前潟都窪の日記

2004年07月31日(土) 【聖地リラの僧院を誇り薔薇の咲き乱れる国・・ブルガリア� �

▼ブルガリアの旅 ソフィア、リラ、カザンラク、ヴェリコ・タルノボ
               2002年4月2日〜4月13日
 ソフィアではフロントで貰った地図を頼りに市内探索にでかけたが、文字がキリル文字なので何処を通って何処までいったのかよく判らない。古い大きな教会までたどりついたので地図と照合するとアレキサンンドルネフスキー寺院らしいと思っていたが、後日そうではないことが判った。実は聖ネデリア教会でブルガリア正教の教会であった。丸屋根に蔦が絡まっていたのとジプシーの子供にしきりに銭をねだられたのが印象に残っている。子供の傍らにはケバケバシイ装いの母親もいた。

 ジプシーについて若干整理しておくと、Gypsy はヨーロッパから中近東、アメリカまで古来広く分布する放浪民族。起源は明確ではないが、言語、生活様式からインド北西部の下層民族とみられ9〜10世紀頃からヨーロッパの記録にしばしば現れ、14〜15世紀にもっとも多く、現在も総数五百万人、ヨーロッパだけで百万人以上と推定される。純粋種は皮膚は褐色、髪は黒か黒褐色、平均身長165cm程度、数家族〜数十家族でテント、幌馬車の移動生活を送り、その社会は閉鎖的で固有の言語、宗教、慣習を維持し、部外者との通婚も禁止される。歌舞や曲芸の辻興行、馬匹売買、鍛冶屋花売り、占い等を生業とする。『学研 現代新百科事典より』

 一部に掏摸、置き引き、窃盗等をするものがあり観光客が被害に遇うことが多い。一説にインドからエジプトに渡り各地に拡散したからジプシイと呼ばれるようになったという。ルーマニアのシビウにはジプシーの総元締めを行う「皇帝」が居住しており、闇の行政府を保有しているといわれる。

 今回の旅行中にルーマニアの街道筋でも目撃したが、豪勢な邸宅を構えて定住する者も最近見られるようになった。いわれて、よく観察して見るとケバケバシク飾った建物には窓がついておらず、庭に粗末な建物が建っていたりする。母屋には馬匹を住まわせ、庭の粗末な小屋に人間が生活するのだという。都会では一般人と変わらない装いをしている者もあり、そうした連中を外見からは見分けにくいことが多く、観光客がカモにされる。子供達は就学しない者が多く、生活環境の影響を受けて掏摸、置き引き、窃盗を悪事と考える規範意識が皆無である。

 ソフィアの南方にバスで約1時間半走行するとリラ山脈の山中にリラ僧院がある。




 突然視界に飛び込んできた僧院は白と茶色の或いは白と黒色の織りなす縞模様が美しくアーチ型の柱が更にその美しさを引き立てている。このあたりで標高は1.000 mを若干超えている。折から背面にそそり立つ山頂には雪が積もり僧院の佇まいを荘厳なものに仕立て上げていた。日本では桜も散り始めた4月だというのに肌吹く風は身を刺すように冷たく手袋がないと指先がかじかんでしまいそうである。

異民族との攻防が激しく栄枯盛衰の目まぐるしいブルガリアの歴史の中にあって、第二次ブルガリア帝国が輝いたのはイバン・アセン2世(在位1218〜1241) の時であるが、このときリラの僧院も当初は城砦として建設され、次第に僧院の形が整えられてきたのである。爾来ブルガリア正教の聖地として国民の崇拝を集めて今日に至っている。ブルガリアの歴史の中には異教徒のオスマントルコの支配を受けた500 年間の苦難の時代があったが、このときもこの僧院だけは破壊されることもなく、別格の扱いを受けてきたのだという。現在、この僧院は男子修道士25人によって守られているが、価値観が多様化してきた現在、若人で修道士になるものが少なく細々と法灯を絶やさぬよう守護しているのが実情であるという。しかしながら国民の崇敬の的となっている場所には変わりがない。

 聖ペトカ地下教会はオスマントルコの治世下にあった14世紀に建てられたものであるが、屋根だけを地表に出した半地下式の教会で当時肩身の狭い思いをしたキリスト教徒の苦難の時代が偲ばれて痛々しい。

セルディカの遺跡は地下鉄工事の時偶然発見されたローマ帝国治世下の2世紀のものである。これは市の中心部を取り囲むように約500 m四方に渡って高さ12mの城壁が巡らされたものの一部であると考えられており、この遺構の一角は土産物屋の店舗になっている。

シェラトンホテルの裏手にひっそりと建っている日干し煉瓦を積み重ねて作った聖ゲオルゲ教会は




4世紀にローマ帝国によって建てられたものであるが、保存状態は良好で周囲を取り囲んで建っている近代的なビルと奇妙な対照を見せていて面白い。またこの教会の裏には浴場跡や市街地の跡が残されているがこちらは所謂ローマ遺跡であって完全な形の構造物は残されていない。

 大統領府では衛兵交代を目撃することができた。脚を水平にはね上げて歩く姿は一つの型なのであろうが、観光客を意識した振り付けがなされているような気がした。

 国立美術館はかつての王宮であるし、シティアートギャラリー、ソフィア教会、ロシア正教教会、アレキサンドルネフスキー教会等ソフィア市で見るべき施設がこの地域には目白押しに並んでいる。

 6世紀に建てられたソフィア教会にはキリル文字を考案したマケドニア出身の僧侶キューリロスとメトディオス兄弟のイコンが飾られてあったのが印象に残った。

 キリル文字はロシア文字の原型となるもので、9世紀にブルガリアでギリシャ正教の伝道僧であったキューリロス(弟)とメトディオス(兄)の兄弟が布教のために聖書を古代教会スラブ語に翻訳する際スラブ語アルファベットを考案し、表記に用いたとされている。



2004年07月30日(金) 【人類の至宝エルミタージュ美術館・・ロシア】

▼ロシアの旅 サンクト・ペテルブルグ 
               2000年10月15日〜10月25日

ヘルシンキ中央駅から6時半発のサンクトペテルブルグ行きシベリュウス号に乗るために駅裏口から入場した。戸外はまだ真っ暗である。プラットフォームまで乗り入れてきた自動車からポーターが荷物を列車内の網棚へ次々 に収めていく。スーツケースが網棚にずらりと並んだ光景は壮観であった。定刻になるとベルも鳴らずに列車は走りだした。

 窓外は暗いが目をよく凝らしていると針葉樹の林が黒々としているのが次第に判別できるようになってきた。時計を見ると7時40分である。やっと空が白みだしたようである。8時だというのに霧が立ち込めているのかどんよりと薄暗くまるで太陽がでているという感じがない。通り過ぎる村落には心なしか哀愁が漂っているように見える。窓外に広がる景色は白樺や松、杉が入り交じった林ばかりである。たまに農家が散見されるが切り妻造りの木造家屋で小口の面には上方に一つと下方に三つ窓が設けられているのが多い。

フインランドとロシアとの国境線沿いの駅ヴァイニカラではロシアの係員が乗り込んできて顔写真と見比べながら一人一人パスポートを回収していく。同時に携行通貨を記入した書類をチェックしていく。入国時に携行していた通貨が出国時に増えていると問題になるらしい。外貨をロシア国内へ落としていけということなのか。長時間待たされた後、パスポーが返されやっと出発することが出来た。

国境を過ぎると今まで快調に走行していた電車は何故かそのスピードを落としてノロノロ運転に変わる。そしてペテルブルグ近郊に近づくと再び速度が上がる。添乗員が毎回同じことが繰り返されると言明しているから、今回だけの現象ではないらしい。理由はよく判らないと言うが、おそらく遙かな田舎の路線区までは十分な補修予算が廻らず、線路のメインテナンスが十分出来ていないので安全確保上スピードダウンしているのであろう。なにしろつい先日潜水艦の沈没事件を引き起こして世界の耳目を集めたばかりの国柄である。ペテルブルグ近郊の白樺林には立ち枯れになったためなのか何本もの倒木が醜い姿を晒しているのがそちこちに散見される。

ペトルブルグ駅には13時30分に到着した。この駅を改札のないまま表に出ると美しい町並みがいきなり目に飛び込んでくるが、よく見るとペンキが剥げたままになっていたり、壁が剥落したままになっている建物がかなり

 目につく。通りを走行している市電やバス、自動車の車体が古くなって傷んでいるのも目について痛々しい。扉などは下方部分に赤錆がついていて、体裁とか乗客の乗り心地などには一切お構いなく、乗物は動きさえすれば運行させるのだという当局の管理姿勢が窺われる。

昼食には地酒を飲んでみようとウォッカを注文した。嬉しいことに米ドルが使えるという。ヘルシンキのレストランでは現地通貨しか使えなかったのに、ここではルーブルよりもむしろ米ドルのほうが喜ばれる。

 そして何よりも驚いたのは、食事が終わりに近づくとウエイターやウエイトレスがポケットからキャビアの瓶詰めやマトリョーシカ人形等を取り出して勧めるのである。彼らは公務員の筈なのに悪びれた様子も見せず、また同僚に気兼ねすることもなく、堂々と販売活動を始めたのである。レストランが企業体の業務の一端として従業員に土産物の販売を命じているのか単なる従業員個人としての内職なのか判然としないがウエイターやウエイトレスから商品を売りつけられたのは、海外旅行をしていて初めての経験であった。

 自国通貨よりもドルの方が喜ばれ、従業員が職場で内職をして平然としている国。大国ロシアという国は一体どうなっているのかという驚きの連続であった。

市場競争原理を導入した国の経済改革推進策の具体例の一つ、即ちレストランという経営体が組織ぐるみで展開している観光客に対する拡販運動であると信じたいが、そうだとすればお客の心理を全然理解していないこと甚だしいものがある。もしも彼等が販売しているキャビアが巷間噂される、調理場から横流しされたものであったとしたらこの国のモラルと職場規律は乱れに乱れているというしかない。

サンクト・ペトルブルグの町はロシアの皇帝ピョートル大帝が北方戦争(1700〜1721) でスウェーデンの侵略を防ぐためにフィンランド湾に面する低湿地に数万人の農奴を使って要塞の建設を始めたことがその紀元となっている。1703年にペトロパブロフスク要塞が完成するとともに町は完成した

 ピョートル大帝は対スウェーデン戦に勝ってからバルト海への出口を確保するために、この地に港を建設し1712年に首都を移した。爾来「西方への窓」としてロシアと西欧を結び付ける役割を果たす政治、経済、文化の中心地として発展した。デカブリストの乱(1825) 、血の日曜日(1905) 、二月革命・十月革命(1917)等革命運動の中心地ともなった。  第二次世界大戦では3年余にわたる激戦の末ドイツ軍の攻囲を退けた。首都モスコーに対して現在も文化の中心地をもって任じている。

ピョートル大帝の宮殿




食後、市内観光で廻った所は次のようなものである。

一.イサク広場とイサク聖堂。
世界で三番目に大きな聖堂と言われていて、その大きさは長さ111.2 m幅97.6m、高さ97.6mで一万四千人を収容できる規模であるという。建築には1818年より40年間が費やされ、難工事であった。低湿地にこれだけの規模の建物を建てるのだから6mの長さの杭を新旧二万四千本が打ち込まれている。この教会は高さ三十階建てのビルにも相当し、金色に輝くドームとともにその威容を誇って屹立している。寺院正面の広場がイサク広場でこの広場の中央にはニコライ1世の馬上像が建っている。デカブリストの反乱を鎮圧して即位し秘密警察と過酷な刑罰をもって自由思想を弾圧し、ツァーリズムを強化した皇帝として知られている。

二.デカブリスト広場
ネヴァ川の左岸に黄色い旧海軍省の建物が建っていてその前にある広場がデカブリスト広場である。デカブリストとは12月党員という意味であり、1825年12月に専制政治と農奴制の廃止をめざして蜂起した革命家達のことであるが、蜂起の中心になったのは祖国戦争(対ナポレオン戦争のこと)に参加し西欧の自由思想にふれた貴族出身の青年将校達であった。以後ロシアにおける革命運動の出発点となる蜂起であった。蜂起はこの地とキエフでそれぞれ14日と28日に行われたがいずれも鎮圧され、579人が起訴され内五人が絞首刑となり残りはシベリアの地へ流刑となった。

三 スモーリヌイ修道院。




ネヴァ川河畔の一角に白色とコバルト色のツートンカラーの華麗でお洒落な装いの修道院と寄宿学校がある。この学校は19世紀始めにエカテリーナ2世によって貴族の令嬢達の女学校として建てられたものであるが、1917年十月革命の際には、レーニンを中心とする作戦本部が置かれ、10月25日ソビエット政権樹立宣言が行われた場所としても有名である。

四.マリインスキー劇場




通称マリインカと呼ばれているサンクト・ペテロブルグ随一のバレェ・オペラ劇場で、その名はモスコーのボリショイ劇場とともに世界に知られている。その紀元はこの場所にサーカス劇場が建てられたことから始まる。1859年の火災の後に再建された劇場は皇帝アレキサンドル2世の妻の名をとってマリインスキー劇場となった。淡い緑色と白色のツートンカラーの建物は美しい。ウエッジ・ウッドの焼き物で造った建物のようにさえ見える。

翌朝十時の出発でエルミタージュ美術館へ向かった。美術館は十時半の開館であるが門前には既に学童達が先生に引率されて賑やかに囀りながらたむろしていた。

国立エルミタージュ美術館




は冬宮、大エルミタージュ、小エルミタージュ 新エルミタージュ、そしてエルミタージュ劇場の五つの部分から構成されており、150年かかって完成された建築複合体である。エルミタージュとはフランス語で「隠れ家」という意味であるが、この建築複合体は元来、歴代皇帝の住まいであるとともに皇帝の私有美術館となっていたものを革命後国立美術館に転用し公開されたものである。

エルミタージュのコレクションは女帝エリザベータ




によって始められ、その後エカテリーナ2世は西欧から4,000 点以上もの絵画を買い集めたといわれている。現在のコレクションは三百万点に及ぶといわれ、展示は十部門に別れて展示されていて逸品揃いである。 限られた時間内に全コレクションを鑑賞することは到底不可能なので近代の西洋絵画に焦点を絞ってみて廻った。画家の名前だけを拾ってみても次のような豪華さである。

1)ルネッサンスの時代のシモーネ・マネチーニ、フラ・アンジェリコ、レオナルド・ダ・ビンチ、ジョルジョーネ、ティティアーノ、ラファエルロ等 
2)フランドル派のルーベンス、フランス・スネイデル等。
3)オランダ派のヴァン・ダイク、ウイレム・ヘダ、ゲラルド・テルボルフ、ヤン・ステーン、フランス・メハルス、レンブラント等
4)スペイン派のエル・グレコ、フランチェスコ・スルバラン、ディエゴ・ ベラスケス、ハルトロメ・ムリリョ、フランシスコ・ゴヤ等
5)印象派のマネ、モネ、ピサロ、ルノアール、シスレー、ドガ等。
6)新印象派のスーラ、シニャック等。
7)後期印象派のセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン等。
8)その他ピカソ、マチス
、



カンジンスキー等

与えられた僅か2時間ほどはあっという間に消えていた。しかしながら名作の数々に圧倒されて美術館を出たときにはどっと疲労感が体内を駆けめぐった駆け足で瞥見しただけに終わってしまったが、室内の装飾や天井の絵画室内に配置された贅を尽くした調度品の数々、豪華なシャンデリア等いずれもそれぞれに故事来歴のある逸品揃いでまさに人類の至宝を集めた、再度訪問してみたい魅力溢れる美術館であった。



2004年07月29日(木) 【ルネッサンスの美術を鑑賞して廻る・・イタリア��】

 朝7時頃ローマのホテルを出発してポンペイ遺跡とナポリの日帰り観光に出かけた約3時間の走行の後ベスビオス火山が




見え出した。ポンベイ遺跡に近づいたようである。

 ポンペイは古くからオスキ人、サムニウム人という何れも古代イタリア人の一派が定住し、農業、商業、貿易で繁栄していた。ローマ時代には一段と発展し一世紀にはその絶頂に達したが、79年8月24、25日のべスビオス火山の大噴火により全市が噴砂と火山灰で埋没し二万人以上の住民のうち約一割の死者を出した。1738年以来組織的に発掘され、1860年以降は本格的な発掘調査が行われ現在も継続している。

都市は代表的なローマ帝国の都市の姿




をどどめており、西南部の二つの広場を巡り公共浴場、劇場、体育場、神殿、市場、バジリカ等が配されている。また、建築、壁画、彫刻、調度品などもよく保存されていて当時の文化水準や風俗、生活の実体を知る貴重な資料を提供している。

 ここで印象に残ったのは生き埋めになった人間が火山灰の中で腐敗し骨だけ残った火山灰塊を発掘し、残されていた人型へコンクリートを注入して被害者のコンクリート像を作り展示してあった姿である。説明がなければ人間がそのまま埋もれて炭化したミイラ




が残ったと思ったかもしれない。窒息死したであろうと思われる苦しそうな表情もよく再現されていた。

また路面に男根を型取って表示されている売娼宿の道標、売娼宿の狭い部屋や石製のベッド、更には部屋の壁に描かれたメニューとしての体位の絵なども残されていて人類最古の職業と言われるだけのことはあるなとニヤニヤしながら説明を聞いていた。           
 このあとナポリの町をバスで観光しナポリ港が見下ろせる丘を回った後、ローマへ向かって夕暮れせまる帰り路を急いだ。ナポリは国際的な港町で治安が極端に良くないということで車から降りることは許されず、総て車窓からの観光となった。

 海を前面に配し、ベスビオス火山を背景にして、山の斜面へ広がるナポリの町




はとても美しい景観を作り出していた。しかし近くを通りすがりに眺めた限りでは建物の壁面の剥落は激しくかなり荒廃が進んでいるなとの印象である。聞くところによるとナポリでは造船に関係して生活している人が多く、造船業の斜陽化と折からの不況の影響でナポリ市内の失業率は50%を越えているということである。そのせいで町も荒れるのであろうか。
 



2004年07月28日(水) 【ルネッサンスの美術を鑑賞して廻る・・イタリア�◆�

   フレンツェ、シエナ、ヴァチカン
 フレンツェで宿泊したホテルは市の郊外だったのでフレンツェ市内中心街まで暫くバスで移動したが、街道の両脇に生い茂っている笠松の並木が印象に残っている。

「総ての道はローマに通ず」という諺があるが今通っているこの道路もローマ帝国時代に作られたものであろう。総て石で舗装されている。ローマ人の統治の基本的な考え方を偲ぶ一つの文化遺産である。今でこそ日本の道路も田舎道までアスファルト舗装されているが戦後まもない頃は舗装のされていない道が過半であった。占領軍の某将校が「日本には道路予定地はあっても道路はない」と言ったという言葉の意味が思い出される。

 市内には市の条例でバスが乗り入れられないように規制されているので、指定の駐車場で下車してウフィツィー美術館へ向かった。通りに立ち並ぶメディチ家の居宅であったという豪壮な建物等に目を奪われながら歩いていくと通りの切れたところで、「オッ」「ワァッー」という感嘆の声が一様に上がった。大聖堂がいきなり視界に飛び込んできたのである。それは劇的な瞬間であった。

 フィレンツェ大聖堂




はここでもドーモと通称されているが正規の名称はサンタ・マリア・デル・フィオーレ(花の聖母寺)である。1296年アルノルフォ・ディ・カンピオが造営に着手し、ジョットー・A、ピサーノ・F、タレンティ・ブルネレスキらが次々と造営に関与して、1436年に完成した。高さ百七mの丸屋根はブルネレスキが施工し、「トスカナ全土を覆う」といわれた程の巨大さを誇った豪華な寺院建築である。堂内にはミケランジェロのピエタやウッチェロの絵等がある。

 今回の旅行の目玉の一つであるウフィッツィ美術館へ行った。
 ウフィッツィ美術館の起源は1560年に遡り、メディチ家のコジモ一世(1519〜74) の要請でトスカーナ大公国の行政管理・司法オフィス( ウフィッツィ) のために[ 川沿いに空中に建つかのような] 二つの翼廊をもつ宮殿をヴァザーリが設計したことに始まる。その五年後には同じくヴァザーリによって僅か数カ月で、ウフィッツィとメディチ家の住居ピッティ宮殿が繋がれ、ヴェッキオ橋の上を通ってサンタ・フェリチタ教会からボボリ庭園まで抜ける廊下が建設された。町の急所と最古の橋と権力の中枢を連結して階上を走るこのヴァザーリの廊下は世界で唯一の都市通路である。そこにはルネッサンス期のフレンツェを金融業で蓄えた豊富な資金を背景に独裁権力で牛耳ったメディチ家の面目躍如たるものを偲ぶことができる。

今日のウフィッツィは比類ない芸術遺産を誇っており、中世から現代に至る絵画や古典彫刻、細密画、タベストリー等所蔵作品は何千点を数える。ウフィッツィが優れた美術館であるのは、その見事な建築や数々の傑作によるばかりでなく、四世紀に及ぶ美術品収集の歴史が町の文化変遷と一体となって展開してきたからにほかならない。
 それはなによりもメディチ家を筆頭とする町の統治者達が美術品収集に熱意を注いできた結果である。

 ルネッサンス期の作品を重点的に鑑賞して回ったが印象強く記憶に残るのはボッチェリーの「ヴィーナス誕生」




「春」「東方三博士の礼拝」、レオナルド・ダ・ビンチの「受胎告知」




「東方三博士の礼拝」「キリスト洗礼」




ミケランジェロの「聖家族と幼い洗礼者聖ヨハネ」、ラファエロの「自画像」
「ヒワの聖母」




「教皇レオ十世と枢機卿ジュリオ・デ・メディチと枢機卿ルイジ・デ・ロッシ」、 ティツィアーノの 「フローラ」




「ウルビーノのヴィーナス」等であった。

 シニョリーア広場で見ることのできるミケランジェロの出世作「ダビデ像」




の彫刻や切り取った人間の首を手にかざす「ペルセウスの像」等も印象に残った。

 シエナの町への移動中にバスから眺めたトスカーナ地方の風物は印象に残る長閑で異国を感じる光景であった。それは、あまり高くもない丘陵状の畑がうねりながら、或いは重なり合いながら地平線の果てまで広がっているのである。糸杉が所々に立っていてこの光景にアクセントをつけている。畑は取り入れを終わって耕されたばかりのものもあれば、牧草が短く生えて緑色をしているものもある。放牧された牛の群れがのんびりと草を食んでいたりするといやがうえにも旅情をそそる。折から冬の短い太陽の日差しが我々の乗ったバスの影法師を大きく畑に写していくのである。

 黄昏近い頃やはり世界遺産に指定されているシエナの町へ到着した。ドウモを中心に広がった旧市街は小高い丘の上に纏まっており、バスから下車した位置から遠望するとここも都市国家であったことが一目で判る。

 サンタ・バルバラの要塞、カンポ広場
、



大聖堂等を見学した。
 大聖堂は千二百年代に建築家ジョバンニ・ピッサーニによって建設されマリアのために捧げられたゴシック様式とロマネスク様式の見られる教会である。一見して特徴的なのは建物に横縞模様が取り入れられており、アラビアの影響が入っていることである。このような様式をピサ様式というとのことである。
 シエナ人はプライドが高く、フレンチェへの対抗意識が強くフレンチェの大聖堂よりも大きなものに建て替えようと計画したが、黒死病の蔓延で計画は頓挫し、外壁と建設予定地だけは当時のまま残っていて現在は駐車場に転用されている。
 シエナは創設時から銀行業で成り立っている町で現在も市民の半数以上が銀行に係わる仕事に従事しているという。またシエナに本店を置く銀行は海外のどの支店であっても必ず一人はシエナ人を派遣している。
 早朝シエナのホテルをバスで出発し、230kmを長駆して一路ヴァチカンへ向かった。ヴァチカン美術館の圧巻は何といってもシスティーナ礼拝堂である。
 特にミケランジェロがユリウス二世(在位1530〜1513) の依頼を受けて25年以上の歳月をかけて完成させた天井画は壁面に積もったほこりと油煙を洗浄する修復作業が1980年に開始され、最近終了したばかりでその鮮やかな色彩を回復していた。
この天井画は中央に創世記の九つのエピソードを描いている。即ち「闇と光の分離」「太陽と月の創造」




「大地と水の分離」「アダムの創造」「エヴァの創造」




「原罪と楽園追放」「ノアの泥酔」「大洪水」




「ノアの燔祭」がそれである。
 九つの創世記物語を取り囲んで八つの三角枠にはマタイによる福音書に則って、キリストの祖先達が描かれ、四つ角の扇型の枠の中には「ユディットとホロフェルネ ス」(ユディット記)、「ダビデとゴリアテ」(サムエル記),「青銅の蛇」(民数記)、「ハマンの懲らしめ」(エステル記)が描かれている。
 天井を仰ぎみていると首が痛くなるのだが、痛さを我慢して暫く見とれていた。
 祭壇側の壁面には「最後の審判」




の大壁画が飾られている。

  これは天井画を完成させてから20年以上も後の1536年に制作を開始し1541年に完成させたものであるが、制作を開始した時ミケランジェロは60才の老齢であった。
殆ど四百人近い人々がうごめくこの壮大な構図の中心は、審判者キリストの姿であり、その周囲を構図全体が回転しているように見える。キリストの隣にいる聖母だけが、苦しみを甘受するポーズで、すべての人を巻き込んで動いている上昇と下降の渦巻き運動から免れているように見える。鑑賞者を圧倒してやまない傑作である。
 署名の間に飾られているラファエロの「聖体の論議」「枢要徳と対神徳」「アテネの学堂」「パルナッソス山」、ヘリオドロスの間のラファエロ作「ペテロの解放」等もルネッサンスの巨匠の作だけに見飽きぬものであった。
 ヴァチカン美術館でこのほかに印象に残っているのはタベストリーのギャラリーに展示されていた




「復活」と題するラファエロの新工房作のタベストリーである。これは中央に右手を上げて立つキリストの左足の爪先と視線が鑑賞者が移動するにつれて向きを変えて追っかけてくる現象であった。タベストリーの糸目の起伏が光線の反射と相まって作り出す物理学的には説明可能な現象なのであろうが、神秘的な神の意志のようなものを感じて慄然としたのを覚えている。



2004年07月27日(火) 【ルネッサンスの美術を鑑賞して廻る・・イタリア��j】

  ミラノ、ベネツィア、ラベンナ
                  2001.11.14〜2001.11.22                      
 ミラノでは最初にスカラ広場へ行った。以前にも来たことがあるので目に馴染みのある光景が広がっている。スカラ座とマリノ宮、エマニュエル・アーケード、市庁舎が広場を囲んで建っていて、広場の中央にはレオナルド・ダビンチ像が建っている。

 オペラ歌手の世界の檜舞台であるスカラ座




はベローナからきたスカラ家がサンタ・マリア・デッラ・スカラ教会を先ず建てその跡地に建てられたものである。1778年に開場し数多くのオペラの名作が上演されたことで知られている。

エマニュエル・アーケード




は建築家ジュゼッピ・マンコーリによって建てられたドーム型の天井を中央に持つアーケードで文化人のサロンにすることが目的であった。 天井中央部の絵画の装飾が素晴らしい。今ではこのアーケードには商人が入って店舗を開いているがカフェも多く昔のサロンの名残をとどめている。

ミラノの大聖堂




は通称ドーモと呼ばれ1386年にシャンガリアッチ領主の命によって建設が開始され、およそ500 年かけて完成されたゴチック様式の教会である。総大理石作りで建物自体目を見張る程の豪華さであるが、とりわけ有名なのはキリストが磔り付けにされた時に使われたという釘が天井に吊るされていることである。釘を管理するためのゴンドラまでが特別に作られて吊るされていた。聖なる釘の日として9月14日には儀式が行われる。ゴチック様式では世界で第三番目の大きさを誇り四万人が収容できるという。面積は111,700m2である。フランスのナボレオン一世は1805年にここで戴冠式を行った。

 ミラノ市の人口は137万人でイタリア第二の大都市であり経済の中心地である。 昼食にエマニュエル・アーケード近くのレストランに入り、貝入りのスバゲッティーを注文して食べたが勘定に時間がかかって集合時間に遅れてしまった。しかも初めてイタリアの通貨を使用したので桁を間違えて56,000リラのところを五万リラ札一枚と一万リラ札6枚で計11万リラ支払ってしまうというチョンボを犯してしまった。時間に追われていたので札の数字を落ちついて確かめなかったのが災いした。このことに気がついたのは、後刻別の店でミネラルウオーターを買おうと思い財布を取り出しその中身が意外に少ないのを不審に思った時であった。会計係がいかにも嬉しそうな顔と手振りで「アリガトウ」を連発していた意味がやっと飲み込めた。チップをはずんでくれたと彼は理解したのである。 

 ヴェネチア




は118 の島を連ねて,その上に建設された市街地で,運河が縦横にはしり160の運河、400 の橋、ゴンドラ等で知られる水の都である。中世にはオリエントとの貿易で栄えジェノバとともに地中海貿易の重要な拠点であった。

 最初にアカデミア美術館を訪問した。この美術館は1500年代にヴェネチアの信仰団体の集会場として建てられたものが美術館として転用され保存されたものである。

 ベネチァの豪商達が贅を凝らして営んだ集会場だけにその建物内部に使用されている建築素材や金を多用した装飾の豪華さには目を見張るばかりである。

 この美術館にはベネチア派の作品が数多く展示されており、その特徴は華麗な色彩と豪華な官能美にあふれていることである。この派の確立者はベリーニ一族である。ベリーニの後ジョルジョーネ、ティティアーノ、バルマ・ベッキョ、ティントレット、ベロネーズらが輩出して15〜16世紀に黄金期を迎えるのである。

 ジョルジョーネ作「火の試練」




 ルネッサンスの三大画家と言われるティティアーノ、ティントレット、ベロネーズの作品をはじめ、ロレンツォ・ロット、ベルナルド・ロッチ、ピェコロ、カルバッチョ等の名作の実物を間近に鑑賞することができ至福の一時を過ごすことができた。

 アカデミア美術館に名残惜しみながらベネチアグラスの工房を訪問した。職人が長い棒の先に付けた高温のガラス素地を吹いて膨らませ、ぐるぐる回転させながら器用な手つきで容器の形に作り上げていく工程はとても面白い光景であった。赤色のベネチアグラスが最も高級品で材料の産出が少ないので海外への輸出はされていないというのは初耳であった。赤色の発色に金が使われているらしい。

 監獄へ通じる橋を「溜め息橋」というが、ガラス工房の入り口から眺めることができた。

 この町には自動車や自転車が一台も走っていないし、その姿すら見かけない光景が珍しいと思った。通路も狭く運河を船で往来するか歩くしか交通手段のない町であり自動車出現以前の町の雰囲気を体験するにはうってつけの町である。

 サン・マルコ広場はさまざまな国からの観光客で混み合っていた。同時多発テロ以降観光客の数が激減したということであるが(筆者が訪問したのはテロ一ケ半後)、それにもかかわらず多くの観光客で賑わっていた。流石に世界一流の観光地である。

 ここで目についたのが広場のそこかしこに高さ50cm位のところに畳一枚程の大きさの板が通路状に張りめぐらされていて、広場には水溜まりが出来ていることであった。満潮時には常時このような状態になり、大潮の時には40〜50cmにも水嵩が上がり広場全体が水浸しになるのである。2日前には最大2mも上がったという。

 近代化の過程でベネチア近郊の工業地帯で地下水を汲み上げ過ぎたため地盤沈下が起こったことと近年の地球温暖化の影響で海水の水面が高くなってきているせいだと考えられている。近い将来ベネチアの市街地は水没してなくなってしまう運命にあるようである。

 サン・マルコ寺院




の内部まで床上浸水に晒されていて足場板が設けられていたのは痛々しい限りであった。広場に溜まった水が侵入してくるのではなくて、寺院内部の床下から敷石の隙間を縫って浸水してくるということだから地盤沈下の激しさが窺われる。

 このあとゴンドラに乗って市内を運河側から観察した。これはいわば町や建物の裏側を観察することであり、台所とおぼしき窓や物置部屋らしい壁面等が続いている。そして一階部分の部屋は使われていないものが多い。壁面の塗装ははげ落ち補修もされないまま放置されている建物が多い。窓に板を打ちつけて建物の過半が空き家になっていると想定されるアパート等も散見された。浸水が進んで住民が逃げ出している様子が窺われる。
 ガイドに聞いた話であるがベネチアの町の住人の三大高所得階級は「あさり貝取 り」「ゴンドラの船頭」「ガラス職人」であるというから現在のベニスの町の特徴をよく語っていて面白いとおもった。
 昼食後長駆バスでラベンナの町へ向かった。

 ラベンナの町は六世紀頃形成されたこじんまりとした町である。ここではビザンチン様式のサン・ビターレ寺院




を見学した。集中式と言われる建築様式に特徴があり、ステンドグラスが窓に使われるようになるまで多用されたという「太陽光を透過するアラバスター」の板が窓にはめ込まれていた。そこから射し込んでくる微かな淡い明かりと暗い教会内部に集まってきて敬虔な祈りを捧げる信徒の群れを想像したとき中世の信仰生活の様子が偲ばれて感慨一入であった。

 この町で神曲を書いたダンテの墓廟




が残されている一角があった。町自体静かな佇まいで旧いものが大切に残されて現代人の生活とよく調和している町であり、三ケ月位住んでみたい町であると思った。この後、夕なずむ道をバスでフレンツェへ向かった。 



2004年07月26日(月) 【新生の意欲漲る発展途上のバルトの国々・・バルト三国�◆�

翌朝8時半にリガのホテルを後にしてリトアニアの首都ビリニュスへ向けて出発した。 国境の街シャリアイの検問所でパスポートのチェックを受けリトアニア領内へ入った。国境を越えて暫く単調なドライブが続き十字架の丘へ到着した。




 ここは小高い丘の上に大小様々な十字架が夥しい数量建てられている。丘だけでは足りなくなって丘の両翼に十字架の群れは増え続けている。その起源は1831年に帝政ロシアの圧政に抗して反乱が起きたとき、ニコライ1世によって弾圧された犠牲者を悼んでこの地に十字架がたてられたのが最初であると云われている。その後ロシア革命政府により1920年にリトアニアは独立を承認されたが、1939年8月に締結された独ソ不可侵条約の秘密議定書によって他のバルト諸国とともに再びソ連に併合されてしまった。これを不当だとしてリトアニアではソ連からの独立運動が広く展開されるようになった。運動の過程で弾圧され犠牲となったリトアニア人の霊を慰めるため再び秘かにこの地に十字架が建てられるようになり、次々と十字架が増えていった。ソ連当局は建てられる十字架を取り払い続けたが後を絶たなかった。独立の機が熟したと見て、90年3月にリトアニア議会は独立宣言を採択したがモスコーはこれを認めなかった。91年1月13日には独立運動にソ連軍が介入し血の日曜事件が発生した。この事件の後、十字架はますます増えていった。83年8月にロシア軍が撤退したあともこの地はリストニア独立運動の聖地として十字架は増え続けているのである。

 そして今では近隣の若い男女が結婚した時には式が終わるとこの地を訪れ十字架を備えて前途の多幸を祈る習慣が定着したのである。我々が訪れた日は結婚式の多い土曜日であったせいか、何組もの新婚カップルが礼装で十字架を供え十字を切っている姿を目撃した。リトアニア人の独立を達成し維持するための執念のようなものを感じ身の引き締まる思いであった。    

 朝ビリニュス市内の観光に出掛け、杉原通り、月の光記念碑、聖ペテロ・パウロ教会、ゲディミノ城、聖アンナ教会、KGB博物館、





トラカイ城を見学した。

杉原通りというのはビリニュスの中心街から西北の住宅街にある通りで、杉原千畝氏の名前を刻んだ小さな記念碑が建っているだけの何の変哲もない通りである。地名の源である杉原千畝氏は、第二次世界大戦のときリトアニアのカウナスの日本領事館で副領事をしていた外交官である。ナチスの迫害を受けてポーランドからリトアニアに逃げ込み、ここから更に米国その他の外国へ逃げようとしたユダヤ人三千人に一週間不眠不休でビザを手書きして発給し、六千人のユダヤ人の命を救った人物としてその秘話が紹介されるに及んで日本でも一躍その名が知られるようになつた人物である。 

月の光記念碑は杉原千畝氏が住んでいたという木造の民家の下の広場に氏の功績を讃えて建てられた石碑である。月の形をした石塊を両手で支えている人間の形をした石像が設置されている。日独伊三国防共協定を締結していた当時の出先機関の日本人外交官としては命を賭ける決意でこの仕事に従事したのであろうと思うと人間を愛する氏のヒューマニティーと勇気に深甚の敬意を表したいものと厳粛な気持ちで記念碑に手を合わせた。氏が住んでいたという民家には今は氏と全然無関係の外国人が住んでいるという。

KGB博物館は旧KGB本部が引き払った後の地下収容所を手は加えずそのまま公開しており、監獄や拷問場に残された備品や壁や床に付着した血痕が生々しく、見ていると重苦しい気持ちにさせられる。バルト三国の人達がロシアの国を毛嫌いしている気持ちがよく理解できるような気がした。

バルト三国の国々は何れもその地理的な条件からデンマーク、スウェ−デンロシア、ドイツ、ソ連等の欧州列強の好餌として狙われ、常にこれら強国の支配下に置かれて屈辱と忍従に耐えてきた歴史を持つ国々であり、特にソ連にはシベリアへ強制移住させられる等、近年ひどく痛めつけられた苦い経験を持つ国ばかりである。

そうした国々の現状を今回瞥見した限りでは、民衆は自由を謳歌し、経済状態もロシアよりは余程改善されており、新生の意気に燃えて新しい国作りに励んでいる活気のようなものが社会全体に漲っているのを感得できた。そして、国家の独立を素直に喜んでいる空気が感じられ共感することが多かった。                   



2004年07月25日(日) 【新生の意欲漲る発展途上のバルトの国々・・バルト三国� �

▼バルト三国の旅 タリン、リガ、ビリニュス
     2000年10月15日〜10月25日

朝サンクトペテルブルグのホテルを出発してバスでエストニアに向かった。白樺と松、杉、ポプラなどの林と牧草地ばかりが続く単調な平地を走行して、約3時間後国境近くのナルヴァにさしかかった。やがてバスが止まって出国検査のためロシアの検査員が乗り込んできて顔と見比べながらパスポートを回収していく。パスポートに検印がおされて返ってくると次はバスに積載してある荷物を下ろして、各々が自分の荷物を携帯してX線装置を通し安全検査を受けるのである。その間バスは別の場所で検査を受けることになる。

 乗客達が重たい荷物をめいめいに持って行列を作り検査機のある所まで来ると、係員は検査機を通さないでも構わないからどんどん通れという。添乗員の説明によれば、几帳面な係員だと一々機械を通すので時間がかかるが、運がよければ通さずに済むこともあるとの事前の説明であった。

 今回は運よくずぼらな係員に当たったらしい。それにしてもこの国境線でのX線検査の意味がどうもよく理解できない。これから入国しようという旅行者に対しては、爆発物や危険有害物の検査の必要性は理解できる。しかし出国しようとする旅行者に対しては検査自体が無意味なのではないか。すくなくとも今までロシア領内では何事もなかったのだし、仮にこの後何事かがあったとしてもそれはロシア領外のことではないか。

 更に不可解なのはフインランドとロシア国境では携行通貨額の申告が必要であったがこの国境ではその申告書の提示すら求めようとしない。これも係員のずぼらのせいなのだろうか。否むしろこの係員のほうが合理的で且つ効率的なのであって、近時の外国旅行者の増加に対処して無駄な手続きを排除するという適切な対応をしているのであると思う。しかし彼も積載してある荷物を下ろす必要はないという所までは踏み込めない。規則または業務処理準則に抵触するからであろう。共産党支配下にあった官僚機構の硬直性や事なかれ主義が施行令や運用規則を見直したり、現状に適合した改定をするだけの智恵と勇気さえも失わせてしまったと見るほうが正しいのではなかろうか。やっとロシア国境をパスしたと思ったら今度はエストニア側で入国審査である。ここではパスポートの検査だけで比較的速やかにパスすることができた。再び、林の続く平野を長駆して黄昏時にエストニアの首都タリンの町へ到着した。

石灰石を積み重ねて建てた古い建物が並ぶ町に入って最初に受けた印象はサンクト・ペテルブルグに比べれば、建物の手入れがよく出来ているし、通りを往来する市電、市バスや自動車は年式も新しいものが多く、ロシアで見たようにオンボロの車両は見当たらないことであった。タクシーがベンツ、アウディボルボ等の高級車でいずれもピカピカによく手入れされていることも驚きであった。

タリンの町




は中世には城壁で囲まれた城郭都市であり、町の西側には十二世紀に作られた円錐状の屋根を持った門塔や城壁の一部が沢山残っていて中世の面影を留めている。

ラエコヤ広場は旧市街の中心にあり、北ヨーロッパで現存する最古のゴチック様式の旧市庁舎や、バルト三国で最古の薬局が周りを取り囲んでいる。この界隈には瀟洒な店やレストランも多く明るく洗練された雰囲気を醸しだしている。

旧市街地から坂を登った小高い丘の上にはトームペア城が15世紀に建てられたままの姿で残っているし、城の後ろに立つ「ノッポのヘルマン」と愛称される48メートルの塔には1991年以来の独立を喜ぶかのようにエストニアの大きな国旗が翻っていた。城の隣にあるトーム教会から続く細い道を辿っていくと、急に見晴らしがよくなり、タリン市街の赤屋根の町並み




が美しく広がっている。この展望所に立って美しい市街地をながめやるとそこには中世の街並がそのまま息づいているのではないかという錯覚に囚われそうになる。

13世紀に出来た聖オラフ教会、太っちょマルガリータの塔、



葱坊主の塔を持つロシア正教のアレキサンドル・ネフスキー教会等の歴史的建造物も保存状態良好に残されていて我々観光客の目を楽しませてくれ、旅情をそそってあまりあるものが多い。

聖ニコライ教会では内部を見学するチャンスに恵まれたが、中に飾られていた「死の踊り」と題する1519年に描かれた絵は骸骨と王侯貴族達が交互に手を繋いでステップを踏んでいる図柄であり強烈な印象を受けた。世俗の栄耀栄華も束の間の儚い夢であるという含意があるのではないかなと解釈し、仏教思想の影響等を考えながら鑑賞した。

明日はラトビアへ移動であるから手持ちの通貨を使いきっておかなければならない。夕食にビールを飲んでなおかつ手元に27クロン程残っている。邦貨換算では僅か160円程の額に過ぎない。ところがここエストニアでは月4000クロン邦貨換算2万4000円で暮らせる物価の安い国である。キヨスクへ行って買えるものを探してみると五百CCの缶ビールが8.5クローネであるから邦貨で51円である。かくして缶ビール3本とチューインガムを買ってエストニアの通貨を使い切ることができた。ビールにしろウォッカにしろアルコール類が安いのは旅をしていて嬉しいことである。

早朝タリン市を出発して林と広大な田園風景を見ながら6時間程のドライブを続け、太陽も傾きかけバスの影法師が牧草地に大きく揺らぐ頃、やっとラトビアの首都リガの街へ到着した。ホテルに荷物を置いてから慌ただしく市内観光に出掛けると時刻は既に4時近い。日没前に展望台へ登ろうと、聖ペテロ教会へ駆けつけた。この教会はリガ市で一番高い123メートルの尖塔を持つゴシック様式の建物で、堂内にエレベーターが設置されていて72メートルの高さにある展望台まで登りリガ市内を一望することができる。長い行列に並んで展望所へ上がって見るとダウガバ川や赤い屋根を持つ旧市街の町並みが折からの夕日に輝いてとても美しかった。
ルンダール城




日没ま近なので慌ただしくドーム大聖堂、ブラック・ヘッド・ハウス、




聖ヤコブ教会、スウェーデン門、リガ城、三人兄弟の家、犬の家、大統領官邸、猫の家と駆けめぐり終えた頃にはすっかり日も落ちて真っ暗になっていた。



2004年07月24日(土) 【高福祉高負担の北欧の国々・・北欧四ケ国�ぁ�

ベルゲンからストックホルムへ夜遅い時間に飛んだ。翌朝ホテルを出てストックホルムの中心広場であるセルゲル広場を通り抜けてヒョートリエット広場で下車し、折から開かれている朝の市場を見学した。魚、果物、野菜、花等生鮮品が並べられて大変賑わっている。この広場のすぐ東側に建っているブルーの建物はコンサートホールでノーベル賞の受賞式が行われる会場としも有名である。

 次にストックホルム中央駅の西側にある市庁舎




へ行って前庭を散策しながら二十世紀の名建築といわれるナショナルロマネスク様式の建造物を前後左右から鑑賞した。市庁舎というよりも宮殿か古城を思わせる佇まいである。市庁舎の東側にはストックホルムの創設者ビルガー・ヤールの仰臥像が金箔を施されて市の守護神の如くに安置されている。前庭の先のメーレラン湖に映える影もまた別の興趣をそそる。折からカヌーが五艘ほど漕ぎ抜けて行った。

大聖堂は1279年に創建されたストックホルム最古の由緒あるプロテスタントの教会で長い間、国王、女王の戴冠式や結婚式が行われてきたところである。

 王宮の反対側の大広場は証券取引所の建物や赤色、黄色のカラフルな建物に囲まれていて、人々の憩いの場となっているが歴史的には1520年に「ストックホルムの血浴」が行われたところである。デンマークのクリスチャン二世が侵攻してきてこれに屈伏したヴァーサ家の貴族や時の高官90人あまりが断頭刑に処せられて広場が血の海になったといわれている。ガイドの説明に身の毛もよだつ思いで当時に思いを馳せると石畳がもの悲しげに見えてくるから不思議である。その当時からあった建物が五階建ての赤色の建物と黄色の建物と黄土色の三棟の建物で当時の姿を今に留めている。赤い建物の壁面に散りばめられている白い模様は処刑された犠牲者の数を表していると伝えられている。

このあとバスでドロットニングホルム宮殿へ赴いた。この宮殿は1662年にカール十世グスタフの王妃ヘドヴィグ・エレオノラが建設を始めて1762年までの間に現在の形に完成したもので、北欧のベルサイユとも言われるバロック様式の豪華な宮殿である。現在も国王の居城として使用されているが、二階と三階の一画は一般に公開されている。花崗岩で作られた柱や木製の扉に色をつけて大理石に模するなど内部の装飾には高度の技術と工夫が凝らされている。そして広大なバロック式庭園と英国式庭園が建物とうまく調和して美しい光景を作りだしている。帰りはドロットニングホルム宮殿近くで遊覧船に乗りメーレラン湖の光景を楽しみながら市庁舎前の船着き場まで帰ってきた。帰路スエーデン最大の電気会社エレクトロルクス社の威容や高級高層住宅群、停泊している多数のヨット群、行く夏を惜しんで水浴する子供達を目撃し、市民達が豊富な水と親しく付き合っている様子を観察できた。

 ガイドに聞いたスェーデンの国情について記しておくと、1814のデンマークとの戦争を最後に185年間戦争をしていない平和な時代が続いた国であること。1913年の老人福祉制度、1918年の女性参政権、8時間労働制等の進歩的な政策は1932年から40年以上続いた社会民主労働党の安定政権のもとで完全雇用、男女平等を目標に更に推進され、退職者年金制度、出産児童手当て制度、教育や医療の無料化制度が充実し高度な福祉国家を実現していること。その代わり直接税30%消費税25%と国民負担も高度化していること。65歳より現役時代の勤労所得の75%支給されるペンショネール制度も確立されて老後の不安がないこと。身体障害者移送サービス制度、乳母車乗車無料制度、旧市街には老齢単身生活者が多いこと等社会的弱者救済制度が充実している国であること。六人に一人の割合で船を持っていること。ひとり当たり建造物専有面積が42平方メートルあって欧州第二位であること等である。

 前日夕刻7時45分にストックホルム港で乗船したバイキングラインのラモーレラ号は三万四千トンの豪華な客船であった。8時15分から始まった船内大食堂でのバイキング料理の夕食はワイン、ビール飲み放題の豪華判であった。料理の品数も肉料理、鳥料理、魚料理と豊富にありどれも美味しそうであったが、魚料理だけを生鮭、海老、蟹中心に選択した。フィリッピン人を妻に持つノルウエーの青年と意気投合し杯を傾けながら交歓しとても愉快な一晩であった。

 朝トゥルクの港へ上陸して、荷物が出てくるのを待っていると、一人のフィンランドの老人がボトルペットを加工したメガホンを口にあてがい、縦長の台形に切った薄い鉄板を胡弓のように膝に支えて、これに弓を擦り哀愁に満ちたメロディーを奏でては歌を口ずさんでいた。やはりフィンランド人にはアジア系の血が流れているなと実感した。 

 トゥルク城は一三世紀にアウラ川の河口に建てられた砦が起源で丸形で素朴な味わいのある城である。トゥルクの街は一八一二年までフィンランドの首都であった。

 続いてロシア正教教会の前の広場の朝市を見学した。ベルゲンで見た魚市よりも数倍規模が大きい。ここはトゥルク市民の胃袋を賄っている市場の観がある。美味しそうなのでこけ桃二個、紫色のすももらしきもの五個と姫林檎二個を買った。秤り売りしてくれるから観光客には楽しい限りだ。最初買ったこけ桃は二個で一マルカであったから、サービスしてくれたのかもしれない。全部で10マルカほどを払った。1マルカは20円だから200円程の買い物をしたことになる。

 ガイドから聞いたフィンランドの国情について記しておくと、
 トゥルクでは信者の98%がルーテル派である。フインランド全体としても信者の過半がルーテル派である。もともと1155年にこの地へカソリックが伝わったが千五百年代にルーテル派の教会に変わった。ここの大聖堂はルーテル派の大本山である。

 フィンランドの面積は33万八千平方キロメートル。人口五百万人。森林面積60%で八万一千の島がある。トウルクの人口は168000人でフィンランドで五番目の都市である。フィンランド語とスェーデン語が公用語になっていて、民族的にはウラル、アルタイ語系に属しアジア系のフン族が祖先である。

 消費税は22%である。失業者には一日118マルカが支給される。フィンランドでは日露戦争で日本が勝ったことを喜んで旅順(ポルツア)という地名に変更したところさえある。そして日本の北方四島の返還交渉に多大の関心を寄せている。

 フィンランドで世界一のものは、森林資源に関係のあるパルプや紙の大型加工機、砕氷船等の特殊造船、羽毛製品がある。

 フィンランドの国土は毎年数ミリずつ隆起している。そして山のない国で湖が世界一多い国である。直径二百メートル、面積五百平方メートル以上の基準で数えると十八万七千八百八十五もの数になる。

 デザイン感覚に優れ北欧デザインの70%がフィンランド製である。またアイスホッケーが強く、長距離走が得意である。パーボヌルミは三回のオリンピックに出場し金メダル九個銀メダル三個を獲得している。また槍投げも得意で昭和27年に開催されたオリンピック競技場の塔は槍投げの選手が出した記録を記念して73メートルの高さに作られているし、ヌルミのブロンズ像が会場の入口に建てられている。

 シベリュウス公園にはパイプの造形とシベリュウスの顔の彫刻が飾られていた。

 大聖堂は




ルーテル派の教会で147年前に建てられたものであるが、ロシア統治時代の時の皇帝アレキサンダ12世がフィンランドを自治領として認めた時、この教会と大学を建ててフィンランドに贈ったものである。

 北欧四ケ国を周遊して気のついたたことを纏めれば、デンマーク、ノルウェー、スェーデン,フィンランドの国旗はいずれも十字架が真ん中にデザインされていて、色だけが違う極めて類似性の高いものであるということである。そしてノルド語と呼ばれる北方ゲルマン人が往古に使用していた言語のバリエーションにすぎない自国語を話す兄弟同志の国でありいずれの国も面積の割りには人口が少なく高福祉を実現している高負担の国々であるということである。



2004年07月23日(金) 【高福祉高負担の北欧の国々・・北欧四ケ国��】

 ホテルから目と鼻の先の船着場から朝早く観光船に乗り込んでヘルシルト村まで約1時間のフィヨルドクルージングを楽しんだ。スタート時は山間の朝なので日の光も乏しく何となく薄暗い感じの光景であったが船が進む程に太陽も山の上へ顔を出し、水面を碧翠色に変えていく。切り立った崖の岩肌を洗うように流れ落ちる滝も幾条か目にはいる。そうこうしているうちに切り立った断崖絶壁の僅かな空間にへばりつくようにして民家が一戸建っているのが目に入った。ここで農業を営んでいるのだという。よくもこんな厳しい環境条件のもとで生活できるものだと人間の営為の素晴らしさを知る思いである。次々に変わっていく景色に見とれているうちにあっという間に一時間のクルージングは終わってしまった。ヘルシルト村から再びバスに乗りブリクスダール村までやってきた。氷河を見学するためである。

 ブリクスダールからはフィヨルドポニ-




の曳く馬車に乗って、登り道を約15分間走行すると、氷の巨大な固まりが山になっている所へ到着した。ブリクスダール氷河の河口である。河口へ至るまでの道の周囲には樹木や草も青々と繁っている。そして氷河から溶けて流れる川が近くには白い飛沫を上げながら流れている。段差のある箇所ではこれが滝となってその雄姿を誇らしげに顕示して水しぶきを雨の如くふりまいている。

 氷河の河口には山頂から流れてきた氷塊が5〜6メートルもの高さでうすら青い色を帯びて白色の天然の造形美




を見せながら堆積している。一見テープがカールしたかの如き断面を見せているところもある。我々が見学したブリクスダールの氷河はこの時期には活動しておらず、静止した状態で氷塊となっている河口を見学することができた。ブリクスダール氷河は海抜436メートルのところにある長さ百キロメートル厚さ百メートルにも及ぶヨステルダール渓谷の氷河から流れてきた支流である。

 再び馬車に十五分揺られて下山しバスに乗り換えて明日のソグネス・フィヨルドの見学に備えてパレストランドの宿へ入った。

 朝早くパレストランドの波止場からフェリーボートに乗りソグネスフィヨルドをヘラまでクルージングした。ソグネスフィヨルド




は世界一長く、深いフィヨルドである。長さは二百四キロメートル、深さは最深部で1308メートルにも及ぶ。昨日のゲイランゲルのフィヨルドとは趣を異にしてフィヨルドの規模が大きいため幅が広くて湾を航行しているのと変わらない。周囲の山々が切り立った険しい崖になっているところが湾とは違うところであろうか。対岸には集落や農場も見えている。羊を斜面で飼っているのも目撃した。そのうち次第に川幅が狭くなってくると両岸の山が迫ってきだしてフイョルドらしい雰囲気がでてくる。航行して行く前方に険しい山々が重なりだしたと見とれているうちに目的地のヘラへ着いてしまった。

 ヘラでバスに乗り換えてゾグンダール、カウパンゲン、グッドバンゲン、スタルハイムという町村を経由してフロムの町に着いた。途中スタルハイムではヘヤピンカーブの続くつづら折れの急勾配の坂道をスタルハイムホテルまでドライブして眼下に見下ろせる景色





の移り変わりゆく様を堪能した。このスタルハイムホテルには橋本元総理も宿泊したことがあるらしく、夫妻でホテルを背景に撮影した記念写真が展示されていた。ホテルは鉄錆色の建物であるが周囲の景色によく馴染んでいる。時の橋本総理がここへ滞在したときにはここへ通じる道路の交通規制をしたため周辺道路が大渋滞をきたし、日本とはそんなにテロリストの多い怖い国なのかと地元民の顰蹙を買ったという話が伝えられている。ホテルのテラスから俯瞰した景色は絶景の一語に尽きる。

 スタルハイムホテルから別のルートで下って行くと二つトンネルがある。二つ目のトンネルを通り抜けると目の前でフィヨルドが終わって二つの山並みの間にフィヨルドの畔に開けている小さな町がいきなり目の中に飛び込んできた。ここがフロムの町である。フロムの町はフロム鉄道を利用してフィヨルド観光に出掛ける場合、オスロからでもベルゲンからでも必ず経由する交通の要衝地点である。従って山間の町としては一寸した賑わいを見せている。土産物屋、レストラン、スーパーマーケット等もあるが過密都市に生活している日本人の目からすればうら寂しい田舎町だとしか写らない。

 この町で二時間近く時間待ちをしてからミュルダール経由オスロ行きの電車に乗った。車両の横幅が多少広いのか座席は横に五人腰掛けられるようになっている。列車には三つの大きな団体客が競合したが、全て日本人であった。

 車窓には白樺、から松、樅などの木立が続いていて、時々岩肌を滑るように流れ落ちる滝を散見できる。また線路に迫っている岩山には岩石の崩落の跡が認められその下には明らかに崩落したと思われる岩石が堆積している。屋根に草を生やした平屋の木造建築もちらほらと見え隠れする。トンネルを幾つか通り抜けると途中K・ジョスフォッセンの滝の見える所では停車して乗客に写真撮影の時間を与えてくれる。駅ではないがプラットフォームが設けられていて下車撮影が可能なのである。乗り継ぎ駅のミュールダールでは再び時間待ちをしてボス行きの電車に乗った。ここでは外国からの観光客とおぼしき老婦人二人連れと向かい合わせの座席に乗り合わせた。英語でどこから来たのかと聞いてみるとドイツからだという。フイヨルド見学をしての帰りだが昼食がまだだとも言う。座席に座るとやにわにスーパーマーケットで買ってきたらしいパン四個と袋入りのチーズと小さなパックになったバターを取り出した。ナイフでパンを縦に割り、中へバターとチーズを挿入して
むしゃむしゃと食べだした。丁度通りかかった売り子からコーヒーを紙コップに買って美味そうに飲んだ。ドイツ人の国民性は質実剛健であるとよく言われるが、目の前にその見本を見る思いであった。

ボスの町で待ち構えていたバスに乗り今夜の宿泊地ベルゲンまでドライブした。

 ベルゲン近くまできて山間の道を通り抜けたと思ったらいきなり目の前にベルゲン市内の町並が飛び込んできてとても印象的であった。山の斜面に沢山白壁に赤屋根の家が立ち並び深く入り込んだ入江がそこにはあった。

 ベルゲン




はノルウエー第二の都市で人口は約227000人。1070年にオラフ・キュレによって開かれた盆地状の歴史の古い港町である。12世紀から13世紀まではノルウエーの首都であったし、北海に面した港としては唯一の不凍港である。ベルゲンでは地形のせいか雪が降ってもすぐ溶けるという。入江は町の奥深くまで入り込んでおり船便のよい美しい水の町を形成している。

 ベルゲンは中世にロンドン、ブリュージュ、ノブゴロドと並んでハンザ同盟の四大中核都市の一つとして,ドイツのハンブルグやリューベックからやってきた商人が北海産のニシンの集荷流通を独占的に牛耳ってきた商都である。当時欧州各地の漁港から集荷した乾燥ニシンを貯蔵しておく




木造の倉庫群が今は店舗に改装され、往時そのままの姿で何棟も保存されていて中世の町並みを偲ばせてくれる。このブリッゲンと呼ばれる地区はユネスコの世界文化遺産に指定されていて、近くにはハンザ同盟の建物が博物館として残されている。この中には当時ドイツから渡ってきた徒弟達が寝起きした粗末なベッドや道具類等が保存されていて興味つきないものがある。

 ベルゲン市内にはノルウエーの生んだ天才画家ムンクの絵画を多数展示しているラムスマイヤーコレクションやベルゲン美術館の他に工芸博物館、海洋博物館、歴史博物館、自然史博物館、ブリッゲン博物館、ベルゲン劇場博物館、国立劇場、コンサートホール等の施設も整っており文化の香りが漂う町である。周囲の山の傾斜面には高級住宅が軒を連ねていて美しい町を形成するのに一役買っている。市の郊外には不世出の天才音楽家グリーグが愛妻と22年間生活したビクトリヤ調の白い住居も元の形で残されており、愛用のピアノや調度品が展示されている。目と鼻の先にはグリーグが自らも演奏した二百人収容できる愛用のコンサートホールがある。このコンサートホールの中からはベルゲンに入りこんでいるフィヨルドの海を展望することが出来、現在も毎日のように利用されている。このコンサートホールの屋根には例の如く草が山のように生い茂っているのが物珍しい。
 



2004年07月21日(水) 【高福祉高負担の北欧の国々・・北欧四ケ国�◆�

 夕刻コペンハーゲンの観光を終えてオスロへ飛び、翌朝市内中心部から北西に位置するフログネル公園




を訪問した。正門とは反対の高台の方から入っていったので先ず最初に目に飛び込んできたのは台座の中央に聳え建つモノリッテンと呼ばれる塔である。これは高さ17メートルで総重量260トンの花崗岩の塔に老若男女121体もの人間像が刻まれている。この塔を囲んで夥しい数の人間裸像が花崗岩に刻まれた彫刻作品として配列されている。それらは男女が抱き合うものや青年がただ一人うずくまるもの或いは親子が睦みあうもの、深刻な表情で考え込んでいるもの等様々な姿態で193体もの彫刻がある。

 この石の彫刻群から下段へ下がっていくと今度は噴水があり、噴水の受け鉢を支えた人間像のブロンズ彫刻が幾つか立っている。噴水を巡るブロンズの柵にはこれまた人間の一生を表した彫刻が施されていて、嬰児から骸骨まで様々な姿が表現されている。そして更に下段へ下りていくと人造湖にかかる橋の欄干にはブロンズの人間像がこれまたさまざまの姿をして配置されている。これらの刻まれた人間の像は総計で650体以上になる。

 奥行き850メートルほどの公園には花壇も備えられており折しも赤色とピンク色の花が咲き乱れていた。

 正面入口の両側には菩提樹の並木が鬱蒼として立ち並びその下にこの公園の彫刻の作者グスタブ・ビーゲランの像が誇らしげに佇立している。ビーゲランはオスロ市と契約してアトリエと作品の発表場所と生活を保証されオスロ市だけのために生涯彫刻を続けたという。ここは世界にも例のない単独作者の作品だけが展示されている公園である。そしてビーゲランは作品の解説を一切拒否したというから、この作品群を前にして想像の羽を伸ばし独自の解釈を試みるのはとても楽しい至福の一時であった。しかも九月上旬だというのに日本の晩秋の小春日和を思わせる心地よい爽やかな天気であった。

 ビーゲラン公園の爽やかな思い出を胸にしまってゲイランゲルのフイヨルドを目指して長駆五百キロメートルのバスドライブが始まった。運転手はベンツのバスを三台所有する個人会社の経営者ビダルさんで好感のもてる青年実業家である。1994年のリラハンメラの冬季オリンピック大会では日本のオリンピック選手団の送迎運転手を勤めたと原田選手等の名前を誇らしげに披露した。道中リラハンメラでオリンピックの行われたジャンプ台まで足を伸ばし目の前にジャンプ台を見学した。ジャンプ台の横にはリフトが設置されており、夏場はこのジャンプ台を見学する観光客に開放されていて多くの観光客で賑わっていた。観光客達は束の間の夏に名残を惜しむかのように肌を思い切り太陽に曝してそれぞれの日曜日を楽しんでいた。また車椅子に乗った身体の不自由な人達を戸外に連れだして日光浴やピクニックを共に楽しんでいるボランティアの人々も相当数目撃した。福祉国家と言われるだけあって、健常者は社会的な弱者に奉仕するのが当然であるというコンセンサスが確立されている社会だなあと感じた。

 聖火台も近くにあったが、周囲にはコンテナハウスが三個ばかり置かれているだけで意外にも簡素な設備であった。リラハンメルの町は、人口二万五千人の小さな静かな町である。豊かな森林資源に関係のある仕事に携わる人達が多く住んでいるという。オリンピックの時には地元特産のジャガイモで選手団食堂で大量に使われる食器を作り、使用後は土に埋めて資源のリサイクルを図る大会運営で大きな話題を提供した。またこの町はイプセンの作品ヒールギュントの舞台にもなったところである。近隣にはオリンピックのシンボルマークともなった妖精トロールの故郷トロールパークもあり、大きなトロール像が建てられている。

 冬季オリンピック滑降競技の行われたヴィンストラという町で昼食をとりロムという町では丸太を組み立てて作られたスターブ教会




を見学した。この建物はキリスト教がこの地に伝わる以前からあった建築様式で鉄釘が一切使われていない。キリスト教が土着のこの建築様式をそのまま教会の建物に取り入れた例としては世界でもノルーウエーのこの地方だけにしか見られない珍しいものだといわれている。

 このロムの町に至るまでの道中で見聞した風物で気のついたことの一つに建物の色が総じて赤黒い色をしており圧倒的に木造建設が多いことがある。しかも壁には必ずと言っていいほど横板が使われている。縦板の使われている建物がたまに見られたがそれは大抵倉庫か家畜小屋であった。聞いてみると赤黒い色はこの地方の土に含まれる成分で自然とよく調和するので伝統的に昔から好んで壁の色として使われているということである。

 バスが快適な走行を続け針葉樹の森林や広大な傾斜地に広がる田野の風景を楽しんでいると屋根に草を生やした家があちこちに見られるようになる。これは屋根に草を生やすと根が張って屋根が丈夫になるからわざとそうしているこの地方独特の方法なのである。

 そして各所に見られる川の色は概ね碧青色だが、氷河から流れ込んでくる水は川中の岩石に当たって空気が混じり、白く泡立っていることが多く、白い中にもどことなく緑がかった色をしている。流れがゆるやかになり川幅も広まった木立のある広場には数多くのキヤンピンキグカーが駐車してテントが張られているしバンガローも立ち並んでいる。持ち出した椅子とテーブルに腰掛けてお茶やコーヒーを飲みながら行く夏を名残惜しんでいる人達が道路沿いの川辺のそちこちにしばしば見受けられた。

 目的地のゲイランゲル近くの標高1495メートルのダスニッパ展望台




に差しかかると道路は上り坂になり次第に周囲の植生にも変化が現れる。白樺の葉は黄色く色づき始めており、から松や樅の木もその樹木が次第に細くなり高さも低くなってくる。そして森林限界線といわれる海抜八百メートルを過ぎると立木は一切見られなくなりごつごつした岩肌が剥き出しになって僅かに丈の短い草がへばりつくように生えているだけとなり、消え残った雪がそちこちに散見されるようになる。道路の舗装は既になくなっており砂利だけが撒かれたヘヤピンカーブの連続となる。勾配も次第にきつくなって乗客達の肝を冷しながら高度はどんどん高くなっていく。頂上に辿りつくと期せずして乗客から安着を確認するかのように運転手を労う拍手が一斉に上がった。ここでは周囲の山々や山の頂に残る氷河を一望できる。遙かな下方の谷間にはきらきら光っている湖面も見えている。岩肌を縫って飛沫を上げながら流れ落ちる滝も幾条か目に入る。周囲に見渡せる山頂の北側には万年雪が残っているのに南側では見られない。太陽エネルギーの強大さも山の向きによってかくも大きく影響を受けるものかと感慨一入である。雨でも降った日にはここへ至る車道は閉鎖されるということだから快晴に恵まれた我々はこのダスニッパ展望台に立ち眼下の景観を堪能できる幸運を得たのである。この幸運を同行者同志お互いに喜び合い、造化の神に感謝した。

ダスニッパ展望台を下りてから間もなく宿泊地のゲイランゲル




に到着した。海岸線から切り立った断崖をくねくねとカーブしながら内陸部まで奥深く入りこんできたゲイランゲル・フィヨルドの最深部にあたるところがゲイランゲル村である。ダスニッパ展望台からは遙か下方の谷間に湖のように光って見えていた所である。山間の秘境に鏡のような水面を見せて横たわる湖はこれが遠路遙々大海から入りこんできたものだとはとても考え難い。

 その夜泊まった水際のホテルの部屋にはテレビの受像器が置かれていなかった。その理由は秘境のここまでは電波も届かないということなのか、或いはこんな絶景のただなかにあってテレビ等見ているときではないという宿主の思いやりなのかはよく判らない。



2004年07月20日(火) 【高福祉高負担の北欧の国々・・北欧四ケ国� �

▼北欧四ケ国の旅 コペンハーゲン、エルシノア、オスロ、リラハンメラ、ロ ム、ダスニッパ、ゲイランゲル、ブリクスダール、フロム、ベルゲン、ストックホルム、トゥルク、ヘルシンキ
           1999年9月3日〜9月12日

 最初に訪れたのは北東部のカステレットと呼ばれる星の形をした地域で、ここはコペンハーゲンの港を防衛する目的で1662年に建設された砦の跡である。この地にあって有名なのがアンデルセンの童話にでてくる人魚姫




の像である。過去に二度ほど首が盗まれるという事件があった。見た目には変哲もない小さなブロンズ像に過ぎないが話題性の故か観光客なら必ず訪れて記念撮影をする場所であり、多くの人々で賑わっていた。

 この一画にあるゲフォイオンの泉はコペンハーゲンの立地しているシェラン島の由来を物語るものとして有名であるが生憎、水を節約するため噴水はでていなかった。四頭の雄牛を制御する女神の像は美と豊穣のシンボルである。またニユージーランドの国名はこの島の名前に由来している。  

 次に訪れたのはアメリエンボー宮殿




で現在の国王マルガレーテ女王の住まいである。ここでは衛兵交代の儀式を見ることができた。国王の宮殿だというのに非常に質素で警備もものものしくない。国民に慕われている王室を思わせる。男女同権が徹底している国なので長男にあたる実弟が健在なのにも係わらず、現在の王位継承権の第一順位者は長女の王女であるという。

 ニユーハウン




という地域は長さ300メートル程の川の両側にさまざまな建物が建っており、橋から見て左手には一際目立つ赤色や黄色の五階建ての建物が建っている。この赤色の建物二階の一室にアンデルセンが住んでいた。右手の川辺にはレストランが立ち並びそぞろ歩きする多くの観光客や市民で 賑わっている。川には帆柱を建てた漁船や運搬船が何艘ももやられていて、詩情をそそられ絵になる風景である。

 クリスチャンボー城は1165年にアブサロン大主教によって築かれた城でコペンハーゲン発祥の地となった所であるが、当時のものは地下の遺跡として残されているにすぎずその後に建てられた建物が現在は国会議事堂として使われている。隣接して旧証券取引所や王立図書館、王立武器博物館等の建物が建っていて落ちついて風格のある佇まいを示している。

 ガイドから聞いたり瞥見したデンマークの国情を記してみると、先ず気がつくのは山がない国である。国土の65%が農耕地であり、国民一人当たりの耕作地は43ヘクタールにも及ぶ農業国である。また養豚が盛んな酪農国でもある。往年燃料に木材がしきりに使われ森林が減少し、森林面積が現在11%にまで減少したのでこれを20%にまで回復するため国では植林に力を入れているが森林業は成果の収穫に時間がかかるので、計画が思うように進展せず政府としても頭の痛いところだという。デンマークは宗教的にはプロテスタントの信者が過半を占めており言語的にはゲルマン語系でドイツ語に近い。

 食べ物はサンドイッチの上側がないオープンサンドが好んで食される。
 伝統的に古い家具を大切に使う国民性があり、祖父母、曾祖父母が使っていたという木製の家具を誇らしげに使用している家族が多い。また自転車を愛用する人が多く市中にも沢山の自転車が走行している。 
 市中を走行する車は昼間でも照明をつけており、事故防止のため法律でそのように定められているからだという。実験結果でも照明をつけて走行したほうが事故の発生率が減少することが証明されているのである。

 消費税は25%で世界最高税率である。国民の平均年収は税込みで430万円であるというから豊かな国にしては意外に少ないという感じである。この国では常に中道左派が政権をとり福祉に重点を置いた政策を推進してきたから、貧富の格差の少ない高福祉高負担の福祉国家を実現してきた。それにしても税金は50%に及び国民は重税感を持っているが、九年間の義務教育制度や老齢年金制度、医療保証制度が充実しているので将来に対する不安感は抱いていないという。因みに65歳から手取りで8万〜9万円の国民年金が受給でき家賃の補助制度があるので贅沢しなければ健康で文化的な生活は保証されているということである。

 フレデリックスボー城




はコペンハーゲンの北西に位置した人口35000人のヒレロズの街にあり、コペンハーゲン中央駅から電車で40分ほどの距離である。緑の森と静謐な湖に囲まれ、赤煉瓦で出来たルネッサンス様式のフレデリックスボー城はとても美しい。16世紀の中頃フレデリック二世王が地方貴族の女性から入手した城であるが、その子の建築王とも言われるクリスチャン四世王が、1560年から60年の歳月をかけて、居城に作りあげた。その後1859年に大火にあい城の大部分が消失してしまった。残念なことに立憲君主制のもとで王室には復旧の財力がなかったのでビール王と言われるカールスベア社の社長ヤコブセンが再建を援助した。このとき国立歴史博物館として蘇ったのである。収蔵物はデンマークの長い歴史を物語る装飾品、絵画、宝物等の貴重な品物である。

 このあと更に北東のエルシノアにあるクロンボー城を訪問した。この城の起源は1429年ににエリーク七世王が海峡を通る船から通行税を徴収するために築城したことに始まる。1574年にフレデリック二世王が再建に着手し、1585年に完成した。1629年の大火で焼け落ちたが直ちにクリスチャン四世により修復され、その後何度かの戦争を経て1924年現在の形に修復された。ほぼ四角型の城である。北棟は王の住居で、西棟は王妃の住居として使われデンマークルネッサンス様式が見られる。城の内部には貴重な絵画やゴブラン折り等の贅を尽くした調度品が保存されている。またこの城はシェークスピアのハムレットの舞台としても有名であり、王子アームレットにHを付加してハムレットとしたのである。

 バルト海から外海にでるためにはこのエルシノアの海峡を通らざるを得ないので通行税が1857年に廃止されるまでは政治経済的に重要な街として栄えた。20世紀半ばまでは鉄工業、造船業の街として繁栄した。ロシアのバルチック艦隊もここを通って日本海へやってきたのである。対岸はスエーデン領であり手にとるように近くに見えている。

 この街の港にはフェリーボート発着場があり、ECに加入していない準禁酒国のノルウエー人達が、安い酒やビールを求めて国境を越えて買いに訪れるということであり、ビールや酒の入ったダンボール箱を持っている人があればノルーウエー人と見てまず間違いがないということである。こんなところにもEC加盟の有無に関して発生する社会現象が現れているのかなと思った。
 



2004年07月19日(月) 【人類の歴史に汚点残したナチスの蛮行・・ポーランド�◆�

 ニューヨークの同時多発テロから一ケ月程経った10月12日、オフイシェンチムへ到着した。先ず目に入るのはポブラ並木のある構内に立ち並んでいる重厚な感じのする煉瓦造りの建物群である。何も予備知識なしに眺めれば軍隊の兵舎が立ち並んでいると思うかもしれない。しかし建物群と敷地を取り巻いて巡らされた高圧電線網を見ると異様な感じがあり、やはり収容所だなと了解するであろうか。

 入り口には高圧電線網が張りめぐらされた扉の上に「ARBEIT MACHT FREI」というドイツ語の文字盤が並んでいる。働けば自由になれるという意味である。ここが悪名高いアウシュビッツ強制収容所なのだ。

 建物の中を順次見学して回ったが、刈り取った頭髪が夥しい程の量展示されている部屋、様々な大きさと種類の靴が山をなして集積されている部屋、革製の大きなトランクには白いペンキで住所氏名が記入されて沢山集積され展示されている部屋もある。移住させるからと騙されて自分の財産を判別しやすいようにとの指示のもとに記入したと思われる白色のペンキの文字が哀れさをそそる。眼鏡だけ集めて展示してある部屋もある。その量は夥しいとしか言いようのない程である。これらの遺品を前にするとその背後にある意味が自ずから察知できるレイアウトになっていて身の毛がよだつ思いで眺めた。

 毒ガスとして使われたチクロンBという薬品の入っていた空き缶の山や、




人間の頭髪を混ぜて織られた織物も展示されている。

 寝室には蚕棚式の狭いベッドが設けられていて、干し草の屑が敷かれているだけで家畜の部屋よりも条件は悪いとさえ思える。

 共同便所の建物の中には幅1m程のコンクリート製の細長い箱が設置され




ており、その上には直径25cm位の丸い穴が交互に配置されていた。穴と穴との隔たりは殆ど設けられていない。監視付きでこんな場所で大勢の囚人達が並んで排便している光景を想像するだけでも吐き気を催してきそうな光景であった。

 天井から毒ガスを注入されたというガス室も残されているし、死体処理のために設けられた焼却炉も展示されていて人間の魔性もよくぞここまで至れるものだとの思いで一杯であった。

 建物の外には処刑のために首を締めて吊るす鉄製の架台




や銃殺するために設けられたコンクリート製の壁も残されていてその前には見学者の備えた供花が沢山並んでいた。

 この収容所の所長夫人は入れ墨のある囚人の革でランプの傘を作らせてコレクションとすることを趣味としていたという事実もあったし、その夫に至っては死体焼却炉の側に風呂を設置して死体が焼けていくのを眺めながら入浴することを楽しみにしていたとも伝えられている。ここまで行くと人間の心は完全に消滅して悪魔そのものである。

 収容所の側には鉄道の引き込み線が設けられていて、各地から移住させるからと騙されて列車で連れてこられたユダヤ人やジプシーはここで全員降ろされた。シャワーで汗を流すようにと言われて裸になったところをそのままガス室へ送られて毒殺されたという。そしてこれらの死体を処理するための労働力として、顔色や体格だけで健康状態を判定され元気そうな者だけが残されて収容所へ収容されたのである。

 殺された人達の中には財産を没収されることを警戒して宝石や貴金属類を飲み込んだ者も多数あったらしいが、ナチスは死体を割いてこれら隠された財宝を回収したと言われており、腹を割くためのコンクリート製の処理台も設置されていたという。

 アウスシュビッツの収容所から車で5分程走った場所にビルケナウの収容所がある。




 40ヘクタールもある広大な敷地が高圧電線で囲まれており構内には木造平屋建ての収容所が何棟か当時の姿のままで残されている。そしてこ
の収容所構内を監視するための見張り塔が一定の間隔で立ち並んでいる。この収容所では全体の配置を見張り塔の上から外観しただけであったが、ポーランド国内に50箇所近くあった強制収容所の中ではここが最大規模であったという。

 ニュールンベルグ裁判のときヘス元所長は収容所で約二百五十万人が殺害されたと証言した。犠牲者はポーランド系をはじめとする各国のユダヤ人、反ナチ活動家、共産主義者、捕虜、ジプシー等世界28カ国四百万人にのぼるともいわれている。

 アウシュビッツとビルケナウの強制収容所は人間が屑のように扱われ、その死体が資源として利用されたことを証明する場所である。

 これらの収容所はゲルマン民族の優秀性を誇り民族浄化政策を掲げるナチスによって人間性の尊厳に対するおぞましい破壊行為が密かに行われ人類史に汚点を残した場所であった。しかし、同時に人間の尊厳を守り、お互いに助け合う場でもあった。他人の身代わりとなって自分の命を犠牲にしたポーランドのコルベ神父はその最たる聖人であった。

 アウスシュビッツとビルケナウの強制収容所を見学した後の衝撃はあまりにも大きく、ユダヤ問題について多少詳しく調べてみた。

 ユダヤ人は起源前15世紀頃メソポタミア地方からパレスチナに移住したヘブライ人の一部族である。セム族に属し狭義にはイスラエル王国の分裂後南に建国したユダ王国に属した民族である。

 ユダ王国はヘロデ大王の死後徐々に独立を失い44年には全領域がローマ総督の直轄下に置かれた。これと前後して祖国の独立を求めるゼロット運動が活発化して総督の失政はユダヤ人を反抗に追いやった。

暴君として悪名の残るネロ皇帝の治世下で遂に反乱となり、一時はユダヤ全域を掌握したが、将軍ヴェスパシアヌスと戦って敗れ、エルサレムは70年に陥落し反乱は失敗に終わった。この時の死者110万人、奴隷として売却さ れた者9万7000人という(第一次ユダヤ戦争)。

 ハドリニアヌス帝の治世下で132年バル・コクバの指導のもとに再び 反乱が起こったが失敗に終わった。一時逃れていたダキア地方からも追い払われて流浪化(ディアスポラ)が決定的となった。135年のことである。

 この時の死亡者は50万人に及んだ(第二次ユダヤ戦争)。

 分散移住し漂泊し、キリスト教を否認してユダヤ教に留まったため特殊な民族とみられ迫害を受けることが多かった。キリスト教全盛の中世ヨーロッパにあっては異教徒であるため活動分野が限定され、商業、金融業に従事せざるを得ず、巨富を築いたことがまた反感を呼んだ。近代に入ってからも経済、学術、芸術等に才能を示す者が多く、各民族の間に混じって活動した。
結集力が強く、そのため排他的,独善的であると見做されることが多い。一八九七年にヘルツルがシオニスト団を結成し、パレスティナに安住の地を建国しようという運動が活発になった。しかしこの運動もその方法を巡って数派に分裂して抗争し、パレスチナ在住のアラブ人との紛争もあり、運動は容易に進まなかった。

 イギリスは東方政策の立場からこれに関心を持っていたが、第一次世界大戦を遂行する必要上、1917年11月にパルフォア宣言(イギリス外相バルフォアがパレスチナにユダヤ人の民族的母国の建設を認めることをシオニストに約束し宣言)を発しこの運動を支持すると同時にアラブ人支持も約し(フサイン・マクマオン条約)現在の紛争の種を作った。

 1920年のサン・レモ会議でパレスティナはイギリスの委任統治領となったが、相反する二つの公約を巡ってアラブ民族とユダヤ人の大紛争がしばしば起こるようになった。そこで1937年イギリスはパレスティナ分割案を発表したが、双方の反対で実現しなかった。

 第二次世界大戦後、イギリスは解決を国連に求め、国連総会でイギリスの委任統治廃止、パレスティナのアラブ、ユダヤ両国への分割が決議された。
この決定により、1948年5月14日イギリスの委任統治期限の満了とともにイスラエル共和国が誕生した。一方のアラブ諸国は国連の決議を不服としてこれを受け入れなかった。

バルフォア宣言は中東イギリス軍の対トルコ作戦基地パレスティナ守備のためユダヤ人住民の協力を得る必要から発したものであるが、他方でイギリス政府はフサインマクマオン条約によりオスマン帝国内のアラブ民族の独立を認めていたためこの二つの条約は衝突してアラブ民族とユダヤ民族のパレスティナ獲得紛争を引き起こす原因となったのである。大国のエゴイズムが残した負の遺産である。

 9月11日に発生した前代未聞のアメリカ国内での同時多発テロの根も煎じ詰めればこのパレスチナ問題に行き当たる。

 同時多発テロが契機となってアフガニスタンの貧困と難民問題に漸く世界の耳目が集まり始め真剣に考えようという機運が出始めているのが今回の事件がもたらした皮肉な効果である。人道という名のもとに爆弾の投下と同時に食料品や医薬品の投下される図は21世紀のブラックユーモア以外のなにものでもない。



2004年07月18日(日) 【天才を輩出した文化の香り漂う国・・ポーランド� �

▼ポーランドの旅 ワルシャワ、ジュラゾヴァ・ヴォラ、チェンストホーヴ
ァー、ヴィエリチカ、クラクフ、オフィシエンチム
               2001年10月12日〜10月20

 ワルシャワ市内の中心地へ入ってすぐ目に入るのは文化科学宮殿である。
これはスターリン様式といわれ現地の人達にはすこぶる評判が悪い。

 文化科学宮殿にほど近いメルキュールホテルを朝9時に出発してワジエンキ公園へ行った。この公園は別名浴場公園とも呼ばれている。

 公園の入り口に大きな銅像が立っていた。ポーランド建国の父といわれるビウスーツキである。




ピウスーツキはリトアニア貴族の出身で医学生時代から独立運動に参加しロシア皇帝アレキサンドル2世の暗殺計画に関与した嫌疑でシベリアに流刑された。帰国後の1892年にポーランド社会党に入党し、党機関紙の編集中に再度流刑されたが脱出した。1904年には来日して独立運動の援助を要請した。当時日本は日露戦争を戦っていた。

 彼は第一次世界大戦ではオーストラリア軍所属のポーランド軍団を指揮してロシアと対戦した。1817年10月のロシア革命により同年11月ソビエット政府はポーランドの独立と主権を認めた。第一次大戦でオーストリアとドイツが敗れたため1918年11月ポーランドは共和国として蘇った。このとき彼は国家元首に選出され司令官も兼任し1920年の対ソ連戦では大いに活躍した。彼は右派との対立から一時公職を離れたが1926年クーデターに成功した。その直後の選挙で大統領に選出されたが象徴的な地位の大統領への就任を辞退して実権を掌握した。彼が1932年に死去すると政局は混迷の一途をたどり1939年のナチスの侵略を受けることとなった。彼が国家元首の時日本の軍人8人が招聘されている。また第一次大戦後、日本に預けられたドイツ、オーストリアの捕虜の内でボーランド出身の者達との交流もあった。いろんな意味でピウスーツキは日本に関係の深い人物であった。

 公園に入っていくと秋色を帯びた林をバックにして広い池があり池を囲むようにして緑の芝生か植えられている。その芝生の一角に銅像があり人々が群れて写真等を撮っている。ショパンの銅像である。




 銅像は柳の木の根元に腰掛けて憂いを含んだ眼差しを下方に投げかけている若いショパンの像である。頭上には柳の枝葉が慰めるように垂れ下がっていた。

 公園の中を散策すると豊かに繁った樹木は黄葉しており地上には金色の落ち葉が敷物を広げたように重なっていて静かな時間が長閑に流れている。




落ち葉の上には孔雀が二羽ゆったりと歩いていた。その傍らには栗鼠がせわしなく餌を漁って走り回っていた。とても印象に残る光景であった。

 このような樹下道を散策しながら「白い家」の前を通り暫く行くと「水上宮」に至る。公園内を流れる川の上に営まれた宮殿である。これらの建物はポーランド最後の王であるスタニスフ・アウグストポーニャ・トーフスキーが18世紀後期に建てたネオ・クラシック様式の建造物である。水に映えてとても美しい。

 公園の出口にはヤン3世ソビエフスキーの騎乗の像がある。




馬はトルコ兵士を脚で踏みつけている。これは1683年にトルコ軍がウイーンを包囲したときヤン3世ソビエスキーがこれを撃破した姿を表現している。ポーランドの英雄の一人である。

 公園を後にして王宮広場へ行って旧王宮と周囲の美しい町並みを見学した。




旧王宮は現在は博物館になっている。第二次世界大戦でワルシャワ市内はその85バーセントが破壊されたが、ワルシャワ市民は根気よく瓦礫を片づけて元の姿に復元したのである。

日本であれば区画整理を行い機能本位の姿に街は変貌するのであろうが、彼らはこの街が栄えた時代の古き良きものを大切にする心を持っていたのである。これはドイツのドレスデンでも感じたことである。

 旧市街のバルバカンを通り抜けて行くとキューリー夫人の生家があって博物館になっている。ここにはキューリー夫人の使用した調度品等ゆかりの品々が陳列されている。

 ショパンの心臓が埋葬されていることで有名な聖十字架教会 、戴冠式等の行われた聖ヨハネ大聖堂等を見学してビラヌフ宮殿を見学した。

聖十字架教会





ビラヌフ宮殿





宮殿の庭




 この宮殿はボーランドのヴェルサイユ宮殿ともいわれ、ヤン3世ソビエスキー王が建立した建物である。室内には豪華なタベストリーや絵画装身具、調度品が展示されていた。天井に描かれたフレスコ画が印象に残った。

 ジェラゾヴァ・ヴォラはワルシャワから約50kmの地点にあるウトラタ川に沿った村でショパンの生誕地である。ここに1931年にショパンの生家が復元され、1949年にはその生家が博物館になった。 

 この博物館を訪問しショパンの生家の一室でピアニストのカタルツィーナ・モスシーシカ女史の演奏するショパンのピアノ曲を数曲鑑賞した。



 案内書を見てみるとショパンの父はフランス人で家庭教師としてこの地へ赴き、フレデリック・スカルべク伯爵の子供達の指導にあたった。伯爵の邸宅には遠縁にあたり将来ショパンの母となるユスティナ・テクラ・クシジャノスカが住んでいたのである。ショパンは生まれて8カ月後に両親とともにワルシャワに移り住むが、成長してからもしばしばここを訪れていて心の故郷になっている。

 ショパンの生まれた部屋や家族が使っていた調度品、ピアノ、ショパンの楽譜、幼少期の手紙等も展示されていてショパンの生育した環境を偲ぶことができる。博物館の周囲は公園になっており豊かに樹木が生い茂っていて訪れる者に暫しの憩いを与えてくれる。

 昼食を摂った後チェンストホーヴァーに立ち寄って「黒い聖母」の安置されているヤナス・グラ僧院を訪問した。ここはポーランド人の聖地になっており、沢山の善男善女がお参りに訪れていた。僧院の中には修道僧達が寄進した宝石や装身具の類や厨子、肖像画等が所狭しと飾られていた。僧院ではミサを、また付設された教会では結婚式を目撃するチャンスに恵まれた。ポーランドの宗教は圧倒的にローマンカトリックであるが、信者達の篤い宗教心のなせるせいか神父の後に続いて信者達が唱和する聖書の一節の音読にも異様な熱気と厳粛さがあり、傍らで参観している異邦人にも身の引き締まるものを感じさせる雰囲気が漂っていた。流石ポーランドにはローマ法王を生み出す宗教的な土壌があるなと感じたものである。

ポーランドの保養地ザコパネのホテルを出発してヴィエリチカへ向かった
ヴィエリチカの岩塩坑はクラクフから南東10kmの地点に位置するヨーロッパ最古の岩塩採掘場である。700年前から採掘作業が続けられていて、現在も営業採掘が続けられている。ショパン、ゲーテ、ロシア皇帝アレキサンドルI世、オーストリア皇帝フランツヨセフI世等もこの岩塩坑を見学して感動したと伝えられている。

14世紀にカジミシェ大王が街を囲む壁を築き塩の採掘と販売を王が管理することになった。塩からの収入は王室財源の3分の1を占めたこともあり、クラクフ繁栄の基礎であった。坑道の深さは64mから327m、九層で長さは200kmに及ぶ。現在はその上部三層のみが塩の宮殿として一般公開されている。

 長い板張りの階段を降りていって目に入る光景は鍾乳洞の特殊なものだと思わせる洞窟である。鍾乳洞と異なっているのは天井から垂れ下がるつららが見当たらないことである。幾つかある広い窟にはそれぞれに岩塩を素材としたキリストや聖母マリア等の彫像が飾られている。これらの彫像は概ね灰色をしていて大理石を思わせる質感である。

伝説によれば当時のポーランドの首都クラクフの近くで白い宝物(岩塩)が発見された頃のポーランド王ポレスワフ・フスティドリヴィはハンガリー王ベラII世の娘キンガ王女と結婚した。この時岩塩坑がハンガリーからポーランドへ移動してきたと信じられている。この伝説を表現したのが「大伝説の間」の岩塩の彫刻である。またこのキンガ王女のお土産に感謝の意を表すために作られたのが地下101mに作られた「キンガ礼拝堂」である。このキ ンガ礼拝堂は500人を収容できるといわれる地下の大洞窟である。この礼拝 堂には岩塩で作られた祭壇があり、岩塩の結晶から作られた大きなシャンデリアが幾つも飾られている。




 次いで古都クラクフへ向かった。クラクフは日本の京都に例えられる古都である。1320年にヴワディスワフ王がポーランドを統一して首都をクラクフに移した。 その後カジミェシ大王の治世の1364年にクラクフに大学を設立し、ヤギュオ王朝のとき、大学の改革がなされヤギュオ大学と名を変えた。この王は西ヨーロッパで圧迫を受けていたさまよえるユダヤ人を商業振興のために多数この国へ導入し都は栄えた。ヤギュオ王朝(リトアニアとポーランドの連合王国)の時侵略者のドイツ騎士団を1410年グルンヴェルトの戦いで撃破し領土は北はバルト海から南は黒海に至るヨーロッパ最大の国に拡大し大いに栄えた。この頃クラクフはプラハ、ウイーンとともに東ヨーロッパの一大中心地として栄えていた。当時のクラクフではヨーロッパ諸国王の会議が開かれヨーロッパ最強の王達が集まってきた。また全ヨーロッパの学者、思想家、芸術家達が集まりクラクフで活動していた。コペルニクスはこの頃の学者である。その頃の名残をとどめるのがヴァヴェル城である。色々な建築様式が混ざりあっているがルネッサンス様式の優れた例として挙げられる城である。

 クラクフの街の中央広場は中世ヨーロッパで最大の広場といわれ、周囲を取り囲んで建つギルドハウス等当時の面影をとどめる建物が立ち並んでいる。



2004年07月17日(土) 【すべてファージー、だが、心休まる国・・ポルトガル 】

▼ポルトガルの旅 リスボン、アルコ・パサ、オビダス、パターリア、コインブラ、アベイロ、シントラ、エボラ      
             2002年10月22日〜10月28日


平成14年10月22日(火)
 成田には予定通り到着して受け付けへ行くと窓口は開いていた。添乗員は土屋知美という若い女性であるが丁寧に一人一人個別に対応しているので時間がかかる。そこで素早く両替に行ってユーロを百ユーロだけ両替して貰った。両替が終わって帰ってきてもまだ説明は終わっていなかった。若いのに女性ホルモンが涸れてしまったような顔をした女性である。


 売店ではシーバースリーガルのウイスキーを一本買った。後で気がついて今回は相部屋なのでどんな人と一緒になるかわからないが、日本酒も買っておいたほうがよかろうと考え直して秋田の酒を一本買い足した。


 予定通りのフライトでスイスのチューリッヒ空港を経由してリスボン空港に到着した。時差8時間である。まだ現地は夏時間である。
 途中記録しておいた時刻を記録しておくと
 スイス航空  成田  始動12時00分
         テイクオフ12時11分
     チューリッヒ 着陸19時20分(時差7時間)
     リスボン向け 離陸20時59分
       リスボン 着地23時25分   
        バスに搭乗 24時00

 時差1時間につき時計を戻す。日本との時差8時間 飛行中は中国語のCDに聞き耽る。ワイン3杯、コニャック2本、スコッチ1本を飲んだ。夕食は一回パス。同室の人は伊沢一彰氏で絵をよくする宇都宮から来た人である。多少饒舌なきらいはあるが今年定年退職した62才の常識人なので助かった。

                      
平成14年10月23日(水)
 リスボンのホテルは市の南方約30分の海岸に面したリゾート地でプライア・マル・ホテルがその名前である。庭にはプールもあった。窓から望む海は大西洋である。天気は良かったが昨夜の就寝は夜中の1時になってしまった。

 9時にホテルを出発してベレンの塔、発見の記念碑、ジェロニモ修道院、ボテキントーリー・レストラン、エドヴァルト7世公園を見学してオビドスへ向けて出発した ジェロニモ修道院には折からアフリカの大統領が来ていて入場できなかったので帰路立ち寄ることにしてリスボンを後にした。


ベレンの塔




ジェロニモ修道院




 オビダスは小さな城郭都市である。ここではポルタ・ダ・ヴィラ、サンタマリア広場、サンタマリア教会を見学して町の中を散策した。この地の地酒のジンジャーニは甘口の酒でポートワインのような味であった。王妃イザベラが愛した直轄地であった。続いてナザレへ移動しナザレの海岸が一望のもとに見下ろせる断崖のあるシティオ地区へ来てノッサ・セニョーラ・ダ・ナザレ教会、メモリアル礼拝堂を見学後ブライア地区のホテルへ投宿した。伊沢氏は窓からスケッチにとりかかったが海岸通りを散歩して老人の写真を撮ったり、路地裏から沈む太陽を撮影した。夕食の鰯料理が美味かったので5尾も食べた。翌朝は朝市を出発前に見学した。


平成14年10月24日(木)


ナザレの海岸  




朝9時にホテルを出発してポルトガル人の心の故郷と言われるアルコ・パサへ立ち寄りペドロとイネスの悲恋の物語が残るサンタマリア修道院を見学した。

サンタマリア修道院




 続いてパターリアに立ち寄りサンタマリア修道院を見学。この修道院は正式名勝利の聖母マリア修道院である。構内にはエンリケ航海王の墓もある。未完の礼拝堂と柱のない広間が珍しい。


 慌ただしくコインブラへ向けて出発した。コインブラ大学では図書館を見学した。折から新入生を迎えて行事が行われており、黒いマントを羽織った学生達をちらほらと見かけた。構内の教会と坂道にある教会を見学してダウンタウンのサンタクルス教会を見学した。坂道の多い町である。

コインブラ大学





平成14年10月25日(金)
 アベイロへ立ち寄って駅舎のアズレージョを見て、運河の海草採集船を撮影した。塩田の後が残っている。

アベイロ駅のアズレージョ




海草採取船




 暫くバスドライブが続いてからいきなり橋の上を通った。ドロウ川の岸辺から丘の上に広がる町の景観は美しい。ボルサ宮、サンデマンワイン工場を見学した。


平成14年10月26日(土)
 ホテルの側の列車の駅から2等車に乗り込んでリスボンまでの列車の旅である。力持ちのポーターが一人で36人分の荷物を棚へ収納したのには驚いた途中アベイロ駅に停車した。懐かしいアズジージョの絵を別の角度から眺めることが出来た。


 リスボン駅に到着してからジェロニモ修道院を見学してからシントラへ向かった。ここでは王宮に入り煙突のある厨房等を見学した。このあとロカ岬までドライブである。幸い天気に恵まれて暑い位であった。ユーラシア大陸最西端の岬だというが、景色はいいけれども特別な感慨も沸かない。

シントラ宮





ロカ岬





 ホテルへ帰ってから改めてファドの夕べへでかけて痛飲した。多少口がすべってブラボウとブラバーをやたらに頻発して顰蹙を買ったようだ。反省。

平成14年10月27日(日)

コルクの木





 エボラへ朝から向かった。途中コルク樫の林がどこまでも続いており珍しかった。世界一のコルク生産を誇るという。城壁の町であり、丘の町であるここではサンフランシスコ教会を見学した。ショッキングだったのは人骨堂である。髑髏や手足の骨を素材にして立てられた礼拝堂は日本人の発想からはでてこない建造物である。大聖堂、ローマ時代の神殿の骨組みを見学。昼食には浅蜊と豚肉のからみあった料理を食べた。これで実質的に今回の旅行は終わった。







2004年07月16日(金) 【イスラム文化とカソリック文化混在の国・・スペイン  】

▼スペインの旅 コンスエグラ、トレド、マドリード、コルドバ、メスキータ セビリア、グラナダ、バルセロナ 
                 1999年3月19日〜3月26日

 スペイン周遊の旅は、3月20日ラマンチャ地方訪問から始まった。バスの車窓には桜と見紛うばかりにアーモンドの花が咲き誇っていたり、未だ芽生えていない荒涼とした広い田野が続き、空はどこまでも青く雲一つ見えないやがて小高い丘が見えてきて、その上に風車が十個ばかり並んでいる。風車小屋



が往古そのままの姿で残っているのは、ここコンスエグラの町だけである。この町でドンキホーテは生まれたのである。

 トレド旧市内は城郭都市になっていてタホ川が巡る丘陵地に広がる中世の街である。




この街は711年から約四百年にわたってイスラム教徒によって支配され、1085年カスティリヤ王国のアルフォンソ6世の奪回後も一四九二年カトリック両王によって追放されるまでユダヤ人やイスラム教徒が居残って経済活動を続けた街である。かっては西ゴート王国の首都として或いは、レコンキスタと呼ばれるキリスト教徒による国土回復運動の中心都市として繁栄してきた。いわばスペインの歴史が凝縮したような街である。道がせまいので大型車両は乗り入れができない。

 カテドラルと呼ばれる大聖堂はトレドの中心に位置して往年の栄光を象徴




するかのように聳え建っている。1227年に着工し 1493年に完成した。実に206年の歳月を費やしたのである。スペイン・カトリックの総本山ともいうべき大寺院であり、ゴチック様式の記念碑的な文化遺産である。
 大聖堂内の宝物室にはイサベラ女王の豪華な王冠、金箔で文字を書いた聖書や聖体顕事台が金銀宝石で豪華に飾られて収められている。その一部にはコロンブスが持ち帰った金が使われていると伝えられている。聖体顕事台の高さは3mもあり、16世紀に作られたものである。イスパニアの冒険家達が次々と地理上の発見をしマヤ帝国、アステカ帝国やインカ帝国を征服し莫大な財宝を獲得して持ちかえり、イスパニア王国が輝いていた時代の記念品といえよう。

 プラド美術館はマドリッド観光の目玉なので人出が凄い。世界三大美術館




といわれるだけあってその六千点の収蔵物には質の高い名品が多い。常時展示されているのは三千点でその半数以上がスペインの画家による粒選りの作品であり、展示物は適宜入れ替えられているようである。作品は12世紀から18世紀までで16〜17世紀の作品が中心になっており王家のコレクションが主体になっている。エル・グレコ、ルーベンス、ベラスケス、ゴヤ等馴染みのスペインの画家の作品の前では黒山の人だかりが出来ていた。

 トレド市内に比べれば、マドリード市内はスペイン統一後に遷都された



首都だけにアラブの影響が少ないヨーロッパ的な雰囲気を漂わせる街の佇まいである。

 翌日、アトーチャ駅からスペインの誇る新幹線アヴェでコルドバへ向かった。所要時間一時間半の道程であった。時速250kmの速度がでている のに車体の振動が全然感じられず、車窓に広がる広大な平野を眺めながらの 電車旅は快適であった。極端に刈り込んで太い幹しか残っていない葡萄の茶 色ぽい畑や、背丈短く刈り込んだ幹の太いオリーブが緑色の葉を陽光にきらめかせている畑が果てし無く続いていた。

 コルドバは、スペイン南部を流れるグアダルキビール川の中流に位置しており、かつて北アフリカを含むイスラム世界の中心地であった。バグダッドに首都を置く東イスラム教国に対して、西のイスラム教主カリフの宮廷が置かれ、10世紀から13世紀にかけて文化、科学、芸術の中心地として繁栄した。

 コルドバの街も大型バスは入れない路地の多い街である。特にユダヤ人居住区は迷路のようになっており白壁の家並が続いている。窓には植木鉢に植えられた色とりどりの花や観葉植物で飾られてコントラストの良い趣のある景観を作りだしている。花の小道と名付けられた路地もある。そしてパティオ




と称する中庭が、開かれた門扉の奥に見え隠れしている。門扉が開かれているのは自慢のパティオを自由に鑑賞してくれという家主の意思表示になっているのだという。

 このような路地を通り抜けるとちょっとした広場があり、イスラム聖人の銅像が飾られていたり噴水があったりする。そして必ず実もたわわなオレンジの木が何本か植えられている。よく見るとオレンジの同じ木に花も咲いているし良く熟れた実もなっている。つまり四季を問わず年中実がなっているということなのである。それにしてもコルドバの街はスペインのフライパンと言われるだけあって、3月21日だというのに日中はとても暑く寒暖計は30度を示していた。これが朝夕には肌寒いのだから日本の感覚とは随分違った季節感である。

 狭く混雑している路地を通り抜けてメスキータへ辿り着いた。



 メスキータはウマイア王朝のカリフ、アブデラマン1世が785年に着工しその後継者のアブデラマン2世、モハメット1世、アルハケム2世によって次々に増築されてきたものでコルドバ・カリフ王国の栄華を誇るモニュメントである。

 中へ入ると薄暗い。しばらくして目が闇に慣らされてくると赤色と白色の縞に塗られた浮輪を半切りにしたような夥しい数のアーチと柱が目に飛び込んでくる。幻想的な光景は薄暗さも手伝って、宗教的で厳粛な気持ちにさせる。縞メノウ、大理石、花崗岩で作られたアーチは総数約850本もあり、線条細工のアラベスク模様が施されている。屋外が暑かっただけに室内の涼しさにほっと息をつく。

 時代を追って進むほどに僅かずつ様式が変化していくのが判る。そして圧巻はメスキータ中央にあるキリスト教のビジャビシオッサ礼拝堂である。カルロス5世に願い出た教会当局が王の許可を得て市民の反対を押し切ってこのメスキータ中央の屋根を取り払いカテドラルを建設したのである。翼廊と祭壇のある後陣はゴシック様式、後陣のまわりを取り囲む丸天井はロマネスク様式、聖歌隊席と説教壇はバロック様式になっており、モスクの中にキリスト教のカテドラルが共存するという、奇妙なメスキータが出現したのである。つまり1523年から1766年までモスクがキリスト教の寺院として使われるという珍奇な宗教行事が営まれたのである。この珍奇さ複雑さがスペインの国情、文化の特徴であろうか。

 セビリヤの街は、スペイン南西部のグアダルキビル川に沿う河港都市である。アンダルシア平原の中心にあり、古くはフェニキア人によって開かれ、次いでローマ人に支配され、中世を通じてサラセン文化が栄えた。アメリカ大陸発見後は新大陸航路の基点の港として発展した。

 この街の圧巻は何といっても格式高く由緒のあるカテドラルである。




イスラム寺院の跡地に1402年から約百年かけて建てられ、スペイン最大であるのは勿論、世界的にもローマのサン・ピエトロ寺院、ロンドンのサン・ポール寺院に次ぐ規模のものである。この寺院のヒエルダの塔はもっとも有名であり、高さが98メートルもあるが、階段がついていない。塔の中を馬に乗って展望台まで上がれるようにゆるやかなスロープが螺旋状に作られていて展望台からはセビリヤ市内が一望できる。

 又、この寺院の中にはコロンブスの墓があり、遺体の入った柩をカスティリヤ、アラゴン、レオン、ナバラ四王国の騎士が担いでいる。寺院内のパディオにはオレンジの木が沢山植えてあった。

 サンタクルス街はユダヤ人居住区であった所で曲がりくねった迷路のような路地や白壁の家が軒を連ねており、軒に吊るした鉢植えの花やパディオのオレンジの木々はアンダルシア独特の光景を造りだしている。

 グラナダはローマ時代イリベリースと呼ばれて栄えた街である。7世紀からイスラム教徒が流入し、イスラム教徒によるイベリア支配の拠点として15世紀末まで繁栄した古都である。コロンブスが新大陸を発見した同じ年の1492年にカトリック両王がグラナダへ入城し陥落した。

 アルハンブラ宮殿は1238年にアラブ王アラマールが即位後、築城の構想を固め、その後二一人のアラブ王によって逐次各部が造りあげられていった。アルハンブラとはアラブ語で赤い城という意味であるが城郭に使われた石の壁に多量の赤鉄が含まれていたのでそう名付けられたらしい。アラビア芸術の粋がみられる代表的な美しい宮殿である。

 アラヤネスの中庭、コマレスの塔、姉妹の間、ライオンの中庭、アベンセラーヘスの間、王の浴室、ベネラリエフ庭園等を見学した。砂漠の貴重品である水を池や噴水や小川等としてふんだんに取り入れた設計




はいかにも砂漠の厳しい自然条件の中で興った王国に相応しい造りである。

 建物内部の壁に施された美しく、繊細なアラベスク模様の漆喰は高度の技術を感じさせる。




また天井には鍾乳洞のつららかとも思えるような装飾が施されていて美しさを際立たせている。

 また王族であるアベンセラーヘス一族の誰かが王の寵愛する妃と不義を働いて逃亡したので、怒り狂った王が一族の嫌疑者8人を一つの部屋へ集めて全員を打ち首にした等という身の毛のよだつような恐ろしい話も伝えられている。

 アルバイシンはグラナダの古い町でアルハンブラ宮殿ができるまではこの町の丘の上にグラナダ国王が住んでいたところである。当時の人口三万人が住んでいた密集地であり、イスラム寺院が30近くもあったという。今でも迷路のような路地の両脇には屋根の低い家が建てられていて、パディオを持った半円形のアーチやタイルで飾られたイスラム風の建物が多くみられる。
この地区から眺めるアルハンブラ宮殿の全景はとても美しい。




 バルセロナの町は今までのコルドバ、セビリヤ、クラナダ等とはがらりと趣が変わり、アラブ的な色彩が殆ど見られずカトリック的なヨーロッパらしい街の佇まいがはっきり見てとれた。この街はスペインの中でも別の意味で特異性のある街である。つまり中央に対して対峙する気風が強く、カタルニア地方独特のカタルニア語を公用語として使用する自主独立性の強い街である。そしてこの街が生んだ天才ガウディーの作品があちこちに見られるガウディの街であった。

 サグラダ・ファミリヤ




は聖家族教会と翻訳され尖塔を持つ未完の教会である。1882年にフランシスコ・デ・ビヤールが着手し、1891年にガウディが引き継いだものである。彼は晩年この教会内に寝起きしこの教会と一心同体で制作に取り組んだのであるが制作半ばに交通事故に遭い志半ばで死亡してしまったのである。この建築物の構想はイエス降誕のアァサード、受難のファサード、栄光のファサードと三区画からなりそれぞれに四本の尖塔を持ち全体で十二使徒を意味する構想なのであるが、1982年までにやっとイエス降誕のファサードと地下聖堂だけが完成したにすぎない。ここまでで建設開始から百年以上かかっており、残りの部分が完成するのにはあと百年かかるか二百年かかるかわからないと言われている現代の大建築なのである。

 教会内部の部屋は作業場になっており大きな機械が石材を切断したり彫ったりしているし何本ものクレーンが林立して作業が押し進められているが、それでも完成時期が未定という気の遠くなるような大事業である。

 旅の印象を一言で纏めればスペインはイスラムの文化とカソリックの文化が混在している文化遺産の豊富で且つワインが安くて美味い国であるということだ。 



2004年07月15日(木) 【宗教対立を象徴するピースウォール・・北アイルランド】

▼イギリスの旅3(北アイルランド) ベルファスト、コーズウエイ
                 2000年6月26日〜7月11日

 北アイルランドのベルファスト空港は出口をでると空港施設内に手洗いの
ない珍しい空港である。ベルファスト市内中心部のヨーロッパ・ホテルへ到
着して市内観光とゴルフプレイをコンシェルジェに相談すると早速アレンさ
んという若いガイドがワゴン車で迎えにやってきた。ゴルフ場も三時からプ
レイの予約ができたという。

 先ずハウスペインティングの場所へ連れて行かれた。ここは、ベルファス
ト市南部のフォールスロードやアンダーソンタウンという名の住宅地域であ
る。長屋風の切り妻造り二階建ての切り妻部分の壁面一杯を使って、銃を手
にした男の絵とか覆面をした男達



の絵が描かれている。IRAの指導者ゲーリー・アダムスの肖像を描いた壁もある。どうも北アイルランドの分離独立運動をモチーフとした絵のようである。中には鳩の絵とFOR PEACEという標語が描かれている壁面もある。住宅の周りには橙色、白色、緑色からなる三色旗がはためいている。これはカソリックの旗である。ここは北アイルランド独立運動の拠点地域であるようだ。後に調べてみると旅行のガイドブックには危険な地域だから立ち入らないようにと注記されている場所であった。

 壁に描かれた絵の意味するものにきな臭いものを感じながらも、一種独特
の趣のある住宅の壁面に施されたペインティングを鑑賞したり、カメラに納
めていると、通りすがりの広場に大勢人々が集まって、制服を着用した軍隊
か警察の集団を取り囲んでいた。瞥見しただけなのでその集団が何をしてい
るのか或いはしようとしていたのか判らない。運転手も見られては拙いもの
を見られてしまったというような顔をして急いでその場を通り抜けようとし
たので敢えて誰も質問をしなかった。

 これらのペインティングの施された家々の地域から離れていくと道路に門
がある。この門は夜間には扉が閉められて通行できなくなるのだという。何
故そのようなことをするのかと訝っているとやがて「ピース・ウオール」



と運転手が指さす所に高い壁がある。冷戦時代にベルリンを東西に隔てていたような隔壁である。これはカソリック教徒とプロテスタント教徒の居住区を区分する隔壁なのである。カソリックのほうが人数的にも少なくて狭い場所に閉じ込められているようである。聞いてみると運転手はカソリックであるという。宗教問題や民族問題に深入りすると旅行中のことでもあり、紛争に巻き込まれる恐れがあるので同行者の一行は運転手がこの場所へ異邦人を案内した意図を忖度しながらも正面切った質問は避けることにした。

 翻って北アイルランドの宗教紛争と民族紛争の歴史を繙いてみるとその遠
因は一五三六年のヘンリー八世の宗教改革にまで遡及る。元来ケルト系原住
民が居住していた北アイルランドにアングロ・サクソンが侵攻してきて十三
世紀半ばにはその四分の三を支配するようになった。そしてイングランド国
教がローマ教会から独立したのを機にイギリスは宗教改革をアイルランドに
も強制し、ヘンリー8世はアイルランド国教を導入しアングロ・ノルマン系
の反抗を受けたのである。18世紀に入ると異教徒刑罰法が制定されてカト
リック教徒は政治経済の権利を剥奪され、プロテスタント地主にカソリック
小作という支配関係が定着した。そしてカトリック教徒の間に自治と独立の
運動が始まったのである。

 1916年のイースター蜂起の失敗ののち反英運動は独立運動に発展し1
916年愛英条約によってアイルランド自由国が成立した。しかしアルスタ
ー地方の北部6州はイギリス領に留まり今日の北アイルランドとなった。し
かし、カトリック教徒の公民権が制限される等の制限が残ったため独立運動
が後をたたず,1969年にイギリス治安部隊が常駐するに及んでIRAの
テロ活動が活発化したのである。

 ピース・ウオールを万感の思いで見学した後、午後3時からパルモラル・ゴルフ・クラブでプレーした。



電動カートはなくて手押し車にバッグを積んで自分で持ち運びながらのプレイであった。フラットなコースであったがラフに入ったらまずボールは見つからないという深さである。プレーも夕方になると体が冷えてきて体がかじかんでくる。最終ホールになったとき突然前方のピンの旗や建物が二重に見えだし距離感が全然なくなってしまった。初めての経験なので脳細胞の血管に異常をきたして脳血栓乃至は脳溢血でも始まったのではないかと一瞬恐慌をきたした。片目をつぶると二重に見えていた建物が一重に見える。どうにか最終ホールを無事終えてから、この体験を同行の堀家氏に話すと頭が冷えたときには三半規管の機能が低下し二重像が見え距離感がなくなることはしばしば起こる現象だと説明してくれた。小樽という寒冷地育ちの氏には何度もそのような経験があるという。それを聞いてほっとしたが生まれて初めての体験であった。なるほどプレーを終えて体が温かくなると二重像は消えてしまった。

 翌朝九時に昨日の旅行社バリュー・キャブスの運転手アレン氏が迎えに来
てくれたのでワゴンに乗り込みジャイアント・コーズウエイの見学にでかけ
た。

 車はひたすら北上を続けるがよく整備された自動車道路には殆ど車が走っ
ていない。周囲には広大な牧草地と麦畑が開けていてポプラや松、白樺、杉
などの樹木も畑を区画するように繁っている。緑地には羊と牛がのんびりと
草を食んでおり、どこまでも牧歌的な風景が続いている。暫く走行するうち
に海が見えだした。大西洋である。

 ポートラッシュの集落に到着したようである。天候に恵まれて海の色は青色に輝いており広がる緑地と共に美しい海岸線が続く。そして気温は肌に快く、七月という時節に日本ではとても考えられないような涼しさである。海岸沿いの緑地にはゴルフ場も認められた。
 
 スコットランドの名門ゴルフ場セントアンドリュースゴルフ場に似た佇まいである。ポートラッシュの集落を通り過ぎると、前方に古い城跡が見えだした。その昔海からの外敵に備えて築城されたダンルース城



である。今は廃城であるが史跡として観光名所になっており、沢山の観光客が訪れていた。

 ダンルース城を跡にして暫く走行するとジャイアントコーズウエイへの入
り口に到着した。沢山の観光客が集まっていたが不思議なことに日本人の姿
が全然みかけられない。その後暫くして、日本人女性の二人連れに会っただ
けであった。ここにはコーズウエイ・ホテルや売店の建物が並んでいる。六
方石の奇岩のある景勝地



はここから徒歩で約15分位の所にある。

ここには六角形をした石の結晶が柱状に重なりあって何本もそそり立っている。



尖端が折れて石の階段のようになっていて小高い丘の上に登ることができる。その珍しい形が海の青、山の緑、岩肌の焦げ茶色と絶妙のコントラストをなしていて素晴らしい景観をつくり出している。




 コーズウエイ・ホテルで昼食を摂った後、1608年創業の世界最古のウ
イスキー工場ブッシュミルズを見学した。



ここでは女性職員が50人ほどの一般見学者を引率して工場内を工程毎にてきぱきと説明して歩き、その統率力には小気味良いものがあった。見学が終わり食堂でアイリッシュウイスキーを試飲したらまろやかでとても美味しかった。スコッチに勝るとも劣らない味であると思った。

 本日の観光を終えベルファストのホテルへ戻り部屋へ入るとベッドサイド
の机の上に置いておいたピロウチップがそのままになっている。このことは
先日ロンドンのボニントンホテルでも経験したことである。我々の解釈はピ
ロウチップは文字通り枕の上に置いておかないとベットメークに入室したメ
イドはお客が置き忘れたものであると認識し、手をつけないのではないかと
いうことであった。ここにホテル従業員の躾けの良さを垣間見、イギリス人
の律儀な国民性を見た思いであった。

 夜はホテルの真向かいにあるバー・クラウンに入ってビールを飲み、アイ
ルランドのバーの雰囲気を楽しんだ。このバーは相当古い建物で、天井に施
された彫刻や柱の彫刻、部屋を囲む壁に使われているガラス細工の模様など
贅を尽くしたものである。この街が造船で栄えた頃に建てられたものであろ
う。シティ・ホ−ルにしろ、アルバート・メモリアルホールにしろ何れ劣ら
ぬ贅を尽くした建造物である。こんな所にこの街の過去の栄光の面影を見る
思いであった。

 翌日は同行の友人三人でこの市内にあるクイーンズ・ユニバーシティと
ボタニー・ガーデンを散策した。



たまたまこの日は大学の卒業式の日であり、大学構内でガウンを身に纏った卒業生をそこここに見ることができた。ボタニー・ガーデン内には博物館もあり、アイルランドの先住民の生活の模様や歴史等を実物で知ることができた。

 午後からはまだ見ていない市内の主たる観光名所を昨日も頼んだ旅行社の
ワゴンで見て廻った。運転手は昨日のアレン氏と違って判り易い発音の英語
を喋った。

 百年前に建設されたシティ・ホール
、



アルバート・メモリアルホール、オペラハウス、パーラメント、ベルファスト・キャッスル、ハランド・エンド・ウルフ造船所等を駆け足で廻った。

 ハランド・エンド・ウルフ造船所はかの有名なタイタニック号を造



った造船所であるが現在船台には殆ど船が入っておらずかつての栄光と賑わいが嘘のように感じられる閑散さであった。周辺の工場地帯にも活気がなく、なんとなくうらぶれた感じが漂っていた。しかし工業地帯の再開発を積極的に進めているようであちこちにクレーンが林立し、古い建物を壊している現場を目撃することができた。かなりの投資がなされているようで僅かながら活気が蘇りつつあるなとの印象を受けた。

 ベルファスト・キャッスルは海と市街地を見下ろす小高い丘の上に立って



おり、今はホテルに転用されている。ここで昼食を摂ったが料金もリーズナ
ブルで美味しかったし、宿泊料も高くない。ベルファスト観光の穴場ではな
いかとの感じを受けた。市の中心地から離れた所に位置しているので外来の
観光客には足の便の点で敬遠されているのではないかと思った。

 ロンドンへ帰りボニントン・ホテルでテレビのニュースを見ていると,我
々が北アイルランドを離れた7月3日の夜、ベルファスト市内でIRAの手
になるものと思われる爆発騒ぎが発生したという報道があった。このニュー
スを見て紛争に巻き込まれずに済んでよかったと胸をなでおろしたものであ
る。                                 



2004年07月14日(水) 【コートダジュールの保養地の悪質運転手に興ざめ・・南仏海岸】

 ニース、モナコ、エズ、カンヌ、サン・ポール、 

                  2000年6月26〜7月11日

 大学時代のボート部の友人達5人と一緒にイギリスのヘンリ・オン・テームズで開催されるヴェテラン・レガッタに参加した。現地入りする前に南仏のコート・ダジュールへ立ち寄り、ニース、モナコ、エズ、カンヌ、サン・ポールの保養地や観光地を駆け足で観光した。
 
 大きな荷物はロンドンのホテルに預けてきてはいるものの、初めての土地で道不案内なので空港からタクシーでホテルまでいくことにし大型車を探したが見当たらない。タクシー乗り場で五人だというと二台でなければ駄目だといわれた。近い距離で荷物も小さいのだから五人を一台に乗せろと交渉しても受け付けようとしない。

 しかたなく値段を聞くとホテルまで一台150フランだという。邦貨に換算すると約2500円である。予め見当をつけておいたホテルまでの距離からすると高い気がするが、初めてのことなので距離感が働かない。なにはともあれ二台に分乗してラジソン・ホテルへ向かった。ニースの海岸沿いに走っている道路を十分も走行したかと思うまもなく目的のホテルへ到着した。

 走行中運転手はメーターを作動させようとしない。ニースのタクシーには悪質な運転手が多いという予備知識がなかったので、値段を予め決めてからの乗車だからなのであろうと単純に思っていた。ところが、ホテルへ到着してから現地旅行社の担当者等に事情を聞いてみると適正料金の約三倍を払わされていることが判った。

 旅の第一印象として不快な思いをさせられたので、以後ニースではタクシーに乗るのをわずわらしく感じるようになってしまった。

 ここでニース滞在中に体験したタクシー事情をまとめてみると、ニースのタクシー運転手は悪質な雲助が多いということである。従って対策としては、

 先ず乗る前にメーターがついているタクシーかどうかを確かめなければならない。

 次にメーターで走行してくれるのかを確認しなければならない。メーターは使わないと言うのであれば、目的地まで幾らで連れていってくれるのか値段の交渉をしなければならない。予め値段を決めておかないと、目的地へ着いてから何十倍という法外な料金を請求されても抗弁のしようがなくなるからである。

 しかも、乗客側に距離感がないうえ、運転手の使う言葉がフランス語なのでよく判らないため,相手のいいなりの値段になってしまうケースが多くなる。

 更にメーターで走行すると言った場合でも注意していないと走行中メーターを操作して数字をはね上げるような悪質なことまで行う運転手が蔓延しているのである。

 我々も滞在三日間には町中を徒歩で歩いたり市バスに乗ったりと経験を積んで、距離感が判るようになってくるので、運転手の請求する金額が適正なものかふっかけたものかおよその見当がつくようになる。メーターに手加減を加えず、表示通りの適正な運賃を請求するまともな運転手も勿論いるからそのような時には気持ちよくチップもはずむことになる。しかし運転中、何度もメーターに手を触れる運転手には注意が必要である。必ずメーターを操作しているのである。しかし、その不正を咎めることは極めて難しい。そこでせめてもの抵抗としてチップを払わないことで対抗するしかない。

 実際に経験したのであるが、夕食を終えてからの帰りにメーター付きのタクシーに乗ったら、この運転手はメーターに何度も手を触れている。ホテルについて料金をみると行きに乗ったときの料金50フランよりも六割方高い金額八十フランが表示されている。そこで「ノン」と相手の請求を拒否して行きと同じ料金しか出さなかったら受け取ろうとしない。しばらく押し問答が続いたが運転手は乗客を下ろさないで、やおら車を走りださせてしまった。

 どこへ連れていかれるか判らない。この時は四人一緒であったが言葉のままならない不案内の土地故、不安になったので百フラン紙幣を渡した。すると右手に握りしめていた汗まみれの十フランコイン二枚を釣り銭として我々に手渡すと、下車を急かせて慌ただしく車を発進させて暗闇へ消えて行った。

 この運転手などは多少、心にやましいものを感じている気の小さい運転手で、騒ぎが表沙汰になったら営業免許取り消し等の処分を受けるのを恐れている様子がありありと窺われた。周囲の者がやっているから自分もしなければ馬鹿をみるという大勢随順型のどこにでも見られる人間類型である。それにしても行政当局が徹底的に取り締まりを強化してこのような悪質タクシー運転手を駆逐しなければニースという世界の名勝地の名に恥ずかしいのではなかろうか。それともこのような現象はラテン系民族のちゃらんぼらんな国民性の表れと見るべきなのだろうか。

 荷物を部屋へ置いて取り敢えず、ニース市内を歩いてみることにした。海岸通りには椰子が植えられており幅広い歩道には、ジョッギングしたり、散歩したりしている人々の群れが絶えない。空が白みだすと早朝から散歩する人々の姿がみかけられる。

 海岸通りを歩いてみると白い砂浜




には水着姿で日光浴をする老若男女があふれている。欧州北部地方の日照時間の少ない地方の観光客達が太陽の強い陽射しを求めて、ビタミンDの補給にきているのであろうか。海に入って泳ぐでもなくただひたすら砂浜に寝ころんで肌を焼いているのである。世界屈指の南仏のリゾート地の光景を楽しみながらちょっとばかり裕福な気分になりしばしの散策を楽しんだ。空は青く晴れ渡っており、太陽の光を一杯に受けて地中海は紺碧色に美しくに輝いていた。陽射しを直接肌に受けるが空気が乾燥しているせいか歩いていても不思議にあまり汗をかかない。

 散歩の途中見かけたニース最高級のホテル・ネグレスコ



に入り、メリーゴーランドのあるカフェでビールを飲みリッチな気分にしばし浸った。この後ニース市内を気の向くままに歩き廻った。カジノという看板をだしたスーパーストアもニースならではの愛嬌である。夕食にはこの地で有名なレストラン「ボッカチオ」で海鮮料理に舌鼓を打ち白ワインで杯を重ねた。ムール貝が印象に残る味であった。

 翌朝九時に予約しておいた男性の日本人ガイドが迎えにきた。ガイド兼運転手である。出身地は徳島県で、大学を卒業して間もなく県の交換留学生としてこの地に留学したがそのまま居ついてフランス人女性と結婚した。趣味はカジノだという。小さな旅行会社を友人と経営しているらしいが、忙しい人である。自動車の運転中も携帯電話で頻繁に事務所と連絡をとりあっている。何でもシーズンを迎えて多忙なところに係員の一人が生牡蠣を食べて食中毒にかかり入院したためその皺寄せがきた上に、初老の夫婦連れのお客の夫の方がバイオグラを服用して急死するというアクシデントが重なったのだと言い訳していた。

 午前中はコート・ダジュール(紺碧の海岸)をモナコへ向けてドライブした。砂浜には太陽に肌を焼いている水着姿の人々が寝そべっている。中にはトップレスの水着を纏い見事な乳房を誇示している若い女性も散見される。海水の流れが速いらしく水泳をしている人は殆どいない。モナコへ向かう途中小高く登った道路の遙か下方の崖下の岩場にヌーディスト達の集まる場所があると説明を受けたが障害物に視界を妨げられて現場を垣間見ることはできなかった。そうこうする内にモンテカルロ




を一望のもとに見渡せる地点を通って、車はモナコ国の領内に入りモナコ大公宮殿前広場に到着した。




 モナコは総面積が二km2しかない人口3万人の小さな都市だが独立国家である。歴史はフェニキヤ時代に始まり、中世以降に栄えた風光明媚で国際的な保養地である。宮殿前では白い制服を身に纏った衛兵が剣付き銃を肩に担いで門前の一定区間を繰り返し往復警邏していた。

 宮殿の近くにある教会の中には自動車事故死した往年の名女優で王妃となった故グレース・ケリーの墓があり、墓標にはグレイシア・パトリシア
の名前が刻まれ観光客が供えたのか生花が供えられていた。



 宮殿のある地域が旧市街で、高層ホテルの林立する地域はモンテカルロと呼ばれている。モンテカルロにある大カジノ



の建物は豪華な造りで見学者で満ちあふれていた。なにしろ公設賭博の収益と間接税で国家財政の過半を維持している所得税のない国である。宮殿よりも贅を尽くして豪華に見える建物の存在もうべなるかなである。

 モナコを後にして城砦の村エズ



へ立ち寄った。ニースを攻撃するための城砦として中世に建設されたものがそのまま残り、村として現在も機能している。ここにはサボテンの植物園が営まれておりモナコやニースを一望のもとに見下ろすことができるロケーションである。


午前中の観光を終わり、再びニースへ戻ってエスキナードというレストランで海鮮スパケッティを食べたら蛸や烏賊や海老がふんだんに使われていてとても美味しいと思った。

 午後からはカンヌ



と城郭都市サンポールを観光した。カンヌの映画祭の時使われる建物の前の広場にはここを訪れた映画俳優達の手形がタイルに型とられており、ロスアンジェルスのチャイナシアターと同じ趣向が凝らされていた。そして前面に広がる海浜ではニースと同じように水着姿の人々が日光浴を楽しんでいた。この海岸の近くにはナポレオン・ポナパルトがエルバ島を脱出してから捲土重来を期すべく上陸した地点があり、記念碑が建っていた。

 サン・ポール



もエズ同様に小高い山に築かれた城砦がそのまま町として現在に残って観光地として栄えているのである。

 夕食にはニースの旧市内にあるターブルドシヌという中華レストランで中華料理を堪能し久し振りに紹興酒を飲んだ。華僑の女将の如才ない愛嬌のある応対に東洋人として相通ずる人情の機微を感じた。

 ニースも滞在三日目ともなると市内の地理も頭に入ったので、市バスに乗って有名な花の朝市



見学に行った。色とりどりの花が売られていて楽しい風景である。果物、野菜や魚介類も売られておりトマトを買って食べたら自然の素朴な味がした。この後、有名な「シャガール美術館」へ市場から歩いていて行った。旧約聖書に題材をとった色彩感覚豊かな作品が多数展示されており名作を前にしてしばし忘我の境界を彷徨った。



2004年07月13日(火) 【ライン川クルーズとロマンチック街道・・ドイツ】

▼ドイツの旅 リューデスハイム、ザンクトゴア、ハイデルベルグ、ローテ
ンブルグ、シュパンガウ
    2000年9月26日〜10月4日

ライン川は全長1320km、流域面積25万2000km2の国際河川である。スイス南東のアルプス山中サンゴタール峠付近に源を発し前ライン川となり後ライン川と合流してボーデン湖に流入、出口付近でライン滝を作りドイツ国内西部地域を貫流し、オランダのデルタ地帯を経て北海に注いでいる。ヨーロッパで最も重要な内陸水路であると同時に最も眺めの美しい川として知られている。特に素晴らしい眺めを誇るのはマインツ、ケルン区間の中ライン川と呼ばれる地域で風光明媚な自然や情趣溢れる古城の姿は観光客を魅了してやまない。

我々がクルージングを楽しんだのは、ワインの町として世界的に有名なリューデスハイム




からザンクト・ゴアーまでの約30kmの区間であったが、両岸は概ね山地になっておりラインシュタイン城、ライフェンシュタイン城、




ゾーネック城、ラインフェルス城、猫城、ねずみ城等の古城が建っていて周囲の緑とよく調和して美しい景観を造りだしていた。山間の傾斜面には横方向斜面に直角に畝を切られた葡萄畑が広がっており、平地には教会を中心として、一様に切り妻造りの赤い屋根と白壁の民家が集落をなしていた。

 そして川にはひっきりなしに観光船や大型の貨物船が往来していて、川岸には上流起点からの距離数が一km毎に白地の標識に黒字で大きく表示されている。
 
 山の木々は紅葉の始まっているものも散見され、天候にも恵まれ空気は爽やかで汗をかくこともない。

やがて船は有名なローレライの難所にさしかかった。




 船内にはローレライのメロディーが流れだし川幅は狭まり流れも速くなる。川幅90mに狭まった所には高さ132mの何の変哲もない岩壁がそそり立っている。昔から暗礁と急流に船乗り達が難所として怖がっていた場所である。水嵩の減った時には川中から「七人の乙女」と呼ばれる危険な暗礁が姿を見せる場所だ。伝説によれば乙女達は心の冷たさのあまり岩に姿を変えられたという。

 船乗り達が金髪の美しい水の精と歌声に惑わされ暗礁に乗り上げたともいうローレライを通り過ぎた所には乙女の像が建てられていた。この乙女像のある場所の対岸の平地にはキヤンピングカーが沢山駐車していて、中には机と椅子を持ち出してワインを楽しんでいる家族連れも散見された。この場所に限らず平地の空き地にはそこここにキャンピングカーの駐車が見られ野外生活を享受するドイツ人の生活のゆとりを垣間見た気がした。そんなことに思いを馳せながらハインリッヒ・ハイネの歌詞をメロディーに合わせて口ずさんでいるうちに船はいつしか終点のザンクト・ゴアーへ到着していた。この町は570年に聖人ゴアーが作った町で葡萄の栽培地としても有名である。田舎町ではあるが活気に満ちており何よりも見事だと思ったのは地上に電線も立て看板も見当たらないことだった。

午後はハイデルベルグまで戻り、ハイデルベルグ城、




アルト・ブリュッケ大学広場、騎士の館、学生牢、マルクト広場等市内観光を行った。

ハイデルベルグ市は人口13万5000人の中世の雰囲気の残る古い町である。町としての歴史は796年にベルグハイムという名の集落として登場し1196年にマルクト広場が開かれた。その後13世紀になって城の起源らしきものが出来、1356年に神聖ローマ皇帝カール4世が発布した金印勅書に基づく七選帝侯に選ばれたファルツ伯が逐次城を増強したのが始まりであると考えられている。またファルツ伯の手で1386年にはドイツ最古の大学ハイデルベルグ大学が創立されている。現在でもハイデルベルグ大学は名門大学として名実ともに健在であるが、面白いことに市内にある大学の建物は各地に散在しているから纏まった大学構内というものがない。

城は後にフリードリッヒ5世がオットー館と呼ばれるドイツルネッサンス様式の建物等を増築し整備して現在の形に近いものができあがった。赤色砂岩で出来ており、自然とよく調和した美しい姿は人々の心を引きつけ、大学の町の城としてその名を知られ、町は世界中の学生達の憧れの地であった。

町には学生牢等の史跡なども残されていて、酒を飲みすぎて暴れたり喧嘩をしたりした生きのいい学生達が収監されたもののようである。学生牢からの通学も認められておりここへ収監されることはむしろ名誉なことであると考えられる風潮があったという。因みにこの大学出身者でノーベル賞の受賞者が七人いるが、そのうち三人は学生牢経験者であった。日本の旧制高等学校生達のバンカラの気風もこんなところを倣ったのかもしれない。

アルト・ブリュッケはネッカー川にかかる古い橋で入口に建つ二つの丸い塔が美しいし橋の中央あたりから仰ぎ見るハイデルベルグ城の姿も美しい。




川面では学生が八人漕ぎのボートを楽しそうに漕いでいた。そんな光景を見ているとアルト・ハイデルベルグの歌詞が自然と頭の中に浮かび、知らず知らず独り静かに口ずさんでいた。そして、遙か彼方に消え去った、古都京都における若きよき日々のことが次々と懐かしく思い出された。銭湯へ行く時や食堂へ赴く往還に何時も歌ったものである。

「遠き国より遙々と ネッカーの流れ懐かしく 岸に来ませし我が君に
今ぞ捧げんこの春の いと美しき花飾り
いざや入りませ我が家に されど去ります日のあらば 忘れ賜うな若き日の
ハイデルベルグの学舎の いと麗しき思い出を」





翌朝ハイデルベルグのホテルを出発し、ロマンチック街道沿いの都市ローテンブルグへ到着した。現在観光コースとして脚光を浴びているこの街道は「ローマ風の」「ロマンスの」という二様の意味を持っていて、その昔ドイツからイタリアへの通商ルートであり、紀元前後のローマ時代にはクラウディア・アウグストス街道として知られていた。

 この街道は中部のビュルツブルグから南部のバイエルンを経て、アルプスの麓にあるオーストリアとの国境の町フッセンまで全長340kmに及んでいる街道に沿って、ワインで生計を立てている小さな村、小綺麗な木組の家並の町自由都市、古城や要塞、由緒ある寺院、庭園や豪商の館等が中世の面影をそのまま留めていて旅情をそそる。内陸部にありナポレオン戦争以降流通の中心から外れ、近代化の波に洗われることもなく、両世界大戦後の経済発展にも取り残されて陸の孤島と化していたこの地方も、発展の遅れたことが幸いして貴重な観光資源が良い保存状態で維持され、今ではドイツで最も人気のある観光地として蘇っているのである。

ローテンブルグは




四方にバイエルンの森と高原が広がっていて、中世の町並みがあたかも凍結されたかの如く、ほぼ完全に残されている城郭都市である。町の歴史は紀元前五百年頃ケルト人が入植した頃から始まり、1142年にドイツ皇帝の家系に連なるホーエンシュタウフェン家が居城をこの地に置いた頃から発展しだした。やがて市場が出来、城壁が築かれ十三世紀後半には市域の発展とともに城壁も第二、第三の城壁が増築された。現在も市の発展を物語る三つの城壁が龍の落とし子型に残されていて城壁の回廊を歩きながら市内を見学することも出来る。

街の中には14世紀の市庁舎、聖ヤコブ教会、マルクト広場の木組みの建物ブリュック公園等の由緒ある建物や史跡が良好な保存状態で多数残されているブリュック公園は最初に城が築かれた所であるし、市庁舎の鐘楼に登れば中世風の街中を俯瞰することができる。観光客に最も人気のあるのは、市庁舎広場の建物の壁面にある仕掛け時計である。

この日はアルプスの麓で、オーストリヤ国境に近いシュバンガウの村のホテルで宿泊した。辺境の田舎村という雰囲気が濃厚に漂っている村で、ノイシュバンシュタイン城やホーエンシュバンガウ城を訪れる観光客やスキー客、登山客が利用するらしく、民宿風のホテルが何軒も立ち並び牛小屋や蹄鉄屋も民宿と軒を接して建っている。民宿の窓という窓には美しい花が鉢うえされて吊るされておりとても美しい。ドイツ人に限らず、なべてヨーロッパの人は壁面や窓に花を飾るのが好きなようだ。道路には湯気の上がる牛の糞も落ちている。ホテル前の道路からは、小さくノイシュバンシュタイン城も望見できるロケーションである。

朝ノイシュバンシュタイン城を見学にいった。遠くからではその黒っぽい尖塔の屋根が山の色に溶け込んで、白壁だけが長方形に見えていた城だが近づくにつれ、次第にその全容を現しだした。沢山の尖塔を持つ城の容姿はいかにもメルヘンチックでディズニーランドにある城のように見える。しかし本当のところはこの城を模してディズニーランドの城が作られたということであるし、バイエルン国王ルードウィヒ二世がこの城の建設を決意した時の意図がロマンチックな城を建てようということであったからロマンチックでメルヘンチックなことこそがこの城の本質なのである。




この城の建設は1869年から1886年にかけて莫大な資金を投じて建設工事が行われたが遂に完成することなく、国王のルードウィッヒが狂人として王座を追われ、僅か三日後の1886年6月13日にミュンヘン郊外のシュタルンベルク湖で侍医とともに謎の死を遂げたので、工事は中断され城として実用に供されることもなかった。

作曲家リヒャルト・ワグナーのスポンサーであり、熱烈な崇拝者でもあったルードウィッヒはワグナーが作曲した「ニーベルンゲンの指輪」「トリスタンとイゾルデ」に因んだ色々な場面を絵画として描かせ室内の装飾にふんだんに用いている。

城の中の装飾も贅を尽くした豪華なものであるが、それにもまして城の建てられている地理的な位置が素晴らしい。城の背景にはアルプスの連山や湖や山の木々を巧みに配して自然とうまく調和させ、とても優雅で美しい光景を作りだしている。特に渓谷にかかるマリエン橋から眺める姿が最も良い。
折りから好天に恵まれ空気は乾燥していて爽やかであり、空は抜けるように青く素晴らしい景観であった。

悲劇的な運命を終えたルードウィッヒが残したこの文化遺産は、今では世界で最も美しい城として世界中の観光客を集めている。



2004年07月12日(月) 【ラテン文化とゲルマン文化がせめぎ合う国・・・ベルギー】

▼ベルギーの旅 アントワープ、ブルージュ、ブラッセル
                 2001年4月11日〜4月18日

 アントワープ市内では画家としては例外的に全生涯を通じて裕福な生活を送ったと言われるルーベンスの館を見学した。




宮廷画家でもあった彼のアトリエには注文主の貴族を迎えるために、二階からアトリエを見下ろす位置に設けられた閲覧台がある。ここには当時パトロン以外には誰も立ち入ることが出来なかったといわれるが、今は観光客に開放されている。ここから制作中の大作を眺める気分は想像して余りある贅沢で満ち足りたものであったに違いない。

ノートルダム大聖堂にも中に入って見学した。ここにはルーベンスの最高傑作と言われる大作が三点掲げられている。キリストの昇天、キリストの降架、聖母昇天である。






この後この夜の宿泊地ブルージュへ向けて出発した。今日は観光は申し訳程度のもので終日移動日のようなものであった。
翌朝は、現地女性ガイドのベネディクトさんの案内で、ブルージュ市内の観光である。彼女の英語はネイティブでないだけにゆっくり発音するので、小生にもヒヤリングができ彼女の説明の過半を理解することができた。
聖母教会、聖ヨハネ病院、愛の湖公園、ベギン会修道院、グルトフーズ博物館、ビールの醸造所、グルーニング美術館等の前を通って説明を受けながら運河クルーズの乗り場まで徒歩で観光した。




ブルージュの街には縦横に運河が流れており五十以上の美しい橋がかかっている。12〜13世紀には西ヨーロッパ第一の貿易港として大いに繁栄した中世の城郭都市である。ところが15世紀になるとブルージュと北海を結ぶ水路が沈泥のために浅くなり、商船が出入り出来なくなってしまった。このため都市機能を失ってしまった街は衰退の一途をたどったのである。寂れた街で生活する人々の悲惨な生活も語り継がれている。それは惨めな物語である。









しかしそのことが今となっては幸いし、中世の市街地がそのままの姿で保存されていわば街全体に鍵がかけられた状態で今日に当時の面影を伝える重要な観光資源になっているのである。このような街はヨーロッパではそこここによく見られる。小生が過去に訪問した都市の中ではハンザ同盟の盟主であったリューベック、ロマンチック街道沿いのローテンブルグ、ネルトリンゲン、南フランスのサンポールなどであろうか。






街中に縦横に張りめぐらされている運河を大きなボートで巡る約30分のクルーズはとても魅力的なものであった。路上を歩いて観察するのとはまた異なった視点から街を観察することができた。路面からの観察が建物の表面だけを観るのに対して運河から観る建物は裏面である。それだけに現代風にアレンジされていない当時の姿をそのまま観察することができたと言えよう。物資の動き、人の動きが少なく時間がゆったりと流れていた中世の姿が偲ばれて、あたかも時間が一点で止まっているような錯覚さえ覚える楽しい一刻であった。
午後は自由時間が沢山あったので、小さな街をあてどなく歩き廻り、非日常の中世社会の面影と日常の現代社会の喧騒とのからみあう姿を十二分に堪能した。再度訪問してみたい街のひとつである。
朝、ブルージュを出発し長駆ブラッセルへ向かった。市内では凱旋門と呼ばれる50周年記念門、ブリュッセル公園、最高裁判所前等を観光して廻った。

 日本人男性ガイドの吉水さんの説明の基調はゲルマン民族とラテン民族がその民族性の相違からあいせめぎ合っているのがブラッセルの街であり、目に見えない文化の壁、言葉の壁、民俗習慣の壁が厳然として存在するという説は目からうろこが落ちるように感じた優れた文化論であると思った。ベルギーという国は遠くシーザーが遠征した頃からベルガイ族というゲルマン民族が住んでいた土地であり、次第にローマ化されていったのだが、ゲルマン民族とラテン民族の融合しえない隔壁が厳然として現在も存在する国がベルギーであるという見方は、最近世界各地で火を噴いている宗教、言語、風習、人種を巡る紛争の根にあるものと相通じるものがあると思った。長い歴史と人間の叡知が紛争の発生することを抑えこんでいて、一見平和で穏健なヨーロッパの先進国であると思えるペルギーにもこのような問題が伏在しているのである。例えば北部のフランダース地方に住むゲルマン系のべルギー人はベルギー人である前にフランダース人であり、南部のワロン地方に住むラテン系ベルギー人はベルギー人である前にワロン人であることに誇りとアイデンティティを持っているのである。 従ってベルギー人に「ベルギー人て具体的には誰のこと」という質問をすると「それは国王のことさ」という返事が返ってくるという例え話はベルギーという国の民族構成の特殊性をうまく説明していると思った。ベルギーという国の認識は民衆の意識の中ではオリンピック大会のような場でしか発現しないのである。

 現実にフランダース地方にはフランダース人を統治する行政機構が存在し、ワロン地方にはワロン人を統治する行政機構が存在して別々に機能しているという。海に囲まれた国で単一民族だけで構成され、異民族支配を経験したことのない日本人にとってはベルギーはヨーロッパ社会が凝縮されている国であると考えて間違いなかろうと思った。

グランプラスの佇まい、ゴジバの本店、小便小僧等は3回目の訪問になる小生にとっては物珍しいものではなかったが、ヨーロッパの雰囲気を楽しむという点では懐かしい風物であった。昼食に食べたムール貝のワイン蒸しは何回食べても文句なしに美味しいと思った。




















午後はブリュッセル郊外のアンヌボア城、ヴェーヴ城、モダーブ城と古城巡りをした。アンヌボワ城の水を巧みに使った庭園芸術は素晴らしかったし、








ヴェーヴ城はドイツのノイシュバンシュタイン城を思わせるメルヘンチックな姿であり、モダーヴ城は城というより貴族の館という感じのものであった。現在ではこの城はホテルに転用されているがなるほどと思わせる作りであった。





翌日の午前中ワーテルローの古戦場を見学した。広大な農地はいまも当時と殆ど変わらない状態で残っていてこの戦場の近くには高級住宅地帯が形成されていた。





ヨーロッパの現在の国境線をほぼ確定したといわれる1815年のこのワーテルローの戦いは規模こそ異なれ、歴史的な意味合いでは日本の関が原の戦いに匹敵するものだと思いながら感慨深いものを感じた。
連合軍を率いてウエリントン将軍が陣を張ったといわれる場所にはピラミット状の丘が人工的に作られていて、頂上は展望所になっている。この丘の隣にはパノラマ館が作られていてウエリントン軍とナポレオン軍が大軍で激突した模様が実戦さながらになまなましく再現されており、この戦いの規模の大きさと激しさが具体的によく理解できるように工夫されていた。
ナポレオンが作戦本部を設置した農家も残っていて博物館になっている。ナポレオンの遺物なども展示されているが、もっとも衝撃的だったのは裏庭に設けられている無縁仏の遺骨を集積した納骨堂であった。窓から覗くと沢山の白骨が積み重ねられていて異様な感じを受けた。この地方の人々は白骨を直視しても何とも感じないのであろうか。このあたりの感覚が騎馬型民族でかつキリスト教徒であるヨーロッパ人と農耕型民族で且つ仏教徒である日本人との違いではなかろうかと考えてみた。



2004年07月11日(日) 【風車とチューリップの国・・オランダ】

▼オランダの旅 アムステルダム、ザーセスカンス、デン・ハーグ   
                 2001年4月11日〜4月18日

ブラッセル空港の入国審査の係員はやけに愛想がいい。日本語を振りまいてはパスポートをちらっと見ただけで通してくれるから意外に早く入国審査を終えた。迎えのバスに乗り込んで18時半にはアムステルダムへ向けて出発した。2時間半の行程である。ブラッセル市内を抜け出して郊外へ出ると折から木の芽時で木々の梢から萌えだした新緑がとても美しい。今まで忍従の冬を凌いできた木の芽が一斉に迎春の喜TZBびを奏でているようにすら見える。桜なのか胡桃なのか定かには判じがたいが満開である。緑色の田野の先に点在する農家の屋根は橙色で周囲の景色の中に良く融けこんでいる。空気はリンとしていて実に爽快である。

アムステルダム市街が近づくと飛行機の発着が頻繁に行われていることがよく判る空気が冷たいのでどの飛行機も派手に白い航跡を残して上昇し、或いは下降している3本も4本も航跡が交差している。折から日没で太陽が高層ビルの合間に沈んでいく姿は感動的ですらある。

・航跡を 従え春日 街に落つ

翌朝、最初にアンネの隠れ家の見学に出向いた。
1926年にドイツのフランクフルトで生まれたアンネ・フランクは姉と両親の四人からなるユダヤ人家族であった。ジャム用凝固剤を製造販売する会社を経営する父オットー・フランクの庇護下に裕福な生活を送っていたが、1933年ヒットラーがナチス党を率いて政権の座についたとき、身の危険を感じてオランダのアムステルダムに移住し暫くは安全に暮らしていた。
 ところが、1940年5月にマジノ線を突破して西部への侵略を始めたナチス軍が中立を宣言していたオランダを占領下に置いてしまってから状況は一変してしまう。ナチスの党綱領に掲げるユダヤ人の非国家公民化政策でユダヤ系住民は公職から追われ、徐々に隔離されていくのである。1942年7月6日アンネの一家は事務所裏の倉庫を改造した隠れ家に隠れ住むようになった。1944年7月密告により連行されアウスシュビッツの強制収容所へ送られるまでのおよそ2年間にわたってこの隠れ家で書きつづった日記が「アンネの日記」で60以上の言語に翻訳されている。

隠れ家のある運河沿いのブリンセンフラハト263番地の建物には表の建物と裏の建物があって表の建物には父の経営する会社があり、一階が倉庫、二階から上が事務所と物置になっていた。裏の隠れ家と表の事務所への往来は書棚で隠された秘密の出入口から行われた。裏の隠れ家は当時の状態のまま保存され、博物館として一般の観光客に開放されている。几帳面な字で書かれた日記のオリジナルも生々しい写真と共に展示されていて、戦争の愚かしさと人種差別に基づくホロコーストのおぞましさを訴え続けている。これらの展示物を眺めていると当時の悲惨な生活が偲ばれてアウスシュビッツでのガス室のことに思いが及ぶと何とも名状しがたい身の毛のよだつ厳粛な気持ちにさせられる。









ゴッホ美術館にはあの燃え立つような向日葵とか糸杉の絵は少なく、僅かに1〜2点あるだけであるが、馴染み深い自画像は数点展示されていた。展示されている絵はなべてこれがゴッホの絵かと見直したくなるような筆致のおとなしい絵が多数展示さていて、ゴッホの知られざる一面を見ることができた。そして興味をそそられたのは日本の浮世絵から多大の影響を受けたらしく浮世絵を模写したと思われるような作品が3点ばかり展示されていることであった。






アムステルダム郊外のザーセスカンス村で4基だけ残っている風車を見学した。風の強いオランダでは動力源として最盛期には9000基以上の風車が全国至るところで見られたが、今では千基弱の数を留めるだけになっている。産業革命以後動力源として蒸気、電気などにとって代わられたからであるが、オランダ産業の母体となったのはこの風車であった。低地の国オランダでは干拓のための揚水機として風車が活躍しオランダの風景に欠かせない風物詩であった。




ザーセンスカンス村は干拓事業によって出来上がった土地であり、土地を区画して運河が縦横に走っている光景はオランダ独特のものである。

朝八時にアムステルダムのホテルを出発してキューケンホフ公園へ向かった。とても寒くて4月とは思えない冷えこみである。手袋を持ってこなかったので手がかじかんでしまい、バスの車内から外に出ていると冷たさが身に滲みる。


オランダと言えば何といってもチューリップであるが、この時期は開花にはまだ早く、畑では花が咲いているのを観ることはできない。しかしこの公園では温室で色とりどりのチューリップの花や蘭の花を咲かせている。もともとこの公園はヤコバ伯爵夫人の所有地で狩りの他に野菜やハーブの栽培に使用されていた家庭菜園であった。これが1949年に花の公園として開園したのである。七ヘクタールの広大な敷地にはチューリップを始め、ヒヤシンス、アイリス等の多種多様な球根の花の公園として著名である。その花の数は六百万株にも及ぶという大規模なものである。折から屋外の畑には黄色の水仙が今を盛りと咲き誇っていたし、チューリップも蕾が膨らみ始めていた。温室に入るとそこにはありとあらゆる種類のチューリップが色とりどりに咲き誇っていて来園者の目を楽しませてくれる。それにしても氷雨が降る程寒くて戸外には出たくなくなる程の悪天候であった。

公園を後にしてデン・ハーグへ向かった。デン・ハーグで昼食を摂った後、デルフト・ブルーで有名な陶器工場を見学した。レンブラントの絵を模写して作った大きな陶板画が印象に残った。

マウリスハイツ美術館には逸品が多い。







主なコレクションはレンブラント、




フェルメール、ルーベンス、ファン・アイク、ヤン・ステーン


等であるが、レンブラントの「テュルプ博士の解剖学講義」やフェルメールの「デルフトの眺望」



「青いターバンの女」が特に有名である。美術館の建物自体もオランダで最も美しい建物の一つに数えられている。

政治の都市とも言われるハーグ市内の一角に湖の上に浮いているかのように見える美しい建物群がある。ビネンホフと呼ばれる建物群で国会議事堂や総理府、外務省等の政府機関である。国会議事堂は騎士の館が転用されたもので13世紀から17世紀に建てられた建物であり、華麗な中にも荘厳さを併せもった佇まいで、これがヨーロッパだと思わせるこの周辺の雰囲気である。

政治都市ハーグには平和宮と呼ばれる常設の国際司法裁判所もあって、米国の鉄鋼王カーネギーの寄付によるものでとても美しい建物である。

翌朝はアントワープへ向けて出発する日であるが、5時前に目が覚めて窓の外をみるとまだ暗い。そのうち段々と明るくなっていく空の様子を飽きずに眺めていた。

季節感や語感を大切にした昔の日本人は夜明け前のこの変化を四段階で捉え表現する言葉を編み出した。第一段階は「暁」で東の空が明るみ始めた頃、二段階は「東雲」で東の雲に明るい色がつきはじめる頃、三段階は「朝ぼらけ」でかなり空が白み陽の光が見えだした頃、四段階が「曙」でかなり明るさが進み日の出直前の頃、そして日の出となるという説を出発前に家内と議論したことを思い出しながら眺めていた旅に出た時の喜びや感動は、非日常の生活の中で単なる天然現象の中にも思わぬ発見をすることである。

バスで出発し途中ホーボーケンという街で小休止したとき、フランダースの犬の主人公ネロ少年と愛犬パトラッシュの記念像を見学した。意外に小さな像で地元の人もその存在を知らなかったらしいが、日本人観光客が団体でぞろぞろ押しかけるようになって知られるようになったということである。日本人とは何と物見高く話題を捜し回ることが好きな民族なんだろうと考えさせられた。

オランダ国境とベルギー国境をバスで通過したときには検問もなく,従ってパスポートのチェックもない。それらしき建物もなく、異国へ入国しているという感覚が全くなかった。ガイドに説明されなければ国境であるとは気がつかない。日本で東京から関西方面へ旅する時、県境を何の感慨もなく通過するのと同じ感覚である。これがEC加盟のヨーロッパの国々である。



2004年07月10日(土) 【中国の内陸部は目下普請中・・・河西回廊��】

平成16年7月10日(土)
 朝早く蘭州の飛天大酒店を出発して沙漠の中をを劉家峡ダムへ向けて疾駆した。

 目的地は炳霊寺石窟の見学である。約2時間走行して劉家峡ダムの船着場へ到着した。船着場からはモーターボートに乗ること約1時間で45km先の炳霊寺に到着した。今は渇水期にあり水位は相当下がっておりモーターボートも浅瀬に乗り上げないようエンジンを切って漂うように進むこともあった。

 モーターボートのスピードが意外に早いのは驚きであったが、更に驚いたのは、モーターボートのどこにも救命胴着が設置されていないことであった。乗船前にも後にも安全に対する注意はひとこともなかった。膨大な人口を抱える中国社会の人命や人権に対する評価の程度が推し量れるなと思ったし安全意識の水準は相当低いなとも思った。

 河の水の色が茶褐色であったのもちょっとした驚きであった。粘土質の黄土が溶け込んでいるのでこのような色になるのであろうか日本の河川では見られない色である。

 炳霊寺とはチベット語で千仏万仏を意味するという。石窟数は183箇所あり、西秦時代から清時代に渡って石窟は造られたがその80%は唐代のものである。高さ27mある唐時代の大仏は炳霊寺のシンボルとなっている。上半身は石彫で下半身は泥塑像である。 見学したのは6窟、9窟、11窟、70窟、16窟である。
                        




劉家峡ダム




                    
茶褐色の河の水



    
                 
炳霊寺のシンボルの大仏           





炳霊寺石窟



                       

炳霊寺石窟周辺の光景        





炳霊寺石窟内の仏像

                      



蘭州市内を貫流する黄河  





西安の西門の起点から西へ伸びるシルクロード

平成16年7月11日(日)
 昨日夕方蘭州から再び西安に飛び西安賓館で最後の夜を過ごして今回の旅の締め括りとして西安市内の西の城門を訪ね、シルクロードの起点から西へ伸びる河西回廊を感慨をもって眺めた。今回の旅の印象は素晴らしい芸術作品に触れたことと、中国の内陸部にも開発の波が押し寄せ至る所で普請が行われていることであった。恐れるべし中国の活力。                                    
『稼ぐ宣伝代行』
                                       



2004年07月09日(金) 【中国の内陸部は目下普請中・・・河西回廊�─�

平成16年7月9日(金)
 9時に出発して武威市内の雷台に向かった。市内の会社や官庁の始業時間と重なる時間帯だったので道路のあちこちで始業体操を目撃した。また武威市も普請中であった。
                        



朝の始業体操             




   
地上げ中の武威市内

 雷台とは、雷神廟の土台という意味で名付けられた史跡である。1969年9月に後漢時代の大型墳墓が発見され、耳室から沢山の馬軍が出土した。墓は前室、中室、後室、耳室とからなり、19mの長さがある。出土品では「馬踏飛燕」が有名である。長さ34.5cm、高さ45cm重さ7.5kgの銅製の奔馬である。この墓は張という将軍の墓であったことが判っている。墓内部の埋葬物は盗掘にあって殆ど残っていない。粘土を使わずに煉瓦を組み上げて造った墓はアーチ構造になっており、1927年に発生した7.8度の地震にも耐えて現在にその姿を止めている。
                      




雷台から出土した馬軍のレプリカ  





 馬踏飛燕の像の前で始業体操中の郵便局員達

 雷台の次に甘粛省で最大の孔子廟である文廟を見学した。
 この文廟は中国の中では3番目に数えられ、明代の1439年に創建された。
 孔子廟の天井に掲げてある沢山の掲額は文曲星という道教の神に捧げるために著名な書道家や彫刻家などの文化人が奉納している。
 庭には香港返還の年1998年に香港の篤志家が建てた大きな孔子の銅製像が佇立している。
 また博物館には西夏文字の大きな碑があり女性研究員達が拓本をせっせと採っていた。 再び天馬賓館に戻り昼食を摂った後、蘭州へ向けて沙漠のドライブが始まった。途中海抜3000mの鳥鞘嶺(うしょうれい)峠から眺めた山並みと一面の菜の花畑の美しさは筆舌に尽くし難いし、馬鹿チョンカメラをもってしてもうまく表現できない。 
                       



文廟の門            





文廟   天井の掲額
                
  



  香港返還記念に香港の篤志家
  が寄贈した孔子のブロンズ像





峠の鳥鞘嶺(うしょうれい)から見た菜の花畑と山並

 鳥鞘嶺での絶景を堪能してからバスは山間の沙漠を蘭州へ向けてひた走った。大概の乗客は沙漠の景色には見飽きて居眠りを始めていたが、筆者は飽きることなく窓外に移りゆく景色に何か発見はないかと眺め続けた。

 そのうち周囲の禿げ山に鉢巻き状の筋が一定の間隔で刻まれているのに気がついた。これが植林のための土壌作りだと気がつくまでに時間はかからなかった。かつて内モンゴルへ遊んだ時、これと大同小異の光景を見たことを思い出した。バスがこの鉢巻きに接近した時、この考えに間違いのないことを確信した。それは鉢巻き状の線は近くで見ると幅をもった溝になっており、ビニール袋に穴の空けたものが置かれている。これは肥料と土壌改良剤の混合したものが入っているのだろう。灼熱の太陽に焼き付けられて肥料と土壌改良剤が地山と緩やかに反応して土壌が形成されるのである。ある程度土壌が出来上がったところで今度は苗木を植えていくのである。それはそれは気の遠くなるような時間のかかる大事業であり、人間の弛まざる営為の産物なのである。沙漠の中にある山という山にこの鉢巻き状の線条が刻まれているのである。内モンゴルで聞いた話ではこの植林のための作業のために税として農民の労力が駆り出されるということであった。残念ながらガイドは西安育ちだからこのことについては何も知らなかった。

 この禿げ山の線条に緑の小さな苗木の植えられているのが目につくようになつた頃、漸く蘭州近郊に到着していた。蘭州市内に入るとこの緑化運動は蘭州から始まっていることが歴然としてきた。緑化センターという看板も見えたし、かなり成長したポプラ等の植樹が帯状に生い茂っているのを目撃したのは蘭州市内に入ってからであったからである。
                       




蘭州郊外 植林のため線条に土壌作り  





蘭州市内 帯状に苗木の育っている山とヨートンの跡

 更にもう一つの発見は蘭州市内に入ってくると緑の増えてきた山の断崖に穴が掘られているのが沢山目につくようになった。これは黄土地帯に古くからあったヨートンという住居跡ではないかと見当をつけた。この推定が正しいかどうか執拗にこの横穴に注目していた。今は廃墟と化して打ち捨てられているものもあれば、ごみ捨て場や物置に転用されているようものもあることに気がついた。更にこれがヨートンに違いないと確信したのはこの穴に窓と扉がつけられて人間が住んでいる穴を幾つか目撃したからである。高速で動いているバスからなので写真が鮮明に撮れなかったのが残念である。
                        




廃墟となったヨートン 幾つも穴がある   





山腹のヨートン、まだ使われている。                 穴に扉と門がつけられているのが判る

 夕暮れに到着した蘭州の中心地でも普請は続いており、夕方遅くまでクレーンが作動して新しいビルの建設作業中であった。
   




蘭州市内のクレーン作業

 夕方蘭州の飛天大酒店に到着し、市内のレストランで蘭州名物の牛肉麺に舌鼓を打った。
                        




手打ち蕎麦の実演





蘭州名物牛肉麺



2004年07月08日(木) 【中国の内陸部は目下普請中・・・河西回廊�А�

平成16年7月7日(水)
 朝8時にホテルの服務員達に見送られて酒泉市内の鐘鼓楼を見学にでかけた。今日は沙漠の中を次のオアシス都市張掖まで沙漠の中を長駆する日である。




ホテル服務員の見送り

 鐘鼓楼は4世紀中頃建てられたが消失し、清時代に再建された。東西南北にそれぞれ次のような門額が掲げられていて、東西南北を結ぶ要衝の地であったことが窺える。
 東迎華岳(東は華山を迎え)         
 南望祁連(南は祁連を望む) 
 西達伊吾(西は伊吾に達す。伊吾は現在の哈蜜) 
 北通沙漠(北は沙漠に通ず) 


 酒泉市内の楡の並木路が街の姿に風格を添えていた。
    
                 


         
鐘鼓楼



酒泉市内の楡の並木路

 張掖市近郊の黒水城へ立ち寄った。漢の時代に造られた古城跡であり、東西2km、南北やく2.5kmあり、見るべき建物は残っていなかったが狼煙台の跡は確認できた。
                       



黒子城跡              



黒子城狼煙台跡

 張掖市のホテルへ到着し沙漠走行中の汗と埃を流してからホテル近くの大仏寺の見学にでかけた。大仏寺の創建は西夏の永安元年(1098年)で大仏殿の中には体長34.5m、肩の幅7.5mの釈迦仏の涅槃像が横たわりその周辺には十大弟子の塑像がずらりとならんでいた。
 大仏寺の後にはチベット仏教式の土塔が建っていたし、各堂塔の庇に吊るされた風鈴がカランカランと涼しげに音をたてていた。燕が沢山飛び交っていたのも印象的であった。この寺の縁起は西夏時代にある国師が座禅をしていると物音が聞こえたので掘り返してみると地下から仏が一体出土したということである。
                        



大仏寺の本堂、この中に涅槃仏が祀られている  




チベット仏教式の塔
 バスで走行中、今日は日本では七夕でいろんな行事があるが、中国ではどのような行事をするのかとガイドの王さん、劉さんに聞いてみたが、本人達に知識がないのか特別な行事はしないという回答が返ってきた。本来1月1日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日は陰陽五行説からは陽の日であり、祝い事が行われる。何れにしてもこのような行事の本家は中国であろうと思っていたが現地人ガイドが何も知らないというのは意外であった。
 この日は時間に余裕があったが、疲れていたので市内探索にはでかけず、同行の橋田さんと囲碁を打ち通算三勝三敗の互角に持ち込んだ。

平成16年7月8日(木)
 この日は珍しく雨が降っていた。地元の人達は恵みの雨だと喜んでいたが、旅行者にとっては雨は鬱陶しいものである。幸い本日は移動日のようなもので雨が禍することもなかろう。
 朝9時に張掖市のホテルを出発して、次なる目的地、張掖市粛南裕固族自治県へ向かった。この当たりは河西回廊の中でも南北の幅が最も狭い地域であり、バスはやがて祁連山脈の麓へと入っていった。標高は2000m位である。小雨が降っているせいもあるが肌寒さを感じる程度である。
 バスを降りて前方を見ると祁連山脈の山々を後に控えてパオが幾つも並んでいる。裕固族の村落である。手前には地域活性化の目的で観光客誘致目的で建てられたと思われる新しい建物が軒を並べている。中国沿海部の発展に刺激されて山間の僻地にも開発の波が押し寄せてこれから売り出そうという村の意志が窺える。
                       



祁連山脈の山々の麓にある村落のパオ  



 バスの発着場付近にできた新しい建物
 この村落へ向かって暫く歩いて行くとジーパン姿でほっぺの赤い若い女性が出迎えてくれてパオ村の方へ誘導してくれた。ほっぺが赤いのは化粧しているのではなく、霜焼けしているのである。パオへ到着すると5人の若い女性が民族衣装を纏って、客人一人一人に白い布を肩にかけてくれて歌を歌いながら杯に酒を酌んで勧めてくれる。
                       



歓迎の白い布を客人一人一人に捧げる     
 



着席した客人に歓迎のお酌

 客人を歓迎する最初の儀式である。みると先程道案内をしてくれた女性も民族衣装に早変わりしている。考察してみると彼女はジーパンの上にスカートをつけているのだ。最初あったとき、なんだかお腹が膨らんでいるなという印象をもったが、スカートの裾をまくりあげて上着の下に隠していたのである。そのためお腹が膨らんでみえたという次第である。
 パオと書いたが我々が招き入れられたのは厳密にはパオではなく、仮設テントにすぎない。ここにも観光を売り物に地域活性化を図ろうとする中国人の悪しき商業主義が垣間見える。田舎者の純朴さを装った狡賢いしたたかさを感じ取ったのは筆者だけであろうか。 パオの中で椅子に着席すると、油で揚げたパンとそば粉を水に溶いたような飲み物が振る舞われた。バターも添えられている。当然の事ながら仮設テントであるから絨毯は一枚もなく、丁度品もない。従って客人は靴を脱ぐ必要もない。
 客人達が全員着席したのを見届けると、彼女達は客人に対し一人三回ずつ酌をしてまわりその都度声を合わせて歓迎の歌を歌うのである。
 歓迎の酌が終了したところで、5人の若い女性達による民族舞踊が始まった。音楽はCDに録音された曲である。三種類ほどの踊りが終了した時点で今度は客人も中に入って踊るよう誘いかけてきた。いよいよフィナーレであるらしい。旅の恥はかきすてとばかりに誘われるままに最初に踊りの輪の中に入っていくと、これに刺激されたように次から次へと客人達も加わり見よう見まねで踊り、楽しく交歓することができた。やがて終わりの時がきて今度は惜別の杯の勧めである。度のきつい白酒をしこたま飲まされて客人達は皆ご機嫌であった。
                       



民族舞踊            




客人と共にフィナーレ

 裕固族というのはウイグル族の先祖にあたり高地で遊牧と農業に従事してきてこの地に住み着いた少数民族である。この自治県に約二万人住んでいるが、中国に56種族ある少数民族の中でも最も人口の少ない民族であるという。
 裕固族の訪問を終えて山沿いにある馬蹄寺の石窟を遠くから見学した。
                        



馬蹄寺の石窟         




中央に盛り上がっているのが長城

 張掖のホテルへ一旦帰って昼食を摂った後、武威まで長駆280kmの沙漠のドライブである。途中漢代と明代の長城の遺構を発見し、バスを停めて写真を撮った。
 18時過ぎに武威の天馬賓館に投宿した。



2004年07月07日(水) 【中国の内陸部は目下普請中・・・河西回廊�Α�

平成16年7月6日(火)
 朝8時に安西の瓜州賓館を出発して嘉峪関へ向かった。安西市の官庁や会社は丁度始業時間にあたり、職員や社員達が道路に出て整列し朝の体操をしていた。その体操は太極拳の要素をとりいれたような動きである。また市民達はそれぞれに太極拳をしていた。中には扇子をもって大見得を切る人もいて通りすがりにみていても楽しいものである。バスはひたすら嘉峪関へ向けて長駆する。
 途中風力発電用の柱が林立し先端で羽が回転している所を目撃することもできた。経済発展が急速に進む中国では深刻な電力不足を抱えており、それを補完するためこのような風力発電にも取り組んでいるであろう。電力事情といえば、ホテルやレストランに入っても照明が暗く、ホテルの廊下等は消灯しており、足元がよく見えないということもしばしばであったし、トイレも薄暗くしており、不用不急の電力は節電しようという官民あげての取り組みを知ることもできた。 
                       







     風力発電のプロペラ            








嘉峪関の入り口

 正午過ぎにやっと嘉峪関市内へ到着した。都市計画が進んでいて道路も広く新しいビルが建ち並びここでもクレーンがそちこちに建ち並び今まさに普請中の観を呈していた。
 嘉峪関は明の長城の西端に当たり、高さ11mの城壁によって囲まれており、「天下の雄閣」として国防の要地であった。北馬鬃山、南祁連山脈の麓まで長城によって河西回廊をふさいでいた。
 城郭内には燕が沢山飛んでいたし、「撃石燕鳴」と称する石が置いてあって石に穿たれている穴に別の石を打ちつけると燕の鳴き声のような音がした。
 構内の広さは33,500m2に及び城郭は内城、瓮城、羅城、外城、城壕からなっており、高さ13mの三層の城楼は嘉峪関のシンボルとなっている。
                      







       嘉峪関の門           










嘉峪関の建物、後方が三層の城楼

                      







       嘉峪関の城郭内        








 嘉峪関より南へ伸びる長い城壁

 続いて嘉峪関から東20kmの沙漠の中にある魏晋壁画墓の見学に行った。広大な沙漠の中に1,600もの魏晋時代の墓の埋まっている箇所がある。これらの墓には魏晋時代、五胡十六国時代の壁画や彩色画が埋もれている。そのうち第6号窟を見学した。この窟は深さ9.8mであって、1972年に鉄鋼工場が下水道を掘っている最中に偶然発見したものである。
 墓の中は前室、中室、後室と三つに分かれていて、前室前には力士が描かれている。
 前室には牛を殺す場面や料理をする姿、駱駝等が描かれている。中室にはシシカバブや羊料理、酒を飲む姿、桑を摘む姿が描かれている。後室は夫婦の柩を安置したところである。撮影禁止のため内部の絵は絵葉書から転写することにする。
                          



                          



  こんもりした小山の下に墓がある。煙突
  様のものは換気のためのもの          

下の短冊型二枚は魏晋墓壁画












 魏晋壁画墓地を後にして沙漠の中を走りやがてオアシス都市酒泉へ到着した。酒泉公園に先ず立ち寄った。夕方5時半になろうというのに日はまだ高い。
 この公園は目下工事中であったが、地名発祥の源となった泉を見学した後池の周辺で時間を潰した。ここで有名なのは霍去病が匈奴征伐に戦功を挙げ、漢の武帝から賜った褒美の酒が全兵士に行き渡るようにと泉に注いだ故事である。酒が注がれると泉からは酒が滾々と湧き出て泉の水が美酒に変わったというのである。その泉は現存していまなお清水が湧き出ていた。どこの名泉にもあるようにここでも泉の中にはコインが泉源めがけて多数投げ込まれていた。商売上手の中国人であるから多分「酒泉」と銘うった地酒があるかとガイドに聞いたり、酒屋で探したがそれはないということで意外に思った。もし日本人であれば本家争いをする程に沢山の似たような銘柄の地酒が土産物屋の店頭には氾濫しているだろうというのに・・・
                       







       酒泉公園の泉           



2004年07月06日(火) 【中国の内陸部は目下普請中・・・河西回廊�ァ�

平成16年7月5日(月)
 朝9時に敦煌賓館を出発して沙漠の中をひた走った。羊や山羊が放牧されているのを眺めたり、祁連(きれん)山脈を横に見ながら沙漠のマッサージに身を委ねていた。道路に平行して寿命3000年と言われるポプラ並木がけなげにも続いているのでその生命力の強さに感動を覚えて眺めていた。途中、道路が通行止めになっている箇所があり、舗装されてない旧道を迂回した。今まで気がつかなかったが、旧道に入ると道路の傍らに側溝が掘られており沙漠の中を雪解け水が奔流のように流れていた。側溝はコンクリートで固められた巾1m程のささやかなものであり、本線を通っているとその存在に気がつかなかったであろう。そしてこの側溝に水が流れているから枯れもせずポプラ並木が続いているのだと了解した。と同時に沙漠の中にこの側溝と道路を付設した人間の弛まざる営為のことに思いを馳せていた。
                        



沙漠の山羊飼           



手前はラクダ草、山は祁連山脈
                       


幹線道路から眺めたポプラ並木     



迂回した旧道側を流れる雪解け水
                       


楡林窟の入り口から見た窟全景       



楡林窟の洞と手摺り

 昼食を安西市内のレストランで摂ってから楡林窟へむけて走った。やがて楡林ダムと楡林川を横に見たと思ったら楡林窟へ到着していた。
 楡林窟は敦煌の東南約170kmのところにある石窟群で莫高窟と異なり、西洋人による収奪を受けていない。海抜1660m、長さ650m、巾約100mの楡林河が大地を浸食して形作る雄大な渓谷の中にある。 
 ここでも窟内は写真撮影が禁止されているので現地で購入した「安西楡林窟」というパンフレットに搭載されている写真から転載することとし、訪問した順序に従って画像を示す。
▼2窟  西夏時代
                     



西壁北側 水月観音          



西壁南側  水月観音        
 
これらの観音像は顔面と光背の部分の顔料が変色して黒っぽくなっている。

▼3窟  西夏時代                              



          
西壁南側 普賢菩薩     



西壁北側 唐僧取経図    



西壁北側 文殊菩薩 
 北側の水月観音では画像には表示しきれないので上の図に別に示すように、川の対岸に玄奘三蔵取経図を表しており、玄奘は袈裟を纏い、観音に向かって拝んでいる姿が描かれている。その後には孫悟空と白馬も控えている。                
                                  
▼3窟  西夏時代   




  東壁南側                            
  五十一面千手観音

▼4窟  元時代                   
                                    


北壁東側  釈迦多宝並座説法図                 
 


南壁西側 説法図   
45窟   中唐時代                                                       

北壁    弥勒経変




北壁 弥勒経変中嫁娶     




北壁 弥勒経変中耕獲




南壁 観無量寿仏経変



西壁北側 文殊菩薩及び侍従  25窟
▼19窟 五代時代



 窟通路北壁 涼国夫人供養像  窟通路南壁 曹元忠供養像

▼6窟 唐時代 一番大きな唐代の大仏が石壁を彫ってその上に粘土を塗って作られた。晋の時代に金箔を塗った。大仏の下部は川の洪水で浸水したため壁画が消失した。天井や壁には千仏が描かれている。画像は示せない。

▼17窟 初唐時代
    



赴会菩薩
  この洞窟は唐時代に造られ。五代、宋代、西夏、清時代に改修されたが図示してある五体の法会行き菩薩は宋代に描かれたものである。この菩薩は華やかな服装で顔が広く体も大きく表情が穏やかである。呉道子の画風が再現されている。 
 この窟には1907年、スタインの通訳の名前が落書きされていた。 

▼15窟  中唐時代
  



前室頂南端   笛吹飛天

 この洞窟は宋、西夏、元、清時代に再建されたが、前室の天井の南端に描かれた笛吹飛天は中唐期の原作である。唐時代の傑作である。尚この窟には迦葉、阿難の像もある。

▼16窟   五代時代   この窟は曹氏一族によって造られ、壁には家族が描かれてい る。                     




前室西壁北側 供養天女      



通路南壁 曹議金供養像      



2004年07月05日(月) 【中国の内陸部は目下普請中・・・河西回廊�ぁ�


▼57窟 初唐時代                         
                              

南壁中央 説法図            

                                
                              
           
南中央東側 観音菩薩  

                                    


北壁中央 説法図         


左から 勢至菩薩、迦葉、阿弥陀仏、阿難、観世音菩薩          


                           



北壁中央「説法図」右側  勢至菩薩   


▼158窟 中唐時代                           



西壁壇上 涅槃仏





北壁中 涅槃変 各国王子の哀悼





西壁龕頭 瓔珞を持つ飛天





西壁龕頭 笛を吹く飛天


▼莫高窟について
 莫高窟は敦煌の街から東南約25kmにあり、東は三危山から西は鳴砂山の間の崖に営まれている。BC366年に楽僔という僧がこの崖下に立つと向かいの三危山が金色に輝き、何千もの仏の姿が光の中に見えたという。そこで楽僔はここを聖地とし、崖に石窟を彫り始めたのである。これが莫高窟の起源である。 

 莫高窟の多数の芸術品に酔った後、敦煌市内の沙州市場を見学した。 
 リコウ杏という果物は梅と桃を一緒にしたような感じの果物であるが、食べるととても美味しいので、市場で三元分買った。洗いもしないでそのままかじった。これが影響したのか翌日便が緩んで悩まされた。海外では生野菜とか果物には要注意であることを思いしらされた。
                       



市場の野菜売り                           
              



 鳴砂山

 



 月牙泉               





月牙泉の畔の寺院




 夕食後、午後7時から鳴砂山と月牙泉の見学に出かけた。7時だというのに太陽はまだ傾きかけたばかりで日本のこの時節の感覚では午後3時か4時頃のような気がする。
 駱駝の背中で揺られながら鳴砂山の麓まで行った。砂丘は砂滑りをしている若い人達で賑わっていた。
 風が吹くと砂が雷のようにゴロゴロという音を出すので鳴砂山と名付けられたという。長い年月をかけて周辺から吹き寄せて留まった砂が東西40km、南北20kmの巨大な砂山を作っている。太陽の当たる面と陰になる面とが幾何学的な明暗をくっきりと対比して見せている。駱駝を下りた場所から塔の見える方向へ進むと、三日月の形をした月牙泉に至る。月牙泉は東西200m、巾50mあり深さは平均5mである。沙漠の真ん中にある池であるが枯れることはないという。地下に水脈のあるオアシスになっているのである。
 月牙泉の畔にはお寺が建っていて堂内の一室では鳴砂山をテーマにした写真展が開かれていた。吹き寄せる砂が寺の屋根瓦に堆積していた。










2004年07月04日(日) 【中国の内陸部は目下普請中・・・河西回廊��】

平成16年7月4日(日)
 今回の旅行のハイライトとも言うべき莫高窟の見学である。説明には昨夜講義を受けた楊麗英女史があたって下さったのでその流暢な日本語とともに説明も判りやすかったと感謝している。
 日曜日のせいか観光客が多い。人混みのなかを入り口の方へ歩いて行くと先ず飛天の像が目につく。これは敦煌市のシンボルともなっている像である。
 更に歩を進めると莫高窟の門がある。莫高窟の門を潜ると土色の回廊が見えてくる。回廊は概ね二層になっていて壁には洞が穿たれているのが目に入る。やがて8層からなる莫高窟では最大の建造物である96窟が見えてくる。これは莫高窟を紹介する書籍やパンフレツトには必ずでてくる有名な朱塗りの建物である。中には高さ35.5mの大弥勒大仏が自然の山を利用して造仏され鎮座している。窟内は撮影禁止である。
                 
    


    
莫高窟の入り口にある飛天の像





莫高窟の入り口の門 


                           


断崖に手摺りのつけられた窟群 





96窟の8層の楼 





莫高窟の全景



 以下に見学した窟毎に【敦煌石窟の珍品】という現地で求めたパンフレットに収録されている画像を示しながら見学した順序に従って記述していくこととする。

▼148窟 盛唐時代に作られた15mの大きさの涅槃仏が横たわっているが、その後方に涅槃経変が長さ23m、巾6mにわたって描かれている。

 ここには東壁南側の観無量寿経変の画像を示すことにする。

 この絵は敦煌石窟で最大の経変絵であり、西方浄土世界を中心に、その両側にそれぞれ未生怨と十六観が描かれている。無量寿仏は真ん中に置かれ、蓮華座に跏趺坐を組み説法し観音菩薩と大勢至菩薩等の教徒がそれぞれ左右に付き添って立っている。池の台の中央部に置かれた二人の舞伎が踊り両側で楽隊が伴奏している。台の下の池では波が揺れ動き、化生童子が蓮華の中で遊んでいる。この絵の上部には宮殿、あずまや、楼閣が描かれている。この絵は構図が壮大で極めて珍しい当時の宮廷建築の研究資料となっている。




 画集の折り目の部分が邪魔をして絵の両端がスキャンできなかったので未生怨と十六観の絵は残念ながらこの絵には表現できていない。


▼130窟 




盛唐時代に遠近法で作られた高さ26mの大仏。宋時代に再建された。この大仏は莫高窟の二大仏の一尊であり、第二大仏と誉められている。半趺坐を組む弥勒菩薩である。この仏像は万物を包容する気概、雄大な気勢を示ししめやかな中にも威厳をたたえている。口許の上塗りが剥落しているのが残念である。 


  


通路の南壁に描かれた都督夫人太原王氏夫人供養像。     


 この窟の造営を担当したのが太原王氏であったと推定できる。今流に言えばスポンサー夫人ということであろうが、家族と使用人を引き連れて仏に参拝する情景が色彩鮮やかに描かれている。人物像が豊満で生き生きしており、清新明快な画像であり、敦煌石窟に二つとない珍しい画像である。 

▼249窟
                    
         

 

 阿修羅 図中の阿修羅は裸体で四つの目と四本の手を備えていて、しかも背高であり両足で大海に立っている。両手で月と太陽を掲げ持ち、残りの両手には龍が巻きついて阿修羅を護衛している。後方には弥勒菩薩の住む須弥山が描かれ、両脇には風神と雷神を配している。また最上段には西域風の天宮が描かれ最下段には漢風の建物が描かれている。この絵には示されていないが、この窟の壁面には白虎、青龍、朱雀、玄武の四神も描かれていた。





子連れの猪が森の中を餌探ししている絵                 
      
▼257窟 北魏時代                        
 
                              

西域様式の弥勒菩薩                      






 飛天 飛翔の姿はそれぞれ異なり、形は無類の美しさを表現している  
 
                                    


 九色鹿本生の中 溺人獲救 溺れた男が助けて貰った九色との約束を破ったため死んでしまうという因果応報の物語を表している。





九色鹿本生の中 鹿と国王 


▼428窟 北周時代                          
                             
       
東壁北側 シッダルタ太子本生       


釈迦の前世の本生譚「捨身飼虎」の物語が描かれている。




南壁 飛天と菩薩  


上部には四人の半裸飛天が描かれ下部には四人の供養菩薩が描かれている。
四人の手の構えがそれぞれに異なり、ペルシャ風のずぼんをはいている。 
▼427窟  北周時代          




弟子阿難 






弟子迦葉   


▼328窟 初唐時代       

     


仏壇の座像群


                             
>     


上図の中央の釈迦像   


                          
 この日午後から45窟、57窟、158窟を楊女史の説明で特別見学をした。    

▼45窟 盛唐時代                         

     

                                                       
敦煌石窟の盛唐時代の最高傑作とされている塑像                
  左 迦葉、中央 菩薩、右 天王                  
     
                             

商人が盗賊に遭遇した図 当時のシルクロードの治安状態を表現している。


                                

                             


 観無量寿経変


               
 真ん中の阿弥陀仏は蓮華座趺座を組み、説法している。下部の台の両側に置かれた楽隊が演奏し、二人の舞姫がひらひら踊り、太平で隆盛な西方極楽浄土の光景を表している。                       
                                    
                                    
                                    
                                    
                                               
                                  



2004年07月03日(土) 【中国の内陸部は目下普請中・・・河西回廊�◆�

平成16年7月3日(土)
 西安から飛行機で敦煌へ飛んだ。機中から地上を俯瞰すると砂漠の中に帯状に緑が広がっている箇所が幾つか見える。これがオアシスでそこには河西回廊の都市が営まれているのである。敦煌近くになると緑の巾と長さがとても大きなものに変わり、敦煌が西域の重要な拠点都市であることがよく判る。
                         



俯瞰した沙漠の中のオアシス      





手前のオアシスの向こうに沙漠を挟んで崑崙山脈の雪山が見える


  


敦煌上空から見た俯瞰図



 敦煌とは盛大に繁栄する街という意味だという。この辺境の地の地名「敦煌」が史書に表れるのは漢の武帝(BC141〜87)の時代である。この頃この地域の支配者であった月氏が追い払われて、匈奴がこの地帯を支配していた。これに対抗して西域の不安を取り除くために武帝は匈奴討伐に乗り出したのである。武帝の命を受けた衛青(えいせ
い、?〜BC106)、霍去病(かくきょへい、?〜BC117)等といった将軍の活躍により武帝軍は匈奴を追い払ってしまった。爾来敦煌は河西回廊西端の重要な拠点として歴史に登場することになる。武帝は万里の長城を敦煌まで伸ばし匈奴に対する備えを万全のものにしたのである。かくして、敦煌はシルクロード(絹の道)の西の出口、東の入り口として盛大に繁栄する街の異名をとることになったのである。
 以下の記述は村上みどり氏のサイト【シルクロード・河西回廊、敦煌を行く】から引用させて頂いた。
引用開始
 シルクロードの冒険商人達は早くも1世紀頃に敦煌に姿を現している。中央アジアのサマルカンド、ブハラなどの商人が、東西を結ぶ役目を担っていた。敦煌の名前がプトレマイオスの「地理書」に登場するのもこの商人達のお陰である。 
 もうひとつ、敦煌が歴史において重要な役割を果たすのは仏教の伝来路としてである。紀元前2世紀頃、匈奴に追われた月氏は、その後、アフガニスタンで大月氏帝国を築きあげた。この月氏の手を経て中国に最初に仏教がもたらされたという。 
時代はちょうど、紀元の変わり目の頃である。更に2世紀になって、仏教の伝来は本格化する。インドの経典が続々ともたらされ始める。僧達は敦煌で漢語を学び、布教のために長安に赴いた。「敦煌菩薩」として知られる竺法護(じくほうご)、鳩魔羅什(くまらじゅう)といった名前が、インド経典の中国語訳の功労者として、敦煌の名と結びついている。
 敦煌が最盛期を迎えたのが隋、唐時代である。シルクロードの交易と、仏教への帰依が敦煌の重要性を高めた。敦煌は砂漠の街であるから砂嵐は通常のことで朝夕の寒暖の差が激しく、「朝は綿入れ、昼はシルク、夜はこたつに入ってスイカを食べる」といわれている。セキセキ草、ラクダ草、タマリスクがゴビの三宝になっている。
 莫高窟が盛んになるのもこの時期である。755年に起こった安・史の乱の影響で中央政府の影響が弱くなった。それに呼応して西域では吐蕃国の力が強まり、781年に敦煌はその支配下に置かれる。その後、唐の武宗が845年に廃仏を行い、中央の仏教寺院はことごとく破壊されたが敦煌は吐蕃の支配下にあったので難を逃れた。
 唐から宋に王朝が変わるに及んで、敦煌は中央から切り離され、西夏王国の支配下に入る。この時、西夏襲来に備えて仏典多数が洞窟に塗り込められた。これが有名な敦煌文書で20世紀の初頭に発見された。マルコポーロが敦煌を通過するときには敦煌をサチューとして「東方見聞録」に紹介している。「多くの寺院・僧院があって、そこにはありとあらゆる偶像が所狭しと安置されている」との記述がある。引用終わり

 空港から敦煌市内を経由して西千仏洞へ直行した。西千仏洞は党河の断崖の上にある石窟で莫高窟の西側にある。窟は19箇所現存するがそのうち六ヶ所の窟を見学した。3窟と4窟には何れも唐時代に彫られた3人の菩薩があった。5窟には北魏時代の千仏観音像が彫られており、窟の中心には柱が設けられているが像は水で壊れていた。
 6窟は北周時代のもの。7窟は西魏時代に設けられ過去仏、現在仏、未来仏、西夏の涅槃仏が安置されている。9窟は北周時代の千仏観音像。
 どの窟も内部の撮影が禁止されているので像を示すことができない。 
 大地を切り裂いたような裂け目の断崖に窟は穿たれていてよくも根気よく仏像を彫り続けたものだという印象が強い。断崖の前の広場には樹齢の大きなポプラの木が生い茂っていた。
                      



西千仏洞の窟の穿たれている断崖 ↑  





西千仏洞のある渓谷に生い茂るポプラ↑ 手前の砂岩の下方の断崖に窟がある。

 陽関に赴く前に南湖郷の「陽関農家園」という農家で昼食を摂った。野菜が豊富に使われた田舎料理だが美味かった。

                       


                     
「陽関農家園」の田舎料理


                       


陽関の狼煙台遺跡





陽関博物館                      





玉門関


 陽関には関は残っておらず、大きな粘土の固まりのような狼煙台の跡が残っていた。漢民族の勢力の及ぶ最西端の関所である。また西域南路への起点ともなる場所でここから先は西域となるのである。詩人王維の「謂城の朝雨軽塵を唈るおす」で始まる送別の歌で有名な所である。なお、狼煙台に「狼」という字が使われるのは狼煙の燃料として使われる植物の茎に狼の糞を乾燥して混ぜたからであるという。ここでは観光客誘致のため最近完成した陽関博物館を見学した。展示物には特筆に値する見るべきものはなかった。
 更に沙漠の中をかなりの距離疾駆して玉門関も見学した。玉門関へ急ぐバスの中で蜃気楼を見ることができた。或いは逃げ水であったかも知れない。
 玉門関には東西24m、南北26.7m、高さ9.7mの巨大粘土の固まりのような長方形の関の跡が残っていた。陽関と並んで漢民族の国家権力の及ぶ最西端の遺跡でありここから先は天山北路へ通じる西域となるのである。
 敦煌市博物館を見学した後、敦煌市内のレストランで敦煌名物の「雪山駝掌」という特別料理を賞味した。駱駝の足の掌を調理したものだがゼラチン質の肉片でそれほど美味いとも思わなかった。一切れ食べただけで止めにした。
 ホテルへ帰ってからは莫高窟の研究所に30年務めているという楊麗英女史から莫高窟についての講義を約一時間聞いた。文化大革命の時には各地の文化遺産が破壊されたがここ敦煌では紅衛兵が押し寄せはしたが管理人の説得に応じて破壊活動はしなかつたので被害にはあわなかったという。
               


                               
敦煌博物館     





敦煌名物料理「雪山駝掌」   





ガイドの楊麗英女史




2004年07月02日(金) 【中国の内陸部は目下普請中・・・河西回廊� �

平成16年7月2日(金)     河西回廊紀行       前潟都窪
 












シルクロードは西安を起点としてローマへ至る古代の東西交易路である。今回は第一回目として中国甘粛省内の旅を選んだ。河西回廊と言われている。敦煌を起点としてバスで東へ遡行し蘭州へ至る旅程である。蘭州から西安までは航空機利用である。


 今回の旅行は当初阪急トラピックスで企画したパックツァーが6月20日から10日間の予定で募集されたので旅と囲碁の畏友橋田さんと共に参加申し込みをしていたのだが、募集人員が集まらず、催行が中止になった。そこでインターネットで検索すると全く同様の企画がユーラシア旅行社であることを知り、申し込み実現したのである。この旅の企画については当初の6月20日からの予定だと6月23日に大学の寮友仲間内で毎月実施しているゴルフの会と競合するので代打の友人を探し出してセットしたという経緯もあり、是非行ってみたいコースであったため催行も決定し、今現実に旅が始まろうとしているだけに感慨も一入深いものがある。結果的にはユーラシア旅行社の企画には満足するものがあった。

 満足できた点は阪急トラピックスや近畿日本ツーリストの企画と比較して以下の点で違いが際立っていたからである。
1)土産物店への立ち寄りが皆無であったこと。
2)人数が17人であったが大型バスで移動したため座席に全員一人がけできたこと。
3)毎日の行動が克明に時間、場所、立ち寄り場所等とともに記録され、そのコピーが配布されたこと。これは帰国後の写真の整理や紀行記の作成に非常に役にたった。
4)旅行代金も上記二社に比べて高からず安からずでリーズナブルであったこと。
5)イヤフォンガイドを参加者全員に貸与し、ガイドの声が明瞭に聞こえる配慮のあったこと。

 9時20分に添乗員の大町章子嬢を中心に同行者の顔合わせをした。男12人、女5人で計17人の手頃なパーティーである。夫婦は一組だけで皆百戦錬磨の旅の強者ばかりという印象である。

 今回は酒類の機内持ち込みは禁止されているというので予め求めておいたウイスキーはスーツケースの中に忍ばせておいたから免税店では何も買うものがない。

 成田を11時18分発の中国東方航空MU508便で出発。時差は1時間遅れで14時40分に北京首都国際空港へ到着。所要時間約3時間半。北京で入国手続きを済ますため一旦機外へでるが係員がなかなか来ないで暫くまたされた。

 北京から西安までは国内線になるためアルコール類の機内持ち込みが禁止されるという理屈である。これは中国の酒は度数が強く、火がつくので危険物とみるらしい。それも中国人がかつて酒に火をつけて機内で騒ぐという事件があったため規制が厳しくなり、酒類の機内持ち込みができなくなったというのが真相らしい。この種の規則とか規制はなにか事件が発生すると必ず再発防止ということで厳しくなるものである。不心得なものがいると自由が制限されるという好例である。

 機内で中華の昼食を摂ったがウイスキーやブランデーのサービスはなかった。ビールで我慢する。青島ビールであった。

 14時50分北京を出発し16時22分に西安咸陽国際空港へ到着。前回訪問した時よりも建物が変わっていた。新しい建物が旧施設に並んで増設されたらしい。
 現地ガイドは王正安氏で日本語はそこそこの実力で人柄は悪くない。
                              

西安空港の新しい建物 ↑







西安市内近くの道路工事↑道路の片側を囲っていた。






工事現場に出入りの車↑

 
 西安市内まで約1時間ほどのドライブで窓外に見えている田園風景の中に点在する小高い山は古代の王侯や貴族の墳墓であろう。
 西安市内近くの道路では片側の通路を囲って道路工事が行われていた。そして工事現場へ出入りする下請け業者や納品業者の原動機つきリヤカーも散見した。
 西安市内には新しいビルが沢山建っていた。中国の経済発展も沿海部から漸く内陸部へ及び西安市内も目下大規模に普請中との第一印象である。
                              

西安市内の建築中のホテル↑ 





西安市内の新しいビル↑ 





西安市近郊の地上げ現場


 最初に鼓楼へ見学に行った。鼓楼は城郭の中心にあって昔は、時を告げた重要な建物であるが、生憎修理中で中へは入れなかった。日本から派遣された遣唐使達も当時長安と言われた都のこの鼓楼の前に立ち、物思いに耽ったことであろう。
 ホテルは西安賓館で旧市内の南門の近くである。 



鐘鼓楼 生憎逆光で鮮明な画像が撮れなかった。





鐘鼓楼近くの餃子で有名な店 
 



『稼ぐ宣伝代行』

さるさる日記 - 日記レンタル


 < 過去  INDEX  未来 >


前潟都窪 [MAIL]

My追加