| 2004年09月30日(木) |
旅のノウハウ�亜ΑΕ船奪� |
日本人はチップ制度を非常に煩わしいものと感じる。日本にも心付け、はな、祝儀、茶代などという言葉で表現される旅館や飲食店の従業員に対して支払う少額の金の制度はあったが、最近では請求書にサービス料として含まれているので支払わないことが多くなっている。ところがヨーロッパやアメリカに行くとこのチップが彼等の生活給の性格をもっているからややこしい。聞くところによるとレストランなどでは、給仕がレストランと契約してその店で給仕をするが店から給料を貰わないで客からチップを受け取る権利を取得している場合がある。このような場合、飲食代の一割程度が相場とされている。またピローチップというのもあってこれがまた煩わしい。
ヨーロッパでもスイスなどではチップの習慣がないからチップを心配する必要はない。中国でもチップの習慣がないから渡す必要はない。このように国によってはチップの必要がないところもあるから事前にそうした情報を集めておくことも旅のノウハウであると思う。チップの習慣のないところで枕銭を置いてくるような馬鹿な真似はやめたいものである。ピローチップなどは少額貨幣の持ち合わせのないときには置かなくてもかまわないと思うずゔすうしさも時として必要である。
どうしても馴染めないのが汚いトイレでもチップを取られる不合理さである。
| 2004年09月29日(水) |
旅のノウハウ��・・用足し |
旅に出るとバスで移動することが多い。従って高速道路を長時間走行することが予定されているときには、出発前に手洗いで用足しを済ませておくことは当然の心得であるが、その日の体調によってはバスの走行中尿意を催してくることもある。緊急事態としてバスに一時停止して貰うことになるのであるが、運悪く高速道路を通行中とか渋滞に巻き込まれている時にはバス自体を停止することが不可能な場合もある。
そんな時の奥の手として、バスに乗る時には丈夫なビニール袋を必ず携行するように心がけていれば、急場を凌げることがある。座席に座って膝に上着を広げてかけてからやおら用意のビニール袋に放尿するのである。周囲の人には殆ど気がつかれずに緊急避難することができる。この時大切なことは用済み後ビニール袋の口をしっかりとかねて用意の紐でしっかり括り、内容物が漏れないように注意することである。そしてバスは最後に降りることにし、件のビニール袋をさりげなく持ち出し、ゴミ箱の中に捨てるか地上に撒いて、うまく事後処理をすることである。
| 2004年09月28日(火) |
旅のノウハウ��・・カード |
旅行する時にはカードを携行すると便利なことが多いが使うにあたっては細心の注意が必要である。カードの種類も随分増えたが中には通用しないものがあるから要注意である。JCBのカードは外国では通用しない所が多い。マスターかビザのカードであれば欧米諸国であれば大体どこでも通用する。
カードの使い方で案外気の付かない方法がある。現地通貨に両替してその国ともお別れという時に手持ちの外貨が残っている時、空港内の売店で使い切ってしまおうとするが手持ちの金額と見合った品がなくて困惑したという経験を持つ人は多いと思う。少額貨幣は記念品として持ち帰ることもままあることだ。
この時カードを併用すると効果がある。先ず欲しい品を探し会計の時現地通貨の有り金全てを差し出し足りない分はカードで取ってくれと交渉するのである。かくして現地通貨は見事に0とすることができる。
中国ではまだカードは通用しないことが多い。仮にカードが使えるということであっても使わない方が賢明である。何しろ15億人も人口のある国である。いろんな人間がいて日本人観光客はいいかもとして虎視眈々と狙っている。カード番号を盗まれたりする虞れがある。中国ではカードは使わないと決めておくほうが無難である。
| 2004年09月27日(月) |
旅のノウハウ��・・保険 |
海外旅行をするときエイジエントは必ず海外旅行者傷害保険に入ることを勧めて提携先の保険会社の申し込み書を送ってくる。保険に入ることは必要であり、エイジェントが推薦する保険会社であれば問題ないであろう。
だが、旅行回数が多くなると都度保険に加入するのも馬鹿にならない金額になる。そこでカードに付帯している保険を利用することを思いつく。カード会員としての年会費を納める契約をすると海外渡航者傷害保険が自動的に付保される仕組みになっているものがある。但し、これを無条件に鵜呑みにしてカードの保険に入っているからという理由で保険をかけないというのは危険である。よく保険約款を読むなり保険会社に電話するなりしてカードの保険で保証される事故内容や保険金を確認しておきたい。
筆者はマスターズのゴールドカードで海外旅行時の保険はカバーしているが、このカード付帯の保険が適用される要件として当該旅行に必要な経費をカードで支払っていることというのがある。そこでこの要件を満たすために成田空港へ赴くための成田エクスプレスの乗車券は必ずマスターのカードで購入することにしている。
| 2004年09月26日(日) |
旅のノウハウ��・・外貨 |
外国旅行をするときにはその国で通用している貨幣でないと役にたたない。そこで事前に日本円を外貨に交換して準備することになるが、日本で手に入らない外貨もある。その時は訪問先の空港の両替所かホテルまたは銀行で現地通貨と交換することになる。この時のポイントは使い残さない程度の金額を見積もって交換することにある。
手持ちの通貨は日本円が多いが国際通貨であるドルまたはユーロを持っている場合もある。国によっては日本円が両替できない国もあるのでドルやユーロも日本円の他に多少は持っていた方が便利である。 これらの通貨を現地通貨に両替する時に高額紙幣は不便である。釣り銭を日本円やドルまたはユーロで貰うことは出来ない。多額の現地通貨を貰っても処理に困惑してしまう。従って日本を出発する前に日本円であれば千円札で、ドルであれば10ドル紙幣でユーロであれば10ユーロ紙幣で用意しておくことが外貨準備の要諦である。そして外地では日本の硬貨は使えないので初日の枕銭に困ることがある。そこで1ドル紙幣を10枚程度用意しておくと初日の枕銭に困るということもないしミネラルウォーターを購入する時にも便利である。概ね枕銭はどこへ行っても1ドル程度で充分だからである。
そして現地通貨は千円単位でこまめに現地通貨に両替する心がけが肝要である。
| 2004年09月25日(土) |
旅のノウハウ��・・写真 |
旅に出る時は誰でもカメラを携行することは常識になってしまった。観光地の名所旧跡へ行くと必ずこれを背景に自分を入れて記念撮影をしている光景によく出くわす。次から次へと順番を待っているかのように一緒に写されるのが風景に気の毒だと思えるような人までカメラに収まっている。そして中年女性の厚かましさ振りには辟易することが多い。 集合写真等を見せられた時は誰でも先ずその写真の中に自分が写っているかどうかを先ず最初に確かめるものだ。そこでは背景の風景がどうであることは問題ではない。人は如何に自分中心に生きている存在であるかがよく判る。
そこで旅の写真撮影の要諦は、自分の姿を始めとして群衆が入っていない風景写真を如何に手際よく撮影するかにある。最初の頃は筆者も必ず自分の姿を入れたものである。ところが旅行初期の写真を見るとがっかりする。紀行記に添える写真がないのである。最近の旅行では自分の姿を入れた写真は旅行中せいぜい二枚か三枚に留めて後は人の姿の写っていない風景だけの写真の撮影に努めている。これがなかなか難しい。だがタイミングに目配りをしていれば必ずチャンスはあるものである。写真はできるだけ人影の少ない場面を狙うべし。これが旅行中の写真撮影の鉄則である。
| 2004年09月24日(金) |
旅のノウハウ��・・蚊取り線香とキンカン |
旅の準備段階のことで書き落としていたことがあるので追加しておきたい。先進国や寒冷地に旅行する場合には必要ないが、暑さの厳しい地域へ旅する場合には蚊取り線香を携行すると重宝することが多い。ケニアに旅行した時にホテルの部屋の中には昔懐かしい蚊帳がベッドの上から吊るされていた。蚊帳は吊ってあっても中に紛れ込んだ蚊を退治するのは容易なことではない。この時は蚊取り線香を持参していたので難なく蚊を退治することができた。
ミャンマーに旅行したときはホテルの部屋がバンガロー式の独立家屋であり、窓には防虫網が施されてはいたが、部屋の中には蚊が何匹か入り込んでいた。内モンゴルの草原でパオに泊まったときにも蚊が部屋の中にいた。何れの場合にも蚊取り線香を持参していたので安眠することができた。蚊の羽音が気になってよく眠れなかったという同行の人が多かった中で蚊取り線香の威力は絶大であった。 蚊取り線香を持参するような場所へ行く時にはついでにアンモニア溶液を主成分としたかゆみ取り「キンカン」などもスーツケースの中に忍ばせておきたい。
| 2004年09月23日(木) |
旅のノウハウ��・・メモ |
史跡訪問するとガイドが説明してくれることが多い。説明を聞いている時はなるほどと感心したり納得している。歴史上の人物の名前が飛び出してくることもある。ああそうか彼はここで生まれたのか、ここで育ったのかと歴史年表を脳裏に思い出したりしている。その時は覚えたつもりになっているし忘れない自信がある。しかし旅が終わって帰ってくるともうすっかり聞いた話は忘れてしまっている。現地で撮影しまくった写真でもどこで撮ったものであるか判らないということは往々にしてありがちなことである。ことほど左様に人間の記憶力は頼り無いものである。
そこで手帳にメモるということが、旅を楽しく記憶に留める有力な手段になる。メモする要点は固有名詞、時、場所、キーワードだけでよい。これさえメモしてあれば事後でもこれらのメモが手がかりになって不思議なほどその時の情景が思いだせるのである。できればその時自分が感じた印象も簡単に書き留めておくと紀行記を纏めたりするときにとても助かるものだ。
メモるための手帳は小型で掌の中に収まる程度のもので、天を螺旋状の針金で綴じてあり、めくったページを裏に重ねていけるものが使い勝手がいい。小さなポケットにでも収納可能ですぐ取り出せる手帳がべんりである。 必要な場合ページを千切ってメモとして使うことも可能だからである。
| 2004年09月22日(水) |
旅のノウハウ�─Ακ�八分 |
旅で一番気をつけなければならないことは過食しないことである。
先ずその誘惑は航空機から始まる。機内食にどのようなものがでるかは旅の楽しみの一つであるが往々にして食べ過ぎという罠に陥りやすいから注意が必要である。特に長時間のフライトの場合には二食ないし三食が機内食になることもある。飲み物サービスもあることだし、ついつい食が進んで気が付いたときにはもう遅かったという苦い経験が何回もある。機内では運動不足になっているのだから供給される機内食を全て平らげていたら必ず過食になってしまう。最初から食べる量を決めておいて予定量食べ終わったら勿体ないなどと思わずに食べ残す勇気が必要である。
この食欲との戦いは航空機内だけに留まらない。ホテルでの朝食はビュッフェ式のものがおおくなった。料理とか果物が沢山並ぶとついついこれもあれもと欲張って取り込んでしまいがちだが、ここでも自分の胃袋のことをよく考えて目分量を決めて食事をすることが肝要である。人間誰しも自由に食べられるとなるとついつい食べなければ損をすると思いがちであるが、ここは腹八分の鉄則を守り抜くことが旅のノウハウの中でも一番大切なものであると指摘しておきたい。
| 2004年09月21日(火) |
旅のノウハウ�АΑ�座席は通路側 |
航空機に搭乗するときは窓側が景色もよく俯瞰できていいと思いがちであるが、長時間のフライトの時には断然通路側のほうがよい。
その理由は手洗いに立つとき隣席の乗客に何の気兼ねもしないで済むことにある。また機内での運動不足を解消するために通路内を時々散歩するにも便利だからである。通路側の席を確保するのが航空機に上手に乗る鉄則である。 そして航空機の中では気圧が弱く設定されているからであろうか、体内にガスがたまりやすくお腹の中でグルグル音を立てることが多いし、我慢していると腹痛を覚えたり気分が悪くなったりする。そこでそんな時には便意はなくとも手洗いに入って放屁するとたちどころに問題は解決する。奇妙なことに自分でも驚くくらい何連発も発射することになる。
運悪く通路側の席がとれなくて窓側の席になった場合でも隣席の人への気兼ねはしないで何時でもトイレに立つことの出来る勇気をもちたい。
航空機に搭乗したら靴は脱いで持参のスリッパに履き替えると疲れかたが少ないように思える。そして両足の親指を上下に上げたり下ろしたりの運動をしていると鬱血も少なくなるようである。
| 2004年09月20日(月) |
旅のノウハウ�ΑΑΣ�中電灯 |
中国や東南アジア諸国やアフリカの諸国を訪問するとよく停電にぶつかることが多い。これらの国を訪問するときには懐中電灯が必須の品となる。部屋には停電に備えて蝋燭とマッチが備えられてはいるが、火災の虞れもあるし、部屋の外へ出て廊下を歩く時に蝋燭をかざしてでは足元がおぼつかない。
世界遺産を訪問するときには対象物の過半のものは墓である。地下であったり窟であったりするから足元が危ないし、壁画等を鑑賞するにしても懐中電灯で照らしださなければよく見えないことが多い。例えば敦煌の石窟などでは電灯に頼らなければ折角の芸術作品を鑑賞することができない。ここでは強力な照度を持つ電灯が望ましい。 通常はペンライトのような簡単で小型のもので充分であるが、予め窟等の見学が予定されているときには、単二の乾電池を四本入る程度の強力な照度の出るものが望ましい。
| 2004年09月19日(日) |
旅のノウハウ�ァΑ�水着 |
旅行に出ると運動不足になりがちである。特に空港で飛行機に乗ってしまうと長ければ10時間以上も座ったままの状態になるし、目的地に着いてからもパックツァーの場合、待ち受けているバスに乗り込むことになるので、歩くことも少なくどうしても運動不足になりがちである。従って空港についても動く歩道は使わないで歩く。エスカレーターも極力利用しないで階段を歩いて昇るという心がけが必要である。
ところで旅程の中で思わぬ時間の空白や手待ち時間が生じることがある。そんな時には町中を努めて歩いて運動不足を挽回しなければならない。レゾート地のホテルや欧米のホテルでは屋内プールを持っているところが結構多い。そんな時には例え1時間や30分の手待ち時間であってもこれを利用してプールで水泳をすると運動不足も解消されて以後の旅程が快適に過ごせることになる。そこで使う使わないは別にして必ず水着は一枚スーツケースの中に入れておくよう心がけることも旅の準備段階での要諦である。
| 2004年09月18日(土) |
旅のノウハウ�ぁΑ�洗濯干し器 |
旅に携行するものは必要最小限にしたい。そのためには現地調達主義が鉄則である。よく日本食でないと落ち着かないと言って電気炊飯器や米まで持参する人をたまに見かけるが、旅とは非日常の世界に遊ぶことである。これさえ認識しておれば食べたことのない現地の食事であっても興味を持って食べてみるだけの好奇心が欲しい。従って食事は現地で供されるものだけで間に合わせることが鉄則である。日本食は帰国すれば毎日たべられるではないか。
次に衣類であるが、下着・靴下・ハンカチ類は各々最大限三着以内に留め、まめに洗濯することである。石鹸はどこのホテルでも必ず常備されているからこれで間に合わすこと。洗濯鋏が沢山ついている小型の洗濯干し器をスーツケースに入れておくと重宝する。夜の帰りが遅くて翌日までに乾かない場合でもこれがあると洗面所の狭い空間にでも干しておいて外出できる。掃除に入るメイド達にも気兼ねしないで済むことになる。
洗濯した場合、バスタオルに挟んで脚で何回も踏みつけて水分を取ると乾きがとても早くなる。
折角洗濯したものが乾かないこともままあるが、その時の奥の手はベッドの枕元にあるタングステン電灯の笠に生乾きの洗濯ものを乗せて煎餅焼きの要領で何回かひっくり返しながら乾かすといい。意外に早く乾くものである。
| 2004年09月17日(金) |
旅のノウハウ��・・止水栓 |
旅支度をするときに、止水栓をひとつ荷物の中にくわえておくと大変重宝することが多い。
旅先でホテルに入ったとき先ず最初に点検しなければならないことがある。それは洗面所、便所と風呂場の点検である。最初に水や湯がでるか否かのチェックである。次に止水栓が備わっているかどうかを確かめる必要がある。水が出ない、湯がでないの時は部屋を替えて貰うことになるのだが、止水栓が備わっていない程度の時には持参した止水栓が早速威力を発揮することになる。止水栓が欠けていることをフロントに訴えても直しておきますというリップサービスが返ってくるだけで埒のあかないことが多い。部屋を交換して貰っても次の部屋にまた止水栓が備わっていないということは往々にしてありがちなことである。
万が一止水栓を持参しなかった時の応急措置としては大抵どこのホテルでも常備しているシャワーキャップを水穴にあてがう方法で凌ぐことが出来る。人によってはゴルフボールを一個持参するとよいと言う人もあったが実験の結果ではゴルフボールではあまり効果がない。
フロントと埒のあかない交渉で無駄な時間を費やしたり、気分を害されたりしないためにも、止水栓は常備されていないものと考えて持参するにこしたことはない。
| 2004年09月16日(木) |
旅のノウハウ�◆Αμ崔呂離戰好� |
海外旅行の場合パスポートは命の次に大切なものであるとよく言われる。そこで落としたり、保管場所を忘れないようにと色々なグッズが考案されている。 古典的なものは腹巻である。腹巻だと腰回りが汗疹にやられるということから、網地の袋に紐をつけて首からぶら下げ下着と上着の間に隠しておくという方法もある。しかしこれは首周りに吊るす紐がのぞき、如何にも貴重品を首に吊るしていますよと宣伝しているようなものであり、感心しない。
最近よく見かける旅装に網地のベストにポケットの沢山ついたものがある。最近はこれを着用している旅人を多く見かけるようになった。だがこれも如何にも大切なものはここにありますよと宣伝しているようなものであり、その上に風采の上がらない姿である。ウエストポーチというのも愛用している人が多いようであるが、これも敵に貴重品の在り処を教えているようなもので頂けない。女性の場合はハンドバッグとか肩掛け鞄に仕舞っている人が多いようだが、これも敵に貴重品の所在を教えているようなもので甚だ危険である。上着の内ポケットに格納する人もよく見かけるがあまりいい保管場所とは言えない。
上記の保管方法は全て試してみたが、一番安全で使い勝手がいいのは下着用に造られた網地のベストの左右の胸にフクロの付いたものである。
これだと噎せることもないし、敵に物を見せないという点で一番優れている。ここへパスポートと大半の現金やカードを格納しておいて、小銭入れは上着のポケットなり、ウエストポーチなり使い勝手のよいところへ入れておけばいい。
要は敵にパスポートや現金の所在が表面から推測できない所に仕舞っておくというのが鉄則である。
| 2004年09月15日(水) |
旅のノウハウ� ΑΔ呂犬瓩� |
還暦と同時に会社を卒業し、約6年間世界各地をできるだけ多く訪問しようと考え、平均すれば一ケ月に一回の割合で五大陸の目ぼしい国々は訪問した。 アテネオリンピックへの参加国は204カ国だったから、世界の独立国の中には筆者のまだ訪問していない国が沢山ある。 それでもおよそ三分の一は訪問したことになる。まだまだ訪問したい国は沢山あるが、ここらで一休みして今まで訪問した国々の整理をしておこうと考えた。 この【鉛筆】の欄を借りて書き貯めてきた紀行記を発表してみたが前回で手持ちの資料は出尽くした。今後も見知らぬ国々を訪問したいという気持ちに変わりはない。体力と資金の許す限り旅は続けていきたいと思っている。
取り敢えず世界紀行記のシリーズを閉じるにあたり今までの旅で体験した旅のノウハウとでもいうべきものを思いつくままに日記の形式を借りて書き綴っていくことにする。
| 2004年09月14日(火) |
【石灰岩が削られてできた美しい白砂海岸が続き、珍しい動植物の棲息する国・・オーストラリア西�◆� |
朝早くホテルを出発してバスで長駆、ナンプング国立公園へ向かった。コアラがユーカリの木 の枝の上で寝ているところや、カンガルーやワラビーが餌をついばんでいるのを途中ヤンチェブ動物公園に立ち寄って見学した。
やがてナンプング国立公園に到着し、ピナクルズ では奇岩の建ち並ぶ砂漠を小一時間散策した。このような奇岩はもともと大きな石灰岩の岩の塊が雨風に晒されて、小さなひびが入り、そこへ水がたまり穴となり植物の根が入り込んで岩を長い年月かけて割っていくのである。岩質の弱い部分が雨風と植物の根によって次第に破壊され、削られて固い部分だけが残って現在の奇岩を形成するのである。「砂漠の墓標」との異名があるように墓石のような形をした奇岩がいたるところに林立している光景は壮観である。
ビナクルの観光を終えてランセリーという村の砂丘で四輪駆動のバス で砂丘下りをした。直径が1.5mほどもある大きなタイヤをつけた25人程乗れるこの車に乗り込むといきなり、勾配が45度位はあると思われる高さ20m位の砂丘の頂上から下り降りるのである。車は左右に大きく揺れるし乗客は悲鳴を上げるしでとてもスリリングな30分を楽しんだ。勾配のきつい急斜面の砂丘を急降下するので一瞬車が転覆するのではないかとの恐怖に襲われるが、そこはよくできていて車輪が砂にめりこむためスピードも自然に抑えられて乗客の悲鳴をよそに平地へ軟着陸するのである。
このあと一路パースの町へ向けて帰還したが往復600kmにも及ぶ長いドライブであった。
このドライブの過程で目撃した面白い光景は道路の交叉する十字路には必ずといっていい位に郵便箱がいくつも建ち並んでいる。この国では郵便屋さんは戸別に配達はしないで最寄りの道路に設置された郵便箱に置いていくのである郵便箱の設置者は自宅からここまでは郵便物を取りにこなければならないのである。流石広大な土地のあるオーストラリヤならではの光景であると感心したり驚いたりであった。
また道路沿いに生えている立ち木は過半のものがユーカリ科のものでその種類は600種にもなるという。そしてユーカリのように背の高い木もこの国ではブッシュと呼んでいるのである。
また行く先々でブッシュが黒く焼けた火事の後を何カ所も目撃した。これはブッシュファイヤーと称して自然発火して火事が起こり自然鎮火した後だという。ユーカリを初めブッシュは油分が多いので燃えやすく、朝露がレンズの役割をして自然発火は頻繁に起こるらしく、特別のことがない限り自然鎮火に任せるのがこの国のやり方なのだという。ブッシュファイヤーがないと林が活性化しないともいう。焼き畑農業のことを思い出させる光景であるヨセミテ公園でも山火事は自然鎮火に任せるのだという話を思い出した。日本との国土の広さが桁違いに大きい国ならではのことだなと思いながら説明を聞いた。
フリーマントル港から高速遊覧船で30分程のところにロットネス島はあるこの島は全周約40kmで面積1900ヘクタールの小さな島であるが、美しい海岸があり、西オーストラリア有数のリゾート地になっている。島の住民は200人で小学生は25人しかいない。
この島には大きな鼠に似たコッカという野生の有袋類の動物が約1万2千匹棲息しており手厚く保護されている。コッカ はカンガルー等と同じように後ろ脚が大きく前肢が小さいのが特徴的である。コッカを保護するため島にはペット類は持ち込めないし、自動車も乗り入れることができない。島に居住できるのはこの島の管理業務に従事する公務員だけで、営業店舗の従業者は本島から連絡船で通勤しているのである。
島の中を州政府管理の観光バスで周遊したが、白砂の長い海岸線 には水に戯れる行楽客が多数見かけられたし、エメラルドグリーンに輝く海の色はとても美しかった。しかも海面にはクルージングやセーリングを楽しむボートやヨットが沢山浮かんでいた。
フリーマントル港から高速遊覧船で30分程のところにロットネス島はある。この島は全周約40kmで面積1900ヘクタールの小さな島であるが、美しい海岸があり、西オーストラリア有数のリゾート地になっている。島の住民は200人で小学生は25人しかいない。 島の名前のいわれは最初この島へきたオランダ人がコッカのことを鼠と間違えて 「ラットネス」と呼んだのが転化して「ロットネス」となったと言われている。
この島には大きな鼠に似たコッカという野生の有袋類の動物が約1万2千匹棲息しており手厚く保護されている。コッカはカンガルー等と同じように後ろ脚が大きく前肢が小さいのが特徴的である。コッカを保護するため島にはペット類は持ち込めないし、自動車も乗り入れることができない。島に居住できるのはこの島の管理業務に従事する公務員だけで、営業店舗の従業者は本島から連絡船で通勤しているのである。 島の中を州政府管理の観光バスで周遊したが、白砂の長い海岸線には水に戯れる行楽客が多数見かけられたし、エメラルドグリーンに輝く海の色はとても美しかった。しかも海面にはクルージングやセーリングを楽しむボートやヨットが沢山浮かんでいた。風が強いので島には背の高い樹木はなく背丈の短いブッシュや草だけが繁っておりサイクリングやハイキングを楽しむ若者や子供達に何回も出くわした
この日はゆっくりホテルを出てコフヌ動物公園へ行きコアラを抱いて写真をとった この動物園ではカンガルー、エミュ 、カモノハシ、アルパカ、エギドナ(針鼠)、ワラビー等の珍しい動物を見学した。 パースは3カ月〜半年位のロングステイに適した街だと思う。 その理由は 1)治安がいいこと。 2)英語圏だから片言だが英語しか喋れない日本人にも言葉が通じるし、車が右ハン ドルであること。 3)気候が夏でも蒸し暑くなく空気が乾燥していて凌ぎやすいこと。しかも冬寒くな 4)都市の中心地に頻繁に無料の公共バスが運行していること。 5)物価が比較的安く年収280万円が平均的な生活であること。 6)住居が比較的安価に借りられること。
| 2004年09月13日(月) |
【石灰岩が削られてできた美しい白砂海岸が続き、珍しい動植物の棲息する国・・オーストラリア西� � |
オーストラリアの旅2 パース、フリーマントル、ピナクルズ、ロットネス島 2002年2月11日〜2月15日
最初キングスパークへ行った。パース市内を俯瞰できる場所にあり、眺めはとてもよかった。パース市内を東西に貫流するスワン川は市内ではとても川幅の広い川で湖かとの錯覚に陥る程の広さである。川向こうに建ち並ぶパース市内の高層ビルは新しいものが多い。ガラスの塔という鋭い穂先を持つ緑色の塔もパースのランドマークになっている。現地の人々はゴキブリタワー と悪口を言っているということだが、特徴のあるデザインはなかなか面白い。
キングスパークはディズニーランドの7倍もの広さを誇る広大な公園でユーカリの木が沢山植えられていた。ユーカリの木には600種類程も品種があるということでとても生命力の強い木である。この木が一本庭に生えると他の植木は枯れてしまう程の逞しさであるという。
次にモンガー湖へ立ち寄ってこの西オーストラリア州の州鳥「ブラックスワン」 を見学した。カンガルーも何頭か目撃することができた。西オーストラリアでよく見られるカンガルーにはグレイカンガルーと赤カンガルーとがあるということであるが、モンガー湖で目撃したのはグレーカンガルーであった。
カンガルー は哺乳類・有袋目・カンガルー科の草食性動物であり、オーストラリアタスマニア、ニューギニアにしか棲息していない。胎盤がないため胎児は受胎後約二週間程で体長約2cm位の大きさで生み落とされるが、前肢の鋭い爪で母親の母嚢のなかに入り、乳頭に吸いついて受乳しながら生育する。又有袋類の動物でコアラ、コッカはこの国だけのものであり、特に珍しい動物ではカモノハシがある。この大陸だけでしか見られない動物達が沢山棲息していて珍しい。
地質時代の古生代ペルム紀(約2億8千万年前〜約2億4千万年前)から中生代ジュラ紀(約2億年前〜約1億4千万年前)にかけてゴンドアナ大陸というのがあって現在のアフリカ大陸、インド半島、オーストラリア大陸は地続きで南半球に広がる一つの大陸であったと考えられている。それが相次ぐ地殻変動により次第に姿が変わり凡そ3万5千年前の氷河期にオーストラリアは分離して孤立化し現在の大陸の形が出来上がった。
その後約1万5千年前に原住民のアボリジニが東南アジアの島々で僅かに繋がっていた元のゴンドアナ大陸から島伝いにこの地へ歩いて渡ってきたと考えられている。その時アボリジニはデインゴという犬に似た動物をペットとして連れてきたらしい。それ以来、海に遮られてオーストラリア大陸へは外部から動植物が入ってこなくなり独特の進化をとげ現在見られるような他の大陸では見られない珍しい動植物が棲息し繁茂しているのである。 そのような事情もあって、この国では他の大陸では見られない珍しい動植物の種を保護し保存するため、外敵となりうる外来種の輸入に対する規制には大変厳しいものがある。
一例をあげれば、観光客が入国するに当たっても食品類の持ち込みは大半のものが禁止されている。食品に付着して入ってくる種子や菌等がこの大陸の植生に悪影響を及ぼすことを極端に警戒するからである。例えば米について言えばこの国にも市場に米は流通しているが、これは農産物としての米を輸入したのではなく、厳密な検査を行った上で輸入した種子をこの地で育成栽培した自給農産物なのである。日本の「越ひかり」に品質的にひけをとらない「オーストラリア産越ひかり」が日本の十分の一位の価格で販売されている。
入国の時、空港では必ず携帯品の申告をしなければならないが、見ていると日本人観光客は殆ど全員が携帯荷物の内容物について逐一、厳密に個別検査されている。それに対して欧米人観光客は自ら食べ物を提示して簡単に検査を終了している。
日本人観光客に対してだけ何故検査が厳しいのかと現地ガイドに聞いてみると、日本人とオーストラリア人の国民性や精神風土、習慣の相違を際立たせる話を聞かせてくれた。
それは提出する書類の中に「食べ物を持っていますか」という質問項目があるが、過半の日本人は「ノー」にチェックをつけるという。そして署名欄には機械的にサインをする。
実際に荷物の内容を検査してみると「煎餅」「海産物の加工食品」等の所謂ビールのつまみや飴玉やスナック菓子のような食べ物が必ず出てくるのだという。指摘されると「入れていたのをうっかりして忘れていた」等と言い訳をする。
オーストラリア人の検査官に言わせれば「あなたが携帯した食べ物は火が通っていて包装もしっかりしているから持ち込みは認められますよ。何故正直に申告しないのですか。何故持っていないと嘘をつくのですか。サインをしているではありません か」ということになる。日本人のこのような性癖を最近の検査官はよく理解しているから「食べ物は持っていません」と申告した日本人観光客の携帯荷物は必ず開けて内容物を逐一検査をするようになったという。 「食べ物を持っています」という欄にチェックをして申告した人に対しては「食べ物はどれですか」と提示を求め、申告した食べ物を検査するだけで他の内容物の個別検査はしないで通すことが多いという。
契約社会における「サインの持つ意味の大きさ」や「自分の証言に対する責任」を重視するオーストラリア人と「この程度のことなら誰でもやっていることで、嘘も方便だ。嘘でも百回つけば真実になる」と考える日本人の精神風土の特異性や物の考え方の相違を気づかせられる話であった。
最近話題となった、或るNGOのアフガニスタン復興会議出席拒否問題を巡って発生した外務大臣と族議員との間の「言った、言わない」論争も案外こんなところに共通の根があるのではないかと一人思いを巡らせていた。
スワン川下流の港町フリーマントル へ行った。この町は1830年頃からパースの外港としてヨーロッパからの入植者達によって開拓された町であるがイタリアからの移民が多い。レストラン等もイタリア式のものが多く、美味しいエスプレッソを飲ませる店もあった。
この町は各国の南極探検隊の最後の補給基地としても有名である。海岸には大きなクレーンが林立し、広大な敷地には荷揚げされたコンテナーや船積みを待つ荷物が幾重にも積み重ねられていた。
ここでは岸壁に建てられたラウンドハウスという小麦倉庫を見学した。今は歴史的な記念館となっていて建物だけしか残っていないが、倉庫の部屋は監獄として使われたこともある。また建物の中央部は横穴があいたような作りになっているが、これは昔、鯨を海から引き上げてこの穴のあいた場所で解体作業をやったのだという。
パースでもここフリーマントルでもそうであるが、市内には無料の公営バスが頻繁に往来しているし、町並み自体は美しく整備されていて如何にも裕福そうな市街地を形成している。そして治安は非常にいいので女性が夜中に町中を一人歩きしても問題は起こらず安全だという。
また西オーストラリアでは日本よりは物価が多少安く、平均的な年収は280万円程であるという。
西オーストラリアの海岸は石灰岩が削られてできた白砂の美しい海岸が多く海の色はエメラルドグリーンに光っていてとても美しい。しかも盛夏だというのに湿度が低く空気が乾燥していてとても凌ぎやすい気候である。海から吹き上げてくる風が強く肌に快い。老後ロングステイをするには適した町だなとの印象を受けた。
| 2004年09月12日(日) |
【湯煙たなびく牧羊の国、移民の国・・ニュージーランド�◆� |
昨夜泊まったホテルを朝早く出発してフッカー谷のトレッキングのため、マウントクックビレッジのヘリテージホテルへバスで移動した。このホテルのある村はマウントクックへ登山するための基地になっていて標高は七六0mである。日本人の若い男性ガイド二人が大きなリュックサックを担いで我々のグループが到着するのを待っていた。生憎雨が降っており、夏とは思えない程の寒さである。この地は国立公園になっていて樹木の伐採や植物の採取は禁止されている。また公園管理者及びガイドとその家族だけしか居住できない定めになっているし、新たな建造物の建設も禁止されているそうである。人間が入り込んできて環境が破壊されることを防止するための措置であるという。原生林をそのままの状態に維持するために今では国を挙げて取り組んでいるのである。
小雨がそぼ降る中をバスでホッカーバレーのキャンプ地まで運んで貰い、ここからU字谷の砂利道を登ったり下ったりして、左右にモレーン(氷河で押し流され堆積してできた小高い丘)を見ながら、ミューラー湖の岸辺にフッカーズ氷河 の先端が迫っているところまでトレッキングした。往復約二時間の距離であったがマタゴオリと言われるトゲの生えた原生植物やワイルドスパニッシュ等の植物の説明を受けながら、途中フッカー川にかかる吊り橋を恐る恐る渡って目的地まで到達した。今はマタゴオリやワイルドスパニッシュと呼ばれる原生植物は保護しなければならないほど少なくなっているがこの地へ初めて人間が調査に入った頃には密度濃くマタゴオリが繁っていたしかし入植した村人達が原生林を伐採して薪にしたため現在のような見る影もない姿になったのだという。
フッカーズ氷河は一見砂利の集積した河原にしか見えない。然し説明されてよく見ると、河原の所々に逆三角形の形をした白い割れ込みがあるのが判る。これが氷河の先端であって、白く見えるのが氷なのだ。この地の氷河は長い年月をかけて地下に潜り込み土石を下流に流していくのであるが、地球の温暖化の影響を受けて一部が融けだし、今我々が逆三角形の白い形として観察しているのである。ノルーウェーで見学した氷河の先端は十数mの高さにも及ぶあたかもビルデイングの如き氷の壁であったが、ここでは河砂利の下に僅かに顔を覗かせているだけの氷河であった。同じ氷河と言っても場所が違えばこのように違うものかとの思いで一杯であった。
フッカーズ氷河の見学を終え、再びテカポ湖畔の「羊飼いの教会」まで戻ってくると丁度日本人同志の結婚式が行われており、花嫁が父親に腕を預けてバージンロードを行進しようとしているところであった。
翌朝九時にオークランド のホテルを出発してロトルアへ向かい、途中パームスプリングという場所で羊の毛刈りショーを見学した。ショーは羊の群れを巧く柵の中へ追い込む牧羊犬二種類の実演と羊の毛をバリカンで素早く刈り取る実演が行われた。三八秒で一匹の羊の毛を一本も残さず刈り取り、しかも羊の体に切り傷一つもつけないその手際よさには感心したものである。
ロトルアではテ・ワカレ・ワレア・タンガオ・テ・タウア・アワヒ・アオという舌を噛むような名前の国立公園で 間歇泉の噴出する状況を観察した。ここはもともと先住民であるマオリ族の人々が温泉の湧き出る神聖な土地としてその領有を争った所である。今は屈指の観光地として賑わっており、この柵で囲われた公園の中にはマオリ族の装飾を施した神聖な集会所も設置されている。公園の中ではマオリ族の女性が龍舌蘭の葉に似たフラットと呼ばれる植物繊維で民俗衣装を織る実演をしている。この夜は民族舞踊を鑑賞後温泉に入り気分よく盃を重ねたので酔いも廻って快眠を貪った。
翌朝は最後の観光地ワイトモへ長駆バスドライブである。ここでは蠅の仲間であるグロー・ワームが光を発する所を鍾乳洞内で観察した。この虫は昆虫や虫を捕獲して食べる習性があり、獲物をおびきよせるために光を発するのである。このグロー・ワームは学名アラクノエアンパルミノサと呼ばれ通常「土蛍」の名前で知られている。湿気が多くて餌も豊富な、そしてぶら下がることの出来る岩壁があるところに生息している。土蛍は粘液とシルクで空洞のチューブ状の巣を作り、シルクの糸でこれを洞窟の天井に接着する。巣の下には釣り糸の役割を果たすねばねばした粘液でコーティングされた二十〜三十本の糸がぶら下がっている。これに吸着された虫を捕らえて餌にするのである。
洞窟の中の池にはボートが用意されておりこれに乗って約五分間、真っ暗な中を声をださないようにして就航し、天井に光輝いている土蛍の発光を見学する仕掛けになっているのである。暗闇の中で天井に無数に光輝いている有り様はまさしく幻想的なパノラマの世界であり、星空よりも密度濃く土蛍が瞬きもせず静かに光っている。
このあとニュージーランドでしか見られない夜行性の飛べない鳥キウイ が真っ暗な飼育場で飼われているところを見学することもできた。この鳥は光や物音に敏感なため、撮影禁止となっており、明るい所では剥製でしか見ることができない。
| 2004年09月11日(土) |
【湯煙たなびく牧羊の国、移民の国・・ニュージーランド� � |
湯煙たなびく牧羊の国、移民の国 ニュージーランドの旅 クライストチャーチ、ホッカーバレー、ロトルア、ワイトモ 2000年2月11日〜2月17日
二月十二日オークランドで乗り継ぎクライストチャーチへ到着した。機上から俯瞰すると樹木の生えていない山が多い。山並みの北側と南側では樹木の生え方が違っている。北側で濃度が濃く南側で薄い。これは太陽が北側を通るせいであろうか。南半球だからこその植生である。一瞬焼き畑かと紛うほどに黒く見える箇所がある。これは松や杉などの針葉樹が植林されている場所である。
クライストチャーチでは美しい花の咲き乱れるモナ・ベイル邸 を見学してから、次に標準的な市民の実生活を見学するため、郊外にあるフォーリー・キーズ氏夫妻の邸宅を訪問した。紅茶と手作りのお菓子・スコーンを御馳走になった。この家の主人は鍛冶屋さんということであるが、ガーデニングが好きでおよそ三百坪ほどもある敷地には二階建ての邸宅と物置や作業小屋、鳥小屋が建っており庭の一部百五十坪程の所には芝生が植えられていた。芝生は綺麗に手入れされていて雑草一本も生えていないし、周囲を取り囲んで植えられている色々な種類の庭木の手入れもよく行き届き、その下には色とりどりの花が咲き乱れていた。家の壁という壁には花の入ったバスケットが吊るされていて今を盛りと沢山の花が咲いていた。敷地内には五坪程の子供用水泳プールもありこれは手作りであるという。ガイドの説明によればニュージーランド市民の平均的な住まいは百二十坪位の敷地に三つのベッドとダイニングルーム、リビングルーム、キチン、風呂場、手洗いのある一戸建ての家が千二百万円程であるというから、訪問したこの民家は標準以上の住まいということになるのであろうか。
クライストチャーチはカンタベリー協会が1850年にイギリスからの移民船四艘で派遣した八百人が入植して開いた町である。そのリーダー達の出身校がオックスフォード大学クライストチャーチカレッジだったことからこの町名が決まった。彼らは故郷を偲んでイギリス風の町作りをしたので、主要な通りにはオックスフォード通りとかケンブリッジ通りとかイギリスそのものの名前がつけられている。
大聖堂 はこの町のランドマークともなっておりゴシック様式の美しいイギリス国教会の教会である。教会を中心とした広場は町の中心になっている。クライストチャーチの中心部には全長二千五百mの長方形のルートを走るトラムと称する路面電車が走っており町並みを鑑賞するには恰好の乗り物であり、観光客の人気も高い。我々も翌朝、始発のトラムに乗って一周し町並みを見学した。運転手や車掌ものんびりしていてエイボン川にかかる橋の近くの乗り場では停車中に電車から下りて川の中に鰻がいるかどうかを観察したりしている。乗客達もぞろぞろ降りだして運転手の視線の先を追ってみたりしている。この間約十分、なんとものどかな光景である。
トラムの停車地点で観光ポイントの一つアートセンタ ー横の広場には工芸品や骨董品の青空市場がたっており多くの観光客が掘り出し物を物色していて楽しい場所であるし、周囲に立ち並ぶ歴史的な建物群はイギリス風の景観を呈しており落ちついた雰囲気が漂っている。パステルカラーの店が軒を並べるニューリージェントストリートにはブティックや装飾品店やレストランが立ち並んでいて買い物客で賑わっており、おしゃれな感覚に溢れている。
この市は別名ガーデンシティとも言われる程沢山の美しい公園をもっている。その公園の一つハグレー公園は一八二ヘクタールもの広大な広さを持ち東京ドームが三八個も入ってしまうほどの大きさで公園の中には一八ホールのゴルフ場まで備わっている。来る二月十八日からは花フェスティバルが開かれる予定になっており、公園ではその時開かれる彫刻展に出品するために最後の仕上げをしている数多くの芸術家達が熱心に鑿をふるっていた。トラムの通る通りにはその日のための絵がアーティスト達によって思い思いの題材で路面に描かれていた。昼食に日本料理を食べてから次の宿泊地テカポ湖へ向かった。
クライストチャーチの郊外へでると間もなく広大な緑豊かな平野が広がっており、夥しい数の羊が放牧されていてのんびりと草を食んでいた。牛も沢山放牧されており色は黒、茶、黒と白のまだらとさまざまである。馬も放牧されているし意外に思ったのは鹿の群れがやはり放牧されていることであった。鹿も食用に飼われているとのことである。
通り抜けたカンタベリー平野はニュージーランドの穀倉地帯であり、その広さはニュージーランドの平野部分の四三%を占めるというが、入植は一八六四年に始まり荒蕪地であった所を開墾し、樹木や牧草を植えて今日の緑豊かな平野に変貌したのである。この一帯の農家は牧畜と農業を兼業する混合農家と言われており約三万六千軒あるということである。三時間ほどものどかな田園風景を楽しみながらバスドライブを続けるうちにやがて正面に湖が見えてきだした。テカポ湖である。この湖は約二万年前の氷河から融けだした水でできた氷河湖である。湖面は碧色に光輝いており、畔には小さな教会も建っている。
| 2004年09月10日(金) |
【ワーキングホリデーの若い日本人・・オーストラリア�ぁ� |
平成10年8月23日(日) 関西グループはシドニーへ向かうので朝、ホテルで別れて、我々は難度3〜4のターリーリバーのラフティング に向かった。現場へ行く前にターリーカントリークラブへ立ち寄り、ティータイムを取ったが、食堂ではラフティングのビデオを放映していた。どのような遊びなのか、不安に思っていたので食い入るようにして、これを見るとゴムボートから水中へ落ちたり、転覆して大騒ぎしている場面が頻繁にでてくるではないか。思わず、緊張感が背筋を駆け抜ける。最初は履いていった靴のまま挑戦しようとしていたが、靴は必ず濡れることが分かったので、レンタルの物を借りることにした。眼鏡も外したほうが良さそうなので不自由だが、外すことにした。
ライフジャケットを着用する前に、皆に倣ってナイロン制のシャツを着用しようと探したが、いずれも馬鹿でかくて体にあいそうもないので、海水パンツ一枚の裸で、挑戦することにした。後で考えて、転落したとき岩肌にぶっつかった時、肌を露出していると擦り傷ができるのではないか等と不安感がよぎっていく。サイズが合わなくてもぶかぶかのものでも着用すべきだったかなと反省するが、もう遅い。
同じゴムボートに乗っているのは、石村夫妻、安田夫妻、見知らぬ若い日本人女性の二人連れと私と日本人ガイドの馨君で計八人である。
乗船前に指輪、イヤリング、眼鏡は危険だから外すようにと説明があったにもかかわらず、私の真向かいに乗った女性は宝石のついた指輪を外していない。これに気がついた私が指輪を外してないではないかとクレームをつけると「外れることはないから大丈夫ですよ」と平気な顔をしている。むしろ文句を付けられて不愉快だという顔をしている。私が問題にしたのは、激流でボートから投げ出される時などに、相手の顔に指輪の石が当たって大怪我をさせる場合のことを心配したのである。彼女にはその視点はなく、指輪が無くならなければ良いという視点しかないのである。プレイ中は一種の運命共同体を形成する仲間に対して、危害を加えることになるかもしれないという視点が抜け落ちているのである。たかが遊びで、言い争いをするのも大人げないと思ったので、黙認したが、世の中には、これに類した自分の都合だけしか考えていない行動が如何に多いかということの一つの証左でもある。 多少のオリエンテーションがあって、いきなり流れに漕ぎだした。ボートから落ちないように、また転覆しないようにと、緊張した動きが続く。ボート部で鍛えた経験から、全員のパドルの動きが一致していなければボートは転覆すると考えてイチニ、イチニの号令をかけたが、途中からキャッチ、ロー、キャッチ、ローに切り換えてボートの動きを仕切った。お蔭で、一度も転覆することなく、幾つかの急流を乗り切って行くと次第に慣れてきて緊張感はなくなってきた。そのうちいつしか、号令をかけるのも馬鹿馬鹿しくなってやめることにした。 暫くしてこの遊びに慣れてくる頃には、船も下流にさしかかり、激しい流れの急流も少なくなった。安全上の問題がなくなったので、同乗のガイドはわざと企んでボートを転覆するように仕組んできた。見事転覆して、私はボートの下に沈んでしまった。暫く真っ暗なボートの下でもがいてから水中深く潜り、ボート下から脱出して水面へ首を出すことができた。多少慌てていたのでしたたかに水を飲んでしまった。今日のラフティングはスリリングで面白い体験であった。わざとボートが転覆するように仕向けたのも、オーストラリヤ人が「観光は個人の楽しみのため」「楽しみはスリリングである程、思い出に残って又、来たくなる」というコンセプトを実地に演出してくれたのではなかろうかと理解している。 帰りのバスの窓から外の景色を眺めていると、山々の立木が見えるだけで、人家や人工の物は一切目に入らない。送電線すら見当たらない。旅行の最終日になって、折りにふれ感じていたことを纏めれば、次のようなことになろうか。
第一に、自然環境を非常に大切にしている国だということ。これは外国から、穀物、動植物などの食糧品を持ち込ませないという政策を堅持していることからも読み取れる。他の大陸と違った生態系を持つ豪州は、上記のような政策を堅持することによってのみ、この国独特の生態系を保護することができるからである。
第二に、観光立国として生きていこうとする国であること。私が参加した遊びは、乗馬ブーメラン投げ、パラセーリング
シュノーケルを着けての遊 泳、ラフティングであるが何れも、本文中で触れたように「観光は個人の楽しみのため」というコンセプトが確立されており、プロモートする側においても徹底されているのである。これが、ホスタビリティーとして日常の接客行動に現れてくるように思える。 これはハワイでも感じたことであるが、観光客に気軽に挨拶の言葉をかけてくることにも現れているように思える。
第三に、若い日本人男女が、ワーキングホリデイ制度を使って、到る所で活躍していることである。気候的にも風土的にも日本の若者を魅きつけてやまないものがこの国にはあるということである。
第四に、海岸を散歩していて、ビニール袋や空き缶、空きビン、煙草の吸殻、紙屑が全然見当たらないことである。朝の海岸の散歩で気のついたことであるが、まだ暗いうちから備え付けのごみ箱のごみを集めて廻っている市民の姿を目撃した。最初は市の清掃局員だろうとなにげなく考えていたが、服装や人品骨柄から判断するとどうもそうではなさそうである。見たところボランティアのようである。英語力があればその辺も確かめられたであろうが・・・・ 公共の施設を大切にし且つ綺麗に使うという公徳心が市民全員に堅持され、実践されているのであろうか。 1998年8月27日記
| 2004年09月09日(木) |
【ワーキングホリデーの若い日本人・・オーストラリア��】 |
平成10年8月20日(木) 昨夜は全員揃って顔合わせの夕食 を楽しんだが、今日は全員揃っての朝食である。いつもの習慣で5時には目が覚めてしまう。散歩にでる前に湯でも沸かしておこうと用意をしていると中山氏が起き出してきて、今朝はにぎり飯を作ろうということになった。真空パックされたご飯の袋の説明を読むと袋に穴を3個ほど開けてから電子レンジにかけるようにと書いてある。熱湯で調理する方法もその下に書いてあるが、生憎値段表が糊張りされていて説明文がよく読めない。レンジが2分で湯炊きが15分だということも分かっている。加熱されるから中の空気を抜く為に穴を開けるのだなと理解して、レンジと湯炊きは調理時間の相違だけだと判断して、袋に穴を開けて調理を始めた。加熱されて空気が膨脹し爆発する危険のことだけにとらわれていた。炊きあがった頃、夫人達が集まってきてお握りを始めた。見ているとどうも様子がおかしい。ご飯が柔らかくてお粥のようだと言っている。そこではたと気がついた。穴を開けたから水が外から入り、お粥になったのだ。レンジの時は水が入る心配はないから穴を開けるが、湯炊きの時は水が入るから穴は開けない。子供でも分かる理屈である。寛大なメンバーのお蔭で嫌な顔一つ見せないで、食べて貰えたが、恥ずかしい体験であった。 キュランダ行きのガイドも昨日と同じ会社の松原という、これまた若い女性である。彼女は学生時代英国で一月程ホームステイをしてから英会話力を養い、卒業後高校の英語の教師になったという。夏休みに語学研修で学生を引率してオーストラリヤに来たが、魅力に取りつかれてしまったらしい。責任を果たすために担当学年が終了する三月を退職の時期と定めて、豪州移住の準備を進めたという。出身は名古屋地方の多治見市の老舗のタイル屋の娘らしい。現在ケアンズ市内にアパートを借りているが、ベッドルーム二つと居間台所、風呂と便所がついていて週当たり2万円の家賃だという。彼女の話ではオーストラリヤは電化製品は高いが、食料品は安いし、特に野菜類が豊富で安いので生活はしやすいということである。キュランダへはスカイウエイを六人乗りのゴンドラで熱帯性密林を上から眺めながら、四十五分の行程でキュランダスカイウエイ駅へ到着した。
マーケット、バタフライサンクチュアリ ーを見学した後、
アポロジニの槍投げ 、
笛吹き、民俗踊りを 見学した。
ブーメランも投げたし、コアラを抱いて 記念撮影もした。東南アジアの島々から遠い昔、先祖が渡ってきて住み着いたらしいが、体中に白い泥で模様を描いて、腰に布切れを纏っている姿はパプアニューギニアの住人とあまり変わらないのではないかと思ったりした。
彼らアボリジニは、先住民として固有の文化を持ち、大自然の中で慎ましく平和に暮らしていた筈なのに、大航海時代にヨーロッパ人が押しかけてきて、土地を奪われ、虐殺され、辺境に追いやられて、絶滅の危機に晒されながらも、生き長らえて、今観光客の前でかつては生存手段であった槍投げやブーメランの術を、芸として披露し生活の糧を得ているのである。このようなことを考えると民族の消長、文明文化の発展、停滞と進歩等ということについて思いを致さざるをえない。日本民族は今飽食の時代を謳歌し、世界中到る所に進出して繁栄しているが、地球の温暖化と食糧問題はやがて近い将来、必ずや人類滅亡の兆しとなって現れてくるのではなかろうかという予感がする。
帰りは電車に乗ったが、長時間窓際に熱帯性密林の木々を眺めながらの道中はいささか飽きがきた。 斎賀氏は夜、毎日カジノへ行って遊び、明け方2時頃帰ってくるらしい。丈夫なものである。 平成10年8月21日(金) 朝、6時半にホテルを出てタクシー1台でパラダイスパームゴルフクラブ へ行った。宇津呂弁護士の教え子にあたる中野弁護士がアレンジしてくれたゴルフ場である。中山、安田、中野の3人がスタート続いて猪原、大熊、斎賀、石村の4人がこれを追うという形でプレーは進んだ。貸しクラブのため、ちょっと短い感じがしてボールの頭ばかりを叩いて、飛距離がでない。3ホール過ぎたころからやっと感じが掴めるようになったが既にそれまでに大きくスコアを崩して、落ちつく先が目に見えたようだ。軽井沢で調子の良かった石村氏も調子がでないようだ。結局、私は58と60で散々な目にあった。只一つ最終ホールで十メートル位あるパットを一打で沈めてボギーにしたのが自慢である。 ゴルフ場のテラスで昼食をとりながら雑談していると、肌に吹きつける風が心地よい。中野氏の現地事情の話を聞いていると時間が経つのも忘れてしまうようだ。ケアンズという街は日本の大京観光がリゾート地として開発してから俄に発展した街のようで、現地に生活する農民や漁民にとってはある日突然、棚からぼた餅が落ちてきて、あれよあれよという間に生活水準が向上し、観光客が押し寄せるようになっていたということのようである。それだけにインフラが十分でなく、東南アジアと日本の不況の影響を受けて、日本人観光客が減り、経済的にも苦境にたたされているらしい。街中には貸家、空き家のビラがあちこちに散見された。
ゴルフは、午前中に終わってしまいホテルへ帰ってからは自由行動ということになったので、洗濯をしてからホテルのプールで水泳をした。女性達は蟹食べ放題ツァーに参加して、既に帰宅していた。夕食は中野弁護士推奨のイタリアレストラン(ビアマーケットの2階にある店)でスバゲッティーとピザにワインをとって全員で会食した。
| 2004年09月08日(水) |
【ワーキングホリデーの若い日本人・・オーストラリア�◆� |
平成十年八月十九日(火) 昨夜は十時を廻ってしまいレストランも閉まってしまったので、パンやバナナで夕食を済ませた。 朝五時過ぎには目が覚めてしまった。湯を沸かしておいて洗面後、ビデオカメラを肩にして、海岸通りへ出てみた。大きな合歓の木の下は芝生になっており、これを通り抜けると海岸へ出る。海岸には歩道が舗装されており、既に現地の人達が老いも若きもそれぞれにショートパンツで走ったり、歩行したり、犬を歩かせたりしている。満潮時らしく海面は上がり、静かに波打っている。ホテルの直前の浜は礫石だらけである。マングローブが密生していたところを切り拓いて浜にしたらしい。左手前方にマングローブ林が見えているので、とりあえずそちらへ歩いていこうとすると、丁度右手前方の山に光がたちはじめた。日の出である。手前の海岸線から視線を前方に投げやると、さざ波のたっている海面の向こう側に濃紺に黒みがかった山並みが横たわっている。上空にはつい先程まで明けの明星が一際大きく、光彩を放って輝いていたのに、いつの間にか姿を消して、空に三条、山に二条、橙色の光の帯が輝やき始めた。空は朝焼けで朱色に変わり、山並みの色を紫色から次第に緑色に変えていく。日の出前の色の変化は実に素晴らしい。あっという間の変化である。日輪が円形の姿を現したのは六時五十分であった。眩しくてまともには目を向けられないが、ビデオカメラのファインダーから眺めていると、瞬時の太陽の形の変化を観察することができる。 日の出をビデオカメラに収めて歩きはじめると、顔を合わせた外人がグッドモーニングと声を掛けてくる。概ね若い人達は黙っているが、年配の人は必ずといってよいほど声を掛けてくる。今度は行き違う外人にこちらから、グッドモーニングと声をかけてみる。すると必ず例外なしにグッドモーニングと返ってくる。それだけでも気持ちが清々しくなってくる。 帰国して、届いていたESSの会報を見て知ったことであるが、オーストラリアでは観光振興には力を入れており、特にタウンズビル市の観光振興団体のリチャードバワー局長は「観光のポイントは一度来た人にまた戻ってきて貰うこと」として、そのためには土地の人々が時間にして3分でも、1分でもよいから観光客に話しかけることを提唱して市民運動を展開しているという。外人は一般に、気軽に挨拶をするという習慣があるように思っていたが、散歩の途中で行き交う人々に朝の挨拶の声をかけるのは、市民運動の一つの現れだったのかもしれない。
散歩をしていて挨拶をかわすことの素晴らしさを感じたことは前にもある。昨年は、一年間、京都市内の五条烏丸近くのマンションに住まいして、毎朝、五条大橋から北へ鴨川の河原を夜明けと共に歩きだし、荒神橋に至ってから折り返すことを朝の日課としていたのであるが、自分が能動的に挨拶をしかけるとどういう反応が現れるか実験してみたことがある。こちらから挨拶をすると先ず間違いなく、九十%の人は挨拶を返してくる。残りの十%の挨拶を返してこない人は決まって若い人である。そして特に、若い女性である。日本は治安の良いことでは世界でも指折りの国であるが、それでもたまには女性の一人歩きが事件に巻き込まれるということがあるので、若い女性は安全確保の観点から、当方の挨拶を無視するのであろうと理解していた。この傾向はケアンズでも見受けられた。若い女性はこちらの挨拶に対して、無視していく人が多いのである。変なオジサンではないというのにッタクモウ! 遊歩道の終点であり、且つ出発点でもある舟形の建物の中では、十人ばかりの人が集まって、宗教儀式めいた行為をしているのを目撃した。登る朝日を背後にして太陽エネルギーを体内に取り込んでいるような仕種がみられた。ビデオカメラで撮影していることがわかると、司祭者らしい太った白人女性が視線を投げかけてきてニッコリ微笑んだ。私も右手を挙げて挨拶を返した。浜辺のベンチでは若いカップルが男の膝の上に女が馬乗りになり、朝から熱いキスで夢中になっていた。カメラを向けるのも悪いような気がして、海浜で餌を漁る白い鳥の群れを撮影しながら、ついでにカメラを素早く回して瞬時、盗み撮りをした。
ホテルへ帰ると皆起き出してきて、朝食の用意を始める所であった。昨日のスケジュールの打ち合わせではオプショナルツアーに参加する費用として乗馬75$、キュランダ観光150$、グレートバリアリーフ観光140$、ターリーリバーラフティング128$と計493$必要となる。しかし、成田では300ドル程度しか両替していないので、現地通貨を調達する必要がある。そこで皆で、市内へ出掛けることにした。フロントへ立ち寄ると関西組の中山夫妻と斎賀氏が到着したところであった。
シティバンクのキャッシュカードを持参しているので、能書き通り、この カードで現地通貨を引き出せるのか実験をしてみたかったが、なかなかシテイバンクのATMが見つからない。用意してきた日本円を両替して貰う方が手っとり早くてよいかなと考えながら歩いていると、案内書にも紹介されているトーマスクックという交換率のいい店を発見したので、ここで両替してもらい、マーケットで食料品を購入して帰った。午後から、迎えのバスで乗馬に出掛けた。 初めての乗馬 なので、どんなことになるか心配であったが、若い日本人女性や男性がいきいきした顔で働いているので、内心言葉の問題で悩まなくてもいいなとホットした。最初馬を与えられて、騎乗してから日本語でガイドからたずな捌きの説明があった。幾つかの馬にたいする命令が、たずなの扱い方によってなされることが説明された。見本も示された。一通り説明を受けたが全部覚えているかどうか覚束ないところがある。もう一度復習してくれるといいのだがと思っていると、そのあといきなり、隊列を組んで歩行の開始である。林の中の坂道を上がったり下ったり、身の丈以上もあるブッシュの中を草を分けながら進んだり、川を渡ったりと初心者に対していきなり、実地の体験をさせるのである。軽い駆け足をしたときには、尾てい骨の皮が擦りむけるやら、落馬しやしないかと必死に鐙を踏みしめるやらで、まことにスリリングな体験であった。ここでまたオーストラリヤ人の観光に対するとらえ方の違いをはっきり感じた。 観光による異文化の理解ということもさることながら、「観光は個人の楽しみのため」というコンセプトが観光する人の側にもプロモートする側にも徹底しているということである。日本であれば、安全対策がどうの、訓練期間がどうのという問題が発生して、今回の乗馬のように手軽には楽しめないのではないかと思う。楽しむためには観るだけでなく参加することである。この当たりの基本的な認識の違いがあるのではなかろうか。ここであるソフトハウスの社長が言っていた、楽しいレジャーの要件を思い出した。その一は、ある程度の危険が内包されていること。その二は、ある程度金のかかること、そして最後に自分の技術力でコントロール出来ることというのであるが、核心をついている卓見だと思った。
帰りのバスの中でワーキング・ホリデイでオーストラリヤに滞在している大学生の男子と隣合わせになったので聞いてみると、彼はこの牧場で働くかどうかを決めるために今日は現地見学にきたというのである。たまたま、近く契約終了で牧場を去る日本男子の後任として人を募集しているのを知って応募してきたというのである。カナダやタイ等で放浪した経験があるらしい。労働条件は宿泊所と三食を提供されるだけで、賃金は支給されないから小遣いと交通費は自己負担であるとのことである。彼らの主たる狙いは英会話が堪能になることと異国の文化を肌で感じ、変わった体験をすることにあるようである。それにしても若い日本人男女が溌剌として働いている姿は逞しいの一言に尽きる。
夕食はピアマーケット内のハーバービューという中華料理のレストランで会食をしたが相対に旨い味付けであった。焼き飯、焼きそばの味が特によかったようだ。
| 2004年09月07日(火) |
【ワーキングホリデーの若い日本人・・オーストラリア� � |
オーストラリアの旅1 ケアンズ、キュランダ、アウター・グレート・バリアリーフ 1998年8月18〜8月24日 毎年盛夏に、軽井沢で六友会のゴルフコンペが行われ、王領地にある宇津呂弁護士の別荘に集まって大学時代の仲間達が旧交を温めるのが恒例となっている。昨夏の例会後の楽しい団欒の中で、来年の夏には、オーストラリヤのリゾート地ケアンズに夫婦同伴で行って、ゴルフをしたり魚釣りをしたりして楽しもうではないかという提案が斎賀氏よりなされた。斎賀氏はケアンズへは何回も訪れ、ゴルフをしたりカジノで遊んだりして最も気に行っているリゾート地の一つであるという。オーストラリヤには行ったことのない人が殆どで、この提案は直ちに受け入れられた。メンバーの一員である中山氏が幹事役となり、日通旅行社を通して諸事万端遺漏なく、準備は進められた。また宇津呂氏や同氏の後輩である現地滞在の中野弁護士にも今回の旅行の計画実施には随分お世話になった。冒頭に当たり、先ず中山氏、宇津呂氏、中野氏に深甚なる感謝の意を表明したい。 さて、平成十年八月十八日(火)はケアンズへ向けて出発の日である。朝六時半に自宅を出て、綱島駅まで車で送って貰ってから、YCATまでたどり着いたが時間的にはぎりぎりであった。家をでてからYCATまでは、一時間を見ておく必要があることが分かった。横浜駅まで携帯ラジオで英会話を聞きながら行動したが、電車の中では雑音が入ってなかなか聞き取り難い。ラジオで英語の勉強を始めてから二週間程経ったところである。還暦を迎えて、物覚えが悪くなってきているのを自覚しておりながら、英語の勉強に挑戦したのは三つのことが契機になっている。一つは、昨年末から年初にかけて二週間ハワイへ、大学のボート部の旧友達とOBクルーを編成して、遠征し国際試合に出漕したとき、公式行事でスピーチの内容が全然理解できず、困惑したこと。二つ目には、同行したメンバーでも商社へ就職した人達は海外駐在経験があり、ヒヤリングが出来て、自分の意思もなんとか表示できており、これを羨ましく感じたこと。三つ目にはハワイへ行ったメンバーの中で、今年横浜市役所を定年退職した北小路清氏が、向こう一年間は英語力を向上させるために、ラジオ英語講座を毎日聞くことを初めとして英会話教室へ通ったりして、集中的に英語の勉強に専念すると聞いたこと。そして猪原氏も英会話教室に通っていると聞いたこと。こうした友人達が、同年配でありながら努力している姿に触発されたからにほかならない。更に言えば今後、海外旅行へは体力と資金の許す限り、頻繁に出掛けたいと思っているからである。 リムジンバスは軽快に走行して、予定より十分程も早い到着となった。所要時間一時間と二十分ほどであった。日本航空の受け付けには誰も来ていなかった。様子を観察していると日通旅行の係員が近寄ってきて声を掛けてくれた。指定時間まで十五分ほどあったので、銀行へ立ち寄って外貨の両替を依頼したが混雑していて時間がかかってしまった。九時十分に再び受け付けへ行くと既に全員揃っていた。安田夫妻、猪原夫妻、石村夫妻の三夫妻である。家内が何故参加しないかという話になり、初孫が単身赴任の父親を追って、母子で近く米国へ移住する予定があるため、出発の準備やら孫のお守りやらで忙しいことを説明した。 免税店では日本酒二本を買い求めた。ハワイ遠征の経験では重宝したからである。 十一時始動、十八時六分着地。所要時間七時間、時差一時間プラスである。 ケアンズの町は、もうすっかり暗くなっていてタクシーからは外の景色ははっきり見えない。タクシーは十人乗りなので全員一台に乗ることができた。星が綺麗だと言っている人もいたが、座席の位置の関係で空を仰ぐことができない。それにしても窓の外に見えるのは椰子の木と砂糖黍畑で随分広い土地だなという印象である。そして街灯の点いている交差点で、高床式の住居を発見してやはり南方だなという印象を受けた。ほどなくマトソンプラッツアホテルへ到着した。予想していたよりも、規模が大きく外観は素晴らしいホテルである。 ホテルにはJTAの難波という若い女性が待っていてスケジュールについていろいろと世話を焼いてくれた。既に夜八時を廻った時刻である。仕事だとはいえ若い女性が責任感をもって頑張っている姿には神々しいものがある。 部屋割りが七階と九階に分散していて不便なこと夥しい。そこで安田氏がマネージャーを呼んで部屋交換の交渉をしたところ、九階に纏めて貰えることになった。難しいやりとりを英語でこなす安田氏は流石、元伊藤忠の商社マンだけあって素晴らしい能力を身につけている。今後の海外旅行を考える時、英語圏の国ではせめて、安田氏程度の会話能力は身につけたいと思ったものである。それにはヒヤリングと場数と心臓の強さだと再認識した。
| 2004年09月06日(月) |
【アパルトヘイトを廃止し逆差別の始まった国・・南アフリカ��】 |
翌朝9時半にホテルを出てクラフトビレッジへ立ち寄りブッシュマン等の住居を見学したが生憎俄雨に遭遇したので写真もそこそこに土産物屋へ駆け込んで雨宿りをした この日はヘリコプターに乗って滝を空から見学する予定であったが、生憎大統領が視察に来訪するとのことで警備上の必要からヘリコプターの飛行が禁止され、取りやめとなってしまった。その代わりにアドバルーンに乗って上空から滝の見学をすることになったが、雨のためこれも中止になってしまった。今回の旅行で雨に邪魔されたのはここだけであった。
このあとヴィクトリアフォールズ空港からヨハネスブルグ空港を経由してケープタウン空港まで機上の人となった。過半の時間が移動のために費やされた一日であった ケープタウンに到着したのは18時であったが、夏のためまだ日は高かった。出迎、えたガイドはベンさんという日本生まれの日系人で植物の名前に詳しい人であった。折からテーブルマウンテンには雲がかかり、あたかもテーブルクロスをかけた趣があった。
バスで一回りケープタウン市内を見学してからホテルに入った。印象に残っているのはケープ・マレー・スケアと呼ばれる地域である。ここにはインドネシアからの移民が住んでいる地域でイスラム教信徒が多く、特色があるのはパステルカラーで町並みが華やかに彩られている光景であった。
朝7時50分にホテルを出発してテーブル・マウンテン へ登った。
折からの快晴で空は抜けるように青くテーブルマウンテンの頂上台地を散策しながら眺める四囲の風景は絶景であった。特にライオンズヘッドやケープ岬先端間で伸びる山並みは印象に残る光景である。ケープタウン市街地 の展望も素敵な光景である。
この後、喜望峰 までドライブしたが途中、
ハウト湾より舟でシールアイライドの海豹を見学に行ったり、ボルダーズ・ビーチでペンギンやあざらしの棲息地を見学した。

道々並木として植えられているユーカリの木に赤色 や白色の花が咲いておりとても風情があった。ユーカリの花を見るのは初めての経験であった。またフィッシュ・ホーク・ギャレイで食べた生牡蠣は新鮮でとても美味しかった。
ケープボイントの灯台まで山道を登り四囲に開ける雄大な景色を堪能した。
再びケープタウンの市内へ戻り、ウォーターフロントのショッピング・モールでウインドウショッピングで時間を費やした。別に買い物があるわけでもないので与えられた時間を消化するのを持て余し、大道芸人が芸を披露するのを見て過ごした。
今回の旅行の最後の晩餐をウォーターフロント内の洒落たレストランで食べたがイタリアレストランで魚料理であったのは嬉しかった。たまたま井上夫人の誕生日ということで店からケーキとキャンドルサービスがあり井上夫人の感激は極まり、晩餐会の雰囲気も大いに盛り上がった。
日暮れまで時間があるのでウォーターフロント内を散策したら港の中にあざらしが集まっていて思わぬ光景に喜んだものである。
暗くなるのを待ってシグナルポイントまでバスで登攀しケープタウンの夜景を見学した。ネオンサインが見当たらず、蝶々の羽の形で広がっている夜景はどこか函館を思い出させる光景であった。リオデジャネイロ、サイフランシスコと並んで世界の三大夜景であるとガイドのベンさんが言っていたがうべなるかなとの想いであった。
夜景の見学を終えて市内へ戻ってくるとクリスマスのイルミネーションが華やかに点滅しておりこれも錦上花を添える光景であった。かくして南アフリカの旅は最後の時を迎えたのである。
今日は南アフリカ最後の日である。朝9時にホテルを出発してカーステンボッシュ植物園へ行った。この植物園はテーブルマウンテンの南東斜面に広がる、敷地面積560haの世界でも有数の植物園である。南アフリカ産の植物の保護育成にあたるため南アフリカに育つ9000種類の植物が植えられ、その総数は20万本と言われている。
斜面に広がっているためだらだらと登っていく通路は散策にはよい運動ではあるが汗をかきやすい。折から快晴で雲一つなく照りつける太陽の日差しはきつい。木陰へはいると空気が乾燥しているだけに汗がサット引き心地よい。花壇に沢山夏の可憐な花が咲いていた。エリカの花だけは覚えたがその他の花の名前はメモしておかなかったので、その時は判ったつもりになっていたが、今ではもう思い出せない。旅行中メモをとることには心掛けているつもりでもこうして日記を整理しているとメモ帳のどこにも書いていないのでがっかりする。その時は億劫でも心してメモしなければならないとつくづく思った。
温室へはいるのは蒸し暑いだろうからやめて、配給されたランチボックスを芝生へ持ち込んで食べた。握り飯二つと沢庵が入っており、大根と厚揚げの煮染めが美味しかった。腹は全然すいていないが、何せ10時半に配給されて荷物になるものだから早めに食べた。飛行機に乗ればまた機内サービスがある筈なので、全部食べてしまうと消化不良をおこしてしまいそうである。鶏肉のから揚げは腹にもたれるので捨てた味噌汁はインスタントの物であったが久しぶりに美味しかった。食後芝生の上で時間まで昼寝をした。傍らでは同室の武田さんが熱心にスケッチをしている。今回の旅行では武田さんには二つの刺激を与えられた。一つは暇さえあればスケッチブックを開いてスケッチすることと、朝必ず腹筋運動をすることの二つである。これは帰国したら見習いたいと思ったことである。
このあと空港へ向かい、ケープタウン空港からヨハネスブルグへ向かった。途中窓から外の景色をつぶさに観察したら、荒蕪地の山脈を幾つか越えてヨハネスブルグ近くなったとき、田畑が丸く 作られている光景を目撃した。アメリカのロスアンジェルス空港近くで見たのと同じ光景である。
ヨハネスブルグ空港では2時間も出発が遅れてしまっい離陸は20時になってしまった。持参したコスモス文学の残りの部分を読むことに専念した。やがて香港向け南アフリカ航空の機上の人となった。
同じ飛行機には中国人の団体が乗っており賑やかなことこの上もない。
| 2004年09月05日(日) |
【アパルトヘイトを廃止し逆差別の始まった国・・南アフリカ�◆� |
ヨハネスブルグ空港からジンバブエのヴイクトリアフォール空港へ向かった。 機上から眼下に広がる景色は赤土色をした山地と平野であるが比較的緑が 多く砂漠らしきものは見当たらない。ヴイクトリア・フォールズの空港は国際空港とはいえ、規模が小さく荷物を受け取るターンテーブルさえも設置されていない。まさにアフリカを感じさせる田舎の貧弱な空港である。
ヴイクトリアの滝は 対岸の道路から眺めるロケーションになっており、見晴らしのよい所に何カ所も観瀑台が設けられているが滝壺の近くまで船で出かけて観察するという仕掛けはなかった。船を浮かべるような池そのものが形成されておらず流れの早い川が谷底深いところに流れているだけなので無理からぬ話である。この滝のある川はザンベジ川でアンゴラの奥地に水源を発っし、ザンビア西部を縦断してから、ジンバブエとザンビアの国境線を形成して、その後モザンビーク海峡、インド洋へと注いでいる。滝の最大幅はおよそ1700mあり最大落差は108 mである。
6個あるヴィューポイントの観瀑台はそれぞれ光景の異なった滝が観察出 来るように設置されていて、端から順番に約2時間かけて滝を見物しながら歩いた。今は乾期にあたり滝の水量が少なく岩肌を露出している個所もあったし、滝自体が幾条もの流れに分かれて落下していた。
リビングストンが木の刳り抜き舟で渡ったというリビングストンアイランドは鬱蒼とした木々に覆われていてその横を滝が流れ落ちていた。
またレインボウ・フォールというヴィューポイントでは落差がこの滝最大の百八mあり、名前の如く虹が二重にかかってとても綺麗で且つ壮観であった。流れ落ちる水量が多いので水蒸気が立ちのぼり雨が降り注いでいるかのように水飛沫を浴びる個所もありスリリングな眺めであった。そんな場所では水蒸気のため視界が全然きかなくなってあたかも白い雲のただなかにいるような感じさえ受けた。
翌朝ボツワナのチョベ国立公園へ向かった。国境ではタイヤの消毒と靴の裏の消毒をしてから入国手続きを行った。
モワナ・サファリ・ロッジから四輪駆動のサファリ・カーに乗って野生の 動物を観察した。インパラ、プク、ヒヒ、象、ハネムーン中のライオン
鰐、表紋陸亀、栗鼠、いぼ猪 、河馬、糞転がし、ホロホロ鳥、撞木鳥、三色海鷲、トニーイーグル、ライラック、西仏法僧等の動物や鳥、昆虫等を観察できた 昼食後はボートでチョベ川のボートサファリを行った。
このサファリでは象、 インパラ、河馬、プク、クドウ、レチェ、イグアナ、鰐、レンカク、三色海鷲、喉白蜂食い、アフリカ禿げコウ、黒トキ、カワセミ、鷺、エジプトガン、ヘビウ等を見ることができた。
面白かったのは川で水浴びをしている象が気持ちよくなって川の中で排便し糞が黄色い塊となってぷくぷく浮上してくるところで別の象が鼻で水を飲んでいる光景であった。
きりん
| 2004年09月04日(土) |
【アパルトヘイトを廃止し逆差別の始まった国・・南アフリカ� � |
南アフリカの旅 ヨハネスブルグ、プレトリア、レセディ文化村、ヴイクトリアフォール、チョベ国立公園、ケープタウン 2001年12月8日〜12月15日
年の暮れに香港経由でヨハネスブルグ空港に到着した。このあたりの標高は千四百m程あるらしく、30度Cを越える温度で暑いことは暑いのであるが空気が乾燥していて体感温度はそれほど高く感じない。
最初バスでプレトリアへ向かった。ここは行政府のある首都で標高1370mの盆地である。ヨハネスブルグの北方60kmに位置し計画的に作られた街は碁盤の目のように整然と区画され美しい町並みが続いている。一人当たりの公園の面積はアフリカ一を誇り、折りから咲き残ったジャカランタの花もちらほらと紫色の装いで街並に風情を添えている。プレトリアは別名「 ジ ャカランタシティー」と呼ばれジャカランタ の並木道がいたるところにみられる。因みに南アフリカは三権を司る機関が三つの首都に分散されている珍しい国である。立法府はケープタウン市にあり司法府はブロムフォント市にある。この国の建国に伴う複雑な事情のあることが窺える。
開拓者記念館 を最初に訪問した。プレトリアの郊外の丘の上に建つ高さ41mの立方体の建物は、19世紀の中頃に南のケープタウン方面から大移動してきたボーア人(オランダ系の白人で農民という意味)開拓者の歴史と偉業を讃えるため、グレートトレック(大移動)百周年を記念して1937年から12年かけて建てられたボーア人の聖域である。
ボーア人は現在では白人間の混血が進んでアフリカーナと呼称されている彼らは何れもヨーロッパを本貫の地とする人々であるが、アフリカーナというオランダ語を母体とする言語を使用している。
開拓者記念館の入り口には幌馬車が 一台置いてあり、建物を取り巻く外壁には幌馬車が彫刻されている。この幌馬車は荷物を運搬することの他に別の大きな機能を担っていた。移動中に襲撃してくる土着人と戦う時に並べて弓矢からの防護壁として使用されたのである。従って幌は布製ではなくて鉄板で作られている。
記念館の中には開拓時代のボーア人の生活の様子や移動中に現地人から襲われて防戦する様子等が絵画として年代順に展示されていてズール族との戦闘場面等はリアルでなかなかの迫力である。当時の生活用具等も展示されていて興味が尽きない。
次に金貨で有名なポール・クルーガーの居宅跡 を見学した。トランスバール共和国の第三代大統領で最後の大統領であった彼の居宅は意外に質素で慎ましやかなものであった。
門前に横たわる二頭のライオン像 は彼の象徴だということだが印象に残る像であった。
ヨハネスブルグではチャーチスケア地区を徐行して中心街の佇まいを巡回 しながら観察した。ユニオンビルをカメラに収める時だけ下車して後は通り抜け、中心街の観光を終えた。この間バスから降りることを許されなかったこれは最近ヨハネスブルグ中心街の治安が悪化しているため観光客が歩いていると必ず襲撃されるからだという。世界に悪名高かったアパルトヘイト政策が廃止され、黒人政権になってからとみにヨハネスブルグの治安が悪化したのである。僻地や田舎に住んでいた黒人達が今まで立ち入ることを禁止されていた憧れの都市の中心部へいけば成功のチャンスがあるだろうと考えどっと流入したせいらしい。ところが現実は厳しく、新政権のもとでの経済政策は行き詰まりで失業率は高まる一方なので失業者が生活に困窮してひったくり等の犯罪行為に及ぶせいである。
失業率はどれぐらいかとの質問にガイドは人口調査自体正確な数字のない 国だからまだ失業率の正確な統計はとられていないとの回答であったが、50%を上回っているのではないかと言っていた。黄色人種に属する台湾人のガイド嬢は「現在南アフリカでは黒人によって白色人種や黄色人種に対する逆差別が行われている」と嘆いていた。彼女の挙げた一例は銀行からの借入金に対する利率にもみられるという。即ち中国人に対する利率23%、白人に対して15%、黒人に対して2%であり、銀行に対して不公平ではないかと抗議すると「有色人種はお金持ちだからいいではないか」という答えがかえって きたと嘆いていた。激動する社会の変革期の悩みを今南アフリカの人々は体験しているのである。
次にレセディ文化村を見学した。ヨハネスブルグから1時間弱のところにあるこのテーマパークにはズール族、コサ族、ペディ族、ソト族の四部族に関する生活用具や住居、民俗が集められている。
文化村の入場門の前には四つの民族の人々がそれぞれに動物の毛皮等の民族衣装を纏った半裸体姿で 7〜8人待機しており観光客が到着すると文化村の門前で歌を歌い楽器を奏でて歓迎してくれる。
この文化村には共同の演芸場と民芸品売り場等が備えられていて、民族舞踊や 歌を披露してくれる。民族料理のレストランも設置されている。
彼らの生活する住居もこの近くの林の中に村落の形で保存されていて実際にここで一族が生活しているのである。村落は民族毎に別々の場所に設置されていて、それぞれ5〜6戸の住居と家畜小屋の単位からなっており、住居は草葺屋根の竪穴式住居に似た形態で室内には照明もなく床は土間である。中央に火を焚く小さな石組が並んでいるだけで調度品らしきものもみあたらない。祈祷師の住居が特別に設けられている村もあった。
バオバブの木 我々の見学した村の一つには酋長の二人の妻が同一村落内に生活しており 住まいこそ分かれてはいるが、同じ村落内でそれぞれに顔を突き合わせて家事を分担して仲良く生活している。ズール部族では酋長は妻帯四人が公認されていて、牛13頭が妻一人に相当するというから、人権意識やプライバシィー意識に馴染んだ我々には異様な生活に見えるのだが、生まれたときから生活とはそんなものだと信じこんでいる彼女等にはこれを異様と考える我々の方が不思議に見えるようである。文化の違いというものであろうか。
そして彼らには容易にその属する部族の生活習慣や風俗を変えようとしないで伝統文化を守っていこうとする頑さがある。これを文明に目を背ける蒙昧な停滞とみるか自然と共生する心穏やかな安定とみるか、一種のカルチヤーショックを受けた体験であった。
| 2004年09月03日(金) |
【日の没する沙漠の国にも雪は降る・・モロッコ��】 |
日の出を砂丘で見るというのが今日の旅程の眼目であるから、朝は早かった。4時半にモーニングコールがかかり、5時半には4WDに分乗してまだ真っ暗の中をメルズーカ砂漠へ向けて出発した。次第に夜が開けてくるに従い砂漠の広大さが判るようになる。30分程走行すると駱駝が屯している一角に到着した。
ここで希望者は駱駝に乗って砂丘を小高い丘になっているメズルーガ大砂丘まで 遊覧するのである。私はチュニジアで乗った経験があるので歩くことにした。このころになると空もようやく白みだして人や駱駝の姿がはっきり見えるようになる。
駱駝の一隊と歩行者の集団が歩きだすと驚いたことに、駱駝の群れと一緒に屯していた男達が一斉に歩行者の集団に襲いかかってきた。砂丘は歩きにくいから手を引いてやろうというのである。失業率25バーセントというこの国では観光客はなにかにつけ、仕事の種と目されているのである。手をひくことによりチップを期待するし、掘り出した砂漠の薔薇やアンモナイトの化石等を売りつけて商売をしようとの魂胆なのである。
ヘルパーと称するこの種の人間が沢山いるから注意するようにとの予備知識があるから、彼等の思惑通りにはならない。しかし、そのうち普段歩き慣れていない女性等は次第に彼らの手助けを借りるようになってくる。するとそれにつけ込んで、物陰に連れ込み法外な値段で土産物を売りつけようとしたりする。砂の上は足をとられてなかなか歩きにくい。特に坂道になると歩行の困難さは増すばかりである。それでも彼らの思惑通りになるのも癪なので、転びそうになっても決して彼らが差し出す手に掴まることはせず、最後まで一人で歩きついに丘の上までたどりついた。7時に10分程前である。待つこと約10分、とても寒く風は凍てつくように冷たい。
やがて東の空が赤く染まりだして、太陽が顔を覗かせた 。感激の一瞬である。一旦顔を出すと日の上がるのはとても早い。みるみるうちに大きくなって正視できない程眩しくなってくる。幸いビデオカメラのファインダーを通してみていると眩しくなく太陽が中天に昇るまで観察することができた。その頃には、はやくも帰路を急ぐ行列が出来始めた。
再び4WDに分乗してホテルへ帰り遅い朝食をとった後、長駆ワルザザートまでの通称カスバ街道をバスドライブである。途中モロッコのグランドキャニオンとも呼ばれるトドラ渓谷に立ち寄り昼食をとった。切り立った断崖の下に開けたオアシス の町である。日向にいれば感じないが日陰になるととても寒い。砂漠の大陸性気候というものの厳しさが肌身を通して実感できたと思った。この後は限りなく続く広大な砂漠の中をワルザザードまでひた走った。
途中地下水脈が通っている箇所に掘られた井戸を見学した。たまたま水汲みにきていた少女にカメラを向けるとたちまち1ドルと言われてしまった。 キンチディザードという町で小休止し、キンディールで昼食をとった他はただひた走る移動の一日であった。
夕方ワルザザートに到着した。この町は人口7万人の町で外人部隊の駐屯地として1923年に開かれ、映画産業と砂漠観光の拠点地として発展してきた。現在はモロッコ軍が駐屯しており、軍用施設が沢山存在している。散歩の途中スーパーマーケットを見つけたのでワインを探しによってみたが、アルコール類は一切置いてなかった。ビスタシオとキャンデーと水だけを求めた。イスラムの国の田舎町でアルコール飲料を求めようとすること自体がどだい無理な話なのであろうか。
今朝はゆっくりしていて、9時50分にホテルを出発した。いくらも走行しないうちにトゥーリルトのカスバ へ到着した。カスバとは支配者の居住地のことで、メディナの内外を監視するための城塞を言う。メディナの一角に存在する場合と地方の小さな砦や地方官の邸そのもの、またはそれらのある高い城壁で囲まれた町全体をいう場合がある。トゥーリルトのカスバは後者のほうである。
このカスバはかつてマラケシュのフランス軍司令官ゲラウェイが住んでいたところとしてまた映画「シェリタリングスカイ」の舞台となったことで有名である。彼はこのほかにも映画「アラビアのローレンス」のロケに使われたティフルトートのカスバも所有していた。現在はホテル、レストランとして使われている。我々はどちらも入場はせず全景をカメラに納めただけで通り過ぎた。所有者であったゲラウェイなる人物は20世紀初頭のこの地方の部族の首長であるが、フランス軍がモロッコ南部の治安を維持するために諸部族の首長の地位を保全する政策をとった際に重用されたのである。
ワルザザートの西方33kmの地点にアイト・ベン・ハッドウ という村がある小川のほとりの丘全体を利用して作られたクサル(村全体が要塞化されたもの)と呼ばれるカスバで保存状態は極めて良好であり、モロッコで一番美しい村と言われている。 この村には現在僅か5家族だけしか住んでいないが「アラビアのローレンス」「ソドムとゴジラ」「ナイルの宝石」等のロケに使われた。ここでは中へ入場し迷路のような坂道を頂上の穀物貯蔵庫まで登ってみたが、四囲を見渡せるロケーションは要塞としては絶好のものであり難攻不落を誇っていたというのも頷ける。世界遺産に登録されて補修作業も行われていた。
アイト・ベン・ハッドゥで昼食をとってからは再びマラケシュ目指して長い道程のバスドライブが続いた。
砂漠の中のドライブが暫く続きバスは次第に高度を上げていった。オートアトラス山脈山中へ入ったのである。ヘヤピンカーブの続く荒涼たる禿げ山をどんどん高度を高めながら標高2260mのティシュカ峠に差しかかったこんな所にと思える道端に陶器の壺やアンモナイトの化石が並べられている峠で小休止する観光客目当てに土産物屋が行商にきているのである。商品は平地から仕入れて肩に担ぎ運んだのであろうか、或いは高地にも窯元があるのだろうか。その辺は謎として残った。
テイシュカ峠を越えた途端に周囲の景色はがらりと変わる。今まで禿げ山だったのが大小の樹木が生い茂る緑豊かな山々に変貌するのである。そのあまりにも劇的な変化にアトラス山脈がモロッコの気候風土に与えている絶大な影響力を如実に見る思いであった。大西洋や地中海で発生した雨雲はこのアトラス山脈に遮られて西側に雨を降らせ、乾燥した空気だけが東側へ吹き抜け砂漠地帯には殆ど雨が降らないという図式が想定されるのである。造化の神の悪戯とすれば、神は砂漠の民に対してあまりにも意地悪である。
マラケシュのガイドはアラビア人とベルベル人の混血であるマジードさんという33歳の男性であった。彼は9か月間書物だけで日本語を独習したと言っていたが、意味が通じる程度の怪しい日本語を喋る。近時日本人観光客が増えたのに着目して、日本語を独習してガイドになった彼は現在受けに入っているようだ。それにしても必要に迫られやる気になれば一見不可能に思えることでも可能にすることができるという仮説を立証するような人物であった。
マラケシュではクトゥピア、サアード朝の墳墓、アグダル庭園、バヒーア宮殿、メナラ庭園、ムアシンの泉、スーク、ジャマ・エル・フナ広場 を見学した。
クトゥピアはマルケシュのランドマークとなるミナレット(祈祷塔)である。高さ77mの塔はムーア様式の建築でアールモラヒド王朝のヤール・エル・マンスール王の時の1192年に完成した。
サアード朝の墳墓にはこの王朝のスルタンやその家族や召使等大小二百人もの墓が安置されている。霊廟は三つの部屋で構成されていて木や漆喰に施された彫刻が素晴らしく、スペイン・ムーア様式の傑作と言われている。最初の部屋はミヒラブと呼ばれるメッカの方向を表す窪みのある礼拝堂である次の部屋は12本の大理石の柱が木や漆喰でできたアーチを支えていてアーメド・エル・マンスール王とその嫡出の息子や孫達が埋葬されている。三つ目の部屋にはエル・マンスールの非嫡出の子供達と彼の母堂ララ・メッサウダの墓が安置されていて、霊廟の外側は薄いピンク色に塗られている。この霊廟は16世紀に建てられたが、アラウィーン朝のムーレイ・イスマイル(1672〜1727年の在位)によって壁が築かれその存在が秘匿されていた。1917年になって壁が壊され霊廟の存在が世に知られるようになった。
バヒア宮殿は19世紀に開設されたものでメラー(ユダヤ人街)の北側にあり、豪華な装飾の大広間や愛妾用の会議室と個室には彩り鮮やかなタイルが張られ、アトラスシーダー材の天井は船底型になっていて細密画が描かれている。壁や柱の様式はアルハンブラ宮殿に勝るとも劣らない芸術作品である メナラ庭園はメディナの城壁の西側にあり、広大な庭園は12世紀のアルモハッド朝時代に造園されたもので、オリーブの木が繁っている。中央の湖を思わせる大きな貯水池の畔にはスルタン達が逢瀬を楽しんだバビリオンが建っている。
スーク(市場) の雰囲気はフェズで体験済であったが、狭い路地の中を犇き合いながら通り抜ける醍醐味はモロッコのスークならではの独特のものがある。ここでも鍛冶屋地区を通り抜けたが足場もないほどに金属材料や、製品が置かれている狭い店先の作業場ではいたいけな童顔の少年達が溶接の火花が飛び散ったり、グラインダーの排出する削り粉が宙を舞っている劣悪極まる作業環境の中で黙々と働いている姿が痛々しかった。
最後に訪れたのは気違い広場、大道芸人広場とも呼ばれている、ジャマ・エル・フナ広場である。我々が訪れた時はまだ陽も高く、広場にはアクロバットや蛇使いなどの大道芸人が芸を演じては観客を集めていた。観光客はいい鴨にされ、狙い撃ちされていた。観光客が興味を持って立ち止まり眺め始めるとすかさず、箱や帽子が廻ってきてチップをねだられるのである。食べ物を売る屋台店も立ち並び初めていた。広場近くのレストランの屋上展望席に入りジュースを飲みながら暫く群衆の動きを見ていたが飽きない面白さがあった。日暮れに近付くにつれ恰も地から湧き出るかのように人の数が増えてきて、夥しいとしかいいようのない群衆が広場を思い思いの方向へ往来するのである。或いは大道芸人を囲む輪の中に消え、或いは屋台の前で買い物をして楽しそうにぱくついていたりするのである。ここにも喧騒と猥雑が同居してマラケシならではの光景をつくりだしていた。
マラケシュのホテルを8時半に出発して大西洋沿岸の都市アルジャディーナを目指した。ここには大航海時代にポルトガル人が開いた城塞が残されているのである。
緑豊かな田園地帯を走行しているとコンクリートの円柱を半割りにして田畑の畦に敷設した灌漑設備が縦横に走っている光景によく出くわす。灌漑設備のかたわらでは水を容器に受けて洗濯に余念のない農婦の姿も散見されるその周囲には野の花が咲き乱れているし放牧された羊や牛の群れがのんびりと草を食んでいた。農道には驢馬に荷駄を満載した車を引かせて農民が往来している。まことにのどかな田園風景である。
そのうちトラックや乗用車や馬車や驢馬が沢山駐留して大勢の人々が集まっているのを目撃した。これは火曜日ごとに開かれる青空市場だという。農家は自家製の農産物を持ち込むし、商人は日曜生活物資を持ち込んで農民相手に商いをするのである。原初的形態の物資の交換流通の最も単純な市場が開かれているのである。仕入れが終わって驢馬車に家族を乗せて帰路を急ぐ農民の姿がそちこちに見られた。
バスはやがて大きな集落に到着した。前方には海が広がっている。大西洋岸のアルジャディーダ である。この町は16世紀に貿易の基地としてポルトガル人によって開かれ、250年間彼らが居住した西欧風の街並みが城塞の中に残されている。雨水を蓄えるための大きな貯水槽やカトリックの教会、ユダヤ人の教会であるシナゴーグなどの建物も今は使われていないが史跡として残っている。訪れる人もないユダヤ人の墓地も残っていて人の世の移り変わり、栄枯盛衰を思わせる。
旅の終わりにあたり、旅行中知り得たモロッコ事情を注記しておくことにする。
モロッコは農業国であり、主たる農産物は玉蜀黍、大麦、小麦、オリーブじゃが芋、煙草、人参、オレンジ、葡萄などである。
次に収入源となっているのは観光収入であり、年間二百万人の海外からの観光客を迎える。三番目には出稼ぎ労働者からの送金である。四番目には漁業によるもので鰯の収穫が多い。五番目に鉱物資源があり、燐鉱石は世界の生産高の17パーセントを産出している。六番目は石油資源である。
国民の所得水準は一例として大学卒業の学校の先生の月給は月五百〜七百$である。失業率は25%にも及び大学を卒業しても就職出来ないことが多く外国特にフランスやカナダ、アメリカに渡るケースが多い。
1982年に徴兵制は廃止され志願兵制になったが、志願者は多く軍は魅力ある就職先と考えられている。
| 2004年09月02日(木) |
【日の没する沙漠の国にも雪が降る・・モロッコ�◆� |
メケネスの町は10世紀頃ベルベル人が開いた町で現在の人口は約60万人でありモロッコ有数の農業地帯である。この町の最盛期は17世紀にアラウイー朝のムーレイ・スマイルが古い建物を壊しヴェルサイユ宮殿に対抗できる豪華な王国を建設しようと夢見て、数多くの城壁や門、モスクを建設した。
特に有名なものにマンスール門 がある。イスラム教に改宗したキリスト教徒のマンスールが設計したのでこの名前がついた。北アフリカで最も美しい門だと言われている。
メディナの中のレストランで昼食を済ませるとマンスール門をカメラに納めて、次の目的地ボルビレスへ向かった。
単調な田舎道を暫く走行すると野原の中の小高い丘の上に広がるヴォルビリス遺跡へ到着した。今までイスラム一色に彩られたモロッコの風物の中に浸りきっていた我々観光客の目には、一寸異質な感じを与えるローマの遺跡 でギリシャやローマやトルコでよく見られるキリスト教徒の遺物である。元来この地には紀元前2世紀の頃からモーリタニア王国の人々が住んでいて、ワリーリと呼ばれていた。ローマ人達は版図を広げるにつれ、この地へもやってきて紀元前40年頃ローマの属領となったのである。最盛期には一万五千人〜二万人のローマ人達が住み、凱旋門や神殿、公共浴場等の美しい建物が沢山建てられた。しかし3世紀末にはベルベル人の侵略にあって次第に衰退しやがてローマ人達はここを撤退した。その後8世紀にはムーレイ・イドリスの支配下に置かれイスラムの町となったが、1755年のリスボン大地震で崩壊し廃墟となってしまった。邸宅内の風呂場や部屋の床や壁面に使われていたモザイク絵なども発掘されて当時の生活を偲ぶことができる。ヘラクレスの功業を讃える邸跡にあったモザイク絵の一部は現地に残されて展示されている。
フェズは人口百万人のモロッコ第三の都市であるが、ムーレイ・イドリスにアラブ人として最初に王朝を開いたムーレイ・イドリス1世の子供ムーレイ・イドリス2世が808年に創設したモロッコ最古の都である。爾来1200年もの歴史を持つ古都はモロッコの思想・宗教・芸術の中心地で、9世紀に出来たフェズ・エル・バリ(旧市街)と13世紀にできたフェズ・ジャディト(新市街)とフランス統治下の20世紀に出来たヌーベル・ヴイル(新新市街)の三つの地区に分かれている。そして旧市街はメディナとも呼ばれ、世界最大且つ最難儀の迷路であり、中世のイスラム社会の生活の趣を今に伝えている。
最初王宮 を訪問した。ここは現国王のフェズにおける居城で新市街の南側に位置して金色の正門と緑色の屋根の対比が鮮やかである。たまたま近く国王の行啓があるとのことで、王宮職員達がレモンの果実で金の装飾を磨いていた。
次にフェズ市街 の全貌を俯瞰するため南側の丘に登った。ここには古い城砦があり狼煙台跡等も残っていた。フェズは最初、旧市街の中程を流れるフェズ川の右岸に当たるカラウイン地区に人々が住みつき市街地を形成した。次いで川の左岸にスペインのアンダルシアから撤退してきた人々が住みつき市街地を作り上げアンダルシア地区と呼ばれるようになった。フェズ川は現在道路になっていて見ることは出来ないが、今も道路の下を流れており、フェズの生活や産業の重要な水資源となっている。
市街地の全貌を頭に入れておいてからブージュルド門からメディナの中へ入り、アンダルシアモスク、カラウィンモスク、イスラム神学校(メデルサ・アタリン)、染色工場(ダッバーギーン )、織物工房、民族衣装店、彫金細工店と見て廻った。
何しろ狭い路地の両側の壁面には一坪程の面積の店に商品をこぼれんばかりに積み上げて商人達が目白押しに並んでさまざまな生活物資の店を出している。その路地を沢山の人々が肩を擦れ合うようにして往来しており,荷駄を積んだ驢馬までが行き来しているのだから一種独特の熱気と臭気と雰囲気が漂っている。
路面には驢馬の垂れ流した糞尿が散らばっているし、道端には老人が椅子に腰掛けて所在なげに道行く人々を眺めている上、欧米人や日本人観光客の団体がぞろぞろと物珍しげに店屋を覗きながら通り抜ける。
日本人と見ると店員達は親しげに怪しげな日本語で「今日は」「ありがとう」「貧乏」「さよなら」などと話しかけてくる。まさに猥雑と活気とある種の倦怠が混沌として入り混じり、メディナの雰囲気を作り出している。仲間からはぐれたら絶対に一人歩きは出来ない網の目のような迷路である。その上掏摸が多いと聞かされているので、懐中物にも気を配らなければならないし、狭い階段の昇り降りには足元に気をつけなければならず,おまけに小雨が降っているので足元が滑りやすく緊張の連続であった。ガイドが狭い門を潜るのでこれについて行くと突然広い空間が目の前に開けそこがモスク内であることを初めて理解する。ガイドが立ち止まって説明するだけの空間が路地にはないのである。
メディナ内の見学をしていて最も驚いたのはある狭い門の前でミントの葉を渡された時である。前の人が受け取っているので不審に思いながらこれを手にして狭い薄暗い階段を登っていくと、革細工が沢山並んでいる。ははあ革製品の土産物屋へ案内されたなと思いながらなおも商品の並んだ店内の狭い通路を進んでいくと突然強烈な死臭が鼻をつき、目前下方に広い空間が開け、風呂桶のような色とりどりの容器が無数に並んでいた。容器の中では半裸体の男達がせっせと動物の革を染料液の中につけて足で踏みつけているのである。フェズ市の共同染色工場(ダッバーギーン)であった。 死臭を嗅いだ時初めて門前で手渡されたミントの葉の束の意味が理解できた。その光景は強烈なインパクトを私の頭へたたき込んだ。劣悪な労働環境ではあるが何となく懐かしい風物詩を見るような思いで暫く異臭に耐えながら見とれていた。先程通り抜けたメディナの路地脇の小さな店内でせっせと革細工職人の手伝いをしていたまだあどけない童顔の少年達の姿がそこに重なった。この国ではまだ労働基準法も児童福祉法も関係のない生活が当然のこととして中世の生活そのままに営まれているのである。
やがて昼食の時間となりレストランに入ったが、これも路地の中の狭い玄関口を通って店内へ入ると意外に思われる程広い空間が開け、贅を凝らしたアラビック模様の施された壁面や柱が我々を迎えた。考えてみると例えば京都などでも間口は狭く奥行きの深いいわゆる鰻の寝床式の店舗は沢山残っており、時の権力者と一緒の町に生活する商人の知恵がしからしめたものであった。これと同様の思考形式でこうした古都のレストランも作られたのであろうか。東西の商人のしたたかさを垣間見る思いであった。
今日の日程の最後に今度は朝とは反対の北側の丘に登り再度フェズの街並みを展望した。一度市街地を通り抜けているので、街中の喧騒と猥雑を思い出しながら眺めていた。
翌日は移動日である。およそ420km走行して砂漠の入り口の町エルフードまでの旅程である。朝8時半にホテルを出発して先ずアトラス山脈の麓の町イフレンへ 向かった。ここは1600mの高地にある避暑地である。瀟洒な建物が多く今までのイスラム世界でみてきた風景とは一変してどこのリゾート地でもよく見かける建物が沢山広い敷地の中に建っていた。ここはモロッコの中のスイスという別名があるらしい。 こんな光景をみているとここがイスラム世界であることを忘れそうである。
昼食はアトラス山脈の山と山の合間にある町ミゼルトでとった。ここは黒大理石の産地でアンモナイト等 古生代の化石を含んだ石が産出される。ここで大理石の加工工場を見学した。今まで見た家内制手工業の工房とは異なって近代的な石材の切断機や研磨機が設置されている工場であった。とはいっても設備だけが光って見える粗末な建物であり、あくまで町工場の域を出ない種類のものであった。ここでは細長い貝の化石を沢山含んだ大理石やアンモナイトの入った石が珍しかった。
昼食後アトラス山脈を超えた。途中アトラス杉 の繁る森で下車して森林浴を楽しんだ。樹齢二百年もの見事な杉もみることができた。折から2〜3日前に降った雪が溶けずに日陰に白く残っていた。
ザード峠2170m、タルゴム峠1907mを越えると景色は一変する。そこには荒涼とした土塊の山々や砂漠が控えている。川が流れている所にはナツメヤシの生い茂るオアシスが開けている。荒涼たる岩山の間を走行したときの光景はカラコルムハイウエイで見た光景と似通っていた。
| 2004年09月01日(水) |
【日の没する砂漠の国にも雪が降る・・モロッコ� � |
モロッコの旅 カサブランカ、ラバト、メケネス、ポルビレス、フェズ、ワルザザード、トウーリルト、アイト・ベン・ハッドウ、マラケシュ、アジャディーズ 2001年2月13日〜2月21日 モロッコは面積710.850km2(日本の約1.9倍)の国土と約2762万人の人口を有する立憲君主国である。その国土のほぼ中央には、北部地域から南部地域へかけてリフ、モワイヤンアトラス、オートーアトラス、アンチアトラスという四つの山脈が走っていてモロッコの気候条件を変化に富むものにしている。このうちオートアトラス山脈には四千m級の高い山が連なっており、モロッコの地勢を大きく二つに分けている。即ち、大西洋や地中海の沿岸部は肥沃な穀倉地帯を形成しているのに対し、山脈の南東側は荒涼たる砂漠と点在するオアシスで成り立っている。
第二次世界大戦後フェズ条約の廃棄と独立の承認があって1956年にモロッコ王国が発足した。現在の国王はムハメド6世でアラウイー朝を継いでいる。1999年にハッサン前国王の逝去に伴い跡目を襲った現国王はまだ年は若いが精力的に国内を巡回し、敬虔なイスラム教徒である国民に人気が絶大であるという。奥方はベルベル人の美人らしいが、国民は誰もその顔貌を写真でですら拝したことがないという。情報社会では珍しいイスラム世界ならではの厳しい戒律である。
カサブランカはモロッコは勿論、マグレブ諸国でも最大の経済都市で人口約257万人である。アフリカではヨハネスブルグに次ぐ第二位の規模の港を有し燐鉱石や農産物の輸出港として栄えている。この街では海岸近くにあるハッサン2世モスク を見学した。
このモスクは前国王ハッサン2世が1986年から8年かけて1993年に完成させたもので20世紀最高の芸術作品である。その規模は敷地の広さが九ヘクタール、モスク内が二ヘクタールもあり、内外で十万人が収容できる巨大な建物は大きさにおいて世界第二位であるという。ミナレットの高さは200mにも及び、世界一の高さを誇っている。そして何よりも観客を驚かせるのはその規模の巨大なことはもとより、施された彫刻の美しい緻密なアラビック模様である。モロッコ全土から四千人の職人を集めて作られたというが、その費用は信徒の寄付金と税金でまかなわれているところが、いかにもイスラム社会の王国らしいと思った。
カサブランカの街を駆け足で通り抜けて、車は一路首都ラバトへ向かったカサブランカからラバトへ向かう高速道路沿いの街路樹はユーカリの木が多く、木立の間には黄色いミモザの花が咲き乱れ、一面に緑の萌える畑にはオリーブの木が茂り、折からアーモンドの花が桜と紛うかのように咲き乱れていた。二月とはいえ、もうこの地は春爛漫の風情である。
ラバトはモロッコの首都であり、王宮を始め行政機関や各国大使館が広大な敷地を控えて立ち並び、高級住宅街とともに近代的で西欧的な佇まいの綺麗な街並みを形成している。人口は二百万人で1912年に首都となった。ここでは王宮とハッサンの塔とモハメッド五世廟を見学した。
王宮は現国王モハメッド6世とその家族が住んでおり、17世紀に出来たという白い壁の門に緑色の屋根が一際鮮やかに映えていた。 門前には赤色、青色、灰色、白色の制服を纏った警備の人々が立ち並んでいた。それぞれ近衛兵、警察官、軍人、使用人であるという。その配色が建物とよく調和していて美しいと思った。
ハッサンの塔
は未完のミナレット(祈祷塔)である。1195年にムワヒッド朝のヤクーブ・マンスールがモスク建設に乗り出したのであるが、彼が戦死したので工事は中断した。この塔の高さは44mしかないが、実際には88mになる予定であったという。未完ではあるが、ミナレットとしてはセビリアのヒラルダの塔(93m)、マラケシュのクトゥピアの塔>(67m)

ラバトも駆け足で通り抜け、メケネス へ向かった。ここでは昼食に烏賊の中に米を入れて煮た料理を食べた。ラバトからメケネスへ向かう道路の両側にコルク樫の林が大きく広がっているのを目撃した。立ち木の下の部分が長さ2mくらいずつ表皮を剥がれて立ち並んでいる林の姿は一寸異様な雰囲気を漂わせていた。世界有数のコルクの産地であるという。田畑は緑豊かでいかにも肥沃に富んでいるように見え菜の花が黄色く咲いて緑とその鮮やかさを競っていたし、アーモンドのピンク色の花が彩りを増していた。しかしながら田畑に点在する農家の建物は茶色の日干し煉瓦と壁土とで作られた箱型の建物でなんの趣も感じられない単純なものが多かった。
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