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しもさんの「気になる一言」
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2018年02月13日(火)
まわる、まわるよ、お酒がまわる

敏感な読者はお気付きのことと思うが、
中島みゆきさんの曲「時代」を気持ちよく歌っていた女性が
酔っぱらい過ぎたのか、マイク片手にこう歌った様子が
おかしくて、メモしてしまった。
その後、弾け過ぎたのか、フラフラになって自席に辿り着き、
しばらくすると、コテっと寝てしまった。
文字にすると、なかなかうまくその場を表現できないが、
少し酔いが冷めて、ハッと起きた時、
替え歌のことは覚えているのだろうか?と不安になった。
彼女は「まわる、まわるよ、目がまわる」だったな。
誰かに伝えないと、この光景が頭から離れないから、
「気になる一言」に登場させてみた。
今度誰かが「時代」を歌った時に、思い出さずに済むかな?



2018年02月12日(月)
この世界の片隅に、うちを見つけてくれて

映画「この世界の片隅に」(片渕須直監督)から。
学校の歴史では学ばないが、太平洋戦争で被害を受けたのは、
原爆投下された「ヒロシマ」や「ナガサキ」だけでなく、
全国各地で、空襲を受けた海軍・陸軍の拠点は、凄まじいものがあった。
作品舞台の「広島県呉市」は「戦艦大和」を造り上げた海軍の拠点として、
敵国から集中砲火を浴びた場所である。
終戦直前の空襲は、特にはげしく、1日に何十回と繰り返され、
その様子は市民らの「警報、もうあきた」の台詞で表現されている。
そんな中、タイトルの「この世界の片隅に」の意味が知りたくて、
メモ帳片手に、観続けた。
主人公の「すず」に、こう投げ掛けた幼なじみの台詞がある。
「お前だけは、最後まで、この世界で普通で、まともでおってくれ」
戦争で、いままでの生活も人間関係も少しずつ荒んでくるが、
そんなことに負けず、お前らしく生きて欲しい、
それが、みんなの励みになるから・・と、言いたげだった。
しかし、タイトルの「この世界の片隅に」は、作品の最後に現れた。
「この町では、皆誰かを亡くし、探している」
「周作さん、ありがとう。この世界の片隅に、うちを見つけてくれて。
ほんで、もう離れんで、ずうとそばにおってください」
この時代、どの国に産まれ、誰と出会うか、ではなく、
この世界の片隅で、誰かに見つけてもらえて嬉しい、という気持ちが
伝わってきて、ホッとした。
いろいろな大切なものを失ってきた「すず」が呟いた台詞、
私の心にも響いたなぁ。



2018年02月11日(日)
こんないい場所で子育てしているんだよ

以前は、子育て環境の充実で、移住・定住する人たちが増えた。
そんな時代も、全国各地で「子育て支援」を競い合い、
「こども医療費の無料化」がどこまで進むのか気にはなるが、
今では、あまり差がなくなってきたのを実感する。
そこで気になるのは、どんな理由で、移住・定住を決めるか、
考えてみたら、やはり「子育てを終わった」先輩の言葉ではなく、
今現在、子育て真っ最中の、同じ環境の人たちの言葉だろう、と
誰もがわかる。
それは、講演会等の話ではなく、SNSの呟きに近いコメント、
またはリアルにランチをしながらの会話だったりする。
ではでは、その会話の中で、どんなフレーズに反応するのか、
そんなことも気になって調べてみたら、
(私ね)「こんないい場所で子育てしているんだよ」。
その場所で子育てをしたら、こんなに楽しいんだよ、
こんな人たちが支えてくれるんだ、こんなことが得られるの、
だから、子育てで悩んでいるあなたたちも、
この場所で子育てしてみたら?、というメッセージが込められている。
これって応用すれば、どの世代にも使えるフレーズかもしれないな。
「こんないい場所で老後生活を過ごしているよ」
う〜ん、住んでみたいな、確かに・・(汗)。



2018年02月10日(土)
月明かりを浴びて走り回ってると、黒人の子供が青く見える

映画「ムーンライト」(バリー・ジェンキンス監督)から。
う〜ん、評価が分かれるだろうなぁ、という感想で観終わった。
アメリカが抱える、人種差別や貧困、児童虐待、麻薬売買、
更には、LGBTなどの性的マイノリティなど、詰め込み過ぎという評価と、
何度か登場する「ムーンライト」(月明り)の場面に、黒人の主人公が、
暗闇、静けさの中で、きれいに浮かび上がってくる映像評価。
実は、作品の中で、こんな台詞がある。
「老女は俺をつかまえてこう言った。
「月明かりを浴びて走り回ってると、黒人の子供が青く見える、
ブルーだよ。お前をこう呼ぶ、ブルー。」
何気ないたとえ話かもしれないが、タイトルの「ムーンライト」を連想させる
言葉は、この「月明かり」しか出てこない。
またこの台詞の後「自分の道は自分で決めろ。周りに決めさせるな」と続く。
そのことを作品の軸に据えて、自分の行動を決めていったようにも見える。
構成を、1.リトル(少年期)、2.シャロン(思春期)、3.ブラック(青年期)と、
わざわざ3章に分けた理由を知りたい、とも思った。
アカデミー賞(2017年)、ゴールデングローブ賞(2017年)など、
輝やかしい賞を受賞した作品なのだけれど、平々凡々と暮らす、
日本人の私にとっては、なかなか難しい作品だったなぁ。



2018年02月09日(金)
顔が痒いので頭を動かしてもいいですか?

定年退職1年前にしておこうと思った「脳ドック」を受けた。
私にとっては2度目の体験で、前回から6年ぶりとなる。
毎年のように受診してきた人間ドックとは違い、
なぜか緊張していた自分が可笑しかった。
狭いトンネルの中のような中で検査する「MRI」だけど、
準備の際に「頭は動かさないで下さい」と指示を受けたので、
目をつぶってじっとしていたけれど、なんと10分ほど過ぎた頃、
急に顔が痒くなってきて困った。(笑)。
何かあったら、このボタンを押してください、と言われたが、
まさか「顔が痒いので頭を動かしてもいいですか?」と訊けないし、
頬を動かして、なんとか痒いのを我慢しようとしたが効果なし。
結局は、そうこうしているうちに、検査終了し事なきを得たが、
もし脳以外にも顔全体を写されていたら、
とても面白い私の表情が写っているに違いない。(笑)
しかしながら、一番緊張したのは「MMSE」の検査。
認知症の早期発見を目的とする検査であり、
今振り返れば、笑ってしまうような問題でも、
その時はこれを間違えると「認知症」と診断されるかも・・と
必死に答えた、30点満点のテストは焦った。
突然訊かれると、詰まったりするものだなぁ、ふう〜。(汗)
24点以上が合格ラインらしいけれど、さて何点取れたかな。



2018年02月08日(木)
小娘みたいな泣き言はよして

映画「ショコラ 君がいて、僕がいる」(ロシュディ・ゼム監督)から。
人種差別が当然の時代、白人と黒人で芸人コンビを組み、
「小麦粉とチョコレートはうまく混ざらない」と言いつつも、
「黒人が白人に思いきり蹴られる」ネタで、大衆の人気を得る。
しかし「真の芸術とは、風穴を開けることだ、人々の範となる」と、
人種差別的なネタからの脱却を図り、奴隷に近い黒人たちにとって、
希望の星となり、独り演劇の道へ進もうとする。
演じるのは「シャイクスピア」の中から、黒人主役の「オセロー」で、
「俺以上にリアルに、演じられるものはいるか?」と豪語して、
スタートするのだが、結果は散々で自信喪失。
そんな状況下、ギャンブルやアルコールに溺れていく彼に、
「演劇とは、リスクの伴う芸術」となだめながらも、
「『俺こそ真のオセローだ』と自分で言い出したのよ。
小娘みたいな泣き言はよして」と、突き放すシーンが印象に残った。
プライドを傷つけられた彼が「失礼だぞ」と大きな声で言い返しても、
「じゃあ、しっかりして」と切り返す場面は、
何気ない会話なのかもしれないが、こういう彼女がいたからこそ、
立ち直っていけたのではないか、とメモをした。
「中途半端なプライド」ってジャマなんだよなぁ。



2018年02月07日(水)
東京都民って、マスクしないのかねぇ

昨日、本当に久し振りに、仕事の関係で上京した。
2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けて、
急ピッチに工事が進んでいる感じがして刺激を受けた。
私たち地方都市は、この東京を相手に「移住・定住を増やそう」と
必死になっているのか、とちょっぴり目眩がした。(汗)
また、電車の中では、当然のようにほぼ全員がスマホの画面を眺め、
わたしの左隣の男性は、スマホで漫画を読んでいたし、
右隣りの女性は、スマホで小説を読んでいた。
私たちが、紙媒体で読んでいたものがスマホになっただけで、
本質は、あまり変わっていない気がした。
一番気になったのは、これだけ「インフルエンザ大流行」が
新聞紙上を賑わせているのに、マスクをしている乗客がほとんどいない。
地方ではよくみかける、予防の意味のマスク着用は皆無に近い感じ。
先日、クラス全員マスクしている中学校の光景を見たばかりだったので、
受験シーズンまっさかりの今、都民のほとんどがマスクをしている、
そんな先入観が、見事に裏切られた。
だから今回は、帰宅後、夕食支度をしている妻に、私が発した一言、
「東京都民って、マスクしないのかねぇ」を記録に残そうと思う。
理由がわかる方、是非、教えてください。



2018年02月06日(火)
私の役目は「プラットフォーム」

「新しいビジネスにチャレンジしたいすべての人々のための、
『想い』を『予定』に変える実践講座」と銘打った、
「わくわくビジネス塾・・スタートアップセミナー」に参加し、
定年退職後のヒントにしたいな、と勉強中である。
キャッチコピーは「一歩踏み出せば夢はかなう!」。
私の考えた「ビジネスプラン」について、講師の先生から
「こういうビジネスを『プラットフォーム』って言います」と、
ヒントをいただいた。
「プラットフォーム」(platform)とは、
「システムの土台となるハードウェアとソフトウェアの環境」
又は「駅などで乗客が乗り降りする一段高くなった場所。
歩廊。ホーム」
言い換えれば「人を集め、それらを繋いでいくビジネス」
なのかな?と拡大解釈をした。
それは現在の仕事でもある「行政の役割」とも言える。
私がこの世に生を受けて今までを振り返っても、
「プラットフォーム」の役目が多かった気がするし、
今後も、私のもとに集まってきてくれた、老若男女の人々を
うまく繋げていくこと、これこそ私の役目、と理解できた。
そうだ・・「Platform Shimo.」の名刺つくろうかな。(笑)



2018年02月05日(月)
『家族』ではなく『家人』と書き

「しもさん、最近の『気になった一言』聞いてください!」で始まり、
「twitterやFacebookとかで自分の家族の話題を出す時に、
『うちの家族が』ではなく『うちの家人が』って呼称する人、
結構見かけませんか」とメッセージをいただいた。
「どうして、わざわざ『家人』なんて使い慣れない言葉を使うんだろう?
『家族』では何か不都合でもあるのかな?」と、
前々から気になっていたようだ。(なるほど・・鋭い観察力)
確かに「家人」と書いている人は、以前から気になったけれど、
私の関心は、もっと単純に「なんと読むんだう?」だった。
たぶん、書いている人も読み方を意識していないような気がする。
辞書で調べても「いえびと」「けにん」「かじん」などあり、
あまり定かではないし、
意味も「家族」「家の人」「家に仕える人」など、いろいろで、
「同じ家で一緒に生活している人」という意味で理解している。
だって夫婦だけでも「妻・家内・連れ合い・うちのかみさん」
「夫・主人・旦那・相方」など、ちょっと文字にすると照れ臭いし
いちいち関係を文字にするのが面倒なのかな、とも考えてみた。
小説には、時々目にするけれど、会話では聴いたことがない。
だから「『家族』ではなく『家人』と呼び」ではなく、
「『家族』ではなく『家人』と書き」なのかもなぁ。

P.S.
こういうメッセージ、大歓迎です。お待ちしています。



2018年02月04日(日)
撤退による勝利はない。だが、この救出劇は1つの勝利だ。

映画「ダンケルク」(クリストファー・ノーラン監督)から。
作品冒頭に「ダンケルクで兵士たちは運命を待った。
救出に望みを託し、奇跡を信じて」と書かれたテロップが流れ、
(フランス北部の)「ダンケルク」という場所で繰り広げられる
救出作戦が奇跡的に成功したストーリーだと想像できてしまい、
なんとなく物足りなさを感じた。
台詞も少なく、メモに残したいフレーズが多いとは言えないが、
逆に、実際の戦争は、それほど喋らないのかも・・と、
よりリアルに、戦争の場にいる錯覚を感じたほどだ。
戦争における「撤退」は、ほぼ負けに等しく、
人・モノ・金を失い、大きな犠牲を払うこととなる。
にも拘らず、作品のラスト近くに、こんなフレーズを見つけた。
「撤退による勝利はない。だが、この救出劇は1つの勝利だ。
奇跡の脱出に感謝する」
作品の説明を、わざわざ文字で説明しなくてもいいよ、と
感じながら、鑑賞を終えた。
実話に基づいた戦争の奇蹟的な救出劇という視点でみれば、
私は、映画「ハクソー・リッジ」の方が好きかもしれないなぁ。