暗闇で中から妙なる音色が聞こえてくる。笛の音か弦楽器の音色なのか定かではないが荘厳な気持ちになり身が引き締まる思いである。暫くその場にたたずんで音色に聞きほれながら古代人はどのような思いでこの場に佇んだであろうかと思いを馳せてみた。おそらく彼は神をそこに意識したのではないかと思った。
そのうち同行の仲間や他のグループの人々が三々五々集まってきて暫しの静寂は破られてしまったが、そこに居合わせた者皆が同じ思いに沈んでいるように思えた。
テント張りの土産物屋でお茶のサービスを受け再び元の道を辿ってホテルへ帰りついた。
朝8時半にホテルを出発して昨夜歩いた道を今度は馬に乗ってシークの入り口まで行きそこから徒歩でシークを通り抜けた。昨夜は暗くて黒い岩壁だけしか見えなかったが太陽光の中で観察すると切り立った岩壁は砂岩であり、自然の造りなす文様が岩肌に刻み込まれていてそれだけでも美しい景観である。しかも驚いたことにこの岩壁のあちこちに穴が穿たれていたり、彫刻が施されていたりして、ここにはその昔商店が建ち並んでいたものと考えられている。さらに驚いたことは岩壁に水路が穿たれており、水道設備が整っていたことである。
そしてこのシークを感慨も新たに通り抜けると再びあのエルハズネの神殿が切り立った岩壁の間に今度は太陽に照らされて佇立する威容が突然目の中に飛び込んでくる感激の一瞬である。
このエルハズネは紀元前1世紀頃アレタス3世のための墓として建設されたものと考えられている。高さ40m、横幅28mで二層からなっていて一階の正面には6本の柱が建っている。両端それぞれ2本の柱は壁に埋め込まれた形をしていて柱の間にはゼウスの息子の騎手を表す台座に乗った像が彫刻されていて片方は馬に乗って西を向き、もう片方は東を向いている。これは死者の魂をあの世へ送っている様を描いていると考えられている。二階は三区画の岩の塊をそれぞれ4本の柱が取り囲んだように彫り込まれていてその上には屋根を模した装飾が施されている。中央の屋根の上には壺を乗せている。この壺の中には財宝が入っているという迷信が伝えられている。 そして二階部分の建物を擬した壁面には蠍を描いた像、ナバティアの神々を象徴化した像が彫り込まれている。彼等は多神教を信じていた。
このエルハズネをやり過ごして更に奥へ進むと岩壁を利用して作られた円形劇場、犠牲の祭壇、大寺院、凱旋門、翼を持ったライオンの寺院、柱廊等の遺跡がある。これらの遺跡からこの地に都市機能をもった集落が営まれていたことがよく判る。
更にグブサ山に登っていくとアーンの墓、シルクの墓、コリンシアンの墓、宮殿の墓等の遺跡がある。何れも巨大な砂岩に刻み込まれた大きな彫刻である。
たった一回だけのしかも駆け足の見学で遺跡のひとつひとつを詳細に説明することはできないが、一口で表現すれば、ペトラ遺跡は墓の芸術だといえなくもない程に墓が多いという印象である。
登り道を上へ上へと登って最後はエド・ディル(ナバティアの神殿)までたどりついた。この地点で標高は1030mであった。下りは登りよりも疲れる行程となり、へとへとに疲れ果てて本日の観光を終えた。ここでの圧巻はなんといってもエル・ハズネであった。
ここヨルダンでは酒が許されているので、ホテルの夕食では久し振りにワインを痛飲した。岩に穴を穿って部屋の作られている「墓場」跡のバーへ二次会に繰り出して同行の人達5人で歓談し楽しい夜を過ごした。某氏曰く「これこそ『ハカバー』だ」と。
バスでワディラムへ向かった。このワディラムの砂漠は「アラビアのローレンス」の映画の撮影が行われたことで有名である。
ここでは四輪駆動のトラックに乗り換えて砂漠の砂地を疾駆した。ローレンスが撮影のとき利用したといわれる「ローレンスの泉」、「fha文字」で書かれた碑文の岩、七つの智恵の柱という奇岩、2000年前に「サモジ語」で描かれた岩絵等を見学した。
ローレンスがアラビア人を率いてヒジャース鉄道を破壊するために出撃するシーンに使われたという場所は大きな岩山の下に五色に輝く砂漠が広がっていた。
| 2004年06月02日(水) |
【二千年前の闇と静寂、ペトラ遺跡・・ヨルダン� � |
ヨルダンの首都アンマンは海抜800m〜1000mの高地にある起伏の多い古い都市である。石器時代から人が住んでいたといわれ鉄器時代にアンモン王国の首都が置かれていたと伝承されている。
ビザンチン時代に教会が沢山建てられて発展した。1923年にトランスヨルダン王国が発足し首都が置かれ、1946年にイギリスの支配から独立してからも首都として機能し現在に至っている。人口は150万人である。
シタデルの丘の高い所に2世紀にローマ帝国のマルクスアウレリュウス帝の時建てられたというヘラクレス神殿の石柱が一際高く聳えており、そこから下方に目を転ずると ローマ時代の円形劇場も残っている。ビザンチン時代の教会がそこここにあるのも見渡せる。街全体が石灰岩の石組みの建物で構成されており、白っぽい感じのする街並である。永年に渡る人間の営為の積み重ねが作り上げた古い歴史を持つ街であることが感じ取れた。ヘラクレスの大きな手が玄関に飾られている小さな博物館がひっそりとした感じで建っていたのも印象に残る佇まいであった。
久し振りにビールにありつけた昼食の後、アンマンの街を後にして一路230kmの道程をナバティア人の隊商都市ペトラ遺跡へ向けてバスのドライブである。アンマンの市街地をはずれるにつれ、果てし無く続く荒涼とした砂漠が現れる。時に現れる小高い山には草木が生えておらず荒々しい岩肌が太陽光に照らされて茶褐色に光っている。砂漠には駱駝が食するというラタミという雑草がところどころ生えているだけである。地平線の果てまで広がる広大な砂漠を駆け抜けていくと時折砂山が築かれて白い砂煙が立ちのぼっている所がある。これは燐鉱石を採取している現場である。ヨルダンの貴重な砂漠の鉱物資源である。数カ所でこの燐鉱石の採掘場を目撃した。付近に敷設されている狭軌で単線の鉄道線路は燐鉱石運搬用であるという。
殺風景な砂漠の光景にうんざりしかけた頃、丘陵地が現れ高度が次第に上がっていき今までの平地と異なり起伏の多い地帯が現れた。村落もぼつりぼつりと現れ始めたペトラの街へ近づいたのである。かなり高度の上がった山中へ入ったと思う間もなく市街地の開けている峠に差しかかった。このあたり一帯をモーゼの谷と呼ぶらしい。前方に開けている街がペトラの街であった。折から運良く太陽が真向かいの山頂に落ちていくところであった。
| 2004年06月01日(火) |
【ケマルパシャの炯眼・・トルコ 】 |
▼トルコの旅 アンカラ、カッパドキア、コンヤ、パムッカレ、ニサ、エフェソス、ベルガマトロイ、チャナッカレ、イスタンプール 1998年9月28日〜10月6日
アンカラ、カッパドキア、コンヤ、パムッカレ、ニサ、エフェソス、ベルガマ、トロイ、チャナッカレ、イスタンブールの順に9日間でトルコの主要部を駆け巡った「充実のトルコぐるり周遊」の旅のガイドは、美しい日本語を喋る29歳の独身男性で、トルコ人のハリーさんであった。 アンカラで立ち寄ったアタチュルク廟で、近代トルコの初代大統領ケマルパ シャのことをトルコ人はアタチュルクと尊称し、建国の父という意味ですと説明し、続けて彼の功績に言及するハリーさんの語調はあたかも信徒が教祖を語るもののようであった。
ケマルパシャは、マケドニアのサロニカ出身でイスタンブールの陸軍士官学校在学中から、フランスの革命思想に傾注し、トルコ帝国の弊政改革と立憲制を目指す民族解放運動に参加した。1908年青年トルコ党の革命後は同党と対立、以後軍事に専念し、第一次世界大戦では祖国防衛のために、ダーダネルス海峡を死守した。戦後、帝国政府が国土を列強に分割割譲するという屈辱的なセーブル条約を締結するやこれに反対して、アンカラに大国民会議を招集して議長となり、結集した国民党を率いて軍事行動を起こし、ギリシャ侵入軍を駆逐した。そしてセーブル条約を破棄し、トルコに有利なローザンヌ条約を締結することに成功した。1923年に共和国が成立すると初代大統領に推されて三期連続その任にあたった。この間、政教両権を握る専制的なスルタンカリフ制と保守的なイスラム法を廃止し、近代法の導入と国字のローマ字化等の近代化を断行した。
アンカラの市内は大きなビルが立ち並ぶ近代都市であるが、至るところにビルの新築工事現場があり、建設ブームを現出していた。 カッパドキアでは、駱駝岩や茸岩と呼ばれる奇岩等を見学した。もともとカッパドキア地方は、太古の時代には、お碗状の窪みであったが、エルジェス火山の噴火により、これが溶岩と火山灰によって埋め尽くされた。その後長年の風雨で、組成の柔らかい部分が浸食され、現在見るような面白い形の奇岩を形成した。また、到るところの大きな岩に、人間が生活できる洞穴が人の手により、数限りなく穿たれている。この洞穴は、アラブ人の迫害を逃れたキリスト教徒達が隠れ住んで、信仰生活を営んだ教会や僧坊や住居の跡である。
この地方の山々や平地には全然木が生えておらず、周辺の奇岩の群れと相まって荒涼とした景観をつくり出している。
パムッカレのネクロポリスはヘレニズム時代からビザンチン時代までの様式がみられる共同墓地で、古代の墓の数が1200以上も残されていて、石柩や墓 石や廟柱の壊れたものが所狭しと転がっているが、その過半のものは大理石で ある。また、この近くのヒエラポリスは紀元前190年に始まった都市国家の 遺跡であるが、ベルガモン王エウネメネスによって創建され、ローマ、ビザン チン時代まで繁栄を続けた。円形劇場やアポロ神殿等の遺跡が残されている。
この都市はセルジュクトルコによって滅ぼされた。 圧巻はこの国最大規模のエフェソスの遺跡である。保存状態が良く、体育場競技場、聖母マリア教会、アルカディアンストリート大劇場、マーブルストリート、ケルスス図書館、マゼウスとミトリダテスの門、クレテスストリート、娼館、ハドリニアヌス神殿、トラヤヌスの泉、ヘラクレスの門、メミウスの碑、市公会堂、公衆トイレ、オデオン、アゴラ、ドミティニアヌス神殿浴場等の遺跡があり、往時の繁栄振りがよく判る。
ベルガモ、トロイと遺跡巡りの旅は続いたが、このあたりまで来ると、いつしか山々にはオリーブの木が豊かに繁茂し、畑には綿花が花を咲かせ、農家の庭には無花果や石榴の実が見られ、緑豊かな光景に変わっていた。
イスタンブールはアジア的なものとヨーロッパ的なものが混在している都市であり、オスマントルコによるイスラム文化の遺産が豊富に且つ誇らしげに温存されている都市である。そして、ここに到着するまでに垣間見た各都市での建築ラッシュは何処もすさまじいものであったが、イスタンブールでも同様であった。国全体が活力に満ちて、発展しているという印象である。
オスマン帝国の支配者の居城であったトプカピ宮殿、ビザンチン建築の最高傑作といわれるアイヤソフィア、6本のミナレット(尖塔)を備え、内部の壁面が美しいブルーモスク、ヨーロッパ各国からの献上品が豊富に所蔵されている華麗なドラマバフチェ宮殿。これらはいずれも、ヨーロッパ、アジア、アフリカにわたる地域を支配したオスマン帝国の政教一致の権力者が営んだモスクや宮殿であるから、規模の大きさ、贅を尽くした豪華さはイスラムの文化遺産としては他に比類をみないものである。
この国ではいまでも国民の9割はイスラム教徒である。このような政治的にも宗教的にも文化的にもイスラムの原理が強烈に浸透している国で、ケマルパシャが1923年に、いちはやく政教分離、イスラム法の放棄、国字のローマ字化を断行して立憲制国家への道を選択したことは、いまなお政教を分離せずイスラムの原理に固執して、発展もなく、暗鬱な国柄に陥っているイランやイラクの国民の苦悩を思う時、優れた為政者の炯眼であったと断言できよう。
鶏頭や モスクに想う 国父像
『稼ぐ宣伝代行』
さるさる日記 - 日記レンタル
 
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