2003年09月05日(金) |
自分の中に生まれた穴なり傷なりを、見つめるだけの覚悟を持つまでに、私にはいつもそれなりの時間が要る。それを見据えたら見据えたで、どくどくと内奥から沸きあがる何者かを、すっかり外に吐き出してやらなきゃ次に進めなかったりもする。でも、一度そうやって、傷と正面切って向き合うと、そのあと心は、すぅっと澄んでくる。体の内側で、風が生まれる。遠くから響いてくる細い細い口笛みたいな、柔らかい風が。
自転車に娘と二人乗りして走って帰る家までの道。あっちが亀さん公園、こっちは行き止まりだよね、なんて云い合いながら走る。今日もにゃんこいるかなぁと娘が云うので、ペダルを漕ぐ足をさらにゆっくりにして、左右の路地を見回す。 この一角にはとても猫が多くて、いつでもすぐに見つかる。あっちで伸びしてるよ、あ、ごはん食べてるね、ほら欠伸したよ。二匹、三匹、四匹…、立て続けに出会う猫たち一匹一匹を娘は指差す。 団地の脇の細道に入ると、途端に蝉の声が大きくなる。まるでどさっと降ってくるみたいに。その蝉の声を浴びながら走る。如雨露で水をまく人、萎れた朝顔の前で立ち話するおばあちゃんたち、玄関先にしゃがみ込んでゆったりと煙草を吸い込むおじいさん。その間をするすると自転車ですりぬける。こんな他愛のない風景が、私はとても好きだ。 夕食の支度。娘に手伝ってもらう。私が予め四つ切にした茄子を、彼女が細かく切るという作業。自分が切った方が当然さっさと仕上がるのだけれど。包丁を握る危なっかしい彼女の手つきに、本当は心臓がばくばくいいっぱなしで生きた心地がしないのだけれども。それでも手伝ってもらう。 そうやって切り上がった茄子の細切れとピーマンの細切れをレンジでチンして、先に茹でておいた茶蕎麦の上にどばっと乗せる。豪快に。私の分にだけネギを散らして、ほれ、ぶっかけ蕎麦の出来上がり。こんな日は手間はかけない。とにかく簡単に簡単に。 箸を少し使えるようになった娘が、どんぶりに顔を突っ込むようにして箸を操りながら食べてくれる。むしゃむしゃと食べてくれる誰かの姿がある食卓って、それだけでもう、気持ちがいい。
こんな時、いつも思う。 日常を丹念に、丹念に営んでゆけるといい。ささやかなものも一つ一つ。穿るのではなく撫でるようにして。
寝る前の儀式。「クレリア〜えだのうえでおきたできごと」という絵本を今夜もやっぱり読んで、最後、一曲かける。ここのところの彼女のお気に入りは、中島みゆきの「銀の龍の背に乗って」。この歌の何処が娘の気にいったのか分からないが、彼女は、トイレットペーパーの芯をマイク代わりにして、大声で歌いながらぴょんぴょん跳ねて踊る。中島みゆきの歌でこんなに踊れるとは君ってやっぱり面白い奴だな、と思いながら、私も彼女に合わせて踊るフリをする、あくまで踊るフリ。 これが私たちの、寝る前の儀式。これが終わらないと彼女は横になってくれない。 そして、彼女が掻いてくれという背中をそっとずっと掻きながら、私たちは眠りに入る。
朝の気配を何処かで感じながらも惰眠を貪っていると、突然、間近で蝉の大声。驚いて起き上がると、網戸に貼りついた蝉の姿が二つ。軽く指で弾いて逃げていただく。目覚まし時計代わりだとしても、大きな声だったよな、全く。
そう、いつだって、私の背中を押してくれるのは、当たり前にそこにある日常。さりげなく叱咤してくれる友人の声。私を呼ぶ娘の声。 そうやって私が歩いて来た道筋には、そこここに、たくさんの宝物が散らばっている。目を射るような強い光を放つわけでもなく、驚嘆するような輝きを放つわけでもなく、でもそれらはいつだって、自ずから光を湛えている。何処までもやさしく、やわらかく、いとおしい光を。 だから私は、やっぱり今日も、生きている。当たり前にそこに在って、でも本当はどれも唯一無二の日常を礎に。
玄関を開けると、一斉に降り注ぐ光。目を細めながら見上げれば、それはもう、澄みきった青空。さぁ今日も、一日が始まる。 |
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