Leaflets of the Rikyu Rat
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| 2005年07月17日(日) |
大人の世界に住む 子供な大人のヒトたち �� |
僕の中の世界が最も大きくガラリと変わったのは、やはり初めてゲイのひとと会い、そのままセックスするに至ったあの日においてであると思う。 十七歳の僕から見て、三十八歳のオジサンは完全な“大人”だった。二十一も離れていれば、申し分が無すぎるくらいだった。 そこで僕が感じたのは高校生(“子供”)に対する“大人”の純粋な性欲であったし、それは掛け値無しの本物であり、また同時にそれ(大人の性欲というもの)こそ僕がトテツモナク知りたいものだった。 純粋な性欲というものはその純粋さ故に驚く程幼稚で、そんな大人の幼稚性に、僕はひどく驚き、喜んだ。安心もした。 大人を絶対的なものとして見ていた自分はなんだったのだろうかと笑い出したくなり、同時に十七年間“間違った風に”思い込んでいた自分が情けなくて仕方なかった。 しかし、僕はどうしても真実を確かめたかったのだ。 従って、僕は真実を知ることができたことにとにかく感謝した。 それは本当に真実だったのか、なんてことは議論するに値しなかった。 僕にとっての真実を見つけることが、僕には何よりも必要だったのだと思う。そして僕は僕の真実を見つけた。
いい子に育ってごめんなさい、と両親に心の中で謝った。 けどそれは両親の望んだ「いい子」、あるいは“世間”の望んだいい子であって、 僕にとっては無理矢理演じさせられた、間違ったものだった。 サイズの合わないTシャツや、空を飛べない鳥、溺死してしまうクジラのように間違ったもののように感じられた。(そもそも何故肺呼吸の彼らが海にいるのだろうか。僕はちょっとこっちにおいでよ、と陸での生活に対する誘いをかけたくなる。) 「間違った役を十七年間担っていた僕」は、彼らにとっての真実だったのだろうと思う。 だから僕は謝った。けど僕は僕の真実のために、生きるのだ。と、悪びれずに考えた。
| 2005年07月01日(金) |
大人の世界に住む 子供な大人のヒトたち �� |
大人の中に潜む子供性であるとか、 短絡的で脈絡を欠く、 首尾一貫しない幼稚なものの存在などといったものにはなんとなく感づくこともあったけれど、 明瞭な形として僕の目の前には現れなかったし、 もやもやとしたまま、 どうにも僕の中ではっきりとした造形を得ることはできなかった。
そういうものは、子供の前から巧妙に隠されていたのだった。 例えば“性的なものとして”。
中学三年生の時、友達数人と先生のクラスへ遊びに行った。 まだ二十代半ばくらいで、教師としてではなく、 個人としての考えを素直に僕らにぶつけてくれる先生だったので、 僕は大好きだった。(教師としては失格かもしれない。) 「一時間くらいで戻る」と言い、先生が一時的に出かけたのを見計らい、友人達は一斉に家宅捜索を開始した。(犯罪だよな・・・。) そこで見つけられたものはCDやらゲームやら教育実習の後に貰ったらしい生徒からの色紙やら手紙やらであった。 しかし、最後に僕らは見事なまでに積み重ねられたエロビデオを発見してしまったのだった。 しかも実写じゃなくて全てが2D(アニメ)ものだった。
暫くの無言の後、僕らは互いに頷き合い、全てを見なかったことにしたのだけれど、 それは僕に大きな衝撃を与えたといわざるを得ない。 エロビなんて中学生にもなれば出回っているのに、先生が持つそれというものはやはり普通とは違う何かがあった。 先生本当にごめんなさい、と思いつつ、大人の秘密に触れることができたようで、妙に嬉しくなったのも事実だ。
それから僕は、偉そうな顔をした教師達の偉そうな言葉を聞きながら、 でもこいつもきっと夜一人になったら“何か”してやがるんだろうな、と思うようになった。 そうすることによって僕は大人に対して反駁していたのだと思う。
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