2004年02月24日(火) |
突然ぱっちりと目が覚める。ふと見ると部屋の隅に、一つ目の目覚し時計がすっ飛んで倒れている。覚えていないが、きっと私がぶん投げたのだろう。二つ目の時計の針を確かめる。大丈夫、まだ間に合う。朝は何かと忙しい。 なんとなく薄曇。その空の下を自転車で走る。「鬼のパンツはいいパンツ、強いぞ〜、強いぞ〜」。娘があまりに大きな声で歌うので、すれ違った老夫婦が笑っている。私も思わず笑いそうになりながら、娘と合わせて歌を歌う。 家に戻り、家事を済ませてから少々仕事。その合間合間に本棚を整理する。そのとき、はらりと一枚の紙が落ちた。高校時代の図書館の広報。あぁ懐かしいと思いながら紙を開く。片側が折り目にしたがって破れており、だから私は、そおっとそおっと紙を広げる。 そうだ、こんなことを書いた日があったな。懐かしく思い出す。当時私は、まるで攻撃に晒されているハリネズミのようだった。毎日毎日、そんなふうに、世界に向かって毛を逆立てていた。でも、この文章を書くにあたって担当してくれた先生が、私の目を覚まさせてくれたんだっけと思い出す。「いいか、自分の中に在る言葉で書くんだ。ただ見知っただけの言葉で書くな。そんなものは薄っぺらい、しょせん借り物の代物だ。おまえの中にある、血肉になった言葉でもって書くんだ」。何度も何度も校正させられ、最後、何を書いているのか自分でも分からなくなって私は先生に当り散らした。これは私じゃない、先生が私に書かせたものだ、とまで言って先生にぶつけた。でもそのとき、先生は全く動じずにこう言ったんだ。 「そう思うのはおまえの勝手だ。頭冷やしてもう一度考えてこい。おまえは一体何を書きたいのか、恥ずかしいからとかこんなこと書いたらからかわれるんじゃないかとか、そんなことに怯えて本当に書きたいことを書けないくらいなら、最初から何も書くな。」 あの言葉は、当時の私の脳天をすかーんと打った。周囲に惑わされて、周囲の目を気にして自分が書きたいことを曲げるくらいならば最初から何も言うな、何も書くな。その言葉は、私の心の中心にぐさりと刺さった。 それから一週間、私は原稿を書くのを一切止めた。ああ言われて何も言い返せない自分にショックを受け、そしてまた、悔しかった。だから私は、自分の皮を一枚ずつ、一枚ずつ、剥がす作業を始めた。本当に書きたいことは何だったのか、本当に感じたことは何だったのか。私は何を言葉にしようとしているのか。 玉葱の皮のように簡単にはいかなかったけれども、そうやって私は一枚一枚、自分の皮を剥いていった。自分でも驚くほど、自分が何枚もの皮に守られていることを、その時実感した。そして、その皮というのは、社会と馴れ合うため、軋轢を減らすために、何枚も何枚も私が着込んだ、嘘や偽りを多分に含んだ、自分に対しての誤魔化しを多分に含んだ衣だった。 あぁ、なんてこった。先生の言うとおりだ。そのことを実感したのは、一週間目を迎えようとした夜だった。これっぽっちの芯になってみて、初めて、自分がどれだけ怯えて、自分の本心から眼を逸らしていい子ちゃんでいる存在なのかを思い知った。 そうやって改めて原稿を書き始め、気がつくと、ぽろぽろと涙がこぼれていた。万年筆のインクがどんどん滲んだ。でも、不思議と哀しくはなかった。痛くもなかった。それどころか、心がすうっと軽くなって、晴れてゆくのを感じた。明けてゆく空に気付き窓の外を見やると、地平線にほんの一瞬、橙色の光が線になって現れるのを見た気がした。 謝る言葉も発さぬまま、先生にぐいと原稿を渡すと、先生はにやりと笑った。放課後に呼ばれると、先生が言った。「ようやく本音が出てきたか」。 結局、原稿として仕上げることができたのは、それからまたさらに数日を経てからだったけれども、あの体験は、今の私を支える大きな土台の一つになっている。 「おまえは一体何を書きたいのか、恥ずかしいからとかこんなこと書いたらからかわれるんじゃないかとか、そんなことに怯えて本当に書きたいことを書けないくらいなら、最初から何も書くな。」 今でも思い出す。書くことに戸惑いを覚えるときに、あの先生の言葉を。こんなこと書いたらひんしゅくをかうのではないか、こんなこと書いたら…。そう惑う時、先生の言葉を思い出す。そして、思う。どんなにひんしゅくをかおうと、批判を浴びようと、自分の心をしっかりと言葉にしよう。その結果浴びる非難なら、いくらだって受けとめることができる。だってそれが私なのだから。私が放ったものへの、それが返答なのだから。
気がつくと、窓からやわらかな風が部屋へ流れ込んできている。私は窓という窓を開け放ち、風が好きなように部屋の中を通りぬけられるようにする。私の手の中で、すっかり黄ばんだこの紙が、風に揺れて歌っている。
--------------------------以下、図書館広報に掲載された原稿より
「相手のいない「恋愛」〜中沢けい著「手のひらの桃」を読む」
数十頁という短いこの作品のなかで、何より先に私の心をとらえたのは、主人公瑞枝の、中絶に対する意識であった。瑞枝は小説の終わりで元恋人であった泰との間に出来た子供をおろす。彼女は、妊娠したと気付いた時から、そうすることを決めていたのだった。ここで、ごく普通に考えたなら、妊娠するということ自体が特別なことであるはずだ。なのに、さらにそれを中絶するなど、私たちにとってはまさに一大事で、軽々しく扱えるような事柄ではない。しかしながら彼女は、「最初からおろす」ことに決めているのである。そうすることに対して、彼女は、何の抵抗も、何の疑問も抱いていない。私はこの点に何より魅きつけられた。これは一体何故なのだろう。 性行為に対し、彼女はこう感じている。「行為が終わってしまえば、それまで」、「その後では全てが汚らわしいものに見えてしまう」、と。「全てが汚らわしい」、そう、彼女には行為が終わった後では、その行為に付随し存在していたもの、泰も含めた全てのものが汚らわしくうつってしまうのである。そして、愛の行為の結晶であるはずの子供は、まさしくこの汚れの結晶となってしまったのである。そう考えると、彼女にとって子供をおろすということは、今まで泰ともってきた性行為によって、ついてしまった「汚れ」をおとすこと、清算することに他ならない。だからこそ、彼女は一寸もためらうことなく、中絶することを、ごく自然に、不思議にも決めることができるのである。 ひるがえって、もしも彼女が、泰に対して愛情を感じていて、それ故に性行為をもったのであったならば、それはどうだろうか。もしそうであったならば、性行為が終わった後でも彼女がそれを「汚らわしい」と感じることは決してなかったであろう。言うなれば、彼女にとって泰というのは、恋した相手などではなく、単に彼女が持っていた性行為への興味や欲求を、うまい具合に満たしてくれただけの相手だったのだ。つまり、瑞枝の行為は恋愛感情と結びついた行為であるとはいえない。 そうなると、私たちの考えている、相手との一体化を求める為の性行為というものは、彼女にとっては違ったものになってくる。彼女は行為それだけをとったなら、それを密の様に甘いと感じている。それだけ彼女の肉体は、その行為に満足しているといえるだろう。しかし、その相手に彼女は恋愛感情を持っていないのである。官能的にはいくら開放していても、心は完全に閉ざされているのだ。性行為において、相手との一体感を感じながら存在する私たちに対し、彼女は、決して溶け合うことのない相手と自分とを感じながら、存在しているのである。つまり、彼女にとっての性行為とは、精神と身体が、互いに統合して相手と溶け合うものとは全く別の、というよりもむしろ、相手によって、自分自身の存在を明確にするという類の行為。「二人」ではなく、完全に一方の、自分自身の快楽に他ならないのだ。だから、泰に対して彼女がいくら「好き」を連発しても、それは彼女にとって、他人が向けてくる冷たい視線(いわゆる異端者に対してのそれ)から、自分を守る為の「装い」、本来相手と一体化するためにもたれる性行為において、自己完結してしまっている自分の姿を隠すためのものでしかない。だからこそ、泰へ好きだと言ったことを思い出すと、それがそのまま、自分のずるさとして彼女自身にはね返ってくると感じたりするのだ。 こんな彼女の背景には、彼女の少女期がある。他人から「感覚的ブス」と呼ばれ、周りに疎まれながら育つ彼女は、それ故にひとり遊びを覚えていく。子供たちが、大勢集まってみな一緒に遊ぶということを覚える時期に、彼女はそうした体験をすることなく育っていってしまうのである。いつもみなの輪の外にいる彼女は、輪の中に入ることを望む。入るために、彼女はいつのまにか、自分の価値判断を捨て、他人のそれを持って生きていこうとする。しかし、うまくその中に入ることはできない。そんな彼女の自閉的状態で生きる姿と、性行為において自己完結してしまっている姿とは、まさに向かい合ってくるのだ。 こうして読んでくると、「手のひらの桃」、この題名が暗示していたものが、だんだんと浮かび上がってくる。たっぷりと甘い汁を含んで、かじりつくと汁がこぼれてしまいそうな桃の実。泰と瑞枝に食べられてしまうその実。そして、その桃の果汁にぬれた泰の手が、瑞枝の中絶手術に必要な書類の端に、茶色いしみをつけてしまうのである。これはまさに、瑞枝と泰の性行為そのものといえるであろう。そして、そんな桃を、そういった(彼女の)自閉的状態を読む時に、私たちは、それが瑞枝だけに限られたものではないことを、決して見落としてはならない。現在生きている私たちの誰もが、この自閉的状態に陥る要素を持っており、今こうして瑞枝の状態を読んでいる間にも、些細なきっかけ一つで、読む側にいたはずの私たちが、そう読まれる側へとまわってしまう可能性、危険は、充分にあるのである。 つまり、私たちは、一つの恋愛においても、それを成就する、完全に相手と自分との一体感をもつということが、できないような状況へと陥っている、と言えるだろう。
(1989年12月記) |
|