「うん、驚いたなあ」 「シビは初めてかい」 「うん」 「お父さんとお母さんのシビを見たことないの」 「うん、ないよ。君はよく見るのかい」 「清さんとお駒どんがシビするのを見たのは初めてだけどお父さんとお母さんが隣の布団の中でシビしているのは寝たふりして時々見るよ」と松田君はすらっと恥ずかしげもなく言ってのけたのである。そして松田君は清さんには赤紙がきて近く入隊することになったから、婚約者の駒どんとお別れのシビをしたのさとも言った。
この日の衝撃はあまりにも大きかった。平生子供達同志が遊んでいて女の子と男の子が仲良くしていると「やあい、二人はシビしているよ」とはやし立てていたので、男女が仲良くすることを軽く冷やかしていう言葉という風に理解していたのであるが、今日具体的に且つ即物的にシビなるものを目撃してこの言葉の持つ隠微で悩ましくも濃艶な意味と内容を理解して頭に強い一撃を受けた思いがしたのである。
そして松田君がお父さんとお母さんが時々しているのを見たことがあるよと恥ずかしげもなく言ってのけたことにそれ以上に大きな二重の衝撃を受けていた。僕の両親に限りあんなことをする筈がないと必死に思いこもうとした。その時勇の頭にある脈絡をもって浮かんできた過去の光景があった。それは、父が自宅へ趣味の仲間を集めて自作写真の品評会のときのことである。あの時勇が押入れの中から父の秘蔵の写真を持ち出してきて手柄顔に父の手へ渡したとき、父が厳しい顔をして勇を叱ったことである。あのときの写真は、先程自分が垣間見たあの男女の絡みの場面と同じ種類の写真ではなかったのか。だから父が慌てて机の引出しへ隠したのだ。するとあの写真は父と母の写真だったのだろうか。いやそんな筈はない。どこか余所の人に違いない。僕の両親に限ってあんなことをする筈がない・・・・・
今まで住んでいた世界と想像も及ばないあまりにもかけ離れて異なる世界を垣間見て、一種の激しいカルチヤーショックを受けていた。勇の春のめざめの時であった。と同時に両親に対しても突き放して見てみるという観察者の目を持つようになった時なのかもしれない。
やがて女の喘ぎが一段と激しくなり上半身をのけ反らせるようにして、口にくわえこんだ逸物を離したのをしおに今度は男が上下向きを変えて女にかぶさり、白い女の二本の脚が男の腰を鋏み込んで毛むくじゅらの脛が波のようにゆっくりと前後左右上下に蠕動しだした。動きにつれて女の喘ぎは低くなったり高くなったりしている。そのうちに男が相手を抱き上げて、二人は向かい合ってぶらんこに乗っているような恰好になった。薄暗いので顔はよく見えないが男が相手の腰に両腕を廻し、女が両手を男の首に巻き付けたのがその白さで判った。男は片手を放して女の胸をまさぐって襟元から乳房を取り出し顔をこすりつけるようにして乳首を吸い出した。途端に女は体全体をぴくりと動かした。
勇の心臓は早鐘を打つように鼓動が高まっているが体は動くに動けず彫刻のように固くなって目の前の光景を見つづけているうちに、二人はまた元のように上下に絡む仰向けとうつ伏せの体位に戻った。二人の動きがせわしなくなって短い噛み殺したような呻き声が女の口から洩れて女の指が男の着物を掻きむしっていた。男がふぅっと低い声を出して動きがとまり二人は離れて身繕いをすると入口の戸を細めに開けて外の様子を窺ってからそそくさと外へ出て行った。勇には眼前で何が行われたのか判ったような気がしてよく判らず夢を見たのではないかと頬をつねってみたら痛かった。
ぼうっーとしていると「シビを見たかい。内緒だよ」という声がした。突然目撃した前代未聞の珍事の発生にその存在すら忘れていた隣の長持ちに入って寝ていた筈の松田君の声であった。
松田君の部屋でおやつに出された蒸し芋をたらふく食べた二人は眠くなってしまった。松田君がいいところがあるからついておいでというので付いて行くとどうやら納戸のようである。松田君がスィッチをいれると戦時防光を施された電球の淡い光に映しだされた薄暗い部屋の入口近くには布団が数組畳んで置いてあって、部屋の奥の方には長持等も沢山並んでいる。
「この中で昼寝しょう。気持ちがいいぜ」 と松田君がニコッと笑みをみせてから一つの長持ちの蓋を外しておいて、電灯のスイッチを切るとその中へ潜り込んで横たわった。勇も入口の扉の隙間からこぼれる微かな明かりを頼りに松田君の隣りの長持ちの蓋を外して潜り込んだ。長持ちの中には来客用の絹布団が仕舞ってあったのである。初めて触れる絹布団の肌触りを楽しんでいるうちに松田君の微かな寝息が聞こえだした。釣られるように勇も何時しか眠りに陥っていた。
どれくらいの時間経ったのだろうか、勇は妙な物音に目を覚まされた。喘いでいるような呼吸が続いているのである。最初松田君の寝息かと思ったが音のする方角が違っていて喘ぎが段々激しくなってくる。勇は何か異変が起きているらしいので音をたてないように注意しながら首を持ち上げて周囲を見回した。目を凝らしていると暗闇に目も馴れてきて扉の合わせ目から漏れて差し込んでいる光に映しだされて、入口近くの拡げられた布団の上に蠢く二つの異様な姿が目に飛び込んできた。女の白い脛が二本、天井に向かって45度の角度で投げ出されており、細かく震えるように蠕動している。そして曲がった膝に連なる太い二本の白い脚の間に黒く蠢いている塊がある。勇は不動金縛りにあったように身動きすることが出来なくなって息をするのも憚られた。
唾を音のしないように飲み込んで見ていると黒く蠢いている塊は男の頭髪であり、女の股ぐらへ顔を突っ込んで秘所を舐めまわしているもののようである。そして男も下半身剥き出しで女に覆いかぶさっており二本の毛むくじゃらの脛が女の顔を挟んでいた。女は男の秘物を口にくわえてしきりに上下に頭を動かしながら呻き声を噛み殺しているのである。
▼春のめざめ 小学校へ入学して間もなく、鎮南浦の街中から登校している松田君と仲良くなり、彼の自宅へ遊びに行ったことがある。松田君の家はすべての点でもの珍しいことばかりであった。まず、松田君の家は大きな商家で番頭さんや手代、丁稚、女中さんが沢山居て「若ぼんぼん」と呼ばれていたことである。「坊や」とか「坊ちゃん」という呼称は聞き慣れていたが「若ぼんぼん」という呼称は初めて耳にする言葉であり、松田君がひどく偉い人のように思えたものである。
玄関を入った所に帳場があって、番頭さんが算盤をパチパチ弾きながら帳面付けをしている光景は初めて見た世界であり、壁に掛かっている電話器も珍しいものであった。帳場へ子供が入ることは禁じられているらしく、物珍しそうにキョロキョロしている勇をせかせて松田君は自分の部屋へ連れて行った。
次に松田君のお母さんが三味線を弾くことと煙草を長い煙管で吸うことも驚きの一つであった。今まで煙草は男の大人が吸うものだと信じきっていたから、固定観念が打ち破られた初めての経験であったし、見るもの聞くことが、何れも興味のあることばかりであった。玄関の隅にたてかけてあったスキーの橇板も初めて見るものであった。
入学直後の登校時には、社宅の上級生が下級生達を集めて、隊列を組ませ二列縦隊で登校した。戦時下であるため、制服制帽は軍隊調で統一されていた。国防色の上着とずぼんを着用して、戦闘帽を被り足にはゲートルを巻き、背中には防空頭巾を担いだ勇ましい姿であった。正門に到着すると校庭の東側に建てられている奉安殿に向かって最敬礼をしてから各々の学級へ散って行った。入学式や天長節には校長先生が白い手袋をはめて教育勅語を厳かな声で読んでいた光景がありありと思い出せる。教育勅語朗読中は頭を四五度前方へ垂れて畏まった姿勢をとらされた。意味は判らないまでも厳かな雰囲気は小学一年生にも感じとることができた。
また天皇を神格化して教える実話教育の中に次のような、ぞっとする人権無視と暗い密告制度による被害の話があった。新聞に掲載された天皇陛下の御真影に気がつかないで、便所の落とし紙に使った人が憲兵隊に引っ張られて一週間近くも拘引されてたっぷり油を絞られた。このことが発覚したのは便所の糞尿を肥やしとして畑に撒いたところ、落とし紙に使った新聞紙が腐らないでそのまま自然に畑で乾燥し天皇陛下の御真影が現れたのを目撃した人が密告したというのである。それほどに時代は暗く陰鬱なものになっていた。
授業では大きくなったら兵隊さんになって敵をやっつけるとか、神風特攻隊に入って敵艦めがけて体当たりするんだというような教題が真面目に取り上げられていた。純真な心にはそれがあたかも自明の公理であるかのように投影されていた。
新しい学校生活にも慣れかけた頃、一か月に一〜二回位の割合で朝礼の時校長先生から誰それのお父さんはどこそこの戦闘において壮絶な戦死を遂げられ、英霊として靖国神社に祀られることになりましたという訓話があったり、誰それさんのお父さんは何月何日出征されることになりましたので、皆で武運長久を祈りましょうというようなお話があった。その都度、勇は早く私の父も出征してくれないかなと真面目に考えたものである。このように客観的な戦況とは裏腹に軍国主義の教育は浸透し、街中に戦闘気分が横溢していた。
▼日の出小学校 勇が日の出小学校へ入学したのは、昭和19年の四月であった。日の出社宅に日の出小学校、何故か「日の出」と両者同じ名前である。日の出る勢いという意味で名付けられた軍国主義はなやかなりし時代の精神を表すネーミングであろうか。
昭和19年という年は勇の入学した四月までにだけでも、欧州では一月にアメリカ陸軍のアイゼンハワー将軍が連合軍の北フランス上陸作戦の最高司令官に任命されロンドンに着任したし、ソ連軍がドイツ軍に二年間以上も包囲されていたレニングラードを解放した。太平洋やアジアでは二月にアメリカ軍がマーシャル群島のクワジャリン・ルオット島を攻撃して日本守備隊を全滅させていたし、三月には日本軍がやがて失敗に終わるインパール作戦を補給路を無視して決行する暴挙にでていた。また日本国内では本土決戦に備えて「非常事態措置要綱」に基づく享楽追放が行われ、三月に高級料理店、待合、喫茶店、劇場等が閉鎖された。このように戦況は日本、ドイツ、イタリアの同盟三国共に連合軍から劣勢に追い込まれ破滅への道を突き進んでいる年であった。
小学校の入学式に付き添って行った母親の話によると、新入生一人一人が名前を呼ばれても返事が出来なかったり、声が小さくて聞き取れない子が多い中で勇だけはびっくりするほど大きな声で返事をしたということである。山手社宅から学校までは子供の足で四十〜五十分もかかる遠い所にあった。赤土饅頭を重ねて造った朝鮮人の住宅群を下方に見ながら、赤土で泥濘やすい田舎の山道を隊列を組んで通学した。土饅頭でできた家は薄暗く、いかにも不健康で非衛生的に見えた。
父を頼もしく思った記憶としてもう一つの光景がある。やはり山手社宅で就学前のある冬の日の出来事であった。朝早くから、朝食の用意をしていた母が貧血であったのか、風邪で熱があったせいか定かではないが台所で気分が悪くなり、倒れたのである。このとき父が母親を両手に抱きかかえてオンドルの部屋まで運び、布団を敷いて寝かし付け、体温計で熱を計り、鎮南浦の街から医者を連れてきたのである。私も一生懸命、布団を敷く手伝いをしたり洗面器に水を汲んで運んだりしながらいいしれぬ不安に襲われた。先生が診察を終えて洗面器で手を洗いながら「心配いりません。ゆっくり休んでいれば直ります」と言われたとき安堵すると共に頼もしい父親像を発見して尊敬の念を覚えた。
また山手社宅での出来事であるが、妹の幸子と庭で遊んでいたとき、尿意を催し、チンポコを出して幸子へ向け「ひっかけるぞ」と冗談を言ったら、大袈裟に騒いで逃げたので、面白くなり、追い掛け廻したことがある。これを目撃した父が激怒し勇を叩こうとした。危うく身をかわした勇は庭へ逃げた。
ところが父も勇をどこまでも追い掛けてきて、塀を攀じ登って逃げようとする勇の太股を手にした青竹で思いきりひっぱたいたのである。右の太股にできたみみず腫れは暫く痛んだ。叩かれて悪ふざけが過ぎたことを自覚したせいか、泣きもしないで母親のとりなしで父と妹に謝り、その場は収まった。いたずらをして拳骨を貰ったことは度々あったが、この時の折檻は余程身に応えたとみえこれ以後、父から体罰を受けたことはない。父親は怖い存在であることを実感として脳裏へインプットされた出来事である。
▼父のこと 昭和18年のことであったと記憶するが、この原っぱで父も参加して、在郷軍人会が軍事演習をしたことがある。
面会に行くと所謂三八式の小銃が三本ずつ銃口を上にして交差させ立てかけてありその傍らで胴着を付けて面を片手に持った父が腰かけて煙草を吸っていた。父のかたわらには胴着姿の兵隊さんや、軍服姿の兵隊さんが屯して、水筒の水を飲んだり、煙草を吸ったりしながら談笑していた。在郷軍人の演習であるから、実弾発射などはなく銃剣道や駆け足、匍匐練習が主体であったのではないかと思う。この時の父は頭に日本手拭いをまきつけており、初めて見る凛々しい父の剣道衣姿に頼もしさを感じとり、自分も早く大人になって銃剣道をしたいなあと思ったものである。鉄砲や胴着の実物を身近に見たのはこのときが初めてであり、このときの頼もしい父の姿が鮮明に脳裏に残っている。
この年には一月にスターリングラードでソ連軍に逆包囲されていたドイツ第6軍が飢えと寒さに襲われたうえ弾薬が尽きて降伏した。二月にはマラリヤと飢餓に襲われた日本軍がガダルカナルから撤退した。十月にはカステラーノ将軍が秘密降伏文書に調印しイタリヤ軍が連合国に無条件降伏した。そして日本では文部省主催の出陣学徒の大壮行会が神宮外苑で挙行され、推定十三万人の学徒が出陣した。このように戦局は日・独・伊三国が破滅へ向かって歩みだしていた。
日の出社宅の次に住んだ所は山手社宅と呼ばれていた。この社宅は中堅職員用のものであり、近くには重役邸も数軒並んでいる、閑静な住宅地であった。鎮南浦の街へ出る途中には大きな池があって、冬になると凍結してスケートや箱そりで遊ぶことができた。この箱橇は父が休日の日を利用して作ってくれたものであり、耳覆いのついた防寒帽を被り妹の「ニイナン」を乗せて引き綱を引っ張って滑らせ嬉々として遊んだ。自ら箱橇に腰を下ろして棒の先に釘の突起のついたストック様のものを両手に握って、両サイドの氷面を突いて滑ったりもした。
高学年の学童達はスケート靴を持っており巧みに滑っているのを羨ましげに眺めていた。もうこの頃になるとスケート靴などは店頭から姿を消しており、兄や姉のいる学童だけがお下がりを貰って滑ることができた。勇のように兄や姉のいない幼児はスケート靴がないので箱橇で我慢するしかなかったのである。
また勇の家の近くには四〜五百坪ほどもある原っぱがあり、子供達の恰好の遊び場になっていた。
| 2004年10月22日(金) |
あっぺこっぺのお婆さん、林檎狩り |
日の出社宅には「あっぺこっぺのお婆さん」という物知りがいた。鹿児島県出身の老婦人で、鹿児島なまりを地に出して話をするものだから、この老婦人と会話をするとトンチンカンになることが多かった。
「あちらこちら」を「あっぺこっぺ」というのでいつしか「あっぺこっぺのおばあさん」で通っていた。勇が腸チフスで入院したとき下駄を持ち物の中に加えるように助言して下さったのも、また付き添いには赤の他人の方がよいと言って、知り合いの信頼できる付き添い婦を紹介して下さったのもこの「あっぺこっぺ」のおばあさんだった。
ある秋の一日、会社の行事で田舎の果樹園へ家族連れで林檎狩りにでかけたことがあるが、その前日母親がせっせと巻き寿司やら稲荷寿司やらを作っているのが嬉しくて、中々寝つかれず 「明日は朝早いのだから、早く寝なさい」 と叱られても、布団の中かららんらんと目を輝かせて母親の弁当作りを見ていた。
翌日の朝、食事をするのにいつもと違って、エボナイト製の食器で食事をさせられ、勝手が違うので思うように食事が喉を通らなかったのを鮮明に思い出す。列車に乗って平壌近くの果樹園まで1時間程の距離であったが、記憶に残っている乗り物としては初めての経験だったので、道中が非常に長いものに思われた。
列車の中で嬉しさのあまり、騒ぎまわっていたが、学齢期前の幼児であったため、叱る人もなく隣近所に愛嬌をふりまいては、車中の人気者になっていた。座席の背もたれを跨いで背中合わせの隣の席へ渡ってみたり、アカンベーをしたりとかなりの腕白振りを発揮していたことが遠い記憶に残っている。賑やかなのも行きの車中だけのことであり、帰りの車中では疲れ果てておとなしくなり、「コッポちゃん。どうしたの。おとなしいわね」と言われた。林檎園でも喜んではしゃぎまわったことと思うが不思議なことにその情景を思い出そうとしても思い出すことができない。
| 2004年10月21日(木) |
コッポとニイナン、母のこと�� |
この他にも勇が鎮南浦時代の母親を偲ぶとき必ず思い出す情景が三つある。
その一は、四才か五才の時の出来事である。冬、母親の恵子と町へ出て買い物も終わり、近道をするつもりだったのか、池の畔に張られた鉄条網の破れ目をくぐり抜けようとした。誰とはなしに、そこを通るものだから網の目の破れ目の所に自然と道ができていた。妹の幸子をおんぶして勇の手を引いていた母親が、足を滑らせて重心を失い転びそうになったので、本能的に鉄条網を片手に掴んで、体を支えたのである。転倒は免れたものの手の掌は鉄条網の棘で傷つき出血した。幼な心に母親の受傷出血を目撃し、衝撃を受けたのであろうか、長じてからも血を見る度にこの時の母親の手掌を染めた鮮血を思い出すのである。
その二は、小高い丘の上の社宅は冬になると、下水道が凍結し、排水がオーバーフローしてうまく流れなくなることがある。そんな時、母は近所で遊んでいる朝鮮人の若い男の子達を集め、なにがしかの駄賃を与えて、つるはしとスコップで氷を割らせていた。少年とはいえ、母より背丈の高い男達に指図して作業させる母親の姿を勇は畏敬の目で見ていたことを思い出す。
その三は、冬になると気管支の弱かった勇は風邪をひくとよく咳をした。そんな時母は逃げ回る勇を執拗に追い回し、必ず蒸気吸入をさせた。首に涎かけをつけてガラス製の器具からアルコールランプで熱せられて発生する水蒸気を管の先から口の中へ吸い込むのである。最近ではこの蒸気吸入器をみかけなくなったが昔懐かしい情景である。
| 2004年10月20日(水) |
コッポとニイナン、母のこと�� |
▼コッポとニイナン、母のこと
日の出社宅にいた頃父がヨチヨチ歩きの妹「ニイナン」と兄の「コッポ」を連れて池へとんぼ釣りに連れていってくれたことがある。捕ったトンボの羽を指にはさんでおくことを教えて貰ったが、妹は預けられたトンボをムシャムシャ食べてしまうということがあった。
勇は愛称「コッポ」と呼ばれていた。「コップ」という発音が出来ず「コッポ」と言ったのがいつしか愛称になったものである。これに対して妹の幸子は、「ニイナン」と呼ばれていた。「ニイチャン」が言えなくて「ニイナン」になってしまうところから名付けられた愛称である。勇と妹は何時も一緒に行動しており、「コッポ」と「ニイナン」は近所でも話題になるほど仲の良い兄妹で通っていた。
日の出社宅は小高い丘の上にあり、丘を下りた所にアカシア並木の大通りがあった。この大通りへは社宅から坂道で通じていた。勇が近所の餓鬼大将達と遊んでいるとき、子供であれば皆一度は経験したことがあるように、坂道を通らないでわざと坂の斜面の植え込みの間を縫うようにして登ったり、下りたりして遊んでいた。
ある日この植え込みの斜面で追っ掛けごっこをしていた時、木の枝に顔を突っ込んで目に枝が当たった。餓鬼大将の注進で飛んできた母親に連れられて街の眼科医へ駆け込んだが、幸い目に傷はついておらず目蓋に少し傷ができた程度で失明は免れた。この時も母親は勇を生まれもつかぬ盲にしてしまったかと大層心配した。眼科医は鎮南浦の街中にしかなかったので、母親は勇を背負って三十分ばかりの道程を我を忘れて走ったのである。現在であれば電話は何処にでもあるし、救急車の出動を要請するのも簡単であるが、当時は身近に電話があるわけでもないし、増してや流しのタクシーがあるわけでもない。患者を背負って医者へ走るしか術がなかったのである。
▼腸チフスに罹患 日の出社宅で一番大きな出来事は、法定伝染病の腸チフスに罹ったことである。その日は父の勤めが休みの日で、父と勇と妹の幸子の3人は母親心尽くしの弁当をリュックサックに詰め込み、嬉々として大同江へ魚釣りに行った。その日は鮒が5尾釣れただけで何故か、翌日、勇は熱発して激しい下痢に見舞われた。医者の診断では腸チフスだから直ちに隔離病院へ入院させなければならないということになり、朝鮮人の付き添い婦がつけられて入院した。腸チフスに罹った原因は、魚釣りに行った時、大同江の水で林檎を洗い皮のままかぶりついたので、河の水にいた病原菌が体内に侵入したのではないかということであった。最初は母親が付き添って看病にあたるつもりでいたが年配者からの助言で腸チフスの場合、身内の者が付き添いすると助かる命も助からなくしてしまうから、赤の他人の付き添い婦を頼んだほうがよいということになったのである。
その理由はこの病気の場合、患者が食べ物や水を欲しがった時にこれを与えると、必ずと言っていいほど患者を死なせてしまうことになるという。身内であるが故に医者に禁止されていても患者が可愛そうになり、ほんの少しぐらいならと情にほだされて、医者の目を盗んで与えることになり、これが仇となるケースが非常に多いということからであった。
また、入院するときに、必ず退院して来られるように新しい下駄を持ち物の中に入れるようにと言われて、母親は正月に履かせようと仕舞っておいた下駄を荷物の中へ入れた。柩に入って帰るのであれば履物は無くてもよいという縁起担ぎである。若かった母親はこのときばかりは、二度と息子がこの家へ帰ってくることは出来ないのではないかと覚悟し、我が子の病気快復を神仏に祈念して願をかけた。一週間水垢離をとって近くのお寺へ日参したのである。結果的には付き添い婦を付けたことが功を奏して全快した。付き添い婦は飲食物を欲しがる勇の要求を断固として拒絶したからである。
隔離病院へ入院したとき、コルク製の弾に糸のついた玩具の鉄砲をお見舞いに貰い、これが嬉しくてベットの中で引き金を引いてはコルクの弾を発射させて遊んでいた。そのうち体も衰弱して死線を彷徨ったのでいつしかこの鉄砲も部屋の片隅に置かれるままになっていた。やがて退院となったとき、看護婦が玩具の鉄砲を持ってきてくれた。引き金を引こうとするのだが、力がはいらなくて引き金が引けなかった。ベットから下りて歩こうとすると、両足で立つのが精一杯で歩こうとしてもよろけて転びそうになり、歩くことが出来ない。人力車まで父に背負われて行った。
父の作次は写真に趣味があり色々展覧会などにも出品して賞なども貰っていたが同好の士や独身の部下達を自宅に招いて御馳走をすることもあった。その日は母が張り切ってもてなすので子供心にも来客をもてなさなければという意識があった。写真を趣味とする集まりだけに皆自慢の写真を披露しあっては楽しそうに話し合っていた。勇は大人達が写真を前にかざして説明しているのを父の傍らで一人前の顔をして見たり聞いたりしていた。
「この前出征兵士を送る壮行会の出し物でとった踊り子の写真がありますが出してもいいでしょうか」と言って、勇のほうを見ながら父に一枚の写真を手渡している客がある。
「ほう、なかなかよく撮れているじゃあないですか」と父がその客から手渡された写真を壁に張って披露した。それはブラジャーと腰蓑をつけただけの踊り子達の群舞の写真であった。
ここに及んで、うちにも似たような裸の写真があることを思い出した。隣の道子ちゃんとかくれんぼをしているとき押入れの箱の中で見つけた写真である。父が押入れの中に仕舞っておくくらいだから余程大切な写真に違いなかった。これを父が取り出して来て披露しないのが不思議であった。きっと父は写真の存在を忘れているに違いないと考えた勇は、押入れの中からこの写真を取り出してきて父に手渡しこれもお見せしたらと手柄顔して言ったものである。すると写真を手にした父が慌てて机の引出しに仕舞い込み、子供は向こうで遊んでいなさいと隣の子供部屋を指差しながら厳しい口調で言った。何故父親が慌てて折角の写真を仕舞い込んだのか不思議であった。
二つ目は、当時の田舎では何処であろうとそうであったように、この時の勇達の帰郷のために祖父は餅を撞いてもてなした。時期が秋祭りであったからお祭り用の散らし寿司やその他の料理も用意されたが、お土産に持たせようと考えたらしい。つきあがった餅を勇の母が伯母や祖母と一緒にもろぶたの上でせっせと丸めていた。また薄く延ばした餅を特別に用意し、食紅を使い人形やら花やら動物の形にこしらえていた。
三つ目は鬼ベチャと対面したことである。当時の豊州村では秋祭りには氏神様を祭る為の行事のひとつとして、鬼退治をした吉備津彦の故事に因んで仮装した鬼が出ることになっていた。村の青少年達がこの日のために、赤や青色の張り子の鬼面を作り、これを被って赤や青の衣装を纏い村中を練り歩く風習があった。
祖父の屋敷で、砂糖黍を噛んでいると、鼻先へいきなり、赤色の鬼がニュッと顔を出したものだから堪らない。傍にいた父の胸にむしゃぶりついて、悲鳴に近い泣き声を上げたものである。勇の驚きように、鬼の主も慌てて面を脱いで素顔を見せ泣きじゃくる勇を宥めるのに懸命であった。周囲の大人達は爆笑していたが、このときの光景は、祭りの鬼を見る度に必ず思い出す懐かしい思い出である。
なお鬼について茶屋町町史には以下のような解説があるので引用しておくこととする。
【引用開始】
鬼の由来 吉備津神社と温羅(うら)
鬼の由来についての文献がなく、その手がかりが得られないので推論にしかならないが、その由来は次のようなことではないかと思われる。 吉備津神社の祭神、吉備津彦が異国の鬼神(百済の王子温羅)を退治した伝説は有名である。備中の国新山に城(現、総社市の鬼ノ城)を構えていた温羅を、吉備津彦が征伐して首を打ちとったのであるが、その叫び声はうなり止まず、釜殿のへっついの下に埋めたところ、やっと鳴り止んだという。(今は吉凶占いの鳴り釜の神事として信仰されている)そういう鬼退治の物語は、備中神楽の中にも出てきたり、室町時代の能にも、「吉備津宮」として舞われたりしている。
その温羅は、吉備津彦命の随神として吉備津神社の境内、艮(うしとら―東北)の一角にまつられ、艮御崎(みさきとは御先、つまり手先きのこと)として信仰の対象となっている。
その艮御崎は、強い神様、霊験あらたかな神としてその信仰は厚く、諸国村々に分霊がまつられ、村の鎮守の神として人々に畏敬されている。つまり、御崎様、御前様、と言われているのがそれである。
ところで、早島の鶴崎神社は、別名が御崎様と言われ、艮御崎をその祭神としてまつっている。そこで御崎様の氏子である早島や帯江の人々が、強い艮御崎の信仰から、鬼面を着けて村中を練り歩いたものであろう。
茶屋町の氏神は住吉神社、稲荷神社であり、艮御崎と何ら関係がないのに、なぜ鬼の出る風習ができ上がったのだろぅか。
茶屋町の前身、帯江新田村は帯江に知行所を持つ戸川安広が、同じく早島新田村は早島に知行所を持つ戸川安貞と共同で拓いた土地である。そこで、早島、帯江の両領から、多数の氏子が茶屋町へ入植したことから、早島、帯江の氏神である鶴崎神社の祭りの風習を、そのまま持ち込んだのではないかと推測される。
戦前は早島にも帯江にも鬼の出る習わしはあったが、茶屋町と時を同じくして消滅してしまった。
「艮みさきは恐ろしや」という信仰が、鬼を恐れ、鬼をまつる心となり、吉備津彦の鬼退治の伝説と結びついて、鬼が村中を歩きまわるという習わしになり、それが干拓入植の人々によって茶屋町へ導入されたものであろう。
文献 『改訂 茶屋町史』
--------------------------------------------------------------------------------
姿を消した鬼
その鬼まつり風物詩も、戦後の昭和30年を過ぎたころから、その姿を消していった。 戦後の人心は荒廃し、犯罪も激増する乱れた時代であったから、鬼面を着ていることをよいことに、せっ盗や暴力など度の過ぎた悪行が増加した。そのことから、鬼のコン棒を取り上げ、警察が取り締まりに乗り出した。加えて、交通事情が悪化し、交通事故の心配がされるようになってからは、鬼面を着る者が少なくなり、やがて鬼のいない茶屋町の祭となってしまった。
しかし、茶屋町町民にとって、鬼は郷愁であり、心のふるさとである。その復活を願う人々の心は、また切なるものがあり、やがて、それは復活へのエネルギーとなっていった。
文献 『改訂 茶屋町史』
【引用終わり】
▼初めての帰郷 日本鉱業の鎮南浦精錬所の技術者として朝鮮に世帯を持った父が、長男の勇を連れて初めて帰郷したのが、勇の最初の旅であった。
この時期には父方の祖父作次郎も健在で県南の豊州村字高須賀の農家で隠居生活を送っていた。魚釣りが好きで自宅周辺の川で太公望を決め込み余生を楽しみながら過ごしていた。そこへ次男の作次が孫を連れて外地から帰郷したので余程嬉しかったのであろう、滞在中ずっと勇の子守役を買ってでた。勇の脳裏には作次郎爺さんとのこの時の交流が鮮明に焼き付いている。そして、旅という言葉や祖父という言葉を耳にしたとき、必ず思い出す情景が幾つかある。 その一は、祖父、作次郎の背中に掴まって、川向かいの畑へ砂糖黍を取りに行ったことである。幅5m程の川には人一人が通れる程の板が、一枚渡してあって、その上を板の振動に合わせて体をゆさぶりながら器用に渡って行くのである。 川へ落ちるのではないかという恐怖が、幼い心の中に沈澱して忘れられない心象風景となったのか、或いは、幅狭い板の上を器用に渡って行く祖父のバランス感覚と運動神経が、その幅広い背中と共に頼もしさを印象付けたのであろうか。このことだけはいまだに鮮明に記憶の底に残っているのである。
「人間は人様のお世話ができるときには、お世話をしておかなければなりません。僅か3才の時から人様に喜んで頂けるなんて滅多にない幸せですよ」との母親の執拗な説得に折れて、乳吸いに通うことになった。妹に奪われてしまった母の愛情の代償を、小母さんのおっぱいに求めたのかもしれない。 小母さんが自分の子に授乳を済ませ、寝かせつけてからが出番であった。小母さんが椅子に腰掛け着物の前をはだけて剥き出しにした形良く張った乳房へ勇が立ったままの姿勢でむしゃぶりつくのである。両方の手は小母さんの帯をしっかり掴んでいる。もう一つ傍らに置かれた椅子の上にはアルマイトのボールが置かれていて、吸い出した乳を吐き出せるように準備されていた。 「ああ、勇ちゃんそうよ、もっと・・・・もっと強く吸って頂戴・・・・」最初はこわごわ乳首をくわえて乳を吸い出し、一口ごとに傍らのボールへ吐き出していた。そのうち小母さんは気持ちよさそうに目を瞑りながら自分でも大きな乳房に両手の掌をあてがって絞りだすようにする。小母さんが掌に力を入れるたびに母乳が勢いよく口の中へ放出されるので飲み込んでしまうこともあった。飲み込んだ乳液はつい最近まで母親の乳房に戯れていたときと似た甘美な感触を思い出させた。気管支へ入りそうになり咳き込んで思わず口を放して、傍らのボールへ口に含んだ乳を吐き出すこともあった。 「駄目よ、勇ちゃん。口を放しては・・早く・・・・吸って頂戴、ああっ、こぼれちゃうわ」と小母さんが切なそうな声でせきたてるので再び大きな乳房へくらいついていった。 「そうよ、もっと強く吸って、ああっ・・気持ちがいいわ。そうよ、そうそう・・・・噛んでもいいわよ」と小母さんは背中をのけ反らせたあと今度は勇の頭に覆いかぶさるようにして背中へ両手を回しぎゅっと抱きしめた。それを合図に勇が乳首を軽く噛むと 「ああっ・・」と言って再び体をのけ反らした後で 「どうもありがとう。とても気持ちよかったわ」と言って勇の頬っぺたに軽く口づけをして、その日の乳吸いは終わるのであった。帰りには、キャラメルとかビスケット等を半紙に包んで持たせてくれた。
この蘆溝橋事件は日中戦争の発端となったのであるが不可解な事件であると思う。最初に発砲したのは誰かの真相は未だに藪の中である。
学研の現代新百科事典によれば以下のように解説されている。「1937年北京西南郊外の蘆溝橋付近で、日本の中国駐軍と中国軍との間に起こった武力衝突事件。日中戦争の発端となった。7月7日夜、日本軍が夜間演習中に原因不明の数発の実弾が飛んできた。点呼の結果、兵一人が行方不明(実際は用便中で、すぐあとで発見された。)となっていたため日本軍はこれを理由に大隊主力を出動させて中国軍を攻撃した。11日現地では停戦協定が締結されたが同日東京では、政府が三個師団の動員を決定、派兵を声明した。政府・陸軍中央部は不拡大方針を宣伝しつつも、陸軍部内の強硬派は暗躍を続け28日から現地軍は北京・天津一帯で全面的に軍事行動を開始した」
この解説は比較的客観的に史実を叙述しているが、中には自虐史観に禍されて故意に軍部の侵略意志を強調するものもある。当時の時代背景の中で 日本の置かれた立場も考慮に入れて事件を解釈しなければならないと思う。
当時の原史料に基づきこの蘆溝橋事件を検証しているサイトを見つけたので参考までにリンクを張っておくこととする。
蘆溝橋事件
幸子が生まれた昭和15年という年は、中国では3月に日本軍が支援して王兆銘の傀儡政権を南京に誕生させ、欧州ではナチスのヒットラーが、4月に中立国のノルウェーとデンマークを電撃作戦で侵略し、5月に西部戦線の攻撃を始めて大勝利をおさめていた。そして九月には日・独・伊の三国同盟を締結し、時代は第二次世界大戦へと突入していきつつあった。
妹の幸子が生まれた頃は小高い丘の上にある日の出社宅に住んでいた。勇は妹が生まれてからは母親に遊んで貰える機会が少なくなったので、社宅の幼児達と一緒に遊ぶことが多くなったが行動の場は自宅を中心とした短い半径の円周内がその領域であった。
その領域内にある一軒の社宅に乳が張って困るという初産で産後の婦人がいた。自分の嬰児だけでは消化しきれないほど乳がでたのである。母が懇意にしていた人なので、妹が生まれたのを機会に勇に乳を吸いだしに毎日通ってくれないかという話があった。張った乳房は手で揉んで出すよりも幼児に吸って貰って出すほうが、体によいということから、勇がその光栄の候補者になったのであるが、その役を引き受けるのが気恥ずかしくて嫌だと逃げまわっていた。が、真のところは母親の愛情を自分が独占していたのに、妹に奪われてしまったことに対するやっかみから母親を困らせることによって愛情を取り戻そうとするささやかな抵抗であった。
| 2004年10月13日(水) |
自分史的連載小説・・・定年退職万歳 |
定 年 退 職 万 歳・・・自分史的連載小説 前潟都窪 1.鎮南浦時代 ▼妹の誕生 オンドル以外の部屋の硝子窓には幾重にも花のような形をした氷の結晶が張りつき、軒下には氷柱が何本もぶら下がっていた。 「坊ちゃん今日から、お兄ちゃんになるんだから、ここでお利口さんしているんですよ」 とその日駆けつけてきた産婆さんがオンドルで遊んでいた勇に言った。 「うん、赤ちゃんが生まれるんでしょう」 と得意な気持ちになって,勇は積み木で遊んでいた。 そのうち隣の部屋で泣き声がして、手伝いにきていたオムニ(朝鮮語で女の人)が 「女の子だよ。坊ちゃん妹ができたよ」 と教えてにきてくれた。昭和15年2月1日のことであった。 父が日本鉱業鎮南浦精錬所の分析技師として奉職していたので、勇は朝鮮の鎮南浦で都窪作治、恵子の長男としてこの世に生を受けた。幼い頃のもので勇の記憶に残っている一番古い思い出は、妹幸子が誕生した日のことである。その日は子供心にも何か異変が我が家に起こりつつあるということを本能的に身に感じながら、オンドルで遊んでいたのである。 勇が生まれた昭和12年という年は、7月に北京の南西6km、永定河にかかる蘆溝橋付近で、日本軍の一隊の演習中に発砲事件が起きた。以後8年間に及ぶ日中全面戦争に突入するきっかけとなつた「蘆溝橋事件」であり、時代は軍部が戦争へ向けて牙を磨きつつあり、軍国主義の気分が横溢しつつあった。
本年四月より始めた世界紀行も手持ちの資料がなくなったのでひとまず連載は終了することにしたい。装いを新たにして別のテーマで執筆を再開したいと考えている。
| 2004年10月08日(金) |
旅のノウハウ24・・スリの手口�� |
2004年9月チェコのプラハでFISAの世界マスターズレガッタが開催された。漕友達ともどもこのレガッタに出漕するためプラハ入りした。この年は東欧諸国で大洪水があり、プラハ市内もその被害を受け地下鉄は不通でバスが代替機関として運行されていた。
噂では地下鉄を稼ぎ場としているスリが地上にあがってバスや路面電車が危ないと聞かされていた。
何回かバスや電車にも乗って切符の買い方などにも慣れ始めた頃のことである。数人の友人とプラハ城の見学を終えて帰路の電車に乗ることにした。電車が到着して友人達は先に乗り込んだ。筆者が一番最後に乗り込もうとしたら数人の男達が取り囲むようにして進路を塞ぐのである。これは危ないぞと内心用心しながら人垣をかき分けて車内へ進もうとした。その時ずぼんのポケットに手が差し込まれるのを感知したので右手で激しく叩いてやった。すると発車間際に数人の男達が慌てて電車を飛び下りた。ポケットに入れていた小銭入れの財布は無事であった。
電車やバスの乗り降りの時進路妨害されるような時はスリに狙われている時である。多分彼等は地下鉄で同じ手口で稼いでいたのだろう。
| 2004年10月07日(木) |
旅のノウハウ23・・スリの手口�� |
イスタンブールのバザールは魅力に富んでいる。猥雑な中にも活気がある。 東西の文化が如何にも混交する場という雰囲気が漂っている。 バザールを出て人込みへ踏み出そうとした時のこと。若い男が肩を叩いて足元を指さした。ハンカチを落としたという手振りをして注意してくれたのである。一瞬目がそちらへ誘導され隙ができかけた。一瞥したところ自分の持ち物ではない。筆者は白いハンカチは使わない。落ちているハンカチは白いではないか。これはスリの手口だと瞬時に理解して「Not mine.Thank you」と大声で応答し、足早にその場を離れたので被害を受けることなくやり過ごすことができた。ホテルに帰って同行の人達と情報交換するとハンカチの代わりに硬貨を落として注意を誘う手口もあることを知った。
| 2004年10月06日(水) |
旅のノウハウ22・・スリの手口�� |
スペインのマドリードでのことである。ピカソ美術館の見学を終えてホテルまで8人の同行者が連れ立って散歩しながら帰ることになった。二人づつ並んで縦隊を組み離れないように気をつけながら歩いていたのだが、隣り合った同士が話に夢中になっていつしか隊列はまのびしたものになっていた。筆者は一番先頭を歩いていた。すると突然後方からドロボーという叫び声が聞こえた。驚いて振り返ると15m程後方でT夫人が道路にかがみ込んで必死にポシェットの紐を離すまいと抑えており、若い男が三人かかりでポシェットを引っ張っている姿が目に入った。これは大変だ助けに行かなければと走りだした時には紐が切れて鞄を掴んだ三人の男は逃げ去った。後を夢中でおっかけたが、四つ角を左に曲がられて視界から消えてなくなった。追いかけるのは諦めて現場へ戻るとなんと被害に遇ったのは同行8人中5人にも達していた。 手口は最後尾の婦人Sさんのリュックサックを三人かかりで後からはぎ取ったのである。この時、Sさんがドロボーと叫んだのである。何事かとすぐ前を歩いていたT婦人が後を振り向いた時に一瞬の隙ができた。そこを別の組みに狙われたのである。筆者が目撃した犯行情景はこの時のことである。いずれも同行者の大声に後を振り返り状況判断をしようと一瞬の隙ができたところを肩にぶら下げたカメラやハンドバッグ、ビデオカメラをひったくられたのである。犯行は7〜8人のグループで我々の一行は目をつけられ狙われていたものと思われる。2〜3人が組みになって襲いかかり、それぞれ別々の方向へ散るように逃げ去ったのである。仲間が連れ立って歩くときでも離ればなれにならないよう間合いを開けないで注意しながら歩かなければならないという教訓であった。
| 2004年10月05日(火) |
旅のノウハウ21・・すりの手口�� |
1998年秋、夫婦でアルゼンチン、ブラジルへ旅行したときベノスアイレスで危なく古典的な手口でスリの被害に遇うところであった。 当日早めに市内観光を終えて、夕方から始まるタンゴショーにはかなりの自由時間があった。ホテルの部屋で疲れをとるのもいいが、折角遠い国へ来たのだから市内を探索しようということで、地図を片手に二人でキョロキョロ市内を散歩していた。折からジャカランタの花が咲いている季節で歩道にはジャカランタの並木が大きな日陰を作っており、小鳥達が沢山飛び交っていた。並木道を歩いていると頭上から何か鳥の糞のようなものが落ちてきて上着に付着したような気がした。手で触ってみると黄色い糞のようなものがついている。「鳥にやられた」と言って上の方を眺めていると家内が「まあ随分派手に鳥の糞を落とされたものですね」というのが聞こえた。するとそこへ通りかかりの若い現地人の女性がティッシュペーパーを持って上着を脱ぎなさいこれで拭いてあげようという手真似でにこにこしながら近づいてきた。同時に若い男がいずこからか同じように近づいてきて上の方の小鳥を指さしている。 このとき咄嗟に自分が置かれている状況に気がついた。先程手に付いた物体を嗅いでみるとマスタードの臭いがするではないか。「スリだ。相手にせず逃げよう。No Thank You」と叫んで家内ともども彼等から逃れ、何事もなく終わった。ホテルに帰って上着を確かめてみると袈裟懸けに太刀で切られたかの如く黄色いマスタードの線が一条付いていた。物陰に隠れていた男に水鉄砲で狙われたのである。地図を片手にキョロキョロしながら不用心な姿で歩いていたから、格好な獲物として付けられていたのであろう。丁度小鳥が沢山いるところを見計らって水鉄砲の洗礼を受けたということである。
| 2004年10月04日(月) |
旅のノウハウ�粥ΑΕ好蠅亮蠍��� |
1983年の4月に牧野昇氏を団長とするハノーバーメッセ視察団に加わって、初めて欧州の土地に降り立った。この時パリのホテルに朝方到着してロビーで部屋割りを待っている時の出来事であった。団員の中の某氏が背広の上着に何処で付けられたのかソフトクリームがべっとりついて汚されているのに気がついた。するとソファーに座っていた若い女性がティッシュペーパーを手に持ちながら上着を脱ぎなさい拭いてあげるという仕種で近寄ってきた。地方都市から参加していた某氏は何の疑いも持たず言われるままに背広を脱いで手渡し、綺麗に汚れをとってもらった。感謝しながらにこやかに手をふりながら双方その場は分かれた。 サクレクール寺院の見学の時、記念品を買おうと思って内ポケットの財布を取り出そうとした件の某氏が財布が無いのに初めて気がついた。幸いパスポートは腹巻にしまっていたので致命的な被害とはならなかったが小出しにして使う予定の当座の小遣いを失ってしまったのである。 今となっては古典的なスリの手口であるが、一昔前はこの手のスリに無防備の日本人はよくひっかかったものである。
| 2004年10月03日(日) |
旅のノウハウ�魁ΑΕ好蠅亮蠍��� |
外国旅行をする時にはスリや置き引きに注意しなければならない。特にニューヨーク等ではホテルの廊下は公道と同じ感覚で用心しなければならない。初めて海外旅行したときはアメリカの建国200年祭の年であったからもう28年も昔の1976年であった。この時はアメリカの経済産業視察団に参加しての渡米であった。団長は商学、法学、経済学の三つの博士号を持つ故斉藤栄三郎先生であった。コンビニエンスストアの現況も視察項目の中に入っていた。現在の日本におけるコンビニエンスストアの盛況を見ると感無量の感慨を催す。 さてこの時ガイドから何回も念を入れて注意されたことは、アメリカは銃社会であるから何時如何なるときに拳銃を突きつけられて強盗に遇うかもしれない。そのことを予想して常に10ドル程度の札を上着の胸ポケットに入れておいてホールドアップしなければならない。仮にも内ポケットへ手を入れて財布を取り出そうとしてはいけない。たちまちズドンとやられるということであった。 幸い強盗に遇うということはなかったが、自由時間に映画館へ映画を見に行ったかえりに裏町に踏み込んで喧嘩の場面に遭遇した。この時銃声を聞いて早々にホテルへ逃げ帰ったことを思い出す。 またホテルの部屋にいる時、ドアをノックして妙齢の美女が花売りにきた。この時は覗き窓から来訪者の姿を確認してから「No Thak you」と断ったが鼻の下を長くしてうっかり部屋の中へいれようものなら美人局であったりスリの常習犯であったりするから注意が肝要である。このこともガイドから教えられていたから難を逃れることができた。
| 2004年10月02日(土) |
旅のノウハウ�押ΑΩ霓� |
旅に出て悩まされるのが観光バスの発着場で待ち構えている乞食である。中には片腕なかったり、片足ない人がこれみよがしに患部を晒して同情をひこうとしている。この光景をみる度に痛ましさを覚えるとともに折角の旅情が害されて憂鬱な気持ちになる。中にはいたいけな幼児に物乞いをさせている母親もいる。ついつい同情して小銭を与えたくなるものだが、最初の好意が仇になることが往々にしてありがちだから注意が必要である。一人に与えると雲霞の如き乞食の群れに取り囲まれてしまう虞れがあるからだ。 更に、中国、タイ等には乞食産業というビジネスがあってこれを生業としている連中がいることを頭に入れておかなければならない。俗に乞食を三日やったらやみつきになると言われるくらい、乞食のほうが正業につくよりいい生活ができる国もまだ地球上にはあるということをしっかり頭にいれておく必要がある。 乞食をみかけた時は安易な博愛心はもたないで視線をあわせないように無視するのが一番いい。考えようによっては安易な同情心が相手の厚生意欲を減じることに手助けすることにもなりかねない。旅をするときには好奇心とある意味で冷酷非情な気持ちをもたなければならないということである。
| 2004年10月01日(金) |
旅のノウハウ�院Αη磴な� |
旅の楽しみは買い物にあるとはよく言われる。しかし値段が妥当なのかどうかか判らないことが多い。そこで外国旅行では値切るのが常識になっているが、一体どこまで値引きすれば上手な買い物と言えるのか判断に迷うことが多い。よく言われる言葉に「半値八掛け二割引き」というのがある。これは言い値に対して68%値切れば大体適正な価格であるとの経験則からでた買い物をする場合の目安である。
アラブの商人を相手にする時はこの言葉は概ね正鵠を得ている。アラブ人は自らは売値を言わないで客の予算を聞き出そうとするのがうまい。そこで別の店で下見をしておいた時の値段を上記の割引率で算出した自らの希望値を言ってみるとよい。何回かの駆け引きがあって先方が売りたいと思えば大体この値段で買うことができる。ことほど左様に観光客相手の商品には掛け幅が大きいのである。日本人に対しては特に高く設定されている。
外国では土産物屋で買うものは民芸品などが多いが、アルコール類、食品類を購入する時は現地の人達が利用するスーパーマーケットで購入するのが賢いやり方である。ここでは正札販売で値引きはしてくれないが概ね妥当な値段で買い物ができる。旅行社が案内してくれる店では品質についての安心感はあるが値段は必ずしも適正であるとは限らない。概ねかなり高いと思って間違いない。
さるさる日記 - 日記レンタル
 
|