前潟都窪の日記

2004年11月28日(日) コンパスのような女性��

 同窓会の翌日、桑野が香織の自宅を訪問しようと誘いにきた。青山香織の母は年頃の娘三人を抱えているので、若い男が遊びにきてくれるのを歓迎していた。娘三人とも中学校から女子ばかりのミッションスクールに進学させたので、親の目の届くところで男性と交際させるのを望んでいる。香織の姉二人の男友達もよく香織の家へ遊びに行っている。昨日同窓会で桑野が遊びにいってもいいかと尋ねたら是非来てほしい。母も歓迎する筈だと言った。自分独りで行くのも変な気がするので、肇も一緒についてきて欲しい。同級生の中で時間に余裕のあるのは学生の肇くらいしかいないので君を誘ったのだと言うのである。
 肇は桑野に誘われて香織の家へ付いて行った。
 H町の城跡のある山の中腹に、生け垣に囲まれた古風な造りの家が青山香織の家であった。桑野が案内を乞うと香織が出てきて、訪問客が肇と桑野であると知って笑顔を作り
「あら、珍しい方がいらっしゃったわ。さあどうぞ。どうぞ、お上がり下さい。お母様、桑野さんと中村さんがいらっしゃったわよ」と奥へ声をかけるとその声に香織の母親も奥から出てきて遠慮しないで上がってくれという。 桑野と肇が奥へ通されると、堀り炬燵の布団を取り払って机代わりに使っているらしい炬燵台の上には、今しがたまで母娘が談笑していたとみえ、いちごが皿に入れて置かれていた。
「よくいらっしゃいました。桑野さんも中村さんもお元気でしたか。二人の姉が嫁いでしまいましたので、香織と二人で寂しく暮らしていますのよ。色々、楽しいお話を聞かせて下さい。若い男の方のお話は頼もしくていいですね」と少し上がり気味の桑野と肇の様子を見て、香織の母は言葉巧みに話しかけてくる。やがて香織が台所からお茶を入れて持って来た。
「中村さんも桑野さんもH町に帰って来られたら、これからも是非、遊びにいらっしゃって下さい。香織の二人の姉達のお友達も皆さんよく遊びにいらっしゃって下さいましたわ。皆さんそれぞれ立派な社会人になられて。皆さんが成長なさるのを拝見しているのはとても楽しいことですのよ」
 香織の母は自分の息子達が親許へ帰ってきたような喜びようである。

 このようにして、肇は大学生の4年間、帰省すると必ず香織の家へ遊びにいくようになった。肇の学校生活の模様とか、香織の学生生活が話題になった。ある日話題が肇の将来の職業に及んだ時、肇は司法官を目指して勉強していることを披露した。肇には国家試験に合格する自信はなかったが、香織のために頑張るつもりであった。
「司法試験に合格したら、香織さんにプロポーズしようと思っています」と肇が意中を漏らすと香織は顔を朱に染めたが、             
「私は司法官は堅苦しくて嫌よ。お医者さんか、大蔵省とか通産省の公務員の方が好きだわ」と言った。
 肇は戸惑った。医者になることは法学部の学生にとって無理な注文であった。だが,大蔵省か通産省の役人になることはできる。この時以来、肇は司法官試験の勉強から上級国家公務員試験へと勉強方法を変えた。結果的にはこのことは功を奏した。

 4年生になって国家公務員試験に合格し、通産省入りが内定した肇は、卒業前の短い休暇を利用して帰省し、香織の自宅を勇み立って訪問した。香織と母は何時ものように肇を迎えてくれたが
「中村さん、良かったわね、通産省に入省がお決まりになって。おめでとうございます。お蔭さまで香織も、この度K大学の医学部でインターンをしている方と婚約が調いましたのよ。中村さんや桑野さんのような良いお友達と交際させて頂いたお蔭ですわ。これからも、帰省されたときには元気なお姿を拝見させて下さい」と香織の母が言った。

 香織の母の説明によれば、未亡人として女手一つで三人の娘を育て挙げ、それぞれに嫁がせることができた。女手で娘を育てるのだから、どうしても父親のようにはいかない。そこで、信頼出来る男友達を自宅へ招いて、親の目の届くところで交際させ娘に男を見る目を養わせたいと思って、肇や桑野と交際させた。肇や桑野が香織に好意以上のものを寄せていることは判ってていた。特に肇が国家試験に合格したらプロポーズしてくるだろうということも予想していた。香織が肇に好意を寄せていることも承知していた。しかし問題は肇が長男で、年老いた両親を扶養していく立場にあることだった。そして、香織の母にも最後の娘を嫁がてしまうと、老後の生活をどうするかという問題があった。そこで次男坊の医学生と結婚させるのが一番いいと思っていた。幸い良縁があったので婚約したということであった。

 肇は香織の母の説明を聞いて落胆した。目の前が真っ暗になる思いであった。春秋に富む時代に人生の方向を定める羅針盤の役割を果たした女性は手の届かない所へ去っていこうとしていた。その時、小学校3年生の夏、臨海学校で溺死した少女の柩桶を見たときの光景が瞼に浮かびやはり絆は切れたと思った。

 肇は大学を卒業して入省してから間もなく田鶴子と見合い結婚した。香織からは時節の挨拶が毎年送られてきた。肇も儀礼的に年賀状や暑中見舞いを出していたが、田鶴子に指摘されてからは出さなくなった。

 消息が判らなくなって4〜5年経ったある日、香織から夫が心臓病で急死したという便りが届いた。数えてみると香織は35歳で、香織の母が未亡人となった年齢と奇しくも同じ年齢であった。



2004年11月27日(土) コンパスのような女性��

 再び肇が香織と交渉を持つようになったのは、大学1年の夏休みのことである。激しい受験勉強から開放され、目的の国立大学に入学した肇は親元を離れて古都での学生生活にも漸く慣れ、祇園祭り、大文字焼きを土産話しにして初めて帰省した。肇が帰省するのを待ちかねるようにして、小学校時代の同窓会が開かれた。中学時代ではなく小学時代の同窓会であるところに意味があった。

 同窓会の幹事役を買ってでたのは桑野である。桑野は頭の良い男であったが、家庭の経済状態が許さず夜間高校へ通って、苦学力行しミシンのセールスにかけては特異な能力を発揮した。Rミシンでは3年間続けたトップセールスマンの実績を看板にして独立を試み、商事会社を設立して意気大いに上がっているときであった。桑野は自分の隆盛を同級生に誇示したいという気持ちがあった。また、とみに美人の誉れ高かった青山香織に近づきたいという魂胆もあった。そこで桑野は小学校時代の同窓会という奇抜なことを思いついたのである。H町にはH小学校とH中学校しかなかったから、H中学は小学校の延長であり、仮に同窓会を開くとすれば、H中学の同窓会を開くのが常識であった。ただ、中学時代の同窓会を開くことになると中学校からはO市のミッションスクールへ通学した青山香織が漏れてしまう。一計を案じた桑野は小学校時代の同窓会を開くという大義名分をたてておいて通知をだしたのである。

 中学卒業以来5年程経っていたので、久し振りに見る顔は皆立派な大人であった。当日30人程の同窓生が集まり、旧交を温めた。女子の中には既に結婚して母親になっている者もいた。

 餓鬼大将だった清山が学校菜園の西瓜畑に忍び込んで、西瓜に麦藁を突き刺し中の汁を吸ってしまったのを先生に見つかり、一日中廊下に立たされた話しとか、おませの栗坂京子が粗相して小便京子という異名をとった話しなど思い出話しに花が咲いた。

 餓鬼大将の清山が銀行マンになっており、物腰が柔らかく話し上手になっているのは驚きであったし、小便京子が化粧品会社のマネキンガールになって見違える程美しくなっているのも肇には新しい発見であった。幹事の桑野は「社長」「社長」と呼ばれ得意になってセールスの秘訣なるものを披露していた。

 青山香織は皆が楽しく談笑しているのをにこにこしながら聞いていた。桑野は誰彼となく如才なく話しかけていたが、栗坂京子と青山香織には特に親切に振る舞っていた。いつとはなしに、話題は恋愛論、結婚観、女性観、男性観へと転じていった。若い年頃の男女の集まりとしては当然のなりゆきであった。

 肇も桑野に促されて、恋愛論を喋らされるはめになってしまった。
 肇は小学校3年の時、臨海学校へ行って、飛び込み台の高い所から飛び込んだ話しをした。そして、あのとき未経験にもかかわらず、自分を一番高い所から飛び込ませる原動力となったものが、初恋の感情であり、純粋な恋愛感情というのは、そのようなものではないかと思うと述べ、この純粋な気持ちを大切にしたいと結んだ。肇は喋りながら、香織の方を注意していたが、香織は頷きながら、肇の話しを熱心に聞いていた。水玉模様の帽子を被り、黄色の水着を来ていた女の子が香織のことであると気づいている筈なのに、その表情からはよく読み取れなかった。しかし肇は香織の視線に眩しいものを感じていた。



2004年11月26日(金) コンパスのような女性��

 臨海学校へ参加した30人の学童のうち、男子はサポーターと称する三角褌または六尺褌をつけており、海水パンツなどという贅沢な水着をつけている男子学童はひとりもいなかった。女子学童にしても水着を着ている者は2〜3人で大半の女子はシュミーズのままで海に入った。水着を着ている2〜3人の女子の中に青山香織がいた。

 香織は黄色の水玉模様の海水帽を被っており、シュミーズや三角褌をつけた学童の中では、目立つ存在であった。そして泳ぎのできる者は男女取り混ぜて10人程しかおらず、女子で泳ぎの出来たものは香織だけであった。肇は腕白小僧達に鍛えられているので泳ぎは得意であった。
 泳ぎの出来る10人程の学童は沖の飛び込み台まで泳いでいってはキャッキャッと騒ぎながら、水をかけあったりしてふざけていた。

 波打ち際から50メートル程の沖合にある飛び込み台の所では水深3mほどあり、そこから沖へ出ることは禁止されていた。学童達は丸太で作られている飛び込み台の一番低いところから飛び込みをして、潜水競争をしたり、競泳をしたりした。男子の中に混じって飛び込み台まで泳いで来て、低い所から飛び込みをする黄色い帽子の香織は水の女王のように振る舞った。
「誰か一番高い所から飛び込める人いるかしら」と香織が言った。飛び込み台の一番高い所は2m50cm近くもあるので、流石に腕白連中もしり込みした。
「おい。お前やってみろよ」
「随分高いもんなぁ」
 皆が尻込みするのを見て、肇は胸が激しく高鳴るのを感じた。ここはひとつ自分がいいところを見せたいと思った。肇は2m50cmもある高い所から飛び込んだ経験はなかったが、今ここで飛び込んで見せれば、香織の気持ちを引きつけることができるだろうと思った。肇は武者振るいすると、一番高い所へ登っていった。下を見ると柱につかまって香織が見上げている。黄色の水着と水玉模様の帽子が早く飛び込んでご覧なさいと囁きかけている。肇は使命感のようなものを感じると目を瞑って、飛び込んだ。耳がジーンと痛く水が鼻孔を激しく刺激した。随分長い時間水に潜っているような気持ちがした。ぽかり、水面に顔を出すと
「凄いわ。中村さん」と香織が感嘆の声を発した。肇は香織のその言葉を聞いてポット体が熱くなった。香織が命令するならもっと高い所からでも飛び込むことができると思った。憧憬の対象に一歩近づいたと思った。香織との間に絆が出来たと思った。

 臨海学校の最終日に、高波に浚われて、他校からきていた3年生の女の子が溺死するという事件が起きた。夕闇迫る頃、柩に入れられた遺体が宿舎から運び出されるのを遠巻きに眺めた肇は、飛び込みの時香織との間にできた絆がこの見知らぬ少女の死によって断ち切られたのではないかという不安な気持ちになった。

 肇は香織と同学年であったが、小学校を卒業するまで、同じ級になったことがない。香織は二人の姉がそうであったように、小学校を卒業すると、ミッションスクールへ進学したので、H町の新制中学へ進学した肇とは没交渉になってしまった。



2004年11月25日(木) コンパスのような女性��

 桜井香織は旧姓青山香織といい、肇と同じ町内の出身で、年も肇と同年である。肇が終戦後、満州から引き上げてきて住みついたのは、瀬戸内地方の畳表の産地として有名なH町であった。

 肇は小学2年生で、下に二人の妹がいた。満州で薬品会社の試験室に分析技師として勤務していた父は、応召し内地の通信学校勤務のまま、終戦を迎え、家族より一足先に、住み慣れた故郷のH町へ復員していた。そのため、肇の母は戦後ベストセラーになった藤原てい著「流れる星は生きていた」にでてくる主人公と同じような苦労をして肇と二人の妹を女手一つで引き連れてH町の親元へ引き上げてきたのである。
 肇がH町の小学校へ転校したとき、同学年にいたオチャッピィーな女の子が青山香織である。青山家はH町でも由緒ある家柄の旧家で、香織の母は見識高い美貌の未亡人であった。青山夫人は後妻であり、先妻の長男と自分の腹を痛めた三人の女の子を育てていた。香織は末っ子であった。なさぬ仲の長男は既に東京へ遊学しており、H町にはミッションスクールに通っている長女と小学5年の次女と末っ子の香織が親元から通学していた。

 青山夫人は亡夫が残した遺産と実家からの援助で豊かな生活をしているというのが世間の風評であった。青山夫人はなかなかの社交家で、婦人会の会長を勤めたり、学校のPTAの役員をしたりしていたが、なさぬ仲の長男を継子扱いして東京の学校へ追い出してしまったとか、女だてらにPTAの役員に名を連ねては、見識ぶった発言をするとか、娘達を中学からミッションスクールへ通わせて、見栄をはっているなどと噂されていた。それらの噂は戦後、物資の不足している時代に亡夫の遺産と実家からの援助でぬくぬくした生活をしていることへの羨望と若後家を通しながらも女手一つで旧家の体面を保っていこうとするひたむきな姿勢に対するやっかみが入り交じったものであった。

 財産を満州へ置き去りにしたまま裸一貫で引き上げてきて、一から新しい生活を始めた肇の両親も青山未亡人には羨望の念を持っており、世間の噂に同調しているようなところがあった。肇が転校してきたのは二年生の時である。世間の噂や近所の陰口が耳に入っていたので、肇は青山家の人達は特殊な世界に住む別種の人種のように考えていた。

 肇が小学三年になった夏休みに、瀬戸内海の小島で臨海学校が催されることになって、肇も初めて親元を離れ、三泊四日の臨海学校へ参加した。一学年百二十人ほどの生徒のうち、臨海学校へ参加した学童は30人程で比較的生活にゆとりのある家庭の子供に限られた。肇が香織の存在を意識したのはこの臨海学校でのことであった。



2004年11月24日(水) コンパスのような女性��

 勇は後年、青山拓子をモデルにして短編小説を書いているので以下数回に分けてこの短編小説を引用しておくこととする。

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 「あなた、もういい加減に若い娘さんのところへ年賀状を出すのは止めて下さいよ。先方だって男の名前で年賀状がくるのは、迷惑なんですから」と妻の田鶴子が横から口を出した。

 中村 肇はせっせと年賀状の宛て名を書いている。朝から一心に書いているのだが、なかなか終わらない。几帳面な性格の肇は、自分に送られてきた手紙は全部住所を切り抜いて、名刺帳に整理してあるので、夏、冬二回は決まって三日間ほどかけて、年賀状と暑中見舞いを書くのが習わしになっている。肇は年賀状を印刷屋に頼んだことがない。儀礼的に出す賀状であるとはいえ、通り一片の文句を活字で印刷して出すことには抵抗がある。受け取る相手に心が籠もっていると感じて貰える賀状を出したいと心掛けているのである。そのため、肇は毎年趣向を凝らせた版画か水彩画を自分で一枚宛描くことにしている。余白には必ず一筆近況を書き添えなければ気が済まない律儀な性格である。

 肇の賀状はいつも評判が良かった。正月三日頃に配達されてくる肇宛の賀状には、綺麗な賀状をありがとうとか美しい賀状を拝受したとか、心の籠もった賀状に接し恐縮したという文句が書き添えられているものが多かった。 

 肇の傍らで書き上がった賀状に郵便番号を書き入れる作業を手伝っていた田鶴子が一枚の葉書を取り上げた。

「あなた、桜井香織さんという方から毎年賀状がきているようですが、どういう方ですの」
「幼な友達でね。コンパスのようなものさ」
「なんですかコンパスというのは」
「船に羅針盤というのがあるだろう。あれのことさ」
「どういう意味ですの」
「僕の人生を導いて呉れた人」
「まあ、憎らしい。その方と何かあったんですか」
「ハッハッハッ。冗談さ。コンパスという綽名がついていた」
「なあんだそうなの。それにしても上手な字を書く人ね」
「うん、書道は巧かったね。確か師範の免許をとった筈だよ」
「まだ結婚はなさらないのかしら」
「いや、結婚しているんだよ」
「あらそうなの。ご主人の名前を書いていらっしゃらないから、独身の方かと思っていましたわ。ご主人がおありになるなら、なおさらのこと、あなたが賀状をお出しになるのはおかしいわ。先方のご主人だって、男から妻宛の賀状が届いたりするといい気持ちはしないと思うわよ」
「わかった。わかった。今年から出すのは止めにするよ」

 肇は妻から詮索されるのがうるさくなったので、大きな声で答えておいてその日の賀状書きを終えることにした。なまじ、妻に詮索されたら、肇がコンパスのようなものさと言った意味を千言万語費やしても的確に説明することは出来ないだろう。田鶴子は肇が机の上を片付けだしたので、それ以上詮索するのは止めて台所へ立って行った。



2004年11月23日(火) 父祖の地へ生還し早島町で生活��

 岸田の寿美姉さんが泳ぎは一番うまく、飛び込み台からも飛び込んでは沖の方から手をあげて岸辺の私の方へ合図していたのを覚えている。美智子姉さんは、飛び込み台までは泳いで行くが飛び込みをするほどの勇気はなかったようである。その内、潮が引き私の犬掻き泳ぎでもたどりつける距離に飛び込み台が近ずいた時、岸田の寿美姉さんにけしかけられて、何回も塩水を飲み込みながらほうほうのていで飛び込み台まで辿りついた。飛び込み台の脚につかまりながら、岸田の寿美姉さんにクロ−ルの要領を教えてもらい、海岸へ向けて何回も練習をした。水面から顔をあげて呼吸をすることができなくて、クロ−ルは諦め、呼吸のしやすい平泳ぎを教わった。
 岸田の寿美姉さんは当時、倉敷高女の二年生であったが、海水浴を終わって、宿へ帰ると私と一緒に恥じらいもなく風呂へ入って塩水を洗い流していた姿が、漸く生え揃った恥毛とともに強烈な印象を私の脳裏へ刻みつけた。それは春に目覚める前触れの感受性がしからしめたものであったのかもしれない。
 早島小学校五年生の夏のことであったと記憶するが、渋川の海水浴場へ臨海学校と称して二泊三日の合宿に参加したことがある。当時は大東亜戦争が終わり、社会は混乱し、先行き経済の復興は出来るのかどうか予測も出来ず日本国全体が暗中模索の時代であったといえよう。ちなみに昭和24年の出来事を拾ってみると、下山事件、松川事件、シャープ勧告、毛沢東の中華人民共和国成立宣言、湯川秀樹ノーベル賞受賞などがある。
 当時の学級担任は荻野先生であったが、生徒達は初めての合宿であり、はしゃぎまわり、皆喜びではちきれていた。飽食時代の今の子供達には考え及びもしないことだが、食料事情が良くないので、全員米を袋に入れて参加することが、条件になっていた。確か一人三合ずつの米を荷物の中に入れていたと思う。合宿所に着くと、最初にしたことが、荷物から米袋を出して大きな米櫃に移し替えることであった。合宿所での生活は楽しかったし、青山拓子との間にプラトニックな恋愛感情を育んだのはこの合宿においてであった。



2004年11月20日(土) 父祖の地へ生還し早島町で生活��

2.岡山時代
 ▼父祖の地へ生還し早島町で生活
 宇野線の早島駅に昭和21年10月21日未明に到着し駅前で畳表や茣座の卸問屋を営んでいる母方の伯母(母の実姉)宅へ辿りつき、苦しかった北朝鮮鎮南浦からの引き揚げは終わったのである。この日は早島の秋祭りの日であった。このとき残り物ではあったが、御馳走になった「ばら寿司」の味は一生忘れられない。

 母子四人が無事生還できたのは、ひとえに母の頑張りのおかげである。このあと栄養失調に陥っていた母子四人は一か月程の静養の後、健康を取り戻したのである。

 小学校2年に編入したのは昭和21年の暮れであった。

 早島小学校三年生の時の夏休みに丸百の美智子姉さんと岸田の寿美姉さんに連れられて瀬戸内海の田島へ出掛けたのが、親と離れて旅した初めての経験であった。丸百は園田百次郎商店の屋号である。丸百はこの地方の特産品である畳表の卸問屋を生業としており、父方の大叔母が初代百次郎に嫁いでいた。また母の姉が二代百次郎に嫁いでいたので、勇にとって丸百は父方からも母方からも親戚である。従って美智子姉さんは従姉弟にあたるが、勇とひとまわり程年長者である。田島は瀬戸内海の小島で尾道から船で小一時間程の所にある漁師の島である。この田島に先代の大叔母、園田 米が別荘を持っていた。別荘と言っても実益を兼ねたやりかたで、留守居番の婦人に佃煮を作らせていた。私が美智子姉さんとこの島へ遊びに行った時この別荘を手放す予定にしており、手放してしまうと田島へ海水浴に出かけることも出来なくなるので、勇に一度、田島を見せておいてあげよういうことであったらしい。勇の育った早島町には、子供達が水遊び出来るような川も池も近くになかったので、海辺で数日間を過ごせることは無上の喜びであった。戦後間のない頃であり、水着などという贅沢品は求めようにも売っていなかった。男の子は当時サポーターと称していたが、布切れで出来た三角形の金隠しを付けて海や川に入った。女の子はシュミーズとズロースを着用していた。



2004年11月19日(金) 貨物船で祖国へ��

 厚生省の援護局から内地の紙幣を支給されて、佐世保駅から上り列車にやっと乗り込むことが出来た。博多の駅や下関の駅につくごとに、土地の婦人会の人達が湯茶の接待をして下さり、「長い道中、御苦労様でした」とねぎらいの言葉をかけて下さったので、やはり祖国はいいなとしみじみ思ったものである。

 途中の駅で駅弁を売っているところがあり、早速母が支給されたばかりの内地の紙幣でこれを求めた。中身は稲荷寿司なので、久し振りに御馳走が食べられると喜んで、かぶりついたところが、油揚げの下からでてきたのはお酢のよくきかせてある「おから」であった。内地だから、稲荷寿司には当然米の飯が使われているものと早合点した私達のほうに内地の経済事情についての認識不足があった。

 爆撃を受けて、生産施設に壊滅的な打撃を受けた日本の経済はまだ復興の緒についたばかりの段階で、米の配給制度は厳然として行われており、駅で売られる弁当に米が使われるような状態ではなかったのである。そのときやはり内地も敗戦国の苦しみを味わっているんだなということを認識した。



2004年11月18日(木) 貨物船で祖国へ��

 停泊中の貨物船に乗り込んで佐世保の港まで玄界灘の荒波に悩まされながらも、一行の気持ちだけは寛いでいた。しかし、引き揚げ船の中で片桐さんの生後三、四か月の嬰児が栄養失調が原因で死亡するという悲しい出来事があった。苦しい逃避行の中でもそれまで死者はなかったのに、祖国を目前にしてついに犠牲者が出てしまった。貨物船の薄暗い船底でお経をあげ、水葬にするという侘しくも悲しい弔いであった。

 佐世保港へついてからも直ちに上陸が許された訳ではない。検疫のため、肛門に注射器ようのものを挿入されて便を採られた。さらにDDTで消毒されたので、下船までには随分時間がかかった。やっと踏みしめた祖国の大地であった。このあと港の倉庫で引き揚げ列車の順番を待ったり、帰国手続きのために一晩をあかすことになった。貨物船も狭い場所へ大勢の人がごろ寝をしたが、体を横にして手足を伸ばすだけの場所はあった。ところが、上陸したとはいえ、一晩を過ごした倉庫の中は手狭で、横になるだけのスペースがないため、床に腰を降ろして立て膝をしたまま仮眠するのがやっとの状態であった。積み重ねたリュックサックに背中をもたせかけて、立て膝を両手で抱えこんだ姿で鼾をかきながら一行は、安堵の夢を結んだのである。



2004年11月17日(水) 米軍管理下の難民収容所��

 また、母は勇の細君にも晩年、何も財産らしいものは残せなかったが、3人の幼子を誰一人欠けることなく日本へ連れて帰って来たことが母の誇りであるし母の無形の財産であると語ったということである。

 開城のテント村から仁川のテント村への移動も米軍のジープとトラックで行われた。威嚇射撃をしたり、賄賂を要求する「ロ助」と比較すれば、さらに七日間の徒歩による逃避行のことを思えば、乗り物に乗せて内地へ確実に一歩ずつ近付けて呉れる米軍はまさに地獄に仏の存在であった。開城から仁川へ向かうトラックを運転していた兵士は黒人で、チューインガムをむしゃむしゃ噛んでいる唇の合間に見える白い歯が、非常に印象的であった。また仁川のキャンプ村へ近付いたとき、通り抜けた茶色い切り通しの崖のうえに仰いだ、雲一つない青空は勇の人生の中で感じた最も美しい色の一つであった。港の海面も太陽に眩しいばかりに輝いており、紺碧の色は苦難を乗り越えて、父祖の国へ確実に近付いている引き揚げ者の明るい気持ちを象徴しているようであった。

 仁川でもまずDDTの洗礼を受けてからテント村へ入った。ここでは三日間の短い日数であったから、記憶に残る思い出はない。



2004年11月16日(火) 米軍管理下の難民収容所��

 七日間のテント生活は、殆ど雨に降られたため、テントに閉じ込められて生活したように思う。鎮南浦出発以来、入浴していないうえ、野宿したり、川を渡ったりしたので、着衣は垢と汗で臭くなっており、DDTで入村時に消毒されたにもかかわらず、腰のバンドの下に虱がわいたのを覚えている。藤原ていさんの著作「流れる星は生きていた」に比べると勇達の国境までの逃避行はまだ、恵まれていた方である。日本鉱業の従業員とその家族を主体としたグループであったから、比較的統制のとれた行動ができたせいか、道中、無法者に略奪暴行されたり、婦女子が凌辱を受けるという悲劇もなく落伍した一家族を除いては、全員無事に国境を越えることができた。

 引き揚げ者のグループが何人いたのか正確には覚えていないが、現在薄れかけた記憶を辿って当時の隊列を思い出してみると四〜五百人の人数だったのではないかという気がする。国境線で落伍した児玉さん一家は丁度勇の家と同じような家族構成で、若い母親が三人の幼小児をひきつれていた。逃避行という異常な状況の中では誰しも自分のことだけで精一杯になり、落伍しそうな家族があっても、せいぜい声をかけて励ます程度のことしか出来ず、悲しく情けない思いをしたのは、勇だけではなかったであろう。児玉さん一家もこのときは落伍したが、何か月か後には無事内地までたどりついたという噂を聞いた。



2004年11月15日(月) 米軍管理下の難民収容所��

 ▼米軍管理下の難民収容所
 国境を越えてからの旅は恵まれていた。米軍のジープやトラックが国境線近くに待ちうけていて、次々に開城のテント村まで運んでくれた。テント村に入る前に頭からDDTをふりかけられて体中真っ白になった。このテント村には一週間抑留された。テント村は北朝鮮から脱出してくる日本人引き揚げ者を船便の手配が出来るまで収容しておく米軍経営の難民キャンプであった。

 アルマイト製の食器を与えられ、朝、昼、晩と決まった時間に給食があったが、とうもろこしのスープに大根の切れ端や葉っぱが申し訳程度に浮いている粗末なものであった。ほかにも食べ物が支給されたのかもしれないが、勇の記憶に残っているのはとうもろこしのスープだけであった。男手のある家族は米や豆をまだ持っており、携帯した飯盒で炊いて美味しそうに食べていた。それを遠くから羨ましそうに眺めているだけであった。

 いじましい話だが、米を持っているグループが座っていた場所の筵の目の中にこぼれて入り込んでいる米粒を叩き出して、二粒、三粒の生米をかじったこともある。



2004年11月14日(日) 38度線に響く銃声

 ▼38度戦で響く銃声
 勇が母や妹とはぐれたのは、突然聞こえた銃声が原因となった。
「川を渡ったり、国境を越えるときには、遅れないように、大人の男の人の後について歩くんですよ。幸子は母さんが、手を引いていきますからね」と母が言っていたので、勇は知り合いの後藤さんの小父さんの後ろについて、一生懸命歩いた。そこへ威嚇射撃ではあったが、銃声が聞こえて隊列が乱れ蜘蛛の子を散らすように、岩陰へ隠れるグループや構わずにどんどん行進を続けるグループとに分かれたのである。

 勇がついて行った後藤さんは行進派だったので勇も後藤さんの後ろについてどんどん歩いた。ところが、一時岩陰に身を寄せた母は勇達のグループから遅れをとったという次第である。

 国境を無事突破して、小休止したとき母と妹に再会した。勇はあまり心配していなかったが、母の方は勇の体がマラリヤのために衰弱しているので、勇が、皆から落伍してしまったのではないかと、勇の顔をみるまでは心配で心配でたまらなかったそうである。母はこのとき勇を日本へ連れて帰れないかもしれないと覚悟したと後に述懐している。

 後年今は亡き母の法事でその時の様子を妹の幸子が語って聞かせてくれたが、髪を振り乱して「いさむはおらんか。いさむ返事をしなさい」と発狂したようにあちこち人混みの中を駆けずり廻っていたという。年配の人になだめられて漸く、隊列に戻ったらしい。



2004年11月13日(土) 引き揚げ��

 成人のいる家族は、リュックサックに一杯荷物をいれて背負い、両手にも荷物を持っていたから、旅行中の食料も豊富であった。しかしながら、マラリヤ熱から解放されたばかりで、体の衰弱していた勇は、自分のリュックサック一つを背負い、妹幸子の手を引くのが精一杯であった。次の妹の京子はやっとよちよち歩きが始まったばかりであったから、母が背負ったリュックサックの上に跨がせて肩車をしているような恰好で道中を続けたのである。従って、食料品もふんだんに持つことは出来ず、干し飯も国境線にたどりつくまでに無くなっていた。

 行進中に朝鮮人の集団に襲われ、目の前でリュックサックを強奪された家族が二、三あったが、誰もどうすることも出来ないで、口惜しく惨めな思いをしたものである。

 野宿をしながらただ黙々と国境線まで、隊列から離れないようにとそれだけを念じながら歩いた七日間であった。

 国境近くに来た時は警戒も厳しくなり、夜陰に乗じてこれを突破することになった。昼間山中で仮眠し、暗くなってから腰までつかる浅瀬の川をじゃぶじゃぶ歩いて渡った。このとき勇は母親と妹からはぐれてしまったが、隊列から離れないでついて行けば、家族にはまた会えると必死で衰弱した体で足を滑らせながら浅瀬を渡った。

 このあと、続けて38度線の国境を渡った。この時も勇一人で母達の所在は不明であった。国境警備兵が威嚇射撃をしたため、その銃声は国境突破の一行に悲壮感を与えるのに効果充分であった。



2004年11月12日(金) 引き揚げ��

 ▼引き揚げ
 待ちに待った引き揚げの日の10月6日には、鎮南浦の港へ集まり、何隻かの貨物船に班別に分かれて乗り込み、鎮南浦の湾を横断して対岸の黄海道まで渡り、後は38度線の国境まで、歩いて行くという旅程であった。船旅は二、三時間の短い時間であったが、船酔いする人が多かった。船の中には便所がなく油用の一斗缶を二つ切りにした容器に吐出物やら排泄物を入れて、これを海中に投棄するという原始的な汚物処理が行われていた。朝鮮人の乗組員達は両手で船縁につかまり、剥き出しにした尻を海中に突きだし、器用に悠々と放便していた。

 対岸へ上陸してからは、隊列を組み国境線目指しての山越え、谷越えの徒歩による旅が約一週間続いた。あるときは、朝鮮人の土地の自警団の青年達に指輪や腕時計を与えて村の通行許可を得たり、見回りに来たソ連兵を振り袖の着物で買収して移動許可を貰ったりしての苦しい逃避行であった。 



2004年11月11日(木) 敗戦��

 その四は、同居人の片桐さんの御主人が、炭で真っ黒に汚した顔から白い歯を覗かせてにっこり、誇らしげに笑っている立像画である。背中には石炭の入った背負い子を荷なっており、両肩には背負い子の帯が食い込んで、背中の荷物が重たいことを証明している。朝鮮では冬の季節には独特の暖房施設として、何処の家にもオンドルが設けられており、これに火がいれられる。ところが、敗戦国民にはオンドルを常時暖かくしておくだけの燃料用の石炭が充分には配給されない。そこで子供達が薪を拾いに山や原へ出掛けて行ったり牛車が運搬の途中でこぼしていく石炭を拾っては暖をとる足しにしていた。寒さが厳しくなってくるとどうしても沢山の石炭が必要になってくる。そこで、会社の貯炭場に野積みされている豆炭や石炭を夜陰に乗じて、見張りの目を盗んで失敬してこようと考え出した人がある。

 元もと戦前までは自分達が勤めていた会社であり、自分達の管理下にあった石炭を戦争に負けたために、接収され朝鮮人やソ連人の管理下にあるだけのことである。戦前であればこの貯炭場から、供給されていたのだから、少しぐらい持ってきてもかまわないだろうという勝手な理屈をつくりあげたのである。たまたま当番にあたった片桐さんが決死の覚悟で、貯炭場へ忍び込み首尾よく目的を達して生還したのである。元は自分達が管理していたとはいえ、会社のものであり今では戦勝国の管理下にあるのだから、石炭を運び出すところが見つかれば窃盗として射殺されても文句の言えない行為である。それだけに無事に帰ってきた片桐さんの顔は誇らしげに、安堵の色に輝いていたのであろう。極度に困窮すれば、窃盗に類した行為でも集団の容認のもとで行えば正当化し英雄化してしまう人間の性(さが)の弱さ、悲しさに思い到らせる絵の一枚である。



2004年11月10日(水) 敗戦��

 工員社宅での生活は僅か一年足らずの短い期間ではあったが、感受性の強い時期の八才の子供にはどうしても忘れることの出来ない心象風景として残っている、何枚かの絵画のような場面がある。五十年近い時の流れにつれて、過半の出来事が風化してしまった中で、今でも脳裏に焼き付いて残っている絵画のような場面は、当時、勇に鮮烈な印象を与えた出来事であり、体験であったのであろう。その絵を何枚か再現してみることにしよう。

その一は、冬の寒い日に両手にあかぎれをつくった15、6才の少女が井戸から水を汲み上げて、洗い桶に入った米とこうりゃんの混ぜ物をせっせと研いでいる共同炊事場の風景である。周囲で洗い物をしている主婦達のつかっている桶からは、湯気がたちのぼっており、凍てつく水を使っている少女とは対照的である。この少女は大工の中田さんが居候をしていた親方の家で賄い方をしていた身寄りのない娘である。

 その二は、昨日までスカートをはき、長い髪で三組みを編んでいた向かいの家の田代さんのお姉さんが、髪を切って丸坊主になり、男物の上下の国民服を着用して、玄関から出てきた男装の正面図である。美人で評判の高かった適齢期の田代嬢が、「ロ助」の目を誤魔化すために、男装しなければ、闇市へ買い出しにも出掛けられない敗戦国の外地居留民に対する治安状態を思い出させる絵である。

 その三は、赤い地に星と鎌と槌の模様の描かれた小旗を手にして、口にはちょび髭を蓄え、黒色のネール帽をかぶり、金 日成とスターリンの政治を讃え、共産主義の栄光をぶちあげながら歩き廻っている中年男の姿である。この男は、俗にいう政治ごろのような男で、戦時中は軍部に取り入って美味い汁を吸っていたが、敗戦で鎮南浦がソ連軍の占領下に置かれることを知ると、ただちに宗旨がえをして俄か共産主義者になって、日本人社会からは顰蹙を買いながらも、朝鮮人やソ連軍の指導者に取り入って羽振りを効かせていた。「ロ助」と揉め事が出来るとこの男の出番がくるといった仕事をして世渡りをしていた。何時の世の中にもこうした寄生虫のような手合いはいるものだが、この男の節操のなさには、子供心にも憤りを感じ、忘れ得ぬ一枚の心象風景として残った絵であろう。



2004年11月09日(火) 敗戦��

 勇は引き揚げが間近に迫った頃、運悪くマラリヤに罹ってしまった。寒気がするときには幻覚が生じて、表に干してある赤い洗濯物が、鬼に見えるのであった。また、悪寒のするときには、体がぶるぶる震え、布団を何枚重ねて掛けてもとまらないのである。しまいには妹に掛け布団の上にあがって貰うこともしばしばであった。そんなときには、天井はぐるぐる廻り、今にも落ちてきそうに見え、悲鳴をあげることもあったらしい。

 マラリヤの特効薬はキニーネである。南方特産の薬でキナの木の皮を干して作られる一種のアルカロイドである。飲めばよくなるということが判っていても、物資の乏しい時代であるからそう容易に手には入らない。このときも、母が四方八方尋ね廻り、なけなしの財布を叩いて高価なキニーネを入手して下さった。特効薬といわれるだけあって、キニーネの効き目は著しく、さしもの高熱も嘘のように出なくなってしまった。しかし、この時衰弱した体は、その後の引き揚げの道中で、大きなハンデキャップとなるのであった。



2004年11月08日(月) 敗戦��

 工員社宅には、二世帯ずつが同居していたが、気のあう組み合わせというものはあるもので、勇の家へは島根県出身の大工さんで中田さんという小父さんが、遊びにきては「出雲神楽」の話をしてくださった。中田さんは出稼ぎで朝鮮へきているうちに戦争が激しくなり、内地へ帰れなくなったというめぐりあわせを持っていた。中田さんの小父さんは家族を島根県浜田市においてきており、親方の所へ居候していたから、子供達を相手に神楽の話を聞かせるのは、楽しみの一つであったのかもしれない。

「やわたのおろち」とか、「すさのおの命」とか神話の登場人物や動物の物語を実にいきいきと楽しそうに語ってくれるのであった。長い煙管に刻みの煙草を詰めて美味しそうに煙をくゆらせながら、立て膝をして話していた姿には一種独特の風情があった。中田さんの口癖は内地へ帰って、もし普請でもするときには、一番に知らせて欲しい、自分が駆けつけて精魂込めた建物を作ってあげるというものであった。

 工員社宅での毎日の話題は、何時内地へ引き揚げられるかということであった。皆がそのことだけに、希望をつないで生活しているので、色々なでまや憶測が乱れ飛んだ。そんな中で、何処の家庭でもきっといつかは内地へ帰れると信じていたので、それぞれにその日に備えて、引き揚げ準備に余念がなかった。干飯をつくったり、煎り米や煎り豆を用意していた。勇の家では母が、浴衣を縫い合わせて小さな蚊帳を作った。これは傑作であった。引き揚げが決まるまでは家の中で蚊の襲撃から我々を守ってくれたし、引き揚げの道中では或る時は蚊帳になり、或る時は敷き布団や掛け布団になったし、風呂敷包みの替わりになったこともある。



2004年11月07日(日) 敗戦��

 鎮南浦はソ連軍の占領下にあったので、ソ連の兵士が進駐してきていたが教育水準が低く、田舎者で腕時計が物珍しいのか、徴発した腕時計を両腕に二、三十個も付けて得意になっているものや、指輪を指という指にはめられるだけはめて喜んでいる兵士が多かった。

 兵士達は煎った向日葵の種や南瓜の種をポケットから取り出しては口に投げ込み、皮を辺り構わずふき散らしていた。私達はソ連兵のことを「ロ助」と蔑称していた。「ロ助」に凌辱された婦女子もあったので、日本人は「ロ助」の姿を認めると逃げるようにしていた。夜間に鉄砲を打ち込まれた家もある。どうも鎮南浦に進駐してきたソ連兵は程度の低い粗暴な連中が多かったようである。この時の悪い印象があるので、勇はソ連という国、ロシヤ人という人種にはいまだに好意が持てないのである。

 この工員社宅における無為の約一年間は、成長期の子供達にとっては就学上の見地からは無意味な期間であった。しかし、世間を知り、雑学的な智恵を身につけるという見地からは意義のあるものであったのかもしれない。
 好奇心旺盛な子供達は、つれづれを癒すために、大人達が指している将棋や囲碁を見ているうちに何時の間にか覚えてしまっていた。見ようみまねで指していた将棋が指導者の大人を凌駕する程の腕前になっていたり、近くの池で鮒を釣ってきては夕食の足しにしたりしていた。また、朝鮮人の牛車がこぼして行く石炭を拾い集めてはオンドルの燃料にしたり、捕虜になって使役に使われている元日本兵達の収容されているキャンプへ「ロ助」の歩哨の目を盗んで見舞いに行き、鉄条網越しに兵隊さんから、残飯で握ったおむすびを土産に貰っては喜んでいた。

 飽食の時代からは考えられない敗戦国の外地居留民が飢餓一歩手前の状態で苦しんでいた当時の暗い思い出である。

 子供達がキャンプへ現れると、兵隊さん達も「岡山県の子供はいないか」「熊本県の子供はいないか」「秋田県の者はいないか」と同じ出身県の子供に会いたがった。それは、同県人であれば、便りをことづければ自分の消息を内地の肉親に伝えて貰えるであろうというはかない期待を、内地へは多分早く引き揚げるであろう、民間人の子供達に託したかったからである。



2004年11月06日(土) 敗戦��

 二週間程滞在した神田さん一家は、新京へ一度帰ってから、家財を整理し内地へ引き揚げると言って占領下の満州へ向かって出発したが、無事内地へ帰還することができたのかどうかその後の消息は一切判らず終いである。
 神田さん一家が新京めざして出掛けたのと相前後して、我々一家も山手社宅から工員社宅へ強制移住させられた。山手の職員社宅が平屋造りで八畳のオンドル一部屋、六畳と八畳の和室二部屋、六畳敷き程の台所、二畳敷きの玄関、浴室、便所という構成であったのに比べて、引っ越しした工員社宅は同じ平屋造りだが、六畳のオンドル一部屋、六畳敷きの和室、四畳半の台所浴室、便所という手狭な構成であった。しかもこの建物に二家族が同居させられたのである。勇の家では母、勇、二人の妹幸子、京子の四人家族であった。

 同居したのは山形県出身の片桐さんという新婚間もない夫婦で子供を身籠もっていた。この手狭な家で約一年間内地へ帰れる日を待ちわびながら、不自由な生活を余儀なくされたのである。

 日本鉱業へ勤務していた人達ばかりであったから、お互いに助け合いながら生活していたと思うが、敗戦と同時に職を失い、手持ちの衣類やら指輪を米、こうりゃん、芋などに交換してもらいながらの竹の子生活であった。ソ連軍の占領下にあったので、通貨はソ連軍の軍票で日本国政府発行の通貨は日本人社会内での特殊な取引でしか通用せず、食料品を朝鮮人から購入しようとすると、不利な割合で交換した軍票によらなければならなかった。

 疎開先へ過半の家財や衣類を送ってしまっていた勇の家には、物々交換する種がないので、母が朝鮮人の経営する農園へ畑仕事の手伝いに行って、報酬として貰ってくる芋や、僅かな米で飢えをしのいだのである。働き盛りの男は殆ど出征していたので、男といえば老人か、会社の保安要員として残っていた人達だけであったから、どこの家庭も売り食い生活をしていた。保安要員で残った男も戦時中に朝鮮人労働者を職権をかさに殴ったり、叩いたりして使っていたので、終戦を境に朝鮮人労働者達から仕返しを受けて、半殺しの目にあった。職業軍人の杉淵氏や保安要員であった後藤氏は、朝鮮人の復讐を恐れて女装し、知人宅を渡り歩いて匿ってもらっていた時期があった。虐げられた人間は、機会を得ると狂気じみた私刑を行うものである。このような一種の無法状態が発生し治安が乱れたのは敗戦直後の短い期間であった。やがて、良識のある朝鮮人指導者が、私刑を禁止し、秩序が回復されたが敗戦国民の悲しさで、いつ何時被害を受けるか判らないので、若い娘を持つ家庭では、娘達に男装させるところが多かった。



2004年11月05日(金) 敗戦��

 ▼敗戦
 昭和20年8月15日は、暑い日であった。学校は夏休みで原っぱで遊んでいたと思うがその日は午後から天皇陛下の玉音がラジオで放送されるというので、大人達は落ち着かない様子であった。終戦を予測していた人は多かったであろうが、本土決戦が叫ばれ、一億玉砕が真剣に論議されていた時代であるから、その予測を公けに口にすることは出来なかった。言いたい放題が許される今の時代からみれば言論統制下の暗い時代であった。

 予定の時間にラジオの前に集まり、重大ニュースを聞いた。電波の状態が悪くて、玉音放送はその内容をよく聞きとることが出来なかったが、戦争が終わったことだけは理解できた。

 終戦のお陰で疎開せずに済んだけれども、家財一切と過半の衣類は、疎開地から戻らずじまいになり、このあとに待っていた竹の子生活に甚大な影響を与えることになった。食料品と物々交換するための材料がリュックサックと手荷物に残されていた僅かな衣類しかなかったからである。

 満州の新京から神田さん一家が敗戦国の国民として、現地人から迫害されるのを免れるため逃げて来て、我が家に住みついたのも終戦直後のこの時期であった。この時、新京から疎開してきた多数の人々は、家族単位で日本鉱業の社宅へ割当てられて一つ屋根の下で二世帯の共同生活をよぎなくされたのである。



2004年11月04日(木) 母子の銃後の生活��

 ある日午前中で授業を終えて帰宅し、戦闘帽を脱ぎ巻き脚半を解いて昼食の食卓へついたところ、母の前にはお湯飲み茶碗と裏の畑で採れたトマトと胡瓜の皿しか置かれていない。不審に思った勇が「母ちゃんどうして御飯を食べないの。お腹が痛いの」と無邪気に尋ねた。

「お腹は痛くないのよ。母ちゃんは次の配給日まで御飯は食べないことにしたのよ」との返事である。
「母ちゃん、御飯を食べないと病気になるよ」と勇が咎めると「勇は心配しなくてもいいのよ。勇達はこれから大きくなるのだから、御飯を沢山食べないと病気になるけれども、母ちゃんは大人だからもう大きくはならないでしょ。だから、次の配給までは畑のお野菜だけで生きていけるのよ」と母は諭すように言った。

 太平洋戦争も末期近くになって、内地が空襲を受けて東京や大阪が焼土と化したという報道は、鎮南浦の住民達にも恐怖を与えていた。特に、鎮南浦には日本鉱業の銅の精錬所があり、その煙突の高さは東洋一と言われていたので、朝鮮が空襲されるときには、鎮南浦は一番最初に狙われるであろうという憶測が囁かれ、田舎への疎開準備が始まった。家財道具の一切と衣類の入った行李や布団袋を発送し終え、身の廻り品だけをリュックサックに入れて一週間後には、体も疎開地へ出発するばかりになったとき終戦を迎えた。



2004年11月03日(水) 母子の銃後の生活��

 ▼母子の銃後の生活
 戦時中、鎮南浦では物資不足に悩まされることはあったが、空襲を受けて家を焼かれたり、身内が爆撃で死亡するという悲劇はなかった。米軍の飛行機が偵察のために、上空へ飛来したことも度々あり、夜間には灯火管制が敷かれ窓から明かりが漏れないように、黒色のカーテンを張りめぐらせた。タングステン電球には中心から直径五センチ程の円形を残して周囲に墨を塗り光りが拡散しないように工夫したことも平和な時代に生活しながらふりかえると懐かしい思い出である。

 父の出征後、銃後を守る母子4人の厳しい生活が続き、いつしか昭和20年の夏を迎えていた。この頃になると戦争も終局に近づきつつあったため、配給制の食料品も日に日に品数、量ともに少なくなっていった。とりわけ、角砂糖は勇にとって物資の乏しかった当時の生活状態を偲ばせる霊媒のようなものであり、それはまた母の慈愛を思い出させる魔法の物質である。乏しい食料品のなかから工夫して作られた母の献立も、風邪をこじらせて寝込んでいる勇の喉を通らなくなったことがある。主食の米は貴重品であったから、こうりゃんや大豆の絞り滓を米の替わりに支給されていた当時の食生活の中では、病気になったからといって毎日、米のお粥を食べることは出来ない相談であった。そんな中で、母が朝鮮人の知り合いに頼みこんで闇の物資である角砂糖を十粒程手に入れてきて下さったのである。この角砂糖の効果はてきめんで、甘いものが好きであった勇の、減退していた食欲を引き出すのに魔法の薬のような役割を果たした。



2004年11月02日(火) 父の出征��

 ところで父に招集令状がくるまで、勇の家では家族は畳の間に所謂「川の字」に布団を敷いて三人の子供達が真ん中に寝て、その端両側に両親が寝ることが習わしになっていた。父に赤紙が来て明日いよいよ出征するという日の夜、父が明日から居なくなるという思いがそうさせたのか、いつになく夜中に目が覚めて寝られなくなってしまった。見るともなく横の布団を見ると寝ている筈の両親がいないのに気がついた。どうしたのだろうと考えたとき松田君から聞いた言葉を思いだしていた。

 まさかと思いながら好奇心も手伝って物音をたてないように、廊下へ出てみると廊下を隔てた応接間の入口から明かりが微かに洩れていた。或いはと訝りながら忍び足でちかずき戸の隙間から覗いてみると、戦時防光を施した薄暗い電灯の下で睦みあっている両親がちらりと見えたので、慌てて寝所に戻り布団に潜りこんで、やはり自分の両親も松田君の両親と同じであったかという失望の気持ちと、戦争へ行くんだからお別れにシビをするのは許されていいんだと自分を納得させようとする複雑な気持ちに苛まれながら寝たふりを装っていた。

 翌日、学校へ行くと青野先生が「都窪 勇くんのお父様も昨日皇国の軍人として出征されました」と級友に紹介されたので、勇は誇らしい気持ちと、父母の絡み合いを見てしまった失望の気持ちがないまぜになった複雑な心境であった。

 出征した父が平壌の連隊にいるとき、一度だけ母と面会に行ったことがある。牡丹台といわれる名所で軍服姿の父が、出征したときよりも幾分肥って元気そうに、母親心尽しの弁当を食べてから動物園ヘ行って子供達を楽しませて下さったと思う。この時の面会が朝鮮では最後となり、間もなく父は神奈川県の葉山通信学校へ赴任した。



2004年11月01日(月) 父の出征��

 ▼父の出征
 勇の父の所へも招集令状がきて、鎮南浦駅へ生まれたばかりの下の妹京子を母が背負い、勇と上の妹幸子の手を引いて見送りに行った。昭和19年の初秋のことであるが、この頃になると日本の敗色が濃くなりかけていたせいか、一頃のように賑やかな見送りではなく、家族が密かに父や兄を見送るという風景に変わってきていた。父の出征も家族だけに見送られる質素なものであった。一年前に中学5年の関村さんのお兄ちゃんが学徒動員で出征したときの華やかさとは比べようもない寂しさであった。

 関根さんのお兄ちゃんの時は、隣組で催した送別会での出征兵士を送る歌声が夜遅くまで聞こえていたし、出征の日には、大勢の人が日の丸の旗を手に手に持って駅頭まで見送ったものである。この光景を就学前に見ていた勇は、大勢の人々に激励されて出征するお兄ちゃんが偉い人、勇ましい人に思え出征兵士に対して憧れの気持ちを抱いていたといえる。

 関根さんのお兄ちゃんの時の出征式の賑やかさに比べ、隣組の送別会もなく、大勢の人々の駅頭までの見送りもなく旅立った父の出征は子供心にも、もの悲しいものであった。僅か1年足らずの時の経過が戦局を悪化させていたのである。

 駅まで送ると人目につくというので駅の手前で別れ、勇達母子は鎮南浦駅から最初の踏切の所で待機していた。やがて列車が目の前を通り、父が軍服に身を固めて、列車のデッキから手を振っていた。勇達も手にした日の丸の旗を必死に振ったのである。このように隠れるようにして出征兵士を送らないと、敵のスパイに兵力を知られてしまうというのが、見送りを質素にする理由であった。

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