2003年09月04日(木) |
ももと初めて会ったのは、1994年の6月、晴れた日だった。当時勤めていた会社の近くのペットショップに貼り出されていたちらしを見て、私が電話をかけた、それがきっかけ。 その日飼い主さんは大きな布のバックをさげており、その中を覗くと二匹の子猫が入っていたのだった。一匹がまず最初にミャァと云って飛び出してきた。長い尻尾をぷるんと震わせ、くるくるした目で辺りを見回し、またミャァと鳴いた。人見知りしない元気な子ですよ、と飼い主さんが言う通り、その子はすぐに私の腕にじゃれついてきた。 でも。もう一匹は。そう思い、鞄の中を覗くと、もう一匹は鞄の中、隠れるようにうずくまっている。おとなしい子なんですよ、でも食欲旺盛でね、飼い主さんが苦笑しながら言う。試しにそっと手を伸ばしてみた。 彼の頭の下にそっと手を入れてみる。すると彼はそうっと頭を上げ、じっと私を見た。 ねぇ君は本当に僕を可愛がってくれるの? そう訊かれているような気がした。どきんとした。 私が思いきって両手を伸ばして抱き上げると、彼は別に抵抗するわけでもなくじっとして、やっぱり私を見つめていた。大きな瞳の、はっきりした顔立ち。彼はじっと、じっと見ていた。今でもあの目は忘れられない。私はその時、彼に魅入った。最初の猫の、あの人懐っこさにも惹かれるものはあったが、何といえばいいのだろう、こんなにも人懐っこい可愛い子なら、私じゃなくてもきっと良い貰い手さんが見つかるに違いないと思ったのだ。でもこの子には私しかいない、と。 誠に勝手な思い込みだが、私はそう思った。だから、私は、私にじゃれるでもなく鳴き声を上げるでもなく、ただじっと見つめてくる猫の方を、ももを下さい、と、そう云った。 ももは、飼い主さんの言う通り、よく食べる子だった。よく食べよく眠る。あまり鳴かない子で、もしかして人と暮らしてるから猫の鳴き方を知らないんじゃないかと心配して、彼の隣で私がニャァニャァ鳴いてみせたこともあったくらいだ。 残業が当たり前の毎日。夜中になって帰って来て私が玄関を開けると、彼は必ずそのまん前で待っており、いつだって私にじゃれついてきた。短い眠りの最中、彼はいつだって私の枕元にいた。 それから一年しないうちに私が事件に遭った時も、それからPTSDを発症してからも、彼はいつだって私のそばにいた。私がリストカットを繰り返す日々にも、薬を一時に飲み過ぎて部屋の中一人意識を失う日にも、彼はそこにいた。そこにいて、じっと私を見つめ続けた。 リストカットしてしまう時や薬を大量に飲み干す瞬間、彼は何故かいつも、私の前ではなく後ろにいた。後ろにいて、全てを黙って見ていた。まるで、今止めても無駄だということを予め知っていたかのように。 そのくせ、私が正気に戻った時には必ず、私の体の何処かにぴたっと貼りつく彼の体温があった。その体温に、私は何度慰められただろう、救われただろう。自分が勝手にそういう自傷行為或いは自殺行為をしておきながら云うのは変だが、私はいつだって、彼のその、物言わぬ生の存在感に救われた。生き残っている自分を教えられた。 マンションの10階の部屋に一時期住んでいたことがある。その折、何度か私は誘惑にかられた。あぁここから堕ちたら死ねるかな、見事に潰れて一瞬にして終わるかな、と。ふらふらとベランダの手すりに手をかけ、下の方、道往く人々の小さな点々をぼんやり眺めた。 でも、そういう時に限って彼は、そろそろと私の足元にやってきて体を摺り寄せ、ミャァと鳴くのだ。普段殆ど鳴き声をあげない彼が、ミャァと鳴いて私をじっと見上げるのだ。 私はその声ではっと我に帰り、握っていたベランダの手すりから慌てて手を離し、足元を見る。彼はじっと私を見上げている。たまらなくなって抱き上げると、彼はやっぱり黙って私に抱かれ、やっぱり黙ってその体温を生きていることの温みを私に伝えるのだった。 彼のあの温い体に顔を埋めて泣いたことが、私には何度あったか知れない。 気づけば、私にとって彼は飼い猫などではなくなっていた。うまく云えないが、運命共同体ともちょっと違う、何というか、戦友、だった。 現実に云うところの戦争を実際には体験していない私が「戦友」などという言葉を使っていいのか分からない。でも、他に表現が見つからないのだ。性犯罪被害者になって、その後抱え込むことになったPTSDと闘う日々は、私にとって毎日がある意味で戦争だった。生き残ること、生きることとの、まさに戦争だった。そんな私にとって、ももは、唯一無二の、戦友だった。
今、これを書いていて気づいた。私はももに救われてここまで生き残って来たけれども。でも、彼にとって、そんな私と暮らす日々は一体どんなものであったのだろう。その日々の中に果たして、心穏やかに過ごせる時間は一体どれほどあっただろう、と。
彼と出会って一年もしないうちに犯罪被害者になり、その一年後にはPTSDと診断された私と生きる日々は、彼にとってひたすらに過酷な毎日ではなかったのか。実際私は、幾人もの友人との緒をその間に失ってきた。私の幻覚や幻聴、フラッシュバックやパニック、自傷行為、自殺行為、睡眠障害、記憶(時間)の欠落、離人感等々、挙げ出したらきりがないそういった症状に、怯え慄き、或いは嫌悪し、離れていった或いは離れていかざるを得なかった友人が一体何人いたことか。 でも彼は逃げなかった。いや、違う、逃げなかったのではなく、逃げられなかったのだ。私に飼われていたために。
…。いくら懺悔したって今更何も生まれない。今更。
彼と暮らした十年弱の日々。私は時に自分の感情の激流に任せて彼を罵ったことも何度もあった。そんなことをしながら、でも私はやっぱり、いつだって彼に救われていた。彼がそこにいることで、私は救われていた。振り返ればいつだって彼はそこにいたのだ。そこにいて、ただじっと私を見つめ返し、揺らぎのない真っ直ぐな眼で、ただじっと、そこに在た。私が何をまくしたてようと、動じずに、飄然として。今でも耳を澄ましたら、彼の声が聞えてきそうな気がする。 「ねぇ、生きようよ、生きていようよ、この世はそう捨てたもんじゃないさ」。
もう一人、うちには、ちびという猫がいた。彼女は1997年1月、突然うちにやって来た。ももの元の飼い主さんから請われて、迷いながら彼女を引き受けた。ももとは父親違いの、いわゆる妹だった。 臆病の塊のような子だった。どんな甘い声を出しても威嚇射撃を止めようとしない、毛を逆立てて、椅子の下に固くなり、こっちがちょっとでも動くとびくんと全身を震わせる。私は、もしかしてこの子は何かトラウマを抱えてるのかしらん、とさえ思った。 だから、放っておくことにした。おかしないい方だが、私は、ももに任せることにしたのだ。ももならこの子の気持ちを解すことができるかもしれない、私にはできなくても、ももになら、と。今思うと誠に勝手な言い分だが、でも、その時、真剣にそう思った。もも、頼むね、と、私はその頃しょっちゅうももに云っていた。 だから、半年ほどした或る日、ちびが突然、ミャァと高い声を出して私の手に自分から頭を押しつけて来た時は、思わずももを振り返って、もも、凄い!と、私は云ったのだった。ももはもちろん飄々とそこにいるだけだったけれども。 ももが悠然とした、猫というより人間臭い奴だとすれば、ちびはまさに“猫”だった。逃げて隠れたかと思えば、こちらをじぃっと窺い、隙を見てニャァニャァ云って頭を摺り寄せてくる。ちびは頭を撫でられることが何より好きだった。そしてまた、いきなり床にコロンと転がり、腹を見せて、撫でてよねぇ撫でてよ、といったふうにこっちを窺うのもちびだった。でもちょっと何かあると、疾風の如く部屋の隅に飛んで逃げていく。彼女のこのびくびくしたところに何度手を妬いたことか、今思い出すとちょっと苦笑が漏れる。
私の傍らにはそんな人間臭いももという猫が、そしてその後ろにはちょろちょろひっきりなしに動くちびが。そんなふうに私たちは日々を過ごした。何処へ引っ越すにも当然彼らは一緒だった。娘が生まれてからももちろん彼らは共にいた。それは、彼らが死ぬ日まで続くと思ってた。いつか彼らを私が看取ることは私にとって当然のことであり、その日までどんなことがあろうと共に生きるのだと信じていた。それが当たり前だった。
でも。 娘と二人暮しになり、だんだん状況が悪くなっていくなか、ももちびのことを良く知る友人に私は相談した。もしかしたら、ももちびを手放さなければならなくなるかもしれない、と。 思いきり罵倒された。ふざけるなと怒鳴られた。なんて無責任なんだと罵られた。私には。返す言葉がなかった。ももちびがこれまであんたにしてきてくれたことを考えてみろ、どうしてそんな酷いことができるのか、そもそも一度飼ったのだから最後まで責任を持つのが当たり前なんだ、それを放棄するなんて身勝手すぎる、と。 当然のことだった。当然過ぎて、何も云えなかった。
でも。その時私は心の中で思ってたんだ。 娘と二人生活してゆく、そのことを守るためには、彼らと共にでは現実的にとても難しくて。そうなった時、私は、彼らではなく娘を、何より娘を娘との生活を立てることを、多分きっと選んでしまう、と。 そうなってほしくない、けど。そうなったら私は多分きっと。
その日の朝、私は、娘とももちびとがじゃれる写真を何枚も撮った。フィルム一本なんてすぐに使い果たした。でもそれ以上は。 辛くて撮れなかった。
何も考えたくなかった。だから、できるだけ淡々と事を進めた。私たちがと申し出てくださった老夫婦にももちびを託し、娘にお別れをさせ、そして、私と娘は家に帰った。
玄関を開ける。妙にだだっぴろくなった玄関。いつもならそこにももちびのトイレがあり、寝床があり。彼らがいたのだった。 「ももちび、もういないね」 娘が云った。 「ももちびとは、もうお別れなんだよね」 娘が云った。 「でも、さみしくないよ」 「…」
あれから二ヶ月近くが経とうとしている。園からの帰り道、時折猫に出会う。娘は、にゃんこ、にゃんこ、と云って手を差し出して駆け寄る。猫は当然すっと身を翻す。逃げちゃった、と云って娘はすごすご戻ってくる。 そして、ももちびと色合いの似ている猫を見ると彼女は云う。 「あの猫、ももちびに似てるね」 「そうだね、似てたね」 「ももちび、うちに居たんだよね」 「うん」 「もういないんだよね、お別れしたんだよね」 「うん、そうだね」 「でも、さみしくないよ」 「…そお? ママは、さみしい」
今頃どうしているだろう。あの臆病なちびは、もう新しい住まいに慣れただろうか。ももがいるからきっと大丈夫だろう。 そしてもも、君は。君は。 …今更ながら、君におんぶに抱っこだった自分を、痛感させられる。苦笑するしか、術がないな。
思い返せば、君を手放したとき、私は泣かなかった。泣くのがいやだった。だって私の身勝手で君らを手放すのに、どうして私が泣いたりできよう、そう思った。 それに、一度泣いたらしばらく涙が止まりそうになかったし、そんな自分を娘に見せるのもいやだったし、他の人に見せるのももちろんいやだったし。だから、できるだけ、淡々と、日々を過ごした。時間を過ごした。毎日はやっぱりそれなりに忙しかったし、他にも処理しなければならない問題は山積みだったし、そうやって日々に忙殺されていれば、じきに痛みにも慣れることができるかもしれない、なんて思ったりもして。 要するに、君を失ったこの穴を見るのが、私は辛かった。辛かったから、この二ヶ月近く、見ないように見ないようにしてきた。でも。 もも、君を失ってできたこの穴は、多分ずっと消えない。もも、ようやく言える。辛くて、ずっと云えなかった。いやそれよりも何よりも、私が手放した、その身勝手さが厭で厭でたまらなくて許せなくて、だから云えなかった。今でももちろん自分をゆるせやしないけれども。 でも、今やっと云える気がする。
もも。君が、恋しい。 君に会いたい。 君にそばに、いてほしい。
-------------でももう、二度と会えない。君を手放したのは私だ。娘との生活を立ててゆく現実を支えるのだけが精一杯で、そんな身勝手な理由で、君を手放したのは、この私なんだ。 その身勝手さを十分に噛み締めていたつもりだったけど。 それなのに、情けないな、あの日撮った写真は、私にはとても、現像できそうに、ない。
今更泣いたって遅い。今更何を言ってもどうしようもない。でももう、どうにもならないから、だから、一人、こんな夜明けに目を赤くして泣くしかなくて。 もも、ごめんよ、ちび、ごめんよ。ごめん、ごめん、ごめん。 二ヶ月という時間を経て、やっと涙が出るなんて。私って本当に馬鹿だ。馬鹿だ。大馬鹿だ。 馬鹿だから、もう一度だけ云わせてほしい。いや、多分きっと、君がそばにいたら、云うんだろう、僕らを犠牲にしても守ろうとした日常なんじゃないか、しっかり守って、踏ん張ってくれよ、って、君は云うんだろう、分かってる、娘が目を覚ます前にちゃんと顔洗って出直すから。 だから、今、一度だけ、馬鹿に免じて云わせてほしい。
もも。君が、恋しい。 |
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