前潟都窪の日記

2004年08月31日(火) 【紀元前の遺跡やオアシスと砂漠で生活する人々・・チュニジア��】

朝八時にドズールへ向けて出発。とても寒いので用意していた厚手のベストと首巻きを膝から下へ巻き付けて脚の冷え込みを防ぐ。途中 通り抜けたジェリド湖は塩水湖で殆ど水がなく、湖底が干上がって塩で白く光輝いていた。予め説明を聞いていなければ雪が積もっていると思ったかも知れない。砂漠の地下に塩源があって雨が降ると窪地に水が溜まり地下の塩分を溶解し塩水の湖ができるらしい。そのうち日照のために水分が蒸発して塩だけが地表に残り白く輝いているという仕掛けである。いわば効率百%の天然の塩田が砂漠に出現すると考えた方が分かりやすいかもしれない。砂漠の砂の中から塩が採れるとは知らなかった。この湖は大きな湖であるが水を湛えたところでも水深は浅く、過半の部分が干上がって、塩を湖底の砂地に結出している。道中この塩を採取している工場も目撃することができた。

 ドズールの町で見学したウルド・エル・ハデフ地区はこの町で一番古い地区で14世紀に作られたという。砂と粘土を混ぜ合わせて作った日干し煉瓦の町並は煉瓦色一色で一種独特の風格をもった景観をつくり出していた。この町は条例で煉瓦一色の町並にすることが決められているという。壁には幾何学的な文様が彫刻されていてとても美しい。 

 午後からは四輪駆動のワゴン車に五〜六人宛分乗して、山や渓谷を探訪して歩いた。探訪した先はシビカ、タメルザ、ミデス等の山中のオアシス
村である。



映画イングリッシュページェントはこの辺りの砂漠と山々が舞台として使われたそうである。険しく切り立った崖や山が大きく割れた谷と遙か下を流れている川があるかと思えば、椰子の木が数本かたまって生えている僅かな平地など変化に富んだ景色を堪能した。タメルザのグランドキャニオンではほんの目と鼻の先にアルジェリアの禿山を望見することもできた。またこれらの渓谷を巡り歩いていると、一つの部落がそっくり廃墟になっている所が何箇所かあった。これは数年前に大雨があって大洪水となり全村破壊された跡だということである。この時の水流の速度は秒速百mにも及んだというからいかにすざましい洪水であったかということが判る。       

 ケロアンへ向かう途中ガフサという人口15万人の町を通り抜けた。この町は燐鉱石が出るので鉱業の町として賑わっている。燐鉱石は年間に八百万t産出しその大きな輸出先の一つが日本であるという。ガフサの町には紀元前八千年頃の遺跡があるというから古くから開けた町で、その後ローマの植民地にもなっていた。キャラバンが集まる地でもあった。走行中キャサリンという町を通過したが、ここにはシャンビー山という海抜1544mのチュニジアで一番高い山があるし、キャサリン峠は第二次世界大戦で戦場になった所としても有名である。またこの地にはフェニキヤ人の墓も発見されている。

 途中のスベイトラの町に入ってくると街道沿いに住居跡らしいローマ人の遺跡が続いている。かなり大きな遺跡が保存状態もよく残っていた。神殿の建物やフォーラムもそれと判る形で残っているし凱旋門も残っている。ローマ人の都市作りの輪郭がはっきり判る形で遺跡として残っていた。往時ここには二万五千人のローマ人が住んでいたというからかなり大きな都市であったことが判る。その後異民族のヴァンダル族が侵入しこの地を支配していたがビザンチン帝国のユスチニアヌスに533年に滅ぼされてしまう。ビザンチン時代に入ってからはローマから派遣された総督により統治されることになったが、グレゴアールが総督の時、この地へ侵攻してきたウクバの率いるイスラム教徒の激しい攻撃を受け645年に敗退してしまった。従ってチュニジアのイスラム化はこの地から始まったのである。

 イスラムの聖人ウクバはこの地を平定すると、669年に前線基地をケロアンへ移し、モスクを建てるなどして以後ケロアンがイスラムの四大聖地として栄えることになるのである。

 我々のバスもスベイトラを後にしてやがてケロアンへ到着した。
 ケロアンではグレートモスク、サハブ霊廟、貯水場跡を見学した。グレートモスクは聖地のモスクとしては予想していたよりこじんまりとしていた。黄土色のモスクの中庭を長方形に囲んで建っている数多くの柱はそのアーチ型の梁とともに美しい建築美を表現していた。サハブ霊廟はモハメットの若い頃の友人にして聖者であるアブ・ザマエル・ベラヴィが眠る霊廟である。このモスクのミナレットの壁に施されたセラミック製の装飾は素晴らしいと思った。

 ケロアンはチュニスの南165kmに位置し周囲をオリーブ畑に囲まれた内陸部の町である。この町は7世紀にウマイヤ朝から派遣された総督スティ・ウクバによって建設されたマグレブ地方(チュニジア、アルジェリア、モロッコの総称)の聖地である。以後アグラブ朝(9世紀)、ファティマ朝(10世紀)、ズィリー朝(11世紀)の首都して栄えることになった。1517年にベドウィン人の侵略を受け町は破壊されてしまい首都はチュニジアへ移されたが、イスラムの聖地としての役割は連綿として現在に続いている。イスラムの四大聖地の格付けはメッカ、メジナ、エルサレム、ケロアンの順とされており、ケロアンへの巡礼七回はメッカへの巡礼一回に相当すると言われている。

 ナブールで陶器工場を見学してからバスはケリビア、ボーン岬を経由してチュニスへ向かった。昨日までの砂漠はなくなり窓外には緑豊かな畑が続いてアーモンドの花が白く咲き誇っていた。オリーブ畑やサボテン畑もなお多い。

 チュニス市にあるバルドー博物館の建物はオスマントルコのベイ王朝の統治者の宮殿であった。これが、1882年に博物館として衣替えされたものである。この博物館で有名なものはその世界一の収蔵量を誇るモザイクである。ローマ時代のキリスト教徒の墓石を飾っていたものが多い。ギリシャ神話、ローマ神話等を題材として物語を絵解きしているものとか当時の動物や戦闘の模様を描いているものもある。当時の社会の風俗や動物の種類、狩りの方法等をしるための有力な資料を提供している。神話や伝説を勉強して再度訪問してみたい魅力に満ちた博物館である。



2004年08月30日(月) 【紀元前の遺跡やオアシスと砂漠で生活する人々・・チュニジア�◆�

 モナスティールを朝まだ暗いうちに出発してジェルバ島へ向かった。途中エルジェムでローマ時代の円形闘技場を見学した。この円形闘技場は保存状態がよくナポリ、リヨンのものに次いで世界第三位の大きさであるという。石作りの闘技場は四階建ての楕円形のアリーナになっており広場中央には迫り出し用の幅広の溝が掘ってある。溝の両脇には猛獣達を待機させる部屋が設けられている。観客席の一部は完全な復元がなされていて当時の姿を実見することができる。この闘技場では奴隷である剣闘士が中央の溝から迫り出してくる猛獣達と死闘を繰り広げるのであるが、現代人の感覚からすればなんとも野蛮な競技である。しかし、当時は人気のある競技であった。

 本日の旅程は長丁場のバス移動で、エルジェムを後にすると窓外にはオリーブ畑が延々と続いている。オリーブ畑が次第に切れてくるとバグアという雑草しか生えていない砂漠が現れこれがまた延々と続いている。とても単調な景色の連続であるが、やがてナツメ椰子の林が見えてきた。

 ここが初めて見るオアシスの町ガベスであった。昼食をとるためオアシスホテルまで市中をドライブしたが、道路の両脇にはナツメ椰子の畑が拡がっており椰子の木の下には青々と野菜や牧草などが豊かに繁っている。畑の中には灌漑用の小川も流れている。椰子畑のない通りには民家や学校、商店、公共施設等の建物が立ち並び大きな市街地を形成している。この町では油田も発見されて石油の採掘もなされているというからとても大きなオアシスなのである。この町へ来るまでに私がオアシスに対して抱いていたイメージとは全く異なっていた。せいぜい椰子の木が20〜30本程も生えていて緑地が僅かばかりあり沸き水の流れる小川または小さな池がある小さな集落というのが今までオアシスに対して抱いていたイメージであったので認識を一新させられた。ガベスの町のナツメ椰子の木の数だけでも何十万本にもなるのだそうである。町はずれの小高い丘に登って市街を展望すると砂漠の中に緑の椰子畑と市街地が塊となっている町全体の姿が一望できたので、なるほどオアシスであると実感した。新鮮な発見に驚きながらオアシスを後にして、ドライブを続けるうちに再びオリーブ畑が現れだしたと思う間もなく船着き場へ到着した。ここでフェリーボートに乗ると15分程でジェルバ島へ渡ることができた。

 ジェルバ島は514km2の面積を持ち島の海岸線の長さが120kmにも及びチュニジア最大のリゾート地である。島には国際空港もあり、欧州各地からシーズンともなれば数多くのリゾート客を運んでくる人気絶大の島である。島の住民は殆どが北アフリカの先住民であるベルベル人で女性が麦藁製のカンカン帽をかぶるという特異な習俗を持っている。この島はギリシャ時代からその戦略的な意味で重要な島であるため多くの侵略者達に荒されるという難儀に耐えてきた。

 ジェルバ島から翌朝ローマ時代に作られた橋(天の橋立のような道路)を通って本土へ戻ると、暫くオリーブ畑が続き次第に砂漠に変わって、ナツメ椰子の木が見えてきたと思う間もなくメドニンというオアシスの町へ到着した。ここはベルベル人達がキャラバンを組み砂漠を行商して歩く基地となった所でゴルファと呼ばれる商品の保管倉庫が広場を囲んで幾つも並んで建っていた。次第に定住する人が増えるにつれてゴルファは住居に転用されるようになってきたのである。

 ゴルファは、石と日干し煉瓦で造った二階建て又は三階建ての土蔵を意味し、外観は土製の巨大な円筒を二段〜三段に積んで横に並べたようなものである。今はこの住居でベルベル人達が革細工や陶器、金属細工等の民芸品を観光客相手に売って暮らしている。一見えも言われぬ物珍しい景観である。 メドニンを後にすると窓外の景色は再び砂漠に変わり、バスの高度が上がるにつれ荒涼とした小高い山々が見られるようになって、やがて小さな集落のある山中の町マトマタへ到着した。

 この町周辺の禿山のクレーターには北アフリカの先住民達が故郷を追われてきて隠れ住んだ横穴式の洞窟が幾つもあって、いまだに多くのベルベル人が穴居生活をしている。この地で老人夫婦と若夫婦に子供三人の家族が生活している横穴式住居を見学できたが、冬は温かく夏は涼しくてなかなか住心地はよいものらしい。この地方にはこのような横穴式住居が沢山あって二万人以上が生活しているという。バスで通過中も山裾に幾つかの横穴式住居を目撃することができた。またこの地には横穴を使ったホテルもあり、ホテルシティ・ドレスは映画スター・ウォーズのバーの一シーンとして撮影されたことで有名になった。マトマタの町を後にして暫く荒涼とした山並みの続く山中をドライブしてハメズメットという小さな集落を通り過ぎ、更に走行して平地に出ると再びナツメ椰子の生い茂るオアシスが出現しドゥーズの町へ到着した。

 ドゥーズの町はサハラ砂漠への入り口となるオアシスの町である。天幕生活をしながらオアシスを求めて砂漠を駱駝と共に遊牧するアラブの遊牧民ベドゥインとオアシスに定住するベルベルの人々が出会い交流する町として昔から知られていた。サフランという駱駝の基地には駱駝が60〜70頭もいたであろうか。これほど纏まった数の駱駝を見たのは初めてである。ここで駱駝に乗ってサハラ砂漠を40分程遊覧した。我々一行34人がめいめい一頭ずつ駱駝をあてがわれてこれに打ち乗って、轡取りに誘導されながらではあるが群れとなって行進する姿は壮観であった。群れの中には白地に黒の縦縞のついた貸し民族衣装を纏って、ターバンを頭に巻き付けている人も多勢いるのでキャラバンの大移動と紛うばかりであった。駱駝は乗り降りするとき脚を屈伸するので乗客に与える衝撃が強くうっかりすると振り落とされてしまう。しかし一旦、立ち上がって砂漠を歩みだすと乗り心地はとても良く乗馬と同じような感覚である。幸いにも好天で無風状態であったため砂漠の風紋を観察することもできたし多少冒険じみた貴重な体験をすることができた。

 この夜はドゥーズのホテルに宿泊したが朝晩の冷え込みは非常に厳しく、大陸性気候の何たるかを肌で実感することができた。



2004年08月29日(日) 【紀元前の遺跡やオアシスと砂漠で生活する人々・・チュニジア� �

▼チュニジアの旅 チュニス、ハマメット、スース、モナスティール、ジェルバ島、マトマタ、ドウーズ、ドズゥール、ケロアン、ホーン岬
                 2000年1月11日〜1月20日

 ピュルサの丘はカルタゴ発祥の地とされている。伝説によればフェニキャの王女エリッサが紀元前814年にこの丘に植民都市を建設しようとした時現地人から牛革(ピュルサ)一枚で覆える範囲の土地しか譲れないと言われたので、彼女は牛革を切り裂き細長い紐を作り、その紐で土地を囲って広い領土を獲得したと伝えられている。カルタゴが繁栄した頃は数階建ての建物がこの丘に集まっていと考えられており、丘の斜面にはポエニ戦役時代の住居跡が発掘されて遺跡として残っている。この丘の上からは現在のカルタゴ市街を見下ろすことが出来、ラッキーなことに折から対岸に虹がたつのを目撃することができた。

 三回目のポエニ戦争で完敗したカルタゴはローマ人によって徹底的に破壊され廃墟跡には塩を撒いて人も住めず作物もとれないようにされたと伝えられているから、ここにはポエニ時代の遺跡としては住居跡だけしか残されていないのもうなづける。

 現在、遺跡の点在するカルタゴの地はチュニス郊外の高級住宅地に変貌しており、大統領官邸や外国大使公邸なども集まっている。この一帯の住宅は概ね白壁でブルーの窓枠の建物が多く地中海の海の色とよく調和している。


 トフェの墓はポエニ時代にはバール・ハモン神(フェニキヤ古代の神)とタニト神(カルタゴの守護神)を祀る聖域であったところである。当時カルタゴには幼児を殺して神へ捧げるという生贄の習慣があったらしく、小さな墓が沢山並んでおり幼児の骨の入った骨壺も沢山発見されている。現状は単なる墓地にしか見えないし、近くにはフェニキヤ人の墓も残っている。それにしても戦勝祈願と都市の繁栄のためとはいえ幼児の首を切って燃え盛る火の中へ投げ入れたというカルタゴ人の宗教観や死生観には、我々現代人はついていけないおぞましいものがあると思った。

 本日最後に訪れたローマ人の浴場跡は比較的保存状態もよく当時の娯楽センターの面影を留めている。これは五賢帝の一人であるアントニヌスによって二世紀に建設されたものでカラカラ帝の浴場に次いで二番目に大きい浴場であったといわれている。海を背景にして建設されたこの浴場は娯楽場としては絶好のロケーションであり、現在の大統領官邸はここに隣接して建てられており物々しい警護がなされていた。

 昨夜はチュニスから東南約60kmに位置するハマメットのホテルで泊まった。ハマメットの海岸線にはホテルが目白押しに建っており、ハマメットだけでホテルが90以上あるという。そして今なお建設中のホテルを沢山目撃することができた。ホテルの近くの海岸には大規模なマリーナを建設中であり、これが完成すればリゾート地として更に大きな発展が予測されることを見越しての先行投資と思われる。因みに最近のチュニジアの観光収入はGNPの52%に匹敵するというからなるほどとうなづける。ここはフランスの植民地であった1920年代からリゾート地として開発が進められ、数多くの著名な作家や芸術家に愛されてきた所でもある。我々が宿泊したマルコポーロホテルはスペイン人が経営するチェーン店の一つでオープン後、まだ日の浅いホテルであった。
ポート・エル・カンタウエイのマリーナ

 今日は朝市が開催される日だということで、最初に見学に訪れた。道路端に商品が並べられる原始的な青空市場である。野菜、果物、衣類、各種食品日用雑貨類、民芸品が所狭しと並べられて威勢のいい売り子の掛け声が飛び交って、沢山の現地人や観光客に売り込みをしていた。どこの市場でも見られるお馴染みの光景であるが、強烈な印象を受けたのは最近の日本では見られなくなった古着屋と古靴屋が繁盛していることであった。山積みされた古着をバーゲンセールのデパートの如く、身なりのいい老若男女が群れをなして物色しているのである。我が家の箪笥に死蔵されている衣類をここへ持ってくれば有効に処分できるのではないかとふと思った。
ハマメットのスペイン砦

 特に買いたい物も無かったが世界各地の梟の小さな置物を集めているのでチュニジア記念にと物色したら気にいったのが一つ見つかった。アラビア商法は先ず買い手が値段を聞き、売り手の言い値に対して買い手の希望金額を提示するというやりとりを何回か繰り返して、最後は互いに歩み寄って値段が決まるという過程を辿る。最初の言い値の半値八掛け二割引き(約三分の一)であれば買ってもいいと腹を決めて先ず値段を聞いてみた。するとボールペンを貸せというので渡すと紙切れに35ディナールと書いて提示した。高いというと幾らか希望の値段を提示しろというから7分の1の5ディナールだと言い張っていると10ディナールまで下がった。これ以上下がらないというので6にするなら買ってもいいと譲歩すると9にするという。それではいらないと立ち去ろうとした。すると追いかけてきて6ディナールにするという。そこで交渉成立、金と商品を交換した。最後にボールペンを返せというとちゃっかりポケットに仕舞い込んでこれは子供へのプレゼントだといって返そうとしない。さすがにアラブ商人はしたたかである。

 次はハマメット市内のメディナを見学した。メディナとは城郭内に形成された古い市街地のことである。古い建物の間を通る迷路のような狭い路地には土産物屋が店を開いていて、どの店も似たような商品を並べている。このメディナの一角にはカスバと称される要塞が残っている。スペイン砦とも呼ばれていて城門をくぐって中庭に入ると数台の大砲などが置いてあるだけでがらんとしている。1977年から2年ほどかけて大修復がなされたとの説明書きが建っていた。城壁に上がるとハマメットの旧市街や新市街が一望できランドマークであるグランモスクのミナレットも見えている。また折からの好天に恵まれて濃紺の地中海やボートを横たえている砂浜を見下ろすことができる。砂浜には椰子の葉で葺いた茸様の日除けが並んでいて面白い景観をつくり出している。

 スース市内のメディナにはリバトと呼ばれる8世紀に建てられた要塞があり、これは異教徒や他民族を侵攻するための前線基地としてまた町を外敵から守るための要塞として機能していた。またスースには9世紀のアグラブ朝時代に建てられたグラン・モスクがあるが、外見はモスクというよりも要塞に近い景観である。ミナレットさえ外敵を監視する物見の塔と見えなくもない。スース市内のショッピング・センターを見学してから本日の宿泊地モナスティールへ向かった。

 モナスティールはチュニジア建国の父と言われるブルギバ初代大統領の出身地であり、同大統領がリゾート地化して発展させようと大いに力を入れたところである。モナスティールにはブルギバ元大統領の華麗にして壮大な霊廟が威容を誇って建てられていて、観光名所の一つになっているが、御本人は97歳で未だ健在である。同大統領はパリ大学に留学しフランスからの独立運動に従事した。何度も投獄されたが、1955年に独立を獲得し、チュニジア王国首相になりついで王政を廃止してから共和政体になると初代大統領に選出された。内政上は新憲法の制定、政教分離、一夫多妻制の廃止、女性参政権の承認、男女共学の推進などの改革を行い独裁政治でチュニジア国の近代化に貢献した。1975年には終身大統領になったが、老害が多くなり1987年ベン・アリ首相に解任された。

ブルギバ大統領の霊廟

 チュニジア各地を巡り歩いていて印象に残るものに学校の校舎がある。どんな辺鄙な片田舎であっても校舎だけは立派な建物で目立っている。これは就学率を高め文盲をなくそうとする政府の政策の現れでまず学校を居心地のよい魅力あるものにすると共に子供を就学させない親に対しては罰金を課する強い姿勢で臨んでいるという。こうした奨学政策もブルギバ初代大統領の精神を引き継いだものである。それでもまだ学校の数が不足していて少ない施設を有効に利用するため、就学の時間帯に時差を設けた二部制が取られているという。
                  



2004年08月28日(土) 【ピラミッドの国の五千年の歴史・・エジプト�◆�

 北側のリビア高地の赤い岩山を背景にして広大な黄色い砂漠が南側に広がっていて、砂漠の東側にナイル川が蛇行しながら南へ伸びている。機上から俯瞰するとエジプトの国は砂漠の中をナイル側が南から北へ貫流していているだけの地形であることがよく判る。ナイル川の周辺だけに緑があり、砂漠の中に所々緑の線が見える。その緑の線は畑であり、そんなところにルクソールの街がある。ルクソールにはナイル川を挟んで東側にカルナック神殿とルクソール神殿があり西側には王家の谷、王妃の谷、貴族の谷、職人の谷、ハトシェプスト葬祭殿がある。

 最初にカルナック神殿を見学した。この神殿は日干煉瓦で三区画に区分されていて保存状態が最もよいのが中央部にあるアモン神殿である。このアモン神殿は世界一大きな連柱式神殿でパリのノートルダム大聖堂をすっぽり覆い隠すほどの大きさであるという。ガイドの説明に頷きはするものの出てくる王達の名前や年代はなかなか覚えられずただただ神殿の規模の大きさに感心して見ているだけであった。それでも、やたらに多い大きな柱の列とそこに刻まれている多数の浮き彫りは強く印象に残っている。

 次にルクソール神殿を見学した。ルクソール神殿はカルナック神殿と石畳を敷いた人頭のスフィンクス参道で結ばれていたというが、参道は現在発掘調査中でその威容を目視することはできない。ここではひとつだけ印象に残るものを脳裏に焼き付けておこうと考えて見学した。印象に残ったものを一つだけあげれば、入り口のネクタポの中庭と大塔門である。塔門の前には左側に高さ25mのオベリスクが一本と二体のラムセス二世の巨像が建っている。このオベリスクはパリのコンコルド広場で見たものと形状が似ているなと思いながら見ていたら、それもその筈、ここの右側の一本がパリへ運ばれたのだという。

王家の谷は草木の生えていない岩山の渓谷に営まれた第18王朝から第20王朝の偉大なファラオの墳墓が営まれたところである。この谷にある王の墳墓は22に及び葬られた歴代の王のミイラは40体に及ぶ。墳墓建造にあたったのは戦争捕虜達で墓所の秘密を守るため完成後ことごとく殺されたといわれているが、皮肉なことにどの墓所も盗掘に合い、副葬品が満足に残されていた墓地は殆どない。ただ一つの例外として盗掘にあわなかったのがツタンカーメン王の墓であった。ここではツタンカーメン王の玄室に入場してみた。三重に作られていた黄金製の棺のうちの一つはいまでもこの玄室の中に安置されており、薄暗い明かりの中で金色に輝いていて圧巻であった。

ハシェプスト葬祭殿は第18王朝の女王であったハシェプスト女王が時の宰相であり建築家でもあったセンムトに亡き父親トトメス一世と自らの葬祭殿を建設するように命じて出来上がったものである。彼女が選んだ場所は荒々しい岩肌の絶壁を背にした谷であった。この葬祭殿は当時から「輝かしいものの中で最も輝かしいもの」と呼ばれた、エジプト建築史上類をみない傑作であるといわれている。神殿は東向きで、巨大なテラスが三段重なり、階段を通って祭壇に至る。スフィンクスとオベリスクが並んだ参道を通って第一テラスの入り口に至ると、22本の角柱と両端に2本のオシリス柱が並んだ列柱廊が伸びる。再び階段で第二テラスに至ると二列の列柱廊が続き、壁面には女王ハシェプスト女王の誕生や幼年期の伝説の国プントに遠征軍を送る場面が描かれており、キリンや猿、豹の皮、象牙なども登場する。一番奥の壁にある大小18の壁龕には同数の女王の座像もしくは立像が飾られている。この神殿の特徴はシャンポリアンが「初期ドーリア式」と呼んだ優雅な16角柱である。

この葬祭殿で観光客に対して行われた97年11月の無差別のテロ事件は記憶に新しいところである。

 翌朝ルクソールからアスワンへ飛んでアルシンベルの神殿を見学した。アルシンべルの神殿は古代エジプト史上最強の権力者でその激しい気性が有名なラムセス二世が建造したものである。アモン・ラー神、ハルマキス神やプタハ神を祭っているが、実際にはラムセス二世の絶対的な栄光を誇示している。長さ65m、幅38mのこの神殿は一塊の岩山を彫って作られたものであるが、アスワンダムの建設により水没する虞がでてきたのでユネスコの手により難工事の末1965年の晩夏に現在地へ移設されたものである。

ラムセス二世は第19王朝の王で紀元前1290〜1224年の在位で戦略家,征服者として知られる。北はパレスチナ、南はエチオピアまで征服し版図を広げ紅海と地中海を繋ぐ運河を計画したことでも知られている。



ナセル湖
 次いでアスワンハイダムを見学した後、ナイル川で帆掛け舟に乗り暮れゆくナイル川の風情を楽しんだ。船頭助手の子供達は12〜13才の少年達で巧みに竿を操り舟を誘導した。舟が川の中程へでると音楽に合わせて手振り身振り面白く踊り初め乗り合わせた観光客達も彼等に誘導されて見よう見まねで無邪気に踊ったことが印象に残っている。



サッカレーから見たギザのピラミッド



2004年08月27日(金) 【ピラミッドの国の五千年の歴史・・エジプト� �

エジプトの旅 カイロ、ルクソール、アッスワン、アルシンベル
       2001年1月17日〜1月23日

 エジプト観光はカイロ西南郊外のギザ地区のピラミッド群から始まった。これらのピラミッドの中の一つはライトアップされて昨夜もホテルの窓から幻想的な姿を眺めることができたが、近くまで行って自然光のもとで観察するとまた格別の趣と感慨がある。とにかく雄大である。エジプトといえば直ちに連想するくらい有名なピラミッドを、今目前に四千六百年前に作られたものとして直視していると、積み重ねられた時の流れの膨大な長さに比べ、人の一生のあまりの短さを思い感無量であった。

 このギザ地区にあるピラミッドは北から南へ第一ピラミッド、第二ピラミッド、第三ピラミッドと斜めに並んでいてお互いに太陽を遮ることがないように配慮されている。順番に第四王朝のクフ王、カフラー王、メンカウラー王のミイラを収めていたものである。そしてメンカウラー王の第三ピラミッドには更に三つの小さなピラミッドが南側に並んで配置されていて王妃のミイラが葬られていたという。

 中で最大規模を誇るのがクフ王の第一ピラミッドで高さ約135m、底辺約227m、約2トン半の石を230万個積み上げているといわれるヘロドドスによれば、建造に要した日数は毎年十万人が三カ月働き、20年間を要したといわれ、その規模の大きさは古代エジプト王の権力の偉大さを如実に示し、今から約4600年前の土木工学の発達が比類ないものであったことを証明している。

 これらのピラミッドは「太陽神ラー」への捧げ物であると同時に死者の来世における永遠の生即ち霊魂不滅に対する信仰を表しているものと考えられており、古代エジプト人の死生観に思いを致し、暫く飽きることもなく呆然と眺めていた。

 クフ王のピラミッドから約350mのところに大きなスフィンクスがある。全長73mで頭部は人間、体はライオンの巨像である。その顔はクフ王の顔を模しているといわれ、墓守をしていると考えられている。過去に何回も砂漠の砂に埋没したのを掘り起こされた経歴をもっているだけにかなり破損していて顔面等も傷んでいるのが痛々しい。

 メンカウラー王のピラミッドの玄室の中へは一般観光客も入ることができるので、入場して見学したが発見された埋葬物の大半のものはカイロ考古学博物館や大英博物館に移送して展示されているので、ここではピラミッドの内部がどのような構造になっていたのかを見学するだけであった。

 考古学博物館を見学するためカイロ市内へ向けて高速道路に入った。そこで見た異様な光景は道路の両側に立ち並ぶビル群の屋上に天空へ向かってむき出しの鉄筋が伸びていることであった。あたかも建設ラッシュの如き感を呈している。ガイドに聞いてみると将来の増設を見越してこのように鉄筋がむき出しにしてあるのだという。いわれて子細に観察するとなるほど古ぼけた建物もある。都会の機能美という観点からみればいかにも無粋な光景であった。高速道路沿いの建物群は先ず田畑の中に道路が出来てそれを追いかけるようにして建物が無秩序に次々に建てられたという感じである。その後カイロ市内の通りをあちこち駆けめぐってバスの中から観察した限りでは、カイロの町は無秩序に自然発生的に大きくなった町で一言で表現すれば、汚い町であるとの印象につきる。

 カイロの考古学博物館には古代エジプト第18王朝のツータンカーメン王(前1346〜1336年在位) の財宝が至宝として収蔵されているが、他にクフ王、カフラー王の座像やトトメス三世の遺品、ラムセス二世の数多くの像等貴重な収蔵品も豊富である。ツータンカーメン王は19才で亡くなった王であるが、珍しく遺品は盗掘にあっておらず多数の財宝が王家の谷の墳墓から発掘された。特に重さ1170kgの黄金製の棺は現存する世界最大の黄金芸術であろうといわれており棺は三重になっていた。そのうちの二つがこの博物館に収蔵展示されていて残りの一つは王家の谷の同王の墓の玄室に保管展示されている。

 夜は光と音のショーが三つのピラミッドとスフィンクスを舞台に演じられるのを見学した。暗い夜空と砂漠の中にライトアップされて幻想的に浮き上がるピラミッドやスフィンクス。それも音と光が緩急、強弱、濃淡、大小いろいろに組み合わされて交錯し、投射される光線束で描かれる横向きの古代エジプト人の顔模様や舟などを交えながら、ピラミッドとスフィンクスを映し出していくのである。時に暗闇に姿が消え時に現れる。その間合いが英語のナレーションとともに見事である。この素晴らしい光と音のショーは京都の大文字焼きがヒントになっているのではないかな等と考えながら鑑賞した翌朝、カイロから遺跡の宝庫ルクソールまで飛んだ。



2004年08月26日(木) 【野生動物の王国とマサイ族の原始生活探訪・・ケニア�◆�

 七時五十分に出発して途中ニャフルルのトムソンズフォールを見学した。あまり大きな滝とは思えなかったが東アフリカでは最大で中央アフリカではビクトリヤフォールズに次いで二番目の大きさであるという。

 ここでは、全身に真っ赤な衣装を纏った女が馴れ馴れしげに話しかけてきて、石彫りの動物像を売りつけようとつき纏うので閉口した。一般にアフリカの売り子達は客の気持ちを考えないで、ただひたすら強引に売りつけようとするから敬遠されて、客は終には品物を見ようともしなくなるということ等は意に介さない。つかず離れずという売り子とお客の間に発生すべき心理的な関係の機微にまでは考えが及ばないようである。

 このあとエクアトール(赤道) と標識のでている箇所で水流の渦巻き実験を見学した。赤道直下で漏斗へ水差しから水を流すと浮かべてあるマッチ棒は東西の方向に停止して全然動かない。ところが赤道から十m程北へ離れた箇所で同じことをすると浮いているマツチ棒は時計方向へ回転をはじめるではないか。今度は場所を変えて南へ十mのところで同じことを繰り返すと不思議なことに今度はマッチ棒は時計と反対方向への回転運動を始めたのである。こんな簡単な実験で赤道がどこを通っているかを調べることが出来るのである。

 この後ナクル国立公園のライオンヒル・ロッジに早い時間に到着した。ここで昼食を済ませて部屋へ入ると、昔懐かしい蚊帳が吊ってあった。

 このあと砂塵もうもうと立ちのぼるサバンナの道を動物を探してサハリドライブした。ヌーと



縞馬の大群





麒麟、象、トムソンガゼル、インパラ、ハーテビースト等を観察した。待望のライオンも家族が五頭で休憩しているところを目撃できた。ライオンを見たいというサファリー客は多いので、ガイド達がそれぞれに無線で連絡しあって、沢山の車が集まってきた。それにしても現地人ガイド達の視力の良さには驚かされる。



肉眼で遠くのライオンを発見し、雄が立ち上がったとか雌が歩いているとか指さすのだが、我々がいくら双眼鏡で覗いてみても視野に入ってこない。車でかなり近寄って初めてライオンがいることを確認するような次第である。



 翌朝七時に出発して朝飯前のサハリをした。フラミンゴ、ペリカンの大群を観察した後ロッジへ帰った。朝食を済ませてから今度はナイバシャ湖で船による水上サハリを楽しんだ。何種類もの水鳥やパピルスの群生なども観察したし、船上からはマウント・ロコノツの秀麗な山容が見えた。約一時間のサハリだったが河馬の群れが水中にたむろしているのも観察することができた。大きな図体の河馬が体を水面下に沈めて、耳と鼻だけを水面上にだして息づいているところはなんとなくユーモラスである。

 翌日はマサイ族の村を訪問した。村はマニヤッタと言い、牛の糞を固めて作られた建坪五坪程の小屋に五〜十人の家族が生活しているのである。こんな小屋が十二〜三戸ばかり長方形の広場を取り囲むようにして建っている。広場の広さは百坪ほどもあったであろうか。この広場へは放牧されている牛が夜間に休息のため集まってくるのだという。

広場には牛の糞尿が垂れ流しになつており、その糞を子供達が裸足で踏みつけながら走り廻っている。小屋の中には寝室が二部屋設けられていて牛の革が敷かれている。子供と夫婦がこの部屋へ寝るのだというが家財道具らしいものは何も置いていない。壁には小さな明かり取りの窓が穿たれているだけで、電気は勿論通じていないので、照明はなく部屋の中は薄暗い。土間には粗末な竈が築かれていて三十センチ角ほどの金網が置いてある。肉を焼くためのものであるという。部屋の隅のほうに陶製の容器が五〜六個置いてあるだけである。この容器で牛の血やミルクを飲むのである。彼らには本来野菜や穀物を食べるという習慣がないという。湿気が少ないので建材として使われている牛糞も乾燥していて臭わない。この小屋は女達が作る習わしになっており、六年の耐用年数であるという。ここの集落のファミリーは血族、姻族七十三人からなり、飼っている牛の数は三百頭である。酋長は二十五才で妻を五人持っていて子供は十三人いると言っていた。酋長だけがかぶることのできるというライオン皮の帽子を被って記念写真を撮らしてくれた。



 我々が到着したとき女達が集まって歓迎の歌を歌ってくれたが一様に頭の髪が短くて一見男か女か判別できない。よく見ると乳房が膨れているのでようやく女と識別することができる。男も女も赤い生地の布を纏っていて殆どの者が裸足である。体型は一様にすらりと痩せており、筋肉質の手足を持っている。

 先史時代の生活がそのまま世の中の変化と関係なく、悠久の時間と共に静かに流れているという感じで、ここにいる限り現代文明とは隔絶された原始社会が現存している。男達は狩りや放牧で過ごし、子供達は学校へ行くこともなく、放牧した牛の番で一日を過ごすのであるし、女達は水汲みや薪拾いで時間を過ごしているのである。人間の幸せとは何か、進歩とか文明は本当に人間に幸福をもたらすものなのかということを考えさせられた一日であった。

 村人達と交歓の踊り
 今日のサハリでは縞馬の大群とヌーの大群を目撃した。それぞれ五百頭くらいずついたがタンザニアから移動してきたものだという。またハネムーンのライオンも一対目撃したが、交尾に疲れ果てて横になり動こうとしなかった。新婚のライオンは七日間交尾を続け、一日40回に及ぶというから激しいものだ。

 マラソバロッジで宿泊。明かりが消えてから空を仰ぐと星が近くに輝いており、星@s数も横浜で見るよりは多くあるように見える。大気の汚染がないし人工の光の邪魔がないので星が一際輝いて見えるのであろう。

 ケニアの民族ダンス
 旅の最後の昼食にケニア料理を食べた。鉄棒に刺して火炙りした肉塊を、好みに応じて切り分けてくれるシュラスコ料理である。ポーク、ビーフ、ゴート、チキン、ハタビー、ジブラ、オストリッチ、と野性動物の肉を少しずつ味わったが縞馬が柔らかくて一番美味しいと思った。

 心身ともにどっぷり漬かって自然に回帰した思いのするケニアの旅であった。



2004年08月25日(水) 【野性動物の王国とマサイ族の原始生活探訪・・ケニア� �

ケニアの旅 ナイロビ、アバーディア、ナクル国立公園、マサイマラ
                 1999年6月15日〜6月24日

 アフリカは日本にとってまだまだ遠い国である。アフリカに入る直行便は数が非常に少ないので、今回のケニヤ周遊の旅は、乗り継ぎのため深夜にシンガポール・チャンギ空港で、4時間もの時間待ちをするという忍耐で始まった。シンガポールからアラブ首長国連邦のドバイまで飛び、ここで更に9時間の時間待ちをしてから、再度乗り換えてナイロビへ向かわなければならないのである。

 アラブ首長国連邦のエミレーツ航空のステュワーデスは、国際色豊かである。概ねブロンドで白色の肌をした美人揃いである。回教の戒律がなさしむるところなのであろうか、アラブの女性は人前で接客サービスをする習慣がないらしく、異国人ステュワーデスだけでクルーを編成しているのである。イギリス、ベルギー、フランス、チュニジア、ドイツなどとそれぞれに国籍の異なる美人達が妍を競っている観があって乗客の目を楽しませてくれる。

 17時55分ケニア空港着。道中二日かかってやっとケニヤの首都ナイロビへ到着し、ホテルへ入ると夕食後直ちに久しぶりの安眠を貪った。

 翌朝五時半には目が覚めた。窓の外を眺めるとまだ薄暗いが既に出勤の人々がしきりに歩いているのが目に入る。車と人の流れが次第に勢いを増していく。車の流れを縫うようにして人々が道路を横切って行く。それが実にスムーズなのだ。そして人々は皆一様に長袖を着ているし、自転車が殆ど見られないのが意外だ。こうした朝の出勤風景を眺めているとロスアンジェルスと上海の出勤風景の対比を思い出していた。前者は車ばかりで歩いている人が皆無なのに後者では自転車の大群と歩行者の流れに数えるほど少数の車であった。ここナイロビでは歩行者と車の混在という姿である。そしてなによりの違いは人々の肌が黒く頭髪が縮れていることである。それにしても赤道から僅か140 km 南に位置している熱帯地方だというのにこの涼しさは一体どういうことだろう。ナイロビは海抜が1700m の高原であるところにその謎解きの鍵があるのだ。今は乾期のため湿度も50パーセントくらいなので殆ど汗をかかない。

食事が済んでからサハリカーに乗り込んで出発。運転手はキクユ族の若いジェームス氏でナイロビに住み、二男一女の妻帯者である。バンツー系の農耕民で豆やとうもろこしを食べるので多少肥満気味である。どことなく泥臭くあか抜けしていないが善良な人柄である。

 ナイロビ市郊外にさしかかると舗装道路に大きな穴が至るところに穿いており、これを避けるために車は蛇行しながら進むので思わず体に力が入ってしまう。やがて舗装されていない草原と森林の道を進むことになるが乾期のためもうもうたる砂塵を巻き上げながらガタゴトと大きく揺れながらの走行が続く。防塵マスクのガーゼがたちまち砂塵で黄色になる。

 途中小休止した民芸品売り場には木彫りの動物の像や石彫りの像と赤色をベースとした派手な色彩の首輪や腕輪などが並んでいる。これ等の民芸品を眺めていると店員が「こんにちは」とにこやかに話しかけてくる。しきりにしつこく勧めてくるのでゆっくり眺めていることもできない。やたらと帽子と交換しようとかボールペンやライターと交換しようと言ってくる。が、これはその品をくれという意味で物々交換しようということではない。

 順調なドライブが続き予定通り、アバーディアにあるロッジ、ザ・アークに到着したが、長時間のがたがた道の走行で腰が痛くなりかけていた。部屋を割当てられて中へ入ると予想していたより設備がいい。早速シャワーで汗と埃を流して観察台のある屋上に行ってみると象の親子が五頭水を飲みに広場へ来ていた。広場には動物用に塩が撒いてある。動物達は種を問わず一様に塩を嘗めにやってくるようだ。生物にとって塩はそれほど大切なものなのであろう。夕食までにブッシュバック、バッファロー、象、小鳥等を観察した。夕食後は部屋へ帰って待機していると珍しい動物が現れた時、枕元のブザーで知らせてくれることになっている。疲れているので手持ちのウイスキーを引っかけてベッドに入ると忽ち寝入ってしまった。

 夜十時半と十二時半の二回だけベルの音に誘われて起きだし観察場へ出掛けた。セーターを着てジャンパーを羽織らなければ寒いくらいだ。ベッドには湯たんぽが入っているほどの冷え込みである。十時半の時には犀を二頭観察した。十二時半の時は手負いの水牛を狙って現れたハイエナの群れを観察した。しばらくの間、池に逃げ込んだ水牛を襲おうとするハイエナと水牛の駆け引きを観察していたが、なかなかけりがつきそうもないのでベッドにはいり、ブザーがならないようにスイッチを切って寝ることにした。

翌朝五時に目が覚めたので観察台へ行くと昨夜の水牛とハイエナの攻防が まだ続いていた。根負けして遂に池から上がった水牛が灌木の向こうへ逃げたのを追ってハイエナ達が姿を消すところまで見届けると丁度朝食の時間となった。

 結局このロッジで観察した動物は象、ブッシュバック、バッファロー、ぶちハイエナ、犀、狒(バブーン)、いぼ猪、ジャッカル等である。




















2004年08月24日(火) 【マスタードの洗礼と豊穣の国のマナー・・アルゼンチン、ブラジル�ぁ�

        
平成10年10月29日(木) 
 9時出発ということでホテル前の桟橋から船に乗る。ネグロス川のクルーズである。船の上から陸地を見ているといろんなものが観察できて面白い。高床式の住居、造船所水に抉り取られたとはっきりわかる赤くはだけた壁面群れをなして係留されている貨物船、沢山の客を乗せた水上バス、水上バスの屋根下からハンモックを吊るして寝ている乗客、海上に浮かんでいる石油スタンド、沖あいに停泊している大型貨物船、大きなエンジン音をたてながら水飛沫をあげながら早い速度で動いている小舟。
 
 昨日見たアマゾネス劇場のドームの屋根も見えている。空には禿鷹が数羽舞っている。街と反対側の岸はバージアと言い、雨期には土地は水没してしまい、立木だけが水に浮い。ているように見えるという。水没しても立木は順応しているから枯れることがないという。明らかに水に抉られたと思われる赤い疵あとも見えている。

 暫く経つとやがて、ソリモンス川とネグロス川とが合流する地点に近づいた。驚いたことに両方の川の水の色が全然違うのである。ソリモンス川は白く、ネグロス川は黒っぽいのである。温度はソリモンス川の方が低く、流れの速度は速いということである。このため合流地点でも二つの川の水は混じらず、一方の流れが下に潜ることになる。二つの流れの色は見方によっては牛乳とチョコレートのようにも見える。ところによっては渦を巻いている。そしてピンクイルカと青イルカが水面に跳ね上がるのを目撃することができる。青イルカのほうが多いようである。私は一回だけだったが赤イルカをはっきりと目撃することができた。一瞬のことだから、人に教えることができない。

 二つの川が合流してアマゾン川になって暫く行った地点のバージアに船をつけて上陸した。そこには現地人の高床式の住居があって、白人と混血した一族が生活していた。民芸品の土産物を手作りして沢山陳列していた。魚の鱗や貝を組み合わせてつくった人形面や彫物などが並んでいた。錦蛇の皮が干すために竿につり下げられていたりした。子供が「怠けもの」を抱いていて写真をとるたびにモデル料を請求した。インコウを抱いている少年もいたがこちらには全然お呼びがなかった。

 ここでゴムの木から樹液を取り出す実演を見せて貰った。この人は魚捕りの網を熱心に編んでいた。53人の孫がいるという老婆がハンモックで昼寝していたし、鶏や家鴨が歩き廻っていた。この後再び船に乗って、三角州へ戻りここへ係留して昼食を食べることになった。アマゾン川で捕れる魚や果物や、米を炒めたものが用意されていた。結構美味しく御馳走になった。氷でビールも冷やしてあり、有料であるがよく冷えていてこれも美味かった。乗っている従業員は一族のようであったが、先祖が混血しているせいか、欧州人の顔だちをした子供や原住民だとわかる顔をした子供がいて面白い。金髪の女の子もいたし、青色の目の子もいた。

 食後、丸太を浮かしている貯木場へ行ってピラニア釣りが始まった。舟の上から釣り糸を垂らして釣り竿の先で水面をピチャピチャ叩いて、ピラニアの注意を引き餌に食いついたところを釣り上げるのである。3艘の小舟に分乗して釣り糸を垂れたが、我々の舟では餌だけ取られて一匹も掛からなかった。最後になって漸く一匹、お情けのように女船頭の糸に掛かった。これで釣りは約1時間半の予定を終わり、再び部落へ行ってジャングルの中を行進して大オニハスの葉と花を見学に行った。一つだけ大きな花が咲いていた。 この後船に帰ってつり上げたピラニアのから揚げを食べたが美味かった。。 クルージングを終わって引き揚げにかかった頃、俄に雲が大きくなってスコールに見舞われた。僅かな時間であったが、南国らしい体験であった。

    マナウスの 出船入り船 俄雨  

 ホテルへ帰ってバイキングの夕食を済ませブラジルでの日程を終了した。ピラルクのあばら骨についた肉を切ってもらって食べたがとても美味しかった。

 深夜11時にホテルを出て空港に向かいマナウス2時発の飛行機でマイアミへ向けてとびたった。
       
平成10年10月30日(金)
 飛行機の中でなんとか睡眠をとることができた。マイアミ空港では大橋さんという男のガイドが迎えにきていた。

 バスで市内観光。フォンテンブルーヒルトン、アルカポネが一時滞在したというピルツモアホテル、ベルサーチの邸宅、ベネティアンプール、騙し絵のあるホテル等を見学し、ベルサーチの邸宅前の海岸を水辺まで行った。海岸の砂浜が広く、ハワイのワイキキ等問題にならない程の広さである。
 このあと、ショッピングモールへ案内して貰い、プラネットハリウッドやGショックの店に立ち寄った。

 昼食は、ニカラガ料理であったが肉が叩いてあり、とても美味しいと思った。蒲鉾のようなものや、赤飯のようなご飯がついていた。
 バイオリンの看板の出ている港から食後クルージングしたが、スターアイランドやフイッシャーアイランドの豪華な別荘やら邸宅を眺めて目の保養をさせて貰った。

 ホテルへ着いてから一寸睡眠をとってから街へ出て見ようと話しているうちに二人とも寝込んでしまい2時間半ほど経ってやっと目が覚めた。時計を見ると既に6時を廻っていた。ホテルの近くの食堂やコンビニエンスショップを覗いた後、タクシーを拾ってサウスビーチへ行った。案内者なしに片言の英語しか喋れない夫婦が大胆にも繁華街へ繰り出したのである。

 運転手に予め印をつけておいた地図を示し、トミーという寿司屋の前で止めて貰って歩くことにした。暫く歩くとシーフードレストランというのがあったのでここへ入って、サーモンとメカジキ(ソードフィッシュ)を取って食べた。量が多くて満腹した。ハロウィーンの雰囲気を味わうための外出であったが、人通りも多くさんざめいていた。仮装した人達も沢山見ることができたので、目的を達して再びタクシーを拾って帰ってきた。ホテルの所在をいうのに私はマイアミスプリングスのホリデイインと地名を言えば判るというのに対して、家内はノースといわなければならないと主張した。問題なく帰ることができたが、後で貰っていたメモをみるとノースエアーポートと。言うのが一番通っている呼称のようであることを理解した。   

平成10年10月31日(土)

 南米の旅も昨日で実質終わり、今日は一路帰国である。

 朝4時には起き出して洗顔、排便、シャワーと済ませて5時に荷物を出してロビーへ行くと、早い人はもうきている。マイアミ空港からアトランタ空港へ。マイアミ空港では朝食用の軽食を袋に入れたものが、蛇腹通路の入り口に置いてあり乗客はこれを手に取って機内へ入るというシステムである。乗客の中にはこれに気がつかず、機内に入ってから慌てて取りに戻るという人もあった。はじめての経験である。競争激化に対応するための合理化策なのだろうか。5時35分ホテル出発、空港7時40分発、アトランタ空港へ9時35分着で約2時間時間待ち。

 今日はハロイーンなので空港接客女性職員の中には仮装の服装で執務しているものもある。乗客の中にも仮装しているものがある。奇抜な恰好の女性客に拙い英語で頼んで写真をとる。するとこれを見ていた同行の客達が集まってきてカメラの放列を作ることになる。アトランタ空港で買い物につきあっていると家内が女王のような振る舞いで私のことをまるで従者のような扱いをするので、無言の抵抗を試みる。大きな言葉を出すのも大人げないと思っていると「もう時間?」と聞く。さっきから何回目になるか、「自分の時計をみなさい」とだけ言ってあとは無視して側を離れ待合室へ行く素振りをした。

 途中喉の渇きを覚え食堂へ入ってビールを飲んだ。この抗議行動の意味するところを解釈して自分の振る舞いに気がついたのか、待合室で座っている私の側へ寄ってきて、にこやかに話かけてくる。何もなかったかのように。全く役者である。これも父親譲りのたくまざる立ち居振る舞いということなのか。11時45分搭乗開始。搭乗すると空席があることが判っていたので、家内はいち早く横になれる座席の確保のために後部座席へ行ってしまった。 

 水平飛行になってから昼食が始まったので日本酒を貰い、お代わりも合わせると日本酒二本、ワイン一本を飲んだためぐっすり眠ることができた。夕方の軽食の時間まで4時間から5時間近くぐっすり眠ることができた。帰りの飛行は暗闇なしの明るいままで夜を過ごすことになるので、眠れる時に眠ったほうがあとの対応がしやすい。お蔭で、本来なら深夜にあたり睡眠中である筈の時刻に日付変更線の影響で昼頃の時刻となる。軽食は食べずにいたが、映画が始まったのでその間に食べた。映画は西田敏行主役の釣り馬鹿日誌である。映画が終わると朝食である。日本食でなかった。機中で日が変わる。

平成10年11月1日(日)

 暗くならないままに日が変わった。着陸は午後3時55分。荷物受け取り、場で顔をみるごとに挨拶をしてリムジンへ急ぐ。しかしこの時間には到着の飛行機が多く、40分程またされてやっとバスに乗車することができた。日曜日なので道路は混んでいたが、市川で一般道路へ下り、混雑箇所を迂回して海底トンネルの手前で再び高速道路に入って快走した。ために1時間40分で横浜へ到着した。さすがプロである。タクシーで帰ってくると支奈と一法君が丁度来たところで玄関に車が止まっていた。空港から電話したときは留守だったのに。土産を渡して、漬物と赤飯の握り飯で夕食を済ませた。手紙等を整理して十時に就寝。手元に残ったドルは472ドルであった。



2004年08月23日(月) 【マスタードの洗礼と豊穣の国のマナー・・アルゼンチン、ブラジル��】

平成10年10月27日(火)
 ホテルを8時に出発してコルコバドールの丘へ昇るために、登山電車の駅へ向かった。朝一番の電車へ乗って混雑を回避しようという作戦である。赤色の車体の電車に乗って窓の外をみると色々な植物が観察できる。 大きな木の幹に直接ぶら下がっている干瓢くらいの大きさのあるジャカの実。赤い花を咲かせている女王の耳飾り。朱色のアフリカ鳳仙花。

 電車の中でガイドの説明が続く。ブラジルは1500年にペドロ・アルパレス・カプラルによって発見された。1533年に、最初の砂糖が生産された。1727年にコーヒーの栽培が始まった。1728年にダイヤモンド鉱が発見された。そして現在宝石は全世界の生産量の80%をブラジルが占めるという。

 コルコバードの丘には巨大なキリスト像
が建っているが四方を展望できる場所としては最高のロケーションである。実に素晴らしい眺めである。この俯瞰は世界の三大景観の名に値いするものがある。


 再び電車で下ってくると起点駅には、沢山の乗客が列を作って順番を待っている。これを見ると一番の電車に乗るべくホテルを早く出発した理由がよく判る。

 この後、マラカナンサッカー場を見学した。ここでは選手のロッカー室や練習室、シャワー室も見学できた。Tシャツもショップ内で買うことができた。サッカー場で変わっているのは観客席に沿って円周状に幅10メートルほどの溝が掘られていることである。説明によればゲームの結果に興奮した観客がグラウンド内へ雪崩こまないように設けたバリアであるという。このようなバリアが設けられているサッカー場は世界でここだけしかないそうであるから、この国の人々が如何にサッカーに熱狂するかがよく判る。


 サンバ大会の審査が行われるコンクリート製の大きなスタンドにも立ち寄った。3000人〜5000人のチームが踊りながらここで審査を受けるという。想像するだけでも壮観である。ブラジル人を熱狂させる二つの物。それはサッカーとサンバであるという。そのグラウンドと舞台を見学したわけ。である。サッカー場は運が良くなければ中へ入ることができないという。



 この後、リオデジャネイロの中心街、オフイス街を通って三角形の形をし、たメトロポリターナ大聖堂(サンセバチオン)の内部を拝観した。カリオカ水道橋もバスの中から目撃できた。

 昼食は繁華街の通りを信号待ちしながら斜めに横切って、シュラスコ料理を食べに行った。実に贅沢な食べ方をするものである。食べたくない肉を入れる皿が用意してあるのである。いろいろな部分の牛の肉がでてきた。あばら骨についている肉が一番美味いということである。こぶ牛の肉はブラジルでなければ食べられないというのでトライしたが、筋張っていてあまりうまいとは思わなかった。アマゾンの現地人の食事の作法は肉片を一口食べては残りを捨てるのが作法で、いくら美味しいからといって残さず食べてしまうのは非礼とされるという。豊穣の国なればこその食事のマナーである。この習慣が採り入れられたのがシュラスコ料理ではないかと考えている。

昼食に堪能した後、ポンデアスーカルへ登った。ケーブルカーで中継していくわけだがコルコバードの丘に向かい合うようなロケーションである。ここからもリオの市街と美しい海岸線や入り組んだ海が見渡せてまさに絶景である。

 コパカバーナ海岸、イパヌマ海岸、マラカナサッカー場等も見えている。暫し景色を堪能したのち雲行きが怪しくなってきたので急遽、時間を切り上げて下山し宝石店へ急行した。Hスターンの本店である。店員と対面して一つずつ宝石を見せてくれるのである。暫く見ていたが、買う気がないので家内とはぐれたから探しにいくという口実でその場から逃げ出した。家内を見つけて側へ行くとすぐ終わるから一階の民芸品売り場で待っていてくれという。その通りにしたが、退屈してしようがない。所在なげな顔をして椅子に腰掛けていると店員が階下の駐車場で飲み物のサービスをしているからそちらで寛いでくれという。そこでカイピリーニャを2杯御馳走になった。そうこうしているうちに家内がやってきて、相川夫妻と一緒の送迎バスでホテルまで送って貰った。結構距離があった。家内は狙いをつけていた腕時計を買った。今回の旅行では一番高い買い物となった。15万円である。

 夕食は中華料理店で食べてからサンバショーをプラットフォーマーという店へ見に行った。中華料理も品数が多くて少しずつ食べたが満腹した。東ヨーロッパへ行った時には食が貧しいという印象であったがそれに比べるとここブラジルではいずこも雲泥の差であるといえよう。まさしく豊穣の国であり、食である。農産物、鉱産物、工業製品の全てが自給自足できる国であるから国民性は明るくておおらかなようである。

サンバの踊り子達は均整のとれた素晴らしい体をしているが顔貌は美形とはお世辞にも言えない。見ていてもときたま居眠りをしていた。気がついて。目をあけるが半分は寝ていたのではないかと思う。ビデオ撮影ができないので後から見るというわけにもいかないし困ったものだ。それにしても彼女ら、の月収は15,000円程にしか過ぎないという。気候が暑く、食べ物が豊富な国では貧しくとも表情が明るく、悩みなどないかの如くみえるから不思議だ。これにひきかえ不況のどん底にある日本人の表情は暗すぎる。ショーのフィナーレは流石に豪勢であった。数枚カメラに収めた。帰宅したら12時半であったので慌ててベッドに飛び込んだ。
          
平成10年10月28日(水)                    
 5時半モーニングコールの1時間前には目が覚めて、シャワーを浴びてすっきりする。9時00分出発で空港へ向かう。約5時間後にマナウス到着。空港から外に出ると空調が効いていないので流石に暑い。大塚さんという男のガイドが迎えにきていた。バスで自然科学博物館へ直行する。アマゾン川で捕獲される魚や蝶、昆虫の標本が展示されているのだが、魚は大きなものばかりである。ピラルクという魚には驚いた。鱗の一枚が靴べらのように大きくて固いのである。丹念に展示品を一点づつビデオカメラに収めた。

 この後ゴム景気の時建設されたという贅を凝らしたアマゾナス劇場を見学した。ヨーロッパから材料を運んで作ったという凝りようである。港の記念碑の塔が劇場の前に建っていた。このあとトロピカルホテルへ早く入ったので、河畔へ出てみようということになって家内と二人で出掛けたが少し歩いただけで汗だくになってしまった。
 
 桟橋にあがってネグロス川の水に手をつけてみただけで部屋へ帰った。湿度も温度も高いので動くのもものうく気だるい。思考力も停止してしまいそうである。夕食はホテルの食堂でバイキングであった。食後ホテル前の商店街へ行ってタオルを2枚買ったが8ドルもする高いものであった。暑くてクーラーも最高値にセットしてあるが冷しきれない。湿気が高くて洗濯ものも乾かない。
        



2004年08月22日(日) 【マスタードの洗礼と豊穣の国のマナー・・アルゼンチン、ブラジル�◆�

平成10年10月25日(日)                    
 6時起床。シャワーを済ませてベッドに腰かけていると家内が起き出してきて、お化粧を始めた。7時にホテルの食堂で朝食をとる。このラファイエットホテルは以前パリで泊まったときも同じ名前であったという記憶がある。バイキングである。南国の果物が豊富なのが嬉しい。    

 タンゴのロゴの入ったTシャツを買おうと8時半頃、街中へ出てみるが、清掃の人や車が活躍しているだけで、店はまだ開いていない。ガイドの言っていた通り、日曜日だからなのであろう。ただ、軽食用の食堂は開いていてちらほらと食事をしている人を見かける。それでも一軒、繊維製品を扱っている店が開いていたので、入ってみるとTシャツも売っていた。タンゴの踊りの入ったものをLとMを一着買った。一法君と支奈へお揃いで土産にしようというつもりである。家内が形のよい履きやすそうな靴を見つけて買いたい口ぶりであったが、店が閉まっていてはどうしようもない。ここは歩行者天国のようで、屑入れ箱がやたらに目につく。昨日は夜遅くまで賑わっていた様子が窺われる。

 店が閉まっていては歩いても仕方がないので部屋へ帰ることにした。部屋まで来ると人がいる。メイドが掃除に入っているのだが、我々に気がついて仕事途中で出ていった。枕銭はそのまま残っていた。受け持ちの仕事を早くかた付けようとして、外出している部屋に入って作業していたということらしい。

アルゼンチンで一番大きなゴムの木 風邪気味らしく鼻水が出るので病院で貰って持参していた薬を服用する。指先が荒れているのは風邪薬を服用したからだと見当をつけているので、あまり飲みたくはないが、鼻水が出るのを我慢するのも苦しい。昨日のマスタードのことを思い出したら一句できたので書いておく。

  春の街 マスタード鉄砲に 戸惑いぬ

 11時20分にロビーへ集合してから空港へ向かいイグアスへ飛んだ。13時26分離陸、14時00分着地、15時、迎えのバスでイグアスの滝へ向かう。ガイドは斉藤さんという男の人で旅行社を営んでいる社長らしい。

 滝はアルゼンチン側から見るのであるが、滝壺へ流れ込んでいく様を観察することになる。こちら側からの落差はあまり大きなところまでは見られないが、水量といい流れの数といい規模の大きさに圧倒される。滝の幅は4kmに及び滝の数は300もある。

 生憎の雨で滝を見る前から合羽を着用している。合羽のずぼんを当初着用しなかったので下半身はずぶ濡れで寒くなってきた。慌ててずぼんをはいたが遅すぎた。4〜5年前の大洪水で観瀑橋の大部分が流されたので、舟に乗って残っている橋脚まで運んで貰う。その後、流されずに残った橋を歩いて「悪魔の喉笛」と呼ばれる箇所を見学に歩いていく。飛沫が飛んで激しく水煙が上がっているので、合羽で身を固めていても先刻下半身が濡れていたため全身ずぶ濡れである。ビデオカメラを濡らすまいとビニール袋に入れているのだが、どうしても濡れてしまう。

  イグアスの 飛沫千丈 夏涼し

  大地割れ 悪魔の雄叫び 夏涼し                。  
  夏の雨  足元かばい 滝を見る

 このあとイタイプー湖から放流されて流れてくるパラナ川とイグアスの滝、を経て流れてきたイグワス川の合流する地点が三国の国境になっていて、それぞれの国境点に標識が建っている。ブラジル、パラガイ、アルゼンチンの国境である。この国境をアルゼンチン側から見学したのちカリマンホテルへチェックインした。
        
平成10年10月26日(月)

 オプションでイタイプー発電所を朝、見学するという。昨日の雨のせいで家内は参加したくないような口ぶりであるが、無理に説得して同行することになった。参加するのは男ばかりで家内を入れて6人である。8時に集合してイグアスの街を通り抜けて発電所へ到着した。

 イタイプー発電所はパラナ川に建造された水力発電所で、ダムの総延長距離8km、貯水池面積は琵琶湖の2倍あるという。出力70万キロワットの発電機が18基あるので、総発電量は1260万キロワットとなり、世界最大である。1975年から始めて1995年に完成した。建設の最盛期には飯場としての住宅が9000戸あったといい、労働者も3万人が従事した。総工費150億$で20年の歳月がかかった。タビーンの直径は18mもあり放水管の直径は10.5mである。

 ブラジル国全体の消費電力が5000万キロワットであるからこの発電所だけで4分の1をまかなうことができるのである。現在は5社出資のウエコンが経営している。

 ダムはロックヒルダムの部分に特徴がある。250mの幅に高さ80mであるという。

 ダム建設の技術では世界第一である。イグアスの人口は24万人でホテルの数だけでも200軒あるというから、大きな観光都市である。高級住宅地では80坪の土地で4LDK程度のアパートで2500万円位だという。

 ホテルへ帰ると間もなく、ブラジル側からの滝見学へ出発である。遊歩道を歩きながら滝を見学するわけだが、沢山の滝が轟きわたりながら落ちていく様は、壮観の一語に尽きる。見事なものである。昨日より落差を大きく見ることができる。最終はエレベーターで一般道路にでることになるが、エレベーターホール近くでの滝の落ちゆく様は物凄い。

 昼食はLa Mammaというレストランでイタリア料理を食べたが、今回の旅行ではここの料理が一番口にあった。特に肉が美味かった。ここではカイピリーニャというブラジルの焼酎を飲んだが甘口でとても美味かった。メキシコのマルガリータと似た感じのカクテルであると言えよう。         
 三国国境の街、パラガイのシューザ・デル・エーステという都市は、人口210万でタックスフリーの街だというから昔の香港を小型にしたような国、際都市らしい。

 ブラジルの国花はイッペイといい9月上旬に黄色い花をつける。

 イグアスのカレワ空港よりリオデジャネイロへ飛び、到着後、グローリアホテルへ直行した。ガイドは三浦という男でちょっと癖のある気障な野郎で駄洒落を飛ばしては一人悦にいっているようなところがある。夕食はホテルのレストランでバイキングであった。野菜と果物をしっかり食べた。



2004年08月21日(土) 【マスタードの洗礼と豊饒の国のマナー・・アルゼンチン、ブラジル<� �

アルゼンチンとブラジルの旅 ブェノスアイレス、リオデジャネンロ、マナウス
                 1998年10月23日〜11月1日

平成10年10月23日(金)
 成田エキスプレス13号、横浜駅8時30分発に乗車。東京駅で池袋からの電車を接続するために時間が随分掛かった。池袋からの電車が遅れたらしい。かれこれ30分近く遅れて発車した。
 
 成田空港へはリムジンバスでも行けるが、交通渋滞のことが予測できないので、時間信頼性の高い電車を選んだのに、今日に限って遅延するとはどうも幸先がよくない予感がする。

 結局30分の遅延を挽回できず、成田空港第二ターミナル駅には18分程遅れての到着となった。集合時間は航空機出発時間より2時間前に設定されているので、致命的な遅れではないが、時間を守ってきちんと集合した他の同行者に迷惑をかけることになりそうなのが心苦しい。

 気が急いているので、集合場所に指定されたカウンターがよく判らない。案内のテレビ画面を見るが、該当のものが見当たらない。近くにいた係員に旅行案内書を見せて、何処へ行けばよいかと尋ねるとHカウンターでよいというので、荷物を検査に通して窓口を探すが、やはり見当たらない。時間に遅れたので、窓口を締め切られたかと一瞬不安な気持ちになる。念のためもう一つの案内板を見に行くとやっとJカウンターへ行けばよいことが判った。既に参加者は全員集まっているらしく、我々が一番最後であった。列車が遅れたことをアピールして、慌ただしくパスポートや航空券を受け取った。添乗員の吉沢美月さんは元部下の大沼淑子さんによく似た顔だちの女性であった。

 免税店で寝酒用にジョニーウオーカーの黒ラベルの小瓶を一つ買ってリュックへしまった。海外旅行では時差が介在するし、宿泊所への発着が深夜に及ぶこともままあって、睡眠が十分とれないことがある。そのため、アルコールの力を借りて寝付きをよくする必要性が起きる。トルコ旅行の時、免税店でジョニ黒の小瓶を求めて試みてみた。ウイスキーを寝る前に飲むと寝付きがよくなり熟睡できることが判った。

 それ以来、ジョニ黒の小瓶を買うことが恒例となった。ところで、今回持ち出した小遣いは612ドルである。通常1日当たり50ドルを食事時のアルコール飲料、飲料水、有料手洗い等の出費用としておけば十分なのだが、トルコ旅行の使い残しを全部持ち出したので、一日50ドルの見積もりからすれば多少多めである。帰宅した時、何ドルになっているのだろうか。

 全員が集まって吉沢嬢から説明をきいている時、参加者の様子を観察すると今回はかなり年配の老人が多いなあという印象である。最高齢者は85歳であった。

 13時始動、離陸13時13分。ケネデイ空港着陸11時30分。所要時間11時間25分であった。予定より50分も早い到着となった。窓の外に大陸の広大な平野が俯瞰できたが、ロッキー山脈を越えたあたりだったであろうか、円形に区画された畑が緑色と茶色に見えていて珍しかっ、た。そんな景色が暫く続いてやがてどこでも見られる長方形の田畑に変わった。

 五大湖上空を飛行している時、ここでも雲がなかったので、下界の景色がよく見えた。湖と川が多いという印象である。

  秋の空 湖沼多きに 驚きぬ

 飛行機の中では持参した文芸春秋を読み耽ったので、そう退屈することもなく、多少眠ったかなと思う頃にはニューヨークのケネディ空港に到着していた。今回の旅行では成田出発が昼過ぎであったので、飛行時間が12時間とすれば夜中の12時前後になる。時差を考慮に入れて、現地時間に体を順応させていくには、今度の場合、機中ではあまり寝ない方がよい。睡眠時間調整はうまくいったようだ。

 この空港はとても大きな空港だという印象である。到着したターミナルからブエノスアイレス行きの出発ターミナルである9番ターミナルへ移動するために、バスに乗ったが随分時間がかかった。15分近くかかったであろうか、それ程大きいのである。ベノスアイレス行きの飛行機が離陸するまで7.5時間近くもあるのに、空港で待機しているだけで、外へでることをしないという。

 旅程の作り方としては、ちょっと能のない話である。ベテランの添乗員であれば、参加者の意向を聞いてまわりオプションということで、国連ビルと自由の女神程度の見学はさせてくれるのにと内心では不満に思っていた。しかしこれは旅行社としては責任外の行動となり、あくまで添乗員の個人的な好意に依存することになるので、あまり強くは要求できない。今回の吉沢さんは社歴も浅さそうだし、自信がないのかなと思ったりした。

 結局誰も市内見学の希望を言いださなかった。老人が多いので長時間の飛行に疲れてしまってその元気もないということなのか。でも7.5時間の手待ち時間は勿体ない。ただ私の場合、両者とも過去に見ているので是非にという気持ちではなかったが、例え二度目であっても空港内でただ時間待ちをしているだけよりは、体を動かしたいという気持ちであった。

 機内食が3回でたが、体調を考えると全部食べないほうがよいだろう。どれだけの量食べるかが非常に難しいところだ。美味いからというので食べすぎると胃腸を壊すし、沢山残すのも幼少期戦中派には気がひける。

平成10年10月24日(土)                    
 眠りから覚めて、時計を見ると朝5時10分である。機外に目をやると雲もなくブエノスアイレス上空にさしかかっているところであった。

 山肌を 見せてうねるや ブエの秋                  
 秋の朝 四方発達 白き川                     

 パンパスに 野焼きの煙 たなびけり                

 エセイサ国際空港に5時40分着陸。荷物を取ったり入国審査をうけたり、した後、現地ガイドの熊沢女史の案内で待ち受けているバスに乗り込んで、空港を出発したのは7時23分であった。ニューヨークとの時差は1時間である。熊沢さんは現地生まれの二世だというが日本語はとても上手である。現地通貨の説明に現物を用意していたが、札を金額の大きい順に貼り合わせてあり、コインも並べて貼ってあった。なかなか工夫したなと思わせる。

 7月9日通りを通ると「にせアカシア」が、小さい黄色の花を咲かせている。ジャカランダの木が通りに植えてある。紫色の花が11月に咲くということである。ちらほらとそちこちに咲いているのがみられた。この木は高級家具に使われ木質は非常に固いという。国花はセイボといいディゴの一種である。
          

  ブエの街 ジャカランダが 咲き乱れ               

 大統領府、コロン劇場(オペラ劇場)、オペリスコ(ブ市400年記念)国会議事堂議事堂前のロダン作考える人、基点石等を見学。       

 アルゼンチンの国土は300万平方キロで人口3500万人、ブエノスアイレスは400平方キロの面積に対し1100万人が住んでいるという。 

 革命記念塔、革命広場、メトロポリタン大聖堂を見学。この教会を足早に済ませて外へ出ると出口に老婆の乞食がいた。意外な感じである。トルコでは見かけなかった風景である。教会前の広場のベンチに腰をかけているとパンチパーマをかけた同行の男が近寄ってきて名乗りをあげ挨拶をした。こちらも相応に挨拶を返す。この種の旅行では積極的に働きかけて知り合いになろうとはしない主義を貫いているが、先方より近づいてくるのを拒む理由もない。

 ガイドの説明によればアルセンチンは80%以上がカソリックであるという。移民の国で白人が多い。従って母国を偲んだ町作りをするからヨーロッパに似た街のたたずまいである。

 教会を出てからはボカ地区へ移動した。このあたりは、とたん壁の粗末な家が多い。イタリアからの移民が多いらしく、40%にも及ぶという。この地区にあるプラシチサッカークラブにはマラドーナも所属している。チリーの独立を助けたサンマルチノ将軍の銅像があちこちに建てられていたがカミニートにも記念碑があった。この地区の渡しの船頭を少年の頃のオナシスがしていたという話がある。

 タンゴの発祥の地カミニートに立ち寄った。アルゼンチンで一番古い港町なのに港自体には往時の活気はなく、うらぶれた雰囲気が漂っている。しかしタンゴの発祥地ということで観光客の往来が激しく、屋台だけの土産物屋。が沢山立ち並んでいる。ビルの中に店を構えた土産物屋も数軒あるが屋台のほうにお客は多く集まっていた。

 絵描きが数人、自作の絵を沢山吊るした展、示台の側で画筆をふるっていた。タンゴを踊っている男女のセクシーな姿を描いた立て看板の横で中年の男が手風琴を弾きながらうら悲しい音を流している。よく見ると踊っている男女の顔がくり抜いてある。記念写真撮影用の舞台装置というわけである。タンゴは元々失恋の歌であるというからもの悲しい手風琴のメロディーは相応しいのかもしれない。一枚絵を買った。

 アルゼンチンには東洋人は少ないが、その中では日本人が一番多い。 
 35000人住んでいて、洗濯屋や花屋を営む者が多く、日本移民の歴史は90年になるという。

 レコレタ墓地へ見学に行った。墓地見学と聞いたときは変なものを見に行くんだなと訝ったが墓地へ来てみて納得した。墓地には違いないが贅を尽くした豪華な館が建ち並んでいるのである。総大理石造りのものあり、豪華な彫刻を施した柱や壁面あり、様式もゴチック、ロマネスク、ロココ、アールデコと思い思いの様式がある。大きなものは敷地面積が10坪ほどもあるであろうか、小さいものでも1坪くらいはありそうである。故人の遺徳を偲んで立派な墓を作ることがその一族のステータスと富の証になるのである。墓に莫大な金をかけるという思想はローマ時代にもあったようである。トルコのパムッカレで見学したローマ時代のネクロポリス(墓地遺跡)も遺跡になる前の形はこのレコルタ墓地と類似した景観だったであろうと想像しながら見学した。この墓地では極貧の身から女優になりペロン大統領の奥方としてファーストレディにまで登りつめたエビータの墓が有名である。訪れる観光客が供えるのかここだけは切り花の数が特別に多かった。我々が見学している時間帯に軍関係有力者の葬式があるらしく大変な混雑であった。 

  エビータの 墓に額ずき ジャカランタ

  ゴムの木の その大きさに 驚きぬ

 トランケーラ(牧場という意味)というレストランでアサード料理を食べた。店頭ではデモンストレーションのためであろうか、炭火で羊や子牛の姿焼きをしており香ばしい香りが漂っていた。しかし4本の手足を伸ばして串に刺され丸焼きされている羊や子牛の姿はグロテスクである。この姿を見て美味そうだと受け取るかグロテスクだと感じるかは美意識の問題なのか、人間が内蔵する残虐性の問題なのかという疑問がふと頭の中をよぎった。内蔵の前菜とサーロインステーキを食べた。白ワイン750CCのボトルをとった。10$。  

 パレルモ公園を通り、ラプラタ川を見学した。この川はアルゼンチンとウルガイの国境をなす大河で長さ 361キロメーター、最大川幅は河口の221 キロメーターもあり大西洋に注いでいる。パンパで採れた穀物や冷凍食肉はこのラプラタ川。の港から輸出されていく。

ラファイエットホテルへ入り、1時間程午睡してから二人で街へ出た。地、図と地形を見比べながら、辺りを見回しキョロキョロしていた。

 並木道を歩いて高い木の下にさしかかったところ、木の上から何かが落ちてくる気配がした。鳥の糞か木の葉についていた水が落ちてきたのかなという感じであった。家内が「いやだ、鳥の糞かしら」と言って上を見上げている。

 私は気づかなかったが言われて上を見ながら、右手で後頭部をさすると手に黄色いものがついている。鳥の糞は黄色いのかなと思っていると現地人の男が同じように木を見上げている。そのうち女がティッシュペーパーを取り出して近づいてきた。ここでハット気がついた。ガイドから注意されていたマスタードによる掏摸の手口である。                      
「マスタードだ、掏りだよ。相手にせず逃げよう」と私が叫んだ。近づいてくる二人の男女に対して「ノー、サンキュー」と大きな声で言いながら相手を無視してどんどん歩いた。暫くついてこようとしていたが、毅然とした態度をとったので諦めたのか二人連れは去っていった。

 教科書通りの手口で被害にあうところであった。そのままホテルへ帰って洋服を脱いでみると上着とズボンの上から下へかけて一条、刀で切られたように黄色い線が走っていた。マスタードをかけられたのである。

 二人の男女は手に道具らしきものは何も持っていなかったから、他にも仲間がいて物陰から水鉄砲のようなもので襲撃したのではないかと思う。二人の男女は40歳前後の土着人のような肌の色と顔貌であった。後から考えるのだが、もし咄嗟に相手の襟首を掴まえて、一喝したらどんなことになったであろうか。仲間が出てきて取り巻かれ、大騒動になったであろうか。いずれにしても癪にさわる出来事であった。水洗いして他の洋服に着替えて、タンゴショーへ臨んだ。

 ラベンタナというレストランでタンゴショーを見た。タンゴは腰から下の動きが活発でかなりセクシーである。踊り子達の体型はすらりとして恰好がよいが、顔貌はあまりよくないと思った。食事は再びビフテキを取ったがとても大きくて半分も食べられなかった。パサパサした感じであまり美味しいとも思わなかった。餌のせいなのだろうか。ホテルへ帰ると12時30分を廻っていた。
       



2004年08月20日(金) 【異常と思える程に車の少ない社会、サルサのリズム溢れる国・・キューバ】

キューバの旅 ハバナ、バラデーロ、トリニーダ
                  2000年8月9日〜8月15日
 カストロが革命を成就して以来1962年にアメリカとの国交が断絶し、社会主義体制の道をひたすら歩んできたキューバは一般観光客には閉ざされた遠い国であった。が、日本からの直行便が2000年の8月からチャーター便として就航するようになった。ベルリンの壁崩壊以来、社会主義体制の国々が大きな変容をとげつつある現在、キューバの社会の現実を見学することには非常な興味があったので八月九日発の第二便でキューバ周遊の旅に参加した。

 空港からホテルへ着くまでにハバナ市内のマリアナ地区とジボネイド地区を通り抜けたが、マリアナ地区は下町の雰囲気があり、建物も見すぼらしく上半身裸の男たちが家の前に屯していてなんとなく低所得階層の町といった佇まいである。

 これに対してジボネイド地区は革命前にはアメリカ人達が住んでいた高級住宅地である。敷地も広く瀟洒な建物が多い。現在では各国外交官の居住地として或いは国の文化施設として使われているということで手入れもよく行き届いていてそれなりに美しい。

 ホテルまでの道中の第一印象は道路を走る車の数が異常に少ないことと、



マリアナ地区の建物は補修されておらず薄汚い建物が多いということであった。このような廃墟寸前の建物を見ると何故か東欧のドレスデンやプラハの町を歩いたとき感じたのと同じような社会主義のもたらした負の遺産をここでも再確認した思いである。

 革命広場には高さ109mの塔がそそり立つホセ・マルティ記念博物館、国立劇場、国立図書館、内務省、軍関係の建物等が広場に面して建っている。博物館の前には、第二次独立戦争(1878〜1883)の指導者であるホセ・マルテイの18mにも及ぶ大理石像が建てられていて広場を見守っている。軍関係の建物の壁面にはゲバラの顔が大きく描かれていて、記念撮影の対象として最も有名である。この革命広場には1959年以降、最大百万人が集まったことがあり、7月26日の革命記念日には、カストロ首相が高台に立って演説をするのである。このあたりは如何にも社会主義国家らしい街の佇まいである。

 ガイドのパブロさんにいくつか質問をしてみた。
 先ず、土地や建物の所有制度について聞いてみると土地も建物も国家の所有であり、国民や企業は国からこれを借りて利用しているという。建物を店舗または事務所として借用し商売を営むには収入の10%を家賃として国家に収めなければならないし、営業利益から税金も収めなければならない。観光バスの運転手やガイドのパブロさんも公務員であり世界的に有名なダンシングチーム「トロピカーナ」の踊り子達も公務員なのだという。

 次に公務員の給料について聞いてみると水準は職種により通常一カ月当たり100ペソから186ペソであり、特殊なものは最高800 ペソのものもある。1ドルが21ペソとして換算すると4.8ドル(528円)から8.9ドル(979円)という低い標準であり、最高職でも、38ドル(4180円)にしかすぎない。勿論これだけでは生活できないわけで、米や肉類等の生活物資は別途配給されるらしいが詳しいことは教えて貰えなかった。

ヘミングウエイの邸宅

 ソビエット連邦の崩壊はキューバ経済にも深刻な影響を与え従来のように社会主義大国からの経済援助が受けられなくなったので、苦難の経済運営を余儀なくされた。経済自立のための色々な試みがなされるようになったのであるが、その一つが5年ほど前から始まったドル通貨の採用と国内自由市場の認容である。ペソの国際信用力は皆無に近いので信用力のあるドルを自国で流通させて自国経済を国際経済システムの中へ強制的に組み込んでいこうといういわば一種の荒療治である。ペソ経済とドル経済という二重の経済制度を取り入れたことになり、外来の観光客の頭には経済の混乱がおこるのではないかという心配があるがガイドはあまり触れたがらなかった。

 そして農産物等の60%は政府で収納し政府の管理下へおかれるが30%は自由市場へ廻されて市場経済原理に基づく価格形成が行われるようになった。それでも自由市場で売られる商品は価格が高いという。この自由市場ではドルしか通用しないからドルを持っていない人は買い物ができないのである。市場の入り口にはペソとドルの交換所が設けられているが何故か撮影が禁止されている。

 最初道路に自動車が異常に少ないと感じたことの秘密は輸入に頼るガソリンの供給を政府がコントロールしていることと新車の購入権を独占している政府が新車の購入をコントロールしていることにあるようだ。タクシーには新車が目立つが、値段の安い韓国製が多く目についた。中古車ならば民間人も購入できるということであり、1960年式のアメリカ車が大いばりで町中を走っているのも近頃珍しい光景である。古い年式の車だと部品がなくて困るだろうと聞いてみると、ソ連製の車の部品が転用できるから大丈夫だということである。    

 道路の風景について更に印象を述べると自動車の数が少ないことに比例するように、この国のバスは何れも超満員で走行しており、バスの停留所には沢山の乗客が屯している。 そして土曜日とか日曜日になるとトラックの荷台に若者達が立錐の余地もないほど立ったままで乗っていて楽しそうに話している。これは休日を利用して海浜へ水浴に行く人達で、会社に申請してトラックを行楽のため借りだしているのである。また道路端には停留所のない場所に佇んで、通りかかりの車に手を挙げて合図している人の群れをよく見かける。このような人を発見した場合、運転手には車に収容する余地のあるときには停車してピックアップする義務が課せられているのだという。このあたりに需要を無視した何かチグハグな社会主義国家の統制力というようなものを見る思いがした。

保養地の海浜
 更に町中の公園近くの歩行路に夥しい数の人の群れが行列を作っている光景をみかけることがある。これはコッテリアのアイスクリームを求めて並ぶ群衆である。

 ホテルの個室に備えられているテレビではCNNのチャンネルも選択できる。ハバナのホテルではCNNの言葉はスペイン語であったが、バラデーロでは英語であった。アメリカと国交を断絶しているのにCNNが受信できるとは情報統制が意外に緩やかだなと意外に思いながらそのへんの事情を聞いてみると謎が解けた。つまりスペイン語の放送はCNNの生放送をそのまま翻訳して流しているのではなくて政府の手で取捨選択が行われたうえで放映されているのであり、英語の放送はバラデーロというリゾート地故、外国人しか聞く人がいないから生放送をそのまま流しているのだという。キューバ人がパラボラアンテナを設置してCNNの生放送を受信することは禁止されており違反すると処罰されるというのである。北朝鮮の報道統制の厳格さと比較して情報統制の巧妙さを感じた。

 キューバとアメリカの民間人の相互の国への出入国について聞いてみると先ずアメリカ人がキューバへ入国するには第三国を経由すれば原則自由であるが、キューバ人がアメリカへ入国することは非常に難しい。先ず年間二万枚に制限されているビザを入手することが最初の難関であり、次に十分なドルを調達するのが難しいからであるという。

 この国の主要産物のである葉巻とラム酒の製造工場を見学した。
 葉巻工場はどこもかしこもニコチンの臭いが充満しており作業環境は劣悪である。仕事は、葉の選別作業から始まり、葉の中央にある太い繊維を除去する作業、



葉を巻いていく作業、包装用の箱を作る作業、箱詰め作業、ラベル張り作業と順次工程順に流れていくがいずれも手作業である。多くの老若男女が椅子に腰掛けて作業をしていたが端的に表現すれば工場制手工業(マニュファクチャー)である。日本であればすべての作業は機械化してしまうであろうと思われる単純作業である。

 ラム酒製造工場は日本のビール工場や清酒工場のイメージとは全く異なっており、工場とは名ばかりで、樽詰めされた樽が熟成を待って保管されているだけといった感じの倉庫にすぎない。ラム酒は砂糖液を発酵し蒸留して熟成させ作られるのであるが、この工場にはそのような設備は全然見当たらず瓶詰めの作業も見ることができなかった。発酵させ蒸留されたアルコールが樽に詰められてこの工場へ運びこまれ熟成されるという説明であった。ここもアルコールの臭いがいたる所に充満している上に蒸し暑く作業環境は劣悪の一言に尽きる。

 葉巻工場にしろラム酒工場にしろわざわざ見学する程の価値はなく、付属の店で商品を売りさばくための囮としての工場見学という印象を否めない。劣悪な作業環境といい、単純作業といいこれが社会主義国を標榜する後進国の生産現場の現実である。

 この日最後に自由市場を見学したが、肉、果物、野菜、米等の食料品と手作りの民芸品などが並べられており、住民達で賑わっていた。並べられている商品も豊富ではあるが品揃えが貧弱でまだまだ消費者主役の社会には程遠いという印象を受けた。

 夜はホテルで夕食を摂った後、世界的にも有名なキャバレー「トロピカーナ」へサルサのショーを見学に行った。客席は屋外に設置されていて高い樹木に囲まれていた。総勢百人程の男女のダンサーが入れ代わり立ち代わり現れ、ラテンのリズムに乗ってサルサを踊るわけだが、色とりどりのカクテル光線を浴びて美しい躍動感溢れる光景を作りだしていた。鉄棒の曲芸などサーカス的な要素も取り入れており、ラム酒ベースのカクテルを味わいながら楽しい夜の一時を過ごすことができた。踊り子達は幼少から英才教育を受けたエリート公務員である。サルサは1960年代に中南米の移民達を中心にキューバ音楽をベースとしてニューヨークで生まれたダンスである。そのルーツはアフリカ系移民が密かに信仰していた宗教サンテリアで使われていた打楽器チャンゴのリズムと砂糖黍刈りの手足の動きを踊りに取り入れたものである。

 トリニダーへ向かう時走行した高速道路には殆ど車が走っておらず、借り切り専用道路の感があった。これほど車の少ない国はいままでの旅行で見たことがない。



2004年08月19日(木) 【太陽とサボテンと古代遺跡の国・・メキシコ�◆�

 サンタエレナ村のマヤ人の農家マリヤさんの自宅を訪問し見学した。よく太ったこの家の主婦マリヤさんが自らトルティーヤを焼いて振る舞って下さった。

 広い赤土の敷地は草一本生えていないほどよく手入れされており、屋内も清掃が行き届いていて、いかにも清潔好きな主の人柄を見る思いであった。椰子の葉の涼しげな天井と部屋の中には家具らしいものは殆どなかったのが印象的であった。湿度の高い熱帯地方の風土によくあった生活の形式であると感心して見ていた。また庭には幾つもの檻が置いてあり、孔雀、梟、オウム、九官鳥その他の小鳥が十数種類も飼われていた。彼らは古代マヤ文明を作りだした誇り高きユカタン人でありまたマヤ人の末裔でもあって、今も農業を営んでいるのである。

 メリダから約80kmの所にウシュマル遺跡がある。この遺跡はマヤ文明古典期後期の宗教遺跡で壁面にはプーク(台座や壁面を神像などできらびやかに飾りたてる建築様式)と呼ばれる美しい浮き彫りが残されており、マヤ独特の建築様式の最高傑作といわれている。

 「魔法使いのピラミッド」や「尼僧院」と呼ばれる建物群、「総督の家」が残されていて、これらの建物の外壁には象の鼻のように長い鼻に特徴のあるチャック神像(雨の神)や蛇の形をしたククルカン像やその他の動物像等が浮き彫りされている。「球技場」も残されていて建物の内壁には円形の穴のあいた石造りの突起物が取り付けてあり球技用のゴールではないかと考えられている。そして、ここにある建物には鋭角のアーチ型の石組が多く使われており、重量物を支えるには力学的にも最も効果的な構造であり、彼らの建築技術が優れていたことを証明している。

 ウシュマル遺跡から20km程離れたカバー遺跡も見学した。ここには、「コズ・ポープ」と呼ばれる神殿が残されておりその壁面には表情豊かなチャック神のマスクが多数浮き彫りされており、保存状態のよいものが沢山残っていた。

 古代マヤ人が雨という天の恵みを如何に大切に扱っていたかが窺われる。

 メリダから西へ約120km行ったところに、チチェンイッッア遺跡がある。

 この遺跡は古典期後期(600年〜900年)頃マヤの宗教センターとして栄えた所である。900年頃メキシコ中央高原に文明を持っていたトルテカ民族がここへ進出した。彼らは羽を持つ蛇ククルカンを神として崇めたが、チチェンイッツアを征服してからもマヤ文明を容認しマヤ的なものとトルテカ的なものを融合した。

 チチェンイッッア遺跡ではカスティーヨ(ククルカンのピラミッド)、戦士の神殿、球技場、生贄の泉、カラコル(天文台)を見学した。ここでの最大の見物は高さ30mの建造物カスティーヨである。春分の日、秋分の日にはピラミッドの影が中央階段にさし、蛇の彫刻に羽が生えたように見えるというのである。実に壮大な仕掛けである。そしてこのピラミッドの内部にはもう一つ小さいピラミッドが収められていて、小さなピラミッドの頂上には赤いジャガーの像と生贄の心臓を置くチャック・モール像が置かれている。

 そして、球技場で競技をする戦士達は神に捧げられる名誉の生贄となることを競うのであるという。また生贄の泉(セノーテ)は雨乞いをするために捧げられた生贄を投げ込むための泉であったという。また生贄の頭蓋骨を安置したツオンパトリも残されている。 古代マヤ人やトルテカ人の死生観、宗教観の一端を垣間見た気がした。

 トゥルムの遺跡はリゾート地カンクンに近い海岸線に残されている遺跡である。紺碧のカリブ海の海浜にあるこの遺跡にくると何かしらほっとした気持ちになる。チチェンイッツアで生贄の祭壇とか髑髏の彫り物などを見て、古代人の宗教観の凄まじさに多少辟易しかけてきていただけに美しい自然の光景が心を安らかにしてくれる。この両遺跡は規模も小さくカスティーヨが残されているが、これはカリブ海とのコントラストで風景画の中の一点景と捉えた方が観光客には面白い。

 遺跡巡りの最後にカリブ海の入江シェルハへ立ち寄り、水着に着替えて紺碧のカリブ海の水と戯れた。アメリカやヨーロッパからの観光客がシュノーケルをつけて海底の珊瑚や魚を観察したり、浜辺の椰子の木の下の白浜で背中の甲羅干しをしたりしながら余暇を楽しんでいた。
 カンクンではイスラム・ヘーレス島へ船で渡り、潜水艦に乗ってカリブ海の海底を観察した。珊瑚礁の間を回遊する金色や青色や緑色の魚の群舞を見ているとさながら、浮世のことを忘れて龍宮城に遊ぶ浦島太郎の心境になっていた。

 メキシコシティー市内へ近づくと、近郊の山の斜面に夥しい数の粗末な建物が無秩序に軒を並べている。これはトルコのイスタンブールやアルゼンチンのブエノスアイレス近郊でも目撃したことであるが、田舎にいた原住民達が生活に窮したり、差別にあったりして都会地へ集まり国有地の山に不法に住みついたものであるという。原住民と征服民との力関係が後世に及ぼす影響を物語っているといえるのではなかろうか。

 今回の旅行は古代遺跡漬けの毎日であったが、人間の原点に立ち戻って暫し古代人の宗教観や死生観に思いを致したことは、老後の心豊かな生活を目指している私にとって大いに参考になったと思っている。



2004年08月18日(水) 【太陽とサボテンと古代遺跡の国・・メキシコ� �

メキシコの旅 メキシコシティ、ティオティアカン、メリダ、ウシュマル、チチェンイッツァ、トウルム、シェルハ、カンクン
                  1998年5月16日〜5月23日

 平成10年5月17日午後5時前に標高2241mのメキシコシティへ到着し、前面がガラス張りのキラキラ光っているクリスタルホテルへ荷物を置くとすぐ黄昏どきの市街へ出た。名物料理のタコスを食べるためにガルバルディー広場にあるレストランへ急いだ。高地だけに肌寒かった。

 街の第一印象はコロニアル様式の古い建物が立ち並んでおり、ヨーロッパ風の街並である。コルテスがアステカ帝国を征服してからスペイン人達が作り上げた街だというのが頷ける。

 タコスはトルティーヤというトウモロコシの粉を練って薄く焼いたパンに野菜や肉をくるんで食べるのだが、サルサと呼ばれる緑色や橙色のソースをつけて食べるとなかなか美味しい。

 飲み物にはマルガリータというテキーラがベースになったカクテルを貰った。とても甘くて口当たりがよい。グラスの回りに塩が塗ってあってこれがまた味を引き立てる。

 舞台ではダンス、投げ縄、タップダンスなど盛り沢山であった。踊り子や楽士達の衣装はこれまたスペイン風であった。ショーが終わると待ちかねていたように、老いも若きも日本人以外の客は、我先にと舞台へ上がりダンスを始めた。彼らには踊りが生活の一部になっているという感じである。ガルバルディー広場は通称マリアッチ広場ともいうらしいが、何組ものマリアッチ(メキシコ独特の楽団)が演奏しており、その周辺には群衆が屯してそれぞれに夏の夜を楽しんでいた。

 翌朝、ホテルを出ると操り人形を持った男がしきりにアミーゴと言いながら近寄ってくる。5ペソほどチップを与えて写真を撮った。



 その広さが24万m2もあるというソカロ広場を通って国立宮殿へ入りリベラ作の大きな壁画の解説を聞いた。壁画には夥しいほど数多くの人物が描かれており、その内容は歴史あり、物語ありで説明がなければ意味も分からずに素通りするところだが、ガイドの説明になるほどと頷くことができた。

 メキシコは1917年に現行憲法が制定されるまで、今世紀初頭に何回もの革命騒動や政変があったが、革命の理念は褐色の原住民の開放を目指したものであったから、この壁画の主題はコルテスを初めとして彼らを不当に搾取した白人達を告発することと、古代アステカ世界を礼賛することにあるという風に理解した。

 三文化広場、サンティアゴ教会を見学してから、グァダルーペ寺院のマリヤ像を物凄い人混みにもまれながら見学した。

 三文化広場のあるところはアステカの時代に商業都市として栄えたところで1521年にアステカ帝国とスペイン軍との最後の戦闘があった場所である。アステカの神殿遺跡、コロニアル様式のサンティアゴ教会、そして外務省をはじめとする近代・現代の高層建築が一ケ所に会しているので三つの時代の文化という意味で三文化広場と称しているのである。

 サンティアゴ教会ではミサをしている所やステンドグラスの単純な模様を見学した。内部の壁に装飾のないすっきりした建物はこれでまたなかなか厳かな感じを与えるものである。

 グァダルーペ寺院の周囲にはメキシコ全土から集まってきた善男善女が着飾って、酷暑の中を汗かきながら行列を作り入場の順番を待っていた。ここはメキシコの聖地であり信者達の熱気がムンムンと立ち込めていた。

 グアダルーペ寺院のマリヤ像についてはメキシコ人なら誰でも知っている次のような奇跡が伝えられている。

 コルテスに征服されて10年後の1531年、ホアン・ディエゴという農民が、当時のメヒコ市の司教スマラガの所へ息せき切って駆けつけて来て言うには市の郊外のテペヤックの丘にマリヤが現れて「ここに教会を建てて欲しい。自分がそう言った証拠としてそこに咲いているバラの花を摘み、着ている正装用のマントに包んで司教の所へ持って行きなさい」と言ったというのである。司教がマントを拡げてみると、そこにこのマリア像が写っておりそれ以来、聖母像がメキシコ人の信仰の中心になりこの寺院が聖地になったのである。

 ティオティワカン遺跡へ向かう途中、メキシコ人の土産物店で主人から龍舌蘭の葉を教材として使いながらの説明を聞いたがなかなか面白かった。サボテンの一種であるこの龍舌蘭からは繊維、紙、テキーラ、医薬品、化粧品等沢山の製品がとれて貴重な植物である。バスで移動するときにも、しばしばこの龍舌蘭の畑を目撃した。まさしくメキシコは太陽とサボテンの国である。窓から差し込んでくる日差しも心なしか陽気で力強く感じられる。



ティオティワカンはメキシコシティーの北東50kmにある巨大な宗教都市の遺跡である。紀元前2世紀頃から6世紀頃にかけて発展し、8世紀に滅んだと考えられている。ティオティワカンとは人間が神に変わる場所という意味で、王はこの地に埋葬された後、神に生まれ変わると信じられていた。



 この遺跡にある「太陽のピラミッド」は高さ65m、底辺1辺225m、容積約百万m3もある巨大なもので太陽が正面に沈むように設計されている。このピラミッドの階段を手すりに掴まりながら頂上まで登ると緑に包まれた広大な遺跡を一望できて古代のロマンに暫し思いを馳せた。

 翌日はメキシコシティー空港よりユカタン半島のメリダ空港へ飛んで、マヤ遺跡へ向かう途中マヤ人の市場へ立ち寄って彼等の生活状況を観察した。月一五千円〜二万円が収入だという。中産階級の下限の年収が千ドルだといい彼らは今なお下積みの生活に耐えている。



2004年08月17日(火) 【還暦クルーズのハワイ出漕記・・アメリカ�ぁ�

平成9年12月30日(火)
 朝8時半から初めて艇に乗って練習。ワシントン州立大学より借りたグラスファイバ−製のエイトである。我々が鶴見で練習に使っているベニア合板の艇に比べてスマ−トで軽るく如何にもスピ−ドが出そうである。ラダ−も小さくて本当に効くのかなとコックスのSさんが心配そうな顔をしている。

 オ−ルは瀬田川の艇庫から空輸されてきたダ−クブル−の懐かしいものである。八本の中に二本だけ、故N・K君の銘の刻まれたオ−ルが混じっている。N・K君の奥さんが個人の冥福を祈ってボ−ト部に寄贈されたものである。この二本のオ−ルは故人と最も関係の深かったI氏とH氏の友情の手に握られて今アラワイ運河で水を掻こうとしているのだ。N・K君よ安らかに眠りたまえ。

 約一時間半の練習。コ−スを千メ−トル漕いでみた。初体験であるが遅れをとらずになんとか合わせていくことが出来た。これなら試合にも出られるだろうと闘志が体中に漲る。N・K君のためにも頑張るぞとの決意を新たにオ−ルを引いた。

練習後、朝昼兼用の食事をペリ−ズ・スモ−ギ−でする。5.99ドルに税4.17%で6.24ドルであった。食後K氏と水泳に行くが道を間違えてヒルトンホテルのほうまで行ってしまった。あとで判ったことであるが、このホテルの庭でオ−プニングセレモニ−が行われることになっていたのだ。図らずして会場の下見をしたということになった。

 夕食は予て下見をし予約しておいた北京で学生諸君と顔合わせ会という形で行われた。 OBは120 ドルの負担となった。

席上自己紹介を兼ねて全員スピ- チをしたが、N・K君のオ- ルを手にして初漕ぎをした団長のHさんのスピ- チは人の心を打つものであった。前日の夢にN・K君が白髪をたなびかせて笑顔で手招きしながら現れたというのである。心なしかHさんの声は潤んで聞こえた。友よ今こそ友情の証によく食べ、よく飲みかつよく漕ごうではないか。

それにしても学生諸君の食べっぷりは頼もしい。自分達にもあのような食欲旺盛な時期があったのだなと千切りのキャベツにソ−スを掛けて、鯨肉と一緒に麦飯をかきこんだ石山の合宿所のことを思い出していた。
             
平成9年12月31日(水)
 朝から練習。約二時間。日本では本日は元旦。3時半よりヒルトンホテルの芝の上でオ−プニングセレモニ−。英語のヒヤリングができないので会話に参加することができないのが情けない。それにしてもOさんSさんの会話能力は素晴らしい。ヒヤリングが出来ているのであろう。二人とも流暢な英語を喋っているのでもなく、話が上手いというのでもなく、知っている単語を並べているだけという感じであるが、ちゃんと自分の意志を相手に判からせて目的を達してしまうのである。物怖じせずに相手に立ち向かって自分の意志を伝えようとする迫力が会話をなりたたせているのであると思う。見習わなければならない所だ。しかし、小生の場合ヒヤリングが出来ないので相手が何を言っているのかが分からずのっけから会話が成立しないのである。英語圏の海外で仕事をした経験のある人とのキャリアの違いを如実に感じさせられた一場面である。夕食はペリ−ズ・スモ−ギィでバイキング。95ドル。

 横浜へ新年おめでとうの電話をかけた。ここハワイに居ると正月気分も沸かない。日本人がやたらに目につくようになった。明日から試合なので9時半には床についたが、アラワイ運河のほとりでしきりに爆竹を鳴らす音が聞こえているのを夢うつつの中で聞いていた。一際大きな爆竹の音で目が覚めた。暫くうとうとしていたが時計を見ると12時半であった。多分日本でいう除夜の鐘に相当する中国式の年越しの合図なのであろう。運河の近くには中国人達が多く住んでいるという。

 年賀状に書いて出しておいた俳句を思い出した。

 ボ−ト漕ぎ 異国で味わう 雑煮かな 
 果たしてこの正月ハワイで雑煮が食べられるのだろうか。
                                  
平成10年1月1日(木)
 元日であるが、外国にいると正月という気分がしない。

今日からレ−スである。七時十五分に乗艇した。オ−ルド・ボ−イズはロンドンから来たウエストミニスタ−Bクル−という高校生クル−が相手である。千メ−トルで22秒、五百メ−トルで11秒のハンディキャップを貰って八時半スタ−ト。我々のクル- が先にスタ- トして、ハンディ- 時間経過後相手クル−がスタ−トするという競技方法である。後からスタ−トした相手クル−の声と水音が後ろから迫ってきて全員闘志に燃えるが、気ばかり先行して思うように体が動いてくれないのでピッチもなかなか上がらない。七百当たりで追いつかれあえなく敗退。残念ながら二戦とも負けた。



この時の当方の編成はコックスS、整調H、七番N、六番T、五番I、四番H、三番小生、二番K、バウkであった。私の経験ではレ−スで千メ−トルもの長い距離を漕いだのは初めてであったが、腹切りもせず空振りもなしで最後までついていくことが出来た。これは私の自慢である。素人が僅かばかりの練習をしただけで、ハワイまで来ていきなり千メ−トルと五百メ−トルのレ−スを連続して漕ぐという冒険に挑戦したのである。T大戦でも三百メ−トルのレ−スである。まともに三百メ−トル以上漕いだことのない素人の私が、全距離を漕ぎきったということは一重に漕友諸兄の友情の賜物であると感謝したいし流行の言葉で言えば私自身を褒めてあげたいと思うのである。

 学生クル−は9時からワシントン州立大学と対戦し、千メ−トルで勝ち、五百メ−トルでは負けた。最初の千メ−トルレ−スで接戦の末、僅かに早くゴ−ルに飛び込んだとき、学生クル−の諸君が両手を上げて歓声を上げた嬉しそうな姿は一生忘れられないであろう。この一瞬の感激のためにこそ人はボ−トを漕ぐのであり、練習をするのであろう。またOBとしてもハワイまで応援にきた甲斐があったというものであり、サポ−タ−冥利に尽きるところである。

 12時からは再びオ−ルドボ−イズがプリンストン大学OBのファット・キャットと対戦し善戦虚しく千も五百もともに負けた。この試合では私とH氏はS氏s氏と交代し応援に廻ることにした。彼等は昨日到着し、睡眠不足気味ではあったが、よく健闘したといえよう。

 この日は学生チ−ムが初勝利をあげたので夕食をOBが御馳走することになりペリ−ズ・スモッギ−のバイキングに連れていったが彼等は皆、惚れ惚れする程よく食べた。

平成10年1月2日(金)
 10時から昨日のメンバ−でオ−ルド・ボ−イズはホノルル・ロ−イング・クラブと対戦し善戦したが、千も五百も及ばなかった。学生クル−は11時からハ−バ−ド・クル−と対戦し千も五百も残念ながら敗退した。彼我の体力差と技術力の差を如実に見せつけられた一戦であった。学生諸君がこの経験を明日に活かして、精進することを望むや切なるものがあると言いたいところだ。

 昼食は、いつも行くロイヤル・ハワイアン・ショッピング・センタ- 地区でない所へ行ってみようということになり、アラモアナ方面へ向けて出掛けた。コンベンションセンタ- を通り過ぎてちょっと行った辺りに飲食店がたちならんでいる。しかしよく見るとどうも韓国人街らしく、風俗営業のいかがわしい看板が出ている店の隣がレストランになったりしている。暫く物色したが、なかなか適当な店が見つからない。もうすこし先へ足を伸ばしてみようかといっている時、比較的こざっぱりした和食の店を見つけた。入ってみると日本語の達者なウエイトレスが出てきて、特別料理として雑煮と魚料理のセットものがあるという。韓国人の経営らしいが特別料理として雑煮のメニュ- を揃えるなどこの国の人は商売がうまいと思った。値段も18ドルほどなので全員それにし改めて新年の賀詞を交換しあったものである。

午後4時半からコ−チ会議がアウトリガ−・カヌ−・クラブズで催され、オ−ルドボ−イズは全員が招待された。当地で求めたアロハシャツを着用している仲間が四人ほどいたが、顎髭を長く伸ばした禿頭の審判長がたまたま我々仲間の着用しているアロハの柄と同じものを着用して現れた。お互いに指摘しあいながら「ウィ- ア- ブラザ- ズ」と冗談をとばしあうなど和やかな雰囲気の中でパ- ティ- は進行した。しかしながら、会話力の弱いオ- ルドボ- イズの面々は所在なくノンアルコ- ルのフル- ツポンチを飲みながら壁の花ならぬ壁際の彫刻になっている人が多かった。

それにしても、夕日がワイキキの海岸の遙か彼方の地平線に沈んで行く光景は百万ドルの値打ちがあると言ってもよかろう。皆がしばしこのサンセットに見惚れていた。

パ- ティ- が終わってから、夕食にはビフテキを食べようと衆議一決してワイキキの町のレストランを物色していたところ、ビフテキを格安の値段 (確か3ドルだったと思う)で提供するというビラを見つけた。客引きにビラの通りの値段で食べさせるのだなと確認するとそうだということなので12〜13人のグル−プが店の中央のテ−ブルに陣取った。先ずはビ−ルを注文し、これから料理の注文ということになった時にインチキ商法であることを見破った。ビラに掲載されているビフテキはメニュ−にある他の料理とセットになっていて、その料理を注文したら別に3ドルの値段でビフテキを提供するというものであった。他の料理というのが40〜50ドルとべらぼうに高いのである。

 説明を聞いて一同、怒り心頭に達してビ−ルだけ飲んで何も食べずに席を蹴って出てきた その店にはインチキ商法に引っ掛かっているとも気がつかないで法外に高い食事をしている日本人観光客もいたが、中央に陣取った我々大勢のグル−プが何も食べずに出ていくのを怪訝な顔で見ていた。悪徳商法にひっかからずに済んだという笑い話の一つとしてかたずければいいのかもしれない。

 しかしながら翻って考えてみると日本は今こそ不況の中で呻吟しているが、日本国民一般が高度成長からバブルに至るまでの期間は世界に対してその経済力を鼻にかけ、不遜で思い上っていたのではなかろうか。チップを法外にはずみ、高価なブランド品を買い漁り、観光地の物価を釣り上げ、夜の巷で札びらを切って御乱行に及び諸国の顰蹙を買い、対日本人向け特別価格を形成せしめたという謗りを免れることはできないだろう。今回のような日本人相手の悪徳商法を生み出させしめたのもまた日本人であると言えるのではないか。その意味もあって日本人の中にも骨のある人達が居るということを悪徳商人共に思い知らしめねばならないという意識が我々の気持ちの中にあって、とらせた今回の行動であると言えるのではなかろうか。S氏が旅行中しきりに言っておられた安易にチップをはずみ過ぎると却って馬鹿にされるという言葉は正論だと思う。

結局ホテル近くのシッツラ−でビフテキを食べることになった。ここでは12ドルなのである。如何にしてリ−ズナブルな値段の料理屋を捜しだすかがこうした外国での合宿の成否を決める大きな要素になると思うのである。
        
平成10年1月3日(土)
 今日からI、H、K、Oの各氏は帰国したので、オ−ルド・ボ−イズはメンバ−が足りなくなる。小生の出番がやってきた。よしもう一度漕ぐぞと力が体の中に漲るのを感じた。それにしてもまだ二人足りない。補漕の学生諸君二人に応援を頼まねばならないのである。

 その時頭に浮かんだのは補漕できている四人の学生諸君のことである。彼らも外国で漕ぎたいであろう。たとえオ−ルドボ−イズの中に入ってでも漕ぐことが出来れば、彼等のボ−ト人生のなかでいい体験になるであろう。一回も漕ぐことなく帰国する学生があってはならない。彼らに外国を体験させ力をつけさせるのが目的で今回の遠征が計画されたのではないか。ここに思いが到ったとき補漕の選手達に一回でも多く漕がしてやりたい、そのためには素人の私が下りればいいという気持ちが自然に心の中に沸いてきたのである。私のこれからの勤めは岸辺から声の限り旗を掲げて声援することだ。その旨を意志表示した。幸いこの私の気持ちは快く理解されて補漕の選手は全員一回以上は漕ぐことができるようになった。

 レ- スはオ- ルド・ボ- イズがウエストミンスタ-Aクル- と対戦。補漕の学生諸君三人を加えてのレ- スとなり、若い諸君が力漕したが千、五百共に惜敗した。

 学生クル- はオ- プン戦で相手はいずれも女子クル- のORUとUSCの2クル−であった。いずれもハンディ−を提供しての対戦であった。接戦の末、追いついて勝ったレ−スもあったと思うが、勝敗の結果を確認していない。
     
平成10年1月4日(日)
 最終日である。オ−ルドボ−イズはハワイ・ロ−イング・クラブと二回目の対戦であったが、若い学生選手が四人入ったので、ハンデキャップなしをN主将が、元気に要請して相手に立ち向かった。接戦を演じたが僅かな差で1000、500 とも勝ちを譲った。我がオ- ルド・ボ- イズ・クル- の四人のOBは学生諸君の力強い漕ぎについていくのが精一杯の戦いであった。漕いだ選手の事後の感想は皆一様に今日程歳を感じたことはない、気ばかりあせるが体がついていかない、若い諸君に乗せて貰っているだけだったというものであった。

 全レ- スが終わってからヒルトン・ホテルでアオ- ド・バンケが催され、デイナ- を食べながらお互いに健闘を讃えあい国際親善の場を楽しんだ。最後に求めて、オ- ルド・ボ- イズ、学生諸君一同が会場中央に集まりスクラムを組んで琵琶湖周航の歌を歌った。予め配っておいたカレンダ- には英語の歌詞もついていたので、外国の選手の中には我々に合わせてくちずさんでいる人も何人かいた。H氏とK氏が用意してきた日本の独楽とか扇等の小物のお土産も好評を博した。

 今回の遠征ではH団長がボ−トとはお互いにクル−メイトのことに気を配りあっていかなければ成り立たない競技であるということを、ことあるごとに力説しておられたが、まさしくその通りであると思った。思えば平均年令60才のオ−ルド・ボ−イズ・クル−が事故もなく異国の地で無事漕ぎ終えて、それぞれに達成感を味わい爽やかな思い出を残して帰国できたことは一種の奇跡であると言えるかもしれない。いやそれよりも、H団長、N主将、漕ぎ手の人、本土で今回の企画を推進して下さったOB会の関係者各位の相手を気遣うという気持ちが一つの目的に向かって結集したからであろうと思う。本当に有り難うと心から感謝申しあげたい。

 鶴見川でまた漕友達とオ−ルを握り、T大戦、琵琶湖就航を目指して良い汗をかきたいものである。今晩はきっと練習後、生麦のビ−ル工場でジョッキを傾けながらクル−メイトと談笑している情景を夢にみることだろう。



2004年08月16日(月) 【還暦クルーズのハワイ出漕記・・アメリカ��】

平成9年12月28日(日)
 ハワイ到着と同時に申し込んでおいたハワイ島ツア−に参加。一人150$。5時50分にホテルへバスが迎えに来た。昼食付。

 ホノルル空港からヒロ空港まで約一時間位の飛行。機内の窓からハワイ島の影が見え出して注目するととてもなだらかな山並みが三つほど見える。その内の一つが今日見学する予定のキャラウエア火山なのだろう。富士山よりも斜面はなだらかな感じである。

 空港よりバスにてレインボ−滝へ。道中日本人一世の上田さんという年配の女性ガイドがヒロの町は津波で壊滅したことがあると名調子で説明してくれるガイドの説明の中に時折り、日本人の当地における破廉恥な行動批判が巧みに織りこまれていて耳が痛い。

 津波の恐れがあるためか、不景気のためかヒロの町には空屋になったビルが目立つ。ハイスク−ルの校舎等を窓外にみながら再びヒロ市内へ戻り、ココナッツ工場とTシャツの工場を見学した後、海岸で時間を潰す。

 モ−タ−バイクの展示のある店で昼食。ハワイアンの音楽を聞きながらの昼食。ハワイアン音楽に若い頃かぶれたこともあるというSさんは御満悦の様子。食後、構内の庭園に植えられている僅かばかりの蘭の花を鑑賞したが自分でも沢山の蘭の鉢を持っているという博学のHさんの解説つきであるから分かり易くためになる。

 ピナウの黒砂海岸を経て



キラウエア火山の噴火口を二箇所の観察地点から見学した。火山の噴火口跡なのに水が全然溜まっていない。月世界はこのようなものであるという。暫し月世界へ行った気持ちになって空想の輪を広げてみる地質学的には非常に若い火山口であると博学のH氏が解説してくれるので成る程と思う。地面から噴出しているガスに運転手が煙草の火を近づけるとたちまち白い煙がたち昇る。噴火こそしていないが生きている火山なのであろう。

 このあとオニツカ蘭センタ−へ立ち寄り空港を経て帰宅した。ハワイ島はオアフ島に比べるとまだ開発の進んでいない素朴さが残る島ということが出来る。夜は京屋でうどんすきを食べる。60ドル。
          
平成9年12月29日(月)
 ニユ−エバ−ビ−チゴルフクラブで、I、H、Y、W、K、小生、T氏でゴルフをした。3人と4人の二組。私はH、I氏と同じ組。Sさんのクラブを借用して靴は履いていったスニ−カ−でプレーした。フイ−が80ドル。タクシ−が60ドル。8番アイアンが紛失したとの錯覚があり慌てた。H氏は人のプレ−中声を出したとかパタ−のライン上に立ったとかなかなか口うるさい。マナ−としては正しいことを言っているのだが、自分の技量不足の結果をそのことにかこつけて、他人のせいにする悪い癖がある。結果は52-54 のスコア。またしても 100の壁が崩せない。

 午後からK氏と二人で海へ泳ぎに行った。N氏、R氏夫妻も到着したため夜は会食。柳という寿司屋でH氏が現地に詳しいM氏に依頼して段取りしたものであるが、高級な料理屋である。久し振りに和食を堪能し、リッチな気分になって満足した。酒を多く飲んだということもあり、勘定の段になって計算すると一人120 ドルの負担となっていた。内心ハメを外し過ぎたかなと思っていたら、ささいなことから仲間内で若干の口論が始まって、険悪な空気が一時流れた。しかし、そこはおおらかな性格の人が多く多少飲み過ぎたかなということで大事には到らなかった。スポ−ツで繋がっている仲間は時に、気が付かないで相手の感情を逆撫でするようなことを平然と言って、感情のもつれることもあるが、爆発してしまえば後を残さないところがいい。明日になれば皆ケロッとしていることだろう。
  



2004年08月15日(日) 【還暦クルーズのハワイ出漕記・・アメリカ�◆�

                                  
平成9年12月25日(木)
 昨日空港からホテルまでに利用したタクシ−の運転手の正典さんがオアフ島の一周観光に連れていってくれることになっている。彼は日本人の母と韓国人の父とを持つハ−フの二世でかたことの日本語が喋れる。ゴルフもうまいらしい。8時半にホテルへワゴン車で迎えに来てくれた。見ると昨日のオンボロの車とは違ってピッカピカのリムジンである。一同リッチな気分になり、満足している様子が窺える。

 乗るのはS、O、H、K、小生の五人の組である。ダイヤモンドヘッド、ココヘッド・サンデ−・ビ−チ,ハナウマ湾ハロナ潮吹き穴マカプ−ビ−チ、ワイマナ・ビ−チ、カネオヘ湾、チャイナマンズハット、クアロアビ−チ、カワウアビ−チ、クラウチングライオン、ハウウラビ−チ、ポリネシア文化センタ−、タ−タル・ベイヒルトン・カントリ−クラブ、ワイアレアビ−チ、サンセットビ−チ、ワイメア・ベイ・ビ−チ、曙の生家、ド−ルパイナップル・パビリオン、



パ−ルハ−バ−、アリゾナ記念館と巡って市内へ入り、カメハメハ王の像、イオラニ宮殿等を見てオアフ島の主要な観光スポットは一通り見たことになる。たまたまクリスマスの日であったため、ポリネシア文化センタ−とアリゾナ記念館には入場することが出来なかった。

タ−タル・アイランド・ヒルトン・ホテルでバイキング形式の昼食を食べた。ビ−ル込みで22ドル。ここのレストランはそれなりに高級感があって値段もリ- ズナブルであるし寛げると皆が言っている。次回来る人達のためにも推奨できる店であろう。夕食はワイキキのレストランで17ドル。

パ- ルハ- バ- では丁度生理的要求が嵩じてくる頃であったが、クリスマスのため店は休業のところが多く、まさか立ち小便をするわけにもいかず手洗いを捜すのに苦労した。暫くの間、まるで手洗い捜しのドライブをしているようなものであった。

 運転手が思い出して公園の手洗いへ連れていってくれたが、鍵がかかっていて入れないなどということを四〜五回繰り返して、やっと開店しているホットドッグの店を見つけた。我先にとトイレへ駆け込んだ。大の大人が多勢レストル- ムを無料使用しただけとあっては大和男児の名折れになると判断した智恵者がポテトフライを一人前購入してチップを多めに支払い、片言英語で感謝の意を表明してことなきを得た。このポテトフライが夜半、部屋での酒盛りのつまみとして威力を発揮するとはその時誰も思っていなかった。

 なにしろこちらの連中の一人前の量はとてつもなく多いのである。
 4時半頃ワイキキへ戻ってきて240 ドルを正典氏に支払った。一人当たり48ドルの負担であった。
         
平成9年12月26日(金)
 正典氏の段取りでKAPOLEI ゴルフクラブでキャディなしのゴルフをした。

 6時半に正典氏がリムジンで迎えにきてくれたが朝食も弁当とコ−ヒ−を買ってきてくれた。朝飯の弁当は4ドルであるが、ハムとスクランブルエッグがおかずについており、ハワイにもこんな美味い米があるのかと感心するものであった。

このゴルフコ- スは、女子全米選手権大会の行われる名門コ−スらしい。O、S、H、小生の4名で行い、スコアは小生58、52、H47、54、O55、45、S60、55であった。三人ともゴルフバッグを日本から持参しての用意周到さであったが、生来ゆきあたりばったりの生活習慣が何時までも直らない小生は手ぶらである。幸いなことに運転手の正典氏が自分の道具と靴まで貸してくれることになり、これが私の体型にうまくフイットしたものであった。残念ながら成績のほうは100 を切ることができなかった。人間とは勝手なものでスコアが纏まらなかったのは借りたクラブのせいであると自らを慰めているのである。終了後ショップに寄ってそれぞれに太陽のマ- クの入った帽子やらゴルフウエアを記念に買った。

昼食はゴルフ終了後、正典氏の案内でウエステリアという韓国系の寿司屋で寿司を食べたが美味しく21ドルであった。地の利を知った現地人に案内して貰うと安くて美味い店に出会えるという教訓である。正典氏と別れて、夕食はプラザという所へ飛び込んで、焼き肉を食べたが一人ビ- ル込みで32ドル。値段の割りには大したことなく観光客相場であしらわれたという感じである。ゴルフは一人155 ドルの分担で内訳はプレ- 費130 ドル、交通費チップで25ドルである。

                       
平成9年12月27日(土)
 今日は自由行動の日であったが、概ね一緒に行動した。第二陣のI、Y、Wの三人が到着した。I、Y氏は時差ぼけ解消対策として予め段取りしておいたゴルフ場へチエックインしてから直ちに出掛けたという。K、O両氏も合流してO氏が見つけた朝食バイキングを食べに行った。ベリ−ズ・スモ−ギ−という店で4.99ドル朝食、ということで皆に好評であった。昼食だと5.99ドルである。大食漢揃いの学生達に是非紹介したい店である。

 午後からK、W、小生の三人でワイキキビ- チへ水泳に行った。昼は皆でシエラトンホテルに行き15ドルで食事をした。夕食は後発隊の到着を祝って会食。ロイヤルハワイアンショッピングセンタ−内にあるパラディソという海鮮料理屋でサ- モンの料理を食べた。60ドル。これも観光客料金である。ドルの手持ちのない人が皆の分も纏めてカ−ドで支払い、皆からドルを集めるという資金繰り法を智恵者が編み出して、この店から適用することになった。    



2004年08月14日(土) 【還暦クルーズのハワイ出漕記・・アメリカ� �

アメリカの旅2 ハワイ
             1997年12月23日〜1998年1月4日

平成9年12月23日(火)  
 天皇誕生日で祝日。会社を卒業してからは毎日が日曜日なので、祝日の有り難さがピンとこない。

 いよいよ明日からハワイ遠征である。携行品に若干不足するものがあるので家内と綱島へ買い物に出掛けた。毎日一万歩以上歩くことを日課として実行してきたが昨日京都から帰ってきたばかりで、まだ今日の日課をこなしていないので昼時にもかかわらず、腹があまり空いていない。しかし規則正しい生活を心掛けているので、昼飯を抜くことも主義に反する。なかば義務感に命ぜられて、大王ラ−メンに寄り味噌ラ−メンを食べる。われわれの世代には育ち盛りに食料不足で難儀をした情けない体験が脳裏に奥深くインプットされているので食べることには貪欲で意地汚いところがある。きちんと三食食べておかなければという意識が本能的に働くのであろう。そのため飽食の時代にあってはついつい食べすぎてしまい血糖値を心配しなければならないという羽目に陥るのである。

 この後、本屋でハワイについてのガイドブックを買った。京都へ置きわすれてきてしまったので二冊目になってしまった。出版社がダブラナイように昭文社のものにした。あとサングラス、緩下剤、風邪薬、日焼け止めクリ−ム、フイルム6本を買った。娘の志奈が卒論の提出期限を控えて神経過敏になっているが、それでも婿と一緒に家内と飼い猫とうち揃って壮行会を夕食時にやってくれた。もう一度手荷物の点検をして下着や上着類を出したり入れたりした。アロハシャツが正装の国と聞いているのでス−ツは不用かとも思うが、公式行事のときに背広がなくて困るのも癪なので紺のス−ツを着ていくことにした。紺であればスク−ルカラ−でもあるから無難であろう。セ−タ−はス−ツに合わせて淡い水色のものである。当日寒ければ、薄手のダスタ−コ−トを羽織って行き、空港で携行品のなかにつっこむしかないだろう。旅なれた人は外套を着ていき空港内の貸しロッカ−へ預けたままにしておいて、帰国したとき期限超過で領置されているのを反則料金を支払って返して貰い平然としているとも聞いたが、私の規範意識はそれを許さない。要領が悪いのは生来のものだから致し方のないところだ。

 志奈から贈られた水彩絵具にもなる色鉛筆セットも荷物に加えた。M先輩の画集に触発されて旅先の思い出を絵にかきとめておき、俳句でも書きそえておけばいい記念になるだろうという考えからである。

 ビデオカメラを持っていくには家内と論争があった。家内は旅先まで重いものを持ち運ぶ人の気が知れないと言い、景観は自分の目で直接見、脳髄に焼き付けておいてこそ時間の経過とともにその景観は美化されるし、レンズというフイルタ−を通して見るより真実が見えるというのである。それも一理だと思う。が私には記録をビデオに残しておいて、これを編集してみるのも楽しかろうし、絵の題材として蓄えておいて、後日、場面を再現し、当時を追体験しながら絵筆をとる楽しみのためだという主張があるのである。そんなわけで、わが家には夫婦旅行の時にはビデオカメラを携行しないという黙契がある。しかし今回の旅にはビデオ撮影蔑視論者が不在なので、ビデオ撮影という楽しみが倍加されることになるであろう。それにしても荷物を出したり入れたり、まるで幼児の遠足前夜のようなものだ。
      
平成9年12月24日(水)
 Hさんと午後4時31分発の成田エキスプレス35号に乗るため、横浜駅で待ち合わせしているので3時半に自宅を出る。家内に車で鶴見駅まで送って貰うことにしていたが、ひどく道路が渋滞しているので、なかなか鶴見駅へ到着できない。たまりかねて水泳教室の前あたりで降りて鶴見駅まで歩いた。

 横浜駅へは既に団長のHさんが来ていた。Hさんは夏服のカジュアルな背広姿でコ−トなしで襟巻きをしていた。冬支度の自分の服装のことを思い失敗だったかなとの思いが頭の中をかけめぐる。予め入手しておいた成田エキスプレスの切符を手渡し代金4180円を受け取る。成田までの道中、ハワイ遠征実現に至るまでのHさんはじめ関係各位の苦労話を拝聴した。

 思い出してみれば、入学して間もなく端艇部に入部し、学部対抗レ−スが終わるまでは石山の合宿所に寝泊まりし、皆さんと一緒にランニングしたりバック台で汗を流したりして、真面目に練習に精出していたと思う。その後エッセン・マネ−ジャ−という役割を貰いながら、アルバイトや勉強にかこつけて何時しか部活動から遠のいていた。そして卒業、就職とボ−トとは関係のない生活が三十年ばかり続いた。そんな私がY寮の寮生でありまた端艇部の部員でもあったN・K彦君のあまりにも早すぎた逝去の報に接し、通夜の席へ駆けつけたのである。その席で昔懐かしい面々に再会したのが私とボ−トとの復縁であった。短い期間ではあったが、半年ほどはボ−ト部に在籍して練習をした事実があるのだから、私も仲間に入れて欲しいと懇願したところ、気持ち良く認めて頂き、飲み会や濃青会の会合に参加できるようになった。その後、T大戦にOBも出場しようではないかという話が持ち上がった。戸田で始まった第一回目の対T大OBレ−スでは、練習豊富なT大に惨敗。この時は応援に駆けつけて声を限りに声援した。人数が足りないから、お前も漕げと言われていたが漕ぐ自信がなかったので辞退した。なにしろ学生時代には専らフィックスで練習し、エイトには三回ほどしか乗った経験がなかったのだから。

 初めてのT大OB戦に惨敗したことがN氏、H氏の両氏を始めとするOBの負けじ魂に火をつけた。第二回目の瀬田川におけるT大戦を目標にして関東在住のOBが鶴見川に月一回集まって練習を開始したのである。この練習に私も参加して漕がして貰った。なにしろ還暦近い年の素人が歴戦の元名選手達に伍してエイトを漕ごうというのだから考えてみれば無茶な話である。しかし、この無謀な申し出に嫌な顔をせずに受け入れ、親切に指導してくれるのが抱擁力の大きい我が漕友達の良いところである。イロハのイの字から教えなければならない遅れてきたボ−ト部員である小生と一緒に漕いだ諸兄のいらいらと苦労が手にとるように私にはよく判る。ボ−トへ乗るときの足の置き場、バランスをとる時のオ−ルの支え方といった基礎の基礎から教えなければならない漕友諸兄の寛大な友情に感謝するところ大である。御陰で二回目対T大OB戦でも三回目T大OB戦でも漕がして貰えることができた。そして今、ハワイ遠征チ−ムに加わってホノルルのアラワイ運河でボ−トを漕ぐべく日本を飛び立とうとしているのである。まさに楽しきかな我が人生の一語に尽きる。

 飛行機はインタ−コンチネンタル・ミクロネシア航空の908便で19時50分発であるが、集合時刻の17時50分には成田エキスプレスの到着時間の関係で7分遅れることになっている。第二空港ビルで下車してミクロネシア航空のカウンタ−は簡単にみつけることが出来たが、色々なツア−があって紛らわしい。年末年始を日本から脱出して海外で過ごそうという人達で空港はごったがえしている。ホノルル行きオンリ−という窓口で並びやっと順番がきて、持参した案内書を見せるとアミュ−ズツワ−はこの窓口ではなくて4〜5個左の窓口だという。言われてみると成る程、アミュ−ズツァ−という張り紙をした窓口が別にあった。おなじ航空会社のハワイ行きでも何種類も窓口があるのだから紛らわしいことこの上もない。思わぬところで無駄な時間を費やしてしまった。我々二人が最後の搭乗者らしいことがすぐわかった。チェックインが始まっているから至急出国手続きをしてくれと我々を待ちかねていた係員が慌ただしい口調で言う。釣られて多少慌て気味に小走りになる。出国手続きを終えて免税売店で日本酒を二本買った。月桂冠と白鹿である。代金は各1900円である。多少免税分だけは安い筈だ。今は免税の酒もそれほど安いという感覚がなくなった。ひと昔前は台湾へ行くのに、高級な酒は台湾にはないというので羽田空港で免税のコニャックや香水を限度一杯買って機内に持ち込み、ボンドと称して台湾空港預けにしておいて帰国するとき再び持ち帰るなどという馬鹿らしいことをしたのが嘘のように思いだされる。当時に比べ、それだけ国際化が進展したということだろうか。

 搭乗してから無事離陸するまではいつものことながら落ち着かない。離陸して水平飛行に移ってはじめてほっとする。

 機中で寝ようとつとめるが二時間ほどうたたねをしただけである。機内食には御飯付のシ−フ−ドを選択したが貝の白ソ−ス和えであった。量は少なかったがスコッチを貰って飲みながら食べると美味しく感じた。ま、味は良いほうだろう。機中時間は約七時間で二回目の軽食を食べたら間もなくホノルル空港に到着した。現地時間7時5分に着陸した。 入国審査のゲ−トにはH氏が私より先に入ったが何故か手間どっている。審査官は若いハ−フの黒人女性だが緑色の標識を掲示して通訳の応援を求めたようである。目の前でやりとりしているのだが、距離があるので何を話しているのかはよく聞き取れない。だが途切れ途切れに聞こえてくる単語にマヒヤと聞こえる。どうもマヒヤと疑われたらしく時間がかかっていたが通訳が来てやっと解放された。後で聞いてみると入れ墨はあるかとか手の指に欠損はないかということをしきりに聞かれたという。何年会社に勤めたかというので35年勤めたと答えたら、そんなに長くかとびっくりした表情になってパスしたということであった。

 空港をでたところで後発隊のS氏、K氏、O氏等三人の到着を待つ。彼らはユナイテッド航空である。彼らが到着してからほどなく学生陣15名が到着した。オ−ルは関西空港から積み込んだということであったが、これも同時に着いていた。

 学生達は無愛想で無口である。親の躾が出来ていないのか、或いは先輩達が教えないのか我々が迎えに出ているのに、只今到着しましたともお出迎え有り難うございますとの挨拶もない。流石に会釈だけはしたようだが人間社会で初対面の時には訓練されていない学生といえども、それなりに言葉での挨拶が必要なのではなかろうか。我々Y寮では先輩達から寮生同志が顔を合わせたら先輩後輩にかかわらず互いに「オッス」と言葉にして挨拶をしようと教えられたものである。オッスの中には若い男達が同じ屋根の下で同じ釜の飯を食っている「若い元気な男達である」という意味を込めて取り交わす挨拶語であると教えられ、素直にそれを実行したものである。ボ−ト部でも確か「オッス」は挨拶語として通用していたと記憶しているのだが・・・・

 暫く待つうちに予ての手配通り、運送会社のトラックがオ−ルを運搬にきてくれたので一同はタクシ−に分乗してハワイアン・モナ−ク・ホテルへ到着した。午前中であったがチェックインできた。部屋代の前払いとして780$(3人分)を支払った。S氏H氏、小生の三人一室の12月24日から1月5日までの部屋代である。これは一泊当たり20ドル(2,600 円)である。ほかに税金4.17パ−セントが加算されることになる。この日、ホテルの近くのシッツラ−という24時間営業のステ−キハウスで3ドル99セントの定食の海老フライを食べ、バドワイザ−で合宿入りの乾杯をした。OBは学生達に余計な干渉をしないようにしようということで滞在中全て学生達とは別行動である。

 昼食後、ハワイは三回目だというOさんのガイドで皆一緒に、アラモアナのショッピングセンタ−をうろつき、ワイキキビ−チを廻って帰った。日本で予想していたよりもあったかくまさに常夏の国である。

 夕食にはロイヤル・ハアイアン・ショッピングセンタ−の中にある北京という中華料理屋で夕食をした。28ドルの料理。学生諸君接待のための下見の意味もある。時差を計算にいれると一日が43時間もある長い一日であった。夜は暑いけれど疲れのせいもあって、ここちよく寝られた。明け方4時半に目がさめてシャワ−を浴びたところ水が止まらなくなってしまった。同室の相棒は熟睡しているし、勇を皷して受話器をとりブロ−クンの英語で見に来て欲しいと言ったら通じたらしく、しばらくして係員が見にきてくれた。しかしパッキンが磨滅しているらしくやはり止まらなかった。そのままにしておいて翌日修理することになった。



2004年08月13日(金) 【車社会の西海岸とグランドキャニオン・・アメリカ�◆�

 サンディエゴ市は人口116万人で全米6位、西海岸ではロスアンゼルスに次いで2位である。ここはアメリカ西海岸では気候条件が一番良い場所で、花の栽培が行われている。気温は夏24度冬17度で湿気が少ないというから住んでみたい魅力ある街の一つである。第11艦隊の根拠地でもある。コソボ紛争で出動しているのか艦船の数は非常に少なかった。

ここへ来る途中、ロスアンゼルス市は丁度出勤時間帯であったが市内を歩いている人は皆無で道路が車の洪水であった。まさに車社会である。

 車社会であるということが幾つかの風俗にも現れる。一つは通勤のために街中を歩かないからお洒落をする必要がなく、ブランド品を携行する必要がない。また仕事が終わってからは自宅へ直帰するので、帰路同僚や友人と一杯飲んで付き合うという習慣もないから飲み屋がない。

 通勤時の車の混雑を緩和するため、車の相乗りを奨励する目的で2人以上乗っている車の優先道路がカープールレーンと称して設けられていてスイスイ流れている。しかしこのレーンの取締りは厳しく一人乗りの車が進入してくるとペナルテイーを5000ドル取られるという。片道八車線の高速道路を一杯に走行する自動車の群れは実に壮観である。

 アメリカ人は土地や家に対する執着は薄く、気楽に住居を売り払い、住環境のよい場所へ移住する。土地の広さが値段を決めるのではなく環境が値段を決めるということである。例えば洗濯物を窓際へ干したり屋外で干すような人が住む所や庭の手入れをしない人が住みだした所は地理的条件が良くても値段が下がるという。

 サンディエゴを後に、国境を歩いて越えてメキシコ領ティファノに入った。アメリカからの出国には審査手続きは不要だが、反対にメキシコから入国するときには不法入国の厳しいチェックがなされる。物価の安いメキシコへはアメリカから買い物に出掛ける人が多く、逆に好景気のアメリカへは仕事を求めて越境するメキシコ人が多い。そこで不法入国者のチェックが厳しいのだそうである。それでも不法入国で一日に900 人の逮捕者がでるというから国境を境とした経済格差の大きさがよく判る。

 ティファノで乗った黄色のバスは相当の年代物で窓ガラスなどはひびのはいっている所もあったが座席のシートカバーだけは新品で綺麗だった。連れていかれたレストランでのタコス料理は食べられない人が多かったようだがテキーラベースのマルガリータだけは口あたりが良くお代わりをする人もいて好評であった。マリアッチを演奏する楽団がきて演奏した。それにしても道端の行商人の掛け値のでたらめさ加減はひどいものだ。最初50ドルだった銀の首飾りが三本10ドルまでに値下がりするのである。  

 サンフランシスコに到着して直ちに名物のケーブルカーに乗って終点のフィッシャーマンズウォーフまで行った。


それからアルカトラス島



へ遊覧船で渡り監獄の跡を見学した。アルカポネもここへ収監されていた。前回に来たときにはこの島の一般公開は行われていなかったと思う。


ゴールデンゲイト

 翌朝早く出発してヨセミテ公園へ向かった。空はどこまでも青く、雲ひとつなく爽やかな空気である。ベイブリッジを渡り、ラッシュ時の車の流れを眺めながら走行する。サンフランシスコのラッシュは三段階に分かれる。ニューヨークとの時差が三時間あるから、ここでの朝は早い。先ず株式関係の人のラッシュが六時頃始まりこれに二時間ほど遅れて一般通勤者や学生群のラッシュ、これにやや遅れて商店主等の自営業者のラッシュというわけである。従ってここでは夕方のラッシュアワーも二時頃から始まる。

 やがて風力発電機の風車が山の上に林の如く設置されている地帯を通り抜けた。一万七千基の風車が設置されており、サンフランシスコ市一年分の電気が発電されているという。ちょっと変わった光景で日本では見ることが出来ない。暫くいくと農園地帯で果物の栽培が多い。いちご摘みの労働者の労賃が時給で6ドル80セントで、全カルフォルニアにいちご摘み労働者は一万七千人いるという。この国の農業は分業制になっていて種を撒く会社、耕す会社、収穫をする労働者というようになっていて、メキシコからの出稼ぎ労働者が多い。ところが経済格差があるものだから彼らはそのまま住み着いてしまうので政府としては頭の痛いところである。流入を規制してしまうと米国農業がたちいかなくなるのである。

 ヨセミテとはインディアン語で灰色熊という意味である。ここには年間300万人が観光に訪れるそうだ。樹齢二千年のセコニアの木が枯れるので電気自動車での観光を検討中であるという。

 広大な公園の山中を走行中、山火事にあった一角を通り過ぎた。相当広範囲に焼け焦げた立木が並んでいた。この山火事の時には延焼防止対策だけで消火活動は一切せず、自然鎮火に任せたという。いかにも広大な国土を保有しているアメリカならではのおおらかな発想だと感心した。

 切り立った断崖エルキャプテン、ハーフードームや女性的な滝ブライダルフォール、雄大かつ豪快な滝ヨセミテフォール等を見学。コヨーテを見ることもできた。高原のせいかとても涼しく空気が爽やかである。それに木々が芽を一斉に吹き出し緑が濃淡さまざまに色鮮やかであった。



2004年08月12日(木) 【車社会の西海岸とグランドキャニオン・・アメリカ� �

アメリカの旅 ラスベガス、グランドキャニオン、ハリウッド、サン・ディエゴ、ヨセミテ
   

                  1999年4月19日〜4月25日

 機中で目が覚めると、窓から朝日がさしこんでおり、23年前初めてアメリカへ飛来した時発見して、とても印象の強かった真円形の田圃が何枚も眼下に俯瞰できて懐かしい。サンフランシスコの上空を通りすぎた辺りなのだろうか。赤みがかった黄色の真円形もある。今は冬枯れの影響が残っているため緑が少ないのだろうか、そうこうしているうちに景色が変わった。ラスベガス上空らしい。砂漠と禿山が続きやがてゴマ塩を撒いたような山に変わる。自然の脅威を感じる地球の肌の姿、形である。

ラスベガス空港に着陸し、土産物屋でブラック・ジャックの遊び方の講習を受けた後、19人乗りのプロペラ機に分乗して約1時間10分の飛行予定でグランドキャニオンへ向かった。大地が割れて不毛の渓谷が広がっている。実に無辺広大である。飛行機が絶えず揺れるので、覚悟を決めてはいるが、大きく揺れる度に冷や汗が出る。ロッジへ入り汗を流した後、夕食前にブライトエンゼルポイントでサンセットを見た。断崖の凹凸をなす岩肌の陰影と光り輝く部分とのコントラストが実に綺麗だ。

 翌朝四時半にモーニングコールがあり慌てて身支度をした。バスでポピーポイントまで行って日の出を待つが、四月だというのに冬の防寒コートで身を固めているにもかかわらず動かないので身震いする程寒い。20分程待つうちに東の空が次第に明るんできて、渓谷の岩や土の色が変化していくのが判る。今まで暗くて闇だった所へ岩が次第に形を現してき、空が次第に赤みを増してくるうちに朱色の太陽が顔を覗けた。裸眼では眩しくて見ていることができないがビデオカメラを通して眺めていると太陽が渓谷の上に刻々姿を大きくしていく様は実に感動的である。

 グランド・キャニオンはアリゾナ州北西部にあり、コロラド川がコロラド高原を浸食して出来た大峡谷で長さ450km、幅7〜30km、深さは所により1500mにも達する。断崖、緩斜面、岩棚等を作っていて、上部は石灰岩、砂岩、頁岩などの水成岩が走り、下部は花崗岩、変成岩からなる。地層毎に赤、茶、紫、黄、白、緑等様々な色彩を示し、朝日・夕日に照らされた光景は実に壮大である。地質的には、先カンブリア代(約46億年前〜約25億年前)から古生代(約5億7000万年前〜約2億4000万年前)にわたり、自然の地質博物館の感がある。

 再び小さな飛行機で肝を冷やしながらラスベガス市内へ戻ってきた。今夜の泊まりは南国の樹木が生い茂るトロピカルホテルで市内の目抜き通りにある。館内にはスロットマシンが沢山並んでいるしブラックジャックやルーレットの台が所狭しと並んでそれぞれに人々がたむろしているので迷路のように位置関係が分かりにくい。

 夕食後市内中央部のタワーに登り名物の夜景を見物した。見下ろすと起伏に乏しい砂漠の真只中の町であることがよく判る。街中均一に明かりがついて四方に広がっている光景は大自然と人間の戦いを偲ばせてえも言われぬ感動を覚えた。

 夜10時から僅か5分間だけ行われるフリーモントストリートの蒲鉾型の大きな天井をスクリーンとするエクスペリアンスという多彩な光線のショーを群衆の中で見学した。潜水艦が遭難してこれをヘリコプターが救出するというストーリーであるが、海底の魚やら鳥賊等の生物が次々に出現し動き廻るなかなか迫力のあるショーであった。

 ラスベガスは豪華で大規模な新しい高級ホテルがそれぞれにテーマを演出して、犇めきあっている時計のない歓楽の街である。ニューヨークの街並を模して自由の女神が佇立しているホテルやとんがり帽子の屋根が色とりどりに沢山ついたお伽の国のホテルとか黄金のライオンが館前に佇む全館緑一色で世界最大のグランドホテルやピラミッド型の建物にスフインクスを配したルクソールホテルなど見ているだけでも楽しい光景である。

 ラスベガスからロスアンゼルスへ飛んだ。23年前にロスアンジェルスの高速道路を走っていた乗用車の洪水は大型車が過半で小型車はまだ少なかった。その時は、第一次オイルショック後3年になろうとしているのに流石、大資源国の車社会はスケールが違うな思ったものだが、今日見るアメリカの道路には大型乗用車は殆ど走っておらず、中小型車ばかりでしかも日本製が非常に多い。資源節約という地球的規模のキャンペーンが功を奏しつつあるのか、日本車の品質の信頼性と経済性のなせるところなのであろうか隔世の感がある。

 マリリンモンローが葬られているウエストウッドの墓地へ行った。共同墓地の壁の一隅50センチ角内に往年の大スターが葬られていて、元夫のディマジオの死んだ今では花のとぎれることもあるらしい。栄枯盛衰を如実に実感させられる墓地であった。

 西ハリウッドの街を通過するとき虹色の旗を掲げた一角を通過した。ここは同性愛者達が多く住む街である。カルフォルニアでは同性愛者同志の結婚が認められているし、子供のできない彼らは商店やレストランにとっては良い顧客なのだという。知的で有能な人が多く所得も高いのだからそういうことになるのだろう。それにしても倒錯した性に生きる人達とはどんなパーソナリテイーを備えているのであろうか。普通の風俗で衣装も話方も普通の男と変わらないというから不思議だ。



2004年08月11日(水) 【ナイヤガラの滝と錦繍のメープル街道・・カナダ�◆�

 翌朝は400kmを五時間の予定でケベックシティへバスドライブである。州道40号沿いの紅葉は素晴らしかった。特に赤、橙、黄、緑と四色に色づいているのがよい。概ね山並みは女性的であり、メープル街道は全山此れ錦繍という感じであった。        

 ケベック州の州都ケベックシティは、フランスの植民地拠点として建設された。カナダでもっとも歴史のある町で古くからイギリスとフランスの植民地支配争奪の的となり戦いが繰り返されたところである。イギリス支配下を経た現在も住民の85%以上がフランス系カナダ人というフランス文化圏である。当然に公用語はフランス語で看板の文字も全てフランス語である。ケベック市は1985年に世界文化遺産に指定された町で18世紀の歴史をそのまま閉じ込めたような町である。

 旧市街でセントローレンス川を見下ろす位置に建っているお城のような建物シャトーフロントナックはケベックのランドマークであり、フランスのシャンポール城を模して作られた重厚なホテルである。また高台にある星型の要塞シタデルの前面には総督の散歩道と称される遊歩道が設けられておりセントローレンス川の風光をめでながらそぞろ歩きをするのに相応しい場所である。すぐ近くのダルム広場では大道芸人がパフォーマンスを繰り広げており沢山の観光客が群がって楽しそうに眺めている。

 市庁舎、ノートルダム大聖堂を見学してサンルイ通りやサンジャン通りをそぞろ歩きするとレストランやショップが軒を連ねており観光客や買い物客が楽しそうに行き交っている。店内ではフランス語が飛び交っている。ノートルダム寺院のステンドグラスが美しかった。


 商店街プチ・シャンプランは旧市街の崖下の狭い道の両側にレストラン、カフェ、ギャラリー、ブティックが軒を連ねている商店街で、多くの観光客で賑わっている。1608年にフランス人サミュエル・サンプランが上陸して植民地住宅を建設してから最初にできた北米最古の商店街なのである。通りの行き止まりには旧市街へ出られる急勾配の通称首折り階段が設けられていて、ここも多くの人通りがあった。この地域にあるロワイヤル広場から見上げると、カメラアングルが絶好の位置にシャトーフロントナックが聳え建っている。
州議事堂、高級住宅街、戦場公園等をバスで観光し黄昏どきをオルレアン島のメープルシロップ工場へ見学に行った。メープルの幹からシロップを取り出すところや、シロップを濃縮していく工程をつぶさに見学することができた。収穫は極寒の三月に樹液を採取し24時間以内に精製しなければならないが、家内手工業によっており四十lの樹液から僅か一lの製品がとれるだけだというから大変な重労働である。この工場でホームワインと手製のケベック料理を御馳走になったがカントリーミュージックを聞きながらの素朴な田舎の味は格別であった。見学したこの家内工場のマーケットシエア率は75%であるという。

 ケベックのホテルを朝出発してモントリオールへ向かった。ここではネオゴシック様式の大聖堂、ノートルダム寺院、ジャックカルチェ広場、ボンスクール教会、ボンスクールマーケットを慌ただしく見学してモン・ロワイヤルの丘にある聖ジョセフ礼拝堂に参詣した。この大規模で壮大な礼拝堂は当初、奇跡の人といわれるアンドレ修道士が建てた数メートル四方のものであったが、彼の没後熱心な信者によって1924年から建設が始められ1960年に完成した。今では年間二百万人が訪れる世界的な巡礼地に変貌した。

 アンドレ修道士は信仰の力で多くの人の病を治したといわれ、特に足の病いを多く治したといわれる。実際に歩けるようになった人達の松葉杖が沢山奉納されていた。現代の奇跡であるといえる。
 
 モントリオールの建物 



 ケベック州内の自動車のナンバープレートは車の前部にしかついておらず必ずフランス語でJe me souviensという標語が書き込まれている。これは私は忘れないで覚えているという意味であるが、車のナンバープレートにまで掲げて彼らフランス系住民が拳拳服膺していることは何か。それは第一に開拓者精神であり、第二に英仏戦争に負けた敗戦の屈辱であり、最後にフランス文化とフランス語の誇りである。この話をきいた時、勤勉な態度が失われ第二次世界大戦の敗戦体験が風化し、美しい日本語が死後化しつつある祖国の現状に照らしてみてケベック人は偉いと心の中で一人叫んでいた。



2004年08月10日(火) 【ナイヤガラの滝と錦繍のメープル街道・・カナダ� �

カナダの旅 ないやがらフォールズ、トロント、オタワ、モントリオール、ローレンシャン高原、ケベック
               1999年10月5日〜10月12日

 カナダの東部を流れるセントローレンス川沿いに開けたナイアガラ・フォールズからケベック・シティに至る全長約800kmに及ぶメープル街道はカナダ随一のゴールデンルートである。この道はヘリテージ・ハイウエイ(伝承の道)としても親しまれている。今回訪問した街はナイヤガラ・フォールズ、トロント、オタワ、モントリオール、ローレンシャン高原、ケベックであったが、何れも今日のカナダを代表する諸都市でイギリスとフランスの両文化が巧みに溶け合い或いはその個性を主張しあっていた。折から錦繍のメープル街道を訪ねる旅はナイヤガラの滝から始まった。

この滝はエリー湖からオンタリオ湖へ流れるナイアガラ川中流地点にあり、アメリカとカナダの国境付近に位置していて大自然の驚異を目のあたりに見せつけてくれる。滝はゴート島によって二分されており上流に向かって右側の馬蹄形のものがカナダ滝で幅675m落差54m。左側がアメリカ滝で幅260m、落差51mである。一分間の流水量はカナダ滝で一億五千五百万tもあり、これは東京都で使用する一日分の水量に匹敵するというからその規模の巨大さが判る。ナイヤガラ川に沿って自動車道路が走っており、地の利が便利であることから世界有数の観光スポットとして知られ毎年一千四百万人もの観光客が押し寄せる。この滝を四通りの方法で心ゆくまで観察した。

第一番目の方法はごく普通に滝の正面の広場に立って、紺碧の河の流れが瞬時に純白の滝に変わるその雄姿を眺めることである。



第二にはテーブルロックという場所に立って滝の落ちゆくありさまを横から見ることである。    

 第三には霧の乙女号という観瀑船に乗って滝壺近まで近寄って下から滝を見上げることである。



 第四には高さ236mのスカイロンタワーに登って滝を上から見下ろすことである。

 どの方法で見ても視点が変わってまた新しい発見があった。しかし何といっても最もスリリングなのは滝壺まで近寄って轟音を聞きながら滝の飛沫を全身に浴びて目の前に見た膨大な水量の落ちゆく様であった。折から太陽の光を受けて立ちのぼる虹には自然の神秘を感じたものである。滝の様々な態様を観察し十分堪能してから滝から五km離れたワールプールを見に行った。これはナイヤガラ川が東へ70度流れの向きを変える地点で出来る渦巻きである。ここにはワールプールを鑑賞するためにスパニッシュ・エアロカーと呼ばれるゴンドラが渦の上をゆらゆらと横断している。滝のある地域の道路沿いにはあちこちに「BB」という看板を出した民家が見られた。朝食付きの民宿なのである。一泊三千円ということであった。

 翌朝は八時に出発してオタワへ向けて出発する予定であったが、まてどくらせどバスが来ない。この時期紅葉をみるために観光バスは引っ張りだこなのだそうである。昨夜確認してあるから大丈夫だと添乗員は泰然としているが、三十分経ち一時間経ってもバスがやってこない。いらいらが次第に嵩じてくる。ここは外地なのだ、外国の習慣に慣れなければならないと無理に気を鎮めようとするがどうにも落ち着きが悪い。これが東南アジアであればそんなものさと思いなすことができるであろうが、先進国で且つ契約社会のカナダでまさかこの種の経験をしようとは思わなかった。そのうち一時間十五分遅れでバスが到着した。バスの運転手は遅れた言い訳もしない。

 天気は小春日和で爽やかである。空気は玲瓏で気分がよい。今朝の気温は摂氏二度だというがそんなに寒さを感じない。街道沿いに果てし無く原野や田畑が続き沿道の立木は全て紅葉している。赤色は少なくどちらかと言えば黄色が多い感じである。

 町並みが現われると必ず教会があって、その周辺には民家が立ち込めている。開拓が進むと先ず教会が建てられ、その周辺に集落が出来るという形で村落が発達してきたことがよく判る。昼過ぎにオタワ市内にたどり着き発音の綺麗な現地ガイド嬢の説明を聞いた。 

 文明博物館はその建物を前方から見ると原住民の顔を模してあるといわれるだけに、眺めれば眺める程に面白い形をしている。文明博物館からオタワ川を挟んで眺めた国会議事堂はネオゴシック様式でその典雅な姿を川面に映して聳え建っている。折からの紅葉した立木とともになかなの風情があって美しい。オタワのシンボルと言われているだけのことはある。中央にセンターブロックその両脇にイーストブロック、ウエストブロックを従えている。

 1916年の火災で焼失し、現在の建物は1922年に再建されたものである。

 バイワードマーケットは1840年代から市民の台所として活躍してきたもので、ハロイーンが近いので、かぼちゃに顔を彫ったものが沢山並べられていた。

 北欧でもそうであったがカナダでも走行する車は照明を昼間でもつけている。これは事故防止のためであるが、日本ではみられない風景である。

 朝早くオタワを出発して、ローレンシャン高原のトレンブランというリゾート地へ、長駆230kmのバスドライブである。ドライバーがこの地方は初めてというので地図を片手に運転するので心もとないこと夥しい。結局ローレンシャン高原の中を一時間ほども遠回りをしてしまったが、街道沿いの紅葉を心ゆくまで堪能した。

 トレンブラン村を同行の一紳士と散策中、豪華なホテルがあったので見学しようと入って行くと物々しい警備員に入館許可証の提示を求められて泡を食ってしまった。たまたまNAFTAの会議でこの地へ来ているクリントン大統領の泊まっているホテルであることを知りびっくりした。  

 翌朝は400kmを五時間の予定でケベックシティへバスドライブである。州道40号沿いの紅葉は素晴らしかった。特に赤、橙、黄、緑と四色に色づいているのがよい。概ね山並みは女性的であり、メープル街道は全山此れ錦繍という感じであった。        



2004年08月09日(月) 【マルタ共和国の帰りに立ち寄ったローマ・・マルタ共和国�ぁ�

平成14年12月12日(水)
 朝9時半にホテルを出てマルタ空港へ向かった。空港では約1時間遅れでローマへ向かって飛び立った。ローマではスペイン広場周辺で解散となり、教会を三つほど見て廻った。ローマの街にはやたらと教会が多いという印象であった。ポポロ広場のサンタマリア・テル・ポポロ教会にもカルバッチョの絵が2枚程あるということを聞いてここも訪問した。         

 約束の集合時間になっても集まらない夫婦連れがあって寒い中をスペイン広場の上の広場でふるえながら30分も待たされるというハプニングもあった。土産物屋で釣り銭をごまかされ店員とやりあっていて遅れたということらしい。他人に迷惑をかけたという意識に乏しい団塊の世代の夫婦連れであった。

 この夜は9時から始まったカンツォーネを聞きながらの夕食でローマの夜を楽しんだ。飲み放題の白ワインを気がついたら三人で5本開けていた。レストランはファンタジエ・ディ・トラステベレという店であったが、観客の入りは3割程度でこの地にも不景気の風が吹いていた。

平成14年12月19日(木)
 朝から自由行動の日である。コロッセオでバスを降りて皆と別れて集合時間の12時までコロッセオと










フォロロマーノ







を橋田さんと二人で見学した。12時からは唐沢さんの友人の店の店員の案内でアベンティーノの丘にあるオレンジの樹の公園、チルコ・マッシモ、パラティーノの丘の高級住宅街にあるマルタ騎士団長の別荘の鍵穴、真実の口教会(ギリシャ正教)、土産物屋、









サンピエトロ寺院と見学してローマの観光を終えた。昼食にはいかすみのスパゲッティを食べてみようと期待していたが、結局添乗員がアレンジしたイタリア風のセットメニューで済ますことになってしまった。     

平成14年12月20日(金)
 19日の午後9時半にローマのレオナルド・ダ・ビンチ空港を飛び立った飛行機では努めて寝るこさとにした。遅い夕食に日本酒を貰って牛丼の弁当を選択したが、米がべちゃベちゃであまり美味くはなかった。日本酒二本とワインの赤一本を貰うといつのまにか眠りに入っていた。目が覚めたら日本時間で夕方の5時前であった。まだ太陽の光があったが、やがて暗くなった。一挙に時間が8時間ほどすっ飛んだ感じであった。

 眠くないので映画を見た。エベレスト山頂で凍死した実業家の遺産をめぐる騒動と田舎のパイ配達夫の底抜けに明るく純粋な青年が軽妙なコミックタッチで描かれた明るい映画であった。成田で橋田さんは京浜急行で帰りラッシュがいやなので私はリムジンで帰ることにした。



2004年08月08日(日) 【石灰岩台地に構築された城砦都市・・マルタ共和国��】

平成14年12月16日(月)
 8時にホテルを出てコゾ島へ渡るべくチェルケウア港へ向かった。道中、岬や要衝の地には石灰岩でできた物見の塔や狼煙塔が必ず建っており、外敵に備えて怠りなかった当時の島民の緊張した日常生活が偲ばれる。また街道筋には笠松の並木があり、ローマの強い影響があったこともよく判る。平野に広がる田圃は一様に、もう馴染みになってしまった石組みで区画されている。セントポール湾に差しかかると湾の入り口に無人島のセントポール島の姿が黒ずんだ島影を太陽に輝く海面に際立たせていてなかなかの絶景である。

 このセントポール島には聖パウロの遭難の史実が残れされている。彼は当時公式の宗教ではなかったキリスト教を広めた罪でシーザーの命により外国の地からローマへ連れ戻されローマの法で裁かれることになったが、難を逃れて冬を過ごすためにより安全な港であるクレタ島へ移動する予定であった。ところが悪天候のために航路を外れ14日間船は大きく揺られながら流され、マルタ島のアウラポイントに着いたが、その翌日には風と反対の方向に進もうとしてサンパウロ湾に漂着し、タルーガッツイーニという岩礁に座礁した。遭難者達はこの地で体調が回復するのを待って首都のメリーダ方面に移動をはじめた。そしてラバトの聖パウロの洞窟に拘留されながらも約三カ月間滞在し土地の有力者や住民達に数多くの奇跡を行いキリストの福音を説き続けたと伝えられている。

 風光明媚なセントポール湾を後にしてやがてメッリーハ湾が見下ろせる場所にさしかかった。この近くにはポパイ村というのがあった。ポパイ映画が撮影された場所で今は村起こしのためにポパイに因んだ企画を色々考え出し観光地として売り出しているという。

 メッリーハ湾の日当たりの良い丘陵地に緑色の小さなコンテナハウスがごちゃごちゃと建ち並ぶ一角があった。これはマルタ庶民達の保養地でコンテナハウスは別荘であるという。

 チェルケウアの港につくと対岸には有人のコミノ島とゴゾ島が目と鼻の先に見えていてフェリーがひっきりなしにゴゾ島とマルタ島を往来している。

 僅か20分程の乗船でやがてゴゾ島へ到着した。船中ではインド人の子供連れの若い夫婦と乗り合わせた。三人の子供連れであったが、一番下の女の子は二才だという 人懐つこい可愛い子なのでキャンデーを与えるとはにかみながらも受け取った。すると父親がその子に向かって「セイ・サンキュ ー」としきりに教えていた。親が子供を躾ける自然な光景として旅の想い出に残るものである。

 夕食の時、このことを話題にすると同行の老婦人が「それが世界各国の共通の人情というものでしょうが、最近の日本の若い母親は変わっていますよ。可愛い子供に飴を上げようとすると、母親が血相変えて子供が虫歯になるから余計なことはしないで下さいというんですよ。」と嘆いていた。

 ゴゾ島ではジュガンティーヤ神殿を見学した。これも古代の神殿跡で円形の部屋を囲んで石組みの壁面だけが残っていて天井はない。ここも女性の胸部と腰部を強調した8の時型の平面になっていて男根と女陰のシンボルとなる岩や石組みが残されていたが説明を受けなければそれとは判らない配置である。往時は13mの高さにまで壁が積まれ屋根には木材が使われており、周辺の森林が神殿を覆うように繁茂していたというが、森林は船を造るために伐採されてしまい、今では樹木は全然残っていない。この神殿はシチリアから渡ってきた人々が作ったと推定されていてシチリア島にも似かよった様式の遺跡が多数存在するということである。

次にラムラ湾へカリプソの洞窟というのを見学に行った。立地的には対岸の砂浜を見下ろす素晴らしく景色のよい場所にちゃちな洞が残っているが中へは入れない。カリプソという語には懐かしい響きがあるので調べてみると二通りの意味がある。

一つは昭和32年頃歌手の浜村美智子がバナナボートでヒットした西インド諸島の黒人労働者の間に生まれた4分の2拍子の民謡のリズムのこと。と同時に彼女が流行らせた長い髪のスタイル。

 二つ目はホメロスのオデユッセイアに、妖精のカリプソに魅せられたオデュッセウスが7年間カリプソと共に住んだという伝説である。その洞窟がこれなのである。

 シュレディー村という所で小休止したが、ここには泉が湧いていて周囲には石造りの給水設備が設けられていた。現在は洗濯場に転用されて地域の主婦達の社交場になっているが往時は飲料だけに使われたものであるという。

 次にヴイクトリアのシタデルへ行った。このシタデルはコゾ島の首都であるヴイクトリアの街の北側の丘に聳えている城砦で12〜13世紀に作られたものである。1693年にこの地方を襲った大地震で打撃をうけた。現在ではこの城砦内の建物は朽ち果ててしまい人は誰も住んでいない。このシタデルの展望台に登るとコゾ島全体の展望ができる。

シタデル内のカシードラルで興味を引いたのは天井にあるキューポラの騙し絵である。天井にあたかもキューポラがあるように見える丸いドームがあるが実はこれは遠近法を応用して描かれた平面的な絵画である。また建物の配置がラテン十字になされているのも面白いと思った。

 このあとドウエザという海岸でアズル・ウインドウと呼ばれる岸壁が海水で浸食されてできた洞を見学した。インランド・シーと呼ばれる小さな内海が近くにあるとのことであるがこれは見ることができなかった。

平成14年12月17日(火) 
 東マルタの周遊ということで9時にホテルを出発して最初にグランド・ハーバーを挟んでヴァレッタの対岸にあたるスリーシティーへ行った。スリーシティとはマルタ騎士団が外敵に備えるために最初に作った城砦都市でサングリア、コスピーク、ヴイクトリオーザの3地区のことを総称する地名である。サングリア公園ではグランドハーバーを展望したが、対岸のヴァレッタの市街が計画的に作られた都市であることがよく理解できる。全市これ城砦という感じがよくわかる。次いでコスピークを通り抜けてヴイクトリオーザでは城門をくぐって宗教裁判所、セント・ロレンツォ教会を見学した。何れも城郭内にある建物である。セントロレンツォ教会はヴィクトリオーザで一番最初に建てられたものである。宗教裁判所は名前からすると宗教上の異端者を裁いたという印象を語感から受けるのだが、単なる裁判所に過ぎない。聖職者が判事をつとめたから宗教裁判所というのかもしれないが、ネーミングとしてはちょっと不自然な感じがあり実態にそぐわないところがある。

 街の佇まいはこじんまりとしており、街全体がいざ戦いという時には城砦として籠城できるような作り方になっていたのが印象的である。

 このあとカルカーラに立ち寄った。ここには第一次世界大戦の時、同盟国の英国を応援するためにマルタ島へ派遣された日本海軍の軍艦が魚雷にあたって被災し乗組員60人が戦死した霊を弔うために慰霊塔が建っていた。一人密かに般若心経を唱えて霊を慰めた。煙草に火をつけて備える同行者もいた。

 マルサシュロックという静かな漁村でシーフードの昼食を摂り、暫く長閑な漁村を散策した。










 ビルジェブ村には1989年12月23日にゴルバチョフとブッシュが会談した記念碑が建っていた。この会談後東西の冷戦が終了したのである。 

 この日は東マルタの周遊を終えてヴァレッタ市内のシティーゲートの前で解散となった。カルバッチョの「聖ヨハネの斬首」が午後4時から大聖堂で見学できるというので何人かとともにここで降りホテルへ帰るバスと別れた。

 時間になるまでヴァレッタの目抜き通りを散策して時間を潰したが最初この地へ踏み入れたときのような賑わいはなかった。平日のせいであろうか。

 大聖堂で「聖ヨハネの斬首」を鑑賞してからバス乗り場で市バスに乗ってホテルの近くまで戻ってきた。運転手にホテルの近くへ来たら教えて欲しいと頼んでおいたので、40分程もおんぼろバスに揺られたと思った頃運転手が合図してくれたので慌てて飛び降りた。ところが目印のヒルトンホテルは近くにあるのだが、交差する道路の真ん中で方角が全然判らなくて途方に暮れてしまった。運良く学生が通り掛かったので道を尋ねると前日夕食にでたとき最初にたどりついたショッピングモールまで連れて行ってくれた。そこでやっと方向感覚が元に戻った。ホテル前と言ってもとんでもない方向違いの場所で降ろされたことになる。

 一旦ホテルへ帰り暫く休んでから再びセントジュリアンの街中へ出かけて前回夕食を食べたビザハウスで夕食を摂った。うまいぐあいにここでマルタの通貨は全部使い切ることができた。



2004年08月07日(土) 【石灰岩台地に構築された城砦都市・・マルタ共和国�◆�

平成14年12月15日(日)
 マルタ島南部のハガール・キム




へ遺跡の見学に行った。

何しろ小さな島なので40分も走行すると南端の海岸線へ到着する。この神殿の遺跡へたどり着くまで曲がりくねった細い田舎道の周辺に田園風景が展開されたが、田圃の周辺には区画するかのように必ず小さな石を積み上げた石組みの境界線が設けられていた。そしてまだ開墾されていない荒蕪地には石ころや岩がいたるところに散在していた。

最初石組みが珍しいなと単純に眺めていたが、荒蕪地の状態を見るに及んでこの石組みの囲いの意味を了解し、苦難続きであったろうと思われる人間の営為を思いやった。つまりこの石組みは田圃を開墾した農夫達の何代にも及ぶ自然との戦いの痕跡であったのである。耕地を作りだすためには荒蕪地に無数に転がっている岩石を取り除かなければならない最初は取り除いた岩石を一カ所に纏めたに違いないが、その量があまりにも膨大であったため取り除いた岩石で田圃の境界線を築きあげることを思いつきこの形態が出来上がったのであろう。それまでにどれだけの涙と汗が流されたことであろうか。ネパール等の山間の土地で見かける段々畑と同じような労力が注ぎ込まれているのである。

 ハガール・キムの遺跡は大小の石灰岩を組み合わせて積み重ねた遺構が残されているだけで説明を受けなければこれが神殿跡の遺跡であるとは思いもよらない佇まいである。小さな円形の部屋を取り囲むように石組みの壁が設けられているだけであるがよく見ると羊や山羊を生贄として捧げた石の台なども残っているし、神のお告げを聞くためのオラケルと称する穴が岩塊に穿たれていたりする。ガイドの説明で当時の神殿をイメージしようと試みるがあまりにも崩落が激しく思うように想像することができない。復元図でも掲示されていれば理解しやすいのだろうが、そのようなものはどこにも見当たらない。

 男根と女陰を象徴する石や柱が神殿の入り口には残っていた。ここにはなかったが博物館に収蔵されている女性像は胸部と腰部が極端に大きく誇張された造形になっており、太った女性は豊穣のシンボルと考えられていたという。

 この神殿は紀元前2700年頃に作られたものであり青銅器時代のものであろうと推定されているがまだ研究段階で詳らかなことは判っていないようである。ある考古学者は先史時代に栄え、海中に水没したと言われる伝説上のアトランティス大陸の一部でないかと推理しておりロマンに満ちた遺跡である。

 さてマルタ騎士団が来島する以前の歴史について若干調べてみると以下のようである。

 紀元前千年頃マルタはフェニキァの植民地になるが、前736年にはギリシャに占領されメリタと呼ばれた。その後カルタゴ、さらに前213年にはローマの植民地となった。395年にローマ帝国が分裂するとマルタはビザンティン帝国の支配下に入るが370年にはアラブ人に占領される。ノルマン人がマルタのアラブ勢力を征服したのは1090年のことであり、その後マルタはシチリア王国の封土となった。1530年に神聖ローマ帝国皇帝カール5世からヨハネ騎士団にマルタ島が与えられて今日残っている建造物の建設が始まったのである。

 ハザール・キム遺跡の海岸線はるかかなたには無人島のピルクル島の島影が見えていた。

 次いで海岸線を走ってブルーグロット(青の洞門)まで行ったが風が強くてボートで見学する予定はキャンセルされた。危険なため船がでないのである。海岸の展望所からブルーグロットを眺めたが石灰岩が海水に浸食されてトンネルのように穴が穿き海の色が鮮明な青色であることから青の洞門と呼ばれ舟遊びの名所になっているのである。日本でいえば伊豆堂ヶ島の洞と似たようなものであろうか。

 たまたまこの洞門の上から海面までロープを垂らして下降訓練をしている登山家を目撃することができた。

 次に内陸部のラバトとイムディーナへ向かった。この地へ至る道中のズリエック村で石灰石を切り出している採石場を見学した。巨大な絶壁が残されており長い年月かけて切り出された石材が如何に大量であったかが窺える。現在もこの場所では石材の切り出し作業が引き続き行われていた。

 ラバトの市街とイムディーナは隣接してあった。ラバトとは城の外という意味であり、イムディーナは城の中という意味である。語源はアラビアである。イスラム世界で城砦都市のことをメデイナというし、モロッコの首都はラバトと呼ばれていることと思い併せるとこの地がアラブ人達によって作られたものであることを了解できる。 イムディーナの近辺には太古から人が住みついておりアラビア人達がイムディーナを作りこの島へ来住したマルタ騎士団の人々も当初はこの地へ定着して街を整備したのである。イムディーナは現在昼間でも人影の少ない沈黙の街とも言われていて人口は四百人ほどしか住んでいない。この街も堅固な要塞になっており1565年の大包囲戦の時には終盤戦で、オスマン・トルコ軍はこの街を攻撃したが僅かな守備隊に撃退されたという。

イムディーナの門をくぐったところには騎士団長の館があった。城内にはカシードラルと呼ばれる司教座聖堂がありランドマークとなっている。この建物は13世紀に建設されたが1693年の大地震で倒壊しその後ゴシック様式で再建された。倒壊前の資材も一部に使われており、内部から見たキューポラは見事である。また被災を免れた壁画「聖パウロの難船」も秀逸である。このカシードラルはヴァレッタの大聖堂よりも古いものである。

 ラバトでは聖パウロのカタコンベを見学した。カタコンベとはパレスティナの地のユダヤ教徒の発案による地下墓所で、キリスト教発祥のころより、キリスト教徒に取り入れられ、初期キリスト教の伝達とともに各地に広まったものである。

 この地のカタコンベはカルタゴ支配の頃にカルタゴ人の墳墓として掘られ始め紀元前1世紀から4世紀にかけて主にキリスト教徒の墓所として発展し8世紀頃まで使われたが、盗掘にあったりたして目ぼしい埋蔵物は残されておらず僅かに発見されたものが博物館に収納されている。縦横に走る地下通路の両側の壁に大小無数の穴が穿たれているが、現在は遺骨もなにも残っていない。薄暗い墓所を足元に気をつけながら見て歩くのはあまり気持ちのよいものではなかった。

 次いでモスタの市街へ移動した。モスタの市街地内では教会が開門するまで自由時間ができて市内を散策することになったが、買い物に興味を示さない小生は静かな町中を歩き廻るだけであった。尿意を催し便所を探したが見つからず大変な思いであった。博物館へ飛び込んでみたりしたが便所はどこにもなかった。

なんとか我慢しているうちに時間がきてモスタ教会を見学した。折りから嬰児達が両親に抱かれて沢山集まっており、牧師が子供達に洗礼をする儀式に出くわした。日本の753のお宮参りと似通った雰囲気が漂っていた。

 このモスタ教会のドームはヨーロッパ世界では第3番目の大きさを誇ると言われるだけあって見事なものであった。因みに第1はヴァチカンのサン・ピエトロ寺院、第2はロンドンのサン・ポール大聖堂である。

 教会の中でもガイドの説明は上の空で必死に便所を探したが見つからなかった。欧米の古い街を歩いていて寒い時などに最も困惑するのは尿意を催した時に便所がなかなか見つからないことである。旅行を上手にするこつの一つに便所をうまくみつけ休憩時間に如何にうまく用を足しておくかということがある。機内でも然りである。機内は気圧が低くなっているので体内のガスが膨張して噴出しやすい状態になっているが、食べ物が変わるのでうっかり放出すると実まででてしまう虞がある。そこで便所へ入ってガスを放出することになるが、便所へ立つタイミングが難しい。食事中や食後にはカートが通路を塞いでいて通れない。また通路が空いているときは往々にして便所には行列ができている。海外旅行中の体調管理の要諦は如何に便所をいいタイミングで利用するかにかかっていると言っても過言ではないと思う。

 モニタ教会を出てサン・アントン・ガーデンに立ち寄った。イギリス統治時代に作られた庭で珍しい植物が集められているようであったが、なかなか集中して見ることができない。意識は専ら尿意の処理にのみ向いている。やっと便所があるのを発見し飛び込んだ。放出する快感と安堵感はなにものにも替え難いものがある。

 ガーデンに隣接してある大統領官邸の前を通ったが小さな島の共和国の大統領官邸としては敷地も広くなかなか壮大なものであった。

 この日は夕食を摂りに散歩がてら湾の海岸沿いにサンジュアンニの夜の街へ出かけた。ショッピング・モールではファッションショーなのか少女達のグループが軽快なダンスを披露していた。

 昼間バスから大体見当はつけておいたのだが、道がよく判らず飲食街にたどりつくまでに苦労してしまった。いざ店を選ぶとなると難しいものである。19時頃だというのに客の入っていない店が多い。バーは若者で賑わっているようだが、夕食を摂る雰囲気ではない。かといってきちんとしたレストランへ入ってみたいと思う程腹もすいていないし、現地通貨も使い残さないように僅かしか両替していないのでこころもとない。さんざん歩き廻ったあげく、軽い食事で済まそうということになり、あまり人の入っていないピザハウスへ飛び込んだ。一組の子供連れの夫婦が食事をしていて愛想がいい。マルタ人は外来者に誰彼かまわずこうなのかと思っていたら、じつはこの店の経営者であることが後で判った。

 ビールを飲みツナのサラダとミートのスバゲッティを食べたが一人あたりチップを入れて6マルタリラ(13005円)であった。イタリア料理はボリャームが多いことは承知していたので二人で分け合って食べる積もりでサラダもスパゲッティーも一人前ずつ注文した筈なのにサラダがきたのをみると日本なら3人分もありそうな膨大な盛りのサラダの大皿が二つもきてしまった。サラダたるや半切りにしたゆで卵が三個ついていてツナは茶碗一杯分ほども盛られている。野菜ははみださんばかりでおまけにパンまでついていた。スパゲッティだけは1人前だったようだが、ブロークン・イングリッシュの所為で意志がよく通じなかったのか、どうもサラダだけは2人前きてしまったようだ。隣で食べている中年の男のサラダの量もべらぼうに多いので、この国ではサラダだけは別格の扱いがなされているのではないかと思った。

なんとかサラダの野菜だけは全部平らげたがこれだけで満腹してしまう量であった。スパゲッティーは1人前を二人で分け合って丁度よい分量であった。軽く済ますつもりの夕食が満腹する結果となってしまった。たまたまクリスマス近くのせいか若いウエイトレスはサンタの帽子をかぶっていて愛嬌がよかった。



2004年08月06日(金) 【石灰岩台地に構築された城砦都市・・マルタ共和国� �

▼マルタ共和国の旅 ヴァレッタ、バガール・キム、ラバト、イムディーナ、モスタ、チェルケウァ(コゾ島)、シュレディ村、ヴイクトリア、スリーシティ、カルカーラ、マルサシュロック、ビルジェフ、ローマ
               2002年12月13日〜12月20日

平成14年12月13日(火)
 8時26分横浜発の成田エクスプレスで一時間程早めに出かけた。橋田さんと一緒のときは橋田さんの運転する車に同乗させて貰うのだが、今回はカードで料金を支払った成田エクスプレスにした。これにはわけがある。サウジアラビアへ旅行したとき土産物店で展示されている置物の値札を確かめようと手にとったところ鳥の首が台座に固定されていなかったため転げ落ちて壊してしまった。弁償させられるはめになったが、マスターカードの付帯保険で担保される筈であったから、証明書を店から貰っておいた。ところが帰国して保険会社に請求すると保険の取り扱いが変更になって旅行の前に、旅行に使用した公共交通機関の料金をカードで支払ってあることが保険適用の条件になるというのである。そんな適用条件があるとは知らなかったのでこの時の旅行には交通費をカードで支払うということをしなかった。ために弁償は自己負担となってしまったという苦い経験があったのである。

 電車の中ではニューヨークへ遊びにでかける3人連れの賑やかなOLと乗り合わせた。

 成田で受け付けを待っていると橋田さんもやってきた。35人の大人数の旅行である。添乗員は唐沢という若い女性だが、異常な出目金である。バセドウ氏病の持病がありそうな顔である。

 橋田さんがウイスキーを買い、私がヘネシーを買った。機中で中国語の勉強をしようとCDを持っていったが、電子機器は一切使用することが禁止されていて使うことができなかった。テキストだけを読んで勉強したが、あまりはかがいかず機内サービスのワインを3本ほど平らげてしまった。ミラノ経由でローマに到着したが、ゲートが搭乗券に記載されたものとしょっちゅう変り油断ができなかった。

 初日の宿泊は辺鄙な場所に位置するホテルで、ここへ到着する間際の両側の道路に駐車された乗用車が邪魔になってバスが通り抜けるのが精一杯であった。前回橋田さんとイタリアのルネッサンス芸術を見て廻った時もローマでは郊外の辺鄙な場所のホテルであったから、ひょっとして同じホテルかなと思っていたが到着してみると予想は外れた。夜11時過ぎの到着だったのですぐ就寝したが、室温が高く汗をかいてしまった。

平成14年12月14日(土)
 マルタへ飛ぶため朝5時45分のモーニングコールで7時15分にはホテルを出発してマルタ国際空港へ急いだ。

 10時05分発のアリタリア航空でマルタへ飛んだ。シチリア島上空からは島がよく見えた。エトナ山の噴煙は反対側の窓からは見えたらしいが生憎私のサイドからは見ることができなかった。

 マルタ空港は小さな空港だが空港の建物にこころなしかイスラムの影響が感じられる。建物を撮影していて手袋の片手を落としてしまった。飛行機を降りて建物まで歩いたのも小さな空港ならではのことである。

 空港にはマリアさんという英語ガイドのマルタの女性が出迎えていた。彼女の旦那はオーストリア人だという。彼女の話はネイティブの英語でないので日本人には判りやすい。

 今日は土曜日なのでヴァレッタのマルタ騎士団長の館は閉館なのだが、日本人観光客が来るというので管理人の特別な計らいで開館するという。マルタ島の観光客は日本人が最近では一番多いのだそうだ。昼食を後回しにして取り敢えずそちらへ急行することになった。

 バスでヴァレッタ市街のバスターミナルに到着するとそこには一様に車体を黄色に塗った年式の古いバスが沢山駐車していた。ざっと数を目で追ってみると35台ほども駐車していた。ここはマルタ島のバスターミナルになっていて全ての路線はここが起点になっているという。ターミナルは円形になっていてその中心点には円形のトリトンの泉があり、三人の人間の像に支えられた円盤に水が噴出している。人々はここで下車してシティゲートと呼ばれている城門をくぐってヴァレッタの市街地へ入るのである。

 シティゲートをくぐって前方を眺めるとアッと思わず感嘆の声が洩れてしまった。リパブリック通りと呼ばれる目抜き通りには垂れ下がったクリスマス用の飾りの下を夥しい群衆が散策しているのである。国際色豊かな観光客が過半のようである。こんな小さな島にかくも多くの観光客がといった感慨を覚えた。蜂蜜色をした建物が通りの両側に建っていて装身具やら貴金属やら工芸品などの店が並んでいて、土曜日のせいもあろうが、非常に活気に満ちた繁華街の賑わいを作り出している。

 ここで持参したビデオカメラでこの賑わいの雰囲気を撮影しようとレンズを向けたのだが、ファインダーが真っ暗で何も見えない。さては飛行機の中で上の棚に格納しているときスイッチが入ったままになっていてバッテリーを消耗してしまったかとの疑念が浮かぶが納得できない。この地で初めてビデオを構えたときにはスイッチはオフになっていたのを確認している。そのうちナイトショットスイッチがオンになっていることに気がついた。これではファインダーが暗くなる道理である。

 騎士団長の館は二階建ての石灰岩で作られた豪華な建物である。正面のバロック様式の玄関から中へ入ると頭の禿げ上がった案内人が待っていた。昔日本に桜内義雄という代議士がいたが彼に風貌がよく似ていた。廊下の天井には絵が描かれており壁面にも由緒ありげな絵画の入った豪華な額が飾られている。何よりも注目をひくのはそこに沢山置かれている騎士達の鉄製の鎧である。今にも動きだしそうな錯覚にとらわれそうになった。

 禿げ頭の案内人が最初案内してくれたのは兵器庫の建物の二階の廊下に面したうす暗いタベストリーの部屋である。ここは騎士団の重要な会議が開催されたところであるが、周囲の壁には由緒と来歴のある豪華なタベストリーが飾られていて当時の議会の様子を傍聴するための新聞記者席も当時のままの姿で残っていた。部屋が薄暗いのはタベストリーを保護するためという。件の禿げ頭の案内人は日本語で書かれたマルタ島の解説書を沢山持っており一冊千円で頒布していた。彼が休日返上で騎士団の館を開館した理由はどうやらこのあたりにあるようであった。マルタ人が親日的であると早急に判断はできないと思った。

 次々といくつかの部屋を案内して貰ったが、いずれの部屋も豪華なタベストリーや額縁に入った絵画や壁面に直接描かれた絵画で豪華に装飾されており、当時の騎士団が裕福であったことを窺わせる。因みに彼らは異教徒であるトルコ船団を襲撃する海賊行為も行って富を蓄えたと言われる。更に騎士団に参加するヨーロッパの騎士達はヨーロッパの貴族の次男坊や三男坊で裕福な階層出身者でもあったから彼が死亡すると遺産が騎士団に寄贈されるという習慣もあったようである。

 大きな部屋には英国皇室関係者の肖像画とともに歴代総督や独立後の大統領の肖像も掲げられていた。注目をひいたのは女性大統領の肖像が掲げられていたことであり彼女は最近90数歳の天寿を全うしたという。

 現在はコンサート等も行われるという豪華な飾りつけの大広間には黄色いシルク製のカーテンが飾られていて細かな刺繍が施されていた。フランスのリヨン製ということであった。

 さて騎士団のことであるが、騎士団の源流は厳しい戒律で知られるベネデイクト派に属する修道士達である。ここマルタ島の騎士団の正式名称はヨハネ騎士団と呼ばれ第一次十字軍時代 (1096〜1291)に修道僧ジェラルドによって創設された宗教騎士団であり、1113年にローマ教会の教皇パスカリス二世によって宗教団体として公認されたものの末流である。ヨハネ騎士団は創立当初は聖なる地イスラエルで病人を看護し、疲れた巡礼者を受け入れた慈善団体であり、聖ヨハネ病院で活動していたことでも知られる。その後巡礼者がエルサレムまでの長い道程を安全に旅できるようにこの団体は騎士団としても活動した。12世紀の半ば頃にはこの騎士団の団長をグランド・マスターと呼ぶようになった。

 服装は黒衣白十字の外套を着用し十字軍では異教徒との戦闘にも参加して華々しい戦果を挙げた。1291年にアッコンの砦がイスラム教徒(セルジュク・トルコ)の攻撃で陥落しエルサレム王国が滅亡すると彼らはキプロス島へ一時避難し、その後ロードス島に滞在して組織も強化され海戦ではヨーロッパ中で一番強い軍隊に成長していた。しかしながら1522年にスレイマン1世に率いられたオスマントルコ軍の攻撃に敗れて7年間程放浪した後神聖ローマ帝国のカール5世からマルタ島を与えられた。ヨハネ騎士団がこのマルタ島へやってきたのは1530年のことであった。このときから現在マルタ島に残されている建造物の過半のものの建設が始まったのである。

 ヨハネ騎士団がこの島へやってきた頃この島には封建制度がなかったので島古来の住民の有力者達は彼らが来住し島を支配することを歓迎しなかった。騎士団が定住することを受け入れた儀式では騎士団長の長老がマルタ島民の特権や権利をこれまで通り尊重することを宣誓した。

この島にきた騎士団は最初内陸部にあるメディーナという街にある古い城の内側に定住し町中を整備した。そして半島の先端にある天然の良港である聖エルモ(ヴァレッタ市街最先端の砦)とビルグ(その後ヴィットリオーザと改名)に要塞を築きトルコ軍の来襲に備えた。しかし1547年と1551年の攻撃では莫大な損害を受けた。島は略奪の被害を受け島民の多数が奴隷にされてしまった。

 この二回のトルコ軍の襲撃に懲りた騎士団は島の要塞化と防衛に力を注いだのである。そして一五六五年5月18日史上に名高い大包囲戦を迎えるのである。この戦いはオスマン・トルコ軍とその同盟国がマルタ、シチリア、イタリアを通ってヨーロッパに向かうため4万8千人の兵士を送り込んだのである。これに対抗するため防衛軍は8千人のキリスト教の兵士、540 人のマルタ騎士団、4千人のマルタ人、その他スペイン、イタリアからの傭兵の連合軍が組織された。31日間の戦闘の結果トルコ軍に病人が増加し、かつ兵器の補給が間に合わずトルコ軍は撤退した。この時マルタ騎士団の指揮をとったのが団長のラ・ヴァレットであった。この戦いのあとで現在のヴァレッタの街に計画的な要塞都市ヴァレッタが建設されたのである。名前は騎士団長の名前に因んでいる。

 このあとアッパー・バラッカー・ガーデンへ行った。この公園はヴァレッタ市街地の南端にあり、グランド・ハーバーや対岸のセングリアやヴイットリオーザの






市街地を眺望することができる。この場所に立って景色を眺めているとこのマルタ島という島がいりくんだ天然の良港であり、石灰岩の上に石積みの建物を建てた全島これ要塞といった構造になっているのをよく理解することができる。

 夕闇迫る頃、聖ヨハネ大聖堂を訪問した。この大聖堂はヨーロッパで最も美しい教会であると言われるが、その言に違うことなく内部の装飾はバロック式であり、柱や壁に施された金箔と寄木細工の豪華絢爛たる彫刻群は実に見事である。ただただ目を見張るしかない。そして建物の両脇に設けられた8個の礼拝堂は8か所の出身国の言語別に分けられた騎士団長の墓所になっていて柩に施された大理石の彫刻が実に素晴らしい。マルタ十字の四つの先端が二つに割れて合計八つの鋭角ができているがこれはこの8か国の言語をも象徴しているのである。それはオルベール、アラゴン、プロバンス、ドイツ、フランス、イギリス、ボルトガル、イタリアの国々である。

 更に注目に値するのは隣室のオラトリオに保管されているカラバッジョ作の「ヨハネの斬首」という大きな絵画である。彼の作品中唯一のサイン入りの傑作である。

 この建物は1573年に騎士団長ジャン・デ・ラ・カッシュールの発意により建設が許可されマルタ出身の建築家ジローラモ・カッシェールによって1578年に完成された。   



2004年08月05日(木) 【第29回ワールド・マスターズ・レガッタ出漕記・・チェコ�◆�

  いよいよレースの日である。我々の出場するレースの種目はエイト。クラスはFクラスで平均年齢64才。距離は千m。筆者は3番漕手である。11時45分に我々のクルーも出艇し
堤防で仕切られた川をウォーミングアップしながらスタート地点まで向かった。何しろ3分刻みのスタートだから、スタート地点へ向かうクルーの艇が目白押しで慌ただしかった。

スタート地点に早く到着して艇を係留し合図を待った。7杯レースである。隣の1レーンは日本から来た三菱クルー、2レーンが我々のクルー。更に隣の3レーンはイギリスのヘンリーから来たクルーであるが、スタート直前まで定位置につかず練習をしている程の余裕である。4,5,6,7レーンはそれぞれノルーウエイ、ニュージーランドアメリカ、ドイツと何れもボートの盛んな国々からのクルーである。

冷静に冷静にと言い聞かせながらスタートの合図を待つが知らず知らず心臓の鼓動は高まっていく。コックスのSさんも緊張してあがり気味である。

いよいよブザーがなってスタートした。
12時36分である。失敗もなくスタートできたと思ったが、外国クルーのピッチはとても速い。左隣3レーンの英国クルーは最初のダッシュ4〜5本で既に視界にはなく、辛うじて右隣の三菱クルーと並んでいるのが判る。やがてその三菱クルーも視界から消えてしまった。スタート力漕でバランスが崩れて、フィニッシュが合わず漕ぎきれていないのである。最後尾になってしまったということは判るが、それでもどうにか建て直して完漕すべく必死で漕いだ
。



特に失敗したオールはなかったが、実力の格差は如何ともし難く、タイムは五百mで1分55秒89、千mで4分00秒28、トップとの差47秒88で三菱クルーとの差も14秒弱あり完敗であった。

ボートが日常生活の中に溶け込んでいて社会人であっても、週に5〜6回は乗艇する国の漕手達。それに比べて精々週に1〜2回練習ができればいいとする日本の社会人漕手達。漕艇環境が整い、漕手層の厚い欧米の国々とボートはまだマイナーなスポーツである日本との実力の格差はとても大きいということを痛感した。

世界マスターズに出漕し完漕できたことを記念して皆で集まり
写真を撮影した。

この後Nさんのシングルスカルの出艇が16時51分なのでそれまでゴール近くで色々な種目のレースを見学した。実に迫力のあるレースばかりである。特にエイトが8艇並んで競う所は壮観である。オールが作り出す波が岸辺へ押し寄せてくるのを初めてみた。

川辺には芝生らしき雑草が沢山生えていて凄く臭い臭いがする。アンモニアににたような鼻をつく臭いである。犬の小便かとも思ったが、何処へ行っても草原ではこの臭いがするので肥料か除虫薬を撒いたのではないかと思う。

Nさんのレースは堤防へ行き小高い所から声援したが、逆風の影響で艇速がでず、見ていて気の毒な位の漕ぎ方でラストでゴールした。聞けば前日食事ができず、力がでなかったようだ。体質的に痩せ型でいくら食べても太らないので、レース直前に栄養を補給しておかなければ、力が出ないタイプのようである。このレースにかけていた意気込みが大きかっただけに落胆の様子はよく判るし気の毒な結果であった。

翌日は午前中プラハ市内



とプラハ城を見学してからレース場へ行った。

フスの銅像




 今日はパーティー
がある日だ。



川辺に張られたテントの中で国際色豊にワイン、ビール、ビュッフエ形式の料理と御馳走が並んだ。

歌が出、ダンスが始まり大いに盛り上がった頃、隣のテーブルにいた英国からきた女性クルーと意気投合して、写真をとったりしているうちにC大OBのS氏の巧みな話術で腕相撲対抗戦をすることになったが、我等日本人クルーの3人の男子は全て負けてしまった。そこへ腕自慢のH氏が登場し片っ端からなぎ倒していったので辛うじて大和男子の面目
を施すことができた。



女性とはいえ外国選手は筋骨隆々としていて肥満体は少なく、ボートが強いのも肯べなるかなと思った。
レースを終わり観光旅行でバスと列車を利用してチェスキークロムロフ



とウイーン市内を見学して帰途に着いた。チェスキークロムロフははルネッサンス様式の建築が有名で町全体が世界遺産に登録されている。

洪水の被害の爪痕
がまだあちこちに残っていた。


















2004年08月04日(水) 【第29回ワールド・マスターズ・レガッタ出漕記・・チェコ� �

▼チェコの旅 プラハ、ラチセ
                 2002年9月3日〜9月13日
 朝8時にロンドンから駆けつけたK先輩と落ち合った後、プラハのホテルを出てラチセ・ローイングコースへ向かった。場所はプラハの北西約40分




位の場所に位置するのだが、運転手もここへ行くのは初めてらしく何回も道を尋ねていたが、迷ってしまって来た道を再びバックするということが2回程あった。





閑静な田舎の町の中にレース場はあった。周囲は田圃でボルタワ川の支流であるレナ川の河川敷を掘削して水をひいた競漕場である。長さ2000mのコースを8レーンとれるだけの広さがあり、素晴らしいレース場




場の全景が望見できた。ゴール近くの広場には物凄い数の艇が架台に置かれている。

流石に世界大会を行う会場



は規模がでかいなという印象である。ヘンリー・オン・テームズにしろ琵琶湖漕艇場にしろ戸田オリンピックコースにしろこれほど広くない。こんなに大きなレース場を見たのは初めての経験である。
最初、FISAの事務所へ到着の挨拶をしてから借艇の手続きをすることになっていたので、事務所へ行くと挨拶は不用で借艇の手続きをすることになった。

三菱グループが先着していて借艇の交渉をしていたので後廻しにされた。K先輩が語学に堪能なことから渉外係を一手に引き受けて艇も2艇借りることができた。混成クルー(関東の幾つかの大学のOB有志が集まってクルーを編成)は白色の艇で早速リギングの調整




を始めた。濃青会(京大OB)クルーの方はフランスのリヨンから到着したばかりの赤い艇になるという。まだリガーを急ぎ取り付け中であった。やっと引き渡しを受けてリギングの調整をしたが、大柄な欧州人が使っている艇なのでとても大きい。
やっと調整が終わって10時50分に水に浮かべ練習したが




、吃水戦が高く漕ぎにくかった。               

 午前中約九千五百m、午後2時より約四千五百m位漕いで練習を終えた。

女子クルーのランニング




 午後3時30分には帰路につき一旦ホテルへ帰り待たせておいたバスで市街地へ向かった。先に市内観光していた漕手の奥方達とカレル橋で6時半に落ち合うことになっていたからである。
 しかしながらバスが交通渋滞に巻き込まれ時間が30分程も遅れてしまった上に市内までは洪水の影響でバスが乗り入れできず、プラハ中央駅で降ろされカレル橋まで歩くはめとなってしまった。
更に旅なれたH氏の勘違いがあって旧市街と新市街を取り違えて奥方達に教えていたたものだからカレル橋の旧市街側で待ち合わせの予定が約束の場所にいなくてなかなか見つからず時間を小一時間程も空費してしまった。奥方達は新市街側で遅い遅いと怒りりながら待っていたのである。夕闇迫るカレル橋でやっと再会しホテルの紹介で予約しておいたペリカンというレストランで夕食会を持った。このレストランは日本人がよくいくレストランのようで我々の他には別の日本人のグループが既に陣取っていた。よくみると同じホテルに泊まっているグループであった。要するにホテルのいい鴨にされていたのである。

ここではジプシーの踊りと音楽の余興をみながら食事した。一人二役の中国人の子供のダンスの演技は上手であったし印象に残った。

帰りは市電と市バスを乗り継いで帰ることにしたが、路線と系統がよく判らず何回か失敗して大勢で弥次喜多道中を演じてしまった。切符の買い方も判らなくて全員が無賃乗車を敢行するというおまけまでついた。

翌朝ホテルを10時に出発してレース場に向かった。出発までに時間があったので近くの露店で水1.5リットル入りを3本買ったがガス入りであった。この日は昨日借りた艇ではなくアメリカの女性が使用した艇を借りることになった。調整してみると昨日の艇に較べて小さく、日本人男子の体格にうまく合っていた。リギングの調整で足の位置を直したら非常に漕ぎやすかった。4000m漕ぎ、最後にパドルで2500m漕ぎ、最後の750 mをノーワークで漕ぎ、この日の練習を終えた。

昼食は構外の門前にあるコンビニアンスストアでハンバーガーとジュースとビールで済ませた。構内の売店がべらぼうに高いのにここでは半値ほどであった。

15時にはレース場を出てホテルへ帰り、K氏と散歩にでたら混成クルーはホテル近くのレストランへ行くところであった。近くのスーバーへ立ち寄ったが残念ながら閉店時間で中へは入れなかった。レストランへ行った連中はトップレスの女給のサービスがあり、且つ廉価であったとご満悦であった。

 第三日目はいよいよレースの日である。ホテルを9時に出発してレース場へ向かった。艇は昨日乗った女性用の艇でシートの位置を若干調整した。川では既にレースが始まっていて、3分おきに次々と発艇してくるのでみていて退屈しない。8艇が並んで競争するところは壮観である。(次号へ続く)            



2004年08月03日(火) 【荷馬車が往来する長閑な田園風景・・ルーマニア�◆�

スチャバは1388年にモルドヴァ公国の首都がおかれ1565年にヤシに遷都するまで大きく発展した古都である。

カルパチァ山脈の山間を谷越え山越えの延々4時間に及ぶ長丁場のドライブであった。このあたりでは一面雪景色で戸外は肌を突き刺すような寒気である。道中、庭先に大きな木樽に重石を乗せてキャベツの漬け物を作っている光景を目撃することができた。また入り口の門と庭の中にある井戸には豪華な屋根が作られており、事情を知らなければ井戸は宗教的な施設ではないかと勘違いしそうな趣のある独特の飾りつけである。

 夕方早い時間にスチャバに到着し大城砦を遠望してからホテルに投宿した。大城砦はモルドヴァ公国の初代のペトゥル1世が1388年にゴシック様式の城砦を築き、ステファン大公の時代に円形の見張塔が増設され難攻不落の堅固な城に完成したのである とても寒い日であったが五つの修道院の見学に終始した。アルボーレ修道院、スチェヴイッツァ修道院、。









モルドヴイッツァ修道院、フモール修道院、ボロネッツ修道院の順に見て廻った












 これらの修道院は16世紀初頭にモルドヴァ公国のシュテファン大公、ボグダン2世、ペトゥル・ラレシュ公等の歴代名君の治世下に建設されたもので外壁を埋め尽くす鮮やかなフレスコ画が見物である。オスマントルコとの戦争の場面や聖書の場面が描かれている。雨風に晒され太陽の光をあびながら色褪せることもなくよく保存されたものだと不思議な気持ちがした。勿論長い年月の間に落書きされたり剥落したりして傷んでいる個所も沢山あるが、色鮮やかに中世文化の様相をよく現在に伝えている。これらの壁画は文字の読めない中世の農民達に聖書の内容を判りやすく説明するために描かれたものであり、中世の農民達の敬虔な信仰生活を偲ばせてあまりある。

 出発までの待ち時間にホテルの前にある小さな教会へ入ってみた。すると人一人いない薄暗い室内の一段と高い台の上に舟形の柩が設置されていて中には男の老人の遺体が仰臥の状態で安置されていたので一瞬ドキリとした。土気色の顔は蝋人形のような感じであったが、両手は胸の上で組み合わされていた。遺体の顔を常時むき出しにして参会者に別れを告げさせるのがルーマニア正教の葬祭儀礼であるというが,異教徒の我々には異様な感じを与える風習である。あまり気持ちがよいものではないので黙礼してから早々に退散した。それを追いかけるように教会の鐘が大きな音で十数回も高らかに打ち鳴らされた。時を知らせる鐘なのか葬儀が始まるという合図なのか定かではない。

 バスは本日の宿泊地ドブロジャ地方のトゥルチャへ向けて出発した。途中、1565年にモルドヴァ公国の首都が置かれ、文教都市として近世ルーマニアを代表する都市として栄えたヤシの街へ途中立ち寄るものの、終日をバスの中で過ごす移動日である。

 一昨日から昨日までに駆け抜けてきた環境条件の厳しいトランシルバニア地方やブコヴィナ地方に比べ現在走行しているモルドヴァ地方は平地が多く、土地も肥沃なようで地平線の彼方まで広大な田畑が広がっている。羊や牛、馬等の家畜が放牧されてのんびりと草を食んでいる風景はニュージーランドの牧羊地帯を連想させる。また起伏の多い丘陵地帯のよく手入れされた小麦畑は北海道の美瑛地区の光景とも重なるものがある。一面に葡萄が植えられている田畑はフランスの田園風景を連想させる。

 今まで世界各地を訪問して農村地帯はずいぶん見てきたが、知らず知らず歴訪地の光景と比較しながら見ている自分がいるのに気が付いて驚いたりする道中であった。 単調な光景に見飽きたのか居眠りをしている同行者が多い中で移り行く景色を飽かずに眺めている自分は少し他人とはずれているのかな等と思いながらも眠たくないのだから景色を眺めているしか術がない。それはともあれ、この地方の農家の佇まいや田畑の様相は豊かに見える。

 やがてヤシの市内へ到着し、チャウシェスク大統領がそのベランダで演説したこともあるという統一広場に面したトレインホテルで昼食を摂った。

 ここでは文化宮殿までバスで運んで貰い、目抜きの大通りをトレインホテルまで約1時間散策した。静かな佇まいで中世の由緒ありげな建物が建ち並び美しい街である三聖人の教会、メテロポリタン教会、貴族の館等では立ち止まり外観見学をしてヤシ市街の観光を終え再びバスでトゥルチャを目指して長丁場の移動が始まった。

 途中、ゲオルゲ公が三兄弟教会をもデルにして創建したといわれる要塞僧院に立ち寄りこれを見学した。男子修道院である。ここにある公衆便所はひどい代物で中国の山村を思い出し、密かに裏へ周り込み青空トイレを満喫した。

 ドゥルチャへ行くためにはドナウ川を渡るために短時間フェリーボートに乗らなければならない。フェリーボートは1時間毎の運航なので17時のフェリーに乗船する計画で本日の旅程は組まれている。道路渋滞に巻き込まれたり、小休止で時間をロスしたりすることもなかった。バスは快適に走行していた。
 ところが市街地の中でもないのにバスが突然急停車してしまった。時計は5時に40分程前である。フェリー乗り場の近くまできている時間帯である。すわ何事かと運転手の方へ視線を転じると黄色いジャケットを装着したポリスが二人バスの前に立ちはだかっている。パトロールカーは道端に駐車してある。どうやらスピード違反を犯してしまったらしい。

 運転手が降りていき警察官にしきりに談じ込んでいたが、パトカーのところまで連れて行かれて調書を取られている。時間はあっという間に飛んで行き20分程がまたたくまに過ぎてしまった。どうも五時のフェリーには間に合いそうもない。
 やがて運転手が解放されて帰ってきて慌ただしくバスを発進させた。乗り合わせた一同はそれぞれにひそひそ話で一時間船着き場で過ごす方法を相談している模様である。

 丁度時計の針が5時を示したところで船着き場に到着した。フエリーボートにはまだ乗用車が何台か乗り込んでいる最中であった。船内には車がぎっしり詰め込まれて大型バスの入りこむ余地はなさそうに見える。運転手は現地ガイドと一緒にフェリーまで交渉にでかけた。一同が固唾を飲んで見守る中を運転手が笑顔で帰ってきるのが見えた。乗せて貰えるらしい。期せずして一斉に拍手が沸き上がった。フェリーでは車が少しずつ移動してバスの乗り入れられる場所の確保に動き出したようである。出来上がった空間にバスが滑り込んでフェリーは所定時間に約10分遅れて出航した。15分程の航海で対岸に着いてしまった。

 船着場のすぐ近くのホテルに投宿した。顛末を聞いてみるとフェリーには先着順に乗船するので積み残されないように一刻も早く船着場に到着したくて運転手はスピードをあげたらしい。そこを運悪くパトカーに捕まってしまい罰金を10ドル個人負担で払わされることになったということであった。

 ホテル専用の船着場から専用船に乗り込み、ドナウ川の一支流であるドゥルチャ支流のクルーズが始まった。ドナウ川と黒海に挟まれた湿地帯はヨーロッパ最後の秘境といわれ、野生動物の宝庫といわれるところである。運がよければペリカン等を見ることもできるということであったが、実際には鳥を少々見ることができただけでマングローブのように生い茂る原生林の中を静かに航行するクルーズは単調極まりないものであった。その中にあって漁師達が粗末な苫屋を建てて仮住まいをしている近くに放し飼いされている飼い犬が対岸の岸を船の進行方向へどこまでもついて来るのが僅かに無聊を慰めてくれた。パンを投げてやると川の中へ飛び込んで取りに泳いでくる姿はいじらしくさえ思えた。また環境条件の厳しい湿地に芦葺きの粗末な苫屋に仮住まいして漁に勤しむ彼等の貧しい生活のことを考えていた。

 このクルーズ中、ハーモニカの上手な人が居て演奏し、船旅の抒情を慰め、かつ高めて下さった。リクエストに応じて、軍歌やら懐かしのメロディーやらしきりに熱演をして下さったが、そのうち帽子を持って御祝儀を集めようとする女性が現れた。

 彼女は運転手がスピード違反で罰金を個人負担するのは可哀そうだし、我々としても彼の熱意に対して感謝の意を具体的に表したいから心ある方はご協力戴きたいとの口上で聴衆の間を廻り出したのである。この善意の行為に一同異論のある人もなく進んでなにがしかの札やら銭が競うように投じられた。
 運転手の罰金はカバーしてあまりある金員が集められ、添乗員から運転手に手渡して貰い大変喜ばれた。国境を越えて心と心がつうじあう心温まる出来事であった。

 かくして今回の旅行は終盤を迎えた。
 朝はゆっくり起き出してブカレストまでの長い移動の一日であった。
 道端で道路脇に若者が座って通りかかる車に対して両手を広げて大きさを示しているのを目撃した。ガイドの説明ではその大きさの魚を持っているが買わないかというアピールだということであった。そして道路には荷馬車が相変わらずのんびりと往来していた。

 途中スローボーズヤという町のレストランで昼食を摂ったときデザートのアイスクリームに線香花火が仕掛けられていたのは一興であり旅の締めくくりとして印象に残るもてなしであった。

 ブカレストでは余裕時間を消化するため、自由市場を見学した。自分で作った野菜類を並べて売っている農民達の姿にも心なしか自由化した経済社会の中で豊かな生活を築いていこうという意気込みのようなものが感じられ、享受している自由のありがたさを噛みしめているように見えた。野菜類が多く並べられていたが、何故か大根だけは姿が見られなかった。そして今回の旅行期間を通じて40回程の食事でもついぞ大根の姿を見かけなかった。        



2004年08月02日(月) 【荷馬車が往来する長閑な田園風景・・ルーマニア� �

▼ルーマニアの旅 ブカレスト、シナイア、ブラン村、ブラショフ、スチャバトゥルチャ
                  2002年4月2日〜4月13日

 朝8時前に出発して一路ルーマニアの首都ブカレストを目指した。
 道中窓外に広がる街道筋の民家を座高の高いバスから庭の中までつぶさに観察することができた。農村地帯なので一様に二階建ての母屋を囲んで庭があり、庭には必ずと言っていいぐらい数羽の鶏が放されて長閑に草や地虫をついばんでいる。傍らにはプルンの木が数本植えられ白い花が満開である。

 どの家にも井戸が掘ってあり井戸には屋根が設けられている。水道はまだ敷設されておらず井戸水に頼っているようである。赤茶色の瓦葺きの屋根の軒下の壁面には薪木が積み重ねられている家が多く、ガスもまだ使用されていないことを窺わせる。

 道路には馬車の荷車に干し草などの荷を満載して往来している。時に二頭立ての馬車もあり、農場へ作業にでかけるのであろうか空の荷車の上には2〜3人の農夫や農婦が所在なげに乗っており、すれ違う我々のバスを興味深そうに見つめている。行き交う自動車の数もそう多くはない。

 こうした長閑な田園風景は日本の社会から消えて久しいので一際旅情をそそってあまりある。
 そして不思議なことに13日間のブルガリア、ルーマニア滞在中にモーターバイクが走行しているのを一度も目撃したことがなかった。

 長い道中、ガイドから聞いたブルガリア人の生活水準について纏めておくと、自由化以降貧富の格差は大きくなっているが、平均的な月収は百五十$〜二百$であるという。

 ソフィア市内で感じたことの一つに多分社会主義の時代に建てられたと思われる無粋なデザインのアパート群の壁面の剥落や傷が目につくことであった。傷むに任せて補修が全然できていないのである。このことはアパートだけに限らず、多くの建築物が薄汚れているか壁面の剥落が目立ち補修したり化粧直しをした形跡が窺われないのである。キューバ、ドレスデン、プラハ、ブタペスト等旧社会主義国家の都市で感じたことと同じことがここにもあったのである。言ってみれば社会主義が残した負の遺産がいまだに払拭されずに醜い姿を晒しているのである。生活に追われて補修にまで金が廻らないということなのであろうか。

 ドナウ川畔の国境の街ルセには10時50分に到着した。川を超えると向かいはルーマニアである。ブルガリア側とルーマニア側でそれぞれ出国と入国の審査を受けて越境した。

 ルーマニアに入ったところで待機していたルーマニアのバスに乗り換え、3日間同行した現地ガイドともお別れである。

 ルーマニアのガイドはアリーナさんという若い女性で日本語を目下勉強中であるという。歓迎の挨拶は日本語であったが、細部にわたってのガイドを日本語ですることはまだできないようで添乗員に英語で説明しこれを日本語に通訳する形をとらざるを得ない。

 ルーマニアに入ったとたん、今まで一様に瓦葺きの屋根であったのが一様にトタン葺きの屋根に変わった。家の造りや佇まいはブルガリアのときと変化がないのでこの屋根の変化は異様に思えた。ガイドに何か理由があるのか説明を求めたが判らなかった。今でも不思議に思っている。

 ブカレストで最初に訪問したのは「国民の館」である。かの悪名高いチャウシェスク大統領が一国の威信をかけて1983年に着工し1,989に失脚するまで建設に執着した宮殿である。素材は大理石を初め全てルーマニア産のものを使い、1ケ年間の国家予算にも匹敵する程の巨費を投じた。日本円で約1500億円に相当するという。

その規模たるやアメリカ国防省のペンタゴンに次いで世界第二位、ヨーロッパでは第一位になるという巨大な建物である。遂にこの建物の完成を待たずして彼は失脚してしまったが、贅を尽くした宮殿内部の装飾には天井から壁に至るまで純金が用いられていて目を見張らせるものがある。内部を見学してみると「国民の館」とは名ばかりで私欲を満たし権力を誇示するためだけの目的でつくられたものであることがよく判る。自由化後は無用の長物となってしまったが、巨費を投じた建物だけに野晒しにしておくわけにもいかず、ルーマニアの素材と技術で作り上げた建築物であるということから「国民の館」という名称はそのまま引き継ぎ、貸し事務所、貸し室として利用されることとなり、現在では国会議事堂が内部にあり、各政党の事務所が入居している。国際会議やコンサートにも利用され、また観光物件として運用されているのである。部屋数は3107室もあるという巨大な建物である。

国民の館を起点として約4kmにわたってブカレスト市内を走り抜ける大通りが「統一大通り」である。パリのシャンゼリゼ通りと寸分違わぬ幅と長さにしようとしてチャウシェスクが計画したもので通りには豪華な、かつての政府高官用のマンションが建ち並んでいる。現在では転用されて裕福な一般市民が住んでいるが、この大通りを建設するためにブカレストで最も古い旧市街は破壊されてしまい多くの史跡や歴史的建造物が消滅してしまった。

 チャウシェスクという政治家について調べてみると、1918年生まれで1936年に共産党に入党。1965年以降書記長、1967年以来国家評議会議長(74年以来大統領) を兼任した。国家・党・軍の実権を掌握して独裁権力を振るい、ソ連とは一線を画した自主路線をたどり、71年の米中接近では「橋渡し外交」さえ展開した。しかしながら国内では一族約20人による高位高官独占支配を行い厳格な警察国家体制を敷いた。経済的には70年代後半に急増した対外債務返済のため、国内の産出物は農産物を初め目ぼしいものは全て輸出に向け国民には耐乏生活を強制した。更に農業不振は基本的な食料確保すら危うくした。こうした中、彼は国民の不満をそらせるため西部のトランシルバニア地区に住むマジャール系少数民族に対する抑圧を強化してハンガリー及び西側諸国との間に摩擦を引き起し政権基盤を揺すぶられることとなった。こうした中、89年の東欧での一連の変革の波を受け、西部のティミショアラでの反政府のデモ隊と治安部隊との衝突が起き、全国的な規模に発展していった。やがて兵士が市民に合流し89年12月22日、チャウシェスク夫妻が逮捕され24年間の独裁政権は崩壊した。12月25日には非公開の軍事法廷で夫妻は死刑の判決を受け即刻銃殺された。

 チャウシェスクの統治方法を仔細に調べてみると現在の北朝鮮の金正日政権と似通っており、金政権は近い将来ルーマニア型の革命で崩壊するであろうことが予見される。国民を飢餓線上におき言論の自由を統制する秘密警察国家は必ず破綻をきたすのは歴史の鉄則だからである。

 ブカレストでは大司教教会、旧国会議事堂、革命広場、旧共産党本部、歴史博物館(旧王宮)、大学図書館等の建物を外から外観だけ見学してブカレスト市内の観光を終えた。
凱旋門




 旧共産党本部にはチャウシェスクが群衆を前に最後の演説を行い、はじめてブーイングが起こって反政府の大合唱となったといわれるバルコニーはそのまま形で残っていた。劇的な終焉で消え去った独裁者の生涯を想うと感慨一入であった。因みにチャウシェスクはこの場での演説中に群衆の怒りを抑えられなくなり、ヘリコプターで一時急場を脱出したのである。

 ブルガリア市内を朝出発して次の目的地シナイアへ向かった。シナイアへ向かう道中、田畑の中に石油採掘の小さな油井にポンプが設置されて石油を汲み上げているのを何カ所かで目撃した。それはそれは小規模の装置であったが、ルーマニアで石油が採取できるとは小さな驚きであった。

 シナイアはカルパチア山脈の南端の山麓に開けた「カルパチアの真珠」と別称されるレゾート地である。ここにはシナイア修道院とペレシュ城がある。

 最初ペレス城を見学した。この城はルーマニアでは初めてのドイツ系の国王カロル1世(1866〜1914)が夏の離宮として19世紀に建設した優雅な城である。折から雪がちらついており、城へ到着した時には雪に覆われた森の中に尖塔が望見され、その佇まいは優雅で一瞬ドイツのノイシュバンシュテイン城に似た造りだなと感じた。雪道を城の構内まで行き、近くから城を色々な角度から鑑賞しかつ撮影した。雪化粧をした森を背景に佇立する城を仔細に観察するとノイシュバンシュタイン城とはまた趣を異にする格別の光景であった。雪が城を引き立てていた。この城ができてからブカレストの貴族達は競ってこの地に別荘を建てたので爾来この地は別荘地として発展した。 

 この城から近い場所にシナイアの修道院がある。シナイア修道院は17世紀にワラキアの王侯ミハイル・カンタクジーノがエジプトのシナイア山へ巡礼をし、感激して帰国後この地に修道院を建てシナイア山の名を貰って命名した修道院であり、以後この地の地名となったという謂われが残されている。

 次いでトランシルバニアアルプス山中のブラン村にある通称「ドラキュラ城」を見学した。この城はワラキア公ブラド・ツエペシュ(在位1456〜146 2)の祖父が居城とした城で後にルーマニア王室の離宮として使われたこともある。ドラキュラ伯爵と通称されるツェペシュは実際には子供の頃一度だけこの城を訪れたことがあるだけであるという。

ツェペシュはシギショアラの町に1431年に生まれ、コンスタンチノープルに留学中にビザンチン帝国が1453年に滅亡し,支配者となったオスマントルコのメフメト2 世の捕虜となった。やがて許されて帰国し、ワラキァ公国の支配者となるが、約束であったトルコへの貢納金の支払いを拒否し、スルタンから派遣されてきた兵士を捕らえ生きたまま串刺しにしたことから「串刺し公」と綽名された。歴史上は敵国のトルコと勇敢に戦った名君として評価が高い。ドラキュラの名は彼の父が神聖ローマ帝国皇帝から受けた「龍( ドラゴン) が彫られたメダル」に由来する。彼の父はドラゴンのメダルを授与されたことからドラクル又はドラキュラと呼ばれ、その名が子孫の家名となったのである。また「ドラク」はルーマニア語で「悪魔」を意味している。
「吸血鬼ドラキュラ」は彼の行状を年代記で読んだアイルランドの作家ブラム・ストーカーがヨーロッパに古くから伝わる吸血鬼伝説を組み合わせて怪奇小説に仕立てあげたもので、この作品の影響を受けてこのブラン城もいつしかドラキュラの城として一人歩きを始めたのである。

 ブラン城を見学後再びバスで今夜の宿泊地ブラショフへ向かった。

 ブラショフはルーマニア第二の都市で中世の町並みを残した美しい古都である。町は12世紀にドイツの商人によって建設され、ルーマニア人、ハンガリー人の3民族によって発展してきた。閑静な佇まいのどことなく心の落ち着く感じがする町である。ここでは夕闇せまりかけた頃徒歩でスケイ門、黒の教会、聖ニコラエ教会等の外観見学をした。

 ルーマニアの最北部、ブコヴィナ地方の中心都市スチャバへ向けて出発した



2004年08月01日(日) 【聖地リラの僧院を誇り薔薇の咲き乱れる国・・ブルガリア�◆�

 朝目が覚めて窓を開けると雪が降っていた。今日は長駆してカザンラクを経由し古都のヴェリコ・タルノボまでの移動である。

 カザンラクはバルカン山脈とスレドナ・ゴラ山脈に挟まれた薔薇の谷の中心地である。この地域はブルガリアの中心に位置し温暖で乾燥した空気が薔薇の栽培に適しているため、古来薔薇から採れる香油の産地として有名である。香水の原料として使われる薔薇の香油の世界市場の8割をこの地方が占めている。

 生憎時期が早すぎて、花はまだ咲いていなかったが周辺の田畑には一面に薔薇が栽培されているのがよく観察できた。5月の収穫期には畑一面が色とりどりの薔薇の花で埋めつくされ、夜明け前から採集が始まるのである。民族衣装を纏った女性達が歌と踊りで豊作を祝う「バラの祭典」はこの頃約一週間に渡って開催され、世界中から観光客が押し寄せ賑わうのだという。

 我々の一行は薔薇博物館を見学した。博物館と名付けるには恥ずかしいほどの小規模な施設であるが、薔薇の香油の製造工程の写真や昔使われた蒸留釜や道具が展示されている。庭には品種改良のための温室なども設置されているが、ここでも花はまだ咲いていなかった。

 ついでトユルベト公園内にあるトラキア人の墓を見学した。1944年に防空壕建設中に偶然発見されたものであるが、紀元前4世紀後半から3世紀頃のものと鑑定されており、墓の内壁と天井にフレスコ画で戦闘場面や葬送儀礼の様子が数種類の色使いで描かれていて保存状態も良好である。実物は鑑賞できないが精巧に複製されたレプリカでその絵を鑑賞することができる。 このトラキア人はブルガリアに紀元前19世紀〜8世紀頃住み着いたインド・ヨーロッバ語族である。この地域には田畑の中に小高い丘の形をしたトラキア人の墳墓が幾つか残されており我々もその幾つかを通過中に目撃することができた。

 ところで現在のブルガリア人の原型はこのトラキア人ではなく、5〜6世紀に移動を開始したスラブ民族に属する西シベリアのステップ地帯の遊牧民ブガール人である 彼等はビサンチン帝国と領土争いを繰り返しながら681 年に第一次ブルガリア帝国を建設したのである。

時期尚早なのでバラの谷では薔薇の花を見ることが出来ず残念であったが、一見桜かとまがうばかりの白いプルンの花がそこここに今を盛りと咲き誇っていた。ここには人通りも少なく閑静で長閑な農村の風景が広がっていた。

 バラ谷を画するシプカ峠は1878年の露土戦争でロシアとブルガリアの連合軍がトルコ軍を打ち破り歴史的勝利を飾った場所であるが、ここには戦死した息子達の霊を弔うためにロシア人遺族達が資金を出し合って建立したロシア正教のシプカ教会が葱坊主のような塔を陽光に輝かせて佇立していた。

 夕刻にヴェルコ・タリノボに到着し投宿した。
 ヴェリコ・タリノボは1187年〜1393年に第二次ブルガリア帝国の首都として栄えた古都である。バルカン山脈の東部に位置し森に囲まれた幾つもの丘とその周囲を蛇行するヤントラ川の切り立った崖が独特の景観を作り出しており複雑な地形が入り組み起伏に富む立体的な市街地は中世の面影を残す町並みが至るところに展開している。イヴァン・アッセン王の治世下の最盛期にはビザンチン帝国をも圧倒し、バルカン半島のほぼ全域を支配したこともあった。当時は文化の中心地として栄え、ルーマニアやモスクワからも留学生がやってきたといわれ、現在でも学都として知られている ツァレヴェッツの丘には第二次ブルガリア帝国時代に宮殿が営まれていたが、オスマン・トルコの猛攻を受けて瓦礫の山と化してしまって史跡として残されているだけである。

 投宿したヴェリコ・タルノボ・ホテルはこの街で最高級のホテルであったが、部屋の窓からヤントラ川を隔てて正面にイヴァン・アッセン王のモニュメントを見ることができた。

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