Leaflets of the Rikyu Rat
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| 2006年04月26日(水) |
マイノリティを考える�◆�memo |
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第二回講義
「性別ニ元制と社会」
性別は人間を分割する基本線・基本カテゴリーであり、 「男」「女」と言う二元制によって人間社会は成り立っている。
性別の位相について学んだ。 セックス(生物学的・解剖学的性差) ジェンダー(社会的・文化的性差) 前者については受精時から誕生までの女性と男性の性差について。 後者については誕生後の女性と男性の性差について。 性器の外見→名前・服装・玩具(「女の子らしさ」「男の子らしさ」)→性自認→しつけ・教育→性別役割・性別規範
人間社会は性別にかかわる文化である。 従って、セックスよりもジェンダーが「人間社会」では重要となる。
ジェンダーの特徴 1.人為的・恣意的・可変的である 例えば仏語では「太陽」は男性名詞、「月」は女性名詞であるが独語では逆となる。 2の規範性は時代と共に変化する。例えば、平安時代の美人と数十年前の美人、今の美人は様々な面で違いがある。 2.性別規範 男はこうあらねばならない、女はこうあらねばならない、 と言った規範性、拘束力が生まれた。 また、そこにおいて逸脱への制裁が行われた。 伏見憲明は女性・男性を「女制」「男制」と揶揄。(揶揄と言うと語弊があるかな) →異性愛規範 3.記号としての性 例えば装い。昔は性別と言うよりは階級・身分・権力を象徴するものであったが、 近代におけるブルジョワジーの台頭により、性別が象徴されるようになって行った。
このような特徴を持つ性別二元制の社会では、 多様性のある人々が2つのカテゴリーに振り分けられてしまうと言う問題が生じてしまう。 従って所謂「性的マイノリティ」である人々は不可視の存在(≒不在)として扱われてしまい、 その存在をカムアウトしなければ「視」られないのである。
全体として授業らしい授業で、僕は興味がある分野だったので楽しく聞けたけれど、 退屈だと感じたひとも多かったのではないかと思う。 例えば「ジェンダー」の出自についての解説(ジェンダーとはそもそも文法用語であり云々) の部分は、知識としては面白いけれど冗長で中弛みな感があった。
僕がネットを頻繁に利用しだして大体五年になる。 そこで感じるのはネット上におけるゲイ人口の爆発的な増加だ。 性別ニ元制の社会において、性的マイノリティは不可視となる。 そのような社会において、ゲイはお互いがゲイであるかどうかを確実に見極めるのは難しい。 (∵逸脱への制裁のせいで、性的マイノリティは表面上自ら不可視であろうとする場合が多いため。) そこで、匿名性の高いインターネットと言うツールを利用し、 自らの存在を主張することによって、性的マイノリティは可視の存在となりえる。 インターネットは、性的マイノリティが性別ニ元制から解放され得る場所として最適な空間なのだろうと思う。 現実では無く、ネット上でしか思うように解放されない、と言うのは何だか虚しい気がするけれど。 (行動できる場所が無いよりは遥かにマシだ。) (行動しようと思えば、制裁を受ける覚悟・制裁と闘う覚悟さえあればなんだってできるのだし。) しかし、インターネット上で「存在」を主張する人間が多ければ多いほど、 たとえ「マイノリティ」であっても、多くのひとにとって身近な存在となることができるかもしれない。
| 2006年04月19日(水) |
マイノリティを考える� �memo |
授業科目:マイノリティを考える
英文名:On “Minority”
担当教官:荻野美穂
授業の目的、ねらい:過去および現在の社会において、「マジョリティ」と「マイノリティ」、 あるいは「自己」と「他者」を分割する差異はどのように形成され、機能しているのか。 また、そうした分割線の変革はどのようにして生じるのか。 こうした問いを、特に性と身体をめぐる問題を中心にしつつ考察する。
授業の計画、内容と目標:次のようなテーマで論じる予定である。
1.ジェンダー、セックス、セクシュアリティ 2.女性と男性 3.異性愛と同性愛 4.性自認と性同一性障害 5.障害と健常
2006/4/19
初回講義
イントロダクション:差異と差別−「マイノリティ」はどのように作られるか
差異は認識や識別から始まり、それによってまず区別され、 人為的かつ恣意的な差異への意味づけが序列化し (どちらが少数派であり多数派であるかなどによって)差別へとスライドして行く。(勿論少数派が社会的強者になる場合もある。) 分割線で分けられた二つのグループは次第に権力的関係へと変化。
「青い目・茶色い目」と言うビデオを45分ほど見学。 小学校の授業で先生が生徒を目の色で優劣を分け、 「青い目のひとは偉くて賢い」「五分間長く遊んでいい」 「茶色い目のひとは野蛮で愚か」「青い目の子と話しちゃダメ」「遊具使用禁止」 などのルールを課し生徒たちの変化を視る実験をしたドキュメンタリー。 (数日後優劣を逆転させ子供たちの変化を再び観察→差別を自分自身の身体で体験させる。) 差異を作り意味付けを行うことによってどのような結果が出るのか、またその結果へ至るまでの過程が記録されている。 認識の固定化、負の価値の内在化、予言の自己成就etc。
イントロダクションと言うことで「マイノリティ」についての説明が主になっていたけれど、 「マイノリティ」とひとことで言ってもアイヌ、インディアン(ネイティブアメリカン)、アフリカンアメリカン、ヒスパニック、被差別部落、在日系外国人、障害者など幅が広すぎるため 次回からは「セクシュアルマイノリティ」に焦点を当てて講義予定。
認識の固定化や負の価値の内在化などは自分も身に覚えがある。 ビデオを見ることによってその経過を見せ付けられ、まざまざと思い出された。 「茶色い目の子は野蛮な子」と言われ本当に暴力的になる子供たち 「茶色い目だから頭が悪い」と言われ成績が急落する子供たち 逆に「青い目の子は賢い」と言われ能力がいかんなく発揮される子供たち “子供”であるから分かりやすく目に見えるだけであって(ある意味柔軟で)、 大人の場合はもっともっと複雑でぐちゃぐちゃしている。 「マイノリティを考える」上では格好の導入(イントロダクション)だったのではないかと思う。
(書きかけの回想については後日また更新します)
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