前潟都窪の日記

2004年12月31日(金) 父の死��

「都窪さん、この度は、大変なことになりまして、何ともうしあげたらよいのかお慰めの言葉も見つかりません。お疲れでしょうが、早速、お父さんのマンションへご案内しましょう」
「待機させていた車へ案内されて、父の遺体の待つマンションへ外村さんと急行した。
「都窪工場長は、昨日までお元気に仕事をされていたのに、急にお気の毒な姿になってしまわれました。会社が決算期なので、毎日遅くまで仕事をされていたんですよ。昨日昼過ぎに、気分が悪くなったからマンションへ帰って休養すると仰って退社されました。私達も仕事が終わって、秘書の福山さんと製造の玉城君と私の三人でお見舞いに行ったんですよ。6時半から8時頃までお邪魔していたんですが、もうすっかり気分もよくなったと仰って、顔色もよく、元気な様子でした。その日は日曜なので、いつもだとお孫さん達に会いに岡山へ帰っておられる筈だったんですが、決算のため、私達と一緒に出勤されたんです。会社の運営の仕方、将来の姿等について楽しく話し合いました。そのとき工場長はいつになくこんなことを言われました」

 外村さんは感慨深げにしんみりとした口調で続けた。
「私も20年間この会社にお世話になって、ボロ工場だったこの工場をこれだけのものに育ててきた。念願の事務所も新築できたし、工場設備の自動制御化も完成した。もう思い残すことはないよ。あとは、若い君達がこの工場を発展させてくれるのを楽しみにしているよ。来年あたり、暇を貰って岡山へ帰り絵を描いたり、魚釣りをしたりしながら余生を婆さんと二人で楽しもうかと思っているんだ。と、こう工場長が仰るものですから、私達は工場長にはもっと長く居て戴いて、私達を鍛えてくださらなければ困りますよと申し上げたんですが、それが最後のお言葉となってしまいました。工場長はお気分もすっかりよくなられたようですから、あまり長居してはいけないと思って8時過ぎにはお暇したんです。ところが、秘書の福山さんが自宅へ9時過ぎに帰ったところ、工場長からとても気分が悪いから一寸来て欲しいという電話があったということです。福山さんは、工場長のお宅から一番近い所に住んでいるので、電話をかけられたのでしょう。福山さんは電話の声が異様なのでタクシーを拾い工場長の所へ駆けつけたところ、いつもは電話台の上に置いてある受話器が枕元に降ろしてあったということです。工場長は布団の上で横を向いておられたそうです。福山さんが名前を呼んでも返事をされないので、眠っておられるのかと思い、体を揺すってみたそうです。答えがないので脈をとってみると体温はあるのに脈がなかったそうです。動転した福山さんが岡山の奥様へ電話を入れ、救急車を呼んで病院へお連れしたのですが、病院へ着いたときには既に手遅れだったようです。病院へ着くか着かないうちに他界されてしまいました。10時45分に急性心不全で亡くなられたというのが病院の医師の診断です」

 外村さんは会社草創の頃、学校を卒業して直ぐ入社し、父と苦労を共にしてきた社歴の古い技術者である。副工場長として父の信頼を受けていた部下だけに父の他界前後の様子を詳しく話してくれた。

 父のマンションには既に明け方近く、岡山から駆けつけた母と妹の幸子、京子が目を真っ赤に泣き腫らして父の遺体の傍に座っていた。顔のガーゼをとると懐かしい父の顔が今は物言わぬ一つの物体として永遠の眠りについていた。安らかな死に顔であった。苦しんだ様子が顔に窺われないのが、父の死に目に会えなかった私にとって唯一の慰めであった。



2004年12月30日(木) 父の死��

 伯叔父、伯叔母、訃報を知らせなければならない親戚の人々の顔が眼前に浮かび上がってくるが、この目で父の遺体を確認してからでも遅くはないのではなかろうか。まして時刻は真夜中である。まだ,息があるものなら、真夜中に電話して近親者を起こすのもよいであろう。しかし、結果は既に判明しているのである。父は突然死んだのだ。死んだ者は生き返りようもない。明朝、自分の目で遺体に対面し死に様を確認してから電話をしても遅くはないだろう。若し、万が一にもぶざまな死に方をしているなら、父の名誉のためにも庇ってやりたい。父の最後を見届けた福山美智子に会って、真相を聞きただしてもみたい。

 時刻表を調べてみると夜行列車よりも明朝一番の新幹線を利用した方が大阪には早く、着けることが判ったので新幹線で駆けつけることにした。
 喪服を出したり、旅支度をしたり留守中の業務の処理について依頼事項や指示事項をメモしているうちに夜も白み始め出発の時刻が迫ってくる。由紀と香保の二人の娘をたたき起こして着替えをさせる。

 大阪へ駆けつけた妹の幸子から電話が入った。
「お兄さん、駄目だったわ。間に合わなかったのよ」意外に落ちついた口ぶりで取り乱した様子も窺えないのでほっとする。
「残念だね。あなたがたが着く前に病院へ電話して結果は判っていたよ。お父さんは普通の亡くなり方をしたんだろうね。自殺とか他殺とか変死とか。異常な亡くなり方ではないだろうね。死に顔はどうだい」最も気になっている点をせき込んで尋ねてみる。
「病院の先生は急性心不全という診断をしておられます。安らかな死に顔よ苦しんだ様子もないわ」
「そうかこれから家を出るところだ。お母さんが参ってしまうと困るから、傍へ付いていてくれよ。9時半にはそちらへ着けると思うから、それまで宜しく頼む」
「お葬式は大阪でするの。岡山でするの。会社の方がお兄さんに聞いてくれと仰るんですが」
「どんな方法をとっても、岡山へ連れて帰りたいと思っている。そうお願いしてくれないか」

 子供達を妻の実家へ預けて、夫婦で大阪へ駆けつけた勇達は昔の記憶を頼りにタクシーの運転手へ行き先を告げる。

 大学生の頃、小遣いをせびりに何回か訪れた父の勤める工場は新三国橋を渡って、産業道路沿いに2km程北上し、たしか三栄化学の前を西へ入るとエステルの芳香が鼻を楽しませ、香りの方向へ歩いていくと小さな溝川があり小さな橋がかかっていた。橋を渡ると前方に反応塔が、聳え建っているはずだ。17〜8年振りに産業道路沿いにタクシーを走らせると周囲の様子はすっかり変わっていた。ちいさな町工場が道路沿いに立ち並んでいたはずなのに、今はすっかり面目を一新し、スマートな建物が立ち並んでいた。緑豊かな工場内の敷地には色とりどりの乗用車が整然と並んでいる。工場設備も近代化され最新鋭の物になっているのであろう。日本経済の高度成長振りを目のあたりに具体的な形として見る思いである。

 目標とする三栄化学は建物こそ立派に建て替えられていたが、17〜8年前と同じ場所にあった。

「運転手さん。そこの三栄化学の前を左に曲がって下さい」
 左折して、勇は再びその光景が様変わりに変わっているのに驚いた。木造の薄汚い工場が並んでいた筈なのに、高層マンション群が聳え建っており、街路樹が植えられた道路は綺麗に舗装されている。溝川の流れていた辺りには立派な勤労者会館のビルが建っているではないか。父の勤めている、いや勤めていた工場の反応塔は昔のままの姿で残っていたので、辛うじてそれと識別することができた。昔、私が遊びにきていた頃にはドラム缶が山積みされていた工場内の敷地には、最新鋭の工場設備が建ち並び、以前平屋建ての事務所があった位置には、スマートな三階建ての鉄筋コンクリート造りの事務所が屹立しており面目を一新している。

 妻の田鶴子を伴い事務所の扉を開けると勇も顔見知りの外村さんが席から立ち上がり、走り寄ってきた。頭髪には白いものが混じっている。



2004年12月29日(水) 父の死��

「あなた、岡山のお母様からお電話ですよ」と妻の田鶴子に揺り起こされて、受話器を握ると狼狽した母の声が飛び込んできた。
「勇さん、さっき、11時頃お父さんの会社の福山さんから電話があってお父さんが危篤らしいのよ。救急車で病院へ運ばれたらしいんだけど意識がないというのよ」  
 心臓の鼓動が高まるのがよく判る。
「何ですって、突然に」
「心臓発作を起こしたらしいのよ。もしかしたら駄目かもしれないから、その覚悟で一刻も早く来て頂戴」
「今、何時ですか」
「11時30分よ、幸子と京子が一緒に行ってくれるというので、私は間もなく家を出ますから。病院の名前はお父さんのマンションの近くの藤山病院よ。留守番には晴代が来てくれる筈です」
「病院の電話番号は」
「判らないのよ。タクシーが来たらしいから、私はこれからでかけますからね」母はそれだけ言うと電話を切ってしまった。
「親父が、大阪のマンションで倒れて危篤らしい。電車の時刻表を持ってきてくれ」
「どうなさったの。突然危篤だなんて、嘘でしょう」と言って時刻表を取りに書斎へ走った。
「はい。でも心臓発作だなんて、お父様は心臓が弱かったのかしら」
「とにかく、早く行かなければ。11時30分だと新幹線と飛行機は駄目だろう。横浜駅発の夜行列車があるかどうか調べてくれ。僕は藤山病院へ電話してみるから」夜行列車がなければ車を運転して東名高速道路を走るしかないかもしれないと思いながら、父の会社へ電話した。
「もしもし、都窪作次の長男の都窪 勇と申します。岡山の母から父が危篤だという知らせを受けましたが、父の容態はどうなんでしょうか。まだ生きているんでしょうね」
「はい、大変なことになりまして。工場長は今救急車で運ばれて手当てを受けておられますが、意識不明のようです。病院の方へ一刻も早くお越し下さい」  

 相手の口調に躊躇いが感じられるので不安が嵩じた。不吉な予感がする。「死んではいないでしょうね」
「こちらでは判りませんから、病院の方へお尋ね下さい」
「電話番号は?」
 病院の電話番号を回すが、ダイヤルの回転の鈍さがもどかしい。
「もしもし、そちらへ救急車で運ばれて手当てを受けている都窪作次の容態はどうでしょうか。家族の者ですが」
「なくなりました」
 事務的な答えが返ってきた。非情な答えであった。非情な答えには事務的な言い方がもっとも相応しいのかもしれない。或いはと期待しながらかけた電話であったが、66年間の人生の幕切れが「なくなりました」の一言で片づけられるのは如何にも悔しい。
「本当に死んだんですか。時間は。死因は」
「一寸待って下さい。会社の人に代わりますから」
「もしもし、会社の方ですか。都窪作次の家族の者ですが、容態はどうなんでしょう」嘘でもいいから生きていると言って貰いたいと思いながら、もう一度同じ尋ね方をしてみる。
「大変、お気の毒ですが、都窪工場長は危篤状態です」
「まだ、生きているんでしょうね」
「はあ」受話器の向こうの声は当惑したような口調で言い澱んでいる。そこに労りの気持ちを感じとることができた。
「さっき、電話に出られた方は病院の方だと思いますが、亡くなりましたと言われました。覚悟は出来ています本当のことを言って下さい」
 相手は暫く口籠もっていたが、意を決したような口調で言った。
「まことにお気の毒ですが、10時45分に亡くなられました。急性心不全でした。心からお悔やみ申し上げます」
「やはり駄目でしたか。父が生前お世話になりました。私もすぐそちらへ参ります」

 岡山の母から電話を受けたときには、父は既に亡くなっていたのである。母と妹の幸子と京子は父が既に絶命していることも知らずに,いらいらしながらタクシーで一路大阪へ急いでいるのだが、携帯電話の出現する前の時代であったから連絡してやる術もない。
「そんな馬鹿な。亡くなったなんて嘘でしょう」傍らで時刻表を調べながら電話のやりとりを聞いていた田鶴子がワッと泣きだした。田鶴子の泣き声を聞いて目頭が熱くなったが、感傷に浸っていられない不安が一つだけ頭にこびりついて離れない。マンションで独り暮らしをしていた父の死に様はどうだったのだろうか。変死でなければいいが、岡山の母に父危篤の第一報を入れてくれたのが、未亡人で父の秘書をしている福山美智子であるというのが、気にかかるところである。しかも夜中だ。

 父に限って、まさか、ぶざまな死に方をした筈がないと信じていながら、もしやという心配が胸のうちに急速に拡がっていくのを禁ずることができない。



2004年12月28日(火) 父の死��

 今年の正月、岡山へ帰省して、父、母、他家へ嫁いだ三人の妹達とその子供達、そして横浜に世帯を持った勇の家族が一堂に会した。
「お父さん、もうお年だしそろそろ仕事を辞めて、岡山へ帰りお母さんと二人で魚釣りしたり好きな絵でも描いて、悠々自適の生活をされては如何ですか」と勇が勧めた。
「いや、男から仕事をとったらぼけてしまう。体の動くうちは仕事をしていたほうが健康のためにもいいんだ」
「でも不自由でしょう。20年近くも単身で生活していると」
「なに、大阪と岡山は新幹線で一時間じゃあないか。休みごとに休養に帰っているからそれで十分さ。夫婦なんてものは毎日顔を突き合わせていると文句の一つも言いたくなるものだが、たまに会うと新鮮な喜びがあるものだ。独りで生活している方が仕事に打ち込めていいよ。それに不遇の時代に救ってくれた会社に対しても、体の動くうちは働いて恩返ししたいと思っているんだよ。まだまだ心配しないでくれ」

 勇は「ダナエ」の前で楽しげに語り合う父子の姿を見ながら、正月に交わした父とのそんなやりとりを思い出していた。今日は日曜だから父は岡山へ帰り、訪ねてきた六人の孫達を相手にして相好を崩していることだろう。蝉取りをせがまれて、吉備津彦神社の森へ行っているであろうか。それとも小学校六年の博を一番左の端に立たせて背の順番に孫達を並ばせ、背丈を計ってやっているのだろうか。きっと一番右端に並ばせられた三才になる義弘がチョコチョコ動き回って手を焼いていることだろう。また孫達に取り囲まれて笑っている父の写真が届くだろう。

「お父さん、お帰りなさい。ダナエって素敵でしょう」と長女の由紀がプール帰りの日焼けした顔で迎えた。
「うん、たいしたもんだね。岡山のお祖父ちゃんとお祖母ちゃんに見せてあげたいと思ったよ」
「そうだ。お父さん、いいことがあるわよ。岡山のお祖父ちゃんとお祖母ちゃんをご招待するのよ。佳代がクロールで50メートル泳げるようになったところもついでに見て頂くの」
「あなた、それがいいわよ。夏休み中に来て戴いて、由紀と香保にご案内させると岡山のお父様、お母様きっとお喜びになりますわ。お正月以来でしょう」と妻の田鶴子が傍らから口を添えた。
「そうだな、この家を建ててから親父は一度も遊びに来ていないからな」
「そうよ、何時もお仕事が忙しいからと仰って、こちらへはお越しにならないんですもの」妻や娘の勧めもあって勇は岡山の実家へ電話を入れてみた。

 電話には母が出た。父から朝方連絡があって、今日は会社の決算で忙しいから岡山へは帰らないということであったと言う。
 夢うつつの中で電話のベルが鳴ったような気がする。



2004年12月27日(月) 父の死��

 ▼父の死
「お父さん、ダナエはとても素晴らしかったわよ」
「ダナエてなんだい」
「ほら、今国立博物館で展示されているレンブラントの傑作よ。お父さんは世間の情勢にうといのね」小学校5年になる娘の由紀がいっぱしの世間通のようなませた口をきく。
「ああ、あれなら知っているよ。エルミタージュ美術館から持ってきた特別展示だろう。スキタイの金属美術品も一緒に展示されている筈だね」
「そうよ。お父さんも見に行ってらっしゃいよ」

 勇も10年前までは、油絵に凝っていた。イーゼルを肩に担いで日曜、祭日ごとに戸外へ画材を求めて写生に出歩いたものである。それがいつしか、勤めの方が忙しくなり、責任のある地位につくのに比例するかのように、次第に油絵から遠ざかってしまっていた。
 絵を描かなくなると展覧会や画廊廻りとも知らず知らず疎遠になって、今では「ダナエ」といきなり言われても、それが何のことであるか直ぐには分からない程、絵心を忘れた生活に慣れてしまっている。娘の佳代に、お父さんは世間の情勢に疎いのねと言われて、大切なことを忘れていたのではないかと痛いところを突かれた思いである。

 思い立ったが吉日で、翌日、日曜日だったのを幸い、久し振りにゆったり
した気分で、上野の森を通って「ダナエ」を鑑賞に行った。

 レンブラントの作品は過去に何回か観たことがあるが、「ダナエ」を観るのは初めてである。巨匠の最高傑作と言われる作品を前にして魂を洗われた気持ちで、暫し恍惚としていた。作品の前から離れ難い思いで、ふと周囲を見回すと、初老の紳士と学生らしい若い男が、いかにも楽しげに「ダナエ」の前で、ひそひそ語り合っているのが目に入った。東京に遊学している大学生の息子を東北の田舎から父親が訪ねてきて、東京見物の傍ら、「ダナエ」を鑑賞にきたものらしい。父子の間に漂うほのぼのとした情感溢れるやりとりを見ているうちに、勇はふと20年程前に、自分と父との間にも、京都は岡崎の市立美術館であのような光景と会話を持ったことがあるのを思い出した。

 京都の大学へ遊学していた頃、ルーブル美術館の泰西名画が、岡崎公園内の美術館で展示された。岡山で小さな事業を営んでいた父がこれを機会に上洛してきて、勇とともに泰西名画を鑑賞し、とりとめのない会話を交わしたのである。それは父にとって忙中に閑を見いだした楽しい息子との語らいの一時だったに違いない。その父はそれから半年ほど後に、突然畳表を扱う事業を止めて大阪のある薬品製造会社に就職した。40歳半ばでの転職であったから、相当の覚悟と苦労があったであろう。

 もともと、戦前、朝鮮で分析技師として大手の鉱山会社に勤務し、応召、兵役、復員と当時の男が辿ったコースを歩んだ父は復員後、元の会社を辞めて慣れない、畳表や藺草製品を扱う地場の商売に手を出していたのである。山気のあった父が一山あてようとの密かに期する気持ちがあったのであろうか。育ち盛りの4人の子供を抱え、経済的に恵まれない生活を余儀なくされていた。当時は父の不遇の時代であった。そんな父を見かねて、昔の技術者としての腕を評価し、迎えてくれる人があったのである。

 岡山に母と祖母とまだ高校生と中学生,小学生の3人の妹を残しての単身赴任であった。そしてはや20年の歳月が過ぎ、勇をはじめ三人の妹達もそれぞれに世帯を持ってしまったが、今もなお父は老いた身に鞭打って、大阪の薬品会社の工場長として独り勤務しているのである。



2004年12月26日(日) 工事会社��

「そのお話はもう耳にたこが出来る程聞きました」
「何を言うか。失礼ではないか。会社で一番偉い人が怒っておられるのに耳にたこができたという言い方はないだろう。耳にたこができても聞いて貰わなければならないのだ。社長に何回も言わせるのは君達が文句を言われるようなことを何回も繰り返すからだろう」

 社長が怒っているとき、口を挟むと、火に油を注いだと同じような結果になる。だから苦々しく思っても、誰も口を差し挟むことがない。感情の嵐が納まり台風が通りすぎるのを待つだけである。
 勇はいつも思うのだが、社長こそ自分勝手である。「社長中心」ということをしきりに言うが、これは社会的存在としての会社の代表という意味で使われるのであれば正しい。しかし、今岡研一の場合には、今岡研一個人のほしいままの感情の動きまで含めて「社長中心」という。まさしく「自己中心」的なのは今岡研一自身ではないか。

 また我慢ならないのは、「社長」「社長」と自称することであり、自己の行為に敬語を使うことである。
「社長が出社されたときには、何を置いても先ず、社長に挨拶をして貰いたい」
 勇は義父でもあり、社長でもある今岡研一がこんな言い方をするのを聞く度に気持ちが白けてしまうのである。

 勇が今岡研一の経営する建設会社へ転職してきたのは、5年前である。彼は以前、旭硝子のサラリーマンであったが、工場内のグラウンドでサッカーの練習をしている時にボールを蹴り損なって、転倒し足首を複雑骨折してしまい入院療養生活をしたことがある。この時心配した義父、つまり妻の父が病院へ見舞いにきて、勇を発展期にあった自分の会社へスカウトしたのである。勇には病床にある時に転職を勧誘されたという意識がある。この意識は困っている時に救ってくれたという感謝の意識であるとともに、反面では人の弱みに付け込んで勇に対する優位性を確保しようとしたという恨みの意識でもある。

 勇は義父をある点では尊敬しているがある点では軽蔑している。尊敬している点は意志の強さ、行動力、思いやりの深さ等のであるが、どうしてもついて行けないところがある。それは人間の弱みにつけこむところとか誰もが持っている、他人にはあまり触れて貰いたくない陰の部分を巧みに察知して、これを逆手にとってしまうやり方である。

 若い頃から叩き上げて一国一城の主になったのだから、それはそれで人の認めているところである。ところが、叩き上げの人によくあるタイプだが,全てが即物的であって、金と支配力以外には権威を認めたがらないという悪い癖を持っている。人間としての品格が備わってくれば、おのずから人は慕ってくるものであるが、人に「社長」と言わせるために、自ら進んで「社長」と自称してみたい稚気がある。先ず形から入っていこうというせっかちな性格がしからしめるのかもしれない。また猜疑心が強く、人を信用できないところがあって、性悪説の人間観に徹している。スノビズムの臭いを日常茶飯事の挙措言動にぷんぷんと漂わせている。これが、勇と肌の合わないところなのである。

 我が儘で、常に自分が中心にいないと気が済まないという性格はお守りするには気骨の折れるところであるが、義父であるということから、一種の諦観にも似た気持ちでお守りしているというのが実情である。口煩くて一緒にいるだけでも気疲れする人である。

 勇の処世観の特徴は、このようなタイプの人間と合わせて生活していくには傍観者に徹して自分の感情を殺すことであると自己規制しているところにある。そして勇が今岡研一に対して敵意を感じたときにとる最大の効果的な戦法は、敬して遠ざけることである。端的にいえば相手を無視することである。自己顕示欲の強い人間程、相手から無視されることは耐えられない最大の侮辱となるのである。

 相手を無視する戦法は、考え方によっては、卑怯なやり方である。しかし露骨に生臭い感情をぶっつけあって、争うことには百害こそあれ,一利もないというのが、勇の処世観である。これは相対的価値観の上に成り立っている人生観である。人が絶対的価値観を信奉するとすれば、価値観がお互いに異なる場合には、徹底的に戦って相手を自分の価値観と同じものに変えさせるか、自分が相手の価値観に宗旨変えするかしない限り、対等な関係は成立せず、支配と服従の関係しか残らないことになる。それがいやなときには袂を分かつしか術がなくなってしまうことになる。

 平和主義者は必ず、相対的価値観を信奉する人である。勇の道徳観の基本にあるのは,長幼序あり、君臣義ありという儒教精神であるが故に価値観の異なる義父に対して争うことが悪徳になるのである。



2004年12月25日(土) 工事会社��

 ▼工事会社
 人がある人に対して敵意を持つ動機にはいろいろある。その動機にも大小さまざまのものがあり,ある場合には、発作的に直ちに殺人行為に駆り立てるる程大きい場合もあるだろうし、心の中に細波をたてただけでやがては消えて無くなるものもある。

 勇が義父に対して敵意を抱いていることに気がついたのは、つい最近のことである。どこか世の中を拗ねたところがあり、およそ情熱とかやる気といったものとは無関係で、常に傍観者的態度をとり、決して自ら進んで事を起こしたことがない男というのが、勇に対して最近社内で定着したイメージである。

 義父の社長今岡研一が出勤してくると、事務所にいる事務員達は慌てて立ち上がり、黙礼をしてからひとりづつ社長室まで行って丁寧な挨拶をする。全員の挨拶が終わるまで社長室の前には行列が出来る。

 たまに、電話で話中の事務員がうっかりしてそのまま電話を続けているとジロリと部屋中を睨み渡してから社長室に入るやいなや雷を落とす。
「田中君、誰と電話しているのかね」
「九州出張所の佐竹さんとです」とお茶を運んできた女子事務員が、おそるおそる説明する。
「電話を止めさせて、田中君を呼びなさい」
 呼ばれた田中が入ってくると説教が始まる。
「田中君。社長が出社されたのに挨拶もせずに、平気で電話を続けているとは何事だね。相手がお客様ならいざ知らず、九州出張所と話をしていたそうではないか。相手を待たせておいて挨拶をすればいいだろう。ものの30秒とはかからないと思うんだがどうかね」
「はあ、しかし・・」
「黙りなさい。弁解は止めなさい。社長が怒っておられるんだから、申し訳ありませんと謝ればいいんだ。もっと素直になりなさい」
「どうも申し訳ありませんでした。以後気をつけます」田中は一方的に叱られて、不服そうな顔をしていたが、これ以上社長の感情を昂らせるのは得策ではないと思ったのか素直に謝った。

 勇はまた始まったかと苦々しい気持ちで田中と社長のやりとりを聞いていた。朝から気持ちが白けてしまってうんざりする。この後、必ず事務所にいる全事務員を集めて説教が始まるのである。しかも同じことを、言葉を変え、表現を変えて長々と続けるのである。

「自己中心的な考え方だから、社長にろくな挨拶もできない。社長に挨拶できないぐらいだから、お客さまにろくな挨拶の出来る筈がない。挨拶をするということは世の中の基本である。それができないような人間は何をやらせても出来ない」とまずこんな調子で説教が続く。



2004年12月24日(金) 高砂工場労務課

 ▼高砂工場労務課
 硝子会社で高砂工場に勤務していた頃、新設工場の作業員充員のため北九州の工場へ選考試験によく通った。

 昭和44年頃のことで日本の高度成長は真っ最中で求人難の時代であった。新聞広告を出しておいて北九州工場に集まってくるかもしれない応募者を求めて出張した。5〜6回このような求人選考に通ったであろうか。それでも行けば5〜6人は応募者があったように思う。
 
 一日の仕事が終わり、夜行列車の出発までの時間を潰すために、戸畑駅からほど近い所にある「五郎」という居酒屋へ立ち寄り、生ウニを肴に地酒を楽しんだ。お客が7〜8人も入れば一杯になるような小さな店であったが、飲食店が纏まって入居している雑居ビルの中にあり、女将さんの応対がアットホームな感じで、お袋と一緒にいるような雰囲気を好んで足繁げく通った。

 仕事に疲れた日など銚子一本も飲むと睡魔に教われることがあった。列車の時間まで休ませてくれと頼むと、店の奥の4畳半くらいの部屋に布団を敷いて休ませてくれたものである。それがいそいそといった風情が感じられ、お袋に甘えているような錯覚に陥り、時間になって起こされるまでの束の間の快眠を貪ったものである。

 色々な酒を飲んできたが利害関係の伴わない酒席での酒のみが楽しい思い出として残るようである。まさしく懐に浄財ありて、静かに心許せる友と一献傾けるという言葉は酒の作法の極致を語っていると思う。



2004年12月23日(木) 尼崎工場労務課

▼尼崎工場労務課  
 硝子メーカーに入社して尼崎工場の労務課に配属されたのが昭和37年4月であった。労務課労務係の構成は労務課長中村澄人氏、労務係長沢田章氏、労務班主任中鼻守男氏、係員菅家進氏、関亮夫氏、事務員峰和子さん、井上公恵さんであった。係員は菅家、関、都窪と1年刻みで入社年次が続いていた。

 ところでこの会社では労働協約の改定のための団体交渉というのがあってベースアップを含めて、1年間の労働条件の改定を集約して7月に約1ケ月かけて交渉するのが労使慣行となっていた。労務課長は本社へ集合し団体交渉に臨むが労務係長以下の係員は工場にあって交渉期間中、工場支部の動きを観察し情報収集の任にあたることになっていた。また交渉経緯が本社から逐一電話で流されてくるのでこれを録音テープにとっておいて、再生し活字化して工場の管理者層へマスプリントして流していた。従って、団体交渉の期間中は、夜遅くまで暑い中を仕事することが多かった。当時高熱作業職場を管轄に持つ労務課としては、事務所にクーラーを入れることもできず背の高い扇風機が生温かい風を掻き混ぜている下で、額に汗しながら仕事をしたものである。

 労働協約改定交渉も妥結して、調印式も終わり重苦しい環境から解放されたある日、東京本社から帰ってきた課長の中村さん、係長の沢田さんに引き連れられて、尼崎は三和商店街の中ほどにあるマルカというビアホールへ陣取った。メンバーは男だけで、中村、沢田、中鼻、菅家、関、勇の6人であった。ビールの大ジョッキで乾杯し、飲めるだけ飲んでみようということになりめいめいジョッキを空けては、机の上へ並べていった。勇は13杯を空にした。当日一緒に飲んだ連中はいずれ劣らぬ酒豪揃いであったから、年配の課長、係長、主任の3人は10杯以内であったが、若い菅家、関の二人はほぼ私と同じか或いは1〜2杯を多く空けた筈である。飲みながらケインズの経済学説について議論したように思うがなかなかアカデミックな雰囲気であった。とはいうものの相手はビールであるから20〜30分おきに便所へ通いながらの痛飲であった。ビアホールへ入ったのが5時頃であったから、11時の看板まで6時間にわたって怪気炎をあげながら飲んだものである。

 さすがに翌日は体がきつく、出てくる汗がビール臭くて、一日中ぼうっとしていた。事務所にいるのも辛くて、現場視察と称してガラスの窯の側へ行って汗を流し作業員達と馬鹿話をしながら時間を潰した。翌々日も酔いは抜けず三日酔いであった。あのときはもう金輪際ビールは飲むまいと思ったほどの苦しさであった。この時の酒量が私の飲酒歴の中では最高の記録となったのである。

硝子会社に入社して最初に配属になった尼崎工場でよく通った店に阪神出屋敷駅前のホルモン屋がある。ここの親父が勇が本社に転勤になったと挨拶に行くと今日はお代はいらない、送別会だから飲めるだけ飲んで食えるだけ食ってくれと言って御馳走してくれたのも忘れられない思い出である。
 同じく出屋敷駅前に「スリーナイン」という喫茶店があって、勇が作業員寮である甲子園寮の舎監をしていたことから、甲子園寮生とよくコーヒーやビールを飲みに行っていた。ある日甲子園寮の大久保君、神戸君、毛戸君らと夕方立ち寄ったことがあった。するとどういう風のふきまわしか、ママさんが今日は私が奢りましょうということになって、出屋敷の小料理屋を3〜4軒はしごして飲み歩いたことがある。これも懐かしい思い出である。



2004年12月22日(水) 酒のこと��

 三回生からゼミナールが始まる。勇は刑法の平場ゼミに所属して目的的行為論の立場をとる平場教授の指導を受けた。平場教授の還暦の祝いが東京の平河町で催されたことがあるが集まってきた人達は法曹が多かった。ロッキード事件が騒がれていた頃で田中角栄元首相を検事として取り調べたという先輩もいた。

 ところで平場ゼミを卒業するにあたって先生に記念品を送ることになった。当時先生はドイツへ留学する計画があって、語学を勉強中とのことで、今のものに比べると、とても巨大なテープレコーダーを差し上げることになった。この贈り物を多とされた先生は、ゼミの学生全員を祇園の乙部の茶屋へ招待して下さった。お銚子だけが出て、舞妓達が祇園小唄と京の四季に合わせて、踊りを見せてくれた。舞妓3人程と三味線のお姐さんが2人ほどもでてきたであろうか。京都の4年間の学生生活の中でリッチな気分になり華やいだ経験はこの時が最初で最後であった。

 その後社会人になってから、同窓会の二次会で祇園の一力へあがったことがある。昭和57年の集まりであったと思う。京都に住まいする山本弁護士の顔で、予約も紹介もなしに突然の登楼であったが気持ちよく歓待して貰えた。この一力では大石蔵之助が山科に住まいして祇園へ通っていた頃、一力へ出した直筆の手紙が保存されており、額縁にいれて大切にされている。山本君が乞うと女将がこれを出してきて見せてくれた。文句は覚えていないが借用書のようなものであった。滅多にない機会なので私が持参したカメラで記念撮影したがフイルムが切れていて折角の思い出が記録に残らずじまいになってしまった。痛恨の一事である。

 酒の量が判らなくて失敗するケースはよくあるが、では自分の酒量はどれぐらいかとなるとやはり実地に試してみるしかないだろう。



2004年12月21日(火) 酒のこと��

 西寮というのは「女工哀史」の舞台ともなった京都織物の女工寮を大学が買い取り、学生の寮施設としたものであるが、私達の学年が第一回目の入寮生であった。木造二回建てで一室が18畳の大部屋で、6人で一階と二階に一部屋ずつを与えられた。二階が勉強部屋で一階が寝室であった。

 勇はこの西寮で寮長をした。寮長をしたせいで守衛ともよく話をする機会があった。西寮に竹田さんという酒好きの守衛がいた。守衛室で話しこんでいたらある日、茶碗に茶色い液体を入れて飲んでご覧なさいといって竹田さんが差し出した。酒だということは判っていたが、恐る恐る口に含んでみると舌が焼けつくような刺激がある。構わず飲み干すと、体がカッカッと火照る。葡萄酒のような味もする。

「美味しいですね、これは何ですか」
「トリスのウイスキーですねん」
 それまでウイスキーを口にしたことがなかったのである。茶碗にもう一杯お替わりをしてウイスキーの初体験となったのである。

 吉田寮に移って北寮14号室に陣取っていたが同じ法学部の学生で杉山君という好漢がいた。その彼は酒を飲むには三つの条件があるという。即ち、懐に浄財ありて、良い酒を静かに一献傾ける。これが酒の正しく美味い飲み方であるという。

 第一に懐の浄財を投じて飲むのである。ただ酒や貰い酒は人間の根性を卑しく、また汚くするから止めるのがよい。特に業務上酒の誘惑の多い立場にある人は心すべき教えである。

 第二に静かに飲むことも大切な要件である。大声でわめいたり、大きな声で歌ったりするのは騒々しいだけで酒の味が判らない。静かに知的な会話を楽しみながら飲むのが良い。

 第三に一献傾ける。沢山飲んで酔い潰れてはならない。良い酒を適量飲むのがよい。

 まあだいたいこんな趣旨の話をしてくれた。爾来勇はこの教えを守るように努めてきた。お陰で酒にまつわる失敗は皆無であった。

それにしてもただ酒を飲んで人生を失敗した秀才、賢人が如何に多いことか、このことは最近の話題になった事件の中にも幾つか数えあげられる。厚生省の高級官僚、関西空港の天下り官僚、防衛庁の高級官僚、道路公団の天下り官僚等々枚挙に暇がない。



2004年12月20日(月) ストーム��

 二つ目はやはり西寮の南棟寮生達がコンパの後、ストームをかけてきたのであるがその中のT君が酩酊して酒乱の状態になっていた。手当たり次第窓ガラスを割るわ、個室の扉を蹴って壊すわ、消火器を放射するわで手がつけられない。皆呆然としてなす術を知らず彼の暴れるのに任せている。この時北棟寮の総務をしていた勇はこの場を収録するには彼を縄で縛りあげるしかないと判断して彼の後ろに回り羽交締めにした。打合せをしておいたK君がロープで両手両足を縛り上げたのでT君も暴れようがなくなりやがて眠りだした。

 この二つの事件は卒業してからも寮友に手荒なことをして申し訳なかったという心の負い目になっていた。ところが卒業後の初めての寮の同窓会で思い出話のついでにこの事件のことを話題にしてO、Tの両君に手荒な行為を今更のように謝ると二人ともそんなことがあったとは全然記憶に残っていないというではないか。それを聞いて心の荷が下りたような気がするとともに酒は自我を忘れるまで飲んではならないと自戒したのである。

 これまた西寮の頃のことであるが時の総長平沢興先生の官舎へストームをかけたことがある。応援団団長で羽織、袴をまとい蛮カラぶっていた井沢君が総長にアポイントをとっておいたから応援団の二回生の部員と西寮の委員とでストームをかけようということになった。井沢、池田、春日と勇、後何人かいたと思うが名前が思い出せない。

 総長官舎の前に集まり、呼び鈴を押すと背広をきちんと着用した総長が自ら出迎えられて、客室へと通された。官舎だけあって来客も多いのであろうか、その客室は30畳ほどの広さがあった。会議用の机と椅子があって、その傍らに応接セットが置いてあった。テーブルは15〜16人の人が集まって会議できるほどの大きさであったと思う。勇達はそのテーブルに案内されて、予め用意されていたビールの栓を抜いて乾杯をした。そのうち総長が机の上の鈴を鳴らされると、奥様がよく冷えたビールとつまみを籠に入れて持ってこられた。総長夫人が女中も置かずに、自ら学生達の飲み食いの世話をされるのに一種の感銘を受けた。と同時に学者というのは男尊女卑で亭主が随分威張っているのだなという感じを抱いた。小1時間もお邪魔してお暇したが4年間の学生生活で最も思い出に残る1コマであった。



2004年12月19日(日) ストーム��

 ▼ストーム
 寮生活をしたものなら誰でも懐かしく思い出すのがコンパの後にかかるストームである。パンツ一枚になってスクラムを組み、蛮声を張り上げながら廊下を練り歩き、真面目に勉強している部屋を見つけると攻撃目標にして、戸をドンドン叩き部屋の中へ乱入する。

 ストームが始まったらたとえ勉強していても、部屋の前を通りすぎるまで中断して、むしろ積極的に戸を開放しておくとよい。ストームが近づいてきたら拍手してやるなり、握手をしてやるとストームの連中はご機嫌になって通りすぎて行く。

 ストームをかける連中の意識は次のようなものであろう。俺達は仲間と一緒に酒を飲んで、人生を語り恋を語り政治を語った。楽しくて楽しくてしかたがない。この楽しさを共に分かち合いたい。こんな気持ちで青春のエネルギーの捌け口を求めて練り歩くのである。ここのところが分かっていると、多少の乱暴は稚気愛すべきものとして許すことができるのである。ストームをかけている側は戸を開けて歓迎してくれると男子意気に感じてくれる同志がいたかという気持ちになり非常に愉快になるのである。

 泥酔すると人は無意識界に陥る。無意識界での行動が他人に迷惑をかける反社会的な行動に及ぶようになれば、これを酒乱というのであろう。酒癖の悪い所謂酒乱に属する僚友を二人懲らしめたことがある。

 一つは後期試験で西寮生全員が試験勉強に励んでいるとき、三人ばかりの寮生と飲んで酩酊して帰ってきたO君が大きな声で歌を歌いながら部屋へ入ってきて、いつまでたっても同室の4人に絡みついて、止まるところを知らない。言っていることも支離滅裂である。自室へ連れていこうとしても居すわって動こうとしない。そのうち手を挙げて私めがけて殴りかけてきたのであるが酔っているから当たらない。酔っぱらいの馬鹿力に殴られてはたまらないので狙いすまして反撃したアッパーカットが見事決まって、ダウンした彼はすやすや眠りだしたのである。



2004年12月18日(土) 酒のこと��

 酒とくれば女はつきものである。宇治寮、吉田西寮、吉田寮を通じて松岡沖本、三浦、水島、五十嵐、松森等の寮友は四条木屋町周辺にあった三吉というキャバレーに通いつめ女達と馴染みになっていた。残念ながら貧乏学生で硬派に属していた勇等はついぞキャバレーなんかへ足を踏み入れたことがない。いつも同室の松岡や水島が飲んで帰ってきて楽しそうに女の話をするのを聞いているのが関の山であった。しかし、あまり頻繁に女の話を聞かされるとこちらも若い身空故、血の沸き立つこともある。

 家庭教師の謝礼が入ったのである日、渡辺君と語らって三条周辺へ飲みに出掛けて屋台に入った。日本育英会から給付される奨学金が月額三千円であり、アルバイトの家庭教師料が月三千円程度の収入しかない学生の身分からすれば一杯飲むといっても屋台に立ち寄ることくらいしかできない道理である。一日の食費が百円〜百五十円だった筈だ。

 ところで渡辺君と二人で立ち寄った屋台には年増のお姐さんががら空きの椅子を前にして人待ち顔に煙草をふかしていた。懐には二千円程の金を持っていたので二人は飲むほどに、酔うほどに気が大きくなりお姐さんのおっぱいに手を突っ込んではその感触を楽しんでいた。お姐さんも怒るでもなくなすに任せていたので、純情な二人はのぼせ上がったことであろう。酒を飲むよりお触りの方へ熱中したのである。そのうち体よくいなされてお勘定ということになり、請求された額がべらぼうに高い。徳利で一人二本ずつくらいしか飲んでいないのに千二百円ほども巻き上げられた。通常の値段の3倍ぐらいのボラレかたであった。お姐さんも百戦錬磨のしたたか者で、初な学生におっぱいを触らせておいて、仇討ちにふんだくったという次第であった。

 西寮の近くに河童という飲み屋があった。これは高畠先輩に連れていって貰った所だし、吉田山の近くに「白樺」があって高校生の娘とママさん二人で学生専門に飲ませてくれるホームバーであった。ここへはクラスメートに連れて行って貰ったのが始まりであった。卒業を記念して徳利と猪口とネーム入りのタイピンを馴染みの客にプレゼントしていたが、私もそのプレゼントを受ける栄に浴した。後日談になるがここの高校生の娘さんは我々の後輩にあたる理学部の学生を射止めて婿にとり幸せな家庭を築いていたが、ご主人に先立たれて今は未亡人であるという。

 百万遍の近くのバーに井沢君が八本木、池田の両君と私を案内するということになり、一夕飲みに行ったことがある。面食いの井沢が連れていってやるというだけのことはあって、そのバーのママさんは美形であった。もう一人いた女の子もこれまた美人であった。井沢は調子よくママさんや女の子にカクテルなんかを注文しては振る舞っている。そして勘定の段になると、俺はゲルピンだから頼むよと済ました顔でいう。なかなかの傑物である。



2004年12月17日(金) 酒のこと��

 宇治の学生寮にも入寮することができて生活の基盤も整い新しい生活に慣れかけた頃、中学校で担任であった秋山先生から手紙が届き、研修のため見藤先生と一緒に京都へ出張するから逢いたいと書いてある。指定された日に三条河原町近くの旅館を訪ねると懐かしい秋山先生と見藤先生が若い夫婦と談笑しており、にこやかに迎えて下さった。若い夫婦は見藤先生の弟さん夫妻で最近結婚したばかりの新婚さんであった。もう一人佐藤君という1年後輩の私立大学生が頭にポマードをてかてかに塗りたくってきていた。

 予定の人数が揃うとまずは、飲みに行こうということになり、鴨川のほとりの屋台の椅子に座って、こんにゃくとか大根を一皿ずつ貰いながら御馳走になった。アルミのコップのような容器に一升瓶から酒を注ぎ、それを容器ごとお湯に漬けて燗をしガラスコップに注いでくれるのである。両先生とも既に旅館で晩酌をやってこられたわけだから相当出来上がっている。

「早島君も佐藤君ももう大人じゃから、今日は裸の先生を見て貰ってもええじゃろう」
「見藤さんの奥さんも人妻となったんだから、男とはどんなものか観察するのもええじゃろう」
ということになって、両先生が猥談を始められた。それとともに早いピッチでコップを飲み干すのである。見藤先生の弟さんは京都市役所に勤めているとのことであったが、メートルがあがつて先生方の猥談に触発されたものか「残念節」と呼ばれる数え歌を歌いだした。
「正月や・・母さん正気でするがよい・・・するがよい・・・娘もしたがるカルタとり・・・」と12月まで思わせぶりで際どい歌詞が続いて最後のところで外すのである。

 両先生、弟の見藤さん、私、佐藤君とかなり酩酊していたが、見藤夫人が目を輝かせるようにして猥談に聞き入っていた姿が忘れられない。通常女性は猥談が始まると眉を顰めて横を向くのだが、その常識に反する行動だったので印象が強かったのであろう。



2004年12月16日(木) 酒のこと��

 高校生の頃一度だけビールを口にし、その苦いのに閉口して何故こんな苦いものを大人達は好んで飲むのだろうと不思議に思ったことがある。悟さんが婿にきて畳表問屋の商売にも慣れ若旦那として脂が乗り出した昭和30年頃の夏のことである。日本経済は朝鮮動乱を契機に目ざましい勢いで復興を開始しており、当時私は高校へ通っていた。ビールなども、ようやく庶民の食卓に上がりはじめていたので、当時としては裕福な生活をしていた悟さんが、ある暑い日に冷蔵庫で冷やしたビールを帳面付けの合間に飲んで、一本飲みきれないのでたまたま遊びに行っていた勇に勧めて下さったのである。

 冷蔵庫といっても銅張りのアイスボックスで、オガ屑と氷塊を入れて冷やす旧式のものである。
 物珍しさも手伝って、コップに一杯ついで貰ったビールをその苦さに顔をしかめながら、捨てるわけにもいかず必死の思いで少しずつ飲んだものである。

 勇が酒を始めて口にしたのは、再度の大学入試に備えて受験勉強を始めた昭和32年3月頃のことであった。それも初めての酒であったせいか、前後不覚に泥酔した苦い思い出である。

 父は豊中の化学薬品製造工場の工場長として単身赴任中であり、従兄の婚礼に父の代役として出席したのである。父のお下がりの革靴を履いて学生服で参列したかと思う。婚礼といっても今日のように、ホテルとか会館での豪華なものではなく、茶屋町の農家の自宅に親戚縁者を招いて三三九度の杯ごとと披露宴を行う田舎式のものであった。

 型通り三三九度の杯を終えて、披露宴といっても座敷で新郎新婦を前にしての酒盛りである。田舎のお百姓達の集まりのせいか、歌を歌って座を盛り上げようとするような気の効いた人は誰もいない。私も生来の音痴ときているから、自ら進んで歌を出すほどの勇気もなく黙々と料理に箸を運んでいたが、勇さんなら上の学校へ行こうとしているくらいだから何か一つぐらいやれるでしょうと煽てる者がいた。それでも切り出せずにいると吉岡さんという中年のお百姓さんが調子外れの「ああ玉杯に花受けて」を歌いだした。
この程度なら私の方がまだましだと思った途端、元気が出てきた。「紅萌ゆる丘の上」はじめ「都ぞ弥生の・・」など知っている限りの学歌、寮歌、応援歌を歌いまくった。腹から声を出すと酒も進むらしい。また大学入試失敗の屈託もあったであろう。さらには生まれて初めて酒を飲んだため、自分の酒量の限界というものが分かっていなかったせいもあろう。勧められるままにいい気になって飲んでいるうちに突然意識がなくなったのである。

 気がついたときには自宅の布団の中で寝ていた。聞いてみると宴会が終わって、母と妹に付き添われて、およそ6kmの道のりをふらふらした足取りではあったが、きちんと自分の足で歩いて自宅まで帰ってきたという。途中しきりに酒になんか酔っていないとわめいていたそうである。喋っていることはまともだし、くどいことを除けば意識は正常であったという。

 しかし自分では、宴会の席で高歌放吟していた時に忽然として意識が消えて、次に自宅の布団の中で目が覚めるまで何も覚えていないのである。ましてや6kmの道程を自分の足で歩いて帰ってきたことなど全然知らないのである。全く隔絶した二つの世界、酩酊するまでの有意識界と酩酊後覚酔するまでの無意識界を私は生きていたことになる。無意識界では帰巣本能にコントロールされて自宅まで歩いて帰ったのであろうか。生まれて初めての、酩酊し自分を失うという体験であった。

 胸を張って酒を口にしたのは大学に入学して、法学部の歓迎会が楽友会館
で催された時である。乾杯の音頭に合わせてコップに注がれたビールを一気に飲み干し美味いと感じた。ビールは苦いものだという固定観念が打ち砕かれて、なるほど勝利の美酒とはよくいったものだと感心しながら杯を重ねたのを思い出す。

 一年浪人生活を送ったとはいうものの、もし外れていれば広島の郵政研修所へ中級公務員として研修赴任し就職することを心に決めていただけに大学へ入学できた喜びは大きかったのである。喜びが大きかったからこそ歓迎会でのビールが苦くもなく殊更に美味かったのであろうか。



2004年12月15日(水) 酒のこと��

 ▼酒のこと
 酒と勇との付き合いが本格的に始まるのは大学へ入学してからのことである。普通誰でも幼少の頃から、父親なり祖父なりが晩酌をしている姿をみたり、宴会で泥酔して帰宅する父親の姿を見て育つから、酒を口にするのはもっと早い時期であろう。ところが私の父は次男坊であったため、我が家には祖父母がおらず、父は全くの下戸ときていたから、子供の頃お相伴で酒を口にする機会は皆無であった。酒を飲んでいる父の姿をついぞ目にしたことがない。また我が家で酒瓶を見たこともなかった。

 しかしながら、子供の記憶で父が酒を飲み愉快にはしゃぐ姿を一度だけ見たことがある。母方の従姉の美智子姉さんが婿養子を迎えた婚礼の席でのことである。確か昭和23年のことであったと思うが、戦後間がなく物資の欠乏していた時代である。畳表の卸問屋と畳表の機織り工場を営んでいた伯父の一人娘美智子姉さんが東大出の青年と婿養子の婚約が整い、自宅の客間で婚礼の儀式がとり行われた。

 親戚の人々が招待され、当時小学校3年生であった私と女学校1年生であった遠縁の寿美ちゃんとが雄蝶、雌蝶に選ばれ、三つ重ねの杯を三方に乗せて、朱の漆塗りのお銚子の酒を新郎新婦はじめ、仲人や列席の祝い客にお酌して廻った。人にお酌するだけで自分が口にするわけではない。本来であれば、子供であっても羽織袴で正装するところであろうが、戦後の物資不足の時代で婚礼用の酒を調達するだけでも難儀な時代であったから、子供用の羽織袴なんかある筈もない。払い下げの軍服を黒く染色して子供用に仕立て直した母親手縫いの洋服を着て三三九度の杯を満たして廻った。寿美ちゃんはさすが女の子であるから戦時中、箪笥にしまってあった母親が娘の頃着用した和服をこれも仕立て直してめかし込んでいた。

 三三九度の杯も終わり、祝い膳となってから仲人の謡曲高砂が終わるのを待ちかねていたように、来客の誰からともなく陽気だがあまり巧くもない歌が始まった。その中に父の歌声もあった。
「もしもし亀よ亀さんよ。どちらが先に毛が生えた・・・・」
「ドンブリ鉢ャ浮いた浮いた、捨て猫シャンシャン・・・・・」
 座が静まろうとするのをわざとおどけて盛り立てようとする歌であった。顔を真っ赤にして茶碗を箸で叩きながらの熱演は後にも先にも私が垣間見た酒を飲む父の最初にして最後のものであった。父は甘酒を飲んでも顔が真っ赤になる生来の下戸であった。



2004年12月14日(火) 京都時代・・寮生活と囲碁

 ▼寮生活と囲碁
 京都大学に入学して宇治寮で生活するようになった時、寮生仲間で腕自慢が娯楽室に集まって、囲碁を打っているのを見て、興味が沸いた。当時寮生の中で初段程度の実力を持っていたのは、猪原伸彦、斉藤万之助、岩見清次松岡直方等の諸君であった。加茂川喜朗、中田克彦、山口英雄、春日 進君等は私と同様に囲碁の打ち方を知っているという程度の初心者であった。斉藤万之助君や猪原伸彦君が対戦しているのを観戦しながら、囲碁の面白さ奥行きの深さを知った。斉藤君に井目置いて何回も対戦したが、歯がたたなかった。

 宇治寮から吉田寮に移ってからは、囲碁の強い新入寮生が加わった。杉山勝彦君、池田裕夫君、池谷 浩君等である。吉田寮で覚え、腕を上げた寮生に高橋 健、沖本一宏、水島章隆、渡辺正己、山本哲蔵、大場克彦、八本木浄、斉賀 修、重川直広、安田清彦君等がいる。昭和61年の秋に安田清彦君の招きを受けて、青山の碁会所でかつての宇治寮、吉田寮の同窓生が数人集まり、旧交を温めたことがあるが、猪原君、安田君、高橋君、水島君、中田君、小生で数局打った。この時は猪原君が日本棋院の六段の免許を貰った祝いも兼ねていた。中田君四段、安田君三段、高橋君初段、水島君初段の有段者ばかりで昔の仲間がそれぞれの道で活躍しながら囲碁でも力を付けているのに感銘を受けた。その中田君も鬼籍に入ってはや10年程になる。月日が経つのは速いものである。



2004年12月13日(月) ポット出法の授業と弁論大会��

 中学2年に進級したある日の授業で人間は人それぞれに、その時々の感情や感傷、印象を歌にしたり、詩にしたり、文章にしたりすることの大切さを説かれた。そして自詠の歌集の中から何点かを披露された。非常な刺激を受けた勇は特に先生に請うてその歌集の一部を戴いた。その歌集は奥様との恋愛時代の相聞歌が中心であったが、これに触発されて自分も何時の日か自分の著作、自分の歌集を発行しようと心に決めたのである。

 また先生はその頃この中学に弁論部を創設され、見込みのありそうな生徒を集めてはテーマを与えて原稿を書かせ、これを修正加筆したうえで、演説の仕方を指導された。校内で弁論大会を開き、入賞者を特訓して、天城高校で開かれる学区内中学弁論大会に出場させ初出場にもかかわらず、優勝の栄誉を獲得した。優勝したのは3年生の谷本先輩であった。

 谷本先輩が卒業してから、白羽の矢をたてられた勇は先生の特訓を受けて、「38度線の思い出」という演題で出場して翌年の大会で優勝した。先輩の獲得した「早島中学に弁論部あり」の名声を汚すことなく継承し次の学年の太田州彦君に引き継いだ。この太田君も翌年の大会で優勝し母校の名声に磨きをかけてくれた。

 この久保田先生は、その後転任された先の各学校で弁論部を指導されて優勝回数百回以上を数えるに到り、岡山県下の教育関係者の中で誰一人知らない人はない「弁論指導の神様」となり10年ほど前に定年退職された。
 今は亡き奥様の位牌を抱いて世界の仏跡巡りをされていると聞く。



2004年12月12日(日) ポット出法の授業と弁論大会��

 ▼ポット出法の授業と弁論大会
「さあいいか、今日皆に書いて貰った作文の中で参考になるのを一つ紹介しよう。これから読んでみるからよく聞いておくように」と言われて、新進気鋭の久保田修先生が一つの作文を声を上げて読み始められた。
『日は暮れてくるし、あたりには人影さえも見えない。坂を下ってきたところで自転車のチェーンが切れてしまったのである。・・』 先生の声を聞いて勇はびっくりした。なんとそれは制限時間がきたため、尻切れとんぼで自信のないままに提出した勇の作文なのである。

 課題は「私の或る日曜日」というものであった。勇は最初何を書いてよいか分からず、思い悩んだあげく制限時間近くなってやっと一つの事件を思いだした。昨年秋の或る日曜日に一山越え、五里程離れた母の実家の祖父の許へ自転車に乗って柿を貰いに行ったときのことをである。荷台の竹籠に柿を一杯積んで貰って家路を急いでいるとき人家の無い山中で自転車が壊れて立ち往生してしまった。その時の名状し難い心細い気持ちを書こうと思ったのだが、意をつくせぬ儘に時間がきてしまって纏まりのつかないものを提出せざるを得ないという羽目に陥ってしまった。勇が何を書くか思い悩んで呻吟しているとき周囲の級友達は既に書き終えていたからその時の勇の焦燥感は今思い出しても年を経て蘇ってくるのである。

 昭和26年勇が岡山県の早島中学へ新入生として入学して間もなく、初めての社会科の時間の時のことであった。
 出来の悪い例として教材に取り上げられてしまったと勇は覚悟したものである。作文は小学校の頃から苦手で時間ばかりかかっていつも叱られていたからである。

 ところが意外なことに先生はこう言われたのである。
「君達はポット出法というのを知っているかな。知っている人は手を上げて」
「・・・・・・・・・」
「なるほど誰も知らないようだね。この作文はポット出法を使って上手く書かれている。『日は暮れてくるし、あたりには人影さえも見えない。坂を下ってきたところで自転車のチェーンが切れてしまったのである』と言われると君達聞いていてさあ次はどうなるのだろうと思うだろう。こういう風にいきなりポット事件を持ち出してくる書き方を先生はポット出法と呼んでいるのだ。他の人達の作文は君たちが日曜日に朝起きて寝るまでに何をしたかを真面目にかいてある。朝、起きました。歯を磨いて顔を洗いました。朝御飯を食べました。便所にいきました。友達のところへ遊びにいきました等々。だがこれでは当たり前のことで読んでいて面白くない。しかしこの作文は次はどうなるのだろうという興味と期待を読む人に与えるだろう。こういう書き方をしなければならない。文章を作るには起承転結ということを考えて書かなければ良い文章は書けない。今日は『起』の良い例として『ポット出法』のことを話したが次回は『承』について君たちの作文から例を引いて説明することにしよう」
 勇は面目を施した上にこのことがあって以来文章を書くということが好きになったし楽しくなったのである。



2004年12月11日(土) 真菰刈り、元抜き、毛取り、木工��

 畳表は短時間で藺草をよく乾燥させたものほど色が鮮やかである。藺草を色鮮やかに乾燥させるため、刈り取ったあと田圃に掘った穴の中へ溜めてある泥水へ漬けてから、地面に拡げて天日干しをする。従って乾燥した藺草はちょっと手を触れただけでも、もうもうと泥の微粒子が舞い上がる。

 ところで藺草を畳表に織り上げていく前工程として藺草の元抜きという作業がある。藺草は刈り取った時、根元の部分に薄紫色の長さ10センチ程の袴をはいている。この袴を取り除く作業が元抜きである。藺草は直径15センチ位の束に結わえられているので、元抜きを始める前に大鋏で藺草の元の部分を1〜2ミリ程度切り落とす。この下拵えをした後、藺草の束に馬乗りとなり、左手に掴める量だけの藺草の基底部を握り右手指先で藺草の茎を手前にひいてやると、袴だけが左手掌に残る。この時、藺草に付着している泥の微粒子の過半のものが離脱し、もうもうたる粉塵が顔面を直撃する。作業に当たってはマスクをしているが、隙間を通して浸入した粉塵で鼻孔は真っ黒になる。この作業が学校から帰ってきた子供達の小遣い稼ぎのアルバイトになるのである。汚れる作業なのでよくよく小遣いに困ったときにしか手をださなかったが、一束幾らの手間賃を貰って嬉々として、クレパスやスケッチブックを買いに走ったことを思い出す。それにつけても文具の類は親から買い与えられるのが当然と思っている現代の子供達と較べてどちらが幸せなのだろうかと考えることがある。

 自動織機で織られた畳表は50メートル近い帯状になっている。この畳表の表面には織り込まれた藺草の穂先や根元部分が突出していることが多い。この突出した部分を毛取り器と称する道具で削りとっていく作業が毛取り作業である。作業は畳半畳ほどの広さの木製の台の上を畳表を滑らせながら毛を取っていくのである。子供にできる単純作業であるが新しい畳表の香りが懐かしい。

 中学3年の時であったと思うが、父の不遇の時代で学校から帰ると木工所へ通った。岡山県南には当時学生服の縫製工場が沢山あり全国的にも機業地として知られていた。倉敷紡績を始め中小の紡績工場があり繁盛していた。この紡績工場で使う糸巻きを製作する木工所で下地を作ったのである。

 手順は、
 1)よく乾燥させた太い桜の木を長さ30センチ位に鋸で引いて、なたで割って5センチ角くらいの木片を作り角を落として丸くする。
 2)この木片の両端を回転台の回転軸に固定した後、足踏み板を踏みながら回転させ金属製の刃物を定点に固定し刃先を木片に当てて丸く削っていくのである。刃物の柄を両手で支えて刃先が木片を削っていくのを目視しながら当たり具合を調節していくところに熟練を必要とした。
 木工所は職人あがりの老人が本業の雑貨屋を婿養子に任せて、隠居仕事として細々と経営していたので内職の域をでなかった。しかしこの老人の品質にこだわる一徹さと頑固さは並大抵のものではなかった。社会科の時間に日本経済の二重構造ということを学んだ頃であったが、日本経済の発展を支えた零細企業を実地に体験していたのである。



2004年12月10日(金) 真菰刈り、元抜き、毛取り、木工��

 ▼真菰狩り、元抜き、毛取り、木工
 岡山県南の早島町は戦前から畳表の産地として有名であった。農家では藺草を栽培し農閑期には副業として織機で畳表を織っていた。藺草の栽培は暮れ12月の寒い時期に植えつけ、夏土用のころ刈り入れるため農作業としては最も過酷な条件下で行われる重労働であった。そして藺草はその年の作付け面積と天候に値段が左右される市況商品であった。この農家で生産した藺草や畳表を買い集めては、織機工場や畳問屋へ持ち込んで口銭稼ぎをする仲買人のことを鳶(トンビ)と言っていた。

 昭和20年の冬には敗戦直後の混乱の中で農家は保有米を少しでも多く確保すめため、米作に力を入れており藺草の作付けは極めて少なかった。昭和21年の冬の藺草の作付け面積をどうするかの判断は難しかった。戦後の復興建設がやがて始まると読んだ目端のきく農家は政府の制肘を受けない藺草を自己の責任で多く植えて結果的には大儲けした。しかし大半の農家は食糧管理法の統制下で米作に力を入れていた。

 空襲で焼け野原となった都会地にそろそろ住居が建設されだした昭和22年の春には畳表の需要が旺盛に出始めたが、在庫が払底していて価格が高騰した。その年の藺草の収穫にはまだ早い6月頃、灌漑用の川に真弧が青々と繁っていた。これを刈りとって試しに畳表を織って代用品として売った鳶がいた。これが値が安いこともあって飛ぶように売れた。そこでこの智恵者の鳶は、小学生や中学生を集めて真弧を刈らせ、天日干ししたものを買い上げた。

 子供達は小遣い稼ぎに競って真弧を刈り道路へ干して乾燥したものをこの鳶へ持ち込んだ。真弧刈りは岸辺から手の届く範囲のものしか刈ることができないので、刈り残した川中のものは川舟を浮かべて舟の上から刈り取った。乾燥した製品は目方で鳶が買い上げてくれたが、値段がいくらであったかは思い出せない。しかし、干し上がった真弧の匂いは懐かしく今でも思い出すことができる。この真弧刈りのアルバイトはその年限りの一ケ月程の短い期間のものであった。翌年からは作付け面積が極端に増えて藺草が暴落したからである。



2004年12月09日(木) ベチャ��

 勇は今年、初めて手作りの面をつけて、町へでたのであるが、近所の子供達を追いかけまわし得意になっていた。鬼面をつけて高下駄を履くと小学校4年生であっても、背丈は高くなり大人より大きくなることがある。
「ベチャよ。ベチャよ」とはやしたてて逃げて行く子供達を追っかけて、小学校前の文房具屋前までくると、餓鬼大将の富雄がするめを齧りながら、女の下駄を頭の上にかざして
「香織の下駄はトウキョウセイ」と節をつけて歌っている。下駄をとられた香織が「返して頂戴」と泣きべそをかきながら富雄を追っかけている。
 勇は香織の災難を見ると富雄の恐ろしさが頭の中に閃きはしたが、それよりも香織の下駄を取り替えしてやらなければならないという義侠心の方が先に走った。つかつかと富雄の傍らへ近づいて襟首を掴むといきなり、頬に平手打ちを一発食らわせた。不意打ちにあってたじろいだ富雄が鼻の穴を大きく膨らませてピクピクさせている。すかさず勇が青竹を振り上げると、怯えた富雄は声も出さずに逃げ出した。勇はこんなに簡単に事が運ぶとは予想さえしていなかったのであっけにとられたが、富雄の逃げていく姿を見ると追っかけてみたくなった。

 追いかけてみると富雄は一生懸命逃げていく。相手が逃げるとますます面白くなって勇はどんどん追いかけた。今日こそは何時もいじめられている仕返しをしてやろうという気持ちが起きて、富雄が悲鳴をあげるまで追いかけ、青竹で叩いてやろうと勇は思った。面を被っているので、誰がやっているかわからないだろうという気持ちが勇を大胆にした。いつも威張って勇達をいじめている富雄の姿が今日程みじめに見えた日はなかったと勇は思った。そして、香織にはベチャの面を見せるのはやめようと思った。走りながら今日の出来事は内緒にしておこうと思った。

 最近インターネットや携帯電話を使った犯罪が増えつつあるが、悪の誘惑に陥るのはその匿名性が原因であると思う。富雄を追っかけ、どこまでもいじめてやろうという気持ちがおきたのも、ベチャの面に隠れての匿名行為である。この時の勇の心理を冷静に考えてみると、人は誰でも心の内に悪魔性を潜ませているのではないかという気がする。よく「魔が差した」ということが言われるが、富雄を追っかけた勇の行動も匿名のベチャ面に助けられてこの悪魔性が発現したものであろう。人間誰でもが内に潜ませているこの悪魔性を発現させないものは、その人が陶冶し磨きあげた人格であり、規範意識だと思う。

 真弧刈り、藺草の元抜き、表の毛取り、糸巻きの木地造りが子供の頃から中学生までの間に経験したアルバイトであった。



2004年12月08日(水) ベチャ��

 勇はベチャ面作りがうまくいかなかった上に、投げしまで良い餌を富雄に巻き上げられてしまい、面白くない一日だった。勇は家に帰りつくとうっぷんの持っていき場所がなかったので、飼い猫の三毛が勇の傍らへじゃれついてきたのを幸いとばかり思い切り蹴飛ばした。三毛はいきなり蹴飛ばされてギャォーと悲鳴をあげながら、すっ飛んで逃げた。

 勇の面作りは進んで、あとはエナメルを塗り、面の頭に毛をつけるだけとなった。勇はさっきから、面の色を何色にしようかと考えている。赤色か、緑色のどちらかなのだが、装束のことも一緒に考えておかなければ、簡単には決められない。勇は緑色に塗って緑色のシャツを着、黒い袴をはいてみたいと思うのだが、勇の体に合いそうな緑色のシャツも黒い袴も自分の家にはなさそうである。赤なら、岸田の寿美姉のセーターと腰巻きを借りれば、恰好だけはつきそうである。腹巻だけ母親にねだって縫って貰えばよいのだ。ここまで考えて勇は赤色に塗ることに決めた。後は頭髪につける棕櫚の皮を伯父の家へ行って貰ってくればよい。

 いよいよ秋祭りの日がやってきた。
 勇は親友の毅にも内緒で作ってきたベチャの面を被って往来を歩いているベチャの群れの中へ入っていくことを考えると胸がわくわくした。そして何よりも、ベチャ姿で香織のうちへ訪ねて行き、香織を驚かせてやろうと思うと心がはやった。

 勇の町は鶴崎神社の氏子が殆どなので、祭りといえば鬼がでるものと決まっている。鬼は通常小学校4〜5年生の年頃から17〜18才の青年までが、めいめいに作っておいた鬼面を被り、それぞれに意匠を凝らした装束を纏って、町を練り歩くのである。赤色または青色のシャツを着て、色付きのモンペ風のズボンをはき、足には脚絆を巻き手には手甲をする。腰には超ミニスカート風の腰巻きを巻き、腹には金時腹巻をつけている。ほう歯の高下駄を履き丹精して作った鬼面を被る。鬼面には棕櫚の毛で作った頭髪がつけてあり、背中へ長く垂れ流すのである。

 そして手には青竹を六尺くらいの長さに切った棒を持ち、青竹製の棒をひきづりながら歩くのである。青竹の先は割ってあり、通行人を襲う時は青竹を地面に叩きつけて、パンパンと音を出す。このような青鬼、赤鬼が祭りともなれば40〜50匹も出現して町中を練り歩くのである。17〜18才の青年達は町の若い娘達の尻を追いかけ喜んでいるという具合である。



2004年12月07日(火) ベチャ��

 二人は秘密の溝から集めてきて、空き缶に入れておいた三角蛭を地べたにかがみこんでせっせと針に無言のまま取り付けた。長屋の奥からは母の織機を動かす音がカタンカタンと漸くたそがれ始めた裏庭に流れていた。

 勇と毅が田圃の畦道を空豆の葉についている雨水でずぼんをぐしゃぐしゃに濡らしながら、六間川に来てみると既に人影が2〜3人投げし針を漬けているのが目に入った。中学一年の富雄も弟の富次と一緒にきているようである。

「勇ちゃん、富雄がきているぜ、どねぇしょうのぉ。三軒地の方へ行こうかのう」と富雄の姿を目敏く認めた毅が相談した。
「そうじゃのう。あいつが一緒じゃと、盗られてしまうけぇのう」
その時富雄の方もこちらの姿を認めたらしく
「おーい勇と毅じゃねぇか。この辺はようかかるんかいのう」と声をかけてきた。こうなっては万事窮すである。
「おえりゃぁせんわぁ。昨日も百本漬けたんじゃが、かかったのは鯰とどんこだけじゃ」と毅が答えた。
「お前ら餌は何をつけとるんじゃ」
「わいらは三角蛭じゃ」
「そうか、お前ら三角蛭か。どこでとったんじゃ。わいら、三角蛭がおらんけえ雨蛙じゃが」と富雄が言ったので、勇と毅もこれは雲行きが怪しくなってきたぞと思うと案の定、富雄が癪にさわることを言いだした。
「おい、お前ら、わいらの投げしと取り替えてくれ。わいら百本もっとるけぇのう、お前らのを百本こちらへ寄越せや」

 勇と毅はお互いに顔を見合せたが、何しろ相手が悪い。富雄は中学一年生で、札付きの餓鬼大将である。大柄な上に腕力が強く,富雄の意に逆らうとどんな目にあわされるか判らない。勉強はできないくせに、悪知恵だけは発達していて、学校の先生達もその指導には手を焼いているのである。勇と毅は不承不承、折角臭い溝に入って、洋服を汚しながら集めた三角蛭を餌につけてある投げしを富雄のそれと交換した。六間川と早川は大体勇と毅の領分で、富雄達はこの近くへは姿を見せた事がなかったのに、今日は早々とやってきている。勇は鰻のよくかかる早川を富雄に占領された上に、三角蛭の餌のついた投げしまで取り上げられて、口惜しくて仕方がないのであるが、富雄の理不尽な暴力が恐ろしくて、言うことをきくより仕方がないのである。諦めた二人は、富雄から代わりに受け取った雨蛙のついた投げしを次々に川へ投げ込んで帰路についた。いつしか日はとっぷり暮れて、田圃では蛙のオーケストラが始まっていた。



2004年12月06日(月) ベチャ��

 通された応接間にはピアノが置いてあり、書棚には世界文学全集や日本文学全集、世界の思想大全集等の本がぎっしり詰まっており、勇には読めない分厚い外国語の本も並んでいる。壁には羊飼いと羊の群れを描いた大きな絵がかかっている。勇はこれとよく似た絵を先生に連れられて大原美術館に行ったとき見たことがあると思った。 健介、剛、京子、栄も落ちつかない様子でもじもじしている。何時もと勝手が違って、部屋の雰囲気に圧倒され、よそ行きの顔をして畏まっている。「さあ皆さん、どんどん召し上がって下さいね。香織は末っ子だし転校してきたばかりなので、お友達もなく寂しがっていますのよ。皆さんに仲良くして戴いて、岡山の言葉も沢山教えて下さいね」と香織の母はケーキを勧めながら、勇達の顔へ笑顔を投げかけた。香織も慣れた手つきで紅茶を配っている。香織の母の視線が剛に移ったとき、剽軽者の剛は慌てて

「岡山弁はすぐ慣れますらぁ。わいら生まれたときから岡山弁で話しょうりますがぁ」というと
「まあ、剛さんは生まれたときから、言葉を話したの。ソリャァ、ボッケェナァ」と香織の母が岡山弁を混じえて言ったので皆どっと笑った。
 香織の母の巧みなリードで勇達は畏まった気持ちもほぐれ、平気で方言が喋れるようになった。秋祭りのこと、ベチャのこと、投げし針のこと、茸狩りのこと、蜻蛉釣りや蝉捕りのこと、凧上げのこと、藺草刈りや田植えの手伝いのことなどこの地方で勇達の日常生活の一部になっている行事や遊びのことを皆かわるがわる得意になって話して聞かせた。香織は特に祭りのベチャに興味を持ったようである。この地方に伝わる桃太郎伝説とベチャの関係を勇は請われるままに、乏しい知識を振り絞って説明した。

 勇の話しに目を輝かせながら聞き入っている香織の姿を勇はとても美しいと思った。
「勇さんは何でもよく知っているのね」と香織が感心したように言ってくれたので、勇は満足した。香織のうちへ遊びにきて良かったと思った。

 勇は先刻から一心不乱に粘土を捏ねているがどうしてもうまくつくれない。時折、癇癪を起こしては九分通り出来上がった面型に竹のへらで十文字に罰点をいれて粘土を団子にしている。香織に見せて褒められるような面を作らなければと思うとなかなかうまくいかなかった。また最初からやり直して目を彫りかけていた。

「勇、毅君が投げし針を漬けにいこうと誘いにきとんさるよ」という母の 声で勇は今日の面作りはやめることにした。
「きちんと後片付けをせにゃぁおえんぞな」という母のくどい小言を聞くのが嫌なので、
「今片づけて行くから待っていてつかぁせぇ」と先手を打っておいて、急いで粘土を丸め、押し入れの中へ投げ込んだ。剛に入ってこられては面作りの現場を見られてしまうからだ。
 今まで,畳表を織っていたらしく、モンペをはいた母が藺草の泥で汚れた手を拭きながら毅を連れてきた。毅は既に長靴を履いて手には投げし針の糸を入れた籠をぶら下げている。
「勇ちゃん、何しょうたん。はよう、餌つけにゃあ、ええ場所全部とられてしまうがなぁ」と毅は言った。勇がベチャ作りをしていたことは気づかれずに済んだようである。
「そうじゃのう、すぐ持ってくるけぇ、ここで待っていてつかぁせぇ」と言い残して長屋へ投げし針を取りに走った。



2004年12月05日(日) ベチャ��

 香織の父は、東京に本社を置くS紡績早島工場の工場長として、この町に昨年秋転勤してきた。藺草を栽培したり、畳表を織ったりして生計をたてている者の多い早島町には、織機を修理する鍛冶屋か、せいぜい織機を20台ほども置いて、畳表を織っている従業員10名程度の町工場しかなかったので、一部市場に上場されているS紡績の早島工場のように従業員五百人を数える工場の工場長は町の名士として遇された。

 香織は都会育ちの娘らしく、動作はシャキシャキしており、色白の顔は母親に似て美形である。変化に乏しい町の学校の常で、新参者の香織の一挙手一投足は好奇の的となった。とりわけ標準語を喋る香織の言葉は悪童達の好個の材料であった。

「オッカァのことをオカァサマと呼んどるでぇ」
「先生ゴキゲンヨロシュウというのをわいは聞いたでぇ」
「こねぇだ、雨が降っとったじゃろう。せぇで,うちが傘にのせたぎょうか言うたらな、傘にノッタラ骨が折れるわよと言うんじゃぁ。うちゃぁ、もうおかしゅうて」

 勇は勉強はよく出来る方だったので、各学年とも三学期のうち少なくとも一学期間は級長になった。香織が転校してきたときは、先生のはからいで香織の席は級長の勇の隣に決められた。

 転校してきたばかりなのに香織は、勇達の知らないことをよく知っており、とても太刀打ちできない学力を持っていた。教室では良く勉強ができたが、まだ方言が喋れないので、遊び時間に悪童達から標準語を冷やかされると悲しそうな顔をした。

 香織が転校してきてから10日ほど経った日曜日に、勇達のクラスの主だった者5〜6人が香織の家へ招待され、遊びに行くことになった。勇達が誘い合って、工場の近くにある社宅群の中でもとりわけ立派な構えの香織のうちの玄関で
「御免せぇ」と案内を乞うと香織がでてきて
「ようこそいらっしゃいました。さぁどうぞお入り下さい」と大人びた物腰で招じ入れようとする。声を聞きつけて香織の母も現れ
「まあまあ、皆さんようこそいらっしゃいました。香織の母でございます。香織がいつもお世話になっています。さあどうぞ、どうぞ」とにこにこしながら迎えてくれた。

 勇は何と言っていいか判らず、慌ててピョコンと頭を下げた。勇に続いて健介、剛、京子、栄もピョコリ、ピョコリと頭を下げた。



2004年12月04日(土) ベチャ��

 ▼ベチャにまつわる思い出
 勇は春の陽射しを浴びながら、濡れ縁に腰を下ろして、天理教の集会場を建設中の工事現場から拾ってきた40センチ角ほどの板切れの上に、粘土を置いて一心不乱にベチャの面型を作っている。竹のへらで目、鼻、口、牙眉を彫り込んでいく。傍らに置いた粘土を千切って団子にし、くっつけてみたり、外してみたりしては、出来るだけ恐ろしい形相のベチャに作らなければならないのだ。

 この地方では、小学校4〜5年位の年頃になると、男の子達はベチャの面作りに取りかかるのである。秋祭りがくるまで、自分がどのような面を作っているかは、親友にも内緒にしておくのが、子供の世界のしきたりとなっていた。兄のいる者は兄から兄のいない者は父からその作り方を教わり、友人から教わることは決してしなかった。

 粘土で満足のいく形相の面型が出来上がると、これを適当な水分が残るまで、陰干ししてから、石鹸水を面型に塗りつける。次に新聞紙を細かく切って、水に浸し粘土の面型の上に貼り付けていく。新聞紙を二重、三重に貼りつけたところで作業は中断しなければならない。一日置いて、今度は書き潰した習字の半紙を持ってきて、メリケン粉で作った糊を面型に塗りつけ、その上へ半紙を貼り付けていく。半紙を四重、五重に貼り終わったところで糊が乾くのを待って芯になっている粘土を取り除く。

 勇がベチャの面を独りで作ってみようと思いついたのは、勇のクラスへ昨年の暮れに東京から転校してきた香織に,手作りの面を見せて褒めて貰いたいという気持ちが働いたからである。



2004年12月03日(金) 高校野球見物に甲子園球場へ��

 田舎ののんびりした生活と違って都会の生活には緊迫感があった。毎日の生活が刺激的であった。長山邸の風呂が木の桶を置いただけのものであったのも、田舎で鉄製の所謂五衛門風呂しか知らなかった勇には、新発見であった。

 魔法瓶に氷で冷やした麦茶を入れて、伯母が心を込めて作って下さったお結び弁当を持って甲子園へ三日間程通ったのだが、人出の多いのにはびっくりした。また、甲子園球場はラジオで聞くのと実際に見るのとでは大きく違っていた。第一にグラウンドの土の色である。土の色がこんなに赤い色をしているとは想像もしていなかった。第二に芝が綺麗に手入れされていることであった。第三にピッチャースマウンドが高く盛り上がっていることであった。

 当時東中国代表は米子東高校で残念ながら、岡山県からは一校も出場していなかった。西中国代表では呉三津田高校が出場していたと思う。高校野球独特の雰囲気を肌で感じ取ることが出来、血潮疼き、胸おどる感激は随所で受けたものである。炎天下に売りに来るかち割り氷を口一杯に頬張りながら、観戦したのは貴重な体験であった。

 早島町の勇の周りには誰も甲子園球場へ行った経験のある人は居なかったので、甲子園球場で高校野球の全国大会を観戦して来たことは自慢するに値することであった。



2004年12月02日(木) 高校野球見物に甲子園球場へ��

 ▼高校野球見物に甲子園球場へ
 甲子園の全国高校野球大会を見物するために、門真の伯父に招待されて出掛けたのは、小学校六年の夏休みのことであった。門真の伯父長山 武は母の兄にあたり、大阪府庁へ奉職していた。子供が五人おり、女二人、男三人であり、長男の良彦さんが勇より二年程年上で、中学に通っていたので、勇とは恰好の遊び仲間であった。岡山市一宮の母の実家では良彦さんはじめ長山一家の従兄弟・従姉妹とは正月にトランプをしたり、鬼ごっこをしたりして過ごしたことがあるので、門真の伯父の家へ泊まって良彦さんの案内で甲子園へ通うことは無上の喜びであった。

 大阪へ行くのは初めてであった。山陽線はまだ電化されておらず、石炭車であったから三石を過ぎてトンネルを通るときには、窓を閉めてハンカチで顔を覆った。岡山から大阪まで六時間位かかったと記憶している。車中、母親が作って持たせて呉れた巻き寿司をへぎ折りの弁当箱の中から取り出して食べた。車中で食べたアイスクリームの味を思い出す。アイスクリームは銀色に光る容器に入れて売り子が車中を売りにくる。注文するとへぎ折りで出来た容器の中へ先に球形の膨らみのある鋏でアイスクリームを取り分けて呉れるのである。現在のように簡易パック入りでないところが趣があってよかった。

 梅田駅にはかねて打ち合わせの通り、良彦さんが出迎えに来て下さっており、天満を経由して京阪電車で門真の長山邸へ連れて行って戴いた。当時の長山邸は借家であった。


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